翌日、私は大学をサボって朝一番に天照研究所へと向かうことにした。
昨夜は頼人に家まで送ってもらったが、またいつカオスマン――あの忍者――が襲ってくるかもしれないと
恐ろしくなって、ひと晩じゅう部屋の明かりを点けたまま眠れずに過ごしたのだった。そのせいで目の下には
クマができてしまっていたが、それを隠す化粧をする気にもなれず、またそんなことも今はどうでもよく思えていた。
自転車は壊されてしまったので私は市内まで歩くしかなく、そしてそのことを思い出すたびにカオスマンへの怒りと
恐怖が腹の底でうごめくのが感じられたが、それもどうしようもない。道端の小石を思いきり蹴飛ばす程度のこと
しか私にはできなかった。
「お待ちしておりました。」
出迎えたのは天照恵だった。彼女は研究所の制服を着ている。
「カオスマンは今はおとなしくしております。ご安心ください。」
「いろいろ、訊きたいことがあります。」
「承知しております」
昨夜は頼人に家まで送ってもらったが、またいつカオスマン――あの忍者――が襲ってくるかもしれないと
恐ろしくなって、ひと晩じゅう部屋の明かりを点けたまま眠れずに過ごしたのだった。そのせいで目の下には
クマができてしまっていたが、それを隠す化粧をする気にもなれず、またそんなことも今はどうでもよく思えていた。
自転車は壊されてしまったので私は市内まで歩くしかなく、そしてそのことを思い出すたびにカオスマンへの怒りと
恐怖が腹の底でうごめくのが感じられたが、それもどうしようもない。道端の小石を思いきり蹴飛ばす程度のこと
しか私にはできなかった。
「お待ちしておりました。」
出迎えたのは天照恵だった。彼女は研究所の制服を着ている。
「カオスマンは今はおとなしくしております。ご安心ください。」
「いろいろ、訊きたいことがあります。」
「承知しております」
それから昼ごろまで、私はカオスマンと彼が渡してきた写真について、思いつくままに天照に質問をぶつけた。
きっとひどく論理的でない、思いつきにも近いような質問の仕方だっただろうが、それでも彼女は落ち着いて、丁寧に、
ひとつひとつに答えてくれた。
「カオスマンは我々の魔学のひとつの成果です……強化手術をうけ、人間には不可能なほどに高いな身体能力を
手に入れました。」
「どうしてそんな?」
「知的好奇心の産物ですね……彼はそういう人なんです。」
「本人には会えないんですか」
「……申し訳ありません」
「それ、大丈夫なんですか?」
「あなたに危険が迫れば私たちはすぐかけつけますよ、昨夜のように。」
「……なぜ、カオスマンは私がシンブレイカーに乗るのに反対なんです?」
「……いくら魔学を用いても、人の心は読みえませんから。」
「あの写真はどうなりました?」
私はあの写真を頼人を介して研究所に渡していたのだった。なぜカオスマンがそれを持っていたのか、
あの写真が合成かどうかを調べてもらうために。
「その点に関しては、博士に任せてあります。」
「博士?」
「ええ……志野さんはまだお会いしたことはありませんでしたか……いい機会です、高天原に案内させましょう。」
彼女は思い出したようにそう言って、つけ足した。
「そろそろ、魔学の恐ろしい面も知ったほうがいいかもしれませんね。」
きっとひどく論理的でない、思いつきにも近いような質問の仕方だっただろうが、それでも彼女は落ち着いて、丁寧に、
ひとつひとつに答えてくれた。
「カオスマンは我々の魔学のひとつの成果です……強化手術をうけ、人間には不可能なほどに高いな身体能力を
手に入れました。」
「どうしてそんな?」
「知的好奇心の産物ですね……彼はそういう人なんです。」
「本人には会えないんですか」
「……申し訳ありません」
「それ、大丈夫なんですか?」
「あなたに危険が迫れば私たちはすぐかけつけますよ、昨夜のように。」
「……なぜ、カオスマンは私がシンブレイカーに乗るのに反対なんです?」
「……いくら魔学を用いても、人の心は読みえませんから。」
「あの写真はどうなりました?」
私はあの写真を頼人を介して研究所に渡していたのだった。なぜカオスマンがそれを持っていたのか、
あの写真が合成かどうかを調べてもらうために。
「その点に関しては、博士に任せてあります。」
「博士?」
「ええ……志野さんはまだお会いしたことはありませんでしたか……いい機会です、高天原に案内させましょう。」
彼女は思い出したようにそう言って、つけ足した。
「そろそろ、魔学の恐ろしい面も知ったほうがいいかもしれませんね。」
高天原頼人に連れられて私は研究所の敷地内にある別棟へとやってきた。玄関の扉には『研究棟』と書かれていたが、
入った横の受付には誰もおらず、カウンターの入館者名簿にはうっすらと埃が堆積している。
頼人はどこから出したのかマスクを薦めてきたので、私はそれをつけた。見た目はそこそこ小奇麗なこの建物は
中はまるで廃墟のようだった。廊下の蛍光灯は切れたまま放置してあって薄暗く、花瓶に活けられた花はとうの昔に
ミイラになっていて、中途半端に開けっ放しのドアの向こうには不気味な暗がりがあった。
そのお化け屋敷のような内部にその『博士』とやらが本当にここにいるのか私は大いに不安になったが、
頼人がずんずんと奥へ進んでいくので問いかける間もなかった。
私たちは階段を下りて地下室の大きい扉の前に立った。扉にかかった表札には『多目的ホール』と書かれている
ようだったのを油性ペンで2重線を引いて打ち消し、上に『実験室』と殴りがきしてある。表札の下に責任者の名前が
あった。
「これ、なんて読むんです?」
私はその名前を指さした。表札には『責任者:八意司 博士』とある。
「『やごころ つかさ』博士です。日本神話をご存知無い?」
「はぁ、まぁ」
「それじゃ読めなくて当然ですね……そうそう、それと博士に会う前にひとつ注意を。」
「はい?」
「博士はおそらくこのドアの向こうにいますが、決して……その……」
「なんですか?」
「怒らないでくださいね。」
そう言って頼人は扉を押し開けた。すると突然――
「ファッ○ンジーザスクラアァアアアアァイストッ!!」
絶叫が耳を撃ち抜いた。思わず身が縮こまる。誰かが扉の前で、革張りの椅子の上で悶えていた。
「どぉしてっどおおおおしてっ!!」
その人物は白衣を翻し、椅子からバネじかけのおもちゃのように立ちあがり、私に詰め寄ってくる。
「どうして吾輩の名前なんか訊いたっ!!」
目の前にずいとつきつけられた鼻先に私は固まる。博士は苦悩するように頭を振り、また椅子のところへ戻って
すがりつくように嘆く。
「もう少しでラプラスの悪魔に勝利するところだったのにっ! お前のせいでっ!!」
「『博士』っ落ち着いてください!」
頼人がどなるように諌めた。
博士は肩で息をしながらよろよろと立ちあがり、意地悪そうな視線をこちらに向けつつ指で眼鏡の位置をなおす。
「ふん……高天原、お前はいい。お前が部屋の前で警告をするのは計算に入っていた。研究所でその女との会話に
要する時間まではどんぴしゃりだったんだ。それなのにっ!」
彼は私を指した。全部の指にじゃらじゃらとはめられたシルバーアクセサリーが光を反射する。
「その女が吾輩の名前を訊いたせいで、その扉を開けるのが予想より7カンマ26秒も遅れたっ!
