王師範 おうしはん
874-908
唐末の群雄。平盧節度使の
王敬武の子。王師誨・王師克の兄。
龍紀元年(889)父が卒すると、十六歳で自ら留後を称し、節度使の領有・政治を継承した。
朝廷は
崔安潜を平盧節度使としたから、王師範は崔安潜の赴任を拒否。棣州刺史
張蟾・盧弘らが朝廷に同調すると、
劉鄩を送り込んで張蟾・盧弘を殺害。事実上の節度使となった。
朱全忠の軍門に降ったが、朝廷に朱全忠に対する攻撃を命じられ、はすでに鄆州を併合し、軍を派遣して王師範を攻撃し、王師範は軍門に降った。ちょうど朱全忠が鳳翔を包囲すると、
昭宗は藩鎮に救援するよう詔し、
楊行密と同盟を結んだ。結果、朱全忠軍に攻め込まれたが、かえってその将
婁敬思・
朱友寧を討ち取った。再度朱全忠に降伏、河陽節度使を授けられた。唐が滅亡すると、朱友寧の妻が仇を朝廷に訴えたから、王師範の一族二百人は洛陽で皆殺しされた。『新唐書』『旧五代史』『新五代史』に伝がある。
列伝
外部リンク
最終更新:2026年08月09日 01:37