「琳、聞いてる~?」
「聞いてますよ~」
日曜日、私が琳のベッドの上でサイダーのボトルを片手にごろ寝しながら不機嫌な声で言うと
今日はノートではなくベランダに並ぶ植木達の前に座って水をあげていた琳が振り向きもせずにのんびり答えた。
私の真似をして語尾を伸ばしたのがかわいくて、今は機嫌が悪いのにちょっとだけときめいた。あほか。
数学が趣味です。なんて平気で言う琳にはちょっと変わった趣味であるところのこの園芸。
私からすれば琳は暇さえあればノートに難しい式を書きこんでいたり、
もしくはそう広くないこの部屋で育てている植木や花たちの世話をしているように見えた。
ちなみに「ほかにやること無いの?」といつか呆れて訊いたら
「珠樹さんのことを考えてます」なんて心底恥ずかしいことを笑顔で言ってくれたので、
照れ隠しに蹴飛ばした後、もう二度と訊かないと心に誓った。それはともかく。
「『ゆかりさん』結構色づいて来ましたよね」
おい今は新しく出来たケーキ屋の話をしていただろ!
「……聞いてないじゃん……『ゆかりさん』と私どっちが大切なの?」
「それはもちろん珠樹さんですよ」
即答した。よしよし、琳は私のことを愛しているわね。それは確かめる必要も無いほど確かなことなのだけれど。
秋になって『ゆかりさん』の実が色をつけ始めたから
琳の興味はそっちにいってばかりで大変面白くないのも確かなのだった。
紛らわしいけど『ゆかりさん』って言うのは(ある意味そうかもしれないが)別に琳の女とかじゃない。
それは紫式部という木の盆栽のことで、夏に薄紫色をしたかわいい花を咲かせて、
学名の『japanese beauty berry』の通り、秋には綺麗な実をたくさんつける。
2年程前、上京したての琳が出会った『先生』からもらったという、
琳が初めて生活を共にした木であり、また一番大切な木だそうだ。でもぶっちゃけ私は好かない。
『ゆかりさん』はあんまり立派な木なので、私にはいつも彼女はえらそうに威張っているように見えたし
その世話を毎日甲斐甲斐しくさせていただく琳に嫉妬したのが一番の理由だった。
彼女が女王様なら、琳は忠実なしもべなのだ。
「……ゆかりさんゆかりさんって」
琳を取られたみたいで面白くない。なんて、ゆかりさんより後に琳と出会った私が思う。
いつか「木ってなんか女性的ですよねえ」なんて
琳が珍しく根拠の無いことを言ったのを覚えてるからさらに面白くないのだ。
とても面白くないので私は持っていたサイダーをぐびぐび飲んだ。喉痛い。
琳はしょうがないやつだ。私がいなくなったら(たぶん)必死で探すくせに、いる時は安心して別のものを見ている。
「馬鹿琳。そういうことはこっち向いてから言え!」
私はそう言うと、まだ結構残っているサイダーのふたをしっかり閉めてから、
それを思いっきり琳の背中に投げつけてやった。
「あたっ!?」
ごすっと鈍い音がして同時に琳が間抜けな声を出したのを確認したら
またベッドに寝転がり、硬く目をつぶる。
「不機嫌ですね」なんてデリカシーのないことをほざく琳は無視しておいた。
目をつぶると感じるのは横たわっているベッド自身の柔らかさと
ベッドから香る琳の匂いばかり。
だから、琳のことを除いても、心はもやもやしているのに
体はそれが気持ち良くて、ついうとうとしてしまった。
琳は良いベッドを使っていると思う。私の家にあるやつよりはお金はかかってない感じだけど
私の子供用ベッドよりずっと大きくて、寝心地が良くて、私は好きだ。
このベッドの上で、私と琳はいろんなことをした。
たとえばサイダーを二人が初めて飲んだのは今年の初夏、『ゆかりさん』が花を咲かせる前の話