こうなったらもう失敗だっ! ちくしょう!」
「まさか、未来を予測していたんですか!?」
直感した私は思わず口にした。八意はふんぞり返り、髪と服装を正しながらこちらをじろりと睨めつける。
「いかにも……吾輩は未来完全予測公式の実験中であったのだ……ところで、何か用か?」
私はその傲慢さを隠そうともしない態度を少し不快に感じたが、それでもしっかり精一杯の笑顔をつくり
「志野真実といいます」と、まず自己紹介をした。
「そんなことは知っている……」
彼は椅子に戻ると私の体を足元から頭まで舐め回すようにじっくりと観察し始めた。
その気持ち悪さに私は少しだけ頼人の方に近づく。
「ときに貴様、人間を含む全生物が肉体・魂・精神の3つで構成されていることは知っているか?」
「……え?」
「ならば記憶せよ! 生物はこの3つでできていて、そのうちふたつ以上が欠けているとそれは生物じゃない。
見たところ志野真実、貴様はこの3つをしっかりと備えておるようだが、どうやらそれぞれの結びつきが
やや弱いようだ。幽体離脱をしたことは?」
「……い、いえ、無い、です……」
「ふむ、ならば結びつきが弱いのは精神だな。やはりそれがシンブレイカーパイロットたる所以か。」
すると八意はまた椅子から立ち上がって部屋の奥へとかけていき、この広い多目的ホールの中心にドンと
すえられている何か不思議な形状をした実験器具の上へと跳び乗った。その下にある照明器具が突然点灯し、
そんな彼をやや下方から照らす光線を放つ。
「改めて名乗ろう!」
すると彼はなにやらビシリと変なポーズをキメて――
「我が名は『八意 司(やごころ つかさ)』! またの名をアレイスター・クロウリー!
魔学理論の父にして母! 人類史上最高の魔学研究者であり、やがて来たるべき新たな時代のために
その礎を築かんとする者である!」
最後に八意は高笑いをした。それはホールの壁に反射してるのか四方八方から聞こえるようだった。
私は改めて明かりに照らされた八意を見あげた。彼は他の所員たちと同様に白衣を着ていたが、
その下にあの独特の制服は着ていなかった。代わりに大きくボタンが開け放たれたワイシャツを着ている。
そこから覗く胸元にはジャラジャラと、十字架や、星や、その他何かの象徴が沢山付いたネックレスをいくつも
かけていた。よく見るとピアスも耳や唇、鼻に目蓋にと、とにかく着けられるだけ着けてある。
腕は指先までアクセサリーに覆われ、それが光を反射して目障りだった。
彼自身はというと、なんだか若者なのか老人なのかよく判らない顔をしている。ひん曲がったわし鼻に乗せた
丸眼鏡の奥には意地悪そうな目が光っていて、その瞳からはどこか常軌を逸したものを感じた。頭髪は無く、
素肌丸出しのそこにもピアスらしきものがいくつもついている。
やせ型で手足が長く、身長もやや高い。なんだか冗談のような人だ――私は正直言って、いい印象を抱かなかった。
彼はひらりと床に着地する。
「そして敢えて問おう! この八意のスーパー研究室に何の用であるか!?
いやまて言うな!当ててみせる……君は新聞の勧誘に来た」
「違います」
「今のはジョークだ。
ちなみに思考透視装置は似たものがあと半世紀もすれば完成するはずだ。覚えておくがいい!
だがひとつ言わせてもらえばあの型のタイムマシンにデロリアンを使うのは動作の面から見て不安が残るな、
せめて日本車にすべきだ。」
話が噛み合っていない気がする。私は不安になってちらりと頼人を見た。彼は平然としている。
そもそも何故頼人が私をここに連れてきたのかは私も知らないのだ。
『魔学の恐ろしい面』を教えてくれるらしいが、この八意がそうなのだろうか。
「たしかに、こりゃ恐ろしい……」
つい口に出してしまった。それを八意は耳ざとく聞きつける。
「なるほど? 志野真実、どうやら貴様は吾輩を知りにきたようだな」
「そうなんですか?」頼人に訊く。
頼人は頷いた。
「博士、あなたの『シ』を見せてくださいませんか」
私は頼人の言葉がよくわからなかったが、八意は大きく頷いた。
「かまわんが、いつになるかは分からんぞ――いや待て。」
八意は何かに気づいたように顔を上げ、そして胸に手を当てた。
頼人は言う。
「まさか、今?」
すると八意はにやりとした。
「貴様らは運が良いな……さぁ、刮目して見るがよい! 吾輩の――」
言い終わらない内に、ばん、と軽い音がした。
私は音にびっくりして一瞬目をそらし、また八意を見た。
八意はいなかった。
代わりに奇妙なものがそこにあった。
冷たく硬い床に真っ赤な水溜りができている。あんなもの、今まで無かった。
よく見ると水溜りの中には何かがある。あれは赤い液体に濡れているが、白衣と、
金属製の大量のアクセサリーに、メガネ……?
唐突に理解した。あれは、あれは――
私は悲鳴をあげ、その場にへたり込む。そして同時に頼人が言った言葉も理解した。見上げて問う。
「『シ』って、『死』……!?」
頼人は、いとも簡単に頷いた。
「そんな! なんで!」
わけがわからない。今まで普通に話していたじゃないか。心臓発作とかならともかく、こんな風に死ぬなんて、おかしい!
