黒煙が空を満たす。瓦礫の街に炎が燃え出している。逃げ惑う人々をアバドンが狩り立てる。
酸鼻を極めるこの世の地獄で、二人の男女がアバドンを狩る。ジャック・フェルトンのレミントンM700がブフレームの心臓に穴を穿つ。メル・ファン・ヒューレンの持つニュー・トミーガンがブフレームをずたずたにする。東京の路地裏に獰猛な銃声が谺した。
若い母親は幼い子供を胸に抱き、脇目も振らずに逃げ出してゆく。彼女らの退路を確保するために弾幕が展開される。災禍が起きてしまった以上、せめて犠牲者は減らしたい。それがジャックとメルの共通した思いだった。
二人は装弾のために物陰に隠れた。
「ネイルズ3、どのくらいやった?」
ジャックがコールサインでメルに訊いた。
「五十から先は数えていません」
「いい返事だ」
母子は無事だろうか、とジャックは考えた。悲鳴が聞こえないから助かったと思いたい。退路を確保してやったのはいいが、自分たちの四方はすっかり包囲されてしまった。この程度の危機は中国でも経験しているし、メルの技量は当時の相棒にも劣らない。しかし二十年の年月は体力という換え難いものをジャックから奪っていた。引き換えに、経験と技量が磨かれたが――弾丸を薬室に送り込みながら、ジャックは周囲を見渡した。点在するブフレームの屍体は半ば液状化している。ブフレームの生態である。
無様に骸を晒す仲間らを意に介することなく生きたブフレームがじわりじわりと陣形を強固にしてゆく。
メルの銃器の似合わない細い指が、ある方向を差した。
「ジャック、あそこから行きましょう」
「分かった。いつも通りフォワードは任せたぞ」
ジャックが防備の薄い地点に手榴弾を投げ込む。爆風と釘とベアリング弾が路地裏に荒れ狂い、ブフレームの肉体を引き裂いた。同時にメルがニュー・トミーガンの銃爪を引き絞りながら前進し、ジャックがレミントンを撃ちながら続く。行く手を阻もうとしたブフレームは尽く倒れた。二人の男女は優れた戦士としての能力を存分に発揮していた。
六階建てのビルの窓ガラスが、ギロチンの刃のようにメルの前に突き立った。驚いたメルの張っていた弾幕が途切れ、その左肩をブフレームの触手が抉った。ジャックのライフルがそのブフレームの心臓を破壊した。
ジャックがメルの腕を引き寄せる。メルがか細く苦痛のうめきを漏らした。
「す、すみません」
「誰にでもあることだ。しかし、弱ったな」
包囲の輪が縮まり、ますます分厚くなっていた。更に脱出が困難になったということだ。諦めるつもりなど毛頭ないが、進退極まったか、とジャックは覚悟した。
忽然とジャックの耳朶を打ったのは重いローター音だった。次に降り注ぐのは機械の咆吼――M134ガトリング砲による毎分四千発のNATO弾の前では、ただでさえ軟らかいブフレームの群れなど塵芥のように吹き飛んだ。
四枚のローターを羽ばたかせた攻撃ヘリ、AH-64〈アパッチ〉の姿がジャックの目に映る。ヘッドライトによるモールス信号を読み取り、所定の場所に二人は向かう。垂れ下がったラダーを昇って彼らは〈アパッチ〉に乗った。
「ナイスタイミング、ラウラ」
「当然よ。二人とも、怪我は?」
メルに短く応答しながら、ヘリの操縦席に座るラウラ・オルツィが訊いた。緩く波打つ金髪をポニーテールにまとめ、成熟した頬に笑みを浮かべている。
「メルが軽傷を負った。それ以外は問題ない。ネイルズ2、状況を」
ラウラは笑みを吹き消した。彼女の口から紡がれる被害状況は予想以上だった。一千万単位のアバドンの襲来は東京の東半分に及び、死者・行方不明者の数は分かっているだけで関東大震災に匹敵する。
「柊玉枝元三佐がご入院中の病院がアバドンの攻撃を受けました。安否は不明ですが……」
「分かった。もういい」
恐らくは生きてはいまい。ジャックは己の無力を呪った。〈アパッチ〉が上空高く飛ぶ。
ブフレームは雲霞のように漂い、視界のどこにも意識をしない訳にはいかなくなっていた。
その十数メートル横を火球が掠めた。衝撃波でわずかにヘリが傾いだが、飛行に支障はない。四つの火球はあちこちに弾け、まばゆい火のドームを都市に散らし、甚大な被害を生んだ。
「あれです」
ラウラが火球の飛来した方向を差す。黒雲とブフレームの渦巻く空に六枚の翼を広げた、四つの龍の頭部を持つ巨龍。
「あれが〈フォーヘッド〉――いえ、アバドン・ヘッド〈ヴァシュタル〉です」
「あれが――」
あれが元凶か。そう思った脳裏とは別に、ジャックの口は別の語を接いでいた。
「――あれが〈首領〉か。倒すのは骨だな」
ブフレームのような小物は通常火器でも十分対応出来るが、〈首領〉――アバドン・ヘッドとなるとそれ相応の装備が必要だった。なんとなればアバドン・ヘッドは群れの生殺与奪の全てを握る王であり、その生存こそ群れの運命そのものであるからだ。必然、確認されたアバドン・ヘッドのいずれもが災害じみた能力を持ち、その生命力も尋常ではない。通常の戦力や量産型ソルディアンで対応する場合それらは全て足止めに過ぎず、T弾頭と呼ばれる兵器で消滅させるのが常道である。
