卷一百八十七
列傳第一百十二
王重栄 珙 珂 諸葛爽 李罕之 王敬武 師範 孟方立 遷
【
王重栄伝】
王重栄は、太原祁県の人である。父の王縦は、大和年間(827-835)末に河中の騎将となり、
石雄に従って回鶻を破り、塩州刺史で終わった。王重栄は父の任命により将校に任じられ、兄の
王重盈と共に二人とも武勇によって軍中で冠たるものがあり、河中軍の牙将に抜擢され、監察の任についた。当時、二人の兵士が夜に出歩くのを禁止する禁令を犯し、捕えて鞭打ちにした。兵士が帰還すると、中尉の
楊玄寔に訴えた。楊玄寔は怒り、王重栄を捕らえて、「天子の爪士(禁軍の兵士)が、たかが藩鎮の将校に辱められなければならんのか」と責めると、「夜半に捕まった者は盗賊です。どうして天子の爪士であると知ることができましょうか」と答え、詳細に事件の経緯を申し上げた。楊玄寔は「お前が見極めなければ、誰がこのことを知っていただろうか」と嘆き、改めて河中軍に任せることとし、抜擢して側近に任命した。王重栄は狡猾かつ行動的で、軍は恐れ憚り、軍帥であっても見下すことはなかった。しばらくして行軍司馬に遷った。
黄巣が長安を陥落させると、兵を分けて蒲州を攻略し、節度使の
李都は持ちこたえることができず、そこで賊の臣下となったが、しかし內部では王重栄を憚り、上表して自身の副官とした。蒲州の地は京師に近く、賊は補給物資を奪ってしばしば横柄であり、使者は百人ばかりやって来て、伝舎に居座って、さらに兵を送り続け、役人は彼らの命令に耐え難いものがあった。王重栄は李都を脅して、「我々は謀によって危機を脱しようとしていますが、外からの援軍が来ることはありません。今賊の要求は日増しにひどくなり、また我が兵を奪って我々の立場を難しくしており、我々の滅亡は日に日に迫っています。橋を絶って、城を守るべきです。そうでなければ、変事が起こったとしてもどうやって防げばよいのでしょうか」と説得すると、李都は「我が兵は少なく、謀も充分ではないから、橋を絶ったところで災いはやってくるだろう。節度使を君に任命するよう願い出よう」と言い、遂に
行在に逃亡した。王重栄はそこで賊の使者をすべて追い出して斬殺し、居住民を大掠奪して部下を満足させた。
天子は前京兆尹の
竇潏を間道から派遣してその軍を慰撫させ、詔によって李都の代任とした。王重栄は部下の官吏を率いて出迎えた。竇潏が到着すると、兵士と大宴会し、「天子が大臣に土地を守らせたというのに、誰が追い出したのか。首謀者が誰なのか私に示せ」と大声で主張すると、軍中では誰も答えようとしなかった。王重栄は刀を帯びて階段にあがり、「首謀者は私だ。誰を探しているのか」と言い、竇潏を見たから、役人は急いで騎馬を準備し、竇潏はただちに逃げ帰った。王重栄は遂に留後となった。
賊は勇将の
朱温を水軍で馮翊を下らせ、
黄鄴は軍を率いて華陰から合流して王重栄を攻撃した。王重栄は兵士を激励し、大いに戦い、打ち破り、賊は兵糧・兵器を四十艘以上遺棄した。そこで検校工部尚書を拝命し、節度使となった。その時、忠武監軍の
楊復光が陳・蔡の兵一万人を率いて武功県に駐屯し、王重栄と連合して、賊将の
李詳を華州で破り、捕らえて晒した。賊は
尚譲に侵攻させ、朱温は精兵を率いて前線に出て、王重栄の兵を西関門で破り、これによって夏陽に出兵し、河中の漕米数十艘を奪った。王重栄は兵三万を選んで朱温を攻撃すると、朱温は恐れて、舟に穴開けてことごとく河に沈め、遂に同州と共に降った。楊復光は朱温を斬ろうとしたが、王重栄は、「今賊を降伏させたのですから、一切の罪を許しましょう。また朱温は武勇に優れているので用いるべきで、殺すことは不吉です」と言ったから、上表して同華節度使とした。詔によって河中行営招討副使となり、名を全忠と賜った。
黄巣は二州を失うと、非常に怒り、自ら精兵数万を率いて梁田に立て籠もった。王重栄の軍は華陰から、
楊復光の軍は渭北から、挟撃して攻撃すると、賊は大いに敗れ、その将の
趙璋を捕らえ、黄巣も流矢に当たって逃走した。王重栄の兵もまた同等の損害を被った。黄巣が再度復活することを恐れ、心配したが、楊復光と計略を練ると、楊復光は、「我々は代々
李克用と苦楽を共にしてきた。李克用は忠義があって勇敢で、義のために死ぬ覚悟がある。もし援軍を乞うのなら、馬鹿にするわけにはいかんぞ」と言い、そこで使者を派遣して連合を約束した。李克用は
陳景斯に兵を率いて嵐州・石州から河中に赴き、自らは軍を率いて王重栄らに従い、遂に黄巣を平定し、京師を回復した。軍功によって検校太尉・同中書門下平章事となり、瑯邪郡王に封ぜられた。累進して検校太傅となった。
宦官の
田令孜は王重栄が豊かな塩池を根拠地としていることに怒った。この当時、
大盗賊が平定されたばかりで、国庫は非常に不足しており、諸軍は援助がなかった。しかし田令孜は神策軍使となり、二塩池を塩鉄使の管轄下に置き、軍の兵糧の助けとするよう願い出た。王重栄は許可せず、奏上して、「慣習通り、毎年塩三千乗を担当官署に送り、そこで様子見て、余ったなら軍を満たしましょう」と述べ、
