川尻 哲郎(かわじり てつろう)
- 藪恵壹と共に阪神暗黒時代を支えたピッチャーである。
- 投球フォームは時にアンダースローと間違われるほどのサイドスローの投手であった。
- 亜大時代は小池秀郎(元近鉄)や高津臣吾(元ヤクルト)の控えだった。
- 1996年には自己最多となる13勝をマーク。以降は10勝以上したのは2回だけ。
- 1997年は各地の球場で、試合中にレーザーポインターで投手の視界を遮る悪戯が多発していた。1998年5月の甲子園での試合では、ヒーローインタビューに応じる川尻の顔に、赤い光線が何度も走る様子がTV画面ではっきりと映り、各局のニュースでも採りあげられ全国的な話題となった。
- この年のオフ、中西清起の引退に伴い背番号を41番から19番に変更した。
- また同年、プロ野球脱税事件に関与していたことが明らかとなり、翌1998年に3週間の出場停止処分を受けることとなった。小久保裕紀(元ソフトバンク等)ばかりが脱税のことを蒸し返されているが、阪神では川尻が関わっていた。
- だが処分空けの5月26日のでの対中日ドラゴンズ戦では矢野とのバッテリーでノーヒットノーランを達成した。
これにより暗黒期阪神ファンは「川尻はノーヒットノーランしたんやで!」と度々話題にして、傷のなめ合いをしていた。- 最後の打球がショートだった今岡誠の所に飛んで行ってヒヤヒヤとした人も多かっただろう。
- この年は2年ぶりに10勝した。またオフの日米野球ではカート・シリングと投げ合い、MLB選抜を0点に抑える投球を見せた。
- しかしこれ以降調子を落として成績を上げることができなくなった。
- 2003年の優勝時にはケガのため二軍調整中だった藪恵壹や濱中治がこれまでの功労者として一軍帯同・胴上げ参加が認められた。
しかしその年一軍登板の少なかった川尻は、「俺の行く所じゃない」と胴上げ参加を拒否し、日本シリーズにも登板機会は無かった。
- 2003年オフに前川勝彦との交換トレードで大阪近鉄バファローズに移籍。
- だが2004年には球界再編問題でオリックスとの合併を迎える。この時には自身の登板日にも拘らず、試合開始直前まで熱心に署名活動に参加したり、登板のない日には試合に出場する他の選手に「後は俺がやっておくから、安心して試合に行ってこい」と声をかけ、吉田秀彦ら交友関係のある友人に協力を求めるなど精力的に活動し、最後まで球団合併阻止に力を尽くした。
- だが同年のオフ、分配ドラフトで東北楽天ゴールデンイーグルスに移籍することに。しかも僅か2試合の登板に終わり、2005年に戦力外通告を受け現役を引退。
- その後は緊急地震速報システムメーカー(3Softジャパン)の顧問に転身し、2006年緊急地震速報装置の特約店(ユニゾン)を仙台で設立。
阪神時代の1995年に阪神・淡路大震災を経験しており、「人の命を守りたい」と思ったからだという。
- だが2009年5月に解雇され給与の未払いを理由に同社を提訴したが、敗訴してしまう
- その後はミヤギテレビの野球解説者を務めていたが、2013年3月15日に群馬ダイヤモンドペガサスの投手コーチに就任することが発表された。2014年からは監督に就任した。
- まさに波乱万丈な人生を歩んでいる。ミヤギテレビに出演したとき太った川尻を見て年取ったなぁとしみじみ思ったひともいたことだろう。
最終更新:2014年12月29日 08:11