「……はい。しかしアブラクサス東京支部はすっかり瓦礫の下です。最も近いのは横浜支部ですから――」
時間がかかりすぎる。アバドン・ヘッドにとってはあと三十分もあれば東京を更地に変えるくらい造作もないはずだ。ラウラの返事に言わずもがなの付け足しをしながら、ジャックは暗澹たる気分に陥った。
あのとき硫黄島で食い止めていれば――いや、アブラクサスは何故東京のような人口密集地でアバドン・ヘッドのサンプルの検分をしていた? 後悔と共にアブラクサスに対する不信が湧き出る。十年前に妻の雪菜を失ったときから胸に秘めてきた思いだった。だからアバドンと、ひいてはアブラクサスと闘う道を選んだのだ。大切なものを失わないために。守るべきものを守るために。知るべきことを知るために――
光が空を嘗め尽くした。空間を煮え滾らせ、白い焔が遊弋していたブフレームを分子以下の塵に還す。
ジャックはその方向を見た。
翼も持たず上空六千メートルに佇立する二十五メートル二千トンの巨躯。
強靭な四肢を持ち、五本の黄金の角を頂く龍頭を備えた巨人――それがオリジナル・ソルディアンであることは疑う余地さえ無かった。
「隆一郎――〈ヴォルカドゥス〉!!」
ジャックが叫んだ。
接近していたブフレームがヘリコプターに触手を伸ばす。
〈――ヴォル・ファランクス!!〉
沸騰する怒りを乗せた思念がジャックにも洩れ聞こえると同時に、〈ヴォルカドゥス〉が右手を開いて突き出した。掌中に白い焔が灯ると見るや、無数の小さな焔に分裂し、弾丸の如くアバドンを襲いかかった。たちまちに無数のブフレームを焼き尽くした。ブフレームの一群は〈アパッチ〉の陰に隠れていたが、ありうべからざる軌道で攻め立てる焔塊の前にまとめて蒸発した。ここまでの苛烈な攻撃にヘリコプターの内部の人間は肩をそびやかしたが、爆風や衝撃波が生じることは全くなかった。
「マジックミサイルの精密攻撃……凄いわ」
メルが感嘆の声を上げる。そう、これこそがオリジナル・ソルディアンの力だ。覚醒したばかりだろうが新米機主を乗せていようが、この程度の芸当は出来て当然のことだった。
〈ヴォルカドゥス〉が龍頭をめぐらせ、蒼氷色の双眸を〈ヴァシュタル〉に向けた。
〈あいつか――!〉
隆一郎の敵意が激烈な赫怒の意思と共に〈ヴァシュタル〉に放射された。〈ヴォルカドゥス〉が〈アパッチ〉を凌ぐ速度でアバドン・ヘッドに迫る。
〈ヴァシュタル〉の二つの顎が口腔を見せ、その奥から砲弾の勢いでプラズマ火球を迸らせた。
〈ディフ・シルド!〉
隆一郎が叫ぶ。二条の紫電を引きながら放たれた火球は不可視の壁に阻まれて砕け、焔の残滓を眼下の街に散らした。
赤黒い空に対峙する龍頭の魔人と四つ首の魔龍――それは形態こそ違えど、黙示録に記された魔王の化身を否応なく連想させた。
昂、と巨龍の四つ首が鳴いた。残っていたビルの窓ガラスが全て割れ砕け、同時に東京中に散らばっていたアバドン〈ブフレーム〉が、水母状の肉体と触腕を震わせながら集ってきた。
空を埋め尽くすほどに結集する怪物の群れは、殆ど〈ヴァシュタル〉をも覆い隠していた。
「貴様らはッ! 邪魔だッ!!」
隆一郎の叫びに応じ、〈ヴォルカドゥス〉の顎が上下に開いた。
「ヴォル・ファイア!!」
口腔にまばゆい光が灯り、放射状に空間が煮え滾った。炎すら色褪せる白の焔が瞬く間に数百ものブフレームを蒸発させた。だが空間から熱が失われる一瞬のうちに、ブフレームが生じた間隙を塞いでゆく。一方でブフレームどもの一部は〈ヴォルカドゥス〉を包囲するように押し迫ってくる。
「ゼオ・ソード!! テイル・ハーケン!!」
思念が腕部装甲の形状を剣に変え、後頭部の「尾」を伸ばす。ブフレームの肉体を左右二本の剣が斬り裂き、無数の金属節からなる尾とその尖端の三爪鉤が挽肉に変えてゆく。
前に、前に。〈ヴォルカドゥス〉は未知の力を以って推進し、遅々と、しかし確実に〈ヴァシュタル〉へ向かっている。だが、その姿は一向にして見えない。
数十匹ものブフレームが〈ヴォルカドゥス〉の下半身を拘束した。ブフレームの触腕は微細動し、装甲をじわじわと侵蝕し、破壊する。推進力が削がれたところに、次々にブフレームがたかってゆく。巻き添えを食ったブフレームの頭蓋が千切れ、肉塊となって地上に落ちてゆく。
伸ばした〈テイル・ハーケン〉が一斉に薙ぎ払った。装甲は幾枚か抜かれたが、軽微な損傷だ。
万を超えるブフレームを殺戮し、〈ゼオ・ソード〉と〈テイル・ハーケン〉を揮ってブフレームの陣形を突き崩しながら進む〈ヴォルカドゥス〉の眼が、やっとその姿を捉えた。黒金の鱗、四つの蜥蜴の首。何万と殺戮されながら一向に数を減じる様子も見せず密集陣形を敷くブフレームが隆一郎を阻む。――だがそれが何だ? 手の届く範囲に奴がいる。それだけで十分――!