天子は使者を派遣して説諭したが、聞き入れなかった。田令孜は王重栄を遷して兗海節度使にし、
王処存に代わらせ、
李克用に詔して、兵を率いて河中に援軍させた。王重栄は上書して田令孜が藩鎮間を離間させようとしていると弾劾した。田令孜は邠寧節度使の
朱玫を派遣して討伐させたから、王重栄は沙苑に立て籠もった。王重栄は李克用に書簡を送り、「密詔を奉るところによると、公が来るのを待って、我々に公を陥れさせようとしています。これは田令孜・
朱全忠・朱玫が
お上を惑わしているのです」と述べ、そこで偽詔を示した。李克用は当時朱全忠と仲が悪かったから、これを信じ、朱全忠および朱玫の討伐を要請した。
帝はしばしば詔して和解させようとした。李克用は河中の兵と連合して沙苑で戦い、朱玫は大いに敗れ、邠州に逃走した。神策軍は潰滅して京師に戻り、大いに掠奪した。李克用は勝利に乗じて西進し、天子は鳳翔に逃走した。
突如、嗣襄王
李熅が帝位を僭称したが、王重栄は命令を受けず、
李克用と共に王室を安定させようと謀った。
楊復恭は
田令孜に代わって神策軍を領し、そのため李克用と親しく、諌議大夫の
劉崇望を派遣して詔をもたらして天子の意思を伝え、二人とも命令を受け、そこで縑(かとり)十万を献上し、
朱玫を討伐して自らの罪を贖うことを願い出た。劉崇望が帰還すると、群臣は皆祝賀した。王重栄は遂に李熅を斬り、長安は再び平定された。しかし王重栄の性格は勇猛かつ残忍で、多くを殺戮し、寛容さを示すことはほとんどなかった。かつて大木を河上に植え、中に仕掛けを施してあり、意に逆らった者は、たちまち木の上に乗せられ、仕掛けが発動して全員が溺れた。部将の
常行儒を辱めたが、常行儒は怨んだ。
光啓三年(887)、兵を率いて夜に幕府を攻め、王重栄は逃亡して幕府の外に逃れたが、朝に殺害され、
王重盈が推戴された。
【附、王重盈伝】
王重盈はこれより以前、すでに汾州刺史に任命されていた。
黄巣が淮水を渡河すると、陜虢観察使に抜擢され、
王重栄が河中節度使となると、三度遷任して検校尚書右僕射となり、そこで陜虢節度使を拝命した。しばらくもしないうちに、同中書門下平章事となった。王重栄に代わると、長子の
王珙を留めて節度使を領させ、河中節度使に入って
常行儒を殺し、軍は安寧を取り戻した。
昭宗が即位すると、太傅・兼中書令に昇進し、瑯邪郡王に封ぜられた。父子兄弟があい継いで軍帥・太守を継承し、従子の
王蘊もまた忠武節度使となった。
【附、王珙・王珂伝】
乾寧二年(895)、
王重盈が死ぬと、軍中では王重盈の兄の王重簡の子の
王珂を
王重栄の嗣子として継承させ、そこで推して留後とした。
王珙は弟の絳州刺史の
王瑤と河中を争い、奏上して「珂はもと家の僕ですから、大臣を選んで河中を治めていただきたい」と述べた。また
朱全忠も同じ事を書簡で申し述べた。王珂は窮地に陥り、そこで使者を派遣して
李克用に婚姻を求めた。李克用は王珂を
天子に推薦したから、軍鎮の継承を許されたが、それでも
崔胤を河中節度使に任命した。王珙も王珂と対立し、そのことを
王行瑜・
李茂貞は「王珂は後任を受け入れないであろうし、また
晋王を親としている。そのことは公に利益をもたらさないであろう」と述べたから、王行瑜らは
韓建と同盟して共に王珙を推薦した。詔によって「私は王珂を任命したことを重要視している。王重栄には大功があったのだから、廃するべきではない」と述べたから、王行瑜は怒り、その弟の
王行約に王珂を攻撃させたが、李克用は
李嗣昭を派遣して救援し、王珙を猗氏県で破り、その部将の
李璠を捕虜とした。
三鎮(
王行瑜・
李茂貞・
韓建)は
帝がその要請を退けたのを怨みに思い、共同で京師に進駐し、帝を廃位し、宰相を誅殺して、
吉王を即位させようと謀り、強制して王珙に河中節度使を授けさせた。
李克用はこの事を聞いて怒り、軍で三鎮を討伐したから、
王瑤・王珙の兵は撤退した。李克用は絳州を陥落させ、王瑤を斬って渭北に駐屯し、
王行約を朝邑で破った。
王行約は京師に逃走した。弟の
王行実は左軍におり、二人で枢密使の
駱全瓘を説得して、
帝を擁して邠州に行幸させようと謀った。右軍の
李継鵬はこのことを中尉の
劉景宣に報告したが、二人は
李茂貞の与党であり、兵で駱全瓘らを拉致し、帝に鳳翔に行幸するよう要請しようとした。左右両軍は
承天門街で衝突し、帝は楼に登って和平させようと説諭したが、李継鵬は怒り、たちまち帝を射かけ、火を放って門を焼き払った。帝は諸王および衛兵を率いて戦い、李継鵬の矢は帝の甲冑に届き、軍は退却した。帝は京師を出て定州に行幸しようと
李筠の軍を率い、嗣延王
李戒丕・嗣丹王
李允は塩州六都兵で帝に従って
啓夏門を出て、
