HARU×haru
最終回
中編
結局、遥は一睡も出来なかった。驚くほど眠気が襲って来ないせいで、強制的に脳味噌が夜更かししてしまった。
見開いた両目はギンギンに赤く充血しており、迎えに来て早々、彼方は遥のその様に、軽く悲鳴を上げた。
「お、お姉ちゃん……?」
驚いている彼方に、遥は不健康な面を向けて世辞にも元気と言えない笑顔を浮かべながら、朝の挨拶を交わす。
「おはよう、彼方」
彼方に続いて病室に入ってきた両親も、というより、母親も彼方と同じ様に、目が真っ赤な遥に悲鳴は上げないものの一瞬引く。
あんた……どうしたの? と、母が、ついでに言葉に出さずとも、彼方が怪訝な表情で遥にそう聞くが、遥自身は只単に眠る事が出来なかった。それだけだ。
何度も寝よう、寝ようとと思っていた。思っていたが、夢の内容が気になりすぎていて、全く眠る事が出来なかった。
ついでに、羊もちゃんと数えては居たのだが、次第に止め時が分からなくなってきて、最終的には一万匹? 二万匹? きっとそれ位数えていた。
重度な寝不足とはいえ、幸いな事に身体に支障が出るレベルではない為、更衣室で寝巻きから普段着に着替える。
病院は朝食を取っていかれてはと薦めてくれたが、正直早く家に帰りたいので、朝食は家で食べる事にする。
自分を担当してくれた医者に謝礼したかったが、諸事情でいないと聞き、少し残念。
外では通行人等が、父が乗ってきた車をチラチラと見ており、遥は妙に気恥ずかしく感じる。
運転手を抱えた、シックな黒塗りの某高級車故に注目しない方がおかしい気もするが、何となく普通に帰るだけなのに恥ずかしく感じる。
退院する前に、安田に別れの挨拶をしたかったが安田はまだ眠っていた為そっとしておく。寝起きで間もないせいか、太陽が眩しく感じすぎて目が痛い。
父は助手席、遥は母と彼方と三人で後部座席に乗り込む。右を母、左を彼方に挟まれて、ちょっと息苦しいというか、居心地が狭いというか。
「もしかしてテレビでも見て夜更かししたんじゃないでしょうね?」
疑念の目を向けつつ、そう問い詰めてくる母に対して、遥はまだ眠い目を擦りながら答える。
「病院なんだし……そんな事、しないよ……」
「なら、何でそんなに目が充血してるのよ。凄く眠そうだし」
「色々気になる事があって……ごめん、なさ」
最後まで言い切る事無く、遥はこくんと俯いて深い眠りに陥る。
母が両肩を持って大きく揺らしてくれたため、ハッと目を覚ます。無意識に眠っていた。本当に、眠たい。
「家に帰ったらご飯を食べて、ゆっくり眠りなさい。それで明日、学校に行けない様だったら、休んでも構わない」
父が振り向いて、そう言ってくれた。遥は頷くとまた眠ってしまいそうなので、うん……と、か細い声で返事する。
……まだ、あの夢が頭の中でリフレインし続ける。夢である筈なのに、現実感がありすぎる、あの夢が。
自分に瓜二つな少女が語った言葉。その言葉の意味を。そして、少女に纏わる大きな謎。
どうして彼女が自分の名前を知っていたのか。どうして彼女が自分を励ましてくれたのか。ヘアゴムを指差した理由は?
何故少女は、遥が何時も気にしている欠点の部分をずばりと言い当ててきたのか? 何故、何故、何故。そんな単語が延々とループし続ける。
そして何より、どうして彼女が自分の前に現れたのか。そういう疑問を考えこむ内に、眠気が吹っ飛んでしまい、遥は寝不足の憂鬱な目に。
それにしても、と遥は思う。
全く無関係な筈の事象は、遥にとってどこか共通点を見出せそうで、見出す事が出来ない。
自分どころか大多数が体験した「筈」の大事故。
ポッカリと空いており、埋まる事が無い空白の一日の「記憶」。
何時の間にか握っていた、いや、握らされていたのかもしれない「ヘアゴム」。
そして、夢に出てきた自分とそっくりな「少女」。
一つ一つは一見、バラバラで共通性が限りなく薄いこれらの事象。だが、遥は共通点がある様に感じずにはいられない。
事故があまりにも衝撃的過ぎて、事故に遭った時の記憶が無くなる。これはまだ分かる。だが、その事故現場に来ていたという記憶、それすら無くなるのはどういう事なのか?
それも、事故現場を訪れていた大多数の人間がそうなるとは、明らかに不自然、奇妙。気のせい、で済む話では無い。
これは恐らく何者かに記憶を消された、としか思えない。非現実で突拍子も無いし、何より確信も確証も無いが、遥にはそうとしか思えないのだ。
だが、そんな大それた、あまりにも馬鹿馬鹿しく壮大な事が出来る筈が無いと、もう一人の自分が冷静に突っ込む。
しかし、それ以外に記憶が消える理由が思いつかない。不特定多数の人間達が一斉に記憶を無くす理由が、それしか。
……まぁ、この問題は幾ら考えても仕方が無いから取りあえず置いておくとして……ここからが切実に答えを知りたい問題だ。
今手首に嵌っているヘアゴム。記憶に無いが、大事に握りしめていたらしい、この至って普通のヘアゴム。
これをあの夢の中の少女は、指を指してこう、言った。
思い出して。私が何時もそばにいる事。
もしかしたらこのヘアゴムは……あの少女のヘアゴムかもしれない。私のではなく、あの少女が何らかのメッセージを伝える為に。
……それじゃあ私に伝えたいメッセージって何? そもそも、何であの子は私の……何なの?
と、こんな風に深々と、色々な事を考えていく内に、遥はとうとう眠れなくなってしまった。全く持って、眠れなくなってしまった。
不自然で不可思議で不気味な事があまりにも多すぎる。これを気にしないほど、遥の神経は図太くない。
答えが欲しい。とにかく簡潔で明快な、それでいて道筋が通った答えが今すぐ、欲しい。
……頭が痛い。眠気ならまだしも、考え過ぎて頭がズキズキと鈍く痛む。偏頭痛まで呼びこんでしまったのだろうか……朝食はいらない、ぶっちゃけ眠りたい。
「……お姉ちゃん?」
ふと、彼方が遥の顔を心配そうに覗きこんできた。一旦、頭の中を切り替えて遥は出来るだけ明るい顔を装う。彼方を心配させたくない。
「何? 彼方」
「何か凄く、難しそうな顔してるけど……大丈夫?」
彼方に言われて、遥は正面のミラーに自分の顔を映して、驚く。目の下に大きなクマが出来ていて、乾いた両目と合わさって物凄く不健康そうな顔付きになっている。
こんな顔になるほど悩んでいたのかと客観的に驚く。しかしそうなる位、頭が落ち着かない。考えるべき事が多すぎて、処理が追いつかず熱暴走するコンピューターの様になってる。
家に帰ったら両親と彼方、それに朝食には悪いが、すぐさまベッドに直行して寝たい。寝て少しでも、この収まらないモヤモヤと解消されないイライラを晴らしたい。
それで明日は気持ちを完璧に入れ替えて、元気に学校に行こう。元の生活に戻り、一切合財をきっぱり忘れよう。遥は心の中で強くそう、誓う。
「……お姉ちゃん」
彼方がじっと、遥の目を見つめる。見つめながら、聞いてきた。母に聞かれぬ様、小声で。
「何か無理してない……よね? 凄く大きな悩み事とか抱えてるとか……」
そう聞かれ、遥は言葉に詰まる。言葉に詰まってしまった。もしかしたら、彼方にはどう取り繕っても見抜かれているかもしれない。
同じ屋根の下で仲良く暮らしてきた姉妹だ。寧ろ、秘密を見抜かれない方がおかしい。
それ以前に、遥は感情がすぐに表情に出てきてしまう、言うなれば嘘が下手な人種である為、初っ端からバレバレではあった。
遥はえっと……その……と、分かりやすく口籠りながら、視線を横に大きく逸らし、彼方になるたけ明るい小声で返答する。
最早隠す気ゼロな、あからさまに嘘を吐いている事が分かる態度である。
「べ、別に~……? 別に何でも無い……よ? うん、何でも無い」
という割には、激しく目が泳いでいるので何の意味も無い。彼方はジトっとした目になり、バレバレな嘘を吐いている姉に無言の圧力を掛けてくる。
遥は隠し事はしない、というかしたくない性格だと自分自身分かっていながらも、どうしても正直に話す事が出来ない。
彼方は身を乗り出し、ますます圧力を掛けて遥に隠し事を吐かせようとするが、遥は堪える、必死に、堪える。
正直に言えば、隠し事にする必要は無い。遥自身、彼方に本当の事を話してあげたいと思ってはいる。
しかしこれは、上手く説明出来る様な問題じゃない。あまりにも突拍子が無さすぎて当の本人が混乱しているのに、ぼんやりと打ち明けた所で、彼方を悩ませるだけだ。
彼方の事は信頼してるし、大好きな妹だとは思っている。だが、この一件はあくまで自分の問題。関係が無い彼方まで巻き込む訳にはいかない。
遥は思う。この件は、人に頼っちゃいけない。自分で解決しないといけない問題だと、切実に思う。
彼方は数十秒程、遥を詰問していたが、頑なに口を割らない遥に根負けしたのか、溜息を吐く。
そして、申し訳無さげにトーンを落とした口調で謝ってきた。少し悪ノリしてしまった様だ。
「問い詰めてごめんね、お姉ちゃん。でもどうしても気になっちゃって……」
圧力から解放されて、遥はホッとしつつ彼方に目を逸らす事無く、ちゃんと向ける。向けて、今の心情を明かす。
あの問題の内容自体は言えないものの、嘘を吐いていた事は事実だ。だからちゃんと、謝る。謝らなきゃいけない。人して。
「私こそごめん、彼方。確かに彼方が言う様に、悩み事というか、結構思い悩んでる事があるんだ」
「じゃあ話してくれても……」
「だけどそれは……それは私自身の問題だから。私の手で解決したい問題だから……」
遥は、彼方の目を見据え、言い放つ。その目も、その言葉にも、嘘は無い。
「だからお願い、彼方。気持ちは凄く嬉しいけど……あくまで気持ちだけ、貰っておくね」
遥の言葉に、彼方は一瞬、目を閉じる。閉じて、遥の目を見据え返すと、小さく頷いた。
「分かった。ホントはお姉ちゃんの力になりたいけど……お姉ちゃんの問題は、お姉ちゃんが解決しなきゃね。だけど」
