2月14日。
バレンタインデー。
街中が甘い香りに包まれるこの日に、最も似つかわしくない場所――
鏡家壱子は家から歩いて7分の歯医者に来ていた。
待ち合いで腰を下ろしてからもうどれくらい経っただろう。
いや、実際時計を見ると4~5分程度の経過なのだが壱子にはもう永遠のように感じられた。
ドアの向こうからキュィイインというあの不快感極まりない音が漏れてくる度に体を固くしてしまう。
帰りたい。
本気でそう思っていた。
そもそもどうしてこんなお菓子の祭典のような日に歯医者なんかへ来る羽目になってしまったのか。
話は昨日の夜にさかのぼる。
夜、夕食を終えて居間のこたつでごろごろしていた壱子に母が急に思い出したように言った。
「そうだ、あんた。明日、歯医者さん行きなさいね。」
「はい??」
突然のことに壱子は目が点になる。
「この間、あんたの部屋でこれ見つけたの。まったく、悪いテストより用心深く隠してあるんだから。」
そう言って突きつけられたのは、ああ懐かしや。
4月の歯科検診の結果用紙だった。
『5年3組7番 鏡家壱子虫歯2本 病院で治療を受けましょう ブラッシングを丁寧にしましょう』
などと書かれてある。
「今更かもしれないけどね。この際ちゃんと直してきなさい。あれから虫歯もっと増えてるかもしれないし。」
せっかくのバレンタインが土曜日で、学校での和気あいあいとした友達同士のチョコレート交換はないものの、家には昨日父が会社でもらってきた義理チョコもあったし甘い物を食べまくろうと思っていた。
「あー…、えと来週行くよ、来週。」
「駄 目。」
――この家で一番強いのは母である。
朝も、渋る壱子を
「もう予約入れてあるからね。お母さんもPTAの集まりで今から出るから。さ、あんたも行くのよ。」
と家から引きずり出した。
ギュィイイン ガガガガッ
音は鼓膜を突き抜け脳髄を震わせてくる。
やっぱり帰ろう、そう思って立ち上がろうとしたその時。
カランコロン。
扉が開いて誰かが入ってきた。
「あー。歯医者の匂いだわぁ。」
気だるそうに言いながら入ってきたのはどこからどう見ても"女子高生"だった。
紺のブレザーにミニスカート、ハイソックス、ポケットからは多分ケータイに付けられているのであろうマスコットが3体揺れている。
明るい茶髪は肩までのセミロングで地毛なのかストレートパーマなのかは定かでは無かったが、クセがなくまっすぐ下を向いていた。
壱子は初め、彼女にどこか見覚えがあるように思われた。
だが、高校生の知り合いなんているはずはなく、どこで見たのかも分からない。
というか、こんな感じの背格好の女子高生なんてたくさんいるし何となくそう思っただけかもしれなかった。
彼女は受付の看護師に二、三言うとこっちへやってきて、壱子の隣にドサッと座った。
よく見るとグレーに細い赤のチェックが入ったスカートは地元の進学校のものだ。
頭、いいんだ。
なんて思っていると彼女が急にこちらを振り返った。
「何、虫歯?」
「え?」
「あたしは親知らずー。今日抜くんだ。」
いきなり話しかけられて反応出来なかった。
…というか何なのだろうかこのひとは。
普通歯医者で見ず知らずの、それもこんな小学生に話しかけたりするものか?
あまりかかわり合いにならない方が良さそうだな。
壱子は即座にそう判断し、無視を決め込んだ。
「抜くのは壮絶に痛いけどねー。でも生えたままだと歯磨きするとき痛くてさ。
この前なんかブラシの先が当たっただけで歯茎から血出てきちゃったよー。ほんとやんなる。」
彼女はペラペラと話し続ける。
壱子はこの手のタイプは苦手だ。
別に聞いてないことまで話すような自分本意で生きている押し付けがましい人間。
とりあえず本か何か読んでやりすごそう。
ちらりと傍らの本棚に目をやるとクラスでも最近流行っている少年漫画雑誌があった。
あれでいいか。
取りに行こうと思ったときだった。
「で?やっぱりいちこちゃんは虫歯なんだ?」
思わずびくっとした。
まさか相手の口から自分の名前が出るなんて思ってもみなかったからだ。
この人を壱子は知らない。
彼女も壱子を知らないはずだ。ならばどうして名前を知っている?