頭が混乱して、熱い涙が出た。頼人は慌てた様子で私のそばに蹲り背中をさすってくる。
「すいません、刺激が強すぎました……」
「アンタはなんでそんなに……落ち着いてるのっ!?」
背中の手を払い、頼人を睨みつけた。彼はやはりうろたえずに静かに首を横に振る。
「安心して、博士は死んでませんよ」
「え……」
改めて目の前の血溜りを見やる。それはたしかにそこに――無かった。
目を疑った。
あの血溜り、八意が砕けてできたあの血溜りが無くなっている。血だけでなく、その中にあったメガネも、白衣もだ。
何度めかもわからない混乱が頭をかき乱す。また泣き出しそうになったそのとき、その声がした。
「高天原、表現は正確に!」
その声の主はどこからかひらりと舞い降り、私の前に着地した。その男は不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「吾輩はたしかに死んだのだぞ。」
八意司だった。彼は数秒前となんら変わらない様子でふんぞり返っている。私はぽかんとした。
「ふふふん、驚いているようだな。」
八意は間抜けな顔をしている私をじろりと見下ろして、満足げに笑う。
「説明しよう! 今の吾輩は平行世界からやってきた!」
また八意はポーズをとった。私
は頼人に支えられてなんとか立ち上がる。
入った横の受付には誰もおらず、カウンターの入館者名簿にはうっすらと埃が堆積している。
頼人はどこから出したのかマスクを薦めてきたので、私はそれをつけた。見た目はそこそこ小奇麗なこの建物は
中はまるで廃墟のようだった。廊下の蛍光灯は切れたまま放置してあって薄暗く、花瓶に活けられた花はとうの昔に
ミイラになっていて、中途半端に開けっ放しのドアの向こうには不気味な暗がりがあった。
そのお化け屋敷のような内部にその『博士』とやらが本当にここにいるのか私は大いに不安になったが、
頼人がずんずんと奥へ進んでいくので問いかける間もなかった。
私たちは階段を下りて地下室の大きい扉の前に立った。扉にかかった表札には『多目的ホール』と書かれている
ようだったのを油性ペンで2重線を引いて打ち消し、上に『実験室』と殴りがきしてある。表札の下に責任者の名前が
あった。
「これ、なんて読むんです?」
私はその名前を指さした。表札には『責任者:八意司 博士』とある。
「『やごころ つかさ』博士です。日本神話をご存知無い?」
「はぁ、まぁ」
「それじゃ読めなくて当然ですね……そうそう、それと博士に会う前にひとつ注意を。」
「はい?」
「博士はおそらくこのドアの向こうにいますが、決して……その……」
「なんですか?」
「怒らないでくださいね。」
そう言って頼人は扉を押し開けた。すると突然――
「ファッ○ンジーザスクラアァアアアアァイストッ!!」
絶叫が耳を撃ち抜いた。思わず身が縮こまる。誰かが扉の前で、革張りの椅子の上で悶えていた。
「どぉしてっどおおおおしてっ!!」
その人物は白衣を翻し、椅子からバネじかけのおもちゃのように立ちあがり、私に詰め寄ってくる。
「どうして吾輩の名前なんか訊いたっ!!」
目の前にずいとつきつけられた鼻先に私は固まる。博士は苦悩するように頭を振り、また椅子のところへ戻って
すがりつくように嘆く。
「もう少しでラプラスの悪魔に勝利するところだったのにっ! お前のせいでっ!!」
「『博士』っ落ち着いてください!」
頼人がどなるように諌めた。
博士は肩で息をしながらよろよろと立ちあがり、意地悪そうな視線をこちらに向けつつ指で眼鏡の位置をなおす。
「ふん……高天原、お前はいい。お前が部屋の前で警告をするのは計算に入っていた。研究所でその女との会話に
要する時間まではどんぴしゃりだったんだ。それなのにっ!」
彼は私を指した。全部の指にじゃらじゃらとはめられたシルバーアクセサリーが光を反射する。
「その女が吾輩の名前を訊いたせいで、その扉を開けるのが予想より7カンマ26秒も遅れたっ!
こうなったらもう失敗だっ! ちくしょう!」
「まさか、未来を予測していたんですか!?」
直感した私は思わず口にした。八意はふんぞり返り、髪と服装を正しながらこちらをじろりと睨めつける。
「いかにも……吾輩は未来完全予測公式の実験中であったのだ……ところで、何か用か?」
私はその傲慢さを隠そうともしない態度を少し不快に感じたが、それでもしっかり精一杯の笑顔をつくり
「志野真実といいます」と、まず自己紹介をした。
「そんなことは知っている……」
彼は椅子に戻ると私の体を足元から頭まで舐め回すようにじっくりと観察し始めた。
その気持ち悪さに私は少しだけ頼人の方に近づく。
「ときに貴様、人間を含む全生物が肉体・魂・精神の3つで構成されていることは知っているか?」
「……え?」
「ならば記憶せよ! 生物はこの3つでできていて、そのうちふたつ以上が欠けているとそれは生物じゃない。
見たところ志野真実、貴様はこの3つをしっかりと備えておるようだが、どうやらそれぞれの結びつきが
やや弱いようだ。幽体離脱をしたことは?」
「……い、いえ、無い、です……」
「ふむ、ならば結びつきが弱いのは精神だな。やはりそれがシンブレイカーパイロットたる所以か。」
すると八意はまた椅子から立ち上がって部屋の奥へとかけていき、この広い多目的ホールの中心にドンと
すえられている何か不思議な形状をした実験器具の上へと跳び乗った。その下にある照明器具が突然点灯し、
そんな彼をやや下方から照らす光線を放つ。
「改めて名乗ろう!」
すると彼はなにやらビシリと変なポーズをキメて――
「我が名は『八意 司(やごころ つかさ)』! またの名をアレイスター・クロウリー!
魔学理論の父にして母! 人類史上最高の魔学研究者であり、やがて来たるべき新たな時代のために
その礎を築かんとする者である!」
最後に八意は高笑いをした。それはホールの壁に反射してるのか四方八方から聞こえるようだった。
私は改めて明かりに照らされた八意を見あげた。彼は他の所員たちと同様に白衣を着ていたが、
その下にあの独特の制服は着ていなかった。代わりに大きくボタンが開け放たれたワイシャツを着ている。
そこから覗く胸元にはジャラジャラと、十字架や、星や、その他何かの象徴が沢山付いたネックレスをいくつも
かけていた。よく見るとピアスも耳や唇、鼻に目蓋にと、とにかく着けられるだけ着けてある。
腕は指先までアクセサリーに覆われ、それが光を反射して目障りだった。
彼自身はというと、なんだか若者なのか老人なのかよく判らない顔をしている。ひん曲がったわし鼻に乗せた
丸眼鏡の奥には意地悪そうな目が光っていて、その瞳からはどこか常軌を逸したものを感じた。頭髪は無く、
素肌丸出しのそこにもピアスらしきものがいくつもついている。
やせ型で手足が長く、身長もやや高い。なんだか冗談のような人だ――私は正直言って、いい印象を抱かなかった。
彼はひらりと床に着地する。
「そして敢えて問おう! この八意のスーパー研究室に何の用であるか!?
いやまて言うな!当ててみせる……君は新聞の勧誘に来た」
「違います」
「今のはジョークだ。
ちなみに思考透視装置は似たものがあと半世紀もすれば完成するはずだ。覚えておくがいい!
だがひとつ言わせてもらえばあの型のタイムマシンにデロリアンを使うのは動作の面から見て不安が残るな、
せめて日本車にすべきだ。」
話が噛み合っていない気がする。私は不安になってちらりと頼人を見た。彼は平然としている。
そもそも何故頼人が私をここに連れてきたのかは私も知らないのだ。
『魔学の恐ろしい面』を教えてくれるらしいが、この八意がそうなのだろうか。
「たしかに、こりゃ恐ろしい……」
つい口に出してしまった。それを八意は耳ざとく聞きつける。
「なるほど? 志野真実、どうやら貴様は吾輩を知りにきたようだな」
「そうなんですか?」頼人に訊く。
頼人は頷いた。
「博士、あなたの『シ』を見せてくださいませんか」
私は頼人の言葉がよくわからなかったが、八意は大きく頷いた。
「かまわんが、いつになるかは分からんぞ――いや待て。」
八意は何かに気づいたように顔を上げ、そして胸に手を当てた。
頼人は言う。
「まさか、今?」
すると八意はにやりとした。
「貴様らは運が良いな……さぁ、刮目して見るがよい! 吾輩の――」
言い終わらない内に、ばん、と軽い音がした。
私は音にびっくりして一瞬目をそらし、また八意を見た。
八意はいなかった。
代わりに奇妙なものがそこにあった。
冷たく硬い床に真っ赤な水溜りができている。あんなもの、今まで無かった。
よく見ると水溜りの中には何かがある。あれは赤い液体に濡れているが、白衣と、
金属製の大量のアクセサリーに、メガネ……?
