巻二百八 列伝第一百三十三

唐書巻二百八

列伝第一百三十三

宦者下

李輔国 王守澄 劉克明 田令孜 楊復恭 劉季述 韓全誨 張彦弘


  李輔国は、本名は李静忠で、宦官となって閑厩小児となった。容貌は醜く、書籍や帳簿に精通した。高力士に仕え、年四十歳ほどで、厩中の帳簿を担当させられた。王鉷が使となると、禾豆を司り、よく検査して横領を暴いたから、馬はそのために肥え、これを皇太子に推薦されて、東宮に近侍することができた。

  陳玄礼らが楊国忠を誅殺すると、李輔国は謀に預かり、また太子に対して中軍を分けて朔方に走り、河・隴の兵を収容して、復興をはかることを勧めた。太子が霊武にやって来ると、いよいよ昵懇となり、遂に即位して天下の心を繋ぐよう勧めた。家令に抜擢され、判元帥府行軍司馬となった。粛宗は漸次政務の輔弼を任せ、名を李護国と改め、また今の名に改めた。おおよそ全国の奏上文・軍の書類・宮中の宝物は一任された。李輔国はよく政務に従っては恭しく謹密であり、人主の親信を勝ち取ったが、しかし心の中では深く賊の心をもっており、まだあえて勝手気ままにはしなかった。臭いのきつい野菜を食べず、時折仏寺のために偽善を行い、人々はこのことを好ましいとし、嫌わなかった。

  帝は京師に帰還すると、殿中監を拝命し、閑厩・五坊・宮苑・營田・栽接総監使、兼隴右群牧・京畿鋳銭・長春宮等使、少府・殿中二監となり、成国公に封ぜられ、実封戸五百となった。宰相・群臣は予定外に天子に謁見したいと思うと、皆李輔国を通じて願い出て、そこで裁可を得た。常に銀台門で決事が行われた。察事聴事数十人を設置し、吏はわずかな過ちであっても、情報は李輔国の手に入らないことはなく、たちまち審問した。州県が獄訟し、三司が審問すると、捕縛されれば流罪・降格におよび、すべて李輔国が勝手に判決し、そのため制勅であると称していたが、しかしまだお上に上聞していなかった。詔書が下ると、李輔国が署名してからただちに施行され、群臣はあえて異議を唱えることはなかった。出ると兵士三百人を護衛とした。寵臣たちはあえて官名では呼ばず、「五郎」と呼んだ。李揆が宰相となると、同姓であるから子の礼で仕え、「五父」と呼んだ。帝は李輔国のために元擢の娘を妻として娶らせ、元擢をそこで梁州長史とし、その兄弟は全員三省・御史台に官を得た。李峴が宰相となると、叩頭して、「国が乱れようとしています」と言い、ここに詔勅して中書を経由せずに出るものは、李峴が必ず審査したから、李輔国は不快であった。

  当時、太上皇興慶宮におり、は複道からご機嫌伺いにやって来て、太上皇もまた時折大明宮にやって来て、あるいは互いに道中で出会った。帝は陳玄礼高力士王承恩魏悦玉真公主に常に太上皇の左右に侍らせ、梨園の弟子に毎日歌舞音曲を演奏させて娯楽とした。李輔国はもとより微賎の身から、にわかに高貴の身となったとはいえ、高力士らはなおも礼をなさなかったから恨み、優れた功績を立てて自らの地位を固めようとした。それより以前、太上皇は事あるごとに長慶楼で酒宴し、南を下向くと大道にあたったから、そこで徘徊観覧し、ある時は父老が通り過ぎると、全員が拝舞して去っていった。上元年間(760-761)、剣南奏事官が長慶楼を通過すると、そこで上って拝謁し、太上皇は剣南奏事官に酒を賜い、玉真公主と如仙媛に詔して饗させ、また郭英乂・王銑らを呼び寄せて飲み、賜い物は非常にあつかった。李輔国はそこで帝に「太上皇の居所は市中に近く、外部の人々と交流し、陳玄礼・高力士らは陛下に不利なことを働くでしょう。六軍の功臣たちはこれらに服従していませんが、不安となっています。願わくば太上皇を移して禁中に入れられますように」と妄言したが、帝は悟らなかった。それに先んじて、興慶宮に馬が三百頭いたが、李輔国は詔を偽って没収し、わずかに十頭を残した。太上皇は高力士に「我が子は李輔国にたぶらかされて、孝を尽くさず終わりそうだな」と言った。当時、帝は病となり、李輔国はそこで皇帝が太上皇に願って宮中にて面会したいと偽り、睿武門にやって来ると、射生官五百名が道を塞いでいた。太上皇は驚きのあまり、危うく馬から落ちるところであり、何のためにこのようなことをしたのか尋ねると、李輔国は完全武装の騎兵数十騎とともに馳せて奏じ、「陛下は興慶宮が手狭でありので、乗輿を奉迎して宮中にお帰り遊ばそうとしています」と言うと、高力士は声を荒げて、「五十年太平の天子に、李輔国は何をしたいというのか」と叱りつけて下馬させ、李輔国は降りると高力士に「翁はわかっておられません」と罵り、一人の従者を斬った。高力士は「太上皇は将兵それぞれ罪に問わないと仰せだぞ」と叫び、将兵は刀を納めて万歳を唱え、皆再拝した。高力士はまた「輔国よ。太上皇の馬を御せよ」と言い、李輔国は革靴で走り、高力士とともに並んで轡を取って西内(太極宮)に帰還し、甘露殿に居し、侍衛はわずかに数十人で、全員が老弱であった。太上皇は高力士の手をとって「将軍(高力士)がいなかったら、朕は兵に殺されていただろう」と言うと、左右の者は皆涙を流した。また、「興慶宮は、私が王であった時からの地で、しばしば皇帝に譲ろうとしたが、帝は受けなかった。今ここに遷ったのは、私の本懐だ」と言った。にわかに王承恩を播州に、魏悦を溱州に、如仙媛を帰州に流し、玉真公主を玉真観に居らせた。改めて後宮の声楽百人あまりを選んで、太上皇に侍らせ、清掃をさせた。万安公主咸宜公主の二人に詔して、衣食の世話をさせた。これより太上皇は怏怏として病気となり、この世を去ったのである。

  李輔国は功績によって兵部尚書に遷った。南省(宦官)が政務を見るようになると、武士に完全武装させて道の両側に並ばせ、曲芸・舞剣に先払いさせ、百騎を前駆けさせ、御府で食事を設け、太常に楽を演奏させ、宰相・群臣のことごとくに集まらせた。思い通りとなって安定すると次第に傲慢となり、宰相職を求めたが、は難色を示して「卿の勲功ならどのような官にもなられる。ただ群臣が一人も望まないのだ。どうすればよいか」と言ったから、李輔国は宰相の裴冕に仄めかして連署して上表して自分を推薦させた。帝は密かに蕭華に暴露して諭して裴冕に上表を止めさせた。

  張皇后はしばしば李輔国の専横を憎んで、帝が病臥すると、太子を監国とし、張皇后は太子を召寄せ、李輔国および程元振を誅殺しようとしたが、太子は従わず、改めて越王兗王を呼び寄せて謀った。程元振は李輔国に告げると、兵を凌霄門に伏せ、太子を迎え、変となるのを伺い、この夜、二王および中人の朱輝光馬英俊らを捕らえて、張皇后を他殿で殺した。

  代宗が即位すると、李輔国らは平定の策謀の功績によって、ますます跳梁跋扈し、に向かって、「旦那様はただ宮中に座しておればよい。外事は老奴の処分に任せられよ」と言い、帝は驚き、李輔国を排除しようと思ったが、李輔国が兵を掌握しているのをはばかり、そこで尊んで尚父とし、政務は大事小事となく諮問し、群臣は宮中に出入すると皆まず李輔国のもとに詣でたから、李輔国は非常に安心した。また冊立して司空兼中書令に昇進させ、実封戸八百とした。しばらくもしないうちに、左武衛大将軍の彭体盈に閑厩・群牧・苑内・営田・五坊等使を代わらせ、右武衛大将軍の薬子昂に判元帥行軍司馬を代わらせ、李輔国に大邸宅を宮中の外に賜った。内外は李輔国の権勢が失われたことを聞いて、挙って互いに祝いあった。李輔国は呆然として心配し始めたが、どうすることもできず、上表して官の解任を願った。詔があって博陸郡王に進封し、そこで司空・尚父となり、朔望(毎月一日と十五日)に拝朝することを許した。李輔国は中書に入って謝表を作成しようとしたが、門番は中に入れず、「尚父は宰相を罷められたので、入ることができません」と言い、李輔国は気鬱となり、しばらくして「老奴は死罪にあたります。若君にお仕えすることができませんので、地下で先帝に仕えたく思います」と言ったが、帝はお褒めになり、説諭の使者を派遣した。