その日は、やっぱり日曜日で、このベッドの上だった。
当時まだ私達は恋人同士というわけじゃなくて、
琳は私の良い友達であり、『唯一の理解者』だった。
サイダーなんて私は、自分で言うのもなんだけれど『良い所のお嬢さん』だったので飲む機会が無かったし
琳は昔は親が厳しかったので、母親が差し出すもの以外は飲食できなかったのだと言った。
まったく接点の無かった物が、私達の目の前できんきんに冷えていたのは
たいしたことじゃない琳がたまたま『先生』の家で沢山貰ってきたからだった。
『炭酸系は振ると泡を火山の如く噴出す』という知識はお互い持っていたので、
どこかびくびくしながらプラスチックの蓋を捻った。あたりまえだけど、別に爆発なんてものはなく
「……おぉ」
それはただプシュッと失敗したくしゃみみたいな音を立てただけだったので、
なんだか馬鹿馬鹿しくて二人して笑ってしまった。
ひとしきり笑った後コップ用意してきます。と立ち上がった琳。
そんな彼女の袖を引き私は引き止めた。
「そのまま飲まない?」
別にたいした意味は無かった。
私はラッパ飲みなんてしたことがなかったから、
この際ちょっとやってみようと思ったのだった。
「ああ、そのまま飲んだことが無いんですね」
「琳はあるんだ」
「お茶のペットボトルなら良く持ち歩きますから……」
そう言った琳はしばらく何か考えてるそぶりを見せて、それからいいですよと頷いた。
どうでもいいけどその時それが間接キスになるということに私は気づいていなかった。琳はどうか分からないけど。
ともかく、公平にじゃんけんをして、どっちが先に飲むかを決めた。結果、琳が先で、私が後。
「じゃ、飲みますね」
琳がボトルを口に咥えて、私はそれを固唾を飲んで見守った。
その時、じっと見つめた琳の薄くて形の良い唇に私は胸が、どきどき大きな音を立てるのを体の内側で聞いた。
それがなんだか琳に悪いような気がして、けれど目は離せなかった。
ふい沸き起こった感情を、私は首を振って退ける。
いつも私は『そういう』人間だった。
そんな私の視線には気づかず琳はゆっくり傾けた容器から透明な液体を流し込んで、
そして―――――――
ぶふっ
――――――噴いた。それは思いっきり噴いた。ジュリアン少年の三倍噴いた。
そしてそのまま琳はベッドに蹲り、何をするかと思えば咳き込みまくったのだった。
あまりの光景にお見せすることはできない。
「こ…これ、飲み物じゃないです……ゴホゴホッ」
しばらくかかってようやく落ち着いた琳は今まで見たことも無いような真っ赤な顔をして、
ぼそぼそっと恥ずかしそうに言った。それからあれだけしたのにまだ足りないのかまた咳をした。
「面白い顔だったよ」
「こほん……へんなとこみせちゃいましたねえ」
私が言うと琳はため息をついて、それからあたりを見回した。
床に無残に転がっているのは琳が噴いたと同時に盛大に放りなげたペットボトル。
壁にぶち当たった音はなんとなく覚えている。ぺぷしっ。
あの時一体何が起こったのか、私は咳き込む琳の背中を叩くのが一杯だったし、気がついたときはあたりは水浸しだった。
「……あーあ、酷いですねえ。この際大掃除しちゃいますか」
「ちょっ」
まだ日が高いし、この陽気だったらシーツも洗って乾かせますし。
そう言って立ち上がった琳の袖を私はもう一度つかんだ。
「私まだ飲んでないよ」
は? と琳が目を丸くする。なんだ、今日はたくさん琳の変な顔が見れるなあと思った。
「サイダーですか? あんなん人の飲み物じゃないですよ」
「それは琳の感想じゃん。私は飲んでみたいもん」
