東からのぼる太陽。

序文。


 最初に鳥の話をする必要がある。


 両手に収まる大きさに、クチバシから尾羽まで灰色尽くめの居姿。いまいち華やかさに欠けるその鳥は彼の庭におちていた。
 高い空に吹く風に乗り損ねたか、それとも羽を休めているところを獣にでも襲われたか。
 いずれにせよ飛ぶ力を無くしているそれを、何かの縁だと保護して、しばらく過ごした。
 さして広くはない部屋。
 飼育にはあまり適してなさそうな部屋ではあるが、飛べない鳥には十分な空間だったろう。

 飼うにあたって助言を仰いだ人間に渡り鳥だと教えられた。けれど、すぐには納得できなかった。
 確かにこの季節になると毎年、ぽつりぽつりと小さな点のようにみえる鳥の如きモノが矢尻の形の編隊でもって空の底のような群青の高みを横切って行く。
 その悠然とした姿と、部屋の隅で縮こまる柔らかい石のようなこの姿とがいまいち繋がらなかった。
 あの高さで、あの小ささなのだ。
 手の届く間近にいるのだから、もっと大きく見えて然るべきではないのか。
 それほどに小さく頼りなく思えていたその印象は、羽根を広げたときに一変する。
 きつく結ばれた毛玉がほどけるように体積を広げ、折り畳まれていた羽根がほぐれてひろがる。
 体躯に比べて、あまりに長大な羽根。
 窓からの光を遮り、部屋を一瞬暗闇に落とし込むほどのシルエット。

 その長さや大きさを具体的に表現しようとしても、印象は漠として、いまいち言葉には出来ない。
 羽根を広げたその姿は、その一度に見たきりで、二度目はなかったからだ。

 折れた翼は癒え、試すように伸ばした羽根で空を打ち、そのまま窓へ、その奥にある空へ真っ直ぐに吸い込まれて。
 やはり、とても小さな点となって消えていった。

 鳥に、未練や愛着、もしくは恩返しを期待するなんて馬鹿げている。
 渡り鳥なのだからとっとと旅立たねば迷鳥としてそのまま生涯を終えることにもなる。
 唐突に終わった生活に拍子の抜けた落胆は覚えたけれど。
 あまりどうという感想も抱かなかった。
 物事が道理に従い当然という結末に落ち着いた満足と、それにともなう微かな失望。安堵の中の小さな落胆。
 それだけである。
 あるけれど。
 羽根を広げたそのシルエットだけは驚きもあって強く印象に残り、その後に度々思い出すことになる。
 でも、思い出したところで。
 それはいまいち明瞭でない曖昧な感情が心の内に薄いにごりを与えるだけで。
 どんな気持ちになれば良いのかわかなくて。
 ぼんやりした顔と頭で、鳥の行方と同じ方角を眺めてみたりする。


 で。それからそれほどの月日は経過していない同じ街の話。


 けっこう活況。なかなか雑踏。
 市場である。
 庇の下で商う者。いかにも露天然とした屋台やら、地べたの敷布に商品を並べる者など。
 長方形に伸びる街の中心をつらぬく大通りの両脇にそれら雑多な様態の店が並び、もちろん中心には人々が絶えず往来している。
 お祭りというわけでもなく、年に何度かという定期市でもない単なる常設市だけれども、それでもこの混雑てことはそれなりに栄えている街のようだ。
 交通の要所――とはちょっと言い難いその街は、それでも大きな森を迂回できる位置にあり、急ぎの旅でさえなければ休養地点として折良く立ち寄れる地点にある。
 というか、そもそも。旅を常態としている者どもが世の過半を占めているこの世界において、「急ぎの旅」なんて明確な目的を持って旅をしている奴はけっこう珍しく、だからこその活況といえる。
 と、いえるのだけど。
 世の機微を知るモノは、これに「今のところは」と付け足したがるかも知れない。
 そんな連中にご高説を伺えば、この世界はごくゆっくりとした具合にではあるけれども着実に「アダヒトの世」になりつつあると予測を垂れてくれる。

 アダヒトとはタビビトの対義である。語意としてはつまり、旅に生きず、ひとところに住み続ける人々の事を指す。
 元々はニンゲンという種族を指した言葉だった。それがなぜ定住者全体を指す語に変わったか――を説明するよりも先に、ニンゲンについて話をさせて貰った方が理解は早いはず。 
 ニンゲンってのは、サルをひ弱にしたような連中だ。