「殺ァァァァァァァァァッ!!」
獣のように殺意の咆吼を上げながら、隆一郎は〈ゼオ・ソード〉の剣尖を奴に向け――だが果たせなかった。
黒金の鱗を覆うように展開された不可視の障壁――障壁は貫くことが出来たもの、勢いを殺された剣尖が黒金の鱗を貫くことは叶わなかった。
一瞬の遅滞――そこを狙って何十何百というブフレームが絡みつく。
「だからッ、無駄だッ!!」
縦横無尽の〈テイル・ハーケン〉がアバドンを薙ぎ払い、撃ち砕く。
〈ヴァシュタル〉の三本の長大な尾が振り降ろされた。〈ヴォルカドゥス〉の胴体を襲う痛撃に機主たる隆一郎は苦鳴を洩らす。僅かな動作の停滞を狙い、〈ヴァシュタル〉は四つの火球を放った。隆一郎は中空で身を捩じらせる。だが、少し遅かった。一つの火球の直撃を受けた〈ヴォルカドゥス〉は装甲を大きく焦がし、傾いだビルに落下した。二千トンの巨体がビルを破壊した。
「ぐううう……ッ!」
コントロールを取り戻し、隆一郎は瓦礫の山から〈ヴォルカドゥス〉を立ち上がらせた。
時を同じくして〈ヴァシュタル〉の火球を受けた東京タワーも崩落する。
「ここは……東京なんだ……」
今更にして、そのことに思い至る。例え瓦礫にまみれ炎に彩られていようとも、ここは隆一郎の慣れ親しんだ街なのだ。こんな有様でも生存者がいるかもしれない。これ以上被害を広げてはいけない――白熱した脳髄に冷や水が浴びせられ、落ち着きを取り戻した隆一郎はまずやるべきことを心に決める。
再び〈ヴォルカドゥス〉を高みに走らせ、〈ヴァシュタル〉に肉迫させる。ここぞとばかりに襲いかかるブフレームの群れに対する苛立ちを押さえつつ、お前らに関わっていられるか、と隆一郎は胸中に吐き捨てた。
「ヴォル・ファイア!!」
ブフレームは白い焔に焼き尽くされる。更に加速しながら、隆一郎は両の手を広げて前に突き出した。
「ヴォル・ファランクス!!」
掌に灯る白い焔が横殴りの雨のように〈ヴァシュタル〉を叩く。焔はしかし、〈ヴァシュタル〉の不可視の障壁に弾かれ表面を舐めるだけで本体には届かない。
――ついでに奴には馬鹿みたいな再生能力もある、と隆一郎は声に出さず呟いた。ブフレームの存在が不可欠だが、ちょっとやそっとの傷ではすぐに再生されてしまうのは明らかだ。
効果がないと知りつつ、隆一郎は白い焔の雨を降らせるのをやめない。攻撃を仕掛けながら、〈ヴォルカドゥス〉は〈ヴァシュタル〉の方へゆっくりと、着実に前進している。
焔の雨が途切れた。ここが距離だ、と思い定め、隆一郎は叫んだ。
「テイル・ハーケン!!」
項から無数の金属節で繋がれた三爪鉤が飛ぶ。ドリルのように回転する鉤の尖端はあたかも獲物を襲う蛇の動作で何体かのブフレームを砕き、〈テイル・ハーケン〉は〈ヴァシュタル〉の不可視の障壁を貫いた。
斬撃も高熱も通用しないならば、回転――隆一郎の考えは正しかった。
猛烈な運動エネルギーが障壁を破り、更に六枚の翼の中央部――巨大な眼球に似た強固な外殻を破壊し、内包された心臓部を抉る。
四つの龍頭が苦悶の絶叫を上げた。どんな生物の悲鳴にも似ていないそれは空と地の間で冒涜的に谺し、隆一郎の精神を揺さぶった――〈ヴォルカドゥス〉に乗っていなければその程度では済まず、精神汚染をも受けていたところだろう。
〈ヴァシュタル〉の受けた傷は致命傷には違いない。だがこの程度で〈ヴァシュタル〉が完全に死ぬとは思えない。現に〈ヴァシュタル〉は首一つの状態から蘇ったのだ。隆一郎は〈テイル・ハーケン〉の爪をアバドン・ヘッドの体内で開いて固定し、〈ヴォルカドゥス〉で引っ張った。
海へ、海へ。海上ならば被害の拡大は防げる。隆一郎は〈ヴォルカドゥス〉の心臓たるブラック・サンに思惟を注ぎ込んだ。思惟はブラック・サンで魔道素<<クリプトン>>に変換され、生物の赤い血の如く〈ヴォルカドゥス〉の四肢に力をみなぎらせる。質量差は倍どころでは利かないであろう〈ヴァシュタル〉を牽引し、龍頭の魔人は海上を目指す。王に従う奴僕たるブフレームがそれに引き続く。
やがて海が見えた。
「そぉ――――らァッ!!」
〈ヴォルカドゥス〉は金属で繋がる〈ヴァシュタル〉を遠心力で振り回し、数キロ先の海上にまで放逐する。ただし、爪は固定したままで。
爪を固定したまま「尾」を縮める勢いを借り――ヨーヨーのように――〈ヴォルカドゥス〉は〈ヴァシュタル〉に肉迫する。
最早不可視の障壁を展開出来ないアバドン・ヘッドなど巨大な肉塊も同然だった。馬鈴薯状の肉体に立って三爪鉤を引き抜くと、穴の穿たれた眼球から蒼い体液が止めどなく溢れた。
その傷口に六本指の手をかざす。
「ヴォル・ファランクス!!」
白い焔が深々と穿たれた傷口に叩きこまれ、〈ヴァシュタル〉の体内を焼いた。間断なく撃ち込まれる焔の弾丸に四つの頭の眼球が次々に沸騰し、その口腔から焔と煙を噴き上げた。
だがまだ終わりではない。〈ヴォルカドゥス〉は両腕の装甲を剣に変え、黒金の鱗に突き立てた。縦横に揮われる剣によって、腕利きの料理人のようにその肉片を賽の目に分割してゆく。
――その肉片が波に浚われる前に、全て消滅させる。
「とどめだ――ヴォル・ファイア!!」
〈ヴォルカドゥス〉の龍頭の顎から焔が放たれた。煮え滾る空間が海上を白く染め上げ、アバドン・ヘッド〈ヴァシュタル〉の存在した痕跡を塵一つ残すことなく消滅させた。ブフレームの一群が殉死するように寄り添い王と運命を共にしていたが、隆一郎の預かり知るところではなかった。
隆一郎は大きく息を吐いた。頭と身体が異常に重い。
視線をめぐらせる。黒煙の渦巻く西の空に、ブフレームどもは遠ざかりつつあった。
何故逃げる? 何故闘おうとしない? 全てはお前らから仕掛けてきたことじゃないか。追わなければ。殺さなければ。血と涙の報復を――
力を振り絞りかけたとき、隆一郎の意識は途絶した。今日一日で消耗し過ぎた精神が限界に達したためのことだった。力を失った〈ヴォルカドゥス〉の巨躯は海に投げ出され、溶けるように光になって姿を消した。
