東北大SF研 短篇部会
『歌おう、感電するほどの喜びを!』 レイ・ブラッドベリ/伊藤典夫

著者紹介

1921年アメリカ合衆国イリノイ州ウォーキーガン生まれ。2012年没。代表作は『火星年代記』『華氏451度』『ウは宇宙船のウ』など。
SFを中心に幻想文学や怪奇小説、ファンタジー、ホラー、ミステリなども手がけ、詩人としても活躍した。SFには珍しい抒情溢れる文体から、「SFの抒情詩人」と呼ばれ、星新一や萩尾望都、スティーヴン・キングなど多くの作家に影響を与えた。
この短篇集に収録されている『キリマンジャロ・マシーン』からも分かるように、ヘミングウェイをこよなく愛し、また多大な影響を受けている。
また、作家志望者に親しく接し、助言や指導を手厚く行っていたことでも有名。ブラッドベリの手助けによって作家になったものとして、ハーラン・エリスンやリチャード・マシスンなどがいる。
この本はもともとサンリオSF文庫から1983年に「ブラッドベリは歌う」という題で刊行されていたものを、早川書房より訳者を変えて刊行したものである。まず単行本として刊行され、のちにハヤカワ文庫NVに「キリマンジャロ・マシーン」と「歌おう、感電するほどの喜びを!」の二分冊として収録された。近年ブラッドベリの作品がハヤカワ文庫SFに復帰するにあたって、再び合本として元のかたちで刊行しなおされた。
ちなみに、この作品(1969)の原題はアメリカの「自由詩の父」といわれる詩人ウォルト・ホイットマン(Walt Whitman)の同題の詩(1855)からとられている。また、アメリカのジャズ・フュージョン・グループのウェザー・リポートは、アルバムの題名として同じ題を使用している。(1972)興味のある方はこちらもどうぞ。

訳者紹介

1942年静岡県浜松市生まれ。早稲田大学第一文学部仏文科中退。代表作に『地球の長い午後』『愛はさだめ、さだめは死』『スローターハウス5』『2001年宇宙の旅』『華氏451度』『たんぽぽ娘』「人類補完機構」「危険なヴィジョン」など。
日本SF界を代表する英米翻訳家。10代にしてSFマガジンに翻訳を載せ、その後も英米のSF書誌情報や作家動向、新人作家の紹介を行った人気の連載「SFスキャナー」を続けるなど、早熟の天才として知られた。同じく日本SF界を代表する英米翻訳家の浅倉久志(あさくら ひさし、1930~2010、代表作『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』『高い城の男』『タイタンの妖女』『宇宙船ビーグル号』『世界の中心で愛を叫んだけもの』『たったひとつの冴えたやりかた』など)とともに初期から海外SFの普及に努め、日本SFを語る上では欠かせないひとり。一方愛の深さゆえかSFに関して色々と過激なことでも知られ、当時19歳で早稲田大学在学中にSF同人誌『宇宙塵』にて三島由紀夫のSF小説『美しい星』をメタクソにけなす文章を発表し、三島の怒りを買ったことはあまりにも有名。ほかにも早川書房最大の過ちである「覆面座談会」(1968)をSFマガジン1969年2月号誌上にて福島正実・石川喬司らとともに行い、ここでもSF御三家を筆頭に当時の人気SF作家をメタクソにけなしたため、早川書房は御三家をはじめ多くのSF作家を失うこととなった。
しかしその翻訳の腕はまさに天才と言うべきで、先に挙げた翻訳実績が全てを表している。まだ存命でSFマガジンにも翻訳を掲載している。まだまだ長生きしてぜひ翻訳を続けていただきたい。