 いまいち、パッとしない連中ではあった。
 この世界という舞台に登場したはいいけれど、力は強くなく足も速くなく身を守る毛皮もないので環境変化に弱く平常温暖な気候でしか暮らせず寿命もさして長くはない。多少の器用さこそ持ち合わせてはいたけど、それでどうかできるでもない。
 生存競争の落ちこぼれ容易く組分けられそうな種族であっというまに淘汰されそうだったけれども、この世に生まれ落ちたからにはどうにか生き延びねばならない。しかし他種族と比較してハンデだらけな生態に選べるような生き方なぞ限られていたので、結局は「なるべく目立たないように」「こそこそと」「ニンゲンどうし寄り集まって暮らす」という選択しか出来なかった。
 惨めではある。
 けれども、目立たず過ごすことに成功したのか、それとも世界全体からとるに足らぬ種族と断じられたかは知らないけれど、彼らは着々と繁殖を続けて、その結果に流動性を乏しくしてますます一所でじっと暮らすような生態を育んでいった。
 地に根を張るでもあるまいに。一カ所に留まり続けるなんて食料が枯渇した場合やら捕食者に目を付けられた場合やらを考えるとずいぶんリスキーな生態のように思えるけれど、しかし事実として彼らは「子孫を遺さず息絶える」という種族的危険の回避に成功し、集団自衛や集団狩猟なんて方法を発見し、外敵を阻むための集落を築き、農耕や牧畜を発明し、自ら作った垣根の中で生まれそこから出でることなく死ぬという文化を作り上げた。

 誤解の無きよう注釈を加えれば、ニンゲン以外にも集落を作る種族はもちろん居た。居たけれども、ニンゲンほど大きくも立派な集落を作る種族なんて他にいなかった。
 つまりそれほどニンゲンがひ弱な生き物だったってことなんだけど。

 規模の増大によって集落はやがて「街」と呼ぶに相応しくなり、そうとなればいい加減「目立たずこそこそ暮らす」なんてことも不可能になって、だからいつ頃かのある日、他種族の大多数がふと気付くのだ。
 なんか、旅路の途中にちょくちょくと、サルみたいな種族が群れて暮らしてる。と。
 旅に暮らすそれら大多数の他種族は、いつのまにやらで出来上がってたそれら「街」を奇異の目で眺め、それらを指して適当な呼称でもって言う。
 旅路の途中にある集落。旅と旅との半ばにじっとして動かない人々。中間に居る人たち。あいだの人。

 それがアダヒト。

 つまり、旅暮らし中心な他種族の主観から出来上がった言葉なのだな。だから自ずとそれはニンゲンのみを指す言葉だったのだけど、ニンゲンが快適に生存できるよう最適化された「街」というシステムは、種族は違えど共通点の多い他種族にもなかなか便利なものだったようで、そのうちにこれら街を一時の休息や物々交換による必需品の補充という形で利用するようになり始め、アダヒトもそうした旅人が作る物資や情報の流れを定住しながらにも得ることが出来るようになって。持ちつ持たれつの関係が折良く出来上がった。
 世界にその存在を認められたも同然である。
 そうなれば街はますます発展していく。日陰者でしかなかった連中が作り上げたそのシステムは、規模と機能と利点とを増加させて世界に不可欠な要素となり、放浪しか生きる方法を知らなかった他種族連中に「定住」という生き方を示すこととなり、示された種族の中の一部連中はそれに従い集落の中で生きて産んで死ぬことを選んで。
 一言にアダヒトといっても、その言葉の中にニンゲン以外の種族が多く含まれるようになり、その意味を「旅をせずに生きている人たち」くらいの内容に変えて。
 今に至る。

 これらを踏まえて。
 識者は語るのだ。
 街ってのはつまり、そこで産まれて生きて死ぬことの出来るシステムである。外に出なくても。これを少し飛躍して語れば、街とは世界の中に出来た小さな世界だといえる。
 この小さな世界は膨張を続け、やがて今の世界とそっくり入れ替わるであろう。と。


 という話はあるけれど。
 そんなことを意識しているのは極少数。余談として脇に置いておこう。
 ともあれ、現時点の世の中は、放浪する人々の歩調に合わせて運行されている。

 なので、この街の、その市を構成し流れて行くのも主にニンゲンならざる人々である。 
 目立つ中では頭抜けて規格外な身長の巨人、苔生す甲羅で人垣を押しやり押しやり進む亀人、影が服着て一人歩きしてるような真っ黒けも居れば鼻面の長く伸びた獣人もいる。そこの露天で呼び子をしている者は鹿の如きはえたツノに商品を色々とぶら下げているし、余り目立たない連中も、子細に観察すればまぶたが下から上に動いたり、舌の先が二股に割れていたり、靴でなくひづめでもって地に立っていたり等々。
 根気よく探せばキミのお眼鏡に適う美女だってきっと見付かるだろう。
 個人的なオススメは、ほれ、そこの少女である。

