許叔冀
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唐の官人・叛将・藩鎮。滑濮節度使。許欽淡の子。
許季常の父。「狡猾にして詐り多く、難に臨めば必ず変ず」と評された。霊昌太守であった。至徳元載(756)
賀蘭進明が河南節度使となった時、宰相
房琯によって都知兵馬使に任じられ、賀蘭進明とともに御史大夫となったため、賀蘭進明の命令を聞かず、
張巡が孤軍奮闘しているなか両者とも救援を出さなかった。至徳二載(757)に安禄山側の攻撃を受け、援兵が来なかったため、逃亡して睢陽郡に至った。乾元元年(758)九月
郭子儀の指揮下で
安慶緒を攻撃した。乾元二年(759)九月、
史思明の攻撃を受けて投降し、その中書令となったが、宝応元年(762)十一月、
僕固懐恩が洛陽および河陽城を陥落させると捕らえられ、釈放された。
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最終更新:2023年09月02日 22:39