  韓穎劉烜なる者がいて、星見をよくし、乾元年間(758-760)待詔翰林となり、韓穎は司天監に、劉烜は起居舎人となり、李輔国と非常に昵懇であった。李輔国が中書を支配下に置くと、韓穎は秘書監に、劉烜は中書舎人に昇進し、裴冕が引きあげられて山陵使判官となったが、李輔国が罷免されると、共に嶺南に流され、死を賜った。

  李輔国が太上皇を移してから、天下は李輔国を憎んだ。は東宮であったときから不平が積もっていた。即位すると、表立って殺そうとは思わず、ならず者を送り込んで夜に刺殺させた。年五十九歳で、その首は溝の中に落ち、右肘は切り落とされ、この事を泰陵に報告した。しかしなおも李輔国が殺害されたことは秘密とし、木を彫刻して首の代わりとして葬り、太傅を追贈され、諡を醜という。後に梓州刺史の杜済が武人であったから牙門将となり、自ら李輔国を刺したと言っていたという。


  王守澄は、史書では出身が亡失している。元和年間(806-820)徐州軍の監軍となり、召還された。当時、憲宗が方士の説に関心を持ち、天下に詔して方士を探し求め、宰相の皇甫鎛・左金吾将軍の李道古らが楊仁昼・僧の大通を召見した。楊仁昼は姓名を改めて柳泌とし、大通は自ら年齢を百五十歳であると言い、不死の薬があるといい、二人とも待詔翰林となった。虢人の田元佐は秘方があって、瓦礫を黄金にできると言い、詔して虢県令に任じられ、董景珍・李元戢は皆柳泌・大通を助けて天子に推薦し、天子はその説に惑わされた。柳泌は金石を帝に進上して服用させたが、躁となること甚だしく、しばしば突然怒り、怒って左右の者を責め、相次いで罪となり、禁中はさらに息を潜め、帝はこれより病気となった。元和十五年(820)、元会(元旦朝賀)を取りやめ、群臣はほとんど恐れるところであった。たまたま義成軍節度使の劉悟が来朝し、麟徳殿での対面を賜り、劉悟が出てくると、「お上のお体は平らかそのものだ」と言ったから、内外は安堵した。この夜、王守澄は内常侍の陳弘志とともに中和殿で弑逆し、服用が原因であったとし、突然の崩御を天下に告知し、そこで梁守謙韋元素らとともに穆宗を擁立した。にわかに知枢密事となった。

  文宗が即位すると、王守澄は助力し、驃騎大将軍に昇進した。は元和の逆罪を憎んでいたが、長らく討てず、そのため宋申錫を宰相とし、謀して排除しようとしたが、失敗した。さらにその与党の鄭注李訓は関係にひびが入ったことに乗じて、ここに楊承和を驩州に、韋元素を象州に流した。宦官の劉忠諒を派遣して追って韋元素を武昌県で殺害し、楊承和は公安県に行くと死を賜った。李訓はそこで王守澄を脅して軍容使として邸宅に行かせ、太監を派遣し、酖毒をもたらして死を賜い、事は秘密とし、当時は知る者がいなかったから、揚州大都督を追贈した。その弟の王守涓は徐州監軍から召還され、中牟県で死んだ。


  劉克明もまた史書では出身が亡失しており、敬宗の寵遇を得た。敬宗は撃毬(ポロ)をよくし、ここに陶元皓・靳遂良・趙士則・李公定・石定寛らは撃毬がうまかったから便殿に見えることができ、宣徽院あるいは教坊に所属していたが、しかし全員が神策軍の兵卒、あるいは村々の悪童で、は一緒に殿中で雑魚寝してふざけて楽しみとした。全国でこれを聞いて、争って敏捷勇猛によって帝の御前に進み出た。かつて角觝(相撲)を三殿で観覧すると、首が砕け肘が断たれることがあり、庭中に流血し、帝は非常に喜び、手厚く賜い物をし、夜分になってから止めた。昵懇となった者は全員凶悪不逞の輩で、また些細な過ちで必ず責められ、これより怨みを抱いた。帝は夜更けに自ら狐や狸を捕らえて楽しみとし、これを「打夜狐」と言い、宦官の許遂振・李少端・魚弘志は従ったもののかなわず、全員が秩禄を削られた。帝が狩猟して夜に帰還すると、劉克明・田務澄・許文端・石定寛・蘇佐明・王嘉憲・閻惟直ら二十八人と共に車座になって飲み、たけなわとなると、帝は衣を着替えて、蝋燭はたちまち消えると、劉克明は蘇佐明・石定寛とともに帝を更衣室で弑逆し、詔を偽って翰林学士の路隋を召還して詔書をつくり、絳王に命じて領軍国事とした。翌日、遺詔を下して、絳王が即位した。劉克明らは功績をたのみ、側近を置き換え、自らの支党を引き上げて兵権を独占しようとした。この時、枢密使の王守澄楊承和・中尉の梁守謙魏従簡が宰相の裴度と共に江王を迎え、左・右神策および六軍飛龍兵を発してこれを討伐し、劉克明は井戸に身を投げて死に、その死体を出して切り刻んだ。田務澄らは全員斬首されて晒され、家財は没籍され、またその支党で殺されたのは数十人にもなった。

  それより以前、劉克明が謀反を謀ると、母は禁じて許さなかった。文宗が即位すると、母の忠義をお喜びになり、銭千緡・絹五百匹を賜い、婢二人を賜った。


  田令孜は、字は仲則で、蜀の人であったが、本は陳氏であった。咸通年間(860-874)、小馬坊使となる。僖宗が即位すると、田令孜を抜擢して左神策軍中尉とし、この当時、西門匡範が右神策軍中尉となり、世間では「東軍」・「西軍」と号した。

  は年幼くして無知で、闘鵞や競馬を喜び、しばしば六王宅興慶池に行幸し、諸王と闘鵞し、一羽の鵞鳥あたり五十万銭を賭けた。内園の小児と最も昵懇で、彼らは寵遇にたよって横暴であった。それより以前、帝がまだ王であった時、田令孜とともに同じく寝起きし、ここに至って書物を知って事務処理能力に優れていたことから、また帝の馬鹿騒ぎをたすけ、そのため政務はすべて委ねられ、「父」と呼ばれた。飲んだくれて定見がなく、左蔵庫・斉天の諸庫の金幣を発き、伎子・歌児に毎日巨万の金額を賜い、国庫は蕩尽した。田令孜は内園の小児の尹希復・王士成らと語り、帝に勧めて京師の両市の蕃人の旅行者・商人の宝貨を召し上げて内庫に送り、使者は店舗・茶苑を監督して引き締め、やって来て訴える者は皆京兆府で杖殺された。

  田令孜はが遠慮するほどの人ではないことを知り、そこで官爵を売買し、任命は勅旨を待たず、たとえ緋紫を賜っても奏上しなかった。各種制度は崩壊・弛緩し、内外は汚濁混乱した。すでにあちこちで盗賊が蜂起しても、上も下も互いに覆い隠して、帝は知ることがなかった。この時賢人はおらず、ただ浅はかで人を騙す貪欲な者が付き合いで数を埋め、しばしの安定のために口をつぐんだだけでであった。左拾遺の侯昌蒙は憤懣に堪えられず、小児の尹希復が権力を用いて天下を乱していると指弾し、上疏したが、内侍省で死を賜った。

  宰相の盧攜はもとより田令孜に仕え、建白するごとに、必ず阿諛迎合してすり合わせた。それより以前、黄巣が広州を求め、兵を止めるよう願ったが、盧攜は高駢を重用して功績をあげさせようとし、賊を聴さなかった。そこで改めて関東諸節度を設置したが、賊はこれに乗じて、東都を陥落させた。田令孜は急を告げ、罪を盧攜に帰し、を奉って西に行幸し、歩いて金光門を出て、咸陽沙野に到着すると、軍の十騎あまりが叫んで、「黄巣は陛下のために奸臣を除こうとしています。乗輿をは今、西に向かうのなら、秦中の父老は何を望めましょう。宮中に戻ってください」と言ったが、田令孜は叱りつけ、羽林の騎兵に駆けて斬らせ、そこで羽林の白馬に帝を載せ、昼夜兼行で走り、駱谷に宿をとった。その時陳敬瑄が西川節度使で、田令孜の兄であり、そのため帝に蜀に行幸することを願った。詔があって田令孜を十軍十二衛観軍容制置左右神策護駕使とした。成都に到着すると、左金吾衛上将軍、兼判四衛事に昇進し、晋国公に封ぜられた。帝は蜀が狭く閉塞しているのを見て、しばらく鬱々としていたが、毎日妃嬪を侍らせて賭博と酒に溺れ、時々袂をはらって北を望み見て、悲しんで涙を流した。田令孜は時折伺候しては励まし、万歳を叫び、帝は心を喜ばせ、そこで盛んに鄭畋王鐸程宗楚李鋋・陳敬瑄が力を合わせてようとしていると称え、賊は心配するに足らずとした。帝は「よし」と言った。

