百合色待合室(仮題)の続きです。

穏やかな朝だった。

空は晴れ、雲ひとつない。
まだ2月とあって自転車ではまだまだマフラーにてぶくろは手放せないでいた。
しかし風がない分いつもより何倍もましだった。


井上紗也菜はお気に入りの黄色いママチャリで颯爽と住宅街を駆け抜けていた。


いつもの通学路である。


いつもの時間に家を出て、いつもの角を曲がり、いつもの秋田犬を散歩させるおばさんとすれ違い、駅の方の道へ向かう。

時刻は午前7:45。

大きな交差点までたどり着くとキイキイ音をさせながらブレーキをかけ、変わったばかりの信号を待った。
辺りにはまだちらほらとしか人がいない。
行き交う車も数台といったところだ。

紗也菜の高校はチャリで30分(本気を出せば23分)なので8:40の始業のチャイムまではかなり早く着いてしまう。

別に部活の朝練などのためではない。
そもそも紗也菜は帰宅部だった。

早く学校に着くからと言ってほとんど何をするでもなく教室でぼーっとしながら携帯をいじり、居眠りをし……
そうしているといつの間にか友人がやってきて声をかけてくれる。

そんな風だったからもっと遅い時間でも全然構わない。

――しかし。

交差点の信号が青に変わり再び自転車を走らせる。

これまたいつもの閑散とした商店街を抜けていく。

この時間から営業しているのは老夫婦が経営するパン屋くらいで、店の前を通る瞬間焼きたてパンの甘い匂いがふわっと鼻先をかすめた。


カンカンカンカンカンカン…

踏切の警報器が聞こえてきた。
そのまま商店街を突っ切りすぐ左に曲がるともう50mほど先に踏切が見える。

そこで紗也菜は突如自転車から降りた。
この行動もまた、いつものことだ。

黄色いママチャリを押しながら歩いていく。


カンカンカンカンカンカン…

その音に合わせた歩調で歩いた。


踏切の前でぴたっと足を止める。

その瞬間。

いつものように7:50初の普通車が乗客を乗せ、ゆっくりと目の前を通り過ぎていった。

朝日を眩しく跳ね返す白い車体が視界からフェードアウトしていく。

そして

踏切の向こう側

いつものように あのこ がいた。



――つまるところは、これが早起きの理由だった。

いつもきっちり同じ時間にここですれ違うその少女が紗也菜は「お気に入り」だった。

初めて会ったのはいつだっただろう。

確か秋の体育祭の時だ。

紗也菜はクラス横断幕の係に当たっていた。
もちろん立候補した訳ではなく、ただ単に余っていた係でそれを選ばざるを得なかったのだ。

同じく係に当たっていた男子はバスケ部で大会が近いらしく、ほとんど顔を見せなかった。

そして紗也菜も、その頃バイトをしていたためにほとんど放課後にするはずの作業をしていなかった。

ぶっちゃけ、めんどくさかった。

しかし、体育祭が目前に迫りとうとう担任に怒られてしまった。

怒られる…というかほとんど怒鳴られたというか叫ばれたというか。

紗也菜はそれ以来その担任の中谷という中年男をヒス谷と呼ぼうと決めた。

そんな光景を見たクラスの女子数人が手伝ってくれることとなり、放課後とそれでも追い付かないので朝も作業をしたのだった。

連日の早起きで紗也菜の疲労はピークに達していた。

体育祭前日のその日、あと少しだから集合を少し早くしようということになっていた。

紗也菜は自転車に跨がった時から目が開いておらずふらふらとしながら何とかペダルをこいでいた。

踏切で電車が行くのを待ち、遮断機が開いたまさにその時。

ふいに突風が吹いた。

「ふおっ!?」


思わず声をあげながらよろめいてしまうほどの風だった。

数秒後、風は嘘のようにぴたりと止まった。




閉じていた目をあけるとそこには、少女がいた。


赤いランドセルを背負い、手には体操服と給食の係の割烹着でも入ったような膨らんだ袋を携えている。

――どこからどう見ても小学生だ。

しかし中々の美少女であった。

桜色の唇に通った鼻筋。
頬はまだ幼さを残したように赤みがかっていたが、意志の強そうな瞳はキリリと前を向いていた。
艶々とした黒い髪は2つに結いあげられ、前髪は潔く瞳のすぐ上で真一文字に切り揃えてある。