酸鼻を極めるこの世の地獄で、二人の男女がアバドンを狩る。ジャック・フェルトンのレミントンM700がブフレームの心臓に穴を穿つ。メル・ファン・ヒューレンの持つニュー・トミーガンがブフレームをずたずたにする。東京の路地裏に獰猛な銃声が谺した。
若い母親は幼い子供を胸に抱き、脇目も振らずに逃げ出してゆく。彼女らの退路を確保するために弾幕が展開される。災禍が起きてしまった以上、せめて犠牲者は減らしたい。それがジャックとメルの共通した思いだった。
二人は装弾のために物陰に隠れた。
「ネイルズ3、どのくらいやった?」
ジャックがコールサインでメルに訊いた。
「五十から先は数えていません」
「いい返事だ」
母子は無事だろうか、とジャックは考えた。悲鳴が聞こえないから助かったと思いたい。退路を確保してやったのはいいが、自分たちの四方はすっかり包囲されてしまった。この程度の危機は中国でも経験しているし、メルの技量は当時の相棒にも劣らない。しかし二十年の年月は体力という換え難いものをジャックから奪っていた。引き換えに、経験と技量が磨かれたが――弾丸を薬室に送り込みながら、ジャックは周囲を見渡した。点在するブフレームの屍体は半ば液状化している。ブフレームの生態である。
無様に骸を晒す仲間らを意に介することなく生きたブフレームがじわりじわりと陣形を強固にしてゆく。
メルの銃器の似合わない細い指が、ある方向を差した。
「ジャック、あそこから行きましょう」
「分かった。いつも通りフォワードは任せたぞ」
ジャックが防備の薄い地点に手榴弾を投げ込む。爆風と釘とベアリング弾が路地裏に荒れ狂い、ブフレームの肉体を引き裂いた。同時にメルがニュー・トミーガンの銃爪を引き絞りながら前進し、ジャックがレミントンを撃ちながら続く。行く手を阻もうとしたブフレームは尽く倒れた。二人の男女は優れた戦士としての能力を存分に発揮していた。
六階建てのビルの窓ガラスが、ギロチンの刃のようにメルの前に突き立った。驚いたメルの張っていた弾幕が途切れ、その左肩をブフレームの触手が抉った。ジャックのライフルがそのブフレームの心臓を破壊した。
ジャックがメルの腕を引き寄せる。メルがか細く苦痛のうめきを漏らした。
「す、すみません」
「誰にでもあることだ。しかし、弱ったな」
包囲の輪が縮まり、ますます分厚くなっていた。更に脱出が困難になったということだ。諦めるつもりなど毛頭ないが、進退極まったか、とジャックは覚悟した。
忽然とジャックの耳朶を打ったのは重いローター音だった。次に降り注ぐのは機械の咆吼――M134ガトリング砲による毎分四千発のNATO弾の前では、ただでさえ軟らかいブフレームの群れなど塵芥のように吹き飛んだ。
四枚のローターを羽ばたかせた攻撃ヘリ、AH-64〈アパッチ〉の姿がジャックの目に映る。ヘッドライトによるモールス信号を読み取り、所定の場所に二人は向かう。垂れ下がったラダーを昇って彼らは〈アパッチ〉に乗った。
「ナイスタイミング、ラウラ」
「当然よ。二人とも、怪我は?」
メルに短く応答しながら、ヘリの操縦席に座るラウラ・オルツィが訊いた。緩く波打つ金髪をポニーテールにまとめ、成熟した頬に笑みを浮かべている。
「メルが軽傷を負った。それ以外は問題ない。ネイルズ2、状況を」
ラウラは笑みを吹き消した。彼女の口から紡がれる被害状況は予想以上だった。一千万単位のアバドンの襲来は東京の東半分に及び、死者・行方不明者の数は分かっているだけで関東大震災に匹敵する。
「柊玉枝元三佐がご入院中の病院がアバドンの攻撃を受けました。安否は不明ですが……」
「分かった。もういい」
恐らくは生きてはいまい。ジャックは己の無力を呪った。〈アパッチ〉が上空高く飛ぶ。
ブフレームは雲霞のように漂い、視界のどこにも意識をしない訳にはいかなくなっていた。
その十数メートル横を火球が掠めた。衝撃波でわずかにヘリが傾いだが、飛行に支障はない。四つの火球はあちこちに弾け、まばゆい火のドームを都市に散らし、甚大な被害を生んだ。
「あれです」
ラウラが火球の飛来した方向を差す。黒雲とブフレームの渦巻く空に六枚の翼を広げた、四つの龍の頭部を持つ巨龍。
「あれが〈フォーヘッド〉――いえ、アバドン・ヘッド〈ヴァシュタル〉です」
「あれが――」
あれが元凶か。そう思った脳裏とは別に、ジャックの口は別の語を接いでいた。
「――あれが〈首領〉か。倒すのは骨だな」
ブフレームのような小物は通常火器でも十分対応出来るが、〈首領〉――アバドン・ヘッドとなるとそれ相応の装備が必要だった。なんとなればアバドン・ヘッドは群れの生殺与奪の全てを握る王であり、その生存こそ群れの運命そのものであるからだ。必然、確認されたアバドン・ヘッドのいずれもが災害じみた能力を持ち、その生命力も尋常ではない。通常の戦力や量産型ソルディアンで対応する場合それらは全て足止めに過ぎず、T弾頭と呼ばれる兵器で消滅させるのが常道である。
「……はい。しかしアブラクサス東京支部はすっかり瓦礫の下です。最も近いのは横浜支部ですから――」
時間がかかりすぎる。アバドン・ヘッドにとってはあと三十分もあれば東京を更地に変えるくらい造作もないはずだ。ラウラの返事に言わずもがなの付け足しをしながら、ジャックは暗澹たる気分に陥った。
あのとき硫黄島で食い止めていれば――いや、アブラクサスは何故東京のような人口密集地でアバドン・ヘッドのサンプルの検分をしていた? 後悔と共にアブラクサスに対する不信が湧き出る。十年前に妻の雪菜を失ったときから胸に秘めてきた思いだった。だからアバドンと、ひいてはアブラクサスと闘う道を選んだのだ。大切なものを失わないために。守るべきものを守るために。知るべきことを知るために――
光が空を嘗め尽くした。空間を煮え滾らせ、白い焔が遊弋していたブフレームを分子以下の塵に還す。
ジャックはその方向を見た。