  それより以前、成都で陳許の兵三千を募集し、黄色の帽子を着用したから、「黄頭軍」と名付けられたが、蛮勇であった。が到着すると、大いに将兵を労い、扈従した者はすでに賜い物があったが、黄頭軍にはあてがわれず、皆密かに田令孜を恨んだ。田令孜は諸将と酒宴し、黄金の樽で酒を勧め、飲むと賜った。黄頭軍の将の郭琪は飲むことをよしとしなかった。「軍容は依怙贔屓を変えられ、将兵を均しく扱うのが、本当に大いに願いとするところです」と言った。田令孜は見つめて「君に何の功績があるか」と尋ねると、「党項と戦い、契丹に迫ること数十戦、これが琪の功績です」と答えた。田令孜は怒りを隠して笑い、「よくわかった」と言い、密かに酖毒を酒の中に注いだ。郭琪は飲み終わると、走って帰り、一人の下女を殺し、血をすすって解毒できた。夜になると軍営を焼き払い、城邑を奪い取り、陳敬瑄は討伐して郭琪を破り、広都に逃げ、遂に高駢の所に逃走した。帝は変事を聞いて、田令孜とともに東城を保全して自ら守り、群臣は謁見することができなかった。左拾遺の孟昭図は奏対することを願ったが、呼び寄せられず、そこで上疏して厳しく述べた。「君と臣は一体で互いになっており、安んじれば同じく安らかにになり、危ければ共に難となります。昔日西に行幸し、南司(官僚)に告げず、そのため宰相・御史中丞・京兆尹はことごとく賊に打ち砕かれ、ただ神策両軍中尉が乗輿に従って身を全うできたのです。今百官がいる者は、危険を冒して百死から出てきた者なのです。昨今、黄頭軍が反乱を起こし、火災は前殿を照らし、陛下はただ田令孜と共に城に閉じこもって自ら守り、宰相を召し出されず、群臣に謀らず、御前に入ろうとしてもできず、対面を求めても聴されませんでした。また天下は、高祖太宗の天下であって、北司(宦官)の天下ではありません。陛下はもとより九州(全国)の天子であって、北司の天子ではありません。北司はどうして全員が南司(朝臣)より忠があるといえましょうか。廷臣はどうして勅使より用いることがないのでしょうか。文宗の時、宮中の災いで、左右巡使は到着せず、皆責をあらわされましたが、どうして天子がさまよっているのに、宰相が関わることなく、群司百官が捨てるのは道端の人のようになるでしょうか。往時は誠に諌めるにはほど足りませんが、しかし来る者を追うべきです」上疏文が入ると、田令孜は秘匿して奏上せず、詔を偽って孟昭図を嘉州司戸参軍に貶し、人をして蟇頤津に沈めさせた。それより以前、孟昭図は正言すれば必ず殺害されることを知って、家隸に向かって、「大賊はまだ滅びていないのに、宦官は君臣を離間している。私は諌官となっているから、座して滅亡を見ることができない。上疏すれば必ず死ぬだろう。私の骸を収容することができるか」と言い、家隸は許諾し、ついにその死体を葬った。朝廷は悼んだ。

  が平定されると、田令孜は王鐸は儒臣となってまた功績がなく、謀って沙陀を呼び寄せた者は楊復光であったから、兵糧を北司に送ろうとし、そのため王鐸の都統を罷免し、楊復光の功績を第一とした。また楊復光がまた自身に迫るのを嫌い、そのためその報賞は薄くした。自ら帷幄で勝利を決し、王室の軽重を繋いだといい、出入は傲慢なこと甚だしかった。たまたま楊復光が死ぬと、大いに喜び、そこで楊復恭の枢密使を罷免した。宦官の曹知慤なる者がいて、富家の子で、非常に勇猛沈着であった。賊が長安を占領すると、曹知慤は清・濁二谷の人と山によって駐屯し、賊に屈しなかった。密かに兵卒に教練して衣服・言語は賊と同じようにし、夜に長安に入って賊の陣営を攻撃し、賊は大いに恐れた。は聞くと、金紫を賜い、内常侍に抜擢した。帝が帰還しようとしていることを聞いて、そこで大言して「我らはまさに軍を大散関下に擁して、群臣で帰すべき者を見て帰順しよう」と言い、田令孜はそうだと思い、密かに王行瑜に邠州の兵で嵯峨山を渡り、襲撃してその軍を殺した。これによってますます自分勝手になり、天子を拘束し、天子は専断することができなくなった。帝はそのことによって、左右に語ってたちまち涙を流した。

  楊復光の部将の鹿晏弘王建らは、八都の軍二万で金州・洋州などの州を奪取し、興元府に進攻し、節度使の牛頊は龍州に遁走し、鹿晏弘は自ら留後となり、王建および張造韓建らを麾下の刺史とした。が帰還すると、討伐されるのを恐れ、兵を率いて許州に逃走した。王建は義勇四軍を率いて帝を西県に迎え、また王建および韓建らにこれを司らせ、「随駕五都」と号した。田令孜は楊復光の所縁によって、わずかに諸衛将軍を授け、全員を養子とした。別に神策新軍を募集し、千人で部隊とし、およそ五十四部隊とし、左右に分けて十軍で統括した。また十分に信頼できる者を諸鎮に派遣して監軍とし、自分に従わない者は罪によって移動させた。

  養子の田匡祐が河中で宣慰すると、王重栄はあつく礼を用いてもてなしたが、田匡祐は非常に傲慢であったから、全軍が怒り、王重栄はそこで田令孜の罪を数え上げ、その無礼を責めたから、監軍は和解して去った。田匡祐が帰還すると田令孜に訴え、また王重栄攻略を勧めた。田令孜は両塩池を塩鉄使に帰属させるよう申し上げ、そこで自ら両池榷塩使を兼任した。王重栄は詔を奉らず、上表して田令孜の十罪を暴いた。田令孜は自ら軍を率いて王重栄を討伐し、邠寧の朱玫・鳳翔の李昌符を率い、鄜州・延州・霊州・夏州などの兵およそ三万を合わせ、沙苑に陣を敷いた。王重栄は太原の李克用を説得して連合し、李克用は上書して田令孜・朱玫の誅殺を願ったか、は和解させようとしたが、従わなかった。大いに沙苑で戦い、王師は敗北した。朱玫は邠州に逃げ帰り、李昌符とともに田令孜に用いられたことを恥じ、かえって王重栄と連合した。神策兵は壊滅して帰還し、掠奪して通り過ぎるところはすべて奪いつくされた。李克用は京師に迫り、田令孜は計略に窮し、そこで坊市を焼き払い、帝をさらって夜に開遠門を開いて出奔した。自ら賊となって長安を破壊し、宮室・殿舎十七に放火し、後に京兆尹の王徽が復旧工事を行って元通りとしたが、ここに至って田令孜は「王重栄が叛いた」と言い張って、命じて宮城を放火し、ただ昭陽(後宮)・蓬莱宮・三宮がわずかに残存しただけであった。王建は義勇四軍で帝に扈従し、夜に牢水が反乱したから、遂に陳倉に行った。李克用は河中に帰還し、朱玫は李克用がまた迫ってくるのを恐れ、王重栄と連署して田令孜の誅殺を願って、鳳翔に駐屯した。田令孜は帝に興元府に行幸することを願ったが、帝は従わず、田令孜は兵で寝殿に入り、帝に迫って夜に出発したから、群臣は知る者はおらず、宰相の蕭遘らは皆従うことができなかった。朱玫は興元節度使の石君渉に桟道を焼き払うことを勧めて、帝が西に行こうとする思いを断ち切ろうとした。蕭遘は田令孜が天子をさらって人質とし、方鎮の難を生じさせたことを憎んで、朱玫に進んで乗輿を迎えさせた。朱玫は兵を率いて行在を追跡したが、興鳳の楊晟の軍を破り、帝は梁・洋に行き、しばらくして南に引き返し、朱玫の兵が僖宗のもとに到達すると、左右の者で殺戮された者は数え切れなかった。田令孜は人に自分が害されるのを恐れ、顔に被り物をして行った。王建の長剣宮の五百人に道を清めさせ、伝国璽を包んで授けた。大散関に行ったが、道は険しく困難で、帝はほとんど危ういところであったことが何度もあった。軍を分けて霊壁を守り、追撃してきた兵に抵抗した。朱玫は長駆して帝を追跡し、帝は桟道が破壊されたから、他の道を逃げ、非常に困難で、王建の膝を枕にして眠り、目覚めると飯を食べ、僅かに興元府に到着した。朱玫・王重栄は田令孜を誅殺し、群臣を慰めるよう上表した。詔して田令孜を剣南監軍使とし、留めて去らなかった。王重栄は河中に行幸するよう願ったが、田令孜は阻止した。宰相の蕭遘は群臣を率いて鳳翔にいる者で上表して、田令孜が国に専横して災いを煽り、小人の計を惑わし、群帥と交わったり諍いを起こしたりしているから、誅殺するよう願った。帝は取り上げることはなく、また王重栄に兵糧十五万斛を行在に給するよう勅したが、王重栄は田令孜がいるから、命令を奉らなかった。朱玫はそこで嗣襄王李熅を奉って偽皇帝位に即位させた。朱玫が敗北すると、帝は京師に帰還することができた。

