唐書巻七十六
列伝第一
后妃上
太穆竇皇后 文徳長孫皇后 徐賢妃 王皇后 則天武皇后 和思趙皇后 韋皇后 上官昭容 粛明劉皇后 昭成竇皇后 王皇后 貞順武皇后 元献楊皇后 楊貴妃
唐制では、皇后の下に、貴妃・淑妃・徳妃・賢妃があって、これを夫人とした。昭儀・昭容・昭媛・修儀・修容・修媛・充儀・充容・充媛があって、これを九嬪とした。婕妤・美人・才人がおのおの九人いて、合わせて二十七人、これを世婦に代えた。宝林・御女・采女がおのおの二十七人いて、合わせて八十一人、これを御妻に代えた。そのほかの六尚は、乗輿・服御を分けて司り、すべて人数・等級があった。後世改めることはまた常ではなかった。開元年間(713-741)、后の下にまた四妃とそうではないのを置き、すなわち恵・麗・華の三妃、六儀、四美人、七才人を置いて、尚宮・尚儀・尚服はそれぞれ二名、以前の称号を符号し、大抵踵周官をついでそれぞれ増減したといい、だからこそ尊ばれたのである。
礼は夫婦を根本とし、詩は后妃から始まり、治乱はこれにより、興亡はこれにかかるのである。盛徳の君は、帷幄や簾の中は奥深く、女官たちの閨での願いは朝廷を荒立てず、外からの言葉は女性の内室には入らなかった、「関雎」(『詩経』の一篇)の風が行われると、女官の化が修まり、そのため善行の良好な模範となり、さらに内助となるのである。しかしながらもしも寵愛の興りが、常に才徳が中程度の君主にあったのである。寝台の上での交わりは、ただちに情が愛とともに遷りゆくのである。顔つきも言葉は媚びこなれ、そこで政事は私のために奪われた。暗きを変えての明に乗じ、不断の柔を牽き、険しい発言は忠誠の言葉に似たから、そのため受けても詰じられず、醜い行いは忠誠をしたとされ、かえってなれて親善をなすのである。左右に従わせ、奸計を企む小人はこれを当てにし、狡猾な策謀はその先を悟った者の口を閉じさせ、哀しい誓いは寵愛の最初に閉じさせ、天下の事はすでに去って、平然として自覚せず、これは武氏・韋氏が簒奪・弑逆を行って王室を失わせる原因となったのである。楊氏が死ななければ、
玄宗はその謀に乱された。
張皇后が宦官を制すれば、
粛宗はほとんど襟を正すところであった。ああ、嘆くべきであろうか。唐も中葉以降、時々そのような事例が多くなり、外には征討の勤めがあり、内は美しさに溺れて私にする者が少なく、宦官たちが朋党をつくって勢力を進め、外戚の権勢は、后妃に大きな善悪がなく、職位が充たされたことを取るだけであり、そのため列べて篇を著した。
高祖の
太穆順聖皇后竇氏は、京兆郡平陵の人である。父の竇毅は、北周にあって上柱国となり、武帝の姉の襄陽長公主をめとって、隋に入って定州総管・神武公となった。
后は生まれたとき、髪は垂れて首より長く、三歳の時には身長と同じであった。『女誡』・『列女伝』などを読み、一度読めば容易く忘れることはなかった。武帝は可愛がり、宮中で養い、他の甥たちとは異なった。当時、突厥の娘を皇后としたが、寵愛がなく、后は密かに諌めて、「わが国はまだ安らかとなっておらず、敵もまた強大で、願わくば情を抑えて接してお慰めになり、これによって合従を取れば、江南・関東は我々を遮ることができません」と言ったから、武帝は褒めて受け入れた。武帝が崩ずると、哀しみ体を毀すことは実の子と同じであった。隋の
高祖が禅譲を受けると、自ら牀(ベット)の下に身を投じ、「私が男子でないのを怨みます。舅家(北周)の禍いを救うことができません」と言ったから、竇毅はただちにその口を覆って、「妄言するな。我が一族が殺されるぞ」と言い、常に襄陽長公主に向かって、「この娘は奇相があって、また見識も非凡だ。どうして簡単に人に嫁がさられようか」と言い、そこで二匹の孔雀を屏の間に描き、結婚を願う者に二矢を射させたが、目に当てた者には結婚を許すとした。射る者は数十にもなったが、皆当たらなかった。
高祖が最後に射ると、それぞれ一目づつに当たり、遂に高祖に嫁いだ。
それより以前、
元貞太后が老弱となって病となったが、性格はもとより厳しく、おおむね義姉妹は皆恐れて、あえて近侍しなかった。后は元貞太后に仕えて、一人喜んで謹んで孝を尽くし、あるいは月を越えても衣服や履物を脱がなかった。詩文や章句をつくるのを得意とし、文には雅体があった。また書をよくし、
高祖とともに書してそれぞれ交雑しても、人々はどちらであるか弁することができなかった。涿郡で崩じ、年四十五歳であった。
帝は
煬帝がいた時、多く名馬を集めていたが、后はこれを見て「
お上の性格は馬好きで、どうして献上しないのでしょうか。いたずらに留めると速やかに罪となり、無益です」と言ったが、聞き入れず、しばらくして果たして譴責された。帝は後に隋の政治が乱れているのを見て、多くの者が簡単に誅殺されたから、そこで自ら安泰となる計略をたて、しばしば鷹や犬や珍しい馬を献上すると、煬帝は果して喜び、抜擢して将軍となった。そのため泣いて諸子に向かって、「早く母の言を用いていれば、この官に長らく得られたものを」と言った。帝が天下をとると、詔して葬ったところの園を寿安陵とし、諡を穆といった。
献陵に祀ると、尊んで太穆皇后とした。
それより以前、
太宗が生まれると、二龍の符がらい、后は諸子の中で最も愛して可愛がった。太宗が後に即位すると、
慶善宮を通過すると、見てはすすり泣いて、侍臣を振り返って「朕がここに生まれたが、今母后と長く別れてしまい、私を育ててくれた恩を返すことができない」と言って慟哭し、左右の者は皆涙を流した。そこで后を正寝に享った。他日、
九成宮に幸し、夢では后が平生のようであり、目覚めると、涙が流れてどうしようもなかった。翌日、役人に詔して大いに倉を開いて貧窮者に振る舞い、これによって后のために報いた。上元年間(760-761)、諡を増やして太穆神皇后とした。
太宗の
文徳順聖皇后は、河南郡洛陽の人である。その先祖は魏の拓抜氏であり、のちに宗室の長となったため、長孫と号した。高祖父の長孫稺は、大丞相・馮翊王となった。曾祖父の長孫裕は、平原公となった。祖父の長孫兕は、左将軍となった。父の長孫晟は、字を季といい、経書を渉猟し、勇猛果敢で兵法に明るく、隋につかえて右驍衛将軍となった。
皇后は図讖を喜び、古の善悪を見て自らの鑑とし、礼法を誇示した。長孫晟の兄の長孫熾は、北周の通道館学士となった。かつて
太穆竇皇后が突厥の娘に訓戒したと聞いて、心に刻んだ。事あるごとに父の長孫晟に向かって、「この聡明叡智な人なら、必ず子も優れているでしょう。結婚しないなんてことはあってはなりません」と語り、そのため長孫晟は
太宗に娶せた。皇后が里帰りすると、舅の
高士廉の妾が二丈(6m)にもなろう大きな馬が皇后の家の外に立っているのを見て、恐れて占ってみると、坤の卦が泰の卦に変ずると出た。占いする者が、「坤(地)はよろずの物をその上に載せ尽くし、その徳は無限なる乾(天)の徳と一致する。馬は、地類である。この泰は、これは天(乾)と地(坤)が交わり和して万物の生命がすらすら通ることであり、またこれによって天地の義を助けるのだ。これによって帰妹の卦に一致するのは、婦人の事である。娘は尊位にあって、身は中庸の道を行って居順するのは、后妃の象である」と述べた。当時、
隠太子とは憎しみで関係が悪化していたから、皇后は内にあっては孝を尽くして
高祖に仕え、謹んで諸妃たちに対応したから、疑いの心は消えて解かれた。
帝が宮中で兵士たちに甲冑を授与すると、皇后は自ら慰め励ましたから、兵士たちは全員感激して発奮した。ついで皇太子妃となり、にわかに皇后となった。
性格は質素倹約で、衣服は支給された分のみで止めた。ますます書物を見ては、櫛で化粧するようなときであっても少しも止めなかった。帝とともに語り、ある時天下の事に及ぶと、「雌鶏が朝を告げると、家が窮乏するといいますが、よろしいのですか」と辞退して、
帝はそれでも意見を求めたが、ついに答えなかった。後に調停で罪を受けた者がいると、必ず帝の怒りを助けて懲罰するように要請しながら、怒りがとけるのを待って、おもむろに審判を開始したから、ついに冤罪にさせられる者がなかった。身分の低い嬪が
豫章公主を生んで死ぬと、皇后は自分が生んだ子のように育てた。皇后に近侍する者が病となると、皇后に支給されていた薬を止めて与えた。下々の者はその真心に心服した。兄の
長孫无忌は、帝とは庶民同様の交わりをし、帝を補佐して元勲たる功績をたて、寝所に出入りし、帝は引き立てて宰相にしようとしたが、皇后は固く拒絶し、機会を利用して「私は王宮に身を委ね、尊いことはすでに極まっており、私の親族がさらに朝廷の権力を手にすることを願いません。漢の呂氏・霍氏の例をみて、誡めとすべきです」と述べたが、帝は聴さず、自ら長孫无忌を用いて尚書僕射に任じた。皇后は密かに兄に諭して辞退させたから、帝はやむを得ず、そこで聴し、皇后は喜びが顔中に溢れた。異母兄の
長孫安業は不行状で、父が死ぬと、皇后と長孫无忌を母方の実家に追い出した。皇后が尊くなると、いままで上奏して音沙汰したことがなかった。将軍に抜擢されたが、後に
李孝常らとともに謀反し、誅殺されようとしたときに、皇后は頭を地に打ち付けて、「安業の罪は死罪であって赦すべきではありません。しかし彼が私への待遇に真心がなかったことは、世間が知っています。今論じて法の通り死罪にすれば、人々は必ず私が兄への怨みを晴らしたというでしょう。そうすれば皇后が介入して皇帝を巻き添えにしていないといえましょうか」と言い、ついに減刑して越巂への配流とすることができた。太子