唐突に理解した。あれは、あれは――
私は悲鳴をあげ、その場にへたり込む。そして同時に頼人が言った言葉も理解した。見上げて問う。
「『シ』って、『死』……!?」
頼人は、いとも簡単に頷いた。
「そんな! なんで!」
わけがわからない。今まで普通に話していたじゃないか。心臓発作とかならともかく、こんな風に死ぬなんて、おかしい!
頭が混乱して、熱い涙が出た。頼人は慌てた様子で私のそばに蹲り背中をさすってくる。
「すいません、刺激が強すぎました……」
「アンタはなんでそんなに……落ち着いてるのっ!?」
背中の手を払い、頼人を睨みつけた。彼はやはりうろたえずに静かに首を横に振る。
「安心して、博士は死んでませんよ」
「え……」
改めて目の前の血溜りを見やる。それはたしかにそこに――無かった。
目を疑った。
あの血溜り、八意が砕けてできたあの血溜りが無くなっている。血だけでなく、その中にあったメガネも、白衣もだ。
何度めかもわからない混乱が頭をかき乱す。また泣き出しそうになったそのとき、その声がした。
「高天原、表現は正確に!」
その声の主はどこからかひらりと舞い降り、私の前に着地した。その男は不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「吾輩はたしかに死んだのだぞ。」
八意司だった。彼は数秒前となんら変わらない様子でふんぞり返っている。私はぽかんとした。
「ふふふん、驚いているようだな。」
八意は間抜けな顔をしている私をじろりと見下ろして、満足げに笑う。
「説明しよう! 今の吾輩は平行世界からやってきた!」
また八意はポーズをとった。私
は頼人に支えられてなんとか立ち上がる。
「あるとき吾輩は魔学を用いてタイムマシンを開発した……それを使用した瞬間、吾輩は無限の平行世界の存在を知った!
なにをバカな、とでも言いたげな顔をしているな。だが真実である。
吾輩の生み出したタイムマシンはタイムマシンでなく、正確には平行世界を移動する機械であり、
そのため無限数分の1秒の単位で変化した平行世界の『タイムマシンを使用した吾輩』が別の世界からやってくるように
なってしまったのだよ。無限分の1の単位で分かれた世界からやってくるから、やってくるタイミングにも
無限のパターンがある。1秒先でも1000年先でも矛盾しない。平行世界は可能性の世界であるからだ!
そして質量保存の法則によりもともとこの世界にいた吾輩は死亡・消滅し、別の世界からやってきた吾輩のみが残る……。
無限の平行世界からやってくるから、極小の変化でも積み重ねによりタイムマシンを開発・使用はもとより
吾輩の出生・死亡のタイミングも無限数に変化し、またその世界の歴史の修正力によって、世界の移動の瞬間吾輩の記憶も調整される。
その結果吾輩は擬似的な不老不死となった!」
なにをバカな、とでも言いたげな顔をしているな。だが真実である。
吾輩の生み出したタイムマシンはタイムマシンでなく、正確には平行世界を移動する機械であり、
そのため無限数分の1秒の単位で変化した平行世界の『タイムマシンを使用した吾輩』が別の世界からやってくるように
なってしまったのだよ。無限分の1の単位で分かれた世界からやってくるから、やってくるタイミングにも
無限のパターンがある。1秒先でも1000年先でも矛盾しない。平行世界は可能性の世界であるからだ!
そして質量保存の法則によりもともとこの世界にいた吾輩は死亡・消滅し、別の世界からやってきた吾輩のみが残る……。
無限の平行世界からやってくるから、極小の変化でも積み重ねによりタイムマシンを開発・使用はもとより
吾輩の出生・死亡のタイミングも無限数に変化し、またその世界の歴史の修正力によって、世界の移動の瞬間吾輩の記憶も調整される。
その結果吾輩は擬似的な不老不死となった!」
八意は言いながらその頭の皮膚を指先で揉む。
「この脳髄には無限平行世界の過去、未来、その他あらゆる知識が集積されているのだよ。
例えばある世界では世界は滅びかけて人類は地下都市に生活の基盤を移しているし、ある世界では意思を持つ機械人形――ロボット――が人と共に生きている。
ある世界では人類はとうに水で覆われた別の惑星に移住していたし、またある世界では地球を賭けて異星人と軍事衝突だ。」
「そんな……わからない、どうして……」
「当然だ! 無限の知識を持つ吾輩が、たかだか20年程度しか生きていない貴様に理解できるものか!」
すると八意はまたひらりと椅子の中に身体を埋める。
「ちなみに吾輩は貴様がここに来た理由はすでにざっと1不可思議の不可思議乗分のパターンを経験している。
だから逆に貴様の目的が判断できない。教えろ。」
段々と落ち着いてきた頭でなんとか八意の話を理解しようと試みるが、なんだか話がいきなり壮大になりすぎて
理解ができない。
ぽかんとしていると、見かねた頼人が代わりに答えた。
「博士、あの写真は分析できましたか?」
「ああ、あの写真か」
八意はフンと鼻を鳴らすと、ポケットから例の写真を取り出す。
「なんの変哲もない普通の写真だ。学術的な価値はゼロだな。」
「そうですか……」
八意はそれを近づいてきた頼人に手渡す。
「ただそれが撮影されたのはどこか、というのは知っているぞ。行ってみたらどうだ?」
頼人からうけ渡された写真を見ている私に八意は言った。
私は顔をあげる。
「それはどこですか?」
「織星山だ。その中腹の展望台になっている崖からの風景であることは確定している。」
「織星山……」
織星山はこの街の北にある山の名前だ。たしか小学生のころ、遠足で登ったことがあるきりのはずだが……
行ったことを忘れているだけだろうか?