  それより以前、帝が蜀に入ると、諸王は徒歩で従い、寿王は斜谷に到着すると進むことができず、田令孜は走って前に進ませたが、寿王は足が痛いからと断り、馬を調達して助けとして欲しいと言った。田令孜は怒って寿王を笞打ち、無理やり行かせ、寿王は恥じた。が病となると、内も外も寿王に従い、田令孜は入って帝に侍って「陛下は臣のことを覚えていますか」と言ったが、帝は直視して話すことができなかった。田令孜は自ら剣南監軍使に任じ、禁軍の奉鑾軍を閲兵して自ら守りとし、昼も夜も駆けて成都に入り、強く上表して解官して医薬による治療を求め、詔して裁可された。にわかに官爵を削られ、儋州に長流されたが、しかしなおも陳敬瑄を頼って行かなかった。

  寿王が即位した。これが昭宗である。楊復恭は代わって観軍容使となり、王建を出して壁州刺史とした。王建は利州を奪取し、自ら防禦使に任じ、そこで閬州・邛州・蜀州・黎州・雅州などの州を攻略し、詔して直ちに永平軍を設置し、王建は節度使を拝命した。田令孜は王建と連衡して朝廷に対抗しよう謀り、また「我が子よ」と呼び、書簡で召寄せた。王建は喜んで、到着しようとした説き、また拒まれた。王建は怒り、進撃して成都を包囲した。田令孜は城壁の上に登って王建に謝り、「老夫は長い間互いに交友を深めてきたが、どうして困らせるのか」と言うと、「父子の恩は、どうしてあえて忘れましょうか。顧父が自ら朝廷と関係を絶ったのを顧みて、いやしくも謀を改められれば、父子の関係は最初のままとなります」と答えた。田令孜は「私は計画を変更しようと思う」と言うと、王建は許したから、田令孜は夜に印節を持って王建に授け、翌日王建は成都に入ったが、田令孜を碧鶏坊で捕らえた。それより以前、右神策統軍の宋文通が諸軍に憎まれ、田令孜は事によって召寄せ、殺そうと思った。実際に会ってみると、喜んで改めて養子とし、名を田彦賓とした。これが李茂貞であり、そのため一人上書してその罪を雪ぎ、詔して湖南監軍とした。二年して、陳敬瑄と同日に死んだ。刑に臨んで、帛を裂いて紐とし、刑を執行する者に授けて、「私はかつて十軍の軍容使に任じられた。私を殺すのに礼があっていいはずだ」と言い、そこで人を絞殺する方法を教えた。死んだが、顔色は変わらなかった。乾寧年間(894-898)、詔して官爵を復した。


  楊復恭は、字は子恪で、もとは林氏の子であり、楊復光の従兄である。宦父の楊玄翼は、咸通年間(860-874)に枢密院を領し、代々権勢の家となった。楊復恭はほぼ学術にわたり、諸鎮兵の監軍となった。龐勛の乱で、戦って功績があり、河陽監軍から京師に入って宣徽使を拝命し、枢密使に抜擢された。黄巣が京師を奪うと、田令孜が権勢・恩寵を専らにし、天下を削り失い、内外はあえて対抗することがなかったが、ただ楊復恭だけはしばしば田令孜と得失を争い、田令孜は怒り、飛龍使に左遷し、楊復恭は藍田県で病に臥せった。僖宗が京師から出て興元府にいると、再び枢密使となり、経略を処理し、多くその手を改めた。車駕が帰還すると、遂に田令孜に代わって左神策中尉・六軍十二衛観軍容使となり、魏国公に封ぜられ、実戸八百となり、「忠貞啓聖定国功臣」の賜号を得た。

  が崩ずると、昭宗を冊立するよう定め、鉄券を賜り、金吾上将軍を加えられた。しばらくして朝政を奪取した。はかつて「朕は不徳であり、お前は私を即位するのを助けたのだ。奢侈を削減して天下に示すべきである。私は故事を見てみると、尚衣は御服を進上するのは毎日一襲で、太常寺が新曲を毎日一曲進上しているが、今から禁止すべきだ」と言い、楊復恭は頓首して素晴らしいことだと称えた。帝は遂に天子の出遊の費用を尋ねた。「聞いたところによりますと、懿宗以来、行幸するごとに何も考えもしないで銭十万、金帛を五車、十部の楽工五百人、荷車や、紅だの朱だので簾幕された華美な車が百台、諸衛士が三千名を用いています。だいたい曲江への遊覧や湯治、もしくは狩猟では大行従と言い、宮中・苑中では小行従と言っています」と答え、帝はそこで詔してそのようなものを半減させた。

  ここに宰相の韋昭度張濬杜譲能らは帝のために大中(宣宗)の故事を申し上げ、宦官が容赦しないのを抑え、もまたしばし楊復恭の専横を嫌った。王瓌なる者は、恵安太后(恭憲太后の誤り)の弟で、節度使を求めたから、帝は楊復恭に尋ねると、「呂産・呂禄は漢を傾け、武三思は唐を危うくしましたから、太后の一族は将軍に任じたり列侯に封ずるべきではありません。陛下が本当に王瓌を愛しておいでなら、任じるのは他の職とするのがよいのであって、外藩に任じるのはよろしくありません。勢力を背景にその地で専横するのを制することができないのを心配しています」と答えたから、帝はそこで沙汰止みとした。王瓌は聞いて非常に怒り、禁中にやって来て楊復恭に面会して罵辱し、軍事の任とすることができた。楊復恭は自身の権力を分けようとは思わず、黔南節度使にするよう申し上げながら、途中興元府にて、兄の子の楊守亮を黔南節度使にしようとしていたから、密かに利州刺史に強制して王瓌の舟を河で転覆させ、一族・賓客は全員死に、舟が勝手に転覆したと上奏した。帝は楊復恭の謀と知り、これによって深く恨んだ。

  楊復恭は養子たちを州刺史とし、「外宅郎君」と号した。また養子は六百人いて、諸道軍の監軍となった。天下の威勢は、挙ってこの一門に帰した。楊守立は天威軍使となった。もとは胡弘立であり、勇武なこと軍に冠たるものがあり、人々は恐れた。は楊復恭を退けようと思ったが、乱となることを恐れ、そこで丁寧に「卿の家の胡子はどうしている。私は殿内を守らせたいと思う」と言い、楊復恭は楊守立を帝に謁見させ、姓を李、名を順節と賜い、六軍の鍵を管理させ、恩寵は甚だしかった。権勢が等しくなると、遂に楊復恭と争い恨んで互いに中傷し、楊復恭の私事を暴露した。

  楊復恭は常に肩輿(肩で担ぐ輿)で太極殿に来ていた。宰相は延英殿で対面し、叛臣の事を論じた、孔緯が「陛下の左右にまさに背こうとしている者がいます」と言うと、は驚いた。孔緯は楊復恭を指さした。楊復恭は「臣はどうして陛下に背く者なのか」と言うと、孔緯は「楊復恭は、陛下の家奴であるのに肩輿で前殿に至っている。広く勝手気ままな連中を採用しては全員を楊姓としているのに、背いていないというのか」と言った。楊復恭は「兵士の心を収めて天子を補佐しようと思っているだけだ」と言うと、帝は「本当に兵士の心を収めようと思うなら、どうして李姓を借りないのか」と言ったが、楊復恭はこれに答えることはなかった。すぐに孔緯は京師からだされて江陵太守となったが、そこで人に孔緯を長楽坡で襲わせ、その旌節を斬り、財物はすべてつくされたが、孔緯はかろうじて免れた。