李承乾の乳母が東宮の器物を増やすよう要請したが、皇后は「太子は徳と名があがらないことを心配しなさい。器物なんか増やしてどうするのか」と答えた。
九成宮への行幸に従ったが、その時病となった。ちょうどその時、
柴紹らが急報を告げてきたから、
帝は甲冑を着用して出動し、皇后も病身のため輿で従ったが、宮中の役人が諌めると、皇后は「
お上が驚かれたのです。私もどうして安心してられましょうか」と言ったが、病はますます重くなった。
太子が大赦して、人々の出家得度を奨励し、災いを払うよう願った。皇后は「死ぬも生るも天命であって、人の努力でどうにかなるものではない。よいことをすれば寿命が伸びるだろうと言われても、私は悪いことをしてはいない。よいことをしても効果がないのなら、私は何を求めればいいのか。また赦令は国の大事であって、仏教・老子は異国と我が国の教えであるのにすぎない。すべてお上でもどうすることもできないのに、どうして私が天下の法を乱すことができようか」と言い、太子はあえて奏上せず、このことをを
房玄齢に報告し、房玄齢は上奏し、帝は称賛した。しかし群臣は大赦することを願い、帝も許したが、皇后は厳しく諌めて沙汰止みとなった。重病化すると、帝と決別したが、その時房玄齢は少し譴責されて自邸に帰っていた。皇后は「房玄齢は長く陛下に仕え、奇計や秘密の計略を担ってきましたから、大きな理由がない限り、見捨てないでください。私の家はお上の高恩のおかげで昇進し、徳がないのに高禄をいただき、簡単に災いへの道を歩むことになるので、政治の重要な任につけることなく、外戚として朝廷で奉仕できれば充分なのです。私は生きているときには有益なことをしなかったので、死んだら厚葬しないでください。山を墳墓とし、わざわざ墳墓をつくらず、棺に外槨で覆わず、暗器は瓦や木を使い、薄葬で送っていただけましたら、これで私は忘れさせないのです。また忠義の諌言を受け入れ、讒言を受け入れず、狩猟や土木事業を減らされれば、死んでも怨みません」と述べた。崩ずると、年三十六歳であった。
皇后はかつて古えの婦人の事績を集めて『女則』十篇を著し、また漢の馬后を反駁して、外戚を抑えられず政務を共にさせたことを、その車馬の言葉に奢って、本源を開いて末事で防いだことを戒めた。常に警備の者に「私は自ら律してきたが、だからこの本には道理がないから、至尊にお見せしてはならない」と言い、崩ずると、宮廷の役人は上奏し、帝はそのため慟哭し、近臣に見せて「皇后の書物は後世の規範とすべきだ。私はどうして天命を知らずに情を割けようか。宮中では私の良き補佐役を失った。悲しくて何もいうことができない」と言い、諡して文徳といい、
昭陵に葬り、九嵕山に、皇后の墓誌をつくった。帝は自ら表・序・始末を著し、陵の左に掲げた。上元年間(760-761)、諡を増やして文徳聖皇后とした。
太宗の
賢妃徐恵は、湖州長城の人である。生まれて五か月で言葉を話し、四歳で『論語』・『詩』に通暁し、八歳で自ら文章をつくった。父の
徐孝徳は、かつて試しに『離騒』になぞらえて「小山篇」をつくらせると、「幽巌を仰ぎて流盼し、桂枝を撫でて以て凝想す。千齢してこの遇を将つも、荃(きみ)何為ぞ独り往かん」とあったから、徐孝徳は大いに驚き、知った以上は隠すことができず、ここに論著したものは遂に盛んに伝えられた。
太宗はこれを聞いて、召寄せて才人とした。手から書物を離したことがなく、文章は豊かで美しく、文には思考の足りなさがなかった。帝はますます大事にし、徐孝徳を水部員外郎に抜擢し、徐恵は再び充容に遷った。
貞観年間(623-649)末、しばしば兵を徴発して四夷を平定しようとし、たびたび宮殿を造営し、百姓から怨嗟の声があがった。徐恵は上疏して厳しく諌め、「東では遼東の高麗との戦い、西では西域の亀茲を討伐し、兵士や馬は疲れ果て、輸送された兵糧は尽き果てるのです。限りある農作物を、限りのない大海に棄てるようなものです。わが国の民でもない他国人のために、訓練された軍を失うことになります。そのためいくら領域が広くても、国が安泰である保証はありません。人民が疲弊していれば、それは国が乱れる根源になるのです」と述べた。また「
翠微宮・
玉華宮の建造は、山の地形を援用して水源を利用したとはいえ、建造の労苦はなかったとしても、材料を輸送する労力が必要で、労力が必要ではないとはいえないのです。道徳のある君主は自分を安逸にして民を休ませ、無道な君主は自分の楽しみを追い求めるのです」と述べた。また「珍しい玩具や技工を凝らした細工物は、国を滅ぼす斧や鉞であり、宝石や錦織物は人の心を惑わす猛毒です。きれいで鮮やかな衣服は、どこかで歯止めをかけなければなりません。功績が表れるにつれて気持ちは傲慢となり、安泰な時が続くにつれて身体は安楽を求めるようになるものです」と述べ、その的確かつ精密な指摘は、だいたいこのようであった。
帝はその言葉をよしとし、お褒めの言葉と賜い物をした。帝が崩ずると、哀しみ、かつ太宗を慕うあまりに病気となり、薬を進められてもよしとせず、「帝は私を厚く待遇してくれました。犠牲とされる犬や馬よりも先に御霊屋にご一緒するのが私の願いなのです」と言い、また詩や文章を作って思いを著した。永徽元年(650)卒し、年二十四歳であった。賢妃を追贈され、
昭陵の石室に陪葬された。
徐恵の弟の
徐斉聃、徐斉聃の子の
徐堅は、皆学問によって有名となり、妹は
高宗の婕妤となって、また文才があり、世間では漢代の班氏になぞらえた。
高宗の
廃后王氏は、并州祁県の人で、魏の尚書左僕射の王思政の孫である。従祖母の
同安長公主は皇后が温厚かつ善良であるから、
太宗に申し上げて
晋王の妃とした。晋王は東宮となると、妃もまた進冊され、父の
王仁祐は陳州刺史に抜擢された。
帝が即位すると、立てて皇后となった。王仁祐は魏国公に封ぜられ。母の柳氏は魏国夫人となった。王仁祐が卒すると、司空を追贈された。
それより以前、
蕭良娣に寵愛があって、
武才人が貞観年間(623-649)末に
先帝の宮人であるから召されて昭儀となったが、にわかに皇后・蕭良娣と寵愛を争い、さらに互いに貶めあった。しかし武昭儀は偽りが多く陰険で、皇后とその母が媚蠱を行ったと誣告し、
帝は信じ、魏国夫人の身分を解き、皇后の叔父の
柳奭の中書令を罷免した。
李義府らは密かに武昭儀を助け、偏りのある言葉によって帝は怒り、遂に詔を下して皇后を廃位し、蕭良娣とともに庶人となり、宮中に幽閉された。皇后の母の兄、蕭良娣の宗族はことごとく嶺南に流された。
許敬宗はまた奏上し、「
王仁祐は他に功績なく、宮中の由縁によって、班列は三公を超えました。今
庶人は宗室に乱を企んだので、罪は一族皆殺しに、王仁祐の棺は壊すべきで、陛下は誅を徹底しなければ、彼らの家の流竄は止み、王仁祐が庇護されて子孫は反逆を許されるべきではありません」と述べ、詔があって王仁祐の官爵をすべて剥奪した。皇后および蕭良娣がにわかに
武后に殺されると、皇后の姓を改めて「蟒」氏とし、蕭良娣を「梟」氏とした。
それより以前、帝は
皇后の事を思い、時間をみつけて捕らえられている所に行くと、門は厳重に閉ざされ、飲食は潜り戸から差し出されていた。憐れに思って悲しみ、「皇后と
良娣は元気でいるか。今どうしているか」と呼ぶと、二人は同じく答えて、「私らは罪によって棄てられて婢となりました。どうして昔の尊称で呼ばれるのですか」と言い、涙を流して嗚咽した。また、「陛下が幸いにも昔の日々を思い出され、私らに更生の機会を与えていただき、再び日の目を拝むことができるのでしたら、ここを回心院とお名付けください」と言い、帝は、「朕はそのように処置しよう」と言ったが、
武后はこの事を知って、詔を促して二人に百回の杖刑とし、その手足を切り取って、縛り上げて酒甕の中に投げ込み、「二人の婆さんを骨まで酔わせてしまいなさい」と言い、数日して死に、その死体は切り刻まれた。それより以前、詔がやって来ると、皇后は再拝して、「陛下が末永くあられますように。
武昭儀に寵愛がわたった以上、私は死ぬしかありません」と言ったが、
蕭良娣は、「武氏の女狐め、ひっくり返してこんな有り様にしよった。私は生まれ変わって猫になり、武氏を鼠にさせて、私はその喉元を食いちぎって報復してやる」と罵り、武后はこれを聞くと、六宮に詔して猫を飼わせなかった。武后は頻繁に二人が髪を振り乱し血を滴らせて祟りとなったのを見て、これを憎んで、巫女にお祓いさせ、
蓬莱宮に移ったが、それでも祟りをまた見ることになったから、そのため多くは東都(洛陽)に留まった。
中宗が即位すると、ふたりともその姓を戻した。
高宗の
則天順聖皇后武氏は、并州文水県の人である。父の
武士彠は、
外戚伝に見える。
文徳長孫皇后が崩ずると、しばらくして、
太宗は武士彠の娘が美しいのを聞いて、召し出して才人とし、その時十四歳だった。母の
楊氏は、号泣して決別したが、
武后は一人泰然として、「天子に見えるのにどうして幸福ではないとわかるのですか。どうして娘が悲しむのでしょうか」と言うと、母はその言葉を正しいものと思い、泣くのをやめた。
帝に会うと、武媚の号を賜った。帝が崩ずると、嬪御とともにすべて比丘尼となった。
高宗が太子であった時、入侍しており、目に止まった。
王皇后は長らく子がなく、
