流星のナミダ(Ⅰ) ◆Ok1sMSayUQ
今になってようやく分かったことだが、幻想郷は狭い。
それこそ、私達のような妖怪が本気を出せば東の果てから西の果てまで行くのに一日も必要とはしない。
いや、北と南を往復してさえ時間はありあまるだろう。
それほど小さな世界になったのは、博麗大結界を管理するものの力量の限界ゆえだろうか?
あるいは、意図的にそうしなければならない理由でもあったのか?
いずれにせよ幻想郷が『外の世界』と隔離され、昔に比べると取るに足らない土地の広さになったとき、
古くから生き延びてきた妖怪達はこう口にすることがあったという。
井戸の底だ、と。
人間の力に押され、追いやられ、信仰を失い、こうして僻地の片隅で這いずり回っている妖怪は、確かに井戸の底の虫けらなのかもしれない。
仮に、もしも。そんな井戸の底でさえ争い合う私達を『外の世界』の人間達が見ていたとしたら、どう思うだろう。
滑稽だと笑うか、人間と何も変わりはしないなという憐憫を抱くか。
……どのように思われたとしても、私は、まずはその事実を認めなくてはならないと思った。
認めなくては、先に進むことなど出来はしないのだと、私自身で痛感したから……
* * *
「……つまり、あんたはにとり達と一緒にいたのね」
「そうなります」
時刻も夜半を過ぎ、草木も眠る丑三つ時も近くなってきたころ、人間と天狗が団子屋の軒先で顔を突き合わせて話をしていた。
いや、正確にはここに妖精も加わるのだが、生憎とその妖精は気絶も近い状態でうなされている。
長椅子に横たわり、苦しげにしているサニーミルクの様子をちらと確認してから、射命丸文は自身と同じく怪我だらけになっている藤原妹紅に向き直った。
ひとりとして五体満足な者もいなければ、会話の内容も世間話と済ませるには重すぎる。
団子屋でするものではないなと少し思ってから、文は「結果はこの様です」と付け加えた。
レティ・ホワイトロックも、河城にとりも死亡。そのうえ交戦した
レミリア・スカーレット一派にはさしたる手傷も負わせられず、
先ほど出会った博麗霊夢には殺されこそしなかったものの殆ど何も出来ずに無様に見逃してもらうことしかできなかった。
「見殺しにして逃げてきたってわけだ」
胸を突き刺す、それは冷酷な刃だった。返す言葉もない。いくら心を入れ替え、最善を尽くしたといっても結果を見れば、見殺しにしたのと何も変わりない。
当初、自分が思い描いていた通りになったということに、文は己の奥底にあるなにかがズキリと傷むのを感じた。
「……仰る通りです。言い訳はしません。普段から大きい顔をしておいて、いざやってみれば完敗したのですから」
「随分と素直じゃない」
「それ以上に思い知らされたこともありました。私は今の今まで、自分勝手しかしてこなかったことも、どれだけ周りが見えてなかったかということも。
ほんの少しだけ耳を澄ませて、目を上げるだけで、支えてくれる仲間や、友達がいてくれるんだって分かったのに……」
遅すぎた、と自分を憐れむつもりではなかった。
それが分かったからこそ、為すべきことを為すではなく、為したいと思うことを為すようにもなった。
自らの抱える思いは決して間違っていないと思うことができる。それでも、なお、悔しかったのだ。
「最善は尽くしたから、なんて言うつもりはありません。何を言われても文句も言えません。
それくらい私は無力なんだって理解したから。けれど……心を折ってしまったらそこまでなんです」
正直に言って、怖いし逃げたい。そうしてしまえばどれだけ楽で、都合がいいかなど自分自身よく知悉している。
だが願いさえもなくなってしまえば、もう何も届かなくなってしまう。祈りは呪いに変わり、呪いから逃げ続けるためだけの生が始まる。
何もかもを犠牲にする、自分勝手なだけで恥も知らない生き方を続けたくはなかったから、文は今日の苦しみを受け止めることを決めた。
「私は、私でも、まだ何かができると信じてるから……お願いします、力を貸してください」
深々と頭を下げる。常にから目上の者以外に対しては絶対に下げてこなかった頭だったが、とうにプライドへの執着心など捨てている。
文の願い、祈りは、たった一つだった。楽しく取材をして、楽しく騒ぐ。上も下もなく無礼講の時間を過ごすこと。
呪いへと変えることなく、続けるために――たくさんの仲間が、文には必要だった。
「……私も、そう。分かってたくせに、強がって、一人で全部やろうとして……無力だって気付いたときには、支えてくれていた誰かはいなくなってて……」
妹紅の答えの形は、ある程度は予想していたつもりだった。だが実際はそのどれもと異なるものだった。