  楊復恭の子の楊守貞を龍剣節度使、楊守忠を洋州節度使とし、皆自ら貢賦を勝手にし、上書して朝政を馬鹿にして軽んじた。大順二年(891)、楊復恭の兵権を罷免し、京師から出して鳳翔監軍としたが、あえて行かず、そこで致仕を願い、詔して裁可され、上将軍に遷り、几杖を賜った。使者が帰還すると、腹心を派遣して使者を道中で殺害し、商山に逃れ住んだ。にわかに京師に入って昭化坊の邸宅に住み、邸宅は玉山営に近く、子の楊守信は玉山軍使となっており、しばしばご機嫌伺いのため出入りしていた。ある者が、楊復恭父子がまた謀反を企てていると密告し、当時、李順節が鎮海軍節度使・同中書門下平章事を遥任しており、詔して神策軍使の李守節とともに衛兵を率いて楊復恭を攻撃させ、使者を殺した罪を取り締まらせ、延喜楼に御して待機した。家人は戦って防ぎ、楊守信もまた兵を率いて昌化里に到り、陣を敷いて待機した。日没になると、楊復恭は楊守信とともに一族をあげて出奔し、遂に興元府に走った。

  李順節は楊復恭を排斥し終わると、横暴となり、出入りするのに兵を従え、神策両軍中尉の劉景宣西門重遂はその思いが常ならざるを察して、上聞した。詔があって李順節を召還すると、たちまち完全装備の兵士三百で入ってきて、銀台門に到着すると、誰何して止め、劉景宣が李順節を引き連れて殿廡に座らせると、部将の嗣光審が出てきて李順節を斬ったから、従者は大騒ぎし、延喜門を出て、永寧里を掠奪し、夕方になって止んだ。賈徳晟は李順節とともに天威軍使となっており、李順節が誅殺されると、非常に憤って恨んだから、西門重遂はまた奏上して賈徳晟を誅殺した。

  ここに鳳翔の李茂貞・邠州の王行瑜・華州の韓建・同州の王行約・秦州の李茂荘が同じく楊守亮が叛臣を匿っていると弾劾し、出兵して討伐することを願い、兵糧は度支の出費を仰がないとした。李茂貞は山南招討使に任命するよう願った。諸官はこのようなことがなかったと不可を述べ、もまた李茂貞が山南を得ると制することが難しくなるとし、詔して両者を和解させようとした。李茂貞は楊復恭を弾劾して自ら隋の諸孫であると称し、恭帝が唐に禅譲したから、名を復恭としたのであって、謀反の証拠は明白であるとし、また楊守亮の官爵を削るよう願った。遂に勝手に王行瑜とともに討伐に出兵し、自ら興元節度使と号し、宰相の書簡をあざむいて、傲慢不遜で臣従しなかった。帝はそのため詔を下して、李茂貞・王行瑜に討伐させた。景福元年(892)、その城を陥落させ、楊復恭・楊守亮・楊守信は閬州に逃げ、李茂貞は子の李継密に興元府を守らせた。吏部尚書の徐彦若に詔して鳳翔節度使として、李茂貞を興元節度使としようとしたが、李茂貞は拝受せず、李継密を留後とするよう願った。帝はやむを得ず、節度使を授けたが、これより李茂貞は始めて強大となったのである。

  楊復恭は楊守亮らと共に閬州より北は太原に逃げようとし、商山に走ったが、乾元に到着すると、韓建の巡邏兵に捕らえられ、ただちに楊復恭・楊守信は斬られ、檻車で楊守亮を京師に護送し、長安の市で梟首した。李茂貞は楊復恭と楊守亮の書簡を進上し、「承天門は、隋家の旧業の地である。我が子よ、ただ粟を蓄えて兵士を訓練するべきであって、どうして進奉しようとするのか。私は荒野を切り開いて天子を擁立したが、即位するや、ただちに定策国老(試験管となる国家の元老)を廃しようとする。どうして心に背く門生があろうか」と述べているが、門生とは天子のことを言っているのであり、その臣ではない態度はこのようであった。仮子の楊彦博が太原に走ってその死体を葬り、李克用は彼のために名誉回復を言上し、詔して官爵が復された。


  劉季述は、もとは微賎の身であったが、 僖宗昭宗の治世の間、次第に名が顕れ、枢密使に抜擢された。楊復恭が排斥されると、西門重遂を右神策軍中尉・観軍容使とした。当時、李茂貞は興元府を得て、いよいよ跳梁跋扈して反抗的であり、宰相の杜譲能は内枢密使の李周𧬤および西門重遂とともに謀って誅殺しようと、軍を起こし、嗣覃王李戒丕(李嗣周の誤り)を京西招討使とし、神策大将軍の李鐬を副使とした。李茂貞は兵を率いて盩厔に立て籠もって迎え撃ち、興平に迫って、王師は壊滅した。遂に臨皋に迫って陣を敷き、にわかに杜譲能らの罪を申し上げたから、京師は震撼し、帝は安福門に座して、西門重遂・李周𧬤を斬って李茂貞に謝り、改めて駱全瓘劉景宣を代わりに両神策軍中尉とした。乾寧二年(895)、李茂貞は王行瑜韓建とともに兵をもって入朝し、李克用は軍を率いて李茂貞を討伐し、渭北に行った。同州節度使の王行実は京師に逃げ、劉景宣らに向かって、「沙陀の十万がやって来ました。天子を奉って京師から出て行幸してその攻撃を避けさせてください」と言い、劉景宣は李茂貞と親しかったから、そのため駱全瓘は鳳翔の衛将の閻圭と共に帝を脅して岐州に逃れようとし、王行実および劉景宣と子の劉継晟は、火を放って東市を掠奪し、帝は承天門に登ったが、矢で楼閣を狙った。帝は恐れて、日暮れに莎城に出て、兵士・民衆で従う者は数十万となった。谷口に到着したが、暑気あたりで死んだ者たちが十人中三人におよび、夜に盗賊のために、鳴き声が山に響いた。石門に移った。李茂貞は恐れ、そこで駱全瓘・劉景宣および閻圭を殺して自ら弁明した。天子が京師に帰還すると、景務修宋道弼が代わり、にわかに国家を専横した。宰相の崔胤はこれを憎んだが、徐彦若王摶は災いを恐れて弁明せず、しばらく崔胤を抑えて北軍と和解した。崔胤は怒り、王摶が宦官の与党となっており、不忠であると弾劾し、罷免して去らせ、にわかに死を賜った。宋道弼を驩州に、景務修を愛州に流したが、二人とも灞橋で死んだ。徐彦若を南海に追放した。そこで劉季述・王仲先を左右中尉としたが、崔胤を悩ませること非常に甚だしかった。

  当時、は酒を飲んでは、怒って左右を責めることはたびたびで、劉季述らはいよいよ自身の身が危険だと思うようになった。これより先、王子が病となり、劉季述は内医工の車譲・謝筠を引き入れたが、しばらくたっても出て来ず、劉季述らは共に、宮中は妄りに人がいる場所ではないと帝に申し上げたが、帝は受け入れなかったものの、詔して宮中に張り出すことを禁止しなかった。これによって帝には謀があるのかと疑い、そこで外部で朱全忠と兄弟となることを約し、従子の劉希正を派遣して汴邸官の程巌と帝を廃しようと謀した。たまたま朱全忠は天平節度副使の李振を派遣して上京して協議させ、程巌は、「主上は厳格かつ苛烈で、内外が恐れており、左軍中尉は暗君を廃して明君を立てようとしている。どう思うか」と尋ねると、李振は「百歳の家奴が三歳の郎主に仕えるのは、常のことである。国を乱すのは不義で、君を廃するのは不祥であるから、私はあえて聞かなかったことにする」と言ったから、劉希正は大いに阻まれてしまった。