蕭淑妃がその時寵愛を受けており、王皇后は不満に思っていた。他日、
帝が仏寺を過ぎると、才人が泣いているのを見て、帝は感動した。皇后はその事を知って、後宮に引き込み、そのため妃への寵愛が巡るめいた。
武才人には権謀術数があり、善良なように欺くことは果てしなかった。当初、へりくだって礼をあつくして皇后に仕えたから、
皇后は喜び、しばしば
帝に向かって褒め、そのため昇進して昭儀となった。一旦寵愛が
蕭淑妃よりも深くなると、次第に皇后とは不和となった。皇后の性格は簡素かつ重厚で、身分の上下を曲げることなく、母の柳氏は内人や尚宮にあっても礼遇することなかったから、
武昭儀は皇后の近況を伺って内情に迫ることができ、必ず内人や尚宮と誼を結び、賜い物を得ると、すべて分け与えたのであった。そのため皇后と蕭淑妃がしようとすることは必ず知ることができ、速やかに帝に聞かせたが、しかしまだ有効手段を取れずにいた。武昭儀に
娘が生まれると、皇后は姿を見せて、去ると武昭儀は密かに子どもを襁褓の中で殺し、帝がやって来ると、表向きは喜び、襁褓で子どもが死んでいるのを見つけた。そうして驚いて左右の者に尋ねると、全員が「皇后が来られました」と言い、武昭儀は悲しみの涙を流したから、帝は事実を察することができず、怒って「皇后は私の娘を殺した。前に蕭淑妃と一緒に嫉妬して讒言していたが、今またこうなったではないか」と言い、これによって武昭儀は中傷することができ、皇后は自ら弁解できず、帝の寵愛はいよいよ深まったから、始めて廃后しようという思いがおこった。しばらくして、「宸妃」の号を進られようと願ったが、侍中の
韓瑗・中書令の
来済が「妃嬪には数に限りがあり、今さら別に号を立てることはできません」と申し上げたから、武昭儀はそこで皇后とその母の柳氏が呪詛していると誣告し、帝は以前の恨みがあったから、その進言を事実だとし、遂に皇后を廃そうとした。
長孫无忌・
褚遂良・韓瑗および来済が死を賭して厳しく諌めたから、帝は決断を下せなかった。しかし中書舎人の
李義府・衛尉卿の
許敬宗はもとより険悪で心がねじまがっており、権勢を狙って上表して武昭儀を皇后にするよう願い、帝の意は決し、詔を下して
王皇后を廃した。
李勣・
于志寧に詔して璽綬を奉って武昭儀に奉って皇后とし、群臣および四夷の酋長に命じて皇后を粛義門で朝会し、内外の命婦に入謁させた。皇后が朝廷にいることはこれより始まった。
武后は宗廟に見え、再び
武士彠に司徒を追贈し、爵位は周国公とし、諡を忠孝とし、
高祖の廟に配食した。母の
楊氏は、再び代国夫人に封ぜられた。家は魏に千戸を食封とした。武后はそこで「外戚誡」をつくって朝廷に献じ、誹謗中傷を解かせようとした。ここに
長孫无忌・
褚遂良を追放し、ついで流して死に追いやったのは、武后の進言であったのは明らかであった。武后は思慮深く、屈辱を味わっても恥とはせず、これによって大事につき、
帝はよく自分を奉っていると言い、そのため公議に引き上げて皇后に立てられた。後に思い通りになると、権力を盗んで、いそいそと憚り避けることなく、帝もまた暗愚で、行いに制限を加えられ、専らにできなくさせられて、ようやく不平を抱いた。麟徳年間(664-665)初頭、武后は方士の
郭行真を召して禁中に入れて巫蠱を行い、宦官の
王伏勝に告発され、帝は怒り、ここに西台侍郎の
上官儀を呼び寄せ、上官儀は、皇后が専横をほしいままにし、全国は失望し、宗廟をうけるべきではないと指摘したから、帝の意に適い、そこで詔の草案をつくらせて廃后しようとした。左右の者が駆けてつけて報告したから、武后はにわかに帝に自らを訴え、帝は萎縮し、武后の待遇は当初の通りとなったが、それでもまだ怒りをみせたから、「これはすべて上官儀が私にやらせたことだ」と言い、武后は許敬宗をそそのかして上官儀を捕らえ、殺害した。
それより以前、もと舅や大臣は、武后に意向にそむき、一年もしないうちに殺され尽くされ、道で出会っても目配せするばかりで、
上官儀が誅殺されると、政治は後宮の帷幄の手におち、
天子は手をこまねくばかりであった。群臣が朝廷にあったり、全国からの奏上では、皆「二聖」と言っていた。朝政を見るごとに、殿中に簾を垂らし、
帝は武后と一緒に座り、生殺与奪、賞罰はただ武后の命じるところとなった。処断するのを忍ぶにあたっては、非常に親愛していても、少しも隠蔽しなかった。帝は晩年ますます病のため起き上がることができず、天下の事はすべて武后に付した。武后はさらに太平の文治政策のために、大いに諸儒を宮中に集め、『列女伝』・『臣軌』・『百僚新誡』・『楽書』などを撰述させ、おおむね千篇以上になった。そこで学士に密かに奏議すべき事案を裁定させ、宰相の権力を分け与えた。
始め、
武士彠は相里氏を娶って、子の
武元慶・
武元爽を生んだ。また
楊氏を娶って、三女を生んだ。長女は
賀蘭越石に嫁ぎ、早くに寡婦となり、
韓国夫人に封ぜられた。次女は
武后である。季娘は郭孝慎に嫁いだが、先に死んだ。楊氏は武后の縁故のため、寵遇は日に日に盛んとなり、
栄国夫人に移封された。始め、兄の子の
武惟良・
武懐運は武元慶らと楊氏および武后に対して冷遇し、武后は恨んだが捨て置いた。ここに及んで武元慶を宗正少卿に、武元爽を少府少監に、武惟良を司衛少卿に、武懐運を淄州刺史とした。他日、栄国夫人が酒宴を開き、宴が酣になると武惟良に向かって、「お前たちは昔のことを覚えているか。今日のように栄達したのは誰のお陰か」と尋ねると、「幸いにも功臣の子孫であるから朝廷で位を得て、さらに皇后の親類縁者ということでたまたま昇進しましたが、心配で栄達は嬉しくありません」と答えたから、栄国夫人は怒り、武后にそそのかして一族の謙譲のために権勢から退くと偽って、武惟良らを外部の職に遷し、天下を私にしないと示した。これによって、武惟良は始州刺史に、武元慶は龍州刺史に、武元爽は濠州刺史となったが、にわかに事件によせて罪とされて振州で死んだ。武元慶は州に到着すると、憂い死にした。韓国夫人は禁中に出入りし、
娘は国一番の美女で、帝は二人とも寵愛した。韓国夫人が卒すると、娘は
魏国夫人に封ぜられ、妃嬪の位を授けられようと願ったが、武后は難色を示したため決定されなかった。武后は本心では非常に嫌い、ちょうどその時泰山で封禅し、武惟良・武懐運は諸侯が集まっていたから、従って京師に帰還した。武后は魏国夫人を毒殺し、罪を武惟良らに着せて、全員を殺し、氏を「蝮」氏とし、韓国夫人の子の
賀蘭敏之に武士彠の祭祀を奉らせた。それより以前、魏国夫人が卒すると、賀蘭敏之は入朝して弔い、
帝も彼女のために慟哭したが、賀蘭敏之は泣いて対面しなかった。武后は「あの子は私を疑っている」と言って憎んだ。にわかに貶されて死んだ。楊氏は酇国夫人、さらに衛国夫人に移封され、咸亨元年(670)卒し、魯国夫人を追封され、諡を忠烈といい、文武九品以上および五等親に詔して外命婦とともに弔慰に赴かせ、王の礼によって咸陽に葬り、班剣・葆仗・鼓吹を賜った。当時、天下は旱魃となり、武后は偽って上表して皇后の位を避けることを求めたが、許されなかった。にわかに武士彠に太尉兼太子太師・太原郡王を追贈し、魯国忠烈夫人を妃とした。
上元元年(674)、進冊して天后と号し、十二の事を建言した。一つ目が農業・養蚕を奨励し、賦税や徭役を軽くすること。二つ目が三輔(関中)の地を免税すること。三つ目が戦争をやめて、道徳によって天下を化すること。四つ目が南北の中尚が技工を凝らすこと禁じること。五つ目が土木事業を削減すること。六つ目が広く道を申すこと。七つ目が讒言を閉ざすこと。八つ目が王公には以後老子を習わせること。九つ目が父と同様に母の喪に服するのを斉衰三年とすること。十が、上元元年(674)以前の勲功のある官吏ですでに告身を給付されている者は追って沙汰しないこと。十一が京官八品以上の給与を増やすこと。十二は百官で長らく任にある者で、才能が高いのに官位が低い者は階を進めて転任申請できることにすること。帝はすべて詔を下して概ね施行した。
蕭淑妃の娘の
義陽公主・
宣城公主は掖廷に幽閉されて、四十歳になろうとしているのに嫁がなかった。太子
李弘が
帝に申し上げると、武后は怒り、李弘を毒殺した。帝は詔を下して皇帝の位を武后に譲ろうとしたが、宰相の
郝処俊は厳しく諌め、沙汰止みとなった。武后は外部には寛容であることを示そうと思い、人々の心を退けて自分に帰さしめ、そこで奏上して「今、群臣は俸給の半分を納め、百姓は税金を計上してこれによって辺境の兵を担わせることは、全国がみだりに虚実を商うことを恐れるのです。すべてお止めになってください」と申し上げたから、詔して裁可された。
儀鳳三年(679)、群臣・蕃夷の長は武后を
光順門に拝朝した。そこで并州に太原郡王廟を建立した。
帝の頭は目眩のため見ることができず、侍医の
張文仲・秦鳴鶴が「流れが低いところへ逆行しています。頭に鍼をうって血を流せば治るでしょう」と言ったから、武后は寵愛を独占し、自ら専横することができたから、怒って、「こやつを斬っておしまい。帝の玉体にどうして刺して血を流させるのか」と言うと、侍医は頓首して命令を願った。帝は、「医者が病気を議論するのに何の罪があろうか。それに私の目眩は耐えられない。許すからなんとかしてくれ」と言ったから、侍医は一、二度刺すと、帝は、「私の眼が見えるようになったぞ」と言うやいなや、武后は簾中から再拝して謝し、「天は私に先生を贈り下されました」と言い、自ら綾絹や宝を手渡して賜った。