翼も持たず上空六千メートルに佇立する二十五メートル二千トンの巨躯。
強靭な四肢を持ち、五本の黄金の角を頂く龍頭を備えた巨人――それがオリジナル・ソルディアンであることは疑う余地さえ無かった。
「隆一郎――〈ヴォルカドゥス〉!!」
ジャックが叫んだ。
接近していたブフレームがヘリコプターに触手を伸ばす。
〈――ヴォル・ファランクス!!〉
沸騰する怒りを乗せた思念がジャックにも洩れ聞こえると同時に、〈ヴォルカドゥス〉が右手を開いて突き出した。掌中に白い焔が灯ると見るや、無数の小さな焔に分裂し、弾丸の如くアバドンを襲いかかった。たちまちに無数のブフレームを焼き尽くした。ブフレームの一群は〈アパッチ〉の陰に隠れていたが、ありうべからざる軌道で攻め立てる焔塊の前にまとめて蒸発した。ここまでの苛烈な攻撃にヘリコプターの内部の人間は肩をそびやかしたが、爆風や衝撃波が生じることは全くなかった。
「マジックミサイルの精密攻撃……凄いわ」
メルが感嘆の声を上げる。そう、これこそがオリジナル・ソルディアンの力だ。覚醒したばかりだろうが新米機主を乗せていようが、この程度の芸当は出来て当然のことだった。
〈ヴォルカドゥス〉が龍頭をめぐらせ、蒼氷色の双眸を〈ヴァシュタル〉に向けた。
〈あいつか――!〉
隆一郎の敵意が激烈な赫怒の意思と共に〈ヴァシュタル〉に放射された。〈ヴォルカドゥス〉が〈アパッチ〉を凌ぐ速度でアバドン・ヘッドに迫る。
〈ヴァシュタル〉の二つの顎が口腔を見せ、その奥から砲弾の勢いでプラズマ火球を迸らせた。
〈ディフ・シルド!〉
隆一郎が叫ぶ。二条の紫電を引きながら放たれた火球は不可視の壁に阻まれて砕け、焔の残滓を眼下の街に散らした。
赤黒い空に対峙する龍頭の魔人と四つ首の魔龍――それは形態こそ違えど、黙示録に記された魔王の化身を否応なく連想させた。
昂、と巨龍の四つ首が鳴いた。残っていたビルの窓ガラスが全て割れ砕け、同時に東京中に散らばっていたアバドン〈ブフレーム〉が、水母状の肉体と触腕を震わせながら集ってきた。
空を埋め尽くすほどに結集する怪物の群れは、殆ど〈ヴァシュタル〉をも覆い隠していた。
「貴様らはッ! 邪魔だッ!!」
隆一郎の叫びに応じ、〈ヴォルカドゥス〉の顎が上下に開いた。
「ヴォル・ファイア!!」
口腔にまばゆい光が灯り、放射状に空間が煮え滾った。炎すら色褪せる白の焔が瞬く間に数百ものブフレームを蒸発させた。だが空間から熱が失われる一瞬のうちに、ブフレームが生じた間隙を塞いでゆく。一方でブフレームどもの一部は〈ヴォルカドゥス〉を包囲するように押し迫ってくる。
「ゼオ・ソード!! テイル・ハーケン!!」
思念が腕部装甲の形状を剣に変え、後頭部の「尾」を伸ばす。ブフレームの肉体を左右二本の剣が斬り裂き、無数の金属節からなる尾とその尖端の三爪鉤が挽肉に変えてゆく。
前に、前に。〈ヴォルカドゥス〉は未知の力を以って推進し、遅々と、しかし確実に〈ヴァシュタル〉へ向かっている。だが、その姿は一向にして見えない。
数十匹ものブフレームが〈ヴォルカドゥス〉の下半身を拘束した。ブフレームの触腕は微細動し、装甲をじわじわと侵蝕し、破壊する。推進力が削がれたところに、次々にブフレームがたかってゆく。巻き添えを食ったブフレームの頭蓋が千切れ、肉塊となって地上に落ちてゆく。
伸ばした〈テイル・ハーケン〉が一斉に薙ぎ払った。装甲は幾枚か抜かれたが、軽微な損傷だ。
万を超えるブフレームを殺戮し、〈ゼオ・ソード〉と〈テイル・ハーケン〉を揮ってブフレームの陣形を突き崩しながら進む〈ヴォルカドゥス〉の眼が、やっとその姿を捉えた。黒金の鱗、四つの蜥蜴の首。何万と殺戮されながら一向に数を減じる様子も見せず密集陣形を敷くブフレームが隆一郎を阻む。――だがそれが何だ? 手の届く範囲に奴がいる。それだけで十分――!
「殺ァァァァァァァァァッ!!」
獣のように殺意の咆吼を上げながら、隆一郎は〈ゼオ・ソード〉の剣尖を奴に向け――だが果たせなかった。
黒金の鱗を覆うように展開された不可視の障壁――障壁は貫くことが出来たもの、勢いを殺された剣尖が黒金の鱗を貫くことは叶わなかった。
一瞬の遅滞――そこを狙って何十何百というブフレームが絡みつく。
「だからッ、無駄だッ!!」
縦横無尽の〈テイル・ハーケン〉がアバドンを薙ぎ払い、撃ち砕く。
〈ヴァシュタル〉の三本の長大な尾が振り降ろされた。〈ヴォルカドゥス〉の胴体を襲う痛撃に機主たる隆一郎は苦鳴を洩らす。僅かな動作の停滞を狙い、〈ヴァシュタル〉は四つの火球を放った。隆一郎は中空で身を捩じらせる。だが、少し遅かった。一つの火球の直撃を受けた〈ヴォルカドゥス〉は装甲を大きく焦がし、傾いだビルに落下した。二千トンの巨体がビルを破壊した。
「ぐううう……ッ!」
コントロールを取り戻し、隆一郎は瓦礫の山から〈ヴォルカドゥス〉を立ち上がらせた。
時を同じくして〈ヴァシュタル〉の火球を受けた東京タワーも崩落する。
「ここは……東京なんだ……」
今更にして、そのことに思い至る。例え瓦礫にまみれ炎に彩られていようとも、ここは隆一郎の慣れ親しんだ街なのだ。こんな有様でも生存者がいるかもしれない。これ以上被害を広げてはいけない――白熱した脳髄に冷や水が浴びせられ、落ち着きを取り戻した隆一郎はまずやるべきことを心に決める。
再び〈ヴォルカドゥス〉を高みに走らせ、〈ヴァシュタル〉に肉迫させる。ここぞとばかりに襲いかかるブフレームの群れに対する苛立ちを押さえつつ、お前らに関わっていられるか、と隆一郎は胸中に吐き捨てた。
「ヴォル・ファイア!!」
ブフレームは白い焔に焼き尽くされる。更に加速しながら、隆一郎は両の手を広げて前に突き出した。
「ヴォル・ファランクス!!」
掌に灯る白い焔が横殴りの雨のように〈ヴァシュタル〉を叩く。焔はしかし、〈ヴァシュタル〉の不可視の障壁に弾かれ表面を舐めるだけで本体には届かない。