  は夜に苑中で狩猟し、酔って侍女三人を殺し、翌日時間になっても、門は開かなかった。劉季述は崔胤に面会して、「宮中は複雑怪奇である」と述べ、王仲先とともに王彦範薛斉偓李師虔徐彦回を率いて衛士千人とともに関を壊して侵入し、謀を成し遂げようとしたが、結果が出ていなかった。この夜、宮監は密かに太子を確保して宮中に入り、劉季述らはそこで何皇后の令だと偽って「車譲・謝筠はお上に殺人を勧め、災禍を祓い塞ぎ、皆大いに不道である。神策両軍軍容使はこれを知って、今皇太子を立てて、社稷の主とする」と述べた。夜明けになると、兵を宮中にならべ、宰相に向かって「お上は行ってきたことはこのようであり、社稷の主ではない。今太子を群臣に見えさせるべきである」と言い、そこで百官を召集して署名させたから、崔胤は反対することができなかった。劉季述は皇太子を護衛して紫廷院に到着し、左右神策軍および十道邸官の兪潭・程巌らは思玄門に詣でて対面を願い、兵士は皆万歳を叫んだ。思政殿に入り、遭遇する者はたちまち殺された。帝は乞巧楼に御座しようとしていたが、兵が入るのを見て、驚いて牀(ねどこ)から落ち、逃げようとしたが、劉季述・王仲先が帝を座らせ、持っていた飾り杖で地面に書いて帝を責めて、「某日某事、お前は我々に従わなかった。罪の一つ目である」と言い、数十になったところでも止めなかった。何皇后は出てきてひたすらに拝礼して「帝を守り、怖がらせてなりません。もし罪があれば、観軍容使が議するだけでよいではないですか」と言い、劉季述が出てくると百官は奏じて、「陛下はご乱心で、お勤めに倦まれています。願わくば太子を奉って監国とし、陛下は東宮にてお休みになられますよう」と言い、帝は「以前にお前たちと飲んだときはとても楽しかった。どうしてこのようになったのか」と言うと、何皇后は「陛下、軍容(劉季述)の言った通りですよ」と言った。宮監が帝を抱えて思政殿を出て、何皇后に「軍容は一心に唐室を護持しようとしており、お上は病の静養をしてください」と提案すると、帝もまた「朕は長い間病んだから、太子を監国としよう」と言い、程巌らは皆万歳を叫んだ。何皇后は伝国の宝を劉季述に授け、帝は輦車に乗り、左右十人あまりと、入って少陽院に幽閉された。劉季述は金属を溶かして鍵穴を埋め、李師虔は兵で守った。太子は武徳殿で即位し、帝を太上皇と、何皇后を太上皇后と号し、天下に大赦し、東宮官属で三品の者は爵一級を、四品以下は一階を、天下で父の後を継承する者には爵一級を賜い、群臣は爵秩を加えられて厚く賜い物をし、媚びるようとして上下に付き従った。東宮を問安宮に改めた。劉季述らは皆まず誅殺して権威をたて、夜は笞打ちし、昼には死体が十輦も出され、だいたい帝の寵があった者は、ことごとく杖殺された。帝の弟の睦王を殺した。李師虔は非常に調査が厳しく、左右の者が出入りして搜索し、天子の動静はたちまち劉季述に報告された。帝は衣を昼に着て夜に洗い、食は壁にあけた穴から与えられ、下は筆・紙・銅・鉄にいたるまで、詔書や兵器をつくると疑わしき者は、すべて与えなかった。季節は寒くなろうとしている時で、公主や嬪御は寝具がなく、悲しみの声は外廷まで聞こえてきた。

  崔胤は危機を朱全忠を告げ、朱全忠の兵で君側の奸を除こうとしたが、朱全忠は崔胤の書簡を封じて劉季述に与え、「彼は表裏があるから、よくよく考えるべきである」と述べると、劉季述はこれによって崔胤を責めた。崔胤は「悪者が書簡を偽ることは、古来からあることである。必ず罪となるから、誅殺が一族に及ばないようにしてほしい」と言うと、劉季述は心変わりし、そこで崔胤と盟を結んだ。崔胤は朱全忠に謝して、「左軍は崔胤と盟して、互いに攻撃しないことになりましたが、僕は心を公に帰しています。あわせて二人の侍児を送ります」と述べ、朱全忠は書簡を読むと、「劉季述は私を裏表ある人間としようとしている」と怒り、これより始めて劉季述と朱全忠は心離れした。劉季述の子の劉希度は汴にやって来て、帝の廃立の計画を伝え、また李奉本を派遣して太上皇の誥をもたらして示したが、朱全忠は疑心暗鬼となって決定できなかった。李振は入見して、「豎刁・恵墻伊戻の乱は、霸者の助けとなりましうた。今宦官どもが天子を拐って幽閉しており、公は討たなければ、諸侯に号令をかけることはないでしょう」と言い、そこで劉希度・李奉本を捕らえ、李振を派遣して京師に到着して崔胤とともに謀した。

  この時、劉季述は百官のことごとくを誅殺しようとし、そこでを弑逆し、太子を擁して天下に号令しようとした。都将の孫徳昭董従実が銭五千緡を私的に横領し、王仲先が大勢で辱め、その賠償を督促し、連座する者は非常に多かった。崔胤はその不満に分け入り、「神策両中尉(劉季述・王仲先)を殺し、太上皇を迎えて、大功を立てることができれば、どうして小罪なんぞ恥じるに足ろうか」と言い、また客人を派遣して密かに孫徳昭に告げ、帯を割いて内に密書を入れて意を通じた。孫徳昭は別将の周承誨を迎え、十二月晦日を期して、兵士を安福門に伏せて夜明けを待った。王仲先は肩輿(肩で担ぐ輿)で朝廷にやって来ると、孫徳昭らは襲撃し、東宮の門外で斬って、少陽院を叩いて「逆賊を斬った」と叫んだが、帝は疑って信じず、何皇后が「賊の首を献じなさい」と言うと、孫徳昭は王仲先の頭を投げて進上したから、宮人は扉を壊し、出て長楽門に御し、群臣は祝賀した。周承誨は走って左軍に入り、劉季述・王彦範を捕らえて楼前に到り、崔胤がまず京兆尹の鄭元規に命じて一万人を集めて大きな棍棒をもたせ、帝は劉季述を詰って終わることがなかったから、一万人の棍棒を持った者が皆進み出てきて、劉季述・王彦範の二人は同じく棍棒で叩かれて死に、遂に死体となった。神策両軍の支党の死者は数十人となった。中官は太子を奉って逃げて神策左軍に入り、伝国の璽を収めた。薛斉偓は井戸に身を投げて死に、その死体を引き出して斬った。朱全忠は程巌を護送車にて京師に送り、市で斬った。劉季述らは三族皆殺しとなった。孫徳昭を検校太保・静海軍節度使とし、董従実を検校司徒・容管節度使、並同中書門下平章事とし、賜姓を李氏、名を継昭・彦弼とそれぞれ賜った。周承誨もまた検校司徒・邕管節度使となり、宰相の秩禄を与えられた。全員が「扶傾済難忠烈功臣」と号し、肖像を凌煙閣に描かれ、宿衛に留めることおよそ十日で退去し、内庫の珍宝を尽くして賜った。当時の人は「三使相」と号し、人臣として比類なかった。

  それより以前、延英殿で宰相が上奏を行うと、帝が可否を決済したが、枢密使が立って侍っており、一緒に聞くことができたから、帝が出ていくと、あるいは上旨を偽ってそうではないといい、しばしば改変して権勢で捻じ曲げていた。ここに至って、詔して大中の故事のように、延英殿で奏面する際には、神策両軍中尉はまず殿中から降り、枢密使は勅旨を延英殿の西で待ち、宰相の奏事が終わってから、案前で受ける事となった。李師虔は屏風の後ろで宰相の奏上を記録するよう願ったが、帝は越権行為だとして許さず、詔を下して徐彦回と一緒に誅殺した。


  韓全誨張彦弘は、出身場所はわからず、二人とも鳳翔軍の監軍となった。艦韓全誨は京師に入って内枢密使となった。劉季述が誅殺されると、崔胤陸扆武徳殿の右廡で謁見し、崔胤が、「宦官が兵権を掌握してから、王室はいよいよ乱れました。臣を神策左軍の主にしていただき、陸扆を神策右軍の主としていただけましたら、四方の藩臣はあえて謀しないでしょう」と言ったが、昭宗は意を決しなかった。李茂貞がある人に向かって「崔胤は軍権を奪おうとしたが、まだ手中にはない。思いは藩鎮を滅ぼすことにあるだろう」と言い、はこれを聞くと、李継昭らを呼び寄せて、崔胤が要請するところがどうであるか尋ねると、「臣は代々軍にありますが、書生が衛兵を主どることを聴いたことがありません。また罪人はすでに一掃されたのですから、軍還を北司(宦官)の便に返すべきです」と答えたから、帝は崔胤に向かって「議論は同じではないから、軍を主されることはできない」と言い、そこで韓全誨を左神策軍中尉に、張彦弘右神策軍中尉とし、それぞれが驃騎大将軍を拝命し、袁易簡周敬容を枢密使とした。崔胤は怒り、京兆尹の鄭元規に約して人を送り込んで殺そうとしたが、果たせなかった。韓全誨らは崔胤が必ず自身を除くまで終わらないと知り、そこで李茂貞をほのめかして兵士四千人を選んで宿衛に留め、李継筠李継徽に統べさせた。崔胤もまた朱全忠にほのめかして兵三千を入れて南司におらせ、婁敬思に司らせた。韓偓が交々守っているのを聞いて、しばしば崔胤を諌止したが、崔胤は「兵が去ることをよしとしないだけだ」と言うと、韓偓は「それならどうして召されたのか」と言ったから、崔胤は答えなかった。議論する者は京師が再び安全ではないことを知ったのである。