帝が崩ずると、
中宗が即位し、
天后は皇太后と称し、遺詔により軍国の大務に参決を許された。嗣聖元年(684)、
太后は
帝を廃位して廬陵王とし、自ら朝廷に臨み、
睿宗を帝位に即位させた。武后は
武成殿に座して、
帝は群臣を率いて号冊を奉った。三日後、太后は前殿に御し、礼部尚書摂太尉の
武承嗣・太常卿で摂司空の
王徳真に命じて皇帝に政務を継がせた。これより太后は常に
紫宸殿に御して、薄紫の帳を垂らして朝廷に臨むようになった。五世の祖で後魏の散騎常侍の武克己を追贈して魯国公とし、その夫人裴氏を魯国夫人とした。高祖で斉の殷州司馬の武居常を太尉・北平郡王とし、その夫人劉氏を王妃とした。曽祖父の永昌王諮議参軍・贈斉州刺史の武倹を太尉・金城郡王とし、その夫人宋氏を王妃とした。祖父で隋の東郡丞・贈并州刺史・大都督の武華を太尉・太原郡王とし、その夫人趙氏を王妃とした。全員に園邑、五十戸を設置した。
父を太師・魏王とし、実封五千戸を加え、
母を王妃とし、王の園邑に百戸で守らせた。当時、睿宗は即位していたとはいえ、実際には幽閉されており、諸武氏が命令によって好き勝手にしていた。また魯国公に諡して靖といい、裴氏を靖夫人とした。北平郡王は諡を恭粛といい、金城郡王は諡を義康といい、太原郡王は諡を安成といい、妃は夫の諡に従った。太后は
武成殿に使者を派遣して五世の廟室に告げさせた。
ここに柳州司馬の
李敬業・括蒼県令の
唐之奇・臨海丞
駱賓王は太后が天子を脅して追いやったのを憎んで、憤りに堪えられず、そこ兵を募って揚州大都督府長史の
陳敬之を殺し、楊州を根拠地として
廬陵王を迎えようとし、軍は十万にもなった。楚州司馬の
李崇福と連合した。盱眙県の人の
劉行挙が付城に立て籠もって従うことをよしとせず、徐敬業はこれを攻撃したが、勝てなかった。太后は劉行挙を游撃将軍に任じ、その弟の
劉行実を抜擢して楚州刺史とした。徐敬業は南行して長江を渡って潤州を奪取し、刺史の
李思文を殺し、曲阿県令の
尹元貞は防衛して死んだ。太后は左玉鈐衛大将軍の
李孝逸に詔して揚州道行軍大総管とし、兵三十万を率いて討伐させ、高郵で戦ったが、前鋒の左豹韜果毅の
成三朗が唐之奇に殺害された。また左鷹揚衛大将軍の
黒歯常之を江南道行軍大総管とし、合流させた。徐敬業は決起してから三か月で敗れ、首は東都に伝送され、三州は平定された。
それより以前、
武承嗣は太后に
七廟を建立することを願ったが、中書令の
裴炎に阻まれ、
徐敬業が挙兵すると、裴炎を獄に下して殺し、あわせて左威衛大将軍の
程務挺も殺した。太后は憤怒して、ある日、群臣を朝廷に呼び寄せて責めて、「朕は天下に叛いたことがないのに、お前たちはわかっているか」と言うと、群臣は逆らわずにただ従うだけであった。太后は「朕は先帝を助けること三十年を超え、天下に心配して労をとってきた。爵位や富貴は、朕が与えてきたものである。天下が何もせずに楽しめるようになったのは、朕が養ってきたところなのだ。先帝は群臣を捨て、社稷を託したから、朕はあえて自身を愛さなかったが、人を愛することを知っている。今、反乱の首謀者どもは全員将相であり、どんな理由によって背かれなければならないのか。遺制を受けた老臣が驕りはびこって制することが難しいが、こいつらは裴炎のようになるのか。代々の将軍の子孫が亡命者を糾合しているのは徐敬業のようにするつもりか。宿将が善戦しているのは程務挺のようになるのか。彼らは皆豪傑であるが、朕に利がなく、朕は殺すことができる。公らの才能は彼らを超越しているから、速やかにそうするとよい。そうでなければ、謹んで朕に仕え、天下の笑い者として名を残すな」と言うと、群臣は頓首して、敢えて仰ぎ見る者はおらず、「ただ陛下の命ずるままに」と言った。
しばらくして、詔を下して表向きは政権を返還するようにした。
睿宗は本心からではないと考えていたから、固く朝廷に臨むよう願い、制により裁可された。そこで銅を鋳造して箱をつくらせて一つの建物をつくり、東のを「延恩」と名付け、賞を自ら求める者を投書させた。南を「招諌」といい、当時の政治の得失を投書させた。西を「申冤」といい、受無実の罪を着せられた者の言いたいところを投書させた。北を「通玄」といい、天変地異や国家に関わる秘策を投書させた。詔して中書門下の一官に司らせた。
太后は爵位を惜しまず、全国に埋もれた豪傑を自らの助けとし、風狂無知な人物であっても、申し上げることが符号するならば、たちまち序列によらず官を授け、職に褒めるべきことがなければ、ついでまた罷免や誅殺は少しも許さず、務めて本当の人材や賢人を取った。また天下に謀反・反逆の者がいることを恐れ、詔して変事の上奏を許し、所在地の駅伝を使用させ、五品の食を給付し、京師に送り、即日召見し、厚く爵位を餌にして賞罰を喜ばせて動した。だいたい変事を申す場合、吏はいかなる詰問もされず、耕夫・樵夫であっても必ず自ら延見し、客館に滞在させた。あえて考えて送らなかった者は、告発したところによって罪とした。そのため変事を上奏する者は天下に広がり、人々は息を殺してじっとして、あえて議することはなかった。
新豊県に山があって地震によって突出し、太后は良い瑞祥だと思い、新豊県で赦免を行い、名を慶山と改めた。荊人の
兪文俊が上言して、「人が不和であれば、イボができます。地が不和であれば、うずたかい山ができます。今陛下は女の主で表立ってその地位におられるので、山は変じて災となり、慶事ではありません」と述べたから、太后は怒り、嶺外に流した。
詔して
乾元殿を壊して
明堂を造り、仏僧の
薛懐義を長として造作させた。薛懐義は、鄠県の人で、もとは馮氏で、名を小宝といい、偉丈夫かつ絶倫で、洛陽の市で狂人のふりをしていたが、
千金公主のお気に入りとなった。公主は上言して、「小宝を入侍させるべきです」と申し上げ、武后も召して密通すると、喜んだ。囲いたいと思い、宮中への出入りを許すことができるよう、剃髪させて仏僧とし、
白馬寺主を拝命した。詔して
太平公主の婿の
薛紹と義兄弟にし、薛紹の父の養子ということにした。厩馬、中官を給付して配下とし、
武承嗣・
武三思であっても全員が尊んで敬った。明堂の建造にいたって、数万人を要し、巨木一木あたり千人で引いた。また明堂の背後に
天堂を建造し、壮麗厳粛なことは明堂に次いだ。堂が完成すると、左威衛大将軍・梁国公を拝命した。
それより以前、
崇先廟を西京に建造し、武氏を祭った。
武承嗣は偽って洛水の石に銘を刻み、武后を皇帝にならしめようと導き、雍人の唐同泰を派遣して献上させ、武后は「宝図」と名付け、
唐同泰を游撃将軍に抜擢した。ここに汜人もまた瑞石を奉り、太后はそこで上帝に祀りしてこのことを謝し、自ら聖母神皇と号し、神皇璽をつくり、宝図を改めて「天授聖図」といい、洛水を永昌水と改め、図された所を聖図泉とし、洛壇の左に石碑を立てて「天授聖図之表」と刻み、汜水を改めて広武とした。当時、王室から権勢は去り、大臣や将軍はくじかれて思い通りにできず、宗室は孤立して身を寄せる地がなかった。ここに韓王
李元嘉らが挙兵して天下に唱え、中宗を迎えることを謀った。琅邪王
李沖・越王
李貞がまず挙兵したが、諸王の兵士は応じる者がなく、遂に敗れた。李元嘉は魯王
李霊夔らと共に自殺し、他は全員が罪とされ誅殺され、諸王は眷属を引き継いれてほとんどが死滅し、子孫は襁褓の中にいる赤児であっても嶺南に流された。太后は自ら洛受図を拝し、
天子は
太子・群臣・蛮夷を率いて序列ごとに並び、大いに珍禽・奇獣・貢物・鹵簿を壇の下に並べ、礼を行って去った。
永昌元年(689)、
万象神宮で祀りし、服を袞冕に改め、瑞玉の大圭をすすめて、瑞玉の鎮圭をとり、
睿宗は亜献で、
太子は終献とした。天地や、五方帝・百神従を合祭し、
高祖・
太宗・
高宗を配享し、魏王
武士彠を従配とした。九条を班布し、百官に訓じた。遂に群臣に大饗した。武士彠を忠孝太皇と、
楊氏を忠孝太后と号した。文水県の墓を章徳陵とし、咸陽の墓を明義陵とした。太原安成王を周安成王とし、金城郡王を魏義康王とし、北平郡王を趙粛恭王とし、魯国公を太原靖王とした。
載初年間(689-690)、また
万象神宮で祀りし、
太穆竇皇后・
文徳長孫皇后の二皇后を皇地祇に配享し、周の
忠孝太后を引き上げて従配とした。曌・・埊・Ⓩ・囝・○・・・・・・𠙺の十二文字をつくり、太后は自らの名を曌とした。詔書を改めて制書とした。周・漢を二王後とし、虞・夏・殷の後裔を三恪とし、唐の属籍を除いた。
薛懐義を輔国大将軍に任じ、鄂国公に封じ、僧侶らと『大雲経』をつくらせ、神皇受命の事を述べさせた。春官尚書の
李思文が「『周書』武成篇に、「垂拱して天下治まる(指一本もうごかさないままで天下はおさまった)」の文があり、受命の符となっています」と偽ったから、武后は喜び、すべてを天下に示し、しばらくして革命しようと謀った。しかし人心が従うことをよしとしないことを恐れ、そこで密かに残忍に殺害し、ほしいままに斬殺して天下を恐れさせた。宮中では酷吏の
周興・
来俊臣ら数十人が凶悪を幇助し、不満がある者や、もしくはもとより疑い憚ることがある者がいれば、必ず厳酷の法に照らした。宗姓・侯王および他の硬骨の臣や将相は一網打尽に刑に伏し、牢獄の扉は血塗られ、家は自ら保つことができなかった。太后は嫁入り道具を操っては帷幄の深くに座って、国の命運を移していった。