「だめですよ。絶対吐きます。死にます。まずいです」
琳が首を振って私に言う。割と必死な顔をして言う。マジだ。それほどつらかったのか。
うん、彼女は私の心配を本気でしてくれてたんだと思う。
それでもその時の私はとてもサイダーを飲みたがった。
別にそれほど興味があったわけじゃないのになんでそんなにだだをこねたのかは正確には分からない、けど
多分琳だけが飲んだことあるって状況がなんとなく嫌だったんだろうと思う。
私達は平等であるべきだというのが2人の暗黙の了解だったから。
だから、私は琳が駄目ですよと言うのを無視してベッドから立ち上がり
まだ何本か冷やしてあるであろう冷蔵庫へ向かおうとして
「駄目ですって、珠樹さんっ!」
腕を、強く琳につかまれた。
「……っ!」
琳の珍しく強い口調に、私は驚いた。びっくりした。目をまるくした。
それから急に胸がきゅっと締まったような感覚を覚えたのだった。
多分甘やかされた私は怒鳴られるのになれていなくて、だから混乱して、頭に血が上ったのだと思う。
「だって…だって……琳が…ぁ」
今となっては私が悪かったと思う。琳はなにも悪くないのに、心配してくれただけなのに。
でもそう知っていても腹立たしくて悲しくて、泣きそうだった。ていうか泣いていた。
「うぐっ琳だけ飲んだなんてずるいもんっ! ずるいっっ!」
いや、私はいつもこんなふうに取り乱してるわけじゃない。断じてそんな子供じゃない。
ただ、その時は、そう、なんというか、うん、混乱していた。
だからその時のことは良く覚えていなくって、ただぼやけた視界の中で琳はじっと私を見ていて、その瞳が揺れていた。
何度も言うけどよく覚えていない。ただ、私のファーストキスはそのときだった。
あんまり混乱したものだから初めて触れた唇の感触も、唇を離したときの琳の顔も覚えていない。
どうしてそんなことになったのかもわからない。
ただあのサイダーの味ばかりを、覚えていた。
「りん……?」
目を開けると、傍らに立っていた琳が、私をじっと見下ろしていた。
まだ日が沈むのはそう早いわけじゃないけど、あたりは少し薄暗い。
窓から見える空の色は『ゆかりさん』の色だった。
彼女は、私が寝ている間にベランダから棚の上に居場所を移してもらったようで、
でも小さい棚の上でもやっぱりふんぞり返っているみたいだった。女王様はどこにいても偉そうだなあとか。
後一時間ぐらいで帰らなきゃママが心配するなあとかぼんやり思いながら
私は暗くて、どんな顔をしているか分かりづらい琳の顔を見つめた。
ママ、そうだ、ふいに私は不機嫌だった理由を思い出して顔を顰めた。
『珠樹ちゃん、最近変な人と付き合ったりしてないわよね?』
どこから聞き出したのか、(つーか喋るなっつったのに誰が漏らした)ママは今朝出かける私にそう言った。
「なに、それ? 私、知らないよ」
大体調子に乗って口を滑らしたあたりからこうなることは予測ついていたし、私は顔色一つ変えずにそう返した。
昔から思っていることを顔に出さないのも、分からないふりも得意だった。
まっすぐママの目を見て言うとママはそっか、と安心したようだった。
「はやく帰ってきなさいね」
「うん!」
ママは人は目を見て嘘をつけないなんてことを本気で信じている人だ。
そんなママが私は大好きで、ちゃんちゃらおかしいとも思う。
私は別に腹黒いわけじゃないし、嘘をつくのも好きじゃない。
嘘も方便という琳の言葉を借りるなら、じょうずに嘘をつかなくちゃいけなかった子供だったのだ。
「ママ、信じてるからね」
ドアを閉める直前そんな声が聞こえた。信じてるから――――何を?