郊に行った。左右両軍は塩州の兵が精兵であることを憚り、それぞれが自軍の陣営に逃げ込んだ。帝は莎城に行くと、百官は相次いで到着し、士民で従う者も数万に達した。帝は谷に入って守りを固めようとしたが、谷に「没唐石」というのがあり、それを嫌って石門に移った。民は山や谷に隠れ、帝が出てくるたびに、ある者は飴漿(米・麦でできた甘い飲み物)を献上し、帝は馬を止めて飲んだから、民は皆涙を流した。後に嗣薛王
李知柔および
劉光裕を京師に帰還させた。
李克用は使者を派遣して行在を尋ね、
帝はそこで李克用・王珂に詔して兵で新平に向かわせ、また涇州の
張鐇に詔して李克用の軍に合流して岐陽を封鎖させた。李克用は河中にいてまだ出発しておらず、帝は
李茂貞に迫られるのを恐れ、また嗣延王
李戒丕に御服・玉器を賜い、その西を監督させ、そこで渭北に陣を敷き、進軍して
渭橋に駐屯した。ここに
王行瑜は興平に陣を敷き、李茂貞は鄠州にじ陣を敷いた。王行瑜の兵はしばしば撃退され、李茂貞は恐れ、
李継鵬を斬り、首級を送って謝罪した。李継鵬の姓は、姓は閻で名を珪といい、左神策軍の武人で、李茂貞の養子となったという。詔して王行瑜の官爵を削り、李克用を邠寧四面行営都招討使とし、王珂を糧料使とした。李克用は子の
李存貞を派遣して天子に宮殿に戻るように願い出た。詔して騎兵三千で三橋(
便橋・
中渭橋・
東渭橋)を守らせた。
帝は長安に帰還すると、王珂に検校司空の地位を加え、節度使とした。
李克用の娘を王珂の妻とし、王珂は自ら太原に妻を迎えに行き、
李嗣昭を補助として河中を守らせ、
王珙を攻撃した。王珙は戦ったが敗北を重ねた。王珙の性格は残虐さによって人を威圧し、人を殺して首を斬っては自身の前に置いたが、顔色は変わらなかった。部下は恐れて、叛こうとする者はいなかったが、しかし次第に弱体化し、戦う意思をなくしていった。
光化二年(899)、部将の
李璠に殺害され、李璠は自ら留後となり、詔によって王珙に代わって節度使となった。李璠もまた軍の衆望を失い、五か月ほどたって、牙将の朱簡に殺害された。朱簡はその地を引っ提げて
朱全忠の軍門に入り、朱全忠の上表によって節度使・同中書門下平章事を授けられ、名を
朱友謙と改めた。
王珙は給事中の
王柷ら十人以上を殺害し、幕府で殺戮された者は非常に多く、人々は有罪とされるとたちまち斬殺されて思い通りにされた。王柷は、元は常州刺史であったが、戦乱を江湖に避けた。
帝は剛直であることを聞いて、給事中として召喚した。王珙は道中陝州を通過し、王珙は王柷が高位の任に就くと思ったから、厚く礼遇した。王柷は王珙の武張った横暴さを嫌い、意に介さなかった。宴が終わると、珍器を並べて音楽を演奏し、王珙は王柷に向かって、「僕は今日子弟の列に加わることができて、大変光栄です」と言い、三度懇願したが、王柷は返答しなかった。王珙は顔色を変えて怒り、「
天子が公を召集したのだから、公はここに留まることはできない」と言い、王柷は遂に退出したが、王珙は役人を送り込んで道中に王柷を殺害し、一家を皆殺しにして黄河に投棄し、溺死したと上奏した。帝は詰問することができなかった。王珙が死ぬと、太師を追贈された。詔して陝州で冤罪によって死んだ者は、役人が弔祭し、その家族を慰めた。
それより以前、
朱全忠は
楊行密を攻撃したが、勝つことができず、
荊州・
襄州・
青州・
徐州等の地方を唆し、自分を都統として楊行密を討伐するよう願い出させようとしたが、
帝はためらって返答できなかった。しかし王珂は
太原と共に
鎮州・
定州等の地方に楊行密を都統に任じて、朱全忠を討伐するよう要請した。これによって双方の意見が拒絶され、朱全忠は王珂を怨んで忘れることはなかった。帝は
劉季述に廃位されると、王珂は怒り、しばしば賊を討伐する謀を述べた。帝が復位すると、真っ先に地方の貢納物を献上し、帝は王珂を非常に頼りにした。しかし朱全忠は
李克用が強勢であったから、軍を出すことはなかった。
王鎔が屈服すると、定州を陥落させ、李克用の兵を破った。そこで将軍の
張存敬に向かって、「王珂は
太原を頼りに私を侮った。お前は縄を一本持って縛り上げてこい」と言い、張存敬は兵数万を率いて黄河を渡り、含山から襲撃し、絳州刺史の陶建釗・晋州刺史の
張漢瑜は二人とも降伏し、
何絪に守らせ、王珂に向かって侵攻した。朱全忠は軍を率いて後方を進み、王珂が李克用と交わって事を構え、藩鎮間に事件を引き起こしたから、赦すべきではないと弾劾した。王珂は援軍を太原に要請したが、何絪に阻まれ、進むことが出来なかった。王珂は妻を急派して李克用に書簡を送り、「賊が我々を攻撃しており、朝夕にも捕虜となってしまい、大梁で乞食になるでしょう」と述べると、李克用は「道は途絶えようとしており、救援に行ったところで両方が一緒に滅びるだけだ。朝廷に帰順するのにこしたことがない」と返答したから、王珂は窮地に陥り、使者を
李茂貞に派遣して、次のよう述べた。「
お上は復位され、藩鎮に互いに疑念を抱かないよう詔されました。しかし