その少女が踏切の向こう側からこちらに歩いてくる。

紗也菜は何故かその場所から動けなかった。

少女の真っ黒い瞳に吸い込まれてしまったように、動けなかった。


どのくらいたっただろう。
もうすっかり少女の姿は見えなくなっていた。

紗也菜は自分の携帯の着信音でやっと我に返ることが出来た。

着信は横断幕を手伝ってくれている女子の1人で、もちろん遅刻の紗也菜への怒りの電話であった。


それ以来、「あのこ」がどうしても気になって、紗也菜は早く家を出た。

いつも遅刻ギリギリで横断幕での早起きもいっぱいいっぱいだった紗也菜がどうしてだかすっと起きられるようになった。

何故だか分からなかったが、ただ少女に会いたいと思った。


そして、この間の土曜日。

ついに紗也菜は少女の名前を知ってしまった。

鏡家壱子ちゃん。

ちなみに5年3組で出席番号は7番らしい。

決してストーキングしたわけではない。

歯医者で偶然出くわしたのだ。
そこで少女の持っていた歯科検診の紙を盗み見たので、まぁあまり合法的な情報入手手段ではなかったかもしれない。

初めての通学路以外での逢瀬。

嬉しくなって、小さな待ち合いで2人っきりでいる間、自分はいつもよりお喋りだった気がする。

――そして。


ふっくらとした唇に、柔らかそうな舌に、触れてみたいなと思ってしまった。

思っただけなら良かった。

だが、思った瞬間それはもう実行に移されていて。

思う存分に味わってしまった。

きっと「触れたい」とか「抱き締めたい」なんて思ったのはそれが初めてではない。
本人にもあまり自覚はなかったが、そんな欲望は表面に出てこなかっただけで前から紗也菜の胸の内でくすぶっていたのだろう。


遮断機がゆっくりと開いていく。
いつものように紗也菜は歩き出し、壱子も同じように歩いてくる。
だが、今日は「いつも」のようにただすれ違いはしなかった。

2歩3歩、歩いて壱子が一瞬こちらを見て、視線を元に戻した。
そして今度はすごい勢いでこちらを振り返ってビシィッと紗也菜を指差す。

「あ、あああっあな、あなたこの間の――……」

その目は大きく見開かれ、みるみるうちに顔は真っ赤に染まっていった。

大人びていつもあまり表情を動かさないような少女の珍しい変化だ。

愛しさに思わず笑みがこぼれてきた。

(うあ…やっぱり可愛い…やばいな、抱き締めたい…ちゅーしたい)

なんて思った紗也菜だったが、さすがに朝っぱらに踏切の上でそういう行為に及ぶ訳にはいかない。
首をぶんぶん振って欲望をかき消した。

(ここはアレよ、大人のヨユウってやつよ)

紗也菜は自転車のハンドルを握り直してゆっくりと壱子に近づいていく。

そしてすれ違い様、とびきりの笑顔を見せた。


「いちこちゃん、おはよ。」


壱子はきょとんとして、少し固まっていたが、蚊の鳴くような声でぽつんと「おはようございます」と言った。

それから更に耳まで赤くしてうつむいて逃げるように走っていった。


「あ~~、ほんとかわいい。」

少女の後ろ姿が見えなくなったのを確認して、そっと呟ぶやく。

カンカンとまた警報器が鳴り出した。
遮断機が降り始めたので慌てて踏切を渡り切る。


まだまだ先は長いのだから、ゆっくりじっくりいけば良い。


紗也菜はそう思いながら自転車に再び跨がり、ぐいっとペダルをこぎ出した。





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最終更新:2009年08月23日 22:50