御史の
傅游芸が関中の父老を率いて革命し、
帝の氏を改めて武氏とするよう請願した。また群臣を脅かして固く請願し、妄りに鳳が
上陽宮に集まり、赤雀を朝堂で見たと申し上げた。
天子は自らを安心させることができず、また武氏とするよう願い、武氏一姓のみが尊いことを示した。太后は権力が自分にあることを知って、そこで天下に大赦し、国号を周と改め、自ら聖神皇帝と称し、旗幟は赤を尚び、
皇帝を皇嗣とした。
武氏七廟を神都(洛陽)に建立した。周の文王を尊んで文皇帝とし、始祖と号し、妃の太姒を文定皇后とした。武王を康皇帝とし、睿祖と号し、妃の邑姜を康恵皇后とした。太原靖王を成皇帝とし、厳祖と号し、夫人を成荘皇后とした。趙粛恭王を章敬皇帝とし、粛祖と号し、夫人を章敬皇后とした。魏義康王を昭安皇帝とし、烈祖と号し、夫人を昭安皇后とした。祖父の周安成王を文穆皇帝とし、顕祖と号し、夫人を文穆皇后とした。父の
忠孝太皇を孝明高皇帝とし、太祖と号し、夫人を
孝明高皇后とした。唐の廟を廃止して享徳廟とし、四時に
高祖以下三室を祀るのみで、他は廃して祀らなかった。夏至・冬至には、上帝を
万象神宮で祀り、始祖および
考・
妣を配享とし、百神を従祀した。諸武氏を全員王とした。詔して并州文水県を武興県とし、漢の時の豊県・沛県のようにし、百姓は代々免税とした。始祖の墓を徳陵とし、睿祖を喬陵とし、厳祖を節陵とし、粛祖を簡陵とし、烈祖を靖陵とし、顕祖を永陵とし、章徳陵を昊陵とし、明義陵を順陵とした。
太后は年をとっていったとはいえ、自ら化粧することがうまかったため、左右の者はその衰えがわからなかった。突然歯が二本生えてきたから、詔を下して改元して長寿とした。翌年、神宮で祀りし、自ら大楽を制し、舞工九百人を用い、
武承嗣が亜献をし、
武三思が終献した。
帝は皇嗣となったが、公卿がしばしば謁見し、ちょうどその時、尚方監の
裴匪躬・左衛大将軍の
阿史那元慶・白澗府果毅の
薛大信・監門衛大将軍の
范雲仙が密かに帝に謁見したから、全員が都市で腰斬となり、これより公卿は再び
お上に謁見することはなかった。
意見封事を奉って嶺南の流人が謀反すると言上した者がおり、太后は摂右台監察御史の
万国俊を派遣して審理させ、事実であるとして直ちに裁決させた。来国俊は広州に、流人を全員呼び寄せて、詔を偽って自尽を賜ったが、全員が号泣して服さなかったから、来国俊は川の蛇行している曲部に追いたて、逃げることができないようにし、一日に三百人以上を殺した。そこで流人が恨みを抱いていると誣告し、全員の排除を願い出た。ここに太后は右衛翊府兵曹参軍の
劉光業・司刑評事の
王徳寿・苑南面監丞の鮑思恭・尚輦直長の王大貞・右武衛兵曹参軍の屈貞筠を派遣し、全員に監察御史を兼任させ、剣南・黔中・安南等の六道に手分けして尋問に赴かせ、来国俊を左台侍御史に抜擢した。劉光業らもまた功績をあげたいと願い、ただ殺人が少ないのを恐れた。劉光業は九百人を殺し、王徳寿は七百人を殺し、その他もまた五百人を下回らなかった。太后はしばらくしてその無実を知り、六道使に詔し、殺害した者をその家に返した。来国俊らもまた相継いで死んだが、皆が物の怪を見て祟りがあったという。
太后はまた自ら金輪聖神皇帝の号を加え、七宝を宮廷に置いた。金輪宝・白象宝・女宝・馬宝・珠宝・主兵臣宝・主蔵臣宝であり、大朝会を率いてそこで陳列させた。また顕祖を尊んで立極文穆皇帝とし、
太祖を無上孝明皇帝とした。延載二年(694)、
武三思は蕃夷の諸酋および耆老を率いて、
天枢を造って太后の功徳を記し、これによって唐を退けて周を興すことを願い出て、制書により裁可された。納言の
姚璹が工事監督にあたらせた。そこで大いに銅・鉄を集め、遭わせて鋳造し、「大周万国頌徳天枢」と刻んで、
端門の外に置いた。その形は柱のようで、寸法は高さ百五尺(37m)で、八面で、一面あたり五尺(1.8m)、鉄を鋳造して山の形を象り、銅の龍を背負い、石で彫刻された怪獣がとりまいた。柱の頂上には雲蓋となっており、大きな珠が出て、高さは一丈(3.6m)、これが三つとりまいた。四蛟をつくり、大きさが一丈二尺(4.3m)で大珠を受けた。その周囲に山があり一周百七十尺(61m)で、広さが二丈(7.2m)。無計画に銅・鉄二百万斤(1360t)を用いた。そこですべての群臣・蕃酋の氏名をその上に刻んだ。
薛懐義の寵愛は次第に衰えて、御医の沈南璆が寵愛を得たから、薛懐義は大いに恨み、そのため
明堂に放火した。太后は恥じて、隠蔽して露見しなかった。薛懐義はいよいよ恨んで怏々として楽しまなかった。そこで密かに
太平公主に詔して健婦を選んで薛懐義を殿中で縛り上げ、建昌王
武攸寧・将作大匠の
宗晋卿に命じて壮士を率いて撃ち殺し、車に死体を乗せて
白馬寺に返した。薛懐義は寵愛をたよりにし、気は同時代を覆い、百官の上に出て、その徒の多くは法を犯した。御史の馮思勗がその悪事を弾劾したが、薛懐義は怒り、道で出会うと、左右の者に命じて殴打させ、ほとんど死ぬ寸前であったから、あえて申し上げる者はいなくなった。黙啜可汗が辺境の要塞に侵入すると、新平・伐逆・朔方道大総管を拝命し、十八人の将軍を率いて兵で敵を攻撃し、宰相の
李昭徳・
蘇味道が長史・司馬となった。後に禁中に入るのを嫌い、密かに力のある少年千人を集めて仏僧とし、反逆をはかった。侍御史の
周矩が弾劾して取り調べを願ったが、太后は「邸宅から出して、朕が獄に赴かせよう」と言ったから、周矩は台に座り、しばらく待っていると、薛懐義が怒って馬で直接乗り付け、直ちに行って大きな榻(いす)の上に座ったから、周矩が吏を呼び寄せて応対していると、薛懐義は直ちに馬に乗って去った。周矩が上奏すると、太后は「この道人はもとより狂人だから、取り調べるほどではない。力のある少年を取り調べたらよかろう」と言い、周矩はその者らを全員投獄した。薛懐義は周矩と事を構え、にわかに免官となった。
太后が南郊にて天神を祀り、文王・武王・
武士彠を唐の
高祖とあわせて配享した。太后には天冊金輪聖神皇帝の号を加えた。遂に嵩山に封禅し、少室山で封禅し、山の神を冊立して帝とし、配偶を后とした。封壇の南に大きな柏の樹があり、大赦の日に鶏をその梢に置き、号を「金鶏樹」と賜った。自ら昇中(祭典の成功報告)を制書して志を述べ、石に刻んで後世に示した。
明堂を改めて通天宮とし、九州の鼎を鋳造し、それぞれその方角に位し、宮廷中に並べた。また天下の黄金を集めて大儀鐘をつくったが、完成しなかった。しばらくして、
崇先廟を崇尊廟とし、礼して太廟として扱い、また崇尊廟を太廟とした。
薛懐義が死んでから、
張易之・
張昌宗が寵愛を得て、そこで控鶴府を設置し、監、丞および主簿・録事等があり、監は三品相当官で、張易之が就任した。太后は自ら諸武氏の王が天下の意するところではないと見て、それに先んじて
中宗を房州から帰還させ、また皇太子とし、百歳(死んだ)後に唐の宗室で傷害したと偽って死ななかった者の行いを恐れ、そこで諸武氏および
相王・
太平公主を引き連れて
明堂で誓い、天地に告げて、鉄券をつくって史館に蔵させた。昊陵を改めて攀龍台と名付けた。久視年間初頭(700)、控鶴監を天驥府とし、また奉宸府にあらためて、監をやめて令とし、左右控鶴を奉宸大夫とし、張易之をまた奉宸令とした。
神龍元年(705)、太后が病となり、長らく治らず、
迎仙院にいた。宰相の
張柬之は
崔玄暐らとともに建策し、
中宗に兵で宮中に入って
張易之・
張昌宗を誅殺することを願い、ここに羽林将軍の
李多祚らに兵を率いて
玄武門より入らせ、張易之・張昌宗の二人は院の左で殺された。太后は変事がおきたことを聞いて、
桓彦範は進み出て位を中宗に伝えることを願い、太后は寝返りを打ったが、言葉を返すことはなかった。中宗がここに復位した。太后を
上陽宮に移し、
帝は百官を率いて
観風殿に詣でてご機嫌伺いをし、後に十日に一度の宮詣でとなり、にわかに朔日・望日(十五日)の拝朝となった。奉宸府の官を廃止し、東都の
武氏廟を
崇尊廟に移し、崇恩廟と改号し、唐の宗廟を復した。諸武氏の王は全員が降爵した。この年、武后は崩じ、年八十一歳であった。遺制して則天大聖皇太后と称し、帝号を去った。諡を則天大聖后といい、
乾陵に葬った。
ちょうどその時、
武三思は
韋庶人と不倫関係にあり、再び政事に用いられた。ここに大旱魃となり、陵に祈るとたちまち雨が降った。武三思は
帝に
崇恩廟祠に詔して太廟のようにし、祠官たる斎郎には五品の子を用いるよう誘った。博士の
楊孚は「太廟の諸郎は七品の子を採用していますが、今崇恩廟に五品を採用することはよくありません」と述べ、帝は「太廟を崇恩廟のようにするのはどうか」と尋ねると、楊孚は、「崇恩を太廟のようにすると、臣を以て君に準ずることになり、それは僭称です。君を以て臣に準じるのは、それは惑です」と述べ、そのため沙汰止みとなった。韋氏・武氏の党派が誅殺されると、詔して則天大聖皇后を天后に復号し、崇恩廟および陵を廃止した。景雲元年(710)、大聖天后と号した。
太平公主が政治を邪にすると、再び二陵の官を願い、また武后を尊んで天后聖帝といい、にわかに聖后と号した。太平公主が誅殺されると、詔して周の
孝明皇帝の号を退けて、復して太原郡王とし、
孝明高皇后を太原郡王妃とし、昊陵・順陵などの陵を廃止した。開元四年(716)、則天皇后と追号した。太常卿の
姜晈が建言して、「則天皇后は