「……わかりました、織星山ですね、行ってみます。」
私は写真をお尻のポケットにねじこむ。八意に礼を言うと、彼は得意げにふんぞり返る。
「なに、他にもわからないことがあったらいつでもここに来るがいい。
他の平行世界の物語から宇宙の終わりと誕生まで、ありとあらゆる知識を授けてやろう。」
「この脳髄には無限平行世界の過去、未来、その他あらゆる知識が集積されているのだよ。
例えばある世界では世界は滅びかけて人類は地下都市に生活の基盤を移しているし、ある世界では意思を持つ機械人形――ロボット――が人と共に生きている。
ある世界では人類はとうに水で覆われた別の惑星に移住していたし、またある世界では地球を賭けて異星人と軍事衝突だ。」
「そんな……わからない、どうして……」
「当然だ! 無限の知識を持つ吾輩が、たかだか20年程度しか生きていない貴様に理解できるものか!」
すると八意はまたひらりと椅子の中に身体を埋める。
「ちなみに吾輩は貴様がここに来た理由はすでにざっと1不可思議の不可思議乗分のパターンを経験している。
だから逆に貴様の目的が判断できない。教えろ。」
段々と落ち着いてきた頭でなんとか八意の話を理解しようと試みるが、なんだか話がいきなり壮大になりすぎて
理解ができない。
ぽかんとしていると、見かねた頼人が代わりに答えた。
「博士、あの写真は分析できましたか?」
「ああ、あの写真か」
八意はフンと鼻を鳴らすと、ポケットから例の写真を取り出す。
「なんの変哲もない普通の写真だ。学術的な価値はゼロだな。」
「そうですか……」
八意はそれを近づいてきた頼人に手渡す。
「ただそれが撮影されたのはどこか、というのは知っているぞ。行ってみたらどうだ?」
頼人からうけ渡された写真を見ている私に八意は言った。
私は顔をあげる。
「それはどこですか?」
「織星山だ。その中腹の展望台になっている崖からの風景であることは確定している。」
「織星山……」
織星山はこの街の北にある山の名前だ。たしか小学生のころ、遠足で登ったことがあるきりのはずだが……
行ったことを忘れているだけだろうか?
「……わかりました、織星山ですね、行ってみます。」
私は写真をお尻のポケットにねじこむ。八意に礼を言うと、彼は得意げにふんぞり返る。
「なに、他にもわからないことがあったらいつでもここに来るがいい。
他の平行世界の物語から宇宙の終わりと誕生まで、ありとあらゆる知識を授けてやろう。」
「最初は驚きましたけど、案外やさしい人みたいですね」
研究棟からの出がけに私がそう感想をこぼすと、並んで歩く頼人は曖昧に笑った。
「やさしい、といいますか……」
「なんですか?」
「……彼は孤独なんですよ」
頼人の言葉の意味はすぐにはわからなかった。
「孤独?」
「彼は全ての世界の全ての過去と全ての未来の記憶を持っています……それが、どういうことか解りますか?」
「……いいえ?」
「……宇宙の歴史が150億年に対して、人類の歴史はたかが数千年なんですよ」
ガンと頭が殴られたような感じがした。と同時にとてつもなく恐ろしい想像が頭に浮かぶ。
「まさか……」
「……おまけに彼はそれを無限の回数も経験しているのです。おかしくなっていないのが奇跡ですよ……」
寒けがした。足下ががらがらと崩れるような錯覚を覚え、頼人が、街の騒音が、唐突に遠ざかる。
孤独。想像すら及ばないほどの。
彼は未来と過去の全てを知っていると言った。しかしその未来と過去とに人がいる保証はないのだ。
いや地球自体、宇宙自体が無くなっている可能性だってある。
何もない空間に放り出された記憶も、宇宙が滅びたあとの記憶も彼が持っているとしたら……
その孤独はきっと、彼にしか理解できないものだ……
「……頼人さん」
私の呼びかけに頼人は足を止めた。
「八意さんを助けてあげることはできないんですか」
すると頼人は悲しげに目を伏せる。
「……残念ながら」
「方法は無いんですか?」
「……あれは、世界のルールを破った彼への、『罰』なんですよ……」
「罰……」
「だから、私たちにはどうしようもありません。」
彼はそこで会話を切り上げたが、私の胸にはもやもやとした想いが留まり続けた。
(あれが『罰』ならば、いつか『罪』は許されるべきじゃないの……?)
答えは出なかった。
研究棟からの出がけに私がそう感想をこぼすと、並んで歩く頼人は曖昧に笑った。
「やさしい、といいますか……」
「なんですか?」
「……彼は孤独なんですよ」
頼人の言葉の意味はすぐにはわからなかった。
「孤独?」
「彼は全ての世界の全ての過去と全ての未来の記憶を持っています……それが、どういうことか解りますか?」
「……いいえ?」
「……宇宙の歴史が150億年に対して、人類の歴史はたかが数千年なんですよ」
ガンと頭が殴られたような感じがした。と同時にとてつもなく恐ろしい想像が頭に浮かぶ。
「まさか……」
「……おまけに彼はそれを無限の回数も経験しているのです。おかしくなっていないのが奇跡ですよ……」
寒けがした。足下ががらがらと崩れるような錯覚を覚え、頼人が、街の騒音が、唐突に遠ざかる。
孤独。想像すら及ばないほどの。
彼は未来と過去の全てを知っていると言った。しかしその未来と過去とに人がいる保証はないのだ。
いや地球自体、宇宙自体が無くなっている可能性だってある。
何もない空間に放り出された記憶も、宇宙が滅びたあとの記憶も彼が持っているとしたら……
その孤独はきっと、彼にしか理解できないものだ……
「……頼人さん」
私の呼びかけに頼人は足を止めた。
「八意さんを助けてあげることはできないんですか」
すると頼人は悲しげに目を伏せる。
「……残念ながら」
「方法は無いんですか?」
「……あれは、世界のルールを破った彼への、『罰』なんですよ……」
「罰……」
「だから、私たちにはどうしようもありません。」
彼はそこで会話を切り上げたが、私の胸にはもやもやとした想いが留まり続けた。
(あれが『罰』ならば、いつか『罪』は許されるべきじゃないの……?)
