"Berserker" of Scarlets ◆CxB4Q1Bk8I
月は――氷のようだった。
刺すような月光に照らされる3つの影は、その氷の産み落とした三滴の雫。
永遠に紅い幼き月。十六夜に咲く月。夢と戯れる幻想之月――深く黒く、そこに在る。
冷え切った身体。冷め切った意志。水も流れぬ凍った世界。
ただ心の奥に燻る感情だけが温度を持っていて、命ある彼女たちを駆り立てる。
夜を統べる吸血鬼とその従者、そして博麗の巫女は、滾る殺気の結界の中、静かに視線を戦わせている。
究極に目指すものは全く異なりながら、ただ目の前の相手を排除せんとする意思だけはいずれも変わりない。
十六夜咲夜が先ず、すっと一歩前に出た。
レミリアは何も言わない。そして動かない。無言で咲夜の先行を認め、促す。
“お前は掃除係だ。私の進む道に首一つ残すな、十六夜咲夜”
背後にその存在を感じながら、咲夜は正面を見据える。
――何故戦うのだ、とは誰も問わない。
小さなナイフを不恰好に構えている霊夢に、潰れていない右目で刺すような視線を送る。
傍目、霊夢の構えは素人そのものであり、隙が大きすぎるように見える。
握り、呼吸、視線の位置――どれも全く経験の無いもののそれだ。
しかし、霊夢はおそらくそれでも武器を使いこなすのだろうと、咲夜は確信していた。
その身体能力と、抜群の勘、与えられた天性の才。創造主というものがおわすならば、彼女はそれに愛された存在だ。
そして幻想郷で戦ったときとは違う、本気で命を刈り取りに来るであろうという意志。
経験と技能の差は、それを以って有利と言うには小さすぎるだろう。
「あんた、何のために戦っているのよ」
霊夢が咲夜に問いかける。疑問に思ったというよりは、話のネタを探したというところだろう。
奇襲じみた遭遇だというのに、幻想郷の弾幕ごっこと同じように言葉遊びでもするつもりなのだろうか。
「あえて理由を申し上げるならば、お嬢様がそう望まれたから、と」
咲夜にそれに乗る理由はあまり無い。だが乗らない理由もあまり無い。
あの冬妖怪の時と違うのは、主が後ろにいるということだ。
「どうして、あいつの望むとおりにする必要が有るのよ」
「それこそが私が十六夜咲夜である証左だから、では駄目かしら」
散々自問を繰り返してきても、結局それだけしか思いつかなかった、というのが正しい。
本来もっていた彼女自身の感情は、分厚い霧の向こう側にあるようで、自分でもそのかたちが、わからない。
だから、紅魔の従者であることは、世界の
ルールよりも優先される本質。
主に身を預けたそのときから、白銀の身は紅に染まった。
「なるほどね、じゃあ私も博麗霊夢だからあんたらを殺すわ。文句ないでしょ」
――そして、博麗霊夢は永遠に無色透明な存在なのだろう。
正義は博麗の巫女にある。それは幻想郷の不文律でもあった。
それ故に、博麗霊夢は決して自身の価値観を揺らがせない。だから、今まで一度も迷ったことは無いはずだ。
そして、悪魔の従者は、主に従うことが少なくとも自身の価値観に対して善であるから、今まで一度も迷ったことは無い。無いのだ。
だというのに――何か違和感を感じる。止まった時の中で風が吹くような、肌をざわめかせる違和感だ。
博麗霊夢は本当に、自身の価値観に対して正しく在るのだろうか。
十六夜咲夜は本当に、自身の価値観に対して正しく在るのだろうか。
……いいや、十六夜咲夜が正しく在る必要は無い。
喜びと畏怖と、総ての混在する主への忠誠だけが、十六夜咲夜の持ち得る全てなのだ。
レミリアと共に有ることが最も安寧を得ることが出来、最も恐怖から遠くいられる。
そう考えなければ疑問も湧く。そして疑問はいずれ、十六夜咲夜というここにいる自身を飲み込んで闇へ引きずり込んでしまう。
感情を動かしてはいけない。疑問は封じなければならない。十六夜咲夜は
レミリア・スカーレットを絶対と仰ぐのだ。
それが、咲夜が自身と、自身の世界と交わした契約だ。
「咲夜、無駄話している時間は無い」
レミリアが若干苛ついた声を上げる。
お前が動かないのなら私が前に出るぞ、と声色だけで咲夜に圧力をかける。
それは、当てにならぬ、貴様は用済みだと言われるに等しく、咲夜の存在を否定するということだ。
「申し訳ありません、お嬢様」
咲夜はなるべく機械的に、そう言った。
感情に恐怖を含めてはいけない。今、自分には片付けなくてはならない敵がいる。
「無駄話、ねぇ。ま、あんたに同感だけど」