遥の両目が、彼方を映す。映っている彼方の姿は、姉を心配する、優しく可愛らしい妹、その者である。
「だけど、あまり一人で溜めこんじゃ駄目だよ。お姉ちゃん、溜めこむ時は凄く溜めこむから……。
だから何か悩んでたり、難しいなって時には正直に話してほしいな。だって」
そこで彼方は微笑んだ。無邪気で、本当に姉の助けになりたい、力になりたいと思っている、心強い笑顔。
「姉の助けになれない妹なんて、カッコ悪いもん。お姉ちゃんの為なら私、なんだって力になるから」
「……彼方」
遥の胸は急に、締め付けられた様に苦しくなる。苦しい。こんなにも心が苦しく、それでいて切なくなるのは初めてだ。
本気で妹は、彼方は自分の事を思ってくれている。本気で心配してくれて、悩みを分かち合おうとしてくれる。
そんな妹に……私は、嘘を吐いていた。勝手に、自分だけで問題を解決しようと突っ走っていた。
彼方を巻きこんじゃいけないとか、自分で解決しなきゃいけないとか格好付けてるけど、本当は只の強がり。本当は、誰かに話したくて堪らなかったんじゃないかと、もう一人の自分が問う。
何も一人で抱え込んで、苦しむ必要は無かったと、遥は思い直す。
こんなにも頼れるパートナーがすぐ近くにいたというのに、何を……悩んでいたのか。
……話そう。遥は思う。自分が記憶喪失に陥ってた事、それだけではなく、自分と同じ境遇の人達が記憶喪失に陥っているという事。
それに、夢の中で出てきた自分とそっくりな少女の事。全部吐露して楽になろうと、遥は思う。きっと彼方は茶化さず、真面目に聞いてくれると思う。
と、自動車が徐々に減速していき、やがて停車する。外を見ると、馴染みの筈なのに偉く懐かしく感じる、大きな自宅が見えた。
「私はこのまま仕事に出かける。今日一日無理せず、ゆっくり休みなさい。遥」
「うん。お仕事頑張ってね、お父さん」
そのまま仕事へと出向く父親を見送って、遥は踵を返し、自宅へと振り返る。
こんなにも、自宅が大きく、それでいて逞しく見えた事は今まで無かった。帰る場所がある。それがこんなにも、安心できる事なんて。
彼方が先導して玄関へと歩いていく。続いて母も歩き始める、と、母は立ち止まると、振り向いて遥に言ってきた。
「落ち着いたら彼方と出かけてきたら?」
「えっ……」
「良く分からないけど、何か悩んでるんでしょ? 家に籠ってウジウジしてるより、彼方と気分転換した方が答えが浮かんでくるかもよ」
……どうやら、彼方とのさっきの会話は全部筒抜けだった様だ。一応聞かれない様に小声で交わしていたのだが……。
やっぱりお母さんには敵わないなと思いながらも、遥は少し迷う。そりゃ、彼方にすぐにでもあの事を打ち明けたいとは思う。
けれど、眠気が激しくて眠りたい気持ちもある。外に出るか、それとも眠って生気を養うか……すると彼方が駆けてきて、母に言う。
「駄目だよお母さん。お姉ちゃん疲れてるみたいだから、家で休ませてあげないと」
フォローに入ってくれる妹の優しさが五臓六腑に染みわたる。とはいえ、外に出て気分転換するのも悪くない。
「でもお姉ちゃん、ずっと病院にいて減入っちゃってるからね。少し外に出て気分を晴らした方が良いんじゃない?」
「だけど……お姉ちゃんはどう?」
「えっ?」
自分の事だというのに、急に話を振られて遥は惑う。いや、話自体は聞いていたのだが。
彼方の言う事も最もだが、母の言う事も間違っていない。どちらも遥の事を思っての助言な為、どっちが良い、と一概に言えない。
だから遥は迷っている。正直言えば、抱えている胸のモヤモヤを彼方にすぐ伝えたい部分もある。けれど自室でホッとしたい気分もある。
……良し、決めた。
遥は俯いている顔を上げると、彼方に顔を向けて、言った。
「彼方」
彼方は名前を呼ばれ、嬉しそうに答える。
「何? お姉ちゃん」
「荷物、部屋に置いたら付き合ってくれる? 朝ご飯食べる前に、近くを散歩したいんだ」
―――――――××××××―――――――
荷物を自室へと置く為、家へと入る。目に入る物、玄関や階段、リビングとか、ありふれた筈の光景が懐かしく、愛しく感じる。
ドアノブを回してドアを開き、自室に踏み入れる。彼方と相部屋で、彼方が寮に行ってからは一人で使っていた部屋。
なのに、何故だろうか。一人で過ごしていた感じがしない。何でだろうか……誰かと、過ごしていた気がする。彼方……じゃない?
―――――――頭を過ぎる、何か。遥は頭を押さえる。頭痛? 頭痛に伴う何かが一瞬……。
「お姉ちゃん」
彼方が待ち切れない様子で呼んでくる。気のせい、多分。そう考えて、遥は彼方との散歩に思考を切り替える。
遥の自宅近くには、季節に応じて豊かな表情を見せてくれる木々と、スワンボートが運用される程に広い池が特徴である大きな公園がある。
たまの休日になると、遥はここの散歩道を歩いている。清々しく晴れた日に歩くと、空気が良い事もあって心身共にリフレッシュできるからだ。
平日の、まだ朝方である為か、それほど人は歩いていない。時たま、ジャージに身を包んでジョギングしている人や、中睦まじくクウォーキングしている老夫婦を見かける位だ。
いつもは結構歩いている人を見かけるのだが、それは遥が土日に歩いているからかもしれない。
「こうやって二人でいるのも久しぶりだね~」
横を歩いている彼方が、しみじみとそう言った。姉妹だからか、歩くスピードも歩幅もピッタリ合っている。
寮生活をしていて、夏休みとかの長期の休みや、特別な行事や事情が無い限り、彼方が帰ってくる事は無い。ので、こうして一緒にいるのが凄く久しぶりな様に感じる。
とはいえ、彼方にとっては、姉が事故に巻き込まれたからという、あまりに不穏な理由で里帰りさせてしまった。その事に、遥は激しく罪悪感を感じる。
彼方自身はそんな事を微塵と思っておらず、姉を心配してくれた上に、嬉しそうに付き合ってくれているのを見ると尚更。
「うん、そうだね……。ねぇ、彼方」
呼び掛けると、彼方はニコニコして答える。こんなに嬉しそうなのを見ると、ホントに申し訳なく感じる。
「何々?」
「寮の生活はどう? 楽しい?」
遥の質問に、彼方は大きく頷いて、答える。
「すっごく楽しいよ。仲の良い友達もたくさんできたし、行事は面白いし、授業は分かりやすいし」
「そっかそっか。なら良かった」
屈託の無い笑顔と返事。遥は自分も嬉しくなる。妹が毎日楽しく、過ごしている事が分かって。
「お姉ちゃんはどう? 毎日楽しい?」
邪気の無い、彼方の興味深々といったその質問に、遥はすぐに返事する事が出来ない。答える事が出来ず、まごつく。視線が彼方を背く。
楽しいかと言われれば勿論YESと答える。充実しているかと言われれば、迷うことなく頭を縦に振れる。
仲間もいれば、勉強も楽しく、部活動も上手く行っている。理想的な学園生活と、客観的にも思える。
だが、上手く言えないけど何かが、何かが足りない。何か、言葉に出来ない何かが欠けている。
足りない。記憶? いや、記憶じゃない。でも欠けている物と言えば、記憶としか言えない。
違う……記憶じゃない。何が欠けているのか、自分でも……分からない。
俯く、彼方から逃げる様に、無意識に足が早くなる。顔を背けたまま、遥は、言った。
「……楽しいよ。うん。凄く凄く、楽しい」
取りあえずそう、遥は答える。彼方を心配させない様に、答えてはおく。
遥自身は気付いていない。今の遥の口調は、非常にそっけなく、心ここにあらず。そんな感じだった。
さっきまで彼方に全部打ち明けようと考え、思考がポジティブになった筈、なのに。
また、遥は閉じ籠ってしまう。失った何かが、遥を縛り付けてしまっている。遥の顔は、病院を出た時の不健康な顔付きに戻ってしまっている。
何も言わず、遥も彼方も歩いている。仲良く明るく散歩に出たかったのに、今は重苦しい沈黙が、二人の間に流れている。
ふと、彼方は歩いていた足を止めた。気付かずに、遥は数メートル程そそくさと歩く。ようやく、彼方が横を歩いていない事に気付き、自らも足を止める。
振り返って、遥はどうしたんだろうと、疑問符を浮かべて彼方に呼び掛ける。彼方は深く俯き、遥の方を見ようとしない。
「彼方?」
遥が呼び掛けているにも関わらず、彼方は何も答えない。答えないし、顔を上げようともしない。
彼方の唐突な変化に一抹の不安を感じ、遥は小走りで彼方の元へと近寄って、聞く。
「……彼方? どうしたの?」
彼方は。答えない。そんな彼方に、遥は段々足元がおぼつかなくなってくる。
怒らせてしまう理由は多々ある。自分が彼方の立場だったら、こんな暗くて独り善がりで、ハッキリと物事を言わない姉なんて嫌っても仕方が無いと思う。
どうして彼方がこうしているのかハッキリとは分からない。けれどぼんやりと、分かる。
何にせよ、彼方に何を言われても反論なんてできない。そう思いながら、遥は彼方の言葉を待っている、と。
「……お姉ちゃん」
―――――――彼方は、泣いていた。涙混じりの揺れている声で、遥に、聞いてきた。
「……私、頼りない?」
病院では両親が泣き崩れているのに一人、泣かない様に必死に堪えていた彼方が、止めどなく涙を流している。
今まで我慢していた反動なのか、彼方自身止めようとしているのに、両目から溢れる涙は止まりそうに無い。
遥は驚き、慌てて否定する。てっきり怒られると思っていたが、まさか泣かれるとは思いもしなかったからだ。
「そ、そんな、そんな事無いよ! 彼方は凄い頼りがいがあるよ!」
「でもお姉ちゃん……ホントの事、話してくれないじゃない。私……」
彼方は泣いている顔を姉に見られたくないからだろう、掌で隠しつつ、涙を拭おうとする。しかし掌の隙間から、涙は零れてくる。
「私……力になりたいのに……お姉ちゃんを、助けてあげたいのに……」
――――――――遥は気付く。気付かされる。