答えは出なかった。
天照研究所を出て一度西への道路を行き、やがてぶつかる最初の交差点を右へ曲がってまっすぐに進むと、
まず道路わきに『ようこそ織星山へ』と最近作り直されたばかりの真新しい看板が見つかって、
その辺りからだんだんと観光客向けの土産物屋が増えてくる。
夏休みなどの行楽シーズンになるとこの織星山にもそこそこの観光客たちが集まってきて賑やかになるのだが、
今の時期はそうでもないので代わりに地元の老人たちや、遠足にやってきた小学生たちの姿を見かけた。しかし
その数も決して多くなく、織星山への道に漂う寂しげな雰囲気を紛らわすまでには至らない。
私は頼人の運転するハーレーの後ろに跨って一気に展望台のある山の中腹まで行くつもりだったが、
途中で食事をしようということになって、ふたりで土産物屋と軽食屋の並ぶ『織星神社』への参道へと入った。
『織星神社』は織星山の麓にある神社で、こっちも織星山自体と同じく重要な観光資源だ。そこまでの参道は
石畳が敷き詰めてあって、なかなか風情がある。
参道の方も開いている店は少なかったが、女木戸市名物の『虹色蕎麦』を売っている店を見つけたので、
そこで昼食をとることにした。
「志野さんは、神様を信じますか?」
不意に頼人がそう訊いてきた。私は咀嚼していた蕎麦をのみ込み、こうばしいそば茶を1口すする。
「なんか、宗教勧誘みたいですね」
笑ってそうかえすと、頼人も口元を緩める。
「あなたは魔学のおこす様々な事象を目にしました。それで、ちょっと気になりまして」
「そうですね……」
私は少し考える。
「ミッション系大学に通っている身でこんなこと言うのはアレかもですけど、信じてませんよ、私」
「そうなんですか」
「でも、最近思い直しました。」
私はカブの漬け物を口に運ぶ。コリコリとした甘みが舌を喜ばせる。
「魔学を見ましたから……やっぱり、神様っているのかな、と」
すると頼人は意外にも首をふる。
「その考えは危険ですよ、志野さん。」
「え?」
「魔学において超常的な存在を認めるのは危険です。それは非合理的な思考を許し、
1足す1を10にも100にもできると誤信させます」
頼人は真剣な表情だ。
「いいですか、どうか魔学に関わる者として、これだけは覚えていてください。」
私はつばを飲み込んだ。緊張のためだ。
まず道路わきに『ようこそ織星山へ』と最近作り直されたばかりの真新しい看板が見つかって、
その辺りからだんだんと観光客向けの土産物屋が増えてくる。
夏休みなどの行楽シーズンになるとこの織星山にもそこそこの観光客たちが集まってきて賑やかになるのだが、
今の時期はそうでもないので代わりに地元の老人たちや、遠足にやってきた小学生たちの姿を見かけた。しかし
その数も決して多くなく、織星山への道に漂う寂しげな雰囲気を紛らわすまでには至らない。
私は頼人の運転するハーレーの後ろに跨って一気に展望台のある山の中腹まで行くつもりだったが、
途中で食事をしようということになって、ふたりで土産物屋と軽食屋の並ぶ『織星神社』への参道へと入った。
『織星神社』は織星山の麓にある神社で、こっちも織星山自体と同じく重要な観光資源だ。そこまでの参道は
石畳が敷き詰めてあって、なかなか風情がある。
参道の方も開いている店は少なかったが、女木戸市名物の『虹色蕎麦』を売っている店を見つけたので、
そこで昼食をとることにした。
「志野さんは、神様を信じますか?」
不意に頼人がそう訊いてきた。私は咀嚼していた蕎麦をのみ込み、こうばしいそば茶を1口すする。
「なんか、宗教勧誘みたいですね」
笑ってそうかえすと、頼人も口元を緩める。
「あなたは魔学のおこす様々な事象を目にしました。それで、ちょっと気になりまして」
「そうですね……」
私は少し考える。
「ミッション系大学に通っている身でこんなこと言うのはアレかもですけど、信じてませんよ、私」
「そうなんですか」
「でも、最近思い直しました。」
私はカブの漬け物を口に運ぶ。コリコリとした甘みが舌を喜ばせる。
「魔学を見ましたから……やっぱり、神様っているのかな、と」
すると頼人は意外にも首をふる。
「その考えは危険ですよ、志野さん。」
「え?」
「魔学において超常的な存在を認めるのは危険です。それは非合理的な思考を許し、
1足す1を10にも100にもできると誤信させます」
頼人は真剣な表情だ。
「いいですか、どうか魔学に関わる者として、これだけは覚えていてください。」
私はつばを飲み込んだ。緊張のためだ。
「この世はルールだ。
それを破るのは、罪だということを。」
それを破るのは、罪だということを。」
頼人の眼差しに私は何も言えなかった。しかしそれでもなんとか反論を絞り出す。
「でも、この前、天使を呼んでましたよね……ウリエル」
「あれは別のステージにいる精神生命体――魂・精神・身体のうち、身体の無い生き物――
を捕まえて協力させただけです。不思議でもなんでもありません。
天使や悪魔、霊や神なんてものは、物理的な身体が無いだけで、そこらのハエと同じようなものですよ。」
そうして頼人はさっきから店内を飛び回っているハエを指で示した。そのハエはふらふらと店の奥に吊り下がった
ハエ取り紙に引き寄せられて、捕まる。
「あれと神様が同じ、ですか」
「あるいは仕事上の取引相手、と言ったほうが聞こえがいいかもしれません。
1を差し出してやるから1ぶんの協力をあおぐ、といったような。
そういったルールを破ると、逮捕されて、刑罰を受けることになるのです。当然でしょう?」
「なるほど……」
ふと、そこで私は思い出す。
「そういえば『×』って、なんで出てくるんですか?」
「『×』は……」
頼人は言葉に詰まったようだった。少し腕を組んで思案したあと、頭を下げてくる。
「……ちょっと、説明が難しいですね、あれに関しては……」
「そうなんですか?」
「それより、そろそろ食べ終えて行きましょう。蕎麦、のびちゃいますよ。」
「でも、この前、天使を呼んでましたよね……ウリエル」
「あれは別のステージにいる精神生命体――魂・精神・身体のうち、身体の無い生き物――
を捕まえて協力させただけです。不思議でもなんでもありません。
天使や悪魔、霊や神なんてものは、物理的な身体が無いだけで、そこらのハエと同じようなものですよ。」
そうして頼人はさっきから店内を飛び回っているハエを指で示した。そのハエはふらふらと店の奥に吊り下がった
ハエ取り紙に引き寄せられて、捕まる。
「あれと神様が同じ、ですか」
「あるいは仕事上の取引相手、と言ったほうが聞こえがいいかもしれません。
1を差し出してやるから1ぶんの協力をあおぐ、といったような。
そういったルールを破ると、逮捕されて、刑罰を受けることになるのです。当然でしょう?」
「なるほど……」
ふと、そこで私は思い出す。
「そういえば『×』って、なんで出てくるんですか?」
「『×』は……」
頼人は言葉に詰まったようだった。少し腕を組んで思案したあと、頭を下げてくる。
「……ちょっと、説明が難しいですね、あれに関しては……」
「そうなんですか?」
「それより、そろそろ食べ終えて行きましょう。蕎麦、のびちゃいますよ。」
登山道の入り口がある山の中腹には広い駐車場と大きな土産屋と軽食屋があって、なんだここで食べれば
よかったじゃん、と頼人と私は笑った。
駐車場は閑散としていて、やけに広く見える。そんな中にハーレーを1台残していくのは盗まれそうで不安になったが、
「いざとなったら自分で抵抗しますから」と言われて安心した。
展望台になっている崖は駐車場とほぼ一体になっていて、その気になればあの写真のような、ハーレーに寄りかかった
構図で写真を撮るのは簡単そうだ。
展望台の柵に近づく。眼下には女木戸市の町並みが広がっている。天気が良く、そのおかげで中心のビルが