高宗廟に配享されていますが、主題は天后聖帝となっているのは正しいことではありません。題を変えて則天皇后武氏としてください」と述べると、制により裁可された。
中宗の
和思順聖皇后趙氏は、京兆郡長安の人である。祖父の趙綽は、武徳年間(618-623)、戦功があって、右領軍将軍に終わった。父の
趙瓌は、高祖の
常楽公主をめとった。
帝は英王であったとき、
后を娶せて妃とした。
高宗は
常楽公主には非常に恩義を感じていた。
武后は喜ばず、そこで妃を内侍省に幽閉した。
趙瓌は定州刺史・駙馬都尉から括州に貶され、常楽公主は朝廷の謁見を絶ち、趙瓌の官にしたがった。妃が幽閉されると、門戸を閉鎖して閉じ込め、毎日食材を支給した。門番がその炊事の煙があがるのを確認していたが、数日出なかったから、戸を開いて見てみると、死んで腐っていた。趙瓌は寿州刺史となって常楽公主と
越王の陰謀に加担して、死んだ。神龍元年(705)、妃を追諡して恭皇后といい、趙瓌に左衛大将軍を追贈した。
中宗が崩御すると、陵での埋葬に備えたが、
韋庶人が臣下としての行いに合わないことをしたから合祀できず、役人は
后に尊んで諡を加え、后を
定陵に合祀した。
中宗の
庶人韋氏は、京兆郡万年の人である。祖父の韋弘表は、貞観年間(623-649)に曹王府典軍となった。
帝が東宮であったとき、后は選ばれて妃となった。嗣聖年間初頭(684)に、立てられて皇后となった。にわかに帝とともに房陵に移され、使者が来るごとに、帝はたちまち恐れ、自殺しようとした。后は「不幸や幸福がいつも同じとは限りません。早くても遅くても死ぬだけです。軽々しいことをなさってはいけません」と止めた。帝が復位すると、后は中宮となった。
この時、
上官昭容とともに政事に関わり、
敬暉らが武氏全員を誅殺しようとすると、
武三思は恐れ、そこで上官昭容を通じて入って請い、后の寵遇を得て、ついに敬暉らに謀して誅殺した。それより以前、
帝は幽閉されているとき、后に「もう一度皇帝になれたら、何でも自由にさせよう」と約束した。ここにいたって武三思とともに御臥所にのぼって博戯し、帝は側にいて点数を数えており、さからわなかった。武三思は群臣にほのめかしえ后の号を奉って順天皇后とした。そこで自ら宗廟に謁して、父の
韋玄貞に上洛郡王を追贈した。左拾遺の賈虚己が建言して、「李氏ではない者が王ならば、盟書は共に破棄されます。今、国が復活してからしばらくもしないのに、にわかに皇后の家を私になされ、また先朝の災いのような、戒めとすべき手本はごく身近なところにあり、非常に恐れるべき事柄です。もし皇后に固辞させ、天下に後宮の謙譲さを知らしめるなら、これもまた素晴らしいことではないでしょうか」と述べたが、受け入れられなかった。神龍三年(707)、
節愍太子が挙兵したが失敗した。
宗楚客は群臣を率いて皇后の号に「翊聖」を加えることを願い、詔して裁可された。禁中では謬って五色の雲が皇后の衣装箪笥から出たと伝えられ、帝は図にして朝廷に示しこれによって天下に大赦し、百官の母・妻に封号を賜った。太史の
迦葉志忠は「桑条歌」十二篇を上表し、皇后が受命を受けるべきであるとして、「昔、
高祖の時、天下は「桃李子」を歌いました。
太宗の時、「秦王破陣楽」を歌いました。
高宗では「堂々」を歌いました。
天后の世では「武媚娘」を歌いました。
皇帝が天命を受けられて皇帝となられると、「英王石州」を歌いました。皇后が今受命されると、「桑条韋」を歌いましたが、思いますに后妃の徳がもっぱら養蚕にあり、宗廟の事を共にすることなのでしょう」と述べた。そこで迦葉志忠に第一級の邸宅、綵七百段を賜った。太常少卿の
鄭愔これによって楽府に広めさせた。宗楚客もまた補闕の
趙延禧をほのめかして「桑条韋」がこの後九十八代続くことを意味していると解釈させたから、帝は大いに喜び、趙延禧を諌議大夫に抜擢した。
ここに
上官昭容は武氏の故事によって皇后を動かした。そこで上表して母の服喪を増やした。民間は二十三歳で成丁(成人男性)とし、五十九歳で免じた。五品以上の母・妻で夫・子に封をよらない者は、葬礼で鼓吹(軍楽)を用いることができた。しばしば制度を改め、密かに人望を蓄えた。しばらくして親族を引き立てて寵遇し、王公に封じた。上官昭容は
母および
賀婁尚宮らとともに多くの金銭を受け取った。巫女の趙氏を
隴西夫人を封じて、禁中に出入りし、権勢は上官昭容と等しかった。ここに
墨勅斜封を出した。景龍三年(707) 、
帝は自ら南郊を祭り、皇后を引き立てて亜献とした。翌年、正月十五日夜に、帝は皇后とともにお忍びで市に行き、気ままに歩き回って観覧し、宮女を放って遊ばせ、皆が男子と放蕩して戻ってこなかった。国子祭酒の
葉静能は呪いをよくし、常侍の
馬秦客が医術に優れ、光禄少卿の
楊均が料理をよくして、皆が引き立てられて後宮に出入りした。楊均・
宗秦客は皇后と密通し、かつて喪のため免官となったが、十日もしないうちにたちまち起用された。
帝が弑逆されると、議する者は
馬秦客および
安楽公主をやかましく咎めた。皇后は大いに懼れ、親しくする者を引き入れて計略を練り、そこで刑部尚書の
裴談・工部尚書の
張錫を宰相、留守東都とし、将軍の
趙承福・
薛簡に詔して兵五百で譙王
李重福から守り、兄の
韋温とともに策を定め、温王
李重茂を立てて皇太子とし、府兵五万を並べて二営に分けて京師に駐屯させ、その後に喪を発表した。太子が即位し、これが
殤帝となった。
皇太后が朝廷に臨み、韋温が内外の兵を統率し、宮・省を警備した。族弟の
韋濯・韋播、一族の子の
韋捷・韋璿、韋璿の甥の高崇および
武延秀は、左右の屯営・羽林・飛騎・万騎を分領した。京師は大いに恐れ、また革命があると噂された。韋播・韋璿は軍中に入り、鞭で万騎を責め立てて権威を確立しようとしたが、兵士は怨んだから役にたたなかった。にわかに
臨淄王が兵を率いて夜に
玄武門を開いて羽林に入り、韋璿・韋播・高崇を寝殿で殺し、関を斧で叩いて
太極殿に侵入し、皇后は逃れて飛騎営に入ったが、乱兵によって殺害された。武延秀・安楽公主も斬られた。韋氏・武氏とその支党を捕らえて、ことごとく誅殺し、皇后および安楽公主の首を
東市で梟首した。翌日、追貶して庶人とし、一品の礼で葬った。
上官婉児は生まれた当初、
母とともに掖廷に送られた。生まれつき聡明かつ怜悧で、文章をよくした。年十四歳で
武后にお目見えし、つくった文章は、即興ではなく最初からつくられたものであるかのようであった。万歳通天年間(696-697)より以来、宮中で詔命をつかさどり、文章は華麗でみるべきものがあった。かつて思し召しに背いて誅殺されるところであったが、武后はその才能を惜しんで、いれずみの刑とするに留めて殺さなかった。しかし群臣の奏議および天下の政事にすべて関わった。
帝が即位すると、大いに信任され、昇進して昭容を拝命し、鄭氏を
沛国夫人に封じた。
上官婉児は
武三思と通じ、そのため詔書では武氏に肩入れして、唐の帝室を抑えたから、
節愍太子は不平を持った。挙兵すると、
粛章門を壊して上官婉児を探し求めたが、上官婉児は「私が死んだら、次は
皇后・
大家を探し求めるでしょう」と言ったから帝は激怒し、帝と皇后は上官婉児とともに
玄武門に登って避難した。ちょうどその時、太子が敗れたから免れた。上官婉児は帝に大いに書館の充実と、学士員を増やすよう勧め、大臣・名儒を選に充てた。しばしば賜宴の際に詩を賦し、君臣唱和し、上官婉児は常に帝および皇后、
長寧公主・
安楽公主の二公主に代わって、多くの詩篇をつくって、華麗なことますます刷新であった。また群臣の賦した詩を査定して、金爵を賜い、そのため朝廷ではなびいてそのような風潮となった。当時文章をつくる者は、大抵華やかであって内容が伴っていなかったももの、しかしつくられたものはすべて見るべきものがあったのは、上官婉児の力であった。
鄭氏が卒すると、節義夫人と諡した。婉児は喪に服するために降格を願い出ると、詔によって婕妤に起用されたが、にわかに昭容に戻った。帝はそこで上官婉児のために沼を掘って巌を築いたところにおらせ、装飾を極めてすぐれた景観となり、そこで侍臣を引き連れてそこで宴会をした。この時、側近の内職は全員が外に出ることを許され、誰も止める者はいなかった。上官婉児は寵遇された者とともに外宅を営み、邪な者や卑しい人が争って門下にはべり、勝手に馴れ馴れしくし、そこで激務・要官を求めた。
崔湜と関係を持ち、遂に知政事に引き立てた。崔湜は商山道を開削したが、まだ工程が半分にもなっていない時に、帝の遺制によって、偽ってその功績を並べ立て、褒賞を加えた。韋后が失脚すると、宮中で斬られた。
それより以前、
鄭氏が妊娠すると、夢に巨人が大いに褒め称えて「これを持てば天下を操ることができる」と言い、
上官婉児が翌月に生まれると、母は戯れに「天下を操るのはどうしてお前なのか」と言うと、たちまち言葉を出さずに頷いた。後に宮中の政務を掌握するようになり、その夢と符号したという。景雲年間(710-712)、再び昭容を追贈し、恵文と諡した。それより以前、母方の叔母の子の
王昱を拾遺とすると、王昱は諌めて「
お上は房陵に捕らわれ、武氏が思い通りになりました。ついに中興となり、天命があるので、武氏を寵遇してはなりません。