本当に苦しいのは、彼方の方じゃないかと。思い返してみれば、病院で父と母が泣いている中でも、彼方は堪えていた。きっと、耐えていた。
泣かない様に泣かない様にと。多分あれは……自分の感情を押し殺してまでも、姉を支えようとしていたのだろうと。
そんな健気で、姉思いな妹を、私は……。彼方は少しでも落ち着いてきたのか、息を深く吐いて、呼吸を整える。
「彼方……」
「ごめん……」
ようやく涙が止まったのか、彼方は遥を見つめて、謝る。まだ涙声ではあるが、心情を吐露する。
「ごめん、お姉ちゃん。私が泣いちゃ……泣いちゃ駄目、だよね。一番辛いのはお姉ちゃん……なのに。
けど、私……私、お姉ちゃんに何もしてあげれない。お姉ちゃんが苦しんでるのに、何も……出来ない」
遥は一歩、前に詰め寄る。詰め寄って、両手を大きく上げて、彼方の両頬に両手を当てる。
温かく、ホッとする両手が、彼方を優しく包み込む。遥は姉として、彼方に語りかける。
「そんな事無いよ、彼方」
彼方は泣き濡れて赤くなっている目を遥に向ける。こうしていると、身長差や顔付きは遥の方が幼いのに、遥の方がずっと、大人に見える。
「彼方は私の自慢の妹だよ。背が高くて、勉強もスポーツも出来て、家庭的で……良く出来た、自慢の妹だと立派に胸を張れる。
私は心から、彼方が妹で良かったと思う。誇りに思う。何もしてあげれないなんて言わないでよ、彼方。傍にいてくれるだけで、安心できるから」
そうしてにこっと、いつも通りの笑顔を浮かべて、遥は彼方に言った。
「頼りにしてるよ、彼方」
遥がそう言うと、彼方は聞き返す。逆に、さっきまで大人びて見えた彼方が、今は実年齢よりも幼く見える。
「……ホント? ホントに私を頼りにして……くれるの? お姉ちゃん」
遥は勿論! と頷きつつ、大きな声で答える。そして手首に巻いたヘアゴムを見せる。
随分時間が掛かってしまったが、これから全部、彼方に話そうと思う。抱えている諸々を全て、彼方に。
「じゃあ彼方、早速だけど聞いてくれる? 私の、悩み事……相談、したい事」
彼方は泣き顔から、姉に良く似た、弾ける様に可愛らしい笑顔で、答えた。
「うん!」
―――――――××××××―――――――
それから姉と妹は、遥と彼方は再び歩き出す。少しばかり曇り空だったが、今は太陽が出てきて陽射しが差してきたお陰で、陽気が良くなってきた。
歩きながら遥はヘアゴムを見せつつ、彼方に抱え込んでいた事を全て、包み隠さず話す。
自分と同じ境遇の人間が、事故の記憶をぽっかりと無くしている事の不自然さ。何時の間にか握っていたらしいヘアゴム。
そして、夢の中で話しかけてきた少女の事。少女の話の意味。包み隠さず、全てを話した。
彼方は茶化す事も無ければ、否定する事も無く、時折相槌を打ちながら真面目に遥の話を聞く。
話を聞いていく内に、彼方の顔はだんだん難しくなっていく。と言っても、不愉快だとか不快だからそうなっている訳ではなく、彼方なりに何かを考えている為だ。
一切合財を全て話し終わり、遥は一息吐く。
「……これが全部。ごめんね、一方的に話し続けちゃって」
「ううん。面白い話だったよ、お姉ちゃん。それにしても……」
うむむ……と、彼方は呟くと、俯いたまま無言になる。しばらく歩いていると、考えが纏まったのだろう、ゆっくりと顔を上げて、自らの考えを話し出した。
彼方の、というより、他人の見解が知りたい為、遥はちょっとだけワクワクしながら彼方の考えを聞く。
「あくまでこれは私自身の考えだけど……参考になるかな」
「良いよ。何でも言ってみて」
「まず……お姉ちゃんと同じく記憶を無くした人達の事だけど、これはお姉ちゃんと同じ考え。多分誰かがお姉ちゃん含めて、事故に遭った人達の記憶を消したんだと思う。
あくまで推測だけど、気付かないうちに催眠術とか掛けられたんじゃないかな。事故があったという記憶自体が消える様に。
何でそんな大掛かりな事をするかと考えると……」
そこで彼方は幾分シリアスな雰囲気で、そして心許なさそうな口調で、続きを話す。
「一番考えられる理由は……事故の原因を知られたくなかったから、か、事故現場に、知られちゃいけない物があったかのどっちか。
愉快犯や悪戯にしては規模が大きすぎるしね。そういう変な人達なら、お姉ちゃん一人か、もしくは数人程度をターゲットにするのが限界だろうし。
……何にせよ、穏やかな事じゃないよ。だからお姉ちゃん、こう言ったらなんだけどあんまり深入りしない方が良いと思う……警察とかに任せた方が良いよ」
「分かった……考えてみる」
「良く考えてね、ホントに」
そう見解を話す彼方の口振りは、真剣そのものだ。姉を危険な、厄介な目に合わせたくない、そういうニュアンスを含んでいる様に思える。
彼方に言われるまでもなく、遥は消えた記憶に関してもうこれ以上、考えるというか追及する事はやめようと思う。
警察……も多分、動きだすであろう。事故の被害者が記憶を無くしているなんて、トンデモない事件になりそうだけど。
不気味だし納得はまだまだ出来ない。
けれど人は忘れる事が出来る生き物だ。いつかひっそりと、そんな事あったっけ? と忘れる事が出来ると……遥は自分自身を信じてみる。
記憶喪失の件はそれで良いとして……遥にとって彼方の見解を聞きたいのは、次の問題だった。そう、夢の中の少女の件だ。
「それで……お姉ちゃんが一番気になってるであろう、夢のそっくりさんの方だけど」
「うん。正直その問題について彼方の考えを聞きたいな」
「……こっちは、ごめん、やっぱりいくら考えても分からないや。現実に出てきたりするなら、ドッペルゲンガ―とかそういう超常現象の線もあるんだけど。
でも、その女の子、お姉ちゃんが辿ったかもしれない別の世界のお姉ちゃんだって名乗ったんだよね。何か面白いね、それ」
「面白言って……本気で悩んでるんだよ」
「ごめん、でも興味深いというか、面白いなぁと。別の世界の自分が自分を励ましに来る……か」
こういう、妙な出来事でも楽しもうとする好奇心旺盛な部分は誰から受け継いだんだろうと遥は思う。母からか。
「にしても、何で今私を励ましに来たんだろう。それが凄く不思議だよ……」
「どうしても励ましに来たかったんだよ、きっと。別世界のお姉ちゃんは。でもお姉ちゃん、頑張らなきゃいけない事って最近ある?」
そう、彼方に言われて遥は記憶を巻き戻す。最近頑張らなきゃいけない事……あっ、と声が出る。
そう言えば今週末に、所属している部である弓道部で、全国大会へと出場するチームを決める地区大会があった。
遥は代表チームの一人、というか主将として選ばれており、手腕を奮わなければならないのだ。だからこそ、早く元の生活に戻らねばいけない。
「何か思い当たる事あったの?」
彼方の問いに、遥は軽く頷く。
「ちょっとね」
遥の返事に彼方はやっぱり、と言うとヘアゴムに目を向けながら、言った。
「やっぱり、その事で励ましに来たんだって。別の世界のお姉ちゃんは。そのヘアゴムはお守りとしてくれたんだと思う。絶対そうだよ」
自信たっぷりに断定する彼方に、遥は苦笑しながらも内心、そうかもしれない、と思い始める。
別の世界から来た彼女は、そういう理由で励ましに来たのかもしれない。何かと自信を無くしそうになる遥に。
だからこの……このヘアゴムを、渡しに来たのかもしれない。そう思うと、遥はふっと、身体が軽くなった気がする。
抱えていた疑問に一応の解決が付いた事と、彼方という心強いパートナーに、言いたい事を吐きだせたから。
―――――――頭に稲妻の如く、また何かが走った。一瞬揺らめきそうになるが、耐える。何か……何か、思いだそうとしてる?
彼方に全て話し終えた頃に、丁度散歩コースを一周し終えた。
「家、帰ろっか。彼方。お腹空いちゃった」
「そうだね、帰ろう」
―――――――××××××―――――――
公園を後にして、我が家へと向かう歩道を姉妹は歩く。そろそろ春が過ぎて、夏の訪れを兆す様に並木は綺麗な緑色に染まっている。
遥はぼんやりと、この後どうしようかと考える。当初の予定通りに、朝食を食べた後自室に籠って寝るにはあまりに勿体無い。折角彼方が付き合ってくれるのに。
ここは姉妹水入らずで、近くに買い物にでも出かけてみようかと思う。母が言っていた様に、気分転換にも最適だし。
「あのさ、彼方」
そう名前を呼ぶと、彼方は頬を綻ばしていてにこにこという表現がぴったりな笑みを浮かべて顔を向けてくる。
そんな彼方を見て、この表情、笑い方が本来のこの子の姿だなと、遥は思う。
「帰って朝ご飯食べたら、一緒に買い物行こうか?」
遥の提案に、彼方は目を輝かせながらうん! と待ってましたと言わんばかりの元気な反応を見せる。
「でも何処に買い物行く? 私は何処でも良いよ、彼方が行きたい所なら何処でも」
「私も正直特に……あ、でもお姉ちゃんの行きたい所なら、何処でも良いよ」
それにしても、こうして笑みを振りまいている彼方の顔は幼い。
問い詰められていた時は、大人びすぎてドキッとしたけど、こうして一緒にいると、まだまだ年相応の女の子だと、遥は思う。
才色兼備で頼りがいのある存在とはいえ、唯一無二の妹には変わりない。まだまだ、姉として守っていかなきゃいかないな、とも思う。
と、向こうから誰かが全力で駆け出してくる。遥よりも背が低い二人。少年と、少女。
「おはよーございまーす!」
遥と彼方に挨拶しながら、その二人は駆け抜けていく。前を少年が走り、後ろから息を荒げて必死に少女が付いていく。
二人とも、背中には新品だろうか汚れも傷も無いランドセルを背負っている。背丈やランドセルからして、近くで通学している小学生であろう。
少年は両腕に、学校で使うのだろうか? サッカーボールを抱えている。遥はにこやかな笑顔で少年少女を見送っていく。
……何か引っかかり、歩いている彼方に聞く。今日は……あれ?