――ついでに奴には馬鹿みたいな再生能力もある、と隆一郎は声に出さず呟いた。ブフレームの存在が不可欠だが、ちょっとやそっとの傷ではすぐに再生されてしまうのは明らかだ。
効果がないと知りつつ、隆一郎は白い焔の雨を降らせるのをやめない。攻撃を仕掛けながら、〈ヴォルカドゥス〉は〈ヴァシュタル〉の方へゆっくりと、着実に前進している。
焔の雨が途切れた。ここが距離だ、と思い定め、隆一郎は叫んだ。
「テイル・ハーケン!!」
項から無数の金属節で繋がれた三爪鉤が飛ぶ。ドリルのように回転する鉤の尖端はあたかも獲物を襲う蛇の動作で何体かのブフレームを砕き、〈テイル・ハーケン〉は〈ヴァシュタル〉の不可視の障壁を貫いた。
斬撃も高熱も通用しないならば、回転――隆一郎の考えは正しかった。
猛烈な運動エネルギーが障壁を破り、更に六枚の翼の中央部――巨大な眼球に似た強固な外殻を破壊し、内包された心臓部を抉る。
四つの龍頭が苦悶の絶叫を上げた。どんな生物の悲鳴にも似ていないそれは空と地の間で冒涜的に谺し、隆一郎の精神を揺さぶった――〈ヴォルカドゥス〉に乗っていなければその程度では済まず、精神汚染をも受けていたところだろう。
〈ヴァシュタル〉の受けた傷は致命傷には違いない。だがこの程度で〈ヴァシュタル〉が完全に死ぬとは思えない。現に〈ヴァシュタル〉は首一つの状態から蘇ったのだ。隆一郎は〈テイル・ハーケン〉の爪をアバドン・ヘッドの体内で開いて固定し、〈ヴォルカドゥス〉で引っ張った。
海へ、海へ。海上ならば被害の拡大は防げる。隆一郎は〈ヴォルカドゥス〉の心臓たるブラック・サンに思惟を注ぎ込んだ。思惟はブラック・サンで魔道素<<クリプトン>>に変換され、生物の赤い血の如く〈ヴォルカドゥス〉の四肢に力をみなぎらせる。質量差は倍どころでは利かないであろう〈ヴァシュタル〉を牽引し、龍頭の魔人は海上を目指す。王に従う奴僕たるブフレームがそれに引き続く。
やがて海が見えた。
「そぉ――――らァッ!!」
〈ヴォルカドゥス〉は金属で繋がる〈ヴァシュタル〉を遠心力で振り回し、数キロ先の海上にまで放逐する。ただし、爪は固定したままで。
爪を固定したまま「尾」を縮める勢いを借り――ヨーヨーのように――〈ヴォルカドゥス〉は〈ヴァシュタル〉に肉迫する。
最早不可視の障壁を展開出来ないアバドン・ヘッドなど巨大な肉塊も同然だった。馬鈴薯状の肉体に立って三爪鉤を引き抜くと、穴の穿たれた眼球から蒼い体液が止めどなく溢れた。
その傷口に六本指の手をかざす。
「ヴォル・ファランクス!!」
白い焔が深々と穿たれた傷口に叩きこまれ、〈ヴァシュタル〉の体内を焼いた。間断なく撃ち込まれる焔の弾丸に四つの頭の眼球が次々に沸騰し、その口腔から焔と煙を噴き上げた。
だがまだ終わりではない。〈ヴォルカドゥス〉は両腕の装甲を剣に変え、黒金の鱗に突き立てた。縦横に揮われる剣によって、腕利きの料理人のようにその肉片を賽の目に分割してゆく。
――その肉片が波に浚われる前に、全て消滅させる。
「とどめだ――ヴォル・ファイア!!」
〈ヴォルカドゥス〉の龍頭の顎から焔が放たれた。煮え滾る空間が海上を白く染め上げ、アバドン・ヘッド〈ヴァシュタル〉の存在した痕跡を塵一つ残すことなく消滅させた。ブフレームの一群が殉死するように寄り添い王と運命を共にしていたが、隆一郎の預かり知るところではなかった。
隆一郎は大きく息を吐いた。頭と身体が異常に重い。
視線をめぐらせる。黒煙の渦巻く西の空に、ブフレームどもは遠ざかりつつあった。
何故逃げる? 何故闘おうとしない? 全てはお前らから仕掛けてきたことじゃないか。追わなければ。殺さなければ。血と涙の報復を――
力を振り絞りかけたとき、隆一郎の意識は途絶した。今日一日で消耗し過ぎた精神が限界に達したためのことだった。力を失った〈ヴォルカドゥス〉の巨躯は海に投げ出され、溶けるように光になって姿を消した。
パーティー会場の外のロビーに、クローディア・クロムウェルはいた。
クローディアは十五歳。癖のない長い淡い色の金髪は宝石をあしらったピンで軽く止めただけで、真っ白なシルクのドレスは裾に精緻な刺繍がされているだけの清楚でシンプルなデザインだ。それだけに、彼女の美貌は引き立ててられていた。それがクローディアの呼ぶところの「おじいさま」の見立てによるものだから恐れ入る他ない。――やっぱり伊達に長生きはなさっていないのよね、おじいさま。
ソファに寄りかかるクローディアは、しかし倦んだ眼をしていた。人が多い場所は苦手だ、嫌なことしか思い出さない。食事は美味しかったが、食の細い彼女だから限界は早い。となればすることは会話しか残らないが、それこそクローディアにとっては最も苦手なことだった。おじいさまがクローディアをパーティーの場に連れ出したのは、彼女の精神的トレーニング――もしくは精神的リハビリ――のためでもある。それは事前に分かっていたことだが、苦手なことを好きになるのは難しいものだ。
ロビーに出ても別にやることはない。何とかいうブランド物のバッグは小さすぎて、今読んでいるハードカバーの本を入れることは出来なかった。
妥協してペーパーバックにすればよかったか、と思っても遅過ぎる後悔だ。
お腹もこなれてきたし、軽い物でも食べに戻ろうか。そう思って立ち上がった時、頭蓋から脊髄にかけて電流が走る感覚を覚えた。
慌ててバッグを見る。中にあるのは財布と、母の形見の銀の懐中時計。クローディアは時計を手に執った。機構の動作だけでは説明のつかない、心臓のような脈動を打っている。思わず喉が鳴る。
「十一体目――」
分かってしまった。十一体目が覚醒したことが。心臓が一際高く撥ね、収まりそうにない。
怖いと思う。けれどそれ以上にすごくわくわくしていた。
嫌と言うほど読み聞かされ悪夢にも見た黙示録の風景を、真っ白な焔で塗り潰す龍頭の巨人。これほど痛快なことはない。
見たことのない光景を見ることが出来る、とクローディアは思った。見たことのない世界に行けるかも知れない、とも思った。