武三思は機会を利用していますが、天下は必ず失脚すると知っており、今昭容はお上がお信じになるところですが、武三思に従うなら、族滅されますよ」と言い、鄭氏はこれによって上官婉児を責めたが、従わなかった。
節愍太子が武三思を殺すと、やはり捜索されたから、始めて心配となって恐れた。遺制の草稿を作成すると、そこで
相王を宰相とした。
臨淄王が挙兵すると捕らえられた。上官婉児は詔の草稿を
劉幽求に見せ、劉幽求は臨淄王に申し上げたが、臨淄王は許さず、遂に誅殺された。開元年間(713-741)初頭、その文章を探し求めて編集し、
張説に詔して題篇をつくらせた。
睿宗の
粛明順聖皇后劉氏は、祖父の
劉徳威には、もともと
伝がある。儀鳳年間(676-679)、
帝が藩王であったとき、納れられて孺人となり、にわかに妃となった。
寧王・
寿昌公主・
代国公主の二公主を生んだ。帝が即位すると、皇后となった。ちょうどその時、帝は降格して皇嗣となり、再び妃となった。長寿二年(693)、戸婢(門番の宮女)に竇徳妃とともに巫蠱により
武后を呪詛したと誣告され、二人とも宮中で殺害され、葬った場所は秘密で知られなかった。長寿二年(693)、粛明皇后と追諡された。
后は温順善良で、最も礼の規則にしたがった。
帝が相王となると、納れられて孺人となった。帝が即位すると、徳妃に進んだ。
玄宗および
金仙公主・
玉真公主の二公主を生んだ。
粛明劉皇后と同時に追諡され、二人とも招魂されて東都の南に葬り、粛明劉皇后のを恵陵といい、后のを靖陵といい、別廟を立てて儀坤廟といい、祀ったという。帝が崩ずると、皇太后に追称し、粛明劉皇后とともに
橋陵に祀った。后は子によって貴くなったから、先に睿宗の室に祀った。粛明劉皇后は開元二十年(732)に廟に祀られることができた。
それより以前、太常寺は后の諡を加えて「大昭成」とした。ある者が言上して、「諡の法では「聖真」を引いて諡に冠するべきであって、「大昭成」とするのはよくありません。単一の帝王によってこれに配し、「聖昭」もしくは「睿成」とすべきです。複数の諡によって配するならば、「大聖昭成」・「聖真昭成」とすべきです」と述べた。また
太穆皇后の例を引用し、始めの諡は穆のみで、
高祖が崩ずると、帝の諡を合わせて太穆といい、太穆神皇后と追増した。
文徳皇后の諡は始め文徳で、
太宗が崩ずると、諡を合わせて文徳聖皇后とした。また范曄が「漢の光烈(皇后)」などと書いたことと比べた。太常寺は、「范曄は帝号によって皇后の諡を書き表しましたが、これは史家の記事の体裁であって、婦人は必ずしも夫と同じではありません。廟に入って皇后と称すのは、夫に関わっているからです。朝廷にあって太皇后と称すのは、子に関わっているからです。「文母(太姒)」というのは生前の号です。「文王」というのはすでに没した後の諡です。周公はどうして夫を婦人に従わせるようなことがありましょうか。漢の法は典拠とすべきではありません」と述べ、制書によって裁可された。天宝八載(749)詔によって、太穆皇后以下の六皇后に、あわせて「順聖」の二諡を増やし奉ったという。
玄宗の
皇后王氏は、同州下邽の人である。梁の冀州刺史の王神念の子孫である。
帝が臨淄王となると、召されて妃となった。宮中の変難を清めようとすると、大計に預かった。先天元年(712)、立てて皇后となった。長らく子がなく、
武恵妃がしばしば寵愛され、
后は不満を持ち、表立って謗った。しかし身分が下の者を慈しんでもとより恩があり、ついに誹り貶して指摘することをよしとしなかった。帝は密かに后を廃そうとはかり、そこで
姜晈に語った。姜晈はこの発言を漏洩させたから、そこで死んだ。后の兄の
王守一は恐れ、后のために呪いをし、僧の明悟に北斗を祭らせ、雷にあたった木を取って天地の文および帝の諱を刻んで身につけ、「皇后に子が生まれ、
武則天のようになりますように」と書いた。開元十二年(724)、事実が明るみにでると、帝は自ら弾劾を行って有罪とし、そこで役人に制詔して、「皇后は天命をたすけず、華は実ならず、心に反逆の思いがあり、これによって宗廟を受け、皇后として天下の模範とすべきではない。廃して庶人とする」と述べ、王守一に死を賜った。
それより以前、
后は寵愛が失われると、自らを安心させることができなかった。機会をとらえて泣いて、「陛下は一人困っていた時に阿忠が紫の半臂の服を脱いで小麦に替え、誕生日のために湯餅としたではありませんか」と言うと、
帝は后のことを憐れに思った。阿忠は、后がその父の
王仁皎のことを呼んだのだという。これによってしばらくして廃后された。当時、王諲が「翠羽帳賦」をつくって帝を風刺した。しばらくもしないうちに卒し、一品の礼で葬った。後宮は后を思慕し、帝もまた後悔した。宝応元年(762)、再び皇后の号を追贈した。
玄宗の
貞順皇后武氏は、恒安王
武攸止の娘であり、幼くして宮殿に入った。帝が即位すると、次第に寵愛を得て、当時、
王皇后が廃されると、恵妃に進冊し、その礼秩は皇后に匹敵した。
それより以前、
帝は潞州にいたとき、
趙麗妃が寵愛を得て、優れた立ち振舞があり、歌舞をよくした。開元年間(713-741)初頭、父や兄は高官となった。
妃が進冊されると、趙麗妃の寵愛は失われ、開元十四年(726)に卒し、諡を和という。太子
李瑛を生んだ。
皇甫徳儀は
鄂王を生み、
劉才人は
光王を生み、三人とも藩王時代からの邸宅の主であったが、後に寵愛が薄れ、妃が寵愛を独占した。生母楊氏を鄭国夫人に封じ、弟の武忠は国子祭酒となり、武信は秘書監となった。遂に皇后に立てられようとしたが、御史の
潘好礼が上疏して、「『礼』では、父母の仇とは、天を共にしません。『春秋』では、子は仇に復讐しなければ、子ではありません。陛下は武氏を皇后としたいと思われていますが、どうして天下の士に見えましょうか。妃の再従叔は
武三思で、従父は
武延秀ですが、二人とも法令に違反して世を常に乱し、天下は二人ともを憎んだのです。木が悪ければ木陰があっても、志のある士は休まないものです。盗泉という名の泉は水飛沫が飛んでいようが、清廉な者は飲みません。匹夫や匹婦であってもそうであるのに、ましてや天子ではどうでしょうか。慎重に華族より選んで、神祇の心を称えることを願うのです。『春秋』では、宗人(礼を司る者)の夏父が「妾を夫人とする礼は存在しない」と言っています。斉の桓公は葵丘の地で「妾を妻にしてはならない」と誓っています。このように聖人は嫡庶の分が明らかなのです。分が定まれば、隙を窺ったり競ったりするような心が止むのです。今、世間では皆、右丞相の
張説が皇后に立てた功績によって再び宰相に復帰するよう謀っているのだと申しており、今、
太子は恵妃が生んだ子ではなく、しかも妃に子があって、もし一たび帝王に連れ合いとなれば、皇太子の位は安泰ではなくなるでしょう。古人が皇后を変えることを諌めるわけは、理由があることなのです」と述べたから、遂に皇后に立てることが果たせなかった。
妃が子を生むと必ず容貌すぐれて聡明で、だいたい二王・一公主は、すべて自ら育てなかった。
寿王を生むと、帝は
寧王に命じて外邸で養わせた。また
盛王・
咸宜公主・
太華公主の二公主を生んだ。後に
李林甫は寿王が母の愛を受けているから、妃の意に沿って
太子・
鄂王・
光王を陥れ、三人とも廃されて死んだ。ちょうどその時、妃も薨じた。年四十歳あまりで、皇后および諡を追贈され、敬陵に葬られた。
玄宗の
元献皇后楊氏は、華州華陰県の人である。曾祖父の楊士達は、隋の納言となった。天授年間(690-692)、
武后の母の一族として、楊士達を追封して鄭王とし、父の
楊知慶は太尉となった。
帝が東宮であったとき、后は景雲年間(710-712)初頭に後宮に入って良媛となった。当時、
太平公主は帝を嫌って、宮中の左右の者はどちらかを支持して、細密なことまで詳細に必ず報告された。
媛が妊娠すると、帝は自ら平穏をたもつことができず、密かに侍読の
張説に「大変な時に我が子が多いのを願わないが、どうしようか」と語ると、張説に命じて堕胎薬を食事に混入させることとし、帝は密室で自ら堕胎薬を煮た。夢で戈を持った者が鼎の周りを三度とりまき、三度鼎をひっくり返した。そのことを張説に告げると、張説は「天命ですぞ」と言ったから、沙汰止みとした。男が生まれ、これが
粛宗となった。
帝が即位すると、貴嬪となった。その姉は、
節愍太子の妃である。それより以前、
粛宗が生まれると、占いで「養うべきではない」とあったから、そこで
王皇后に命じて育てさせた。皇后には子がなく、粛宗を撫育することは自分が生んだ子のようであった。後にまた
寧親公主を生んだが、薨じた。
張説は旧恩によって、そのため子の
張垍に寧親公主を娶らせた。粛宗が即位し、至徳二載(757)、
太上皇は蜀から役人に命じて尊称を議させ、遂に皇后号と諡を上冊した。宝応年間(762-763)末、
泰陵に祀った。
玄宗の
貴妃楊氏は、隋の梁郡通守の楊汪の四世の孫である。本籍を蒲州(山西省永済県)に移してから、永楽県の人となった。幼いときに孤児となり、叔父に育てられた。はじめ、
寿王の妃となった。開元二十五年(737)、
武恵妃が薨じて、後宮に
帝の御心にかなうものがなく、絶世の美人で、後宮に入れられてはいかがですかと言う者があって、宮廷に召し出された。優れたものだと思い、彼女自身の意志によるものだと称して、道教の女官とし、「太真」と名乗らせ、寿王に改めて