霊夢は相変わらず能天気に言い、肩をすくめる。
レミリアがふんと鼻を鳴らす。支配者となるべき身を“あんた”呼ばわりされたのが気に触ったらしい。
咲夜は、霊夢には本当に恐怖など無いのかもしれないと、思った。
「それでは」
ナイフを握る左腕を、スッと上げる。
地面と平行に、霊夢に向かって突き出された鈍い輝きを放つナイフは、その先にいるお前を殺す、と言いたげだ。
「参ります」
抑揚の無い声で告げると、咲夜は地面を蹴る。
弾幕用のナイフが無いのは痛い。魔力や能力で弾幕を生成することにおいて、咲夜では分が悪い。
つまり、今、遠距離戦では不利だということだ。
だが、相手の懐に飛び込んでしまえば条件は同じ。
弾幕戦なら幾度となく経験がある相手だ。武器はお互いにナイフであり、差はない。
死神の鎌では、身軽な霊夢相手には遅れを取るだろう。霊夢相手では得意武器が揃っていても互角だ。
勝負を決するとすれば――戦況を変える要素の介入か、場の流れを変えることの出来る道具の存在が最も気にかかる。
霊夢は手の内を明かしていない。よもやナイフだけを頼りに宣戦を布告したわけではないだろう。
咲夜の能力発動にかかる負荷を勘案すれば、霊夢も易々とは夢想封印の類の必殺のスペルを使うことは出来ない筈だ。
とすると、やはり必殺の武器を別に隠しているのではないか。例えば――このナイフのように、一度きりの切り札を。
それを頭の隅に置きつつ、咲夜はナイフを振りかざす。
一撃必殺の刺突ではない。咲夜が寸分違わずにそれを為しえても、博麗霊夢相手ならば通用しまい。
大振りのナイフの軌道と、霊夢の翳したナイフの軌道が交わる。
「ッ……」
霊夢の口から僅か、息が洩れる。
霊夢はその一撃を、自身への攻撃から身を守り反撃へ繋げる為にナイフで受けたのだろう。
だが、咲夜は、端から“ナイフに当てるため”に振り抜いたのだ。
予測と違う感覚に、霊夢の腕、ナイフの動きが鈍る。
緩んだ動きの合間、咲夜の振り上げた右膝が霊夢の腹を抉る。
いや、抉りかけた。咲夜の受けた感覚は、人の肉を抉ったものではなかった。
その一瞬の間に、霊夢は防護結界を小さいながらも発動させていたのである。
霊夢は声を漏らさずに大きく後ろへと飛び退く。さすがに無衝撃というわけにはいかなかったのだろう、その表情は僅かに歪んだ。
一度小さく後方に跳ねて離脱した咲夜の顔を、何とか体勢を保った霊夢の視線が追う。
咲夜は、霊夢の腹部から衝撃が引く前にと、そこから距離を一気につめて追撃をかける。
一度、二度、ナイフとナイフが互いを折らんと鈍い音を立ててぶつかる。
霊夢も二度同じ手は喰らわぬと、ナイフを右手で強く握り咲夜の斬撃を受け止める。
三度目の斬撃、横に薙ぐ刃を大きく飛び退いてかわすと、霊夢は大きく左腕を前に突き出した。
放たれたアミュレット状の弾幕が咲夜を襲う。広く拡散し、相手の動きを制限させる厄介な弾幕だ。
咲夜は、敢えてそれに突っ込んでいく。
弾を拡散させれば、当然ひとつひとつの威力は低下し、グレイズさえすれば無視できうるレベルになる。
カリカリと耳障りだが心地よい音が鳴る。咲夜の服に僅かずつ裂け目が入るが、咲夜は意に介さない。
飛び退いた霊夢の軌道をなぞる様に、咲夜は霊夢に追撃を仕掛けた。
刃が月明かりに、光る。
次の瞬間、咲夜の視界が真っ赤に染まる。
顔面に、べちゃりと不快な何かが張り付く。
それが血のついた何かだと、咲夜はすぐに気付いた。よく慣れた匂いであった。
霊夢が地面を蹴る音がする。この隙を突いて咲夜を仕留めよう、ということだろう。
咲夜は落ち着いて“時間を止める”。休息の間に、また能力が使用できる程度には霊力が回復していた。
大きく後方に跳躍すると、顔についた何かを掴んだ。
それは、今はほぼ紅一色となった、巫女の衣装であった。
そして、時は動き出す。止まっていた時間は咲夜の感覚で僅か一秒もなかった。
霊夢は咲夜が離れたと見るや、突撃を仕掛けようとしていた脚で思い切り地面を削って前に出ようとする身体を止めた。
「貴女の服ね、これ。きっと洗濯しても落ちないわ」
咲夜はそれを後ろに投げ捨てると、咲夜は顔についた赤いものを、自分の袖で拭き取る。
拭いきれなかった残渣が、頬にべっとりとついて不快な気持ちになる。
「――そうね」
霊夢の表情が一瞬、何か悲しみのような感情を映し出す。
その意味を咲夜は探ろうとしたが、一瞬の後には元の無表情に戻っていた。
「ま、お喋りはいいわ。あんたの主も持て余してるでしょ」