朱公は約束を破り、我々の城を攻撃しています。我々が滅ぶなら、邠・岐の地をあなたが確保することができなくなり、
天子の神器は朱公の手中に収まり他人に与えられてしまうでしょう。華州の
韓公と共に精兵を出して潼関を固守し、これによって軍事力を拡張すべきです。私は武力がありませんが、公は軍事力を我々の西の国境に置かれ、これによって防衛させてください。蒲州は公が領収してください。関西の安否、国家の存続は公の行動にかかっています。」 李茂貞は返答しなかった。
王珂はますます窮地に陥り、橋を破壊されると、密かに舟を用意して逃走しようとした。夜に守兵を労ったが、答えようとする者はいなかった。牙将の
劉訓が寝殿の門を叩くと、王珂は兵乱があったと疑い、責めると、劉訓は自ら衣を肌脱ぎにして、「二心があると言われるのでしたら、肘を切って証明させてください」と言ったから、王珂は出てきて、どうしたらよいか尋ねた。「もし夜に出たなら、人々は舟をめぐって争うでしょう。一人の軽率な行動が災いを招くのです。明日の朝になって、心情を話せば軍もよくよく考えるでしょう。自発的に従う者がいれば、河を渡ることができます。そうでなければ諸将を召して和解交渉を行い、敵の攻撃を緩ませ、次の行動を計画するのが上策です」と答えたから、王珂はその通りだと思った。翌日、城壁に登って
張存敬に向かって、「私は
朱公とは父子のような関係です。あなたがしばらく一舎(16km)ほど退かれ、朱公が到着するのを待つのなら、私は命令を聞きます」と言い、そこで
太原の諸将を捕らえ、節印を奉って張存敬の軍に届け、大旗を城壁の上に立て、兄の王璘と将軍の樊洪らを派遣して張存敬と会見した。張存敬は包囲を解いたが、守備兵を自軍の兵とした。
朱全忠が洛陽から到着した。朱全忠と王氏の関係は当初、
賊に背いて
王重栄に仕えたのが始まりで、甥舅の契りを立て、自分の命を救ったことに恩義を感じ、太陽と月を指さして、「私が思い通りとなったら、王氏に仕える」と言っていた。しかし誓いの言葉を忘れ、王重栄の墓を通過すると、偽って哭泣して祭った。虞郷に行くと、王珂は両手を後ろ手に縛り、顔を前にさし出し、羊を牽いて会見しようとしたが、朱全忠は「
舅の恩は、一日たりとも忘れたことはない。君がもし亡国の礼で会見したのなら、黄泉の国で私は何と言われるだろうか」と答え、王珂は出て来て迎え、握手して涙を流し、馬を並んで一緒に入った。十日後、
張存敬に河中を守らせ、王珂は一族をあげて汴に移った。後に朝廷に入覲することになったが、朱全忠は人を送り込んで王珂を華州で殺害した。
【
諸葛爽伝】
諸葛爽は、青州博昌県の人である。県の伍伯(分隊長)となったが、笞打たれるのを嫌い、逃亡して、苦難の生活を送った。
龐勛が叛くと、盗賊の中に入って将校となった。龐勛の勢力が弱体化すると、百人以上を率いて泗州の守将の
湯群と共に朝廷に帰順し、累進して汝州防禦使となった。
李琢が沙陀を雲州に討伐すると、上表によって北面招討副使となった。夏綏銀節度使に遷り、検校尚書右僕射となった。
黄巣が京師に侵入すると、詔によって代北行営兵を率いて京師を防衛することとなったが、同州に行くと、
賊に降伏し、河陽節度使の偽職に任じられ、羅元杲と交替した。羅元杲は、もと神策軍の将軍で、背が低く醜く、宦官の勢力をたよって、財物を奪って京師に運び込み、その額は巨万であったから、人々は怨んだ。諸葛爽がやって来ると、羅元杲は州の人を募集して戦おうとしたが、軍は従わず、逆に諸葛爽を歓迎したから、羅元杲は行在に逃走した。諸葛爽は間道から上表文を
僖宗に奉り、自ら弁明したから、詔によって節度使を拝命した。
李克用が陳州・許州の援軍に向かい、天井関を進んだ。諸葛爽は恐れ、道を貸すことをよしとせず、出兵して万善に駐屯した。李克用は河中から汝州・洛州に進軍した。
諸葛爽は累進して京師東南面招討諸行営副都統・左先鋒使、兼中書門下平章事を授けられた。
朱温が
賊のために同州を守備すると、諸葛爽は軽装歩兵を率いて同州に入り、朱温は旗を下ろし伏兵を設けて待機した。諸葛爽は賊が遁走したと思い、兵士は甲冑を解いて家に入った。伏兵が現れると、諸葛爽はすべての鎧・馬を放棄して逃げ帰った。修武に到着したが、魏博節度使の
韓簡の攻撃によって敗れ、入ろうとしなかった。韓簡は将軍の
趙文㺹を留めて河陽を防衛し、自ら鄆州を攻撃した。この時、
中和二年(882)のことであった。河陽の人が諸葛爽を誘ったから、金州・商州から駆け付け、再び河陽に入り、厚く趙文㺹および守備兵を礼遇し、魏に帰した。ここに諸葛爽は新郷を攻め、韓簡は鄆州からやって来て、嘉獲県の西で戦った。韓簡は密かに関中を狙ったが、韓簡の部下の反間を買い、部将の
楽彦禎が韓簡と軍の関係悪化の隙をついて、その軍を引き返して先に帰還し、そのため韓簡の兵八万は自然と潰滅し、敗走路の河で溺死者が重なりあい、清水であったのに流れなかった。翌年、諸葛爽に詔して東南面招討使とし、
秦宗権を討伐させ、諸葛爽は上表して