立ち並ぶあたりも、その向こうの田園地帯も、さらにその向こうに横たわる三州川までも一望できた。
太陽はぽかぽかと街全体と私たちを優しくあたためてくれている。このままピクニックでもしたくなったが、
頼人の迷惑を考えてやめた。
のどかな風景だった。
しかし私の心から不安が拭い去られることはなかった。
どう思い返しても覚えが無いのだ、あの写真を撮った覚えが。
以前にもここに来たことはある。だがそれは小学生のころに遠足のときで、あの写真が撮られたのは明らかにそのときではない。
いったい私はいつここに来て、誰に写真を撮ってもらったんだろう。大型バイクの免許を持っていない私がどうして
ハーレーを背にしていたんだろう。
頭の中の空白が気持ち悪くて、軽くこめかみを揉む。
……わからない。眼下の風景は何も答えてくれなかった。
「なにか、わかりましたか?」
頼人が、柵に手をかけ風景を眺める私の横に立った。
私は頭を振る。
「そうですか……」
少しして頼人は何か思いついたらしく、また声をかけてくる。
「あのスマートフォンは持ってます?」
私は頷いた。
頼人は両の親指と人差し指でフレームを作り、笑顔で言う。
「写真を撮りましょう。そのスマートフォンは過去の写真も撮れるんですよ。」
「え……?」
訊き返す。頼人はフレームを覗いて撮影ポジションを探しながら答える。
「カメラの撮影モードに『サイコメトライズ』があるはずですから、それを使うんですよ。」
「サイコ……なんですか?」
「とりあえずやってみてください……この位置がいいですね。」
私は頼人が指定した位置にスマートフォンのカメラをかまえて立ち、撮影モードを『サイコメトライズ』
に変更した。
すると日時指定の画面が出る。
「え、なにこれ」
「日時を指定してください。写真の左下の数字です。」
頼人が写真を手渡してきた。言われてはじめて、私はそこに写真の日付があるいうことに気づく。
その数字を入力して、改めてカメラをかまえた。
画面越しの世界はセピア色で、そこに多くの半透明のぼやけた人影が写り込んでいる。
「なんですかこれ? 心霊写真?」
「その場所の残留思念を検知して視覚化しているんです。残念ながら細かい特定まではできませんが……
心霊写真といっても間違いではないかもしれませんね」
「よくわかんないですけど、これも魔学ですか?」
「我々の成果です。」そばの頼人が言う。
私は適当にボタンを押した。シャッター音がして、切り取られた風景のぼやけていた人影がだんだんとはっきりしてくる。
そこには多くの人影が写っていたが、そのほとんどは関係ない人々のようだった。スマートフォンを受け取った頼人が
操作して、それらの余計な人々を画像から消していく。
そして残ったのは――
「なに……これ……」
受け取って、画像を見た私は愕然とした。
そこには私があの写真と同じポーズで写っていた。空気椅子のようなポーズになっているのは寄りかかっていた
ハーレーが写っていないからだろう。
それともうひとつ、私のすぐそばに、私に寄り添うようなシルエットの、人型の空白があった。
「なにこれ……なんで」
研究所の技術は相当高い。あれだけぼやけていた残留思念の影が今はくっきりと私の姿を描きだしていることからそれは素人目にもわかる。
しかしこれは?
私のそばの人影は文字通りの空白で、背景すらない。そこだけすっぽりと抜け落ちたようだ。
どうして、ここだけ……。
ずきりと胸が痛む。目頭に熱いものがこみあげてくる。なに、なんで――
(どうして、私は泣いているんだ……?)
理解できないまま、涙は次々と溢れ出る。
頼人は私の手からカメラをそっととり、写真を確認すると、私を見下ろして問いかけてくる。
「この人が、誰だかわかりますか?」
私は顔を隠しながら頭を乱暴に振った。
よかったじゃん、と頼人と私は笑った。
駐車場は閑散としていて、やけに広く見える。そんな中にハーレーを1台残していくのは盗まれそうで不安になったが、
「いざとなったら自分で抵抗しますから」と言われて安心した。
展望台になっている崖は駐車場とほぼ一体になっていて、その気になればあの写真のような、ハーレーに寄りかかった
構図で写真を撮るのは簡単そうだ。
展望台の柵に近づく。眼下には女木戸市の町並みが広がっている。天気が良く、そのおかげで中心のビルが
立ち並ぶあたりも、その向こうの田園地帯も、さらにその向こうに横たわる三州川までも一望できた。
太陽はぽかぽかと街全体と私たちを優しくあたためてくれている。このままピクニックでもしたくなったが、
頼人の迷惑を考えてやめた。
のどかな風景だった。
しかし私の心から不安が拭い去られることはなかった。
どう思い返しても覚えが無いのだ、あの写真を撮った覚えが。
以前にもここに来たことはある。だがそれは小学生のころに遠足のときで、あの写真が撮られたのは明らかにそのときではない。
いったい私はいつここに来て、誰に写真を撮ってもらったんだろう。大型バイクの免許を持っていない私がどうして
ハーレーを背にしていたんだろう。
頭の中の空白が気持ち悪くて、軽くこめかみを揉む。
……わからない。眼下の風景は何も答えてくれなかった。
「なにか、わかりましたか?」
頼人が、柵に手をかけ風景を眺める私の横に立った。
私は頭を振る。
「そうですか……」
少しして頼人は何か思いついたらしく、また声をかけてくる。
「あのスマートフォンは持ってます?」
私は頷いた。
頼人は両の親指と人差し指でフレームを作り、笑顔で言う。
「写真を撮りましょう。そのスマートフォンは過去の写真も撮れるんですよ。」
「え……?」
訊き返す。頼人はフレームを覗いて撮影ポジションを探しながら答える。
「カメラの撮影モードに『サイコメトライズ』があるはずですから、それを使うんですよ。」
「サイコ……なんですか?」
「とりあえずやってみてください……この位置がいいですね。」
私は頼人が指定した位置にスマートフォンのカメラをかまえて立ち、撮影モードを『サイコメトライズ』
に変更した。
すると日時指定の画面が出る。
「え、なにこれ」
「日時を指定してください。写真の左下の数字です。」
頼人が写真を手渡してきた。言われてはじめて、私はそこに写真の日付があるいうことに気づく。
その数字を入力して、改めてカメラをかまえた。
画面越しの世界はセピア色で、そこに多くの半透明のぼやけた人影が写り込んでいる。
「なんですかこれ? 心霊写真?」
「その場所の残留思念を検知して視覚化しているんです。残念ながら細かい特定まではできませんが……
心霊写真といっても間違いではないかもしれませんね」
「よくわかんないですけど、これも魔学ですか?」
「我々の成果です。」そばの頼人が言う。
私は適当にボタンを押した。シャッター音がして、切り取られた風景のぼやけていた人影がだんだんとはっきりしてくる。
そこには多くの人影が写っていたが、そのほとんどは関係ない人々のようだった。スマートフォンを受け取った頼人が
操作して、それらの余計な人々を画像から消していく。
そして残ったのは――
「なに……これ……」
受け取って、画像を見た私は愕然とした。
そこには私があの写真と同じポーズで写っていた。空気椅子のようなポーズになっているのは寄りかかっていた
ハーレーが写っていないからだろう。
それともうひとつ、私のすぐそばに、私に寄り添うようなシルエットの、人型の空白があった。
「なにこれ……なんで」
研究所の技術は相当高い。あれだけぼやけていた残留思念の影が今はくっきりと私の姿を描きだしていることからそれは素人目にもわかる。
しかしこれは?
私のそばの人影は文字通りの空白で、背景すらない。そこだけすっぽりと抜け落ちたようだ。
どうして、ここだけ……。
ずきりと胸が痛む。目頭に熱いものがこみあげてくる。なに、なんで――
(どうして、私は泣いているんだ……?)