「彼方、今日って……」
「平日だよ、お姉ちゃん。今の時間は丁度、通学・出勤の時間帯だから」
いつも散歩する日は土日な為、どうも曜日の感覚がマヒしている。まぁ、いつも通りの生活に戻れば労することなく戻ってくるだろうが。
早くいつも通りの日常に戻らねば。弓道部の大会もある事だし。両頬を自らの両手で軽くビンタし、気合いを入れる。
歩き出そうとするが、遥は妙に、さっきの少年少女が気になって振り向いた。少年はとにかく一生懸命走っていたが、勢い余ってコケているかもしれない。
振り向いた直後、遥の予想通りに、少年が勢い余って前方へと派手に転んでしまった。
あちゃー……と、予感が当たってしまった事に失笑しつつ、遥は助けに行こうと走り出す。転んだ拍子に、サッカーボールが横の道路へとコロコロと転がる。
少年はすぐに立ち上がると、道路へと転がっていったサッカーボールを取りに行こうと歩道を飛び越えた。
―――――――急に、遥の鼓動が早くなる。同時に、頭の中で何かを思い出しそうな時の頭痛が激しく響いてくる。思わず倒れそうになるが、片手で頭を抑え、痛みを堪える。
その時、地面を僅かに揺らしながら重低音を響かせる音が聞こえてくる。遥は直感で、その音がトラックの音だと気付く。向こうから走ってくるようだ。
早く歩道に戻らねば危険だというのに、少年は転がっているサッカーボールを拾う事に夢中になっており、トラックが近づいてきている事にまるで気付いていない。
すぐさま、遥は歩道から道路へと渡り、少年を歩道へと戻す為に駆け出しつつ、大声を上げる。
「君! 危ないよ!」
どうにかサッカーボールを掴み、抱き抱えた少年は、遥に気付いて顔を向ける。だが既に、目前までトラックが迫ってきている。
例え少年が逃げようと左右に逃げようとしても、重傷は免れない。かといって、前に逃げても、運転手がブレーキを掛けた所で充分巻き込まれてしまう距離だ。
運転手はと言えば、徹夜か夜通し運転していたのだろうか、眠たげに目を擦っていて、少年はおろか、走ってくる遥にも気付いていない。
遥は少年の元へと駆け寄る。もう少年を抱いて走ったとしても、絶対に間に合わない。このままでは、遥も少年も一緒に惨い目に遭う事になる。
「お姉ちゃん! 戻ってきて! お姉ちゃん!」
遥の行動に気付いて、彼方は切迫した叫び声を上げる。が、もう遅い。二人に気付いた運転手が慌ててブレーキを踏み込むが、もうトラックは止まれない。
少女は両手で目を覆い、しゃがみ込む。少年は自分に降りかかっている事態に、絶望感に打ちひしがれ目を強く瞑り、遥に抱き付いた。遥はしゃがんで、少年を抱き締める。
どうしようもなく、彼方はひたすらお姉ちゃんと絶叫する。だが、無情にも残された時間は、後数秒しかない。
限りなく絶望的な状況だというのに、遥は、不思議な事に恐怖を感じない。
いや、恐怖を感じていないと言えば嘘になる。自分でもなんて命知らずな事をしているのだろうとは思う。
だが。だが、不思議な事に遥にはある種、否、確実に助かる算段があった。
頭痛は、無い。代わりに、欠けていた何かが、埋まっていく。次第に、失っていた欠片がパズルの様に埋まっていく。
「大丈夫……大丈夫だよ」
死の恐怖に怯え、震えている少年の頭を撫でながら、遥は何故かトラックに向けて、ヘアゴムを巻いた右腕を上げた。
「絶対に……大丈夫」
思い出す。忘れていた、絶対に忘れちゃいけない大事な事を、思い出していく。
どう考えても助からない状況なのに、遥は確信していた。少年の命も、そして自分自身も絶対に助かる方法を、見出している。
朧げでふわふわとしていた、欠けていた断片が確固たる確信を得て元の姿へと戻っていく。遥は、思い出した。やっと、思い出した。
自分を絶対に信じる。自分が持つ可能性を否定する事無く、心の底から信じて見る。そうすればきっと――――――――奇跡も、起こせる。
そうだよね、一条さん。
遥は目を閉じる。トラックと衝突するまで、後、三秒。
突如として、ヘアゴムの周りを、オーブの様に淡い光が纏わり始める。
その光は遥の右手に集束すると、眩く輝きだす。力強く右手を広げて、遥は―――――――叫んだ。
「感覚――――――――共有!」
―――――――××××××―――――――
……思い出せたよ。全部。こういう事なんだね。一条さん。
思い出せたんだね、神守さん。でも無茶しすぎじゃない?
一条さん程じゃないよ。……忘れる訳無いよ。あんな……あんな凄い事、忘れる筈が無い。
……初めて。神守さんが初めてだよ。こんな事出来たの。
何々? どんな事?
今まで私と出会ってきた「私」は皆、綺麗にスネイルさんから記憶を消されて、思い出す事は無かった。
けど、神守さんは初めて、私と出会った事を思い出した。それだけでなく、感覚共有を引き出す事までやってのけた。こんな事が出来たのは、神守さんが初めてだよ。
スネイル……その人が、私が一条さんと会った記憶を消したの? それだけじゃなくて、一緒に戦った記憶も……。
うん。別の世界に干渉した時には、関わった人の記憶を消去するのが鉄則なの。そうしてその人の人生に混乱が生じない様に。
ひいては、その時代の社会に大きな混乱を起こさない為に。
それじゃあ……私だけじゃなくて、○○に居て事故に遭った……あの怪物に襲われた人達が皆、記憶が無いのも……。スネイルの仕業?
まぁ……そういう事。スネイルさんがやったの。ついでに、感覚共有を封じたのも。
……そういう事、だったんだ。色々と釈然としない事が多いけど……一先ず、一条さんと出会った事も、戦った事も全部……全部、幻じゃないんだね。
うん。私が神守さんと会った事も、一緒にあいつを倒した事も全部、現実。本当に起こった事だよ。
良かった……。本当に、良かった。それだけでも分かって良かったよ。
私も。神守さんが私の事を思い出してくれて嬉しいよ。何時も慣れっことはいえ、本当は凄く寂しいから……忘れられるって。
うん。私も心からそう思う。
……そろそろ、行くね。もう一度こうやって、会えてよかった。
待って、一条さん。
何?
この……感覚共有って力。私……。私……どうすれば良いかな。凄い力なのは分かるけど正直……凄すぎて持て余すというか……。
神守さんの思う通りにすれば良いと思うよ。神守さんならきっと、進む方向に間違いは無いから。
信じてるよ、神守さん。また、どこかで―――――――。
―――――――××××××―――――――
彼方は閉じている瞳を、恐る恐る開いていく。はらはらと涙を流しながら、肩を震わして姉の最後を受け入れようとしたのだ、が。
聞こえてくる筈の、生々しい衝突音は聞こえてこない。それに、道路には血が……血が一滴も流れてい、ない?
涙を手で拭いつつ、彼方は遥へと目を向ける。そこには……後数センチメールといった所で、停止しているトラックがあった。
その前には、少年を強く抱きしめて守っている、遥。生きて……生きて、いる。
「……ちゃん」
彼方の足は自然に走り出す。何も考えず、その人の名を、叫ぶ。
「……お姉ちゃん」
生きてた。世界に二人といない、大切な姉が―――――――生きていた。
「お姉ちゃん!」
彼方の叫びに呼応する様に、遥はしゃがんだ状態から立ち上がった。
遥は正直、自分が何をしたのかが思い出せない。ただ、無我夢中で少年を救おうと駆け出した事は覚えてる。
それから……それから急に、頭の中で色々な事が自分の意思とは関係なく蘇ってきた。一緒に、根拠の無い自信が沸き上がってきた。
絶対に、あの子を護れる。私なら絶対に、護る事が出来る。そうやって無謀と言える位、自分を信じてみた結果―――――――それが、出来た。
感覚共有。失われた筈のその能力を、遥は過去と共に取り返した事で、少年と自分自身を守る事が出来た。
遥はゼノブレイカーを倒す時の、弓を変化させた時の応用で前面にマナのバリアを張ってみせた。
トラックを破壊する事も、運転手を危険な目に合わせる事無く、そのバリアはトラックを紙一重で吸収して勢いを瞬時に殺す。
そして役目を終えたマナは、キラキラと光り輝きながら、緩やかに消滅していった。
遥は右腕へと視線を移す。ヘアゴムが無くなっている。恐らく、トラックから身を守るためのバリアを作りだした時に、昇華されてしまったのだろう。
遥は、思いだす。もう一人の自分、一条遥という少女と出会った事を。そして感覚共有という力を得、怪物に打ち勝った事を。
遥は全てを、思い出していた。ほぼ全てを取り返す事が出来た。記憶も力も、そして、失っていた自信を。
気付けば彼方が、呆然とも唖然とも、何とも言えない表情を浮かべて立っていた。
「彼……方……?」
彼方は遥を見ると、ポロポロと、涙を流し始めた。そして、子供の様に大きく口を開けて号泣し始めた。
一体どういう事……と思いながら、前を見ると、ほぼ寸前で止まっているトラックが見えた。
走ってきてた時は異常な大きさに感じたが、我に帰るとせいぜい中型のトラックであった。
ふと、右腕、というより右手首を見ると、嵌めていたゴムヘアが無くなっている事に気づく。マナの消費時に巻き添えになってしまったのだろう。
一条から貰った大切な宝物だったため、惜しい気持ちはある。あるが、逆に一条が力を貸してくれて助けてくれた事にしておく。
奇跡的に、トラックには傷一つ付いていない。中の運転手の容態が気になる……多分気絶してるのだろうか、と。
「えっと……」
わんわんと泣いている彼方はともかく、少年と一緒に通学している少女はどうなったのだろうかと、そちらに目を向ける。
少女は腰が抜けたのか、地面にぺたんと座っており、ハンカチで目元を拭っている。リアクションは少ないものの、その顔は心から安堵している様に思える。
そして……遥は身を呈して、守る事が出来た少年を見下ろす。
「……大丈夫?」
サッカーボールを両腕に抱えたまま泣きじゃくっており、時折嗚咽を漏らす。声にならない声で、遥に何度もありがとうと感謝する。
遥は再度しゃがむと、頭を撫で撫でして、子供をあやす母親の様な口調で、少年に言った。
「もうあんな危ない事はしちゃ駄目だよ。君がいなくなったら、悲しむ人が沢山いるんだから」
遥がそう諭すと、男の子は何度も、何度も、深く大きく頷いた。
ついでといった感じで、遥は少年を両腕で抱き抱え、ゆったりと歩道へと戻っていく。どうにか無理矢理にでも泣き止んだ彼方は、ハッとして遥の後を付いていく。