 頭にこびとを乗っけたその娘だ。

 小柄な体躯とほぼ同サイズかそれ以上のリュックに隠れてちょいと確認はし辛いけれど、空に向かって真っ直ぐのびる獣じみた耳、両方のこめかみに白い花をあしらい、正面に回れば如何にも少女然としたまつげに縁取られた大きな目玉が生真面目な面持ちで商品を物色しつつゆっくりと市場を巡っている。
 見れば旅装もずいぶんとくたびれていて、自然と漂うその旅慣れた風情が、こう、まだ未成熟な外見とのミスマッチを誘いイイじゃないですか。
 しかし――遍歴の異国連中が持ち寄る商品は色彩も様々。ウィンドウショッピングも楽しかろうはずだけど、その表情がかすかに愁いを帯びてみえるのは何が故だろう。
 ともあれ、端から端までを順に巡っている視線がぴたりととある店の奥に吊してある香草にとまり、ついでに足もぴたりと止まる。
 さても。
 その姿に気が付いたのはそのお店の主人であろう恰幅が素敵なご婦人だ。多少なりとも商いの心得を持つ店番ならば店先に足を止めた旅人を眺めるのみでは済ますまい。なのでもちろんそのご婦人も売り口上を少女へ向けて発すべく口を開きかけるけども――ちょっと止まる。
 少女の真剣な面持ちに少し気圧されて。
 そしてそのまなざしが値札に注がれていることに気が付いて。
 なるほど。
 彼女の表情にかかる愁いは懐具合から発生しているようだ。
「すいません」
 不意に響く声音。発生源はもちろん少女の口である。
 売り口上を準備していたご婦人の口は半開きのままで、切っ先を完璧に制された形になる。愛想をつくろう暇もなく、更に少女が続けて言う。香草をびしりと指して。

「あの商品が高価すぎるので安くしてください」

 モノの見事なド直球。
 受け取り損ねたご婦人は反応に窮して少し固まる。
 少女は自身の速球の威力に頓着せず、返答を待ち値札を指差したまま奥方の顔を真っ直ぐに見ている。
 お互い硬直。妙な間。