先ほど寄越した、冷たく突き刺す言葉ではない。山ほどの悲哀を背負い、絶望的な現実を突きつけられてもなお、人であることをやめられない顔がそこにあった。
迷子になった幼子のように、途方に暮れた表情で涙を流している。同情や慰めを求める涙ではなく、受け止めた苦しみが抑えきれずに零れだしているかのような涙だった。
諦めてしまったり、現実に折り合う道はいくらでもあったのだろう。一度は現実に迎合し、わかった風な言葉で自分を納得させてきた文だったから分かる。
だが、妹紅は逃げ出さなかった。どのようなことがあったのか、何を経験してきたのか、文には分からない。しかし自分とは違い、彼女は否と唱えた。
滲み出る怖さを抱え、先にあるはずの未来を見据え、否と唱えきった。それが分かる。でなければ――彼女は、こんな泣き方をしない。
「でも、それでも。私はなにかがしたい。私を生かしてくれたみんなのために、やりたいんだ。あなたの言うように……心を折ってしまったら、そこまでだから」
やらなければならないではなく、やりたい。為すべきことではなく、為したいと思ったことを。
涙を拭い、顔を引き締めた妹紅には彼女自身の気質だけではない、様々に、雑多に交じり合った何者かの思惟があるように思えた。
私を生かしてくれたみんなのために――妹紅が語った『みんな』は、彼女を縛り上げず、しっかりと支えているのだろう。
自分はどうだろうか。ふと考え、すぐに浮かんだ河童の姿を思い出し、文は「なぜ生きてるかではなく、生きているからできることがあるはず、か」と口に出した。
曖昧な言葉だと自分でも思う。できること、なんて自分でも分からないし、やり通せるかも分からない。
レミリアや霊夢は鼻で笑うだろう。具体的な方法論も持たず、気持ちだけでやれると言い張っているに等しいのだ。
全員殺して勝ち残るという単純かつ確実な手段を取っている彼女らは、確かに正しくはあるのだろう。
ただ、やはりそれは自分しか見えていないと文には思えた。他人に背中も預けず、支えられたこともないから生きている自分しか信用できない。
他者を思って、思いを自分の足にして歩いてゆくという感覚を持たないから、誰かの中に存在する自分というものを否定する。
それは寂しすぎる、と心中に呟いて、文は目の前にいる妹紅をもう一度見据えた。
「さすが新聞記者。分かりやすくまとめてくれたわね」
「領分ですから。やめようと思ってやめられるものではありません」
「魂にまで染み付いた……ってやつね。じゃ、あなたはこれからも事件の取材を続けるつもりなんだ」
「それはもう当然。この歪んだ事件の真相を暴き、皆さんにお伝えするのが私の仕事ですよ」
「じゃ、私は新聞記者を守る護衛役ってわけね」
「あ……ってことは……!」
「協力するよ。……あなたのせいで、あんたのせいで、とか言い出してたらキリがないし、言い出す自分も嫌いになるから。
私も無力だけど……頭を下げられてまでお願いされたら、頷くしかないでしょ」
「なりふり構ってられませんし」
あははと笑ってみると、妹紅からも僅かに苦笑が帰ってきた。
安心した気持ちが生まれたのもあった。散々偉そうな態度を取ってきた自分だ、説得できるかどうかも判断できなかっただけに、協力を得られたのは嬉しかった。
サニーミルクあたりが起きていれば彼女に任せられたのだが、霊夢の一撃を受けたダメージは深く、未だに目を覚まさない。
弾幕で攻撃されたがゆえに致命傷とならないのがせめてもの救いだったが、この状況で襲われでもしたらいくら文でも限界はあった。
自分自身もダメージは深い。戦えなくはないが、レミリアと交戦したときに比べると天地の差がある。
藤原妹紅といえば、人間――正確には蓬莱人だが――としてはかなりの実力者だ。
生かされた、と彼女は語っていたが、本当に無力なら守られる前に殺されている。無力ではないと信じてくれたからこそ、後を託したという考え方もできる。
「とりあえず、レミリア……吸血鬼だったっけ? とも戦ったんだって? こっちも今しがた戦ってきたのよ。……いや、逃げてきた、というべきかな」
「誰とですか?」
「分からない。わけもわからないうちに狙撃されて……さとりが、私を庇って……」
あの嫌われ者が? 口に出しかけて、けれどもそれはあまりにも無神経だと寸前で気付き、文は代わりの言葉を探した。
「さとり……古明地さとりといえば、
地霊殿のあの妖怪ですよね。どうして一緒に?」
「……そういえば、聞いてなかったよ。自分のペットを探してたとは聞いたけど。見つかってから、その後はどうするか聞けなかった」
一体何が、彼女をかばうなどという行動に走らせたのか。気になっていただけに妹紅の返答に拍子抜けしてしまった。