理解できないまま、涙は次々と溢れ出る。
頼人は私の手からカメラをそっととり、写真を確認すると、私を見下ろして問いかけてくる。
「この人が、誰だかわかりますか?」
私は顔を隠しながら頭を乱暴に振った。
私は知らない。
私は誰かとここに来たことがあるんだ。だけど、私は知らない。
本当に何も知らないのか、それとも思い出せないだけなのか、それすら判らずに、ただ、熱い涙だけがこみあげて、
ぼろぼろとこぼれるんだ……!
私は誰かとここに来たことがあるんだ。だけど、私は知らない。
本当に何も知らないのか、それとも思い出せないだけなのか、それすら判らずに、ただ、熱い涙だけがこみあげて、
ぼろぼろとこぼれるんだ……!
そのとき、唐突に吹き抜ける一迅の風が私の涙を吹き飛ばす。顔を上げると血の気がひいた。視線の先には、
仮面をつけた、異様な姿の、忍者。
頼人が私をかばうように立ちふさがってくれた。私も涙を拭う。
「……彼女に近づくな。」
頼人がいつもの落ち着いたものよりいくぶんか脅すような口調で言った。
カオスマンは静かに佇んでこちらを眺めている。
私は頼人の後ろから叫んだ。
「なんで、私を、狙うの!? この写真はなに!? 私は誰とここに来たの!?」
カオスマンは沈黙をまもる。
「答えて!」
恫喝にも効果は無い。
「志野さん、無駄です」
諌めたのは頼人だった。
「カオスマン、何の用ですか?」
彼は静かな調子を崩さない。それに応えてカオスマンは刀を抜いた。私たちは身構える。
しかし相手は襲いかかってくる様子は見せず、腕を伸ばして刀の切っ先を崖の向こう側に見える女木戸市のほうに
向けるだけだった。だが横目でそちらを見ても何もない。
緊張した沈黙を打ち破ったのは、頼人のひと言だった。
「まさか、もう次の『×』がくるのですか?」
カオスマンはその言葉を受け、一度刀を振るって音を鳴らすと、少し首をかしげる。私はぎくりとした。
彼は明らかに私を見ている。
「言いたいことがあるなら……言ってよ……」
自分の声が震えているのがわかる。カオスマンは無言のままだ。私は恐怖をごまかすために声を張り上げた。
「わかんない! わからないの! 私は、知らないんだよ……!」
本当だ。
なにがわからないのか、何を知らないのか、それすらも私にはわからないんだ。
「何か知ってるなら、なんで教えてくれないの!?」
喉が痛むほどの叫びだった。頼人はちらりとこちらを見た。
仮面をつけた、異様な姿の、忍者。
頼人が私をかばうように立ちふさがってくれた。私も涙を拭う。
「……彼女に近づくな。」
頼人がいつもの落ち着いたものよりいくぶんか脅すような口調で言った。
カオスマンは静かに佇んでこちらを眺めている。
私は頼人の後ろから叫んだ。
「なんで、私を、狙うの!? この写真はなに!? 私は誰とここに来たの!?」
カオスマンは沈黙をまもる。
「答えて!」
恫喝にも効果は無い。
「志野さん、無駄です」
諌めたのは頼人だった。
「カオスマン、何の用ですか?」
彼は静かな調子を崩さない。それに応えてカオスマンは刀を抜いた。私たちは身構える。
しかし相手は襲いかかってくる様子は見せず、腕を伸ばして刀の切っ先を崖の向こう側に見える女木戸市のほうに
向けるだけだった。だが横目でそちらを見ても何もない。
緊張した沈黙を打ち破ったのは、頼人のひと言だった。
「まさか、もう次の『×』がくるのですか?」
カオスマンはその言葉を受け、一度刀を振るって音を鳴らすと、少し首をかしげる。私はぎくりとした。
彼は明らかに私を見ている。
「言いたいことがあるなら……言ってよ……」
自分の声が震えているのがわかる。カオスマンは無言のままだ。私は恐怖をごまかすために声を張り上げた。
「わかんない! わからないの! 私は、知らないんだよ……!」
本当だ。
なにがわからないのか、何を知らないのか、それすらも私にはわからないんだ。
「何か知ってるなら、なんで教えてくれないの!?」
喉が痛むほどの叫びだった。頼人はちらりとこちらを見た。
その叫びを聞いてカオスマンは諦めたように軽く首を振り、刀を納める。そして現れたときと同じように、
一迅の風とともにその姿を消した。
あとに残された頼人と私はそのあともしばらく周囲をうかがっていたが、どうやらもう何もないことを知ると、
頼人はすっくと立ち、地面にしゃがみこんだ私は熱い目もとと鼻をこすった。
落ち着いてから私は問う。
「……どういうことですか。彼は何を言いにきたんですか。
なんで『×』が来るってわかったんですか。
そもそも『×』ってなんなんですか。
なんで私が狙われるんですか。
カオスマンって何なんですか、
あなたたちは一体何なんですか!?」
次々と疑問が口を飛び出した。佇む頼人はどこか悲しげに女木戸市の空を見上げている。
私は答えを待った。しかし頼人はの返答は――
「志野さんは戦いを選択した。そうでしょう?」
「ふざけっ!」
怒りに任せて立ち上がる。ギッと睨むが、頼人はこちらを一瞥しただけだった。
「全ての答えはいずれわかりますよ」
「なんで今教えてくれないの!」
「私どもが信用できませんか。」
「そんなの……!」
様々な想いが頭に渦巻く。理性と感情がぶつかり合う。
天照研究所は敵なのか? 味方なのか?
……わからない。判断がつかない……。
ただひとつ、言えるのは……
「……手がかりは『魔学』なんでしょ……だったら、信用するしかないじゃん……」
「……本当に申し訳ありません」
「卑怯だよ、こんなの……」
また、泣き出しそうだった。
一迅の風とともにその姿を消した。
あとに残された頼人と私はそのあともしばらく周囲をうかがっていたが、どうやらもう何もないことを知ると、
頼人はすっくと立ち、地面にしゃがみこんだ私は熱い目もとと鼻をこすった。
落ち着いてから私は問う。
「……どういうことですか。彼は何を言いにきたんですか。
なんで『×』が来るってわかったんですか。
そもそも『×』ってなんなんですか。
なんで私が狙われるんですか。
カオスマンって何なんですか、
あなたたちは一体何なんですか!?」
次々と疑問が口を飛び出した。佇む頼人はどこか悲しげに女木戸市の空を見上げている。
私は答えを待った。しかし頼人はの返答は――
「志野さんは戦いを選択した。そうでしょう?」
「ふざけっ!」
怒りに任せて立ち上がる。ギッと睨むが、頼人はこちらを一瞥しただけだった。
「全ての答えはいずれわかりますよ」
「なんで今教えてくれないの!」
「私どもが信用できませんか。」
「そんなの……!」
様々な想いが頭に渦巻く。理性と感情がぶつかり合う。
天照研究所は敵なのか? 味方なのか?
……わからない。判断がつかない……。
ただひとつ、言えるのは……
「……手がかりは『魔学』なんでしょ……だったら、信用するしかないじゃん……」
「……本当に申し訳ありません」
「卑怯だよ、こんなの……」
また、泣き出しそうだった。
そしてその翌日、彼の預言のとおり、2体めの『×』が女木戸市に襲来することになる。