 それをもぞもぞ動きでもって破ったのは、少女の頭にのっかるこびとである。

「……これこれ。くじら」
 大さじ一杯分を計るのに丁度よさげなてのひらで、少女の――くじらという名であるらしい少女の、ひたいをぺちぺち叩く。
「その言は何かと適当でない。これら立ち並べられたる品物の、それらいちいちに付せられた値札の、そこに書き込まれたる数値はあまねく主人の肉体を伴わぬ労働のたまものぞ。一口に値段というても、需要と供給を天秤にかけ、当世の流行をはかり、現在の財源や在庫の調整や常連客への奉仕などなど世をうねる不可視の事象を見抜きしてできうる限り勘案せねば決して出でぬ数値じゃ。いわば経験と洞察によって彫琢された玉石がこそこれら値であるのみならず、民草の営みを支える基礎たる要素である。これなるは世界を構成するモノの最小単位の一つであり、往来を行く人々を誘う化粧であり、ときには圧政に抗する剣となる。ただの対価の案ではない。それを画きたるはただの黒墨でなく主人の汗と血と心得よ。安易な否定はそれら心性への冒涜となりうるぞ」
 と。唐突に始まったご高説に
「ははあ……」
 少女と、お店のおばさんも一緒に相づちを打つ。
 おばさんの方はまあなにやらわからぬ心地でもってついた感嘆を、あえて言葉にすれば「何を大げさな」だったろうけども。くじらの方は素で感じ入るところがあったらしい。ちょうど手に届く位置にあったカボチャの値札(おつとめ価格)を両手に取り、しみじみと眺めて、なにやら感じ入ったのかため息をついて。つとおばさんの目を見。
「ご無礼を謝罪すべきですか」
「いやいやいやそんなとんでもない」慌てて頭を振るご婦人。
「もういくらか付言するなれば――」
 そんなやりとりはおいといて。こびとの高説はまだ続きがあるらしい。
「値引きの交渉に臨む第一声として「高価すぎる」はやや前衛的に過ぎるかの。警戒心を抱かせては上策とはいえまい。それでなくとも旅装のやつばらが店番に声を掛ける由縁なぞ値切りをおいてそうあるまいし。そうじゃろう奥方?」
「え? ああはいはい。そうですねえ」
「そうなんですか」
「……そうねえ」
 奥方。同意を求められて、念押しに訊ねられてちょっと考えてみれば。まあそうなのだ。
 その由縁を訊ねるよう真っ直ぐ向けられる少女の瞳に促されれば、口八丁でおべっかを使うよりも率直かつ有り体に答えてやりたくなる。
「足を止めて頂けるのはありがたいんだけど、旅人さんは一見さんが多いからねえ。通り過ぎるだけで戻ってこない人も多いし。お得意さんになってくれて、二度三度とウチで買い物をしてくれるならそのうちに負けた以上のお金が戻ってくるでしょ? だから例えば、口約束でもいいから、この街に来る度にウチへ寄ってくれるって約束をしてくれれば多少は勉強してあげられたりね」
 くじら、ふんふんと頷く。
「約束スか」
「そうね。あと、商人はみんなお金持ちに弱いの。お金を使ってくれれば使ってくれるほど嬉しいけど、でも持ってないとそもそも使えないでしょ? そういう意味じゃあ、最初っから値切りに入ると財布の中身を見透かされちゃって良い印象にはならないかも知れないわねえ」
「なるほど。勉強になるっス」
 笑うご婦人。眉根を寄せて、愛嬌のある思案顔になる少女。
「お得意さまになれないのなら、口約束とお財布の中身……」
 うん。と一つ頷いて。
「じゃあさっそく実践を」
「いやいや。もう手遅れじゃろ」と。頭上からツッコミが入る。「それに値段の交渉で不可欠たるは市場価格の熟知じゃろう。その点でいえばお主の欲するその香草はもはやこれ以上の値引きは望めまい」
「そうなんですか?」
「うむ。今の値ですでに相場を大きく下回っておる。生薬とすれば血の流れを正常にし、煎じれば肉の臭みを爽やかに取り去りと用途の広く珍重される薬草じゃがこの付近では採取の適わぬうえに海路も望めぬこの街での入手経路はこの先の森と山とを越えた先と限定されておる。よって棚に並ぶことさえ希である故に、この値段は破格と呼んで相違あるまい」
「あら。『お目付』の方からそういって貰えると心強いわねえ。少なくともこの街じゃあ一番安くしたつもりですからね」ご婦人、ふくよかに笑って「他のお店で探してこの街の端から端まで歩いても、結局はこのお店に戻ってくることになると思うわよ?」
「そうなんですか……」
 くじらは素直に落胆する。
 気落ちする子供が目の前にあっては、むしろ手をさしのべずにいる方が難しい。
「あらあら。がっかりされたまんま旅を続けられちゃウチの名が心配だわ。ほら、旅人さんなら入り用な物も多いでしょ? 何か言ってご覧なさいな。勉強できる物ならしてあげるから」
「そうですか? それじゃあ」
 と。店の棚を子細に見るため巡らせた頭が、右にー、左にーと、動いて。……あれ? と傾げられる。
「やっぱり、お塩がないんですね」
 おっとっと。ご婦人、痛いところを突かれたと顔を歪ませる。
「やっぱり、とな?」
「お塩が安かったら補充しておこうと思ってずっと探してたんですけど。あっちからここまでのどのお店にもなかったス」
「そうなのよねえ……」ご婦人。腕を組んでうなる。「お客さんが必要としてるならウチで使う分だろうとお店に並べたいくらいなのだけど、ウチの台所にもないのよねえ……他のお店に相談しても、どこも入荷できてないっていうし。まるで流通から抑えられてるみたい」
 一つため息をついて、思案顔でこびとの顔をみる。
「こういうのも、『目付方』に相談していいんですかね?」
「さて」
 顔を向けられたこびとも、同じく思案顔になる。

 ちなんで。先ほどから何度かでた『お目付』『目付方』とは、主に市場流通価格や通貨の両替など適正価格を判断・監視すべく国王に雇われている役職のことである。アダヒトの世界では今や旅人の流通がこそ国を支える資本となっているわけで、故に、彼らを騙し法外な値段で必需品を売りつけたり、通貨を不正なレートで両替したり等の、旅人の足を遠ざけるような犯罪は抑止できるだけ抑止せねばならない。ついでには、旅人の多くは彼らアダヒトよりは屈強かつ強靱な連中なので、旅人同士で徒党を組めば、国そのものとまでは言わずとも街の一つや二つは潰されかねなかったりする。ので、下手に不和を煽って腕力沙汰になるよりかは音便な旅人でいてもらう必要があるのである。
 それら問題を防止するため、監視と報告とを請け負っているのが『目付方』である。
 この役職は、基本的にそこのこびと連中が主として任に付いている。
 それが何故こびとなのか。は、またそのうちの機会に解説するとして。