  韓全誨・張彦弘および李彦弼は勢力を合わせて思い通りに横暴となり、宦官は頼って自然と驕慢となり、は不服であり、追放しようという者があっても、皆行動を起こすことをよしとせず、崔胤は厳しく宦官全員を誅殺することを願った。韓全誨・張彦弘は帝に謁見して哀願したから、帝は左右が発言を漏らしているのを知り、初めて詔して奏上を袋に入れて封じることとした。宦官は改めて美女で字がわかる者数十人を集めて、帝に侍らせて偵察させ、これによって崔胤の計略の多くは露見した。

  それより以前、張濬が判度支となり、楊復恭は軍費が乏しいから、奏上して仮に塩麴一年分を用度に当てたいと願ったが、遂に元通りにはならなかった。崔胤が宰相となると、そこで度支の財源が尽き百官の給料がなくなったと申し上げ、旧制のようにするよう願った。韓全誨は、李継筠が軍中の蓄えを莫大にしていると摘発し、三司を割いて神策軍に属させるよう願った。は退けることができず、詔して崔胤を罷免して塩鉄使とし、崔胤はこれを恨んだ。

  韓全誨らはが自身を誅殺するのではないかと恐れ、李継誨李彦弼李継筠とともに交々通じて乱を謀った。帝は令狐渙に尋ねると、令狐渙は崔胤および韓全誨らを呼び寄せて内殿で宴し和解させることを願った。韓偓は、「一・二の権臣を斥け、他の人を許して自ら刷新させることを現すのにこしたことがなく、謀は必ず止むのです。そうでなければ皆自ら疑い、禍いはまた加速し、和解したといっても、横暴はますます激しくなるのです」と述べたから、帝はそこで沙汰止みとした。

  この時、朱全忠は河中を併合し、崔胤は緊急の詔を発し、入朝させようとし、また書簡を送って「お上が正しい道に戻るには、公の力が必要ですが、鳳翔が入朝すれば、功によって自ら帰順するでしょう。今もし後にやって来れば、必ず先に討たれてしまいます」と述べ、朱全忠は詔を得ると、汴州に帰還し、全軍で韓全誨を討伐することとした。は忠義だと思い、またその事を李茂貞と同じ功績としたいと思い、そこで詔して力をあわせさせようとした。崔胤に二鎮(朱全忠・李茂貞)に書簡を遅らせ、帝の意思を示した。朱全忠は同州を奪取し、汴の兵はおよそ七万で、威を関中に震わせた。韓全誨らは泣いて奏上して「朱全忠がまたやって来れば、陛下を脅して関東に行幸させ、禅譲させようと謀るでしょう。臣は高祖の天下が他姓に移るのを見るは忍びありません、鳳翔に行って、義兵を合わせて悪の源を討つのを願うのです」と言ったが、帝は許さなかった。帝は乞巧楼にいたが、韓全誨は急派し、ただちにその下に放火し、帝は乞巧楼を降り、そこで西への行幸を決定した。李彦弼らはまだ帝が駕に乗らないから、いよいよ道理にはずれたことをし、宮中への捜索は苛烈で慌ただしく、帝はと共に互いに見つめては泣き、宮人は密かに逃げて都から出て、民は騒動し、ある者は開化坊に走って崔胤の邸宅を頼って自らを守り、村々では家に留まる者はいなかった。鳳翔軍は左神策軍の兵とともに大衢に陣取り、長楽門の外は廃墟のようであった。この日のおいて南にやって来るも、百官は朝廷には来ず、帝は思政殿に御座した。その時李彦弼は鳳翔よりも先に入って、韓全誨は帝に迫って出させ、ここに何皇后・諸王を数百騎で護衛とし、帝はすべてを刺繍した袍と金色に塗った帽子を着用し、右神策軍に従った。時に天復元年(901)十一月壬子のことであった。韓全誨らは遂に宮城に放火し、李継誨・李彦弼らは百官を拐って天子に従えようとしたが、李徳昭らが兵を擁して守ったから、免れることができた。李茂貞は帝を盩厔県に居らせた。

  朱全忠は華州を奪取し、下令して自ら弁明して「私は詔を受け、そして宰相を書簡に入朝するようにあったから、そこでやって来たが、すべてが偽りであった。逆臣の韓全誨が天子を震え脅かし、乗輿を脅して出遷し、草むらにさらしている。私は朝廷に入って問いただし言上すべきである」と言い、その時公卿は全員が長安にあり、数日朝廷の詔勅が聞こえなかった。崔胤王溥に朱全忠に面会させて「お上はなおも盩厔県にあって、公は速やかに進撃されるべきです」と言い、群臣盧知猷らは朱全忠に意見陳述書を提出し、西に向かって天子を迎えるよう願ったが、「進めば君主を脅かすかのようであり、退ぞけば国に背くことになる。しかし私が頑張れねばならんのか」と答え、崔胤は百官を率いて朱全忠を灞橋で迎え、入って長安に泊まり、一晩して西に向かった。

  李茂貞朱全忠がやって来たことを聞くと、を鳳翔に入れ、臣下で従う者はわずかに三・四人であった。朱全忠は楊達・裴鑄を派遣して鳳翔に入れ、天子に上表文を献った。汴の部将の康懐英李継昭(符道昭の誤り)を武功で襲撃して破り、捕虜・斬首六千級を得た。韓全誨は恐れ、李克用に救援を願った。李克用は朱全忠に書簡を送り、崔胤を捕らえ、全国の誹謗を雪ぐよう勧めた。朱全忠は答えず、進撃して鳳翔の東よりに駐屯した。李茂貞は城壁の上に登って「天子は禍を嫌ってここに居られる。讒言する人に誤またれて公は来られた。公はただちに入覲すべきである」と語りかけたが、朱全忠は「宦官が乗輿を脅迫した。私は兵で罪に問い、お上を迎えて東還しよう。は同謀の者ではない。なおもどうしてこのようなことを言うのか」と言い、翌日、鳳翔を包囲したが、李茂貞は出なかった。帝は宦官を派遣して朱全忠に軍を戻すよう勅したが、詔を奉らなかった。使者は再び言ったが、朱全忠は命令を聞いて、兵を引き上げて邠州を攻略した。李継徽は城を守ること三日で、降伏し、その妻を人質とし、再び李継徽に守らせ、軍を返して三原に陣を敷いた。崔胤は鄭元規とともに三原にやって来て、朱全忠を説得した。朱全忠もまた自ら李茂貞が戦おうとしていると聞いていたから、遷って渭北に陣を敷き、高原によって、戦ったが勝てなかった。朱全忠は夜に盩厔県に入り、藍田県を陥落させ、再び三原に駐屯した。

  当時、李克用が慈州・隰州を攻撃して鳳翔を救援し、朱全忠は河中に帰還した。李克用の部将の李嗣昭が戦ったがしばしば不利となり、朱全忠は晋州・汾州の二州を奪取し、李嗣昭は逃れて河東に帰還した。朱全忠は「この李茂貞が頼っていたものは、今敗れたぞ。どうして長い時間なぞかけてられようか」と言い、崔胤もまた朱全忠に説得して「宦官はを擁してに入ろうとしています」と言い、そして涙を流した。朱全忠はその手をとって、そこで天子を迎える計略を定めた。その時、朱友寧が岐兵を莫父で破り、居人は全員入って自ら保全した。朱全忠は精兵の兵士五万で李茂貞と決戦し、岐兵は敗れ、倒れた死体は一万あまりとなり、李茂貞は帳下の八百人を捕らえて、城を守らせ、夏から冬まで、兵は連って任務から解くことができず、勝敗は互いに補っていた。援軍は十回あまり阻まれ、しばしば朱全忠のために襲撃され、進むことができず、城中は日々困窮した。朱全忠はこれによって鳳州・鄜州・坊州・成州・隴州などの州を奪取し、間隙をぬって略奪して兵糧の助けとしたから、そのため欠乏することがなかった。

  李茂貞朱全忠と密約があるのではないかと疑い、兵士を増やして宮殿を守らせた。それより以前、帝が鳳翔にやって来ると、烏数万匹が殿の樹に住み、これを「神鴉」といった。にわかに烏が来なくなり、人々は恐ろしいと思った。韓全誨らは小人で権勢に陰りをみせ、更に互いに怨みあい、また遠慮しなかった。その当時、財物は貧窮し、帝は御膳をやめて韓全誨らに賜い、三度謙譲すると、帝は「得難い時は味を同じのを欲するだけだ」と言った。李茂貞が魚の膾を食べると美味かった。帝は「これは後ろの池の魚だ」と言うと、李茂貞は「臣は魚を養って天子に差し上げましょう」と言い、聞いた者は皆驚いた。