歩道に戻った遥は、少女の元へと少年を下ろすと、無言のまま踵を返し、自宅へと歩いていく。その途中。
「彼方、警察に通報して。居眠り運転してた人がいるって」
遥の言葉に、状況に理解が追い付かず、ポカンとしている彼方はあ、う、うんと良く分からないものの、携帯を取り出す。
「それと」
人差し指を口に当てて、遥は彼方に、とある約束を取り付ける。
「ここでの事は秘密ね。私と、彼方と、それとあの子達だけの」
携帯を取り出した彼方は、遥の言葉に当初疑問に思ったが、すぐに理解する。
どんな事をしたのかは見れなかったが、多分姉が起こした出来事は、非現実的な出来事である故、知られない方が都合が良いからだろうと。
一体どんな原理、というか感じで遥があんな事が出来たのかは分からない。分からないからこそ、秘密にしておく。何にせよ、姉もあの子も死ななかった。それで良い。
「お姉ちゃん!」
ふと、後ろから声を掛けられて、歩き出した遥と彼方は振り向いた。
少年少女が、頭を下げて遥に感謝の意を示す。パッと顔を上げた少年が、遥に涙目混じりの笑顔で、言った。
「ありがとう……ありがとう!」
遥は軽く手を振って、立ち去ろうとする。
すると、言葉を今まで発しなかった少女が、勇気を振り絞るように大声を出した。
「あ、あの!」
少女は、遥を羨望している様な目付きで見上げながら、言葉を続ける。
「お姉さん……お名前……」
「名前……教えて下さい」
遥は答える。今日一日で初めて、心の奥底からの実に良い笑顔で、答える。
「名前を教えるほどの事はしてないよ。ただの……」
「ただの、女子高生って事で」
最終回
中編
結局、遥は一睡も出来なかった。驚くほど眠気が襲って来ないせいで、強制的に脳味噌が夜更かししてしまった。
見開いた両目はギンギンに赤く充血しており、迎えに来て早々、彼方は遥のその様に、軽く悲鳴を上げた。
「お、お姉ちゃん……?」
驚いている彼方に、遥は不健康な面を向けて世辞にも元気と言えない笑顔を浮かべながら、朝の挨拶を交わす。
「おはよう、彼方」
彼方に続いて病室に入ってきた両親も、というより、母親も彼方と同じ様に、目が真っ赤な遥に悲鳴は上げないものの一瞬引く。
あんた……どうしたの? と、母が、ついでに言葉に出さずとも、彼方が怪訝な表情で遥にそう聞くが、遥自身は只単に眠る事が出来なかった。それだけだ。
何度も寝よう、寝ようとと思っていた。思っていたが、夢の内容が気になりすぎていて、全く眠る事が出来なかった。
ついでに、羊もちゃんと数えては居たのだが、次第に止め時が分からなくなってきて、最終的には一万匹? 二万匹? きっとそれ位数えていた。
重度な寝不足とはいえ、幸いな事に身体に支障が出るレベルではない為、更衣室で寝巻きから普段着に着替える。
病院は朝食を取っていかれてはと薦めてくれたが、正直早く家に帰りたいので、朝食は家で食べる事にする。
自分を担当してくれた医者に謝礼したかったが、諸事情でいないと聞き、少し残念。
外では通行人等が、父が乗ってきた車をチラチラと見ており、遥は妙に気恥ずかしく感じる。
運転手を抱えた、シックな黒塗りの某高級車故に注目しない方がおかしい気もするが、何となく普通に帰るだけなのに恥ずかしく感じる。
退院する前に、安田に別れの挨拶をしたかったが安田はまだ眠っていた為そっとしておく。寝起きで間もないせいか、太陽が眩しく感じすぎて目が痛い。
父は助手席、遥は母と彼方と三人で後部座席に乗り込む。右を母、左を彼方に挟まれて、ちょっと息苦しいというか、居心地が狭いというか。
「もしかしてテレビでも見て夜更かししたんじゃないでしょうね?」
疑念の目を向けつつ、そう問い詰めてくる母に対して、遥はまだ眠い目を擦りながら答える。
「病院なんだし……そんな事、しないよ……」
「なら、何でそんなに目が充血してるのよ。凄く眠そうだし」
「色々気になる事があって……ごめん、なさ」
最後まで言い切る事無く、遥はこくんと俯いて深い眠りに陥る。
母が両肩を持って大きく揺らしてくれたため、ハッと目を覚ます。無意識に眠っていた。本当に、眠たい。
「家に帰ったらご飯を食べて、ゆっくり眠りなさい。それで明日、学校に行けない様だったら、休んでも構わない」
父が振り向いて、そう言ってくれた。遥は頷くとまた眠ってしまいそうなので、うん……と、か細い声で返事する。
……まだ、あの夢が頭の中でリフレインし続ける。夢である筈なのに、現実感がありすぎる、あの夢が。
自分に瓜二つな少女が語った言葉。その言葉の意味を。そして、少女に纏わる大きな謎。
どうして彼女が自分の名前を知っていたのか。どうして彼女が自分を励ましてくれたのか。ヘアゴムを指差した理由は?
何故少女は、遥が何時も気にしている欠点の部分をずばりと言い当ててきたのか? 何故、何故、何故。そんな単語が延々とループし続ける。
そして何より、どうして彼女が自分の前に現れたのか。そういう疑問を考えこむ内に、眠気が吹っ飛んでしまい、遥は寝不足の憂鬱な目に。
それにしても、と遥は思う。
全く無関係な筈の事象は、遥にとってどこか共通点を見出せそうで、見出す事が出来ない。
自分どころか大多数が体験した「筈」の大事故。
ポッカリと空いており、埋まる事が無い空白の一日の「記憶」。
何時の間にか握っていた、いや、握らされていたのかもしれない「ヘアゴム」。
そして、夢に出てきた自分とそっくりな「少女」。
一つ一つは一見、バラバラで共通性が限りなく薄いこれらの事象。だが、遥は共通点がある様に感じずにはいられない。
事故があまりにも衝撃的過ぎて、事故に遭った時の記憶が無くなる。これはまだ分かる。だが、その事故現場に来ていたという記憶、それすら無くなるのはどういう事なのか?
それも、事故現場を訪れていた大多数の人間がそうなるとは、明らかに不自然、奇妙。気のせい、で済む話では無い。
これは恐らく何者かに記憶を消された、としか思えない。非現実で突拍子も無いし、何より確信も確証も無いが、遥にはそうとしか思えないのだ。
だが、そんな大それた、あまりにも馬鹿馬鹿しく壮大な事が出来る筈が無いと、もう一人の自分が冷静に突っ込む。
しかし、それ以外に記憶が消える理由が思いつかない。不特定多数の人間達が一斉に記憶を無くす理由が、それしか。
……まぁ、この問題は幾ら考えても仕方が無いから取りあえず置いておくとして……ここからが切実に答えを知りたい問題だ。
今手首に嵌っているヘアゴム。記憶に無いが、大事に握りしめていたらしい、この至って普通のヘアゴム。
これをあの夢の中の少女は、指を指してこう、言った。
思い出して。私が何時もそばにいる事。
もしかしたらこのヘアゴムは……あの少女のヘアゴムかもしれない。私のではなく、あの少女が何らかのメッセージを伝える為に。
……それじゃあ私に伝えたいメッセージって何? そもそも、何であの子は私の……何なの?
と、こんな風に深々と、色々な事を考えていく内に、遥はとうとう眠れなくなってしまった。全く持って、眠れなくなってしまった。
不自然で不可思議で不気味な事があまりにも多すぎる。これを気にしないほど、遥の神経は図太くない。
答えが欲しい。とにかく簡潔で明快な、それでいて道筋が通った答えが今すぐ、欲しい。
……頭が痛い。眠気ならまだしも、考え過ぎて頭がズキズキと鈍く痛む。偏頭痛まで呼びこんでしまったのだろうか……朝食はいらない、ぶっちゃけ眠りたい。
「……お姉ちゃん?」
ふと、彼方が遥の顔を心配そうに覗きこんできた。一旦、頭の中を切り替えて遥は出来るだけ明るい顔を装う。彼方を心配させたくない。
「何? 彼方」
「何か凄く、難しそうな顔してるけど……大丈夫?」
彼方に言われて、遥は正面のミラーに自分の顔を映して、驚く。目の下に大きなクマが出来ていて、乾いた両目と合わさって物凄く不健康そうな顔付きになっている。
こんな顔になるほど悩んでいたのかと客観的に驚く。しかしそうなる位、頭が落ち着かない。考えるべき事が多すぎて、処理が追いつかず熱暴走するコンピューターの様になってる。
家に帰ったら両親と彼方、それに朝食には悪いが、すぐさまベッドに直行して寝たい。寝て少しでも、この収まらないモヤモヤと解消されないイライラを晴らしたい。
それで明日は気持ちを完璧に入れ替えて、元気に学校に行こう。元の生活に戻り、一切合財をきっぱり忘れよう。遥は心の中で強くそう、誓う。
「……お姉ちゃん」
彼方がじっと、遥の目を見つめる。見つめながら、聞いてきた。母に聞かれぬ様、小声で。
「何か無理してない……よね? 凄く大きな悩み事とか抱えてるとか……」
そう聞かれ、遥は言葉に詰まる。言葉に詰まってしまった。もしかしたら、彼方にはどう取り繕っても見抜かれているかもしれない。
同じ屋根の下で仲良く暮らしてきた姉妹だ。寧ろ、秘密を見抜かれない方がおかしい。
それ以前に、遥は感情がすぐに表情に出てきてしまう、言うなれば嘘が下手な人種である為、初っ端からバレバレではあった。
遥はえっと……その……と、分かりやすく口籠りながら、視線を横に大きく逸らし、彼方になるたけ明るい小声で返答する。
最早隠す気ゼロな、あからさまに嘘を吐いている事が分かる態度である。
「べ、別に~……? 別に何でも無い……よ? うん、何でも無い」
という割には、激しく目が泳いでいるので何の意味も無い。彼方はジトっとした目になり、バレバレな嘘を吐いている姉に無言の圧力を掛けてくる。
遥は隠し事はしない、というかしたくない性格だと自分自身分かっていながらも、どうしても正直に話す事が出来ない。
彼方は身を乗り出し、ますます圧力を掛けて遥に隠し事を吐かせようとするが、遥は堪える、必死に、堪える。
正直に言えば、隠し事にする必要は無い。遥自身、彼方に本当の事を話してあげたいと思ってはいる。
しかしこれは、上手く説明出来る様な問題じゃない。あまりにも突拍子が無さすぎて当の本人が混乱しているのに、ぼんやりと打ち明けた所で、彼方を悩ませるだけだ。
彼方の事は信頼してるし、大好きな妹だとは思っている。だが、この一件はあくまで自分の問題。関係が無い彼方まで巻き込む訳にはいかない。
遥は思う。この件は、人に頼っちゃいけない。自分で解決しないといけない問題だと、切実に思う。
彼方は数十秒程、遥を詰問していたが、頑なに口を割らない遥に根負けしたのか、溜息を吐く。
