李昌符
?-887
唐末の武将・藩鎮。鳳翔節度使。鳳翔節度使
李昌言の弟。中和四年(884)李昌言が病となると上表して留後となる。李昌言が薨ずると鳳翔節度使に任じられた。光啓元年(885)
田令孜が
王重栄の討伐を議し、
朱玫・李昌符に攻撃させたが、
李克用が王重栄についたため大敗した。朱玫・李昌符は田令孜に与することを恥じたため、李克用につき、李克用は京師に迫ったため、僖宗は鳳翔、のち興元府に逃れた。光啓二年(886)、邠寧節度使
朱玫とともに
嗣襄王熅を擁立したが、朱玫から離れて僖宗に帰順した。光啓三年(887)3月、僖宗が京師に帰る途上、鳳翔に立ち寄り、宮室がまだ完成していないことから、とどまることを願い、僖宗は宮殿の完成を待つことにした。六月、天威軍都頭の
楊守立と李昌符が道を争い、部下が互いに殴り合った。僖宗は中使を遣わして諭したが、止まらず、宿衛が警備を厳としたが、李昌符が兵を擁して行宮を焼き払い、楊守立と戦ったが、李昌符は逃げて隴州を守った。朝廷は武定節度使の
李茂貞を隴州招討使に任じて、李昌府を討たせた。七月、隴州刺史の薛知籌が李茂貞に降伏して隴州が陥落し、李昌符は斬られて、族滅された。
列伝・史料
外部リンク
最終更新:2023年05月29日 22:38