怪訝そうにする壱子を見て、彼女はにま~っと笑った。白いネイルが塗られた指先が壱子の膝の上を指している。
そこには、例の歯科検診結果用紙があった。
この用紙は下半分が切り取り線になっていて医療機関で治療を受けて完了の判子をもらい、提出するようになっている。
学校への提出期限はとうの昔に過ぎている。
しかし今度はこれを母に提出せねばならないのだ。
さすがは壱子の母。壱子が逃げずに、しっかりと治療を受け完了したということを証明するように求めてきたのだ。
まぁそんなわけで壱子は膝の上に思いっきり用紙を広げていたのだった。
名前も虫歯の数も丸見えである。
「ふむふむ、右奥歯ね。あんまり奥過ぎると治療も大変だよねぇ。お?ってか検診、4月のやつじゃん!?今更にもほどあるっしょ。あははは」
彼女はケラケラと笑いたてる。
「私もそう思いましたけど頑張って来たんです。来ないよりましでしょ。」
初めて彼女の言葉に答えた。他ならぬ自分の話題であったし、もう無視するのも面倒くさかったからだ。
「んー、まぁそだね。偉い偉い。」
そう言いながら頭を撫でてくる。
…誉められることは不快では無い。こうして頭を撫でられたりするのは寧ろ好きな方で、逆にどうして自分が今この人に安心感を覚えているのかが不思議で堪らなかった。
「いちこちゃん。」
「なんですか。」
「虫歯見せて。」
「はぁ?」
どうしてこのひとはこうも唐突なのだろうか。
言葉の内容がここまで想像も出来ないとなると対象のしようもないが。
「なぜ貴女に私の虫歯を見せなくちゃいけないんですか。」
「え?やー、なんか人の虫歯って見たことないから見たいなーって。駄目?」
「…意味、分かんないですけど。」
本当にこの人はこの高校の制服を着る資格があるのか、少し疑わしくなってきた。
目の前の彼女は無邪気に笑っている。
どちらが年上だか分からなくなる。
はぁ。とため息をつき、壱子は思い切り口を開けた。
「やったー。ありがとー。どれどれ…ぉお?やっぱり右奥虫歯、黒っ。…ってかもう神経イッちゃってるでしょ。これは確実抜かれるよ~。」
"抜かれる"
このおぞましい単語を聞いて壱子は喉の奥で小さく悲鳴をあげる。
「あ、何か新しい虫歯も出来てるっぽい。左下の奥から3番目…あたり?ありゃー、こりゃ何回も通わないと全部直らないんじゃない?」
"通う"
この2度と来たくない場所堂々第1位の歯医者に通うなんて考えたくもない。
壱子は思わず涙目になってしまった。
「あーもう泣かないでよー。大丈夫大丈夫。ここのセンセ結構いい人だからさ。痛かったら手挙げなって。5回に1回くらいは止めてくれるって」
「それは高速で手を挙げ続ければずっと止まったままだということですか?」
「ん~、それはどうだろうね。…ってかいちこちゃんさ、歯磨きせずに来たでしょ。」
「そうですけど?」
「駄目だよ、一応キレイにしてこなくちゃ。奥歯、何か挟まってるよ。取ってあげる。口、もっかい開けて。」
素直に口を開ける。
今度は顎をしっかりと掴まれて固定された。
壱子は彼女の手が入ってくるものと思っていた。
尖った白いネイルの切っ先で挟まってるという何かを取ってくれるものだと。
だが。
壱子の舌に柔らかい湿ったものが触れた。
壱子はやたらに熱くて弾力性があるそれが彼女の舌であることに気付くまでたっぷり5秒かかってしまった。
「んっ…ふぁ……っ」
舌は壱子の舌から離れると上の前歯の裏をなぞる。
丹念に歯垢を絡めとるように舐められる。
そこから更に上顎へ。
舌が優しく優しく上顎を滑っていくと、壱子は背中にビリビリと電流が走っていくような感覚を覚えた。
頭がぼうっとしていく。
生まれて初めての感覚に驚き、しかし何故だかそれを受け入れてしまった。
舌はまた歯の裏をなぞっていき、やがて右奥へ辿り着く。
そこを丹念に何度も舐めていると、ポロッと何かが取れる感覚がした。
舌はもう一度口腔全体を舐めとりやっと外へと出ていった。
「うん。これで取れたよ。何か硬かったなぁ。パリパリになったご飯?」
彼女はなにくわぬ顔で笑う。壱子は乱れた息を整えながら答えた。
「はぁ、はぁ…。いえ。…多分、朝ごはんの…コーンフレークです。」
「なるほど。そういえば少し香ばしかったかも。」
まだ幼い壱子に今の展開を把握するのは少し難しかった。
思い出したのは以前テレビでやっていた外国映画を見ていたときのこと。
ヒロインと相手の男との濃厚なキスシーンを見て、最近色んな知識を身に付け出した3歳年上の姉が"舌を絡めて"どうのこうのと言っていたのだ。
今のは、「キス」なのか?
そうであるなら、何故目の前のこのひとはこうも普通なのだろう。
キスとは恋人同士がするもののはずなのに。
第一女同士である。
……世の中はまだよく分からないことだらけだ。
ふいにドアが開いた。
初老の男性が顎を押さえながら出てくる。
そのすぐ後ろから看護師が現れた。
「鏡家壱子さん、お入り下さい。」
「お、いちこちゃん遂にだねぇ。頑張ってね!」
彼女がポンと壱子の背中を叩く。
立ち上がり。ドアノブに手をかけた。
その時、そういえばと思い出した。
「あの……」
聞きたいことや言いたいことはたくさんあった。
けれど、大切なことを一つ忘れていた。
「あの、あなたの名前は?」
「あたし?あたしは沙也菜。井上沙也菜だよ。」
「いのうえさやな…」
一度だけ舌先で名前を転がした。
壱子は振り返らずに診察治療室に足を踏み入れた。
終わり
最終更新:2009年08月23日 22:45