そして、申し訳無さげにトーンを落とした口調で謝ってきた。少し悪ノリしてしまった様だ。
「問い詰めてごめんね、お姉ちゃん。でもどうしても気になっちゃって……」
圧力から解放されて、遥はホッとしつつ彼方に目を逸らす事無く、ちゃんと向ける。向けて、今の心情を明かす。
あの問題の内容自体は言えないものの、嘘を吐いていた事は事実だ。だからちゃんと、謝る。謝らなきゃいけない。人して。
「私こそごめん、彼方。確かに彼方が言う様に、悩み事というか、結構思い悩んでる事があるんだ」
「じゃあ話してくれても……」
「だけどそれは……それは私自身の問題だから。私の手で解決したい問題だから……」
遥は、彼方の目を見据え、言い放つ。その目も、その言葉にも、嘘は無い。
「だからお願い、彼方。気持ちは凄く嬉しいけど……あくまで気持ちだけ、貰っておくね」
遥の言葉に、彼方は一瞬、目を閉じる。閉じて、遥の目を見据え返すと、小さく頷いた。
「分かった。ホントはお姉ちゃんの力になりたいけど……お姉ちゃんの問題は、お姉ちゃんが解決しなきゃね。だけど」
遥の両目が、彼方を映す。映っている彼方の姿は、姉を心配する、優しく可愛らしい妹、その者である。
「だけど、あまり一人で溜めこんじゃ駄目だよ。お姉ちゃん、溜めこむ時は凄く溜めこむから……。
だから何か悩んでたり、難しいなって時には正直に話してほしいな。だって」
そこで彼方は微笑んだ。無邪気で、本当に姉の助けになりたい、力になりたいと思っている、心強い笑顔。
「姉の助けになれない妹なんて、カッコ悪いもん。お姉ちゃんの為なら私、なんだって力になるから」
「……彼方」
遥の胸は急に、締め付けられた様に苦しくなる。苦しい。こんなにも心が苦しく、それでいて切なくなるのは初めてだ。
本気で妹は、彼方は自分の事を思ってくれている。本気で心配してくれて、悩みを分かち合おうとしてくれる。
そんな妹に……私は、嘘を吐いていた。勝手に、自分だけで問題を解決しようと突っ走っていた。
彼方を巻きこんじゃいけないとか、自分で解決しなきゃいけないとか格好付けてるけど、本当は只の強がり。本当は、誰かに話したくて堪らなかったんじゃないかと、もう一人の自分が問う。
何も一人で抱え込んで、苦しむ必要は無かったと、遥は思い直す。
こんなにも頼れるパートナーがすぐ近くにいたというのに、何を……悩んでいたのか。
……話そう。遥は思う。自分が記憶喪失に陥ってた事、それだけではなく、自分と同じ境遇の人達が記憶喪失に陥っているという事。
それに、夢の中で出てきた自分とそっくりな少女の事。全部吐露して楽になろうと、遥は思う。きっと彼方は茶化さず、真面目に聞いてくれると思う。
と、自動車が徐々に減速していき、やがて停車する。外を見ると、馴染みの筈なのに偉く懐かしく感じる、大きな自宅が見えた。
「私はこのまま仕事に出かける。今日一日無理せず、ゆっくり休みなさい。遥」
「うん。お仕事頑張ってね、お父さん」
そのまま仕事へと出向く父親を見送って、遥は踵を返し、自宅へと振り返る。
こんなにも、自宅が大きく、それでいて逞しく見えた事は今まで無かった。帰る場所がある。それがこんなにも、安心できる事なんて。
彼方が先導して玄関へと歩いていく。続いて母も歩き始める、と、母は立ち止まると、振り向いて遥に言ってきた。
「落ち着いたら彼方と出かけてきたら?」
「えっ……」
「良く分からないけど、何か悩んでるんでしょ? 家に籠ってウジウジしてるより、彼方と気分転換した方が答えが浮かんでくるかもよ」
……どうやら、彼方とのさっきの会話は全部筒抜けだった様だ。一応聞かれない様に小声で交わしていたのだが……。
やっぱりお母さんには敵わないなと思いながらも、遥は少し迷う。そりゃ、彼方にすぐにでもあの事を打ち明けたいとは思う。
けれど、眠気が激しくて眠りたい気持ちもある。外に出るか、それとも眠って生気を養うか……すると彼方が駆けてきて、母に言う。
「駄目だよお母さん。お姉ちゃん疲れてるみたいだから、家で休ませてあげないと」
フォローに入ってくれる妹の優しさが五臓六腑に染みわたる。とはいえ、外に出て気分転換するのも悪くない。
「でもお姉ちゃん、ずっと病院にいて減入っちゃってるからね。少し外に出て気分を晴らした方が良いんじゃない?」
「だけど……お姉ちゃんはどう?」
「えっ?」
自分の事だというのに、急に話を振られて遥は惑う。いや、話自体は聞いていたのだが。
彼方の言う事も最もだが、母の言う事も間違っていない。どちらも遥の事を思っての助言な為、どっちが良い、と一概に言えない。
だから遥は迷っている。正直言えば、抱えている胸のモヤモヤを彼方にすぐ伝えたい部分もある。けれど自室でホッとしたい気分もある。
……良し、決めた。
遥は俯いている顔を上げると、彼方に顔を向けて、言った。
「彼方」
彼方は名前を呼ばれ、嬉しそうに答える。
「何? お姉ちゃん」
「荷物、部屋に置いたら付き合ってくれる? 朝ご飯食べる前に、近くを散歩したいんだ」
―――――――××××××―――――――
荷物を自室へと置く為、家へと入る。目に入る物、玄関や階段、リビングとか、ありふれた筈の光景が懐かしく、愛しく感じる。
ドアノブを回してドアを開き、自室に踏み入れる。彼方と相部屋で、彼方が寮に行ってからは一人で使っていた部屋。
なのに、何故だろうか。一人で過ごしていた感じがしない。何でだろうか……誰かと、過ごしていた気がする。彼方……じゃない?
―――――――頭を過ぎる、何か。遥は頭を押さえる。頭痛? 頭痛に伴う何かが一瞬……。
「お姉ちゃん」
彼方が待ち切れない様子で呼んでくる。気のせい、多分。そう考えて、遥は彼方との散歩に思考を切り替える。
遥の自宅近くには、季節に応じて豊かな表情を見せてくれる木々と、スワンボートが運用される程に広い池が特徴である大きな公園がある。
たまの休日になると、遥はここの散歩道を歩いている。清々しく晴れた日に歩くと、空気が良い事もあって心身共にリフレッシュできるからだ。
平日の、まだ朝方である為か、それほど人は歩いていない。時たま、ジャージに身を包んでジョギングしている人や、中睦まじくクウォーキングしている老夫婦を見かける位だ。
いつもは結構歩いている人を見かけるのだが、それは遥が土日に歩いているからかもしれない。
「こうやって二人でいるのも久しぶりだね~」
横を歩いている彼方が、しみじみとそう言った。姉妹だからか、歩くスピードも歩幅もピッタリ合っている。
寮生活をしていて、夏休みとかの長期の休みや、特別な行事や事情が無い限り、彼方が帰ってくる事は無い。ので、こうして一緒にいるのが凄く久しぶりな様に感じる。
とはいえ、彼方にとっては、姉が事故に巻き込まれたからという、あまりに不穏な理由で里帰りさせてしまった。その事に、遥は激しく罪悪感を感じる。
彼方自身はそんな事を微塵と思っておらず、姉を心配してくれた上に、嬉しそうに付き合ってくれているのを見ると尚更。
「うん、そうだね……。ねぇ、彼方」
呼び掛けると、彼方はニコニコして答える。こんなに嬉しそうなのを見ると、ホントに申し訳なく感じる。
「何々?」
「寮の生活はどう? 楽しい?」
遥の質問に、彼方は大きく頷いて、答える。
「すっごく楽しいよ。仲の良い友達もたくさんできたし、行事は面白いし、授業は分かりやすいし」
「そっかそっか。なら良かった」
屈託の無い笑顔と返事。遥は自分も嬉しくなる。妹が毎日楽しく、過ごしている事が分かって。
「お姉ちゃんはどう? 毎日楽しい?」
邪気の無い、彼方の興味深々といったその質問に、遥はすぐに返事する事が出来ない。答える事が出来ず、まごつく。視線が彼方を背く。
楽しいかと言われれば勿論YESと答える。充実しているかと言われれば、迷うことなく頭を縦に振れる。
仲間もいれば、勉強も楽しく、部活動も上手く行っている。理想的な学園生活と、客観的にも思える。
だが、上手く言えないけど何かが、何かが足りない。何か、言葉に出来ない何かが欠けている。
足りない。記憶? いや、記憶じゃない。でも欠けている物と言えば、記憶としか言えない。
違う……記憶じゃない。何が欠けているのか、自分でも……分からない。
俯く、彼方から逃げる様に、無意識に足が早くなる。顔を背けたまま、遥は、言った。
「……楽しいよ。うん。凄く凄く、楽しい」
取りあえずそう、遥は答える。彼方を心配させない様に、答えてはおく。
遥自身は気付いていない。今の遥の口調は、非常にそっけなく、心ここにあらず。そんな感じだった。
さっきまで彼方に全部打ち明けようと考え、思考がポジティブになった筈、なのに。
また、遥は閉じ籠ってしまう。失った何かが、遥を縛り付けてしまっている。遥の顔は、病院を出た時の不健康な顔付きに戻ってしまっている。
何も言わず、遥も彼方も歩いている。仲良く明るく散歩に出たかったのに、今は重苦しい沈黙が、二人の間に流れている。
ふと、彼方は歩いていた足を止めた。気付かずに、遥は数メートル程そそくさと歩く。ようやく、彼方が横を歩いていない事に気付き、自らも足を止める。
振り返って、遥はどうしたんだろうと、疑問符を浮かべて彼方に呼び掛ける。彼方は深く俯き、遥の方を見ようとしない。
「彼方?」
遥が呼び掛けているにも関わらず、彼方は何も答えない。答えないし、顔を上げようともしない。
彼方の唐突な変化に一抹の不安を感じ、遥は小走りで彼方の元へと近寄って、聞く。
「……彼方? どうしたの?」
彼方は。答えない。そんな彼方に、遥は段々足元がおぼつかなくなってくる。
怒らせてしまう理由は多々ある。自分が彼方の立場だったら、こんな暗くて独り善がりで、ハッキリと物事を言わない姉なんて嫌っても仕方が無いと思う。
どうして彼方がこうしているのかハッキリとは分からない。けれどぼんやりと、分かる。
何にせよ、彼方に何を言われても反論なんてできない。そう思いながら、遥は彼方の言葉を待っている、と。
「……お姉ちゃん」
―――――――彼方は、泣いていた。涙混じりの揺れている声で、遥に、聞いてきた。
「……私、頼りない?」
病院では両親が泣き崩れているのに一人、泣かない様に必死に堪えていた彼方が、止めどなく涙を流している。
今まで我慢していた反動なのか、彼方自身止めようとしているのに、両目から溢れる涙は止まりそうに無い。