  ここに朱全忠の軍は東城を攻め、橋を焼き払って激戦となり、部将の李継寵は出てきて降伏したから、李茂貞は恐れ、密かに宦官を誅殺して難を緩めようと謀った。まず書簡を送って「禍乱が生じたのは、韓全誨が首謀者である。変は急におこり、そのため天子を迎えてここに至ったのである。また公が到着する前に、他の盗賊どもが迫ってくるのを恐れたのだ。公の志は社稷を助けることにあるから、乗輿を奉って宮中に帰ってもらいたい。僕の願いはこれによって我が軍が従うことだ」と述べ、朱全忠は許諾したが、軍はしばらく城に迫り、大いに叫ぶ者が三人いて、岐軍は全員塹壕へと逃げ、戦う意思がなかった。は召李茂貞・韓全誨・李彦弼および宰相の蘇検・李継岌・李継忠を召還して議し、和議はすでに決定し、宦官もまた阻まれて罷免された。

  他日、李茂貞らを召還して、「十六宅にいた諸王は毎日餓死者を奏上してきたが、それは十人中三人にもなり、王・公主・夫人全員の食事は一日おきになっている。今またそれすらも尽きようとしているが、どうすればよいか」と言うと、皆あえて答える者がいなかった。衛兵十人が左銀台門を叩き、韓全誨を遮って「一州が破られて、餓死者は十万、ただ軍容が数人いるだけだ」と罵ったから、韓全誨は李茂貞のもとに詣でて叩頭して訴えたが、李茂貞は「兵卒がまた何を知っているというのか」と謝っただけであった。また帝に訴えたが、帝は許さなかった。李継昭(符道昭の誤り)は韓全誨に会って「昔、楊軍容楊守亮一族を破滅させたが、今驃騎(韓全誨)もまた我が一族を破滅させるのか」と罵り、そこで出て降伏した。宦官はしばしば援軍がやって来たと伝えて、皆互いに祝賀しあったが、百姓は「我々を欺くのか」と笑った。

  この時、朱全忠は四鎮の兵を合わせて十万あまりで、陣地・堡塁は互いに連なり、昼夜攻撃した。外兵は守備兵を罵って「天子を攫う賊」と言い、守備兵は外兵を罵って「天子を奪う賊」と言っていた。諸鎮は崔胤の檄文を見て、皆懐疑的になって軍を出さず、ただ青州節度使の王師範は兗州を奪取して、華州を襲撃し、李克用は晋州を攻撃してこれによって援軍とした。朱全忠は恐れ、包囲はますます厳しくなった。韓全誨らはもとより陰険かつ欺瞞的であり、常に朱全忠・崔胤に嫌われていたから、そこでまず先に韓全誨を殺すことを願い、これによって天子を迎えようとした。帝はすでに宦官が移転を脅迫したことを憎んでおり、李茂貞もまたその党であり、朱全忠は表向き帰順を示しているが、遂には正道にさからってるから、全員たよるべきではなかった。襄州・漢州に逃れようとし、趙匡凝を頼ろうとしたが、できずに去り、そこで計画を定めて朱全忠に帰し、緩めようとしてかえって惨禍を近づけることとなった。

  天復三年(903)正月、李茂貞は使者を派遣して朱全忠の軍を説諭することを願い、崔構に詔して宦官の郭遵誨をさしはさんで行くことなり、出発すると、また宮人の寵顔に命じて朱全忠に会見させ、密旨で説諭し、そこで蒋玄暉が入衛することとなった。二日、李茂貞は一人謁見し、日暮れに到り、韓全誨・張彦弘は非常に怨み、食事をしたが、匙をもつこともできず、自ら権勢が去ったのを見て、計略も用いるところもなく、頭を垂れて気を喪った。帝は韓偓を召して東横門で謁見し、手をとって涙を流し、帝は「今はまず四大悪が去り、他は次に誅殺しよう」と言った。ここに宦官八人に朝廷中に候って命を授け、二人ごとに衛士十人で一首を取り、にわかに韓全誨・張彦弘・袁易簡周敬容は全員死んだ。そこで第五可範に詔して左軍都尉とし、王知古・揚虔朗を枢密使とし、王知古に上院を領させ、楊虔朗に下院を領させた。李継筠李継誨李彦弼は全員誅殺され、李茂貞はその輜重を奪った。この夜、内諸司使の韋処廷ら二十二人を誅殺し、ことごとく首を布袋に入れ、蒋玄暉・学士の薛貽矩に詔して朱全忠に送り、「これはすべて乗輿を東に向かわせることをよしとしない者たちである。既これらを斬った」と述べ、朱全忠は大いに喜び、全軍中に布告し、姚洎を岐・汴通和使とした。朱全忠は李茂貞に書簡を送って、「宦官は城壁の上に乗って罵ることやまず、「の命を受けた」と言っているが、本当か」と述べると、李茂貞は恐れ、また小使の李継彝ら十人を誅殺して、ここに砦の門を開いた。朱全忠はなおも北累を攻め、帝は寵顔を派遣して御巾箱・宝器を賜い、戦争をやめさせた。また中官七十人を殺し、朱全忠もまた京兆府に与党百人あまりを殺させた。

  天子朱全忠の軍に入り、朱全忠は頭に泥をつけて拝み素服を着て、客省で罪を待ち、伝呼して三仗(勲杖)を取り払うと、詔があって朱全忠の罪を許し、朝服で謁見させた。朱全忠は地に伏せて泣いて、「老臣の位は将相にいたるも、勤王には実態がなく、陛下にこのようなことに遭わせてしまったのは、臣の罪です」と言い、もまた嗚咽し、韓偓に命じて起こさせ、玉帯を解いて賜り、呼び寄せて食事した。帝は衛兵を振り返ると、ある者は怒りを発しており、そこで履紐を解き、朱全忠に目配せして「私のために結べ」と言うと、朱全忠は跪いて履紐を結び、汗で背中は濡れていたから、左右の者はあえて動くことはなかった。この夜、帝は三度朱全忠を呼び寄せたが、すべて辞退し、朱友倫は兵で帝を守った。

  李克用は軍を引き揚げ、帝も京師に帰還した。崔胤朱全忠は議して、第五可範ら八百人あまりを尽く内侍省で誅殺して、悲しみ叫ぶ声は道にまで聞こえ、留まったものはわずか数十人で、宮中の掃除に備えさせた。崔胤は藩鎮の人の性格が謹厚であるから、そこで王鎔に詔して五十人を選ばせて勅使とし、内諸司宦官が主領していた者はすべて罷免した。ここに諸道監軍に迫って、所在の地で死を賜い、その財産は没収した。詔して、宦官が脅して昭宗を遷したことと朱全忠が乗輿を迎えた顛末を藩鎮に告げ、監軍院を罷免し、すべて国初の故事のように、宦官は三十人を定員とし、黄衣を着て、養子を禁じた。内諸司はすべて省・寺に戻し、神策両軍・内外八鎮の兵はすべて六軍に属させたあ。朱全忠が汴州に帰還すると、帝は第五可範らが無実なのを、非常に悼み、文をつくって祭った。これより宣伝詔命は、すべて宮人がおこなった。

  それより以前、劉季述が廃立を専らにしたが、宦官は全員がためらった。帝が正しきに戻ると、劉季述および薛斉偓の数族を誅殺したのみであり、その他は命を許して不問とした。またこれを悔いて、後に少しばかりして皆殺ししたいと思うようになり、宦官らは次第に不安になった。当時、帝は幽閉の屈辱にこりて、種々の政務によく心を励まし、しばしば群臣を召見しては治道を尋ね、志は中興にあった。しかし韓全誨・崔胤が権力をめぐって争い、外は強臣を招き、朝廷を脅かして互いに噛みつきあい、ついに関東の軍を用いてそれを討伐して凶徒を誅滅し、君側は清らかになったとはいえ、朱全忠の勢いは遂に伸長し、帝はついに弑逆されることになり、唐室が滅んだのは、その禍いは韓全誨・張彦弘が根本にあったのだといわれる。


  賛にいわく、袁紹は常侍を誅殺して思い通りとなって、曹操は漢を移した。崔丞相軍容を血祭りにあげて甘心したが、朱温が唐を簒奪した。大抵、権力を外部に借りると、これによって内部は悪人を騒がせることになり、そこで大臣は専横し、王室は卑しくなるのである。漢・唐は互いに五百年隔たっているが、乱がおこって滅亡の道を取るのはなお同じ一轍を踏むかのようであり、天が廃したものではなく、人の謀がかえって逆効果になってそうなってしまったのではないだろうか。


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最終更新:2025年01月19日 01:27
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