李罕之を副官とした。
諸葛爽は雑役人から身を興したとはいえ、統治に長け、法令は明瞭で、人々に心配事がなかった。抜擢されて検校司空となった。
光啓二年(886)卒した。その将軍の
劉経と沢州刺史の
張言が共に諸葛爽の子の
諸葛仲方を立てて留後としたが、蔡賊の
孫儒に攻撃され、汴に逃亡し、孫儒は孟州を奪取した。
【李罕之伝】
李罕之は、陳州項城県の人である。若くして勇猛かつ敏捷であった。はじめ僧侶となり、市場で托鉢していたが、一日中苦労しても何も得られなかったから、鉢と袈裟を脱ぎ捨てて去り、人を集めて五台山の麓を攻め奪った。これより以前、蒲州・絳州の民は摩雲山に立て籠もって乱を避け、盗賊たちは攻めたが勝てなかった。李罕之は百人で小道から陥落させ、軍を「李摩雲」と号した。
黄巣に従って長江を渡り、
高駢に降伏し、高駢は上表して知光州事とした。
秦宗権に迫られ、項城に逃走し、敗残兵を集めて
諸葛爽を頼り、懐州刺史に任じられた。諸葛爽は秦宗権を討伐すると、上表によって副官となった。睢陽に駐屯したが、功績はなかった。また上表によって河南尹・東都留守となり、
蔡と対抗させた。
河東節度使の
李克用は上源の難(
朱全忠による夜宴後の襲撃事件)を逃れると、意気消沈して戻って来て、李罕之が迎え謁すること非常に恭しく、贈り物をして、厚く互いに結びついた。李罕之には幕府を駐屯地とし、
孫儒が来襲してくると、李罕之は出撃しなかった。数か月して逃走し、黽池に逃げ込んだ。東都が陥落すると、孫儒は宮殿を焼き払い、居住民を攫って去った。
諸葛爽は将軍を派遣して東都を回収しようとしたが、李罕之は将軍を追い出し、諸葛爽は制御できなかった。にわかに諸葛爽が死ぬと、その将軍の
劉経・
張言が共に諸葛爽の子の
諸葛仲方を立て、李罕之を追い出そうとした。しかし李罕之はもとから郭璆と仲が悪く、勝手に郭璆を殺害したから、軍中の不興を買った。劉経は軍の怒りに乗じて、李罕之の陣地を襲撃し、李罕之は退いて乾壕に逃げ込み、劉経は追擊したが、反撃されて敗北し、勝利に乗じて入って洛陽の苑中に駐屯した。劉経は戦うも勝てず、河陽に帰還した。李罕之は鞏に駐屯し、汜水を渡渡河しようとすると、劉経は張言を派遣して河岸に送ったが、かえって李罕之と連合し、劉経を攻めたが勝てず、懐州に駐屯した。
孫儒が
諸葛仲方を追い出し、河陽を奪取すると、自ら節度使と称した。にわかに
秦宗権が敗北すると、河陽を棄てて逃げ、李罕之・
張言は進撃してその軍を収容し、河東の援軍を請うた。李克用は
安金俊を派遣して兵を率いて助けに向かったから、河陽を得られた。李克用は上表して李罕之を節度使・同中書門下平章事とした。詔によって官籍を与えた。また上表によって張言を河南尹・東都留守とした。
李罕之は
張言と非常に親しかったが、しかし性格は疑い深く暴虐であった。この当時は大乱の後であり、野には麦の茎すら残っておらず、部下の兵士は日々人を攫って食べていた。また絳州を攻撃して下し、また晋州を攻撃すると、
王重盈は汴の兵を出して救援しようと思い、李罕之は解囲して帰還した。しかし張言は収穫物を蓄え、民に農耕を勧め、倉庫を設置すると次第に集積された。李罕之は食に乏しく、兵士は頼って給付を受けており、これを求めること果てしなく、張言は見放すことができなかったが、李罕之は河南の官吏を捕らえて笞打って督促し、また東方から行在に貢輸する者の多くは李罕之に物資を差し押さえられた。王重盈は張言に反間を行い、
文徳元年(888)、李罕之は全兵力で晋州を攻撃すると、張言は河陽を夜襲し、李罕之の家族を捕虜とした。李罕之は窮地に陥り、河東に逃走し、
李克用もまた上表して沢州刺史とし、河陽節度使に任じ、
李存孝・
薛阿檀・
安休休を派遣して軍三万人を率いて張言を攻撃させた。城中の食糧は尽き、張言は汴に臣従して救援を求めた。
朱全忠は
丁会・
葛従周・
牛存節に救援させ、沅河で戦った。安休休は不利となり、朱全忠に降伏し、李存孝は帰還した。朱全忠は改めて丁会を河陽節度使とし、張言は洛陽に帰った。
李罕之は沢州を確保し、しばしば出撃して懐州・孟州・晋州・絳州を掠奪し、一年として休むことがなく、人々は山や谷に隠れたが、樵や水汲みのために出た者は、李罕之に捕らえられて斬られ、ほとんど皆殺しとなり、数百里にわたって家から煙がたつことがなかった。
李克用は李罕之・
李存孝を派遣して
孟方立を攻撃し、磁州を陥落させ、孟方立は将軍
馬溉に兵数万で守らせて琉璃陂で戦い、李罕之は馬溉を捕虜とし、その軍を破った。大順年間(890-891)初頭、汴将の
李讜・
鄧季筠は李罕之を攻撃し、李罕之は救援を李克用に求め、李存孝を派遣し騎兵五千で救援させた。汴の兵士は李罕之に向かって、「公は沙陀を頼って、大国を絶交している。今太原は包囲され、