遥は驚き、慌てて否定する。てっきり怒られると思っていたが、まさか泣かれるとは思いもしなかったからだ。
「そ、そんな、そんな事無いよ! 彼方は凄い頼りがいがあるよ!」
「でもお姉ちゃん……ホントの事、話してくれないじゃない。私……」
彼方は泣いている顔を姉に見られたくないからだろう、掌で隠しつつ、涙を拭おうとする。しかし掌の隙間から、涙は零れてくる。
「私……力になりたいのに……お姉ちゃんを、助けてあげたいのに……」
――――――――遥は気付く。気付かされる。
本当に苦しいのは、彼方の方じゃないかと。思い返してみれば、病院で父と母が泣いている中でも、彼方は堪えていた。きっと、耐えていた。
泣かない様に泣かない様にと。多分あれは……自分の感情を押し殺してまでも、姉を支えようとしていたのだろうと。
そんな健気で、姉思いな妹を、私は……。彼方は少しでも落ち着いてきたのか、息を深く吐いて、呼吸を整える。
「彼方……」
「ごめん……」
ようやく涙が止まったのか、彼方は遥を見つめて、謝る。まだ涙声ではあるが、心情を吐露する。
「ごめん、お姉ちゃん。私が泣いちゃ……泣いちゃ駄目、だよね。一番辛いのはお姉ちゃん……なのに。
けど、私……私、お姉ちゃんに何もしてあげれない。お姉ちゃんが苦しんでるのに、何も……出来ない」
遥は一歩、前に詰め寄る。詰め寄って、両手を大きく上げて、彼方の両頬に両手を当てる。
温かく、ホッとする両手が、彼方を優しく包み込む。遥は姉として、彼方に語りかける。
「そんな事無いよ、彼方」
彼方は泣き濡れて赤くなっている目を遥に向ける。こうしていると、身長差や顔付きは遥の方が幼いのに、遥の方がずっと、大人に見える。
「彼方は私の自慢の妹だよ。背が高くて、勉強もスポーツも出来て、家庭的で……良く出来た、自慢の妹だと立派に胸を張れる。
私は心から、彼方が妹で良かったと思う。誇りに思う。何もしてあげれないなんて言わないでよ、彼方。傍にいてくれるだけで、安心できるから」
そうしてにこっと、いつも通りの笑顔を浮かべて、遥は彼方に言った。
「頼りにしてるよ、彼方」
遥がそう言うと、彼方は聞き返す。逆に、さっきまで大人びて見えた彼方が、今は実年齢よりも幼く見える。
「……ホント? ホントに私を頼りにして……くれるの? お姉ちゃん」
遥は勿論! と頷きつつ、大きな声で答える。そして手首に巻いたヘアゴムを見せる。
随分時間が掛かってしまったが、これから全部、彼方に話そうと思う。抱えている諸々を全て、彼方に。
「じゃあ彼方、早速だけど聞いてくれる? 私の、悩み事……相談、したい事」
彼方は泣き顔から、姉に良く似た、弾ける様に可愛らしい笑顔で、答えた。
「うん!」
―――――――××××××―――――――
それから姉と妹は、遥と彼方は再び歩き出す。少しばかり曇り空だったが、今は太陽が出てきて陽射しが差してきたお陰で、陽気が良くなってきた。
歩きながら遥はヘアゴムを見せつつ、彼方に抱え込んでいた事を全て、包み隠さず話す。
自分と同じ境遇の人間が、事故の記憶をぽっかりと無くしている事の不自然さ。何時の間にか握っていたらしいヘアゴム。
そして、夢の中で話しかけてきた少女の事。少女の話の意味。包み隠さず、全てを話した。
彼方は茶化す事も無ければ、否定する事も無く、時折相槌を打ちながら真面目に遥の話を聞く。
話を聞いていく内に、彼方の顔はだんだん難しくなっていく。と言っても、不愉快だとか不快だからそうなっている訳ではなく、彼方なりに何かを考えている為だ。
一切合財を全て話し終わり、遥は一息吐く。
「……これが全部。ごめんね、一方的に話し続けちゃって」
「ううん。面白い話だったよ、お姉ちゃん。それにしても……」
うむむ……と、彼方は呟くと、俯いたまま無言になる。しばらく歩いていると、考えが纏まったのだろう、ゆっくりと顔を上げて、自らの考えを話し出した。
彼方の、というより、他人の見解が知りたい為、遥はちょっとだけワクワクしながら彼方の考えを聞く。
「あくまでこれは私自身の考えだけど……参考になるかな」
「良いよ。何でも言ってみて」
「まず……お姉ちゃんと同じく記憶を無くした人達の事だけど、これはお姉ちゃんと同じ考え。多分誰かがお姉ちゃん含めて、事故に遭った人達の記憶を消したんだと思う。
あくまで推測だけど、気付かないうちに催眠術とか掛けられたんじゃないかな。事故があったという記憶自体が消える様に。
何でそんな大掛かりな事をするかと考えると……」
そこで彼方は幾分シリアスな雰囲気で、そして心許なさそうな口調で、続きを話す。
「一番考えられる理由は……事故の原因を知られたくなかったから、か、事故現場に、知られちゃいけない物があったかのどっちか。
愉快犯や悪戯にしては規模が大きすぎるしね。そういう変な人達なら、お姉ちゃん一人か、もしくは数人程度をターゲットにするのが限界だろうし。
……何にせよ、穏やかな事じゃないよ。だからお姉ちゃん、こう言ったらなんだけどあんまり深入りしない方が良いと思う……警察とかに任せた方が良いよ」
「分かった……考えてみる」
「良く考えてね、ホントに」
そう見解を話す彼方の口振りは、真剣そのものだ。姉を危険な、厄介な目に合わせたくない、そういうニュアンスを含んでいる様に思える。
彼方に言われるまでもなく、遥は消えた記憶に関してもうこれ以上、考えるというか追及する事はやめようと思う。
警察……も多分、動きだすであろう。事故の被害者が記憶を無くしているなんて、トンデモない事件になりそうだけど。
不気味だし納得はまだまだ出来ない。
けれど人は忘れる事が出来る生き物だ。いつかひっそりと、そんな事あったっけ? と忘れる事が出来ると……遥は自分自身を信じてみる。
記憶喪失の件はそれで良いとして……遥にとって彼方の見解を聞きたいのは、次の問題だった。そう、夢の中の少女の件だ。
「それで……お姉ちゃんが一番気になってるであろう、夢のそっくりさんの方だけど」
「うん。正直その問題について彼方の考えを聞きたいな」
「……こっちは、ごめん、やっぱりいくら考えても分からないや。現実に出てきたりするなら、ドッペルゲンガ―とかそういう超常現象の線もあるんだけど。
でも、その女の子、お姉ちゃんが辿ったかもしれない別の世界のお姉ちゃんだって名乗ったんだよね。何か面白いね、それ」
「面白言って……本気で悩んでるんだよ」
「ごめん、でも興味深いというか、面白いなぁと。別の世界の自分が自分を励ましに来る……か」
こういう、妙な出来事でも楽しもうとする好奇心旺盛な部分は誰から受け継いだんだろうと遥は思う。母からか。
「にしても、何で今私を励ましに来たんだろう。それが凄く不思議だよ……」
「どうしても励ましに来たかったんだよ、きっと。別世界のお姉ちゃんは。でもお姉ちゃん、頑張らなきゃいけない事って最近ある?」
そう、彼方に言われて遥は記憶を巻き戻す。最近頑張らなきゃいけない事……あっ、と声が出る。
そう言えば今週末に、所属している部である弓道部で、全国大会へと出場するチームを決める地区大会があった。
遥は代表チームの一人、というか主将として選ばれており、手腕を奮わなければならないのだ。だからこそ、早く元の生活に戻らねばいけない。
「何か思い当たる事あったの?」
彼方の問いに、遥は軽く頷く。
「ちょっとね」
遥の返事に彼方はやっぱり、と言うとヘアゴムに目を向けながら、言った。
「やっぱり、その事で励ましに来たんだって。別の世界のお姉ちゃんは。そのヘアゴムはお守りとしてくれたんだと思う。絶対そうだよ」
自信たっぷりに断定する彼方に、遥は苦笑しながらも内心、そうかもしれない、と思い始める。
別の世界から来た彼女は、そういう理由で励ましに来たのかもしれない。何かと自信を無くしそうになる遥に。
だからこの……このヘアゴムを、渡しに来たのかもしれない。そう思うと、遥はふっと、身体が軽くなった気がする。
抱えていた疑問に一応の解決が付いた事と、彼方という心強いパートナーに、言いたい事を吐きだせたから。
―――――――頭に稲妻の如く、また何かが走った。一瞬揺らめきそうになるが、耐える。何か……何か、思いだそうとしてる?
彼方に全て話し終えた頃に、丁度散歩コースを一周し終えた。
「家、帰ろっか。彼方。お腹空いちゃった」
「そうだね、帰ろう」
―――――――××××××―――――――
公園を後にして、我が家へと向かう歩道を姉妹は歩く。そろそろ春が過ぎて、夏の訪れを兆す様に並木は綺麗な緑色に染まっている。
遥はぼんやりと、この後どうしようかと考える。当初の予定通りに、朝食を食べた後自室に籠って寝るにはあまりに勿体無い。折角彼方が付き合ってくれるのに。
ここは姉妹水入らずで、近くに買い物にでも出かけてみようかと思う。母が言っていた様に、気分転換にも最適だし。
「あのさ、彼方」
そう名前を呼ぶと、彼方は頬を綻ばしていてにこにこという表現がぴったりな笑みを浮かべて顔を向けてくる。
そんな彼方を見て、この表情、笑い方が本来のこの子の姿だなと、遥は思う。
「帰って朝ご飯食べたら、一緒に買い物行こうか?」
遥の提案に、彼方は目を輝かせながらうん! と待ってましたと言わんばかりの元気な反応を見せる。
「でも何処に買い物行く? 私は何処でも良いよ、彼方が行きたい所なら何処でも」
「私も正直特に……あ、でもお姉ちゃんの行きたい所なら、何処でも良いよ」
それにしても、こうして笑みを振りまいている彼方の顔は幼い。
問い詰められていた時は、大人びすぎてドキッとしたけど、こうして一緒にいると、まだまだ年相応の女の子だと、遥は思う。
才色兼備で頼りがいのある存在とはいえ、唯一無二の妹には変わりない。まだまだ、姉として守っていかなきゃいかないな、とも思う。
と、向こうから誰かが全力で駆け出してくる。遥よりも背が低い二人。少年と、少女。
「おはよーございまーす!」
遥と彼方に挨拶しながら、その二人は駆け抜けていく。前を少年が走り、後ろから息を荒げて必死に少女が付いていく。
二人とも、背中には新品だろうか汚れも傷も無いランドセルを背負っている。背丈やランドセルからして、近くで通学している小学生であろう。
少年は両腕に、学校で使うのだろうか? サッカーボールを抱えている。遥はにこやかな笑顔で少年少女を見送っていく。
……何か引っかかり、歩いている彼方に聞く。今日は……あれ?