簡単だ、私が、ママの思うような良い女の子であること。いつだってママは私にそれを望む。
ママの思うような良い女の子。そんな子は少なくとも、
嘘をついたりなんかしないし、
小学生の分際でママの知らない人と付き合ったりしないし、
……同じ女の子を好きになったりもしない。
私は聞かなかったフリをして琳のところへ向かった。
でも気持ちは複雑だった。そんなこんなで、機嫌が悪かった。
「のど渇いた……」
「さっき私にくれたサイダーならここにありますけど」
干からびた声で言うと、琳がやたら厭味っぽい笑顔で渡してきた。
「痛かった?」
「痛かったですねえ」
「ふうん」
それを寝ながら受け取って、蓋を開けた。
もうずいぶん炭酸は抜けてしまっていたので、しゅ、と
ずいぶん弱弱しい音が鳴った。一口飲む。ぬるい。まずい。うえ。
炭酸の抜けきった炭酸飲料ほどまずいものなんてなかなか無い。炭酸は早さが命なのだ。
なのに、この味を嫌いにはなれなかった。だって、これが私のキスの味だったから。
「いつもそればかり飲みますね」
「琳は本当に嫌いだね」
「CO2は排出するものです。わざわざ取り込むなんて馬鹿げてますよ」
琳は呆れたように言った。あの日以来琳は炭酸飲料を目の敵にしている。
だからサイダーばかり飲む私を炭酸狂と馬鹿にするけど、別に私だって炭酸が好きなわけじゃない。
コーラとか他の炭酸飲料は飲まないし、ただ、これだけが好きなのだ。琳との味が、好きなのだ。
琳はそれに気づいていないだけだ。私がこのサイダーを飲む理由を。
「……」
ふと、さびしくなった。
そんな些細なことでも琳に勘違いされているのは嫌だと思った。
私を誤解するのは他の人だけで十分だった。
「琳、寝て」
ごろり、と転がって、ベッドにスペースを開ける。
突然の要請に琳はなにがなんだか分からない、とでも言うように首をかしげたけど
ぽんぽん、とその空いたところを手で叩くと、私のしてほしいことが分かったようで
そこに琳も自分の体を寝かせた。
「なんですか」
「ん」
私は体を起こすと、体を捻って琳に跨った。少し驚いた顔で琳が馬乗りになった私を見上げた。
いつも見下ろしてばかりの視線が今日は私を見上げている。なんだか少し良い気分だった。
「動かないでね」
私がそう言うと、よく分かってもいないくせに琳は頷いて、それきり動かなくなった。
どうやっているのか胸が上下にゆれることすら無く、
ただ、あの時のように私をじっと、見つめる瞳ばかりが揺れていた。
私はサイダーのボトルを咥えて、中身の液体を適当に口に含む、と
そこでようやく琳がこれから自分の身に起こることに気づいたのか、体がすこしかたくなった。
でも、もう遅い。私は琳の唇に自分の唇を重ねると、かたく閉じた門を開くように催促する。
抵抗するかと思ったけど琳は案外素直に唇を開いた。そこに口の中のぬるいサイダーを流し込む。全部流したら口を塞ぐ。
琳が、震えた。多分、嫌いなものを口に含んだ嫌悪感だと思った。
でも、あの時のように炭酸が沢山入っているわけじゃないし、多分吐くまでには至らないだろう。
その内ごくん、と琳の喉が鳴ったので私は唇を離した。離すと琳の唇からうえ、と息が漏れる。
「も……う、動いていいですか?」
「駄目、無くなるまでやるから」
「無くなるまで!?」
本当無理ですって。琳が涙目で懇願したけど、かわいいけど、却下だ。
私はまたサイダーを口に含む。琳が唇を噛んだ。お構いなしに口付ける。
琳の大きな体がまた震えた。後何回できるだろう。
「もう、なんで、こんな……はぁっ……」
何度も何度も繰り返して、ようやくボトルの中身が空になったころには
琳はまるで熱に浮かされたみたいに、顔を赤らめながらも私を力なくなじった。
「分かってよ」
私は空ボトルを放り投げて、琳の胸に頭を乗せた。
言葉が足りない。それだけじゃなにも伝わらない。
それはただ、口で伝えればいいだけなのに、私は言わなかった。
どく、どくと琳の心臓の動く音が聞こえた。あと、琳の息遣い。それ以外の音は世界に存在しなかった。
しばらくそんな世界を味わっていたら、ふいに琳が息を大きく吐いた。
なにかを観念したときのような、そんな感じだった。
「……分かってましたよ」
そしてそう言って琳が私の頭に腕を回す。私はそっか、と頷いた。
「良かった」
実際に琳が分かっていてもいなくても、それはどっちでも良かった。だから答え合わせはしなかった。