葛司空は上党に入った。十日もしないうちに、沙陀は逃げ込む穴を失うだろう」と叫ぶと、李存孝は怒り、兵五百を率いて李讜の陣営に肉薄し、呼曰:「我ら沙陀が穴を求めているのは、お前の肉をわが軍に食らわせるためだ。太った者は出て来て戦え」と叫び、鄧季筠は兵を率いて決戦すると、李存孝は槊(槍)を奮って駆け、自ら鄧季筠を捕らえた。李讜は夜に逃走し、追撃して馬牢川で破った。李克用が
王行瑜を討伐すると、上表して李罕之を副都統、検校侍中とした。王行瑜が誅殺されると、隴西郡王に封じ、検校太尉・兼侍中となった。
李罕之は功績が多いのをたのみとし、かつて密かに
李克用の寵将の
蓋寓に自身の鎮所を一つ求め、蓋寓は李罕之のために願い出てみると、李克用は「猛禽類は腹が満たされると去ってしまう。私はあいつが叛くのを恐れている」と言って許さなかった。光化年間(898-901)初頭、昭義節度使の
薛志勤が卒すると、李罕之は夜襲して潞州に入り、自ら留後と称し、李克用に「薛志勤が死に、他の盗賊どもがやって来るのではないかと恐れたから、命を待たずに直ちに潞州に進駐しました」と報告した。李克用は
李嗣昭を派遣して先に沢州を攻撃し、李罕之の家族を拘束して太原に送った。李罕之は沁州を攻め、刺史・守将を捕らえ、送って汴と誼を結び、
朱全忠は上表して李罕之を昭義節度使とし、
丁会に命じて援軍を送った。李嗣昭と含口で戦い、李嗣昭は不利となり、
葛従周が沢州を奪取した。李嗣昭はまた李罕之を攻撃すると、李罕之は突如病となり、政務を行うことができなかった。丁会が守備を代わり、朱全忠は改めて李罕之を節度河陽三城とし、作戦中に卒した。年五十八歳。しばらくもしないうちに李嗣昭は再び沢州を奪取し、
李存璋を刺史とし、進攻して懐州を収め、河陽を攻撃した。汴將の
閻宝が兵を率いて到着すると、李嗣昭は退却した。
それより以前、
孫儒が東都から去ると、井戸や門の数は百室にも満たなかった。
張言が数年統治すると、人々は安心して頼ってきた。戸籍には五・六万の人が描かれるようになり、池や防塁を修繕し、公邸をつくり、邸宅は完成し、城・宮殿は完成した。
朱全忠は張言が自分に背くのではないかとの恐れ、天平節度使に遷し、
韋震を河南尹とした。諸葛爽は諸将に地を伝えた者はいなかったが、張言は後に名を
張全義と賜った。
【
王敬武伝】
王敬武は、青州の人である。平盧軍に属して将校となり、節度使の
安師儒に仕えた。中和年間(881-885)、盗賊が斉・棣の間でおこると、王敬武が派遣されて制圧した。帰還すると、安師儒を追放し、自ら留後となった。当時、
王鐸は諸道の行営軍を率いて京師を回復しようとしており、そこで制を承り王敬武に平盧節度使を授け、その兵力を西に赴かせた。京師が平定されると、検校太尉・同中書門下平章事に昇進した。
龍紀元年(889)卒した。
【附、
王師範伝】
子の
王師範は、年十六歳で、自ら留後を称し、節度使の領有・政治を継承した。
昭宗は自ら太子少師の
崔安潜を平盧節度使に任命したが、王師範は崔安潜の赴任を拒否した。当時、棣州刺史の
張蟾は崔安潜を迎えたから、王師範は部将の盧弘に攻撃させたが、盧弘と張蟾は連合した。王師範は金による賄賂を贈り、「君がもし先人の事を思い出し、我が一族の祭祀は絶えるようなことがなければ、それは君の恩恵だ。そうでなければ、墳墓の前で死ぬ覚悟だ」と言うと、盧弘は躊躇し、防備しなかった。王師範は伏兵を置いて道中待ち伏せし、部将の
劉鄩が盧弘を斬り、遂に棣州を攻撃した。張蟾は
朱全忠に救援を求めたから、朱全忠は使者を急派して包囲を解くよう説得しようとしたが、王師範は城を陥落させ、張蟾を斬ったから、崔安潜は平盧の地に入ろうとしなかった。
王師範は儒学を重んじ、孝行につとめ、法を私的に曲げることはなかった。叔父が酔って人を殺し、相手の家が訴えると、王師範は多額の賠償を申し出たが、訴えは収まらなかった。王師範は「法を私は破ることができない」と言い、そこで叔父を抵触するとして有罪にした。母は怒り、王師範が堂の外に立ち、一日に三回も四回もやってきたが、三年会うことができなかった。それでも戸外からの拝礼を怠ろうとはしなかった。青州に父母の本籍があり、県令がやって来るごとに、威儀を正して丁重に迎え、県令が固辞すると、王師範は使者を送って席まで案内し、官署の中庭に出て拝礼した。ある者がそうすべきではないと諌めると、「私は先祖を敬っている。子孫として本籍を忘れないように示しているのだ」と答えた。
朱全忠はすでに鄆州を併合し、軍を派遣して王師範を攻撃し、王師範は軍門に降った。ちょうど朱全忠が鳳翔を包囲すると、
昭宗は藩鎮に救援するよう詔し、王師範が朱全忠に従っているから、
楊行密の部将の
朱瑾に命じて青州を攻撃し、代って平盧節度使にしようとした。王師範はこのことを聞いて、「私は国のために藩屏を守っている。君が危機に瀕しているのに助けないなどできようか」と泣き、楊行密と同盟した。将軍の張居厚・李彦威に甲冑と槊(槍)を積んだ二百台の荷車を与えて献上すると偽り、華州の城内に到着すると、まず十台が内部に侵入すると、門番に見つけられ、軍は甲冑をつけて雄たけびをあげ、朱全忠の守将の