「彼方、今日って……」
「平日だよ、お姉ちゃん。今の時間は丁度、通学・出勤の時間帯だから」
いつも散歩する日は土日な為、どうも曜日の感覚がマヒしている。まぁ、いつも通りの生活に戻れば労することなく戻ってくるだろうが。
早くいつも通りの日常に戻らねば。弓道部の大会もある事だし。両頬を自らの両手で軽くビンタし、気合いを入れる。
歩き出そうとするが、遥は妙に、さっきの少年少女が気になって振り向いた。少年はとにかく一生懸命走っていたが、勢い余ってコケているかもしれない。
振り向いた直後、遥の予想通りに、少年が勢い余って前方へと派手に転んでしまった。
あちゃー……と、予感が当たってしまった事に失笑しつつ、遥は助けに行こうと走り出す。転んだ拍子に、サッカーボールが横の道路へとコロコロと転がる。
少年はすぐに立ち上がると、道路へと転がっていったサッカーボールを取りに行こうと歩道を飛び越えた。
―――――――急に、遥の鼓動が早くなる。同時に、頭の中で何かを思い出しそうな時の頭痛が激しく響いてくる。思わず倒れそうになるが、片手で頭を抑え、痛みを堪える。
その時、地面を僅かに揺らしながら重低音を響かせる音が聞こえてくる。遥は直感で、その音がトラックの音だと気付く。向こうから走ってくるようだ。
早く歩道に戻らねば危険だというのに、少年は転がっているサッカーボールを拾う事に夢中になっており、トラックが近づいてきている事にまるで気付いていない。
すぐさま、遥は歩道から道路へと渡り、少年を歩道へと戻す為に駆け出しつつ、大声を上げる。
「君! 危ないよ!」
どうにかサッカーボールを掴み、抱き抱えた少年は、遥に気付いて顔を向ける。だが既に、目前までトラックが迫ってきている。
例え少年が逃げようと左右に逃げようとしても、重傷は免れない。かといって、前に逃げても、運転手がブレーキを掛けた所で充分巻き込まれてしまう距離だ。
運転手はと言えば、徹夜か夜通し運転していたのだろうか、眠たげに目を擦っていて、少年はおろか、走ってくる遥にも気付いていない。
遥は少年の元へと駆け寄る。もう少年を抱いて走ったとしても、絶対に間に合わない。このままでは、遥も少年も一緒に惨い目に遭う事になる。
「お姉ちゃん! 戻ってきて! お姉ちゃん!」
遥の行動に気付いて、彼方は切迫した叫び声を上げる。が、もう遅い。二人に気付いた運転手が慌ててブレーキを踏み込むが、もうトラックは止まれない。
少女は両手で目を覆い、しゃがみ込む。少年は自分に降りかかっている事態に、絶望感に打ちひしがれ目を強く瞑り、遥に抱き付いた。遥はしゃがんで、少年を抱き締める。
どうしようもなく、彼方はひたすらお姉ちゃんと絶叫する。だが、無情にも残された時間は、後数秒しかない。
限りなく絶望的な状況だというのに、遥は、不思議な事に恐怖を感じない。
いや、恐怖を感じていないと言えば嘘になる。自分でもなんて命知らずな事をしているのだろうとは思う。
だが。だが、不思議な事に遥にはある種、否、確実に助かる算段があった。
頭痛は、無い。代わりに、欠けていた何かが、埋まっていく。次第に、失っていた欠片がパズルの様に埋まっていく。
「大丈夫……大丈夫だよ」
死の恐怖に怯え、震えている少年の頭を撫でながら、遥は何故かトラックに向けて、ヘアゴムを巻いた右腕を上げた。
「絶対に……大丈夫」
思い出す。忘れていた、絶対に忘れちゃいけない大事な事を、思い出していく。
どう考えても助からない状況なのに、遥は確信していた。少年の命も、そして自分自身も絶対に助かる方法を、見出している。
朧げでふわふわとしていた、欠けていた断片が確固たる確信を得て元の姿へと戻っていく。遥は、思い出した。やっと、思い出した。
自分を絶対に信じる。自分が持つ可能性を否定する事無く、心の底から信じて見る。そうすればきっと――――――――奇跡も、起こせる。
そうだよね、一条さん。
遥は目を閉じる。トラックと衝突するまで、後、三秒。
突如として、ヘアゴムの周りを、オーブの様に淡い光が纏わり始める。
その光は遥の右手に集束すると、眩く輝きだす。力強く右手を広げて、遥は―――――――叫んだ。
「感覚――――――――共有!」
―――――――××××××―――――――
……思い出せたよ。全部。こういう事なんだね。一条さん。
思い出せたんだね、神守さん。でも無茶しすぎじゃない?
一条さん程じゃないよ。……忘れる訳無いよ。あんな……あんな凄い事、忘れる筈が無い。
……初めて。神守さんが初めてだよ。こんな事出来たの。
何々? どんな事?
今まで私と出会ってきた「私」は皆、綺麗にスネイルさんから記憶を消されて、思い出す事は無かった。
けど、神守さんは初めて、私と出会った事を思い出した。それだけでなく、感覚共有を引き出す事までやってのけた。こんな事が出来たのは、神守さんが初めてだよ。
スネイル……その人が、私が一条さんと会った記憶を消したの? それだけじゃなくて、一緒に戦った記憶も……。
うん。別の世界に干渉した時には、関わった人の記憶を消去するのが鉄則なの。そうしてその人の人生に混乱が生じない様に。
ひいては、その時代の社会に大きな混乱を起こさない為に。
それじゃあ……私だけじゃなくて、○○に居て事故に遭った……あの怪物に襲われた人達が皆、記憶が無いのも……。スネイルの仕業?
まぁ……そういう事。スネイルさんがやったの。ついでに、感覚共有を封じたのも。
……そういう事、だったんだ。色々と釈然としない事が多いけど……一先ず、一条さんと出会った事も、戦った事も全部……全部、幻じゃないんだね。
うん。私が神守さんと会った事も、一緒にあいつを倒した事も全部、現実。本当に起こった事だよ。
良かった……。本当に、良かった。それだけでも分かって良かったよ。
私も。神守さんが私の事を思い出してくれて嬉しいよ。何時も慣れっことはいえ、本当は凄く寂しいから……忘れられるって。
うん。私も心からそう思う。
……そろそろ、行くね。もう一度こうやって、会えてよかった。
待って、一条さん。
何?
この……感覚共有って力。私……。私……どうすれば良いかな。凄い力なのは分かるけど正直……凄すぎて持て余すというか……。
神守さんの思う通りにすれば良いと思うよ。神守さんならきっと、進む方向に間違いは無いから。
信じてるよ、神守さん。また、どこかで―――――――。
―――――――××××××―――――――
彼方は閉じている瞳を、恐る恐る開いていく。はらはらと涙を流しながら、肩を震わして姉の最後を受け入れようとしたのだ、が。
聞こえてくる筈の、生々しい衝突音は聞こえてこない。それに、道路には血が……血が一滴も流れてい、ない?
涙を手で拭いつつ、彼方は遥へと目を向ける。そこには……後数センチメールといった所で、停止しているトラックがあった。
その前には、少年を強く抱きしめて守っている、遥。生きて……生きて、いる。
「……ちゃん」
彼方の足は自然に走り出す。何も考えず、その人の名を、叫ぶ。
「……お姉ちゃん」
生きてた。世界に二人といない、大切な姉が―――――――生きていた。
「お姉ちゃん!」
彼方の叫びに呼応する様に、遥はしゃがんだ状態から立ち上がった。
遥は正直、自分が何をしたのかが思い出せない。ただ、無我夢中で少年を救おうと駆け出した事は覚えてる。
それから……それから急に、頭の中で色々な事が自分の意思とは関係なく蘇ってきた。一緒に、根拠の無い自信が沸き上がってきた。
絶対に、あの子を護れる。私なら絶対に、護る事が出来る。そうやって無謀と言える位、自分を信じてみた結果―――――――それが、出来た。
感覚共有。失われた筈のその能力を、遥は過去と共に取り返した事で、少年と自分自身を守る事が出来た。
遥はゼノブレイカーを倒す時の、弓を変化させた時の応用で前面にマナのバリアを張ってみせた。
トラックを破壊する事も、運転手を危険な目に合わせる事無く、そのバリアはトラックを紙一重で吸収して勢いを瞬時に殺す。
そして役目を終えたマナは、キラキラと光り輝きながら、緩やかに消滅していった。
遥は右腕へと視線を移す。ヘアゴムが無くなっている。恐らく、トラックから身を守るためのバリアを作りだした時に、昇華されてしまったのだろう。
遥は、思いだす。もう一人の自分、一条遥という少女と出会った事を。そして感覚共有という力を得、怪物に打ち勝った事を。
遥は全てを、思い出していた。ほぼ全てを取り返す事が出来た。記憶も力も、そして、失っていた自信を。
気付けば彼方が、呆然とも唖然とも、何とも言えない表情を浮かべて立っていた。
「彼……方……?」
彼方は遥を見ると、ポロポロと、涙を流し始めた。そして、子供の様に大きく口を開けて号泣し始めた。
一体どういう事……と思いながら、前を見ると、ほぼ寸前で止まっているトラックが見えた。
走ってきてた時は異常な大きさに感じたが、我に帰るとせいぜい中型のトラックであった。
ふと、右腕、というより右手首を見ると、嵌めていたゴムヘアが無くなっている事に気づく。マナの消費時に巻き添えになってしまったのだろう。
一条から貰った大切な宝物だったため、惜しい気持ちはある。あるが、逆に一条が力を貸してくれて助けてくれた事にしておく。
奇跡的に、トラックには傷一つ付いていない。中の運転手の容態が気になる……多分気絶してるのだろうか、と。
「えっと……」
わんわんと泣いている彼方はともかく、少年と一緒に通学している少女はどうなったのだろうかと、そちらに目を向ける。
少女は腰が抜けたのか、地面にぺたんと座っており、ハンカチで目元を拭っている。リアクションは少ないものの、その顔は心から安堵している様に思える。
そして……遥は身を呈して、守る事が出来た少年を見下ろす。
「……大丈夫?」
サッカーボールを両腕に抱えたまま泣きじゃくっており、時折嗚咽を漏らす。声にならない声で、遥に何度もありがとうと感謝する。
遥は再度しゃがむと、頭を撫で撫でして、子供をあやす母親の様な口調で、少年に言った。
「もうあんな危ない事はしちゃ駄目だよ。君がいなくなったら、悲しむ人が沢山いるんだから」
遥がそう諭すと、男の子は何度も、何度も、深く大きく頷いた。
ついでといった感じで、遥は少年を両腕で抱き抱え、ゆったりと歩道へと戻っていく。どうにか無理矢理にでも泣き止んだ彼方は、ハッとして遥の後を付いていく。
歩道に戻った遥は、少女の元へと少年を下ろすと、無言のまま踵を返し、自宅へと歩いていく。その途中。
「彼方、警察に通報して。居眠り運転してた人がいるって」
遥の言葉に、状況に理解が追い付かず、ポカンとしている彼方はあ、う、うんと良く分からないものの、携帯を取り出す。
「それと」
人差し指を口に当てて、遥は彼方に、とある約束を取り付ける。
「ここでの事は秘密ね。私と、彼方と、それとあの子達だけの」
携帯を取り出した彼方は、遥の言葉に当初疑問に思ったが、すぐに理解する。
どんな事をしたのかは見れなかったが、多分姉が起こした出来事は、非現実的な出来事である故、知られない方が都合が良いからだろうと。
一体どんな原理、というか感じで遥があんな事が出来たのかは分からない。分からないからこそ、秘密にしておく。何にせよ、姉もあの子も死ななかった。それで良い。
「お姉ちゃん!」
ふと、後ろから声を掛けられて、歩き出した遥と彼方は振り向いた。
少年少女が、頭を下げて遥に感謝の意を示す。パッと顔を上げた少年が、遥に涙目混じりの笑顔で、言った。
「ありがとう……ありがとう!」
遥は軽く手を振って、立ち去ろうとする。
すると、言葉を今まで発しなかった少女が、勇気を振り絞るように大声を出した。
「あ、あの!」
少女は、遥を羨望している様な目付きで見上げながら、言葉を続ける。
「お姉さん……お名前……」
「名前……教えて下さい」
遥は答える。今日一日で初めて、心の奥底からの実に良い笑顔で、答える。
「名前を教えるほどの事はしてないよ。ただの……」
「ただの、女子高生って事で」