ただ、その言葉が欲しかったのだ。
夕暮れ時の、家までの帰道。いつも琳は家の近くまで送ってくれるのだけど面白いことが一つあって、
それは私の隣を自転車押して歩く琳が、私の学校(私の学校は初等部から高等部まであるところ)
の高等部の深緑色のセーラー服を着ているということだった。
ちなみに琳は私とは全然違う学校で、制服はクリーム色のブレザーにチェックのスカートだ。
二人で外に出かけるときは大抵琳はその格好、セーラー服を身に纏う。
それには色々な理由があるけど今一番大きいのはママや、私を知る近所の人にもし見つかっても怪しまれないためだった。
ママは娘が女と付き合ってるなんてかけらも考える人じゃないけれど、
さすがに娘がまったく知らない女と一緒にいたら心配するだろう。過保護だし。
だから万が一琳と一緒にいるところを見られても誤魔化しやすいように、琳は私の学校の制服を着ているのだった。
ちなみに、どこから手に入れたのかは知らない。
「寝ちゃって損したな」
「睡眠は必要ですよ」
「それは家でも出来るじゃん。せっかく琳の部屋に行ったのに」
「…………」
不意に琳が言葉をつまらせた。なんだろう。
怪訝な顔をして琳を見たけど、そこにはもういつもと変わらない琳がいた。
「そこそこ楽しかったですけどね、寝顔見れて」
「あ! いいな! 私も琳の寝顔見たい!」
琳がそんな私の言葉に笑った。何ごとも平等が私たちのルールだ。
「でも、困りましたねえ」
琳が笑った後にため息をついて言う。
「なんだか、帰りにサイダー買って行きたくなりました大嫌いなのに」
どこのツンデレだ、琳。
「でも、開栓後最低30分は放置します」
炭酸ガスが泣くよ、琳。
まったく、やっかいなことになりました。
やっぱりあんな時にキスするんじゃありませんでしたねえ。
琳からしたんだ。やっぱり。私は唇に手を当てた。
良く覚えていないけど、だから、いつか琳に話してもらおう。
唇にはまだ、あのサイダーの甘い味が残っている気がした。
「よし、次のファーストキスの前には、コーヒーでも飲んでおきますね」
「一生に一回きりだよ」
「そうなんですか?」
「ファーストキスだもん」
まったく、やっかいなことになりました。琳はおおげさにため息をつく。
私は笑った。琳は、馬鹿みたいなことでも割と本気で言っているのだ。
「それなら、甘いコーヒー牛乳がいい。コーヒーは絶対に嫌だけど」
「一回きりなんじゃないんですか?」
「そうみたいね」
おどけていた琳が立ち止まって、不思議そうに私を見つめる。
そんな様子も可愛くて、私は笑った。琳といると私は笑ってばかりだ。
笑うだけじゃない、怒ったりもする。悲しんだりもする。自分を偽る必要もない。
この瞬間、わたしはひどく『人間』だった。
「だから、次に生まれてくるときは」
琳は目を丸くして、それからなんだか泣き出してしまいそうな笑顔で笑った。
ゆっくりと伸ばされた彼女の腕が、私の頬を両手で包む。
それが、彼女の瞳が今日最後に私の目を見つめた瞬間だった。それは私だけを映してきらきらひかって。
私は彼女の手に自分の手をそっと重ねた。
私よりずっとおおきな手が小さく震えていて、それがとてもいとおしいと思った。
「約束です」
今朝、ママを馬鹿にしたけど、私だって相当な馬鹿だった。
琳が私の目をまっすぐ見て言ってくれた、言葉。
嘘かもしれないなんて、微塵も思わなかった。嘘かどうかも、どうでもよかった。
琳の語る全ては私にとってなによりも『ほんとう』のことになったのだ。
ホントしょうがないなあ、私は自分を笑った。
それから、馬鹿にしたことに関して、ママに心の中で深く謝罪した。
ごめんなさい、ママ。
大きくて白い家に広い庭。いつ帰っても暖かい家。
幸せなオレンジ色の照明の下で、ママは扉を開けた私を優しく出迎えた。
家の中はことこと煮込まれたクリームシチューと、オーブンで焼かれるこうばしいパンのにおいでいっぱいだった。
それは、ママが私に与えてくれるママなりの『しあわせのにおい』だったので
家の空気を胸いっぱいに吸い込むと、私はとても嬉しくて、そしてちょっと切なかった。
「ただいま」
「おかえり珠樹ちゃん。今日は楽しかった?」
「うん!」
ドアを閉めようとしたとき、遠くで琳が私をいつまでも見つめていたのに気がついた。
ママに気づかれないようにこっそり手を振ると、暗闇の中彼女がかすかに微笑んだ気がした。
終
最終更新:2009年08月23日 12:18