あらすじ

母親を亡くした子供たちの前に現れたのは、「電子おばあさん」だった。ティムとトム、つまりぼくのふたりはすぐに電子おばあさんと打ち解けたが、妹のアガサはずっとどこかで心の底を見せられないままでいた。おばあさんは子供たちを正しく教育し、機械でありながら、家族全員に愛を与えてくれる理想のおばあさんだった。しかし、アガサにはその愛が気に入らなかった。かつてアガサを愛してくれた母親は、アガサを置いて永遠に旅立ってしまったからである。アガサは家を飛び出した。おばあさんと家族全員がそれを追いかけたが、アガサの目の前には車が迫っていた。いち早く家を飛び出していたおばあさんは身を挺してアガサを助けたものの、自身は車にはねられて大きく損傷したようだった。
無傷のアガサとその家族が道に座り込み、電子おばあさんとの急な別れに涙しているとき、聞きなれた声がした。顔を上げると、無傷のお祖母さんが立っていた。おばあさんは不死身だったのだ。アガサはようやくおばあさんの存在を心から受け入れることが出来た。
やがて子供たちが成長し、大学進学のため家を離れることになった時、おばあさんは“家族”のもとに帰った。そして今、別れの際の約束の通り、老人となった僕たち三人のお世話をするために、おばあさんは戻ってくるのであった。

翻訳に関する研究

この作品は、サンリオ版の中村保男訳と早川版の伊藤典夫訳のふたつの版がある。ここでは訳者が違うと文章がどう変わるか、と言う変化の楽しみと、そのふたりの翻訳のスタンスの差を比較したいと思う。
まずサンリオ版の中村保男から。中村保男の翻訳はまさに実直と言った感じがある。原文は確認できていないが、文章はより英語的で、若干堅さを感じるものの、その堅さは恐らく翻訳で意味を正確にとって原文のもつ雰囲気が落ちてしまったのではないかと考えられる。
次に早川版の伊藤典夫。こちらは中村保男とはうってかわって生き生きとした文体である。比較すると雰囲気は確かに残っている感じで、一方意味の面では伊藤自身の解釈が入ってしまっており、純粋な翻訳としては評価の分かれるところである。特に翻訳において禁じ手である文章の順番の入れ替えを行っているため、物語上ではむしろ良く作用しているものの、原文を尊重するという点ではあまり評価しにくい。

所感

なんといっても、人間よりも人間らしく家族に接してくれるおばあさんの存在が印象的。文章全体に散りばめられた、SFとしては過剰なまでの情景描写のもたらす生命感が、話の主題であるおばあさんの非人間性を際立たせている。アガサがおばあさんを受け入れられなかった理由というのも非常に非合理的で、極めて合理的に対応していたおばあさんの態度と好対照だ。
この作品はアメリカで1969年に発表された作品である。半世紀を経て、ロボットが生活に溶け込んでいる情景というのは当たり前のものになった。そして現在、日本は少子化の進行と、更なる高齢化に悩まされている。そんなところにこのおばあさんがいれば、現代日本の抱える問題は結構改善しそうだ、とつい楽観的に考えてしまう。しかし、このような楽観的な未来観を冷静に観察・批判し、作品に落とし込むのがSFの基本的な方法論のひとつである。多くの場合この作品と同じ「人間より人間的な世話係」という主題をとるならば、それが実現した社会における文明批判や未来予測を展開することだろう。
しかし、ブラッドベリはそんな野暮なことはしない。この作品のように、未来や科学技術に対して楽観的な態度をとるのがブラッドベリの作品の特徴のひとつであり、あくまである可能性のもとにおける人間を描こうというのがブラッドベリのSF的態度だ。おばあさんの存在によって動き出す人物の感情を巧みに描き出し、また老いた子供たちの姿と全く変わらないであろうおばあさんの姿とを暗示することで人間と非人間という構図が強調される。感情的にも視覚的にも対立構造を設定し、人間というものが物語の中に自然と立ち現れてくるのだ。
著者紹介にも書いたように、ブラッドベリはヘミングウェイから強く影響を受け、また星新一はブラッドベリに感化されてSFを書き始めた。しかし、これらの作家たちの作品は、影響を受けつつもそっくりそのまま同じ系統の作品という訳ではない。文体はヘミングウェイの簡潔なハードボイルドからブラッドベリの抒情的なものになり、星新一でまた無駄をそぎ落とした簡潔なものとなる。これらの作家たちの作品を比較しながら読んでみるのも面白いだろう。

※中村保男は1931年東京生まれ、東大文学部英文科を卒業したのち福田恆存に師事。代表作にミステリではチェスタトン「ブラウン神父」シリーズ、SFでは『非Aの世界』『結晶世界』「宇宙をぼくの手の上に」「スポンサーから一言」などがある。
最終更新:2018年05月19日 06:35