婁敬思を殺した。当時、
崔胤はちょうど華州にいて、門を閉ざして防衛し、張居厚を捕らえて朱全忠のもとに送った。
劉鄩は兗州を襲撃し、入城した。王師範も同じく兵を隠匿して河南に侵入し、徐州・沂州・鄆州等十州以上を同時に攻撃した。
朱全忠は従子の
朱友寧に軍を率いさせて東に討伐した。この当時、
帝は長安に帰還し、そのため朱全忠は魏博の軍と一緒に斉州に駐屯した。
王茂章は兵二万を率いて王師範の弟の王師誨と合流して密州を攻撃して打ち破り、
張訓を刺史とした。沂州に進攻してその兵を破り、青州に帰還し、半舎(十五里)のところに駐屯した。朱友寧は博昌を攻撃しているところであったが、まだ陥落させておらず、朱全忠は督戦し、朱友寧は民十万を走らせて、木や石を背負わせ、城中を見下ろす山を築き、城は陥落し、老若問わず虐殺し清水に死体を投棄し、登州を包囲した。王茂章は朱友寧に贈り物をしたが、救うことを拒絶された。しばらくもしないうちに城は陥落し、朱友寧は勝利に乗じて別の陣営を攻撃した。王茂章は汴軍が油断しているのを見て取り、王師範と共に朱友寧を石類で挟撃し、その首を斬り、
楊行密に伝送した。
朱全忠は怒り、全軍二十万で急行した。
王茂章は陣営を閉ざして、敵軍が油断するのを待ち、壁を壊して出撃して戦い、戻って諸将を酒を飲み、それが終わると再び出撃した。朱全忠は遠望して、「我が将がこのようであったなら、天下なぞ簡単に取れるだろうに」と嘆いた。ここに撤退して臨淄に駐屯した。王茂章は朱全忠を恐れ、軍を収めて南に退き、李虔裕に五百人を率いさせて殿(しんがり)とした。王茂章は衣を脱いで横になると、李虔裕は「追手が来ます。将軍は速やかに逃げてください」と叫ぶと、王茂章は「私は一緒に死ぬと決めたのだ」と言ったが、李虔裕は強く願ったから、王茂章は退去した。後に追手が到着すると、李虔裕の一軍は全滅したものの、王茂章は逃れた。朱全忠は李虔裕に面会すると、釈放しようと思ったが、目を怒らせて大いに罵ったから死んだ。
張訓は将軍たちを呼び寄せて謀って、「汴人が迫っているが、我軍は少なく、どうやって防げばよいか」と言うと、軍は城を焼き払って逃亡すると要請したが、張訓は「そうすべきではない」と言い、そこで府蔵を封印し、城門をおろすと、密かに兵を率いて去った。汴軍は府庫が手つかずのまま残されていたことをみると、これに恩義を感じ、追撃しなかった。
朱全忠は
楊師厚を留めて青州を包囲し、王師範の兵を臨朐で破り、将軍たちを捕らえ、またその弟の王師克を捕虜とした。この当時、王師範の軍はまだ十万以上あり、将軍たちは決戦を望んだが、王師範は弟の身を案じて、そこで降伏を願った。朱全忠はその弟を帰し、王師範を知節度留後事に任じ、王師範は銭二十万緡を献上して軍に感謝した。汴将の劉重霸は棣州刺史の
邵播を捕らえ、書簡八百通を押収したが、すべて王師範に戦略・防衛を教えていたから、朱全忠は邵播を警戒して殺した。
葛従周が兗州を包囲したが、
劉鄩は降伏をよしとせず、葛従周は王師範の命令によって降伏するよう促し、そこで将兵の全員が出て来て、開門して降伏した。葛従周は旅装を用意して、汴に詣でさせたが、劉鄩はただ素服で驢に乗って行った。朱全忠は冠帯を賜ったが、「私は虜囚なので縛られたままにしてください」と言って、辞退したが許されなかった。会見が終わると、慰労し、酒宴を開いたが、固辞した。
朱全忠は「兗州を取ったことは、並大抵の功績ではあるまい」と笑い、抜擢して都押衙に任命し、旧将たちの上に置いた。将軍たちが走って急ぎ駆け付けると、劉鄩は一度もへりくだることがなかったから、朱全忠は優れた人物だと思った。
一年ほどして、王師範を汴に移し、また縞素(喪服)姿で罪を請うた。朱全忠は会見すると礼遇し、上表して河陽節度使とした。唐が禅譲すると、
朱友寧の妻が仇を朝廷に訴えたから、そこで王師範の一族を洛陽で皆殺しにすることになった。これより以前、役人は邸宅の左に穴を掘り、死刑の理由を告げていた。王師範はそこで家族を宴会し、老若が序列に従って着座する中、使者に向かって、「死はもとより免れぬが、私は穴に投げ込まれると昭穆の序列が失われ、先人と地下でお目見えできなくなることを恐れている」と言い、酒が行き渡るにつれ、順番に殺戮される者は二百人に及んだ。
【孟方立伝】
孟方立は、邢州の人である。始め沢州の天井の守将となり、しばらくして遊弈使に遷った。
中和元年(881)、昭義節度使の
高潯が
黄巣を攻撃し、石橋で戦ったが勝てず、華州を守備していたが、部下の将の成鄰に殺され、戻って潞州を根拠地とした。軍は怒り、孟方立は兵を率いて成鄰を攻めて斬り、自ら留後と称し、勝手に邢州・洺州・磁州を割いて軍鎮とし、邢州を治所として府を設置し、昭義軍と称した。潞人は監軍使の呉全勖を知兵馬留後とするよう要請した。当時、