「わたしはクローディア・クロムウェル。あなたは、誰――?」
確かにつながっていながら名前さえ知らない相手に、クローディアは問い掛けた。
無論、応答はない。
クローディアは十五歳。癖のない長い淡い色の金髪は宝石をあしらったピンで軽く止めただけで、真っ白なシルクのドレスは裾に精緻な刺繍がされているだけの清楚でシンプルなデザインだ。それだけに、彼女の美貌は引き立ててられていた。それがクローディアの呼ぶところの「おじいさま」の見立てによるものだから恐れ入る他ない。――やっぱり伊達に長生きはなさっていないのよね、おじいさま。
ソファに寄りかかるクローディアは、しかし倦んだ眼をしていた。人が多い場所は苦手だ、嫌なことしか思い出さない。食事は美味しかったが、食の細い彼女だから限界は早い。となればすることは会話しか残らないが、それこそクローディアにとっては最も苦手なことだった。おじいさまがクローディアをパーティーの場に連れ出したのは、彼女の精神的トレーニング――もしくは精神的リハビリ――のためでもある。それは事前に分かっていたことだが、苦手なことを好きになるのは難しいものだ。
ロビーに出ても別にやることはない。何とかいうブランド物のバッグは小さすぎて、今読んでいるハードカバーの本を入れることは出来なかった。
妥協してペーパーバックにすればよかったか、と思っても遅過ぎる後悔だ。
お腹もこなれてきたし、軽い物でも食べに戻ろうか。そう思って立ち上がった時、頭蓋から脊髄にかけて電流が走る感覚を覚えた。
慌ててバッグを見る。中にあるのは財布と、母の形見の銀の懐中時計。クローディアは時計を手に執った。機構の動作だけでは説明のつかない、心臓のような脈動を打っている。思わず喉が鳴る。
「十一体目――」
分かってしまった。十一体目が覚醒したことが。心臓が一際高く撥ね、収まりそうにない。
怖いと思う。けれどそれ以上にすごくわくわくしていた。
嫌と言うほど読み聞かされ悪夢にも見た黙示録の風景を、真っ白な焔で塗り潰す龍頭の巨人。これほど痛快なことはない。
見たことのない光景を見ることが出来る、とクローディアは思った。見たことのない世界に行けるかも知れない、とも思った。
「わたしはクローディア・クロムウェル。あなたは、誰――?」
確かにつながっていながら名前さえ知らない相手に、クローディアは問い掛けた。
無論、応答はない。
『感じましたかシャーロット?』
「感じたからわざわざ電話してこなくたっていいのよヴァイク。髪を洗ってる途中なのに――」
『ほうほう、バスタイムでしたか。それはそれは』
「想像するな、したら殺す。……呼び出しかかるかな?」
『かかる公算は大きいと見ていますが』
「やだなぁ。久し振りの一週間休暇なのに。せめてマシンを使えればひとっとびなのに。アブラクサス死ね」
『人工衛星の警戒網はほぼ彼らに押さえられていますからね。
しかし、個人的な興味はあります。敵となるとしても味方になるとしても、情報ぐらいは掴んでおきたい』
「そりゃね。いい男だったら誘惑して引っ張り込みたいところね」
『僕の時も素直にそうしてくれて良かったんですよ』
「その価値があったらやってたわよ。ちなみに今もあるとは思わない」
『傷つくなぁ。意外に繊細なんですから、僕のピュアハートは』
「ピュア? 変態の間違いじゃないの?」
『僕ほどの紳士なんて滅多にいませんよ』
「紳士だとしても紳士という名の変態ね」
『……して、一応僕は本部に向かうつもりですが、シャーロットはどうします?』
「あたしはパス。呼び出し食らってもフケる。明日は親友とお買い物してファッションショー行ってスイーツ食べるの。
邪魔する奴は泰山府君だって因果地平の彼方までぶっ飛ばす。ということでこっちはもう夜遅いし、寝かせてくんない?」
『分かりました。では名残惜しいところですが、僕はこれで。おやすみ、LOVIN'YOU』
「ばーか!」
「感じたからわざわざ電話してこなくたっていいのよヴァイク。髪を洗ってる途中なのに――」
『ほうほう、バスタイムでしたか。それはそれは』
「想像するな、したら殺す。……呼び出しかかるかな?」
『かかる公算は大きいと見ていますが』
「やだなぁ。久し振りの一週間休暇なのに。せめてマシンを使えればひとっとびなのに。アブラクサス死ね」
『人工衛星の警戒網はほぼ彼らに押さえられていますからね。
しかし、個人的な興味はあります。敵となるとしても味方になるとしても、情報ぐらいは掴んでおきたい』
「そりゃね。いい男だったら誘惑して引っ張り込みたいところね」
『僕の時も素直にそうしてくれて良かったんですよ』
「その価値があったらやってたわよ。ちなみに今もあるとは思わない」
『傷つくなぁ。意外に繊細なんですから、僕のピュアハートは』
「ピュア? 変態の間違いじゃないの?」
『僕ほどの紳士なんて滅多にいませんよ』
「紳士だとしても紳士という名の変態ね」
『……して、一応僕は本部に向かうつもりですが、シャーロットはどうします?』
「あたしはパス。呼び出し食らってもフケる。明日は親友とお買い物してファッションショー行ってスイーツ食べるの。
邪魔する奴は泰山府君だって因果地平の彼方までぶっ飛ばす。ということでこっちはもう夜遅いし、寝かせてくんない?」
『分かりました。では名残惜しいところですが、僕はこれで。おやすみ、LOVIN'YOU』
「ばーか!」
二人の男がチェス盤に向かい合っていた。白のクイーンで黒のポーンを倒し、老人が言った。
「かくて宿命の薪に偶然の火種はくべられた、か――かの機主は、どちらにつく?」
黒のプレイヤーは沈思し、ルークを手に執った。
「敵に回るでしょうな」
「お前の見立てか?」
「これもまた、宿命と偶然とが賭けをした結果です」
うそぶき、ルークで白のナイトを倒す。老人が呟いた。
「七対四、だな」
「これで彼らは我らの敵である、と明確に呼べるようになりました」
「時期尚早だ。彼らがアブラクサスに真に敵意を向けた時でいい」