というより、どうして理由もなく一緒にいることができたのか。能天気な連中ならまだしも、相手が相手だ。
「成り行き、というのが一番それらしい答えかも。偶然出会って、互いを知ってみたらいつの間にか一蓮托生の道を歩いてた」
互いを知る。簡素な言葉だったが、妹紅はさとりのことを深く知っていたのだろうと文は思った。
そうでなければ無力感に涙を滲ませたりはしない。自分もそうだ。にとりに仲間だと認めてもらえたとき、初めて輪の中に入っているという気持ちになれた。
不実を正当化し、組織の歯車でしかないと感じていただけの自分でも心があると気付けた。とうの昔に錆びついてしまったと思っていたはずの、心が。
「さとりは、誰にでも悪意があるけれど、良心も絶対にあるって言ってた。善悪それぞれを抱えて、それでもと言うために私は居る、って。
だから……だから、私はあいつとの約束を破るわけにはいかなった。さとりは私に光を見せてくれたから……死んでしまっても、折れてしまいたくなかった……!」
「うそ……え、さとり様……いなくなっちゃったの……?」
妹紅の声に答えたのは、サニーミルクのものでも、ましてや自分のものでもなかった。
夜半の闇の向こう側から現れ、呆然と立ち尽くしていたのは、己と同じ烏の翼を持つ妖怪と氷の妖精。
霊烏路空と
チルノだった。
* * *
薄暗い部屋で、明かりもなく月光のみが僅かに家屋に色彩を添える中、かちゃかちゃと金属をかき鳴らす音が響いていた。
音の中心にいるのはゆらりと幽鬼の様に蠢き、目の色一つ変えることなく刃物を物色している十六夜咲夜であった。
お嬢様からの『命令』――首を獲ってこいという任務を遂行するために、咲夜がまず必要としたのは武器だった。
空手では抵抗はできても、殺しにはいけない。汚してしまったスカーレットの名に名誉を取り戻すまでは戻るわけにはいかない。
是が非でも達成し、十六夜咲夜という人間は、改めて吸血鬼の恐怖に慄く存在となる。支配されることが、自分の時間を止めずに済む唯一の方法なのだから。
「悪くない」
咲夜が手に取ったのは食事用のフォークである。人間の里にしては珍しい、内装が洋風仕立ての家は家具も同じく洋風で、ならばと食器棚を漁ってみればあっさりと見つかった。
ナイフを選ばなかったのは単純に切断力が低いからである。調理された柔らかい肉を切るのならばまだしも、何も処理を施していない肉を切るのは難しい。
そこで咲夜は刺突力のあるフォークを選択した。三叉のフォークは突き刺しやすいように先が鋭く尖っており、切り裂くことはできなくとも確実に突き立てることが可能だ。
これをあるだけ、そして持てるだけポケットに突っ込む。咲夜の攻撃は物量に任せた広範囲攻撃こそが真髄で、一撃の威力やスピードに頼るものではない。
博麗霊夢との戦いではそこを履き違えていた。勝利することのみを目的とするのならば、なりふり構わずふんだんに武器を使って物量で圧倒すべきだったのだ。
弾幕戦という相手の土俵で相撲を行い、付き合った結果が敗北だった。負けたツケは大きい。それまで保持していた武器を全て失ったのだから。
けれども、敗北し、主から役立たずの烙印を押されてもう後がなくなってしまったことこそが咲夜を覚醒させた。
今は純粋に敵を殺す方法を模索し、有効と分かれば即実行できるだけの冷えた頭を保っていられる。
下手なプライドや瀟洒な行動、小気味のいい言葉など必要ない。
主が欲するのは勝利。主が欲するのは支配。
臣下ですらない自分が献上できるものは勝利のみ。
失敗は許されない。してしまえば、今度こそ自分は動かぬ時間の中で永久に何者にもなれなくなる。
咲夜にとって、支配されることすらなく無関心でしかいられなくなるのは恐怖以外の何物でもなかった。
――だからこそ、恐怖を克服するために、ここにいる。
「恐怖を克服するには、自らが恐怖になるしかない」
認めてもらえるわけでも、栄誉を頂けるわけでもない。
しかし、自らを変質させ、己を恐怖へと移り変わらせることはできる。
自らの内に潜む、唾棄すべき一点の染みを消し去ってしまうこと。それだけで、もう自分は何も恐れなくていい。
屈服させられるのなら……自分は何だって捨ててやるし、犠牲にだってする。
次いで台所に移動した咲夜は、棚から数本小型の包丁を取り出す。
ぼんやりと刃に映る自分の顔には、まだ僅かながらに己の抱える恐怖の片鱗が残っている。
「……邪魔よ。さっさと、去ね」
空を振り抜き、まずは己を殺す。
感触は悪くなかった。指の間に包丁の柄を挟みこみ、爪のようにあつらえて最後の身支度を整える。
夜霧の幻影殺人鬼が、吸血鬼のような凄惨な無表情で、狩りの時間を始めた。
* * *
最終更新:2011年12月10日 08:54