王鐸が諸道行営都統となり、潞州がまだ安定していなかったから、墨制によって孟方立を検校左散騎常侍・兼御史大夫に任じ、邢州を統治させたが、孟方立は辞令を受けず、呉全勖を捕らえ、書簡で王鐸に向かって儒臣に潞州を守らせるよう要請した。王鐸は参謀の中書舎人の
鄭昌図を知昭義留事に任じ、最終的には節度使にしようとしていた。
僖宗は自らもと宰相の
王徽を節度使に任じた。当時、
天子は西に逃れており、河中・関中は混乱状態にあり、孟方立は地元では好き勝手にしていたが、
李克用は潞州を狙っており、
王徽は朝廷に事態を制御できないことを知り、そこで鄭昌図の就任を強く拒否した。鄭昌図は統治して三ヶ月もしないうちに去った。孟方立は改めて上表して
李殷鋭を刺史とした。潞州は険難で人々は凶暴で、しばしば賊が大軍を率いて戦乱を引き起こしていると考え、賊を弱体化しようと思い、そこで治所を龍岡に移した。州の豪傑もたびかさなる移転に恨み言を述べた。その時、
李克用が河東節度使となると、昭義監軍の祁審誨が援軍を要請し、昭義軍の復活を求めた。李克用は賀公雅・李筠・
安金俊の三人の部将を派遣し潞州を攻撃したが、孟方立に敗北した。また
李克修に攻撃させて奪取し、李殷悦を殺害し、遂に潞州を併合し、上表して李克修を節度留後とした。それより以前、昭義軍には潞州・邢州・洺州・磁州の四州を領有していたが、ここに至って、孟方立は自ら山東の三州を昭義軍のものとした、それより以前、朝廷はまた李克修に命じて、潞州の旧軍を差し出すよう命じた。昭義軍には二人の節度使が並び立ったのは、この時から始まった。
李克修は、字は崇遠で、
李克用の従父弟である。騎射に優れ、常に征伐に従い、左営軍使から留後に抜擢され、検校司空に昇進した。
孟方立は
朱全忠に頼って助けとしていたから、
李克用は邢州・洺州・磁州を攻撃し、孟方立はこれらの地からの歳入を得られず、地は戦場となり、人々は生計を立てることができなかった。
光啓二年(886)、
李克修は邢州を攻撃して故鎮を占領し、進撃して武安を攻撃した。孟方立は呂臻・
馬爽を率いて焦岡で戦ったが、李克修に敗北し、斬首一万級となり、呂臻らは捕虜となり、武安・臨洺・邯鄲・沙河を陥落させた。李克用は
安金俊を邢州刺史とし、民衆を安撫させた。孟方立は援軍を
王鎔に要請し、王鎔は兵三万を送り込み、李克修は戻ってきた。二年後、孟方立は部将の奚忠信に兵三万を率いさせて遼州を攻撃し、金啖の
赫連鐸と同盟を結んだ。その時、契丹が赫連鐸を攻撃しており、戦いの好機を失い、奚忠信はその兵を三つに分け、鼓を打ち鳴らして進軍したが、李克用は険阻の地に伏兵を設け、奚忠信の前軍は潰滅した。戦闘の後、大敗し、奚忠信は捕らえられ、その他の軍は敗走し、逃れ帰る者はわずかに十人中二人にすぎなかった。
龍紀元年(889)、李克用は
李罕之・
李存孝に邢州を攻撃させ、磁州・洺州に侵攻すると、孟方立は琉璃陂で戦ったが、大敗し、その部将二人は捕らえられて腰斬に処され、邢州の砦で晒された。李克用は「孟公よ、速やかに降伏せよ。さもなくばその首を斬ることができた者には、三州の節度使に任命しよう」と叫んだ。孟方立の力は尽き果て、また属州は荒廃し、人心は恐怖が広がった。孟方立の性格は気性が激しく、部下には恩が少なく、そのため夜に自ら城壁に行っても、兵は皆傲慢な態度をみせ、自分たちの苦労を論うだけであった。孟方立は軍を立て直すことができないことを知って引き返し、服毒して自殺した。
【附、孟遷伝】
従弟の
孟遷は、もとより兵士の心をつかみ、軍は推して節度留後とし、
朱全忠に援軍を要請した。朱全忠は
時溥を攻撃中で、すぐには到着せず、
王虔裕に命じて精兵数百で出動させ、
羅弘信に領内の通行許可を求めたが、許されず、そこで間道を走って邢州に入った。大順元年(890)、
李存孝は再び邢州を攻撃し、孟遷は邢州・洺州・磁州の三州を引っ提げて降伏し、王虔裕と部下三百人を捕らえて献上し、遂に太原に遷った。上表して
安金俊を邢・洺・磁団練使とし、孟遷を汾州刺史とした。
【賛】
賛にいわく、乱を以て乱を救うのは、勝手気ままに振舞いう者ができるのである。乱を以て乱を救うことができないのは、陰険で心根がねじ曲がった悪賢い者ができるのである。思うに乱を救うのは霸者に似ているが、しかし表面上は似ているだけであり、功績を共にするには値しない。
王重栄を見るとどうして信じられないようなことがあろうか。
黄巣を破り、
李克用を助けて京師を平定し、時代を代表する者のようであった。突然私怨を振りかざし、
天子に迫って出奔させ、
朱玫の首級をあげ、
偽襄王を倒したとはいえ、王室を安定させたと称したが、実は卑劣な者であった。身は
部将の手に殺され、乱を救って乱に死んだのは、王重栄がその両方を得たのである。朱全忠を殺さなかったが、朱全忠に殺されて、その後継ぎを絶たれたのは当然のことではないか。他の者は皆凡庸でそれ以下の能力であり、非難の余地もない。
最終更新:2026年08月11日 02:44