「お甘いことで」
「アブラクサスの目的を忘れるな、カディエス。我らの目的は飽くまでアバドン殲滅。
それが終われば、地位も権力も資産も全てを捨てる。例え私が道半ばで倒れようともな」
「あなたがいないアブラクサスなど、所詮烏合の衆。いずれ腐り果てて内部から瓦解するでしょう。そしてあなたの代役など私には適わぬ」
「そう。それが分かっていながら後継者を育てられなかったのは私の不徳だ。そして、不徳こそが私が法王になれなかった理由でもある」
老人は微笑した。その表情にはあるかなきかの苦々しさがあった。黒のプレイヤー――カディエスは薄い笑みを口の端に浮かべて言った。
「――しかし、あなたが法王にならなかったからこそ今のアブラクサスがある。
今のアブラクサスがなければ、人類文明は存続不可能なまでの被害をアバドンにより蒙っていたやも知れません」
老人は溜息を吐いた。
「仮定に仮定を重ねても虚しいだけだ……興が削がれた。帰れ、カディエス」
「仰せの通りに、総主ヘーゲル。ではまた翌日お眼にかかりましょう」
立ち上がり芝居がかった仕草で一礼をすると、老人が瞬きする間にカディエスの姿は消えていた。
「かくて宿命の薪に偶然の火種はくべられた、か――かの機主は、どちらにつく?」
黒のプレイヤーは沈思し、ルークを手に執った。
「敵に回るでしょうな」
「お前の見立てか?」
「これもまた、宿命と偶然とが賭けをした結果です」
うそぶき、ルークで白のナイトを倒す。老人が呟いた。
「七対四、だな」
「これで彼らは我らの敵である、と明確に呼べるようになりました」
「時期尚早だ。彼らがアブラクサスに真に敵意を向けた時でいい」
「お甘いことで」
「アブラクサスの目的を忘れるな、カディエス。我らの目的は飽くまでアバドン殲滅。
それが終われば、地位も権力も資産も全てを捨てる。例え私が道半ばで倒れようともな」
「あなたがいないアブラクサスなど、所詮烏合の衆。いずれ腐り果てて内部から瓦解するでしょう。そしてあなたの代役など私には適わぬ」
「そう。それが分かっていながら後継者を育てられなかったのは私の不徳だ。そして、不徳こそが私が法王になれなかった理由でもある」
老人は微笑した。その表情にはあるかなきかの苦々しさがあった。黒のプレイヤー――カディエスは薄い笑みを口の端に浮かべて言った。
「――しかし、あなたが法王にならなかったからこそ今のアブラクサスがある。
今のアブラクサスがなければ、人類文明は存続不可能なまでの被害をアバドンにより蒙っていたやも知れません」
老人は溜息を吐いた。
「仮定に仮定を重ねても虚しいだけだ……興が削がれた。帰れ、カディエス」
「仰せの通りに、総主ヘーゲル。ではまた翌日お眼にかかりましょう」
立ち上がり芝居がかった仕草で一礼をすると、老人が瞬きする間にカディエスの姿は消えていた。
「――ぷはぁッ!」
海中からやっとの思いで顔を出した柊隆一郎は、思うがままに酸素を貪った。
眼に痛いほど青い空と、不吉なほど黒い煙のわだかまった空。二つのコントラストが入り混じるその境界線を何とはなしに探しながら、隆一郎は先ほどまで見ていた白昼夢の内容を思い出そうとした。
恐らく短い間意識が飛んでいて、その時見たのだろう。白昼夢の内容は今の自分にとって凄く大切なことであるような気がしたが、どうしても思い出すことが出来なかった。
隆一郎は陸地を探したが見当たらず、すぐに今この状況になった要因を思い出してげんなりした。ソルディアンならばほんの僅かな力で踏破できる数キロは、海に隔てられた人間にすれば果てし無く遠い距離に思えた。〈ヴォルカドゥス〉を呼び出そうにも、口訣は欠片だに脳裏に浮かんで来ない。やんぬるかな。
仕方ない、泳いで渡ろう。隆一郎は決心した。幸い波は穏やかだ。身体にだるさは残っているが大丈夫のだろう。問題は、ここ五年水泳など全くやっていないことだが――
ヘリコプターがローターを羽ばたかせている。報道用とも全く違う戦闘ヘリの窓から拡声器を持った中年のアメリカ男が叫んでいた。
『隆一郎! 聞こえるか!』
聞こえてるよ、親父。あんたの息子はこっちだ。視界が滲んだが海のせいだと思うことにした。思い切り手を振った。ローター音が近くなる。子犬みたいに更に手を振る。
海中からやっとの思いで顔を出した柊隆一郎は、思うがままに酸素を貪った。
眼に痛いほど青い空と、不吉なほど黒い煙のわだかまった空。二つのコントラストが入り混じるその境界線を何とはなしに探しながら、隆一郎は先ほどまで見ていた白昼夢の内容を思い出そうとした。
恐らく短い間意識が飛んでいて、その時見たのだろう。白昼夢の内容は今の自分にとって凄く大切なことであるような気がしたが、どうしても思い出すことが出来なかった。
隆一郎は陸地を探したが見当たらず、すぐに今この状況になった要因を思い出してげんなりした。ソルディアンならばほんの僅かな力で踏破できる数キロは、海に隔てられた人間にすれば果てし無く遠い距離に思えた。〈ヴォルカドゥス〉を呼び出そうにも、口訣は欠片だに脳裏に浮かんで来ない。やんぬるかな。
仕方ない、泳いで渡ろう。隆一郎は決心した。幸い波は穏やかだ。身体にだるさは残っているが大丈夫のだろう。問題は、ここ五年水泳など全くやっていないことだが――
ヘリコプターがローターを羽ばたかせている。報道用とも全く違う戦闘ヘリの窓から拡声器を持った中年のアメリカ男が叫んでいた。
『隆一郎! 聞こえるか!』
聞こえてるよ、親父。あんたの息子はこっちだ。視界が滲んだが海のせいだと思うことにした。思い切り手を振った。ローター音が近くなる。子犬みたいに更に手を振る。
これから起こる全ての事象を案じることを己に禁じて、柊隆一郎は今を生き延びることに専念した。世界の広さを、螺旋巻く因果を、未だ知ることなく。
〈第一話 了〉
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