李孝恭

河間王李孝恭 りこうきょう

591-640
初唐の宗室・名将。李安の子。李琛の弟。李瑊李瓌の兄。高祖の又従兄弟にあたる。武徳元年(618)唐が成立すると山南招尉大使となって蜀の攻略を行い、朱粲を破り、武徳二年(619)信州総管となると江陵の蕭銑を攻撃して捕虜とし、荊州大総管となった。武徳六年(623)輔公祏が叛くと撃破し、揚州大都督に任じられた。北は淮水、東は長江を包括し、南は嶺南と広大な地域を統治し、石頭城を増強すると、謀反を疑われて召還され、無実が判明したが、以後江南の地に戻ることはなかった。礼部尚書となり、河間郡王に封ぜられた。貞観十四年(640)飲酒の最中に突然死した。唐の黎明期に南方の経略にあたり、太宗の属将にすぎなかった他の功臣とは異なって、独自の立場で指揮した将軍であり、凌煙閣二十四功臣の第二位に列せられた。子に李崇義李晦李崇真いる。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。

列伝

『新唐書』巻七十八 列伝第三 宗室 太祖諸子 河間元王孝恭 崇義
『旧唐書』巻六十 列伝第十 宗室 太祖諸子 代祖諸子 河間王孝恭 子崇義

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最終更新:2025年02月04日 20:09
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