韋昭訓の娘を娶せ、それによって彼女は、寵愛を受けた。歌と舞いが巧みで、音楽に精通し、人並すぐれて聡く、相手の心をすばやく読みとるこつを心得ていた。帝は大層よろこび、ついに帝の寝所を一人占めするようになった。宮中では彼女を「奥さま」と呼び、儀礼は皇后と同じにされた。
天宝年間(742-756)初頭、貴妃に冊妃された。亡父の
楊玄琰に太尉・斉国公が追贈され、叔父の楊玄珪は光禄卿に、兄の
楊銛は鴻臚卿に、
楊錡は侍御史に抜擢されされ、
太華公主と結婚した。公主は
武恵妃が生んだ子で、
帝が一番寵愛していた娘である。また従祖兄の楊釗もだんだんに出世した。楊釗は後の
楊国忠である。三人の姉もみな美貌のほまれ高く、帝は彼女らを「姨(あねうえ)」と呼んだ。それぞれ
韓国夫人・
虢国夫人・
秦国夫人に封じられ、宮中に出入りした。貴妃に対する恩寵の厚さは、天下に鳴りひびき、いつも女官が粧いをこらして列に並ぶと、公主たちも貴妃に遠慮し、敢えて坐席につこうとしなかった。中央・地方の官庁では、求められたものを期日までに調達するため奔走し、そのきびしさは、詔勅以上であった。かくして四方からの献上品、贈賄物が貴妃の家に集まり、門前は市のようであった。ただ、
建平公主・
信成公主の二公主は、貴妃の家と仲たがいしており、ある日、貴妃からの腰元を追いかえした。しかし、そのため帝の怒りをかい、駙馬都尉の
独孤明は、官を失なってしまった。
ある日、楊貴妃は
帝の機嫌をそこね、
楊銛の屋敷に帰された。ところが、貴妃がいなくなると、帝は食事をとろうとされず、近従を鞭うつ有様であった。
高力士は、帝の御心をためそうと思い、殿中の宴会用の品と司農寺の贈答用の酒肴を、貴妃にとどけられてはいかがでしょうかと申しあげた。すると帝は、直ちに自分の食事を分け、貴妃に賜うた。そこで高力士は帝の御心を知り、その夕刻、貴妃を召し帰らせるよう願い出た。帝は、夜中にもかかわらず、
安興坊の坊門の鍵を下され、馬を馳せて召し出された。貴妃は帝にまみえると地に伏して謝まり、帝は釈然とされ、ねんごろに貴妃を慰められた。翌日、三夫人が倉事をたてまつった。音楽が奏せられると、帝はにわかに左右近従に賜わりものを下されたが、その額たるや数えきれない程であった。そんなことがあってから帝の寵愛はますます深くなった。また三夫人に化粧代として毎年百万銭が下された。楊銛は、上柱国の位をうけていたので、門前に戟を並べていたが、彼の家は、楊錡・
楊国忠・三夫人の五家と屋敷を並べ、宮殿をなぞらえていた。一室の費用は千万緡に達し、他家の屋敷ですぐれたものがあると、直ちに毀させ、修復造営は奢侈を極めて、人々に誇示し、土木工事の休むことがなかった。帝は、珍奇な品や貢物を入手されると、必ず分賜され、そのための使者は、往来につながる程であり、五家は一つのようであった。
貴妃が天子の遊幸にお伴をするときは、いつも高力士が貴妃の馬の手綱をひいた。貴妃のために錦や刺繍をととのえ、金玉をみがく者は千人におよび、貴妃の求めに応じて作った珍らしい衣服や秘密のもてあそびものは、千変万化で、とてもこの世のものとは思えなかった。四方のものは、きそって怪しく珍らしいものを作って献上し、それらは、しばしば人の耳目を驚かした。そのようなわけで、嶺南節度使の
張九章、広陵長史の王翼は、献上品が最も多かったという理由で出世し、張九章は銀青光禄大夫に進み、王翼は戸部侍郎にされた。かくして天下の人々は、風になびくが如く、そのやり方に従った。貴妃は南方特産の茘枝の実が好きで、いつも新鮮なものを求めた。そのため、駅ごとに騎馬を配し、数千里を走り続け、味の変らぬままで長安に運ばせた。
天宝九載(750)、貴妃はまた
帝の譴責をうけ、私邸に戻った。
楊国忠は
吉温に相談した。吉温は帝にまみえ、「婦人の過誤はまさに死罪にあたるものです。しかし一度は寵愛を受けた者を罰するのに、ことさらに外に出して帰めを受けさせようとなさるのですか」と申しあげた。帝は感動して箸を置き、宦官の
張韜光に詔し、これを賜与された。張韜光の訪問を受けた貴妃は、「わたくしの罪は万死にあたるものです。けれども膚髪のほかは、陛下から賜ったもので、いままさに死のうとするのに陛下に差しあげるものがありません」と言って、束の髪を切って差しだして、「これでお別れです」と言った。帝はこれを見て駭然とされ、急いで貴妃を召して宮廷に入れさせた。貴妃に対する礼遇は少しも変らなかった。
秦国夫人と楊国忠の屋敷に行幸し、両家に巨額の銭を下された。
楊国忠は剣南節度使を遥領したが、
帝は毎年十月、
華清宮に行幸された。五家の車騎がお伴をしたが、五家は家別に隊を作り、隊ごとに一色にそろえ、時折、五隊を合しては分れつつ行進した。そのきらびやかなことは、万花が咲き誇った如くであり、平地も谷間も、綾錦のようになった。楊国忠は剣南軍の軍旗を立てて先導した。隊の過ぎ去ったあと、道に簪や靴、珠翠や玉の緒が落ち散ばり、馥郁たる香が数十里さきまでかおった。天宝十載(751)正月十五日の夜、妃家の者と
広寧公主の伴の者とが門で争った。鞭や杖を振ってかきびすしく競い、公主は馬から落ち、危いところで脱出した。公主は
帝にまみえ、泣いて訴えた。それで帝は、詔して楊家の下僕を殺させたが、公主の夫で駙馬都尉の
程昌裔を左遷してしまった。楊国忠は宰相となり、息子の
楊昢は
万春公主を、
楊暄は
延和郡主を娶り、弟の
楊鑑は承栄郡主と結婚した。また帝は詔して貴妃の亡父楊玄談のために家廟をたて、みずからその碑に書せられた。
楊銛と
秦国夫人が早く死んでしまったため、
韓国夫人・
虢国夫人と楊国忠が、最も長く高貴の地位を享受した。ところが虢国夫人は、楊国忠と以前から不倫の関係にあり、大層評判になっていたが、恥じるところがなく、いつも参内するときは並んで馬を駆り、伴の者男女百余騎を従え、夜分には昼間の如く燭光をたき、衣服・化粧をこらし、顔には垂れ絹もしなかったから、当時の人々は「雄狐」と呼んだ。諸王の子弟が結婚したいときは、まず韓国夫人・虢国夫人に贈物してたのめば、必ず希望どうりそのようになったが、その謝礼は、数百千緡にも達した。
それより以前、
安禄山は辺境防備に戦功があり、
帝は寵愛されていた。詔して三夫人と義兄弟としたが、安禄山は貴妃を母のように仕え、入朝すると、必ず設宴して交歓した。安禄山が反乱をおこし、
楊国忠を誅することを名分とし、かつ貴妃とその姉たちの罪状をあげて非難した。帝は
皇太子を討伐軍の総監とし、帝位をゆずろうとされた。これを聞いた楊家の者達は大いに驚き、宮庭で泣いた。楊国忠は中に入って貴妃に伝えた。貴妃は死なせて下さいとおどかした。そのため帝は思いを阻まれ、沙汰止みとした。反乱軍の侵攻のため西に向かって馬嵬に至ったとき、
陳玄礼らは天下のためと称し、楊国忠を誅殺したが、楊国忠が死んでも兵士達は解散しようとしなかった。帝が
高力士をつかわし理由を尋ねさせると、彼らは「禍の本はまだ残っている」と答えた。帝はやむなく貴妃と訣別し、貴妃はひきさがって去り、道のかたわらの祠のもとで首をくくった。死体を紫のしとねで包み、道側にほうむった。ときに年三十八歳。
帝が蜀から帰る道すがら、馬嵬を通過すると、貴妃をとむらわせ、詔して改葬させようとした。しかし礼部侍郎の
李揆が「龍武軍の将士が
楊国忠を殺したのは、陛下の恩寵をよいことにして、反乱を早めたからで、天下国家のために行なったことです。今もし貴妃を改葬すれば、彼らは心おだやかではいられなくなるでしょう」と述べたので、帝は思いとどまられた。密かに宦官をつかわし、棺を用意して、他所に葬らせた。墓を開くと、前に埋めた香袋がなおそのままであった。宦官が持ち帰って献上すると、帝はみて、いたく悲しまれてはらはらと落涙された。工人に命じて貴妃の像を造らせて別殿に置き、朝に夕に行っては、これをみてむせび泣いた。
馬嵬の難のとき、
虢国夫人と
楊国忠の妻
裴柔らは、陳倉に落ちのびていたが、
県令は部下を率いてこれを追跡した。彼女らは賊軍だと思い、馬をすてて林中に走った。虢国夫人は、まずその二子を殺した。裴柔が「私も殺して下さい」と言うと、その娘とあわせて刺殺し、みずから自剄したが、死にきれなかった。役人は車に載せて運び、獄につないだ。夫人が「あなた達は国家の役人か、それとも賊軍か」と問うと、役人は「どちらにしても同じだ」と答え、そこで死んだ。陳倉の東の城壁の外に葬られた。
賛にいわく、ある者が
武氏・
韋氏の唐を乱すことが同一の轍を踏みながら、武氏は持ちこたえ、韋氏はしばらくして滅んだのは何故であろうかと言った。議するものはそうではないという。
武后は
高宗の時より天子の威福をはさみ、脅して全国を制し、跡継ぎの帝を追い払い、国号を改めたとはいえ、しかしながら賞罰は自分から出し、群臣に容赦せず、皇帝を僭称して天下を治めた。そのためよく天寿を全うでき、危乱であっても滅びなかったのである。韋氏は
夫に乗じ、朝廷で乱倫し、全国に
斜封官を出し、政治は放埒で一定せず、帝を毒殺し、
睿宗を引き込んで宰相としておきながら、権力を手放しているのを自分ではわからず、外戚を疎んじたから、人心は去り、その事で英傑が恨んでいるのを
玄宗に乗じられ、そのため拾い物をするかのように、あっという間に一族は皆殺しとなって、勢力は奪われたのである。しかしながら二人の皇后が後の王への戒めを残した、というのは厚かましいのにもほどがあろう。
最終更新:2025年03月11日 03:26