 で。
「どこぞの商店が塩を一手に集め独利を得ている、という話ではないのじゃろ? それなればむしろ報告の役目を負うべく定めがあるが」
「そういう話じゃあないんですよねえ」
 うーんん……。というご婦人のうなりが、なんとなく波長を変える。悩みの内容が切り替わったのかな、と、くじらは観察するがどうやら正解だったらしい。ご婦人、何やら打ち明け事をするべく決心したな気色になって。
「まだ噂話ですから、あまり悪く受け取って欲しくはないんですが……」
 と、内緒話に顔を寄せてくる奥さん。
「ふむふむ」
 と、それを受け耳を寄せるこびと。
 が、頭上に居るので気を利かせて前屈みになるくじら。
 の、背中をどついて駆け抜ける誰か。
 どしん。とぶつかられたくじら、わっとっととバランスを崩しかけて危うく踏みとどまるけれども、その頭上のこびとはたまらず転がり落ち量り売り用に口を開けたまんまの小麦粉袋の中に落下。白い煙がぼすり。
「きゃああオキナ様オキナ様」と悲鳴をあげて見事に埋まったこびとを掘り起こすべく小麦粉に手を突っ込んだのと同時に、野太い声が響く。
「こォの野郎! 泥棒だーッ!!」
 辺り一帯の人々が思わずすくみ上がる大音声。静止した世界の中で動いているのは、慌てて小麦粉を掘るくじらと、離れた路地裏に走り入る影と、それを追いかけてきた牛面の大男である。
「そっちの路地に逃げ込んだよ!」
 無事救出されたこびと、ご婦人が指さすのを確認し一跳びで少女の頭上に戻り(小麦粉が舞い、)凛々しい声を発する。
「くじら!」
 それを受けたくじらは、その意味をはかりかねて数瞬の間の後。
「あ。はい。うぃっス」
 背負ったリュックをどさりと脱ぎ捨てつつ押さえつけられていた鞠のような弾み方でもって駆け出し、追う牛面を軽く抜き去り盗人の逃げ込んだ路地へ飛び込む。
 日はまだ西寄りに近くあり、路地には隙間なく影が落ち空ばかりが明るい。そのやや遠くにある盗人の背中が見る間に近付く。
 追われているのに気が付いた盗人、あたりに積まれた生活臭漂うタルだの木箱だのを行きすがりながら蹴り倒すが、くじらは難なく木箱を踏み越えタルを乗り越え散乱した果物は踏みつぶしちゃもったいないから一気に跳躍して跳び越えてと素晴らしい身体能力でもって距離を詰める。が。
 路地裏に現れた十字路を、盗人が右折して視界から消えた。
「うえ」
 呟くくじら。厄介である。右折された先にさらに十字路T字路なりがあったとしたら、下手をするとどちらに逃げられたかわからなくなる。これへの対抗策はもっと急いで追いすがるのみ――と思ったら。
「くじら!」
 再び頭上から声がかかると同時に、こびとが眼前にぴょんと飛ぶ。走りながら両手のひらで受け止めたくじらを省みて、決然と目を合わせる。
 目と目の間に、バチリと走る電光。以心伝心、アイコンタクト。苦楽を共にした物同士だからこその意志疎通。
 言葉を交わす間さえももどかしく、瞬時に無言のままにこびとの意を汲んだくじらはその目をスッと細めて。
 一言。
「いやっス」
「えええい、ワシのことは構わぬから!」
 手のひらの上でもどかしく地団駄を踏むこびとに、ああもうはいわかったっスよと返事をして。急制動。空を睨んで――もとい右手の屋根を睨んで、こびとを握った右手をオーバースローにぐるりと二回転。
「てりゃっ」
 控えめな気合いと共にこびとを放りあげる。とはいってもそう高い家屋ではない。すたんと無事両足で板葺きの屋根の上に着地したこびとはそのまま駆けて屋根から乗り出し盗人の姿を発見。狙いを澄まし迷わずホイと飛び降り、見事に盗人の頭上に落下。がしりとしがみつくと共に体にまだ残っていた小麦粉が折良く舞い上がり煙幕となって、何が起きたのやら慌てふためく盗人の眉間を「ほいっ」と掌底で打ってだめ押し。
 盗人、たまらず背中から倒れ落ち、放りだされたこびとを丁度よく追いついてきたくじらが「オキナ様!」と叫びつつダイビングキャッチ。見事に抱き留めて、そのまま仰向けに倒れた盗人の腹の上に落下。
最終更新:2010年04月01日 12:42