暑い。
私は額から流れ落ちる汗をハンカチで押さえた。
「詩織さん、手が止まってますよ」
「センセ、ムリ」
詩織は椅子の背もたれに体重を預けて完全に脱力していた。
いつもなら快適な室温を保ってくれるエアコンが、昨夜急にうんともすんとも言わなくなってしまったらしい。
だから詩織の部屋は蒸し風呂状態である。
「だいたい、なーんで日曜日まで勉強しなくちゃいけないの」
「それは詩織さんがこの前のテストで60点しかとれなかったからです」
「60点もとったら充分でしょ」
「80点以上とる約束、でしたよね」
「まあいいじゃん、固いことは」
笑ってごまかそうとする詩織に、私は軽い苛立ちを覚えた。
いけない。これくらいで怒るなんて大人げない。
私は、冬生まれのせいか暑さは苦手だった。
おかげで最近頭がボーッとなることが多い。
今日も詩織の声はどこか遠くに聞こえるし、どうもよくないのだ。
「ねえ朝子先生」
「なんですか」
「海行こうよ、海。こんなとこで勉強してたって効率悪いだけだもん」
「海、ですか……」
それは魅力的な提案だった。
確かにこの環境では、勉強したところでなかなか身にならなそうだ。
気分転換も大事かもしれない。
「いいですn――」
答えようとした瞬間、私の脳裏に浮ぶビジョンがあった。
ビキニのトップをはずし、こどもらしからぬ妖艶な笑みを私に向ける詩織。そして――
「ねえ、朝子先生。サンオイル、塗ってくれる?」
「あ……」
目眩がして、私はとっさに詩織の肩につかまった。
「せ、先生? 大丈夫?」
危ない。海は危ない。
「いけません! 海なんて絶対にダメです! 危険です!」
「き、危険?」
私の剣幕にびっくりしたのか、詩織が少しのけぞる。
しかし彼女はめげなかった。
「あ、ならさ、プールはどうかな?」
「プールですか」
なるほど、プールならサンオイルなんてこともない。
「いいですn――」
答えようとした瞬間、詩織がつぶやいた。
「わたし、新しい水着がほしいなあ」
水着!?
その時私の脳裏に浮んだのは、なぜかスクール水着を着た詩織の姿だった。
幼い肢体。小さな膨らみ。そして――
「ねえ、朝子先生。わたしに泳ぎ方教えてくれる? 手取り、足取り……うふふ」
「あああっ!」
頭を抱えて思わず身悶える。
詩織がちょっと怯えていた。
「朝子先生、だ、大丈夫……じゃないよね?」
危ない。プールは危ない。
「ダメです! プールなんてダメに決まっています!」
「あ、そ、そう……」
「まったく、詩織さんは無防備すぎます」
「は?」
「わかってるんですか」
「いや、あの、ごめん全然わかんない」
詩織は困惑を隠そうともせず、さっきよりもさらにのけぞっていた。
いけない。これはまずい。
やはり暑さが私から冷静な思考能力を奪っているのだ。
落ちつかなくては。
落ちついて、勉強できる場所――
「あ」
「こ、今度はなに?」
なんだ。こんな簡単なこと、どうしてすぐに思いつかなかったのだろう。
「詩織さん、私の家へ行きましょう」
「え、朝子先生の部屋? 行きたい」
詩織がすぐに立ち上がり、嬉しそうにピョコンと跳ねた。
「はい。あ、い、いえ、リビングですよ。リビングにしましょう」
「え~っ。いつんなったら入れてくれるのぉ」
「んー、そのうちに」
「いっつも、そのうちそのうちって……」
詩織はぶつぶつと文句を言っていたが、強引に上がりこむつもりはなさそうだった。
私の部屋には入れるわけにはいかない。
なぜなら私の部屋では、先日勢いで用意したばかりの特大パネル仕様『ラブラブ詩織ちゃん』がにっこりと微笑んでいるからだ。
本当に、夏は危険な季節である。
最終更新:2009年08月14日 21:34