レミリアは咲夜の遠く後方から、相も変らぬ表情で二人を見ていた。
“咲夜、私は芝居を見ているわけじゃない。さっさとそれを片付けなさい”
咲夜の背中に、言葉無く投げかけられる。咲夜にはそれがはっきりと聞こえた気がした。
咲夜は、霊夢を再度睨みつける。
「さっさと決着つけましょ、どうせ私が勝つけどね」
余裕ぶる霊夢に、その余裕はいつまで持つかしら、とばかりに攻めかかる。
霊夢の細い身体を貫くため、ナイフ片手に咲夜は突貫する。
霊夢は、全く動かない――
「……っ!」
霊夢まであとわずか、というところで、咲夜はそれに気付いた。
霊夢が近接戦で多用するそれに対して、今まで無警戒でいたのは咲夜の失態であるとも言えた。
前に出ようと動いていた身体を、踵で地面を削り無理矢理に止める。
そのまま、地面を蹴って大きく後退した。
霊夢の足下で、獲物を逃した青色の結界が悔しそうに消えていった。
常置陣。トラップのように設置され、触れるものを攻撃し拘束する霊夢の得意技だ。
咲夜が突っ込んでそれに触れてしまっていたら、霊夢に一撃必殺の機会を与えてしまっていただろう。
「案外と冷静ね、残念」
霊夢が、全く残念そうに無い表情で言った。
咲夜を冷静と評する霊夢には、緊張感すら無い。彼女はいつもどおりに振舞っている。
余裕ぶったのも、挑発だったのか。自分の軽率さが、苛立たしい。
咲夜は腹部を押さえる。
傷が疼く。腹部に鈍い痛みがある。
無理な動きをしたせいか、腹部の処置済みの傷から、また若干出血しているようだ。
動きに支障は無いが、僅かでも神経をそちらに取られてしまう事は拙い。咲夜は唇を噛む。
その様子を見てか、攻守交替、と言わんばかりに、次は霊夢が攻めに転じる。
霊夢はまず、広く弾幕を展開した。霊夢を起点に扇状にそれが広がっていく。
拡散し、まるで赤色の蟲の群れのように自分に向かってくるそれを、咲夜はグレイズする以外に避ける方法を知らない。
だがそれでは霊夢の思う壺だろう。グレイズしながら突っ込んでいくのは当然霊夢は承知済みで、警醒陣や常置陣で迎え撃つに違いない。
ならば――どうするべきなのか。ひとまず後方に下がるべきか、咲夜は一瞬、判断を迷う。
その迷いをついてか否か、霊夢は自ら咲夜へと突撃してきた。
咲夜は息を呑み、判断を保留したまま大きく後方に跳ね飛んだ
それと同時に、霊夢のナイフが今まで咲夜のいた位置を薙ぐ。
攻撃を外したが、それも霊夢は予測済みだったように、そのままの体勢でさらに大きく前方へ踏み込む。
次の瞬間には、飛んだまま着地していない咲夜の落下予測地点に結界を飛ばした。
(馬鹿な……そんなに早くっ!)
動きの速さで、霊夢に負けている。その事実は咲夜を焦らせる。
実際には霊夢の動きが速くなったわけではなく、咲夜に蓄積した疲労と喪失した血液のツケが、ここで回ってきているのだ。
着地点で待ち受ける結界を避けるため、着地できずに空中を滑るようにさらに後ろに下がる。
追撃とばかりに突っ込んできた霊夢の斬撃を、2、3撃切り払う。
執拗に咲夜の左側に回り込もうとする霊夢から強引に距離を取るように飛び、膝を突いて着地した。
息が、少しあがっている。心臓が霊夢にまで聞こえそうな脈動を繰り返す。
霊夢に普段使っている大幣のようなリーチが無いため、近距離ではまだ戦えている。
だが、有利ではない。常置陣のようなトラップを絡ませてくる相手だ、単純なナイフ戦ではない。
だからと言って遠距離の弾幕戦をするわけにはいかない。それこそ霊夢の得意分野であり、投げナイフの無い咲夜には圧倒的不利だ。
それに、左目だ。片目の喪失は、ナイフ使いにとって重要な距離感を狂わせてしまう。
また当然、それは盲点の拡大に等しい。彼女が本来捉えてきた動きの何割かを、今は捉えられない。
この戦いの中で、それが異常なほどに自分を不利にさせていると気付いている。
恐らく、霊夢もそれに気付いているだろう。
ここにきて、と咲夜は唇を強く噛む。慣れた味が舌を刺激する。
優位に戦えた筈の冬妖怪相手に取った一瞬の不覚が、いや、冬妖怪の命を賭けた一撃が、この難敵相手に致命的な一打となっている。
焦りが十六夜咲夜を支配していく。後ろで見ている筈の主のじりじりとした感情が、肌を焼くように感じる。
敗北はあってはならない。敗北は死を意味する。紅魔の従者、十六夜咲夜の死だ。
ナイフの柄に指をかける。たった一枚の切り札を切る、そのタイミングを逃してはならない。
咲夜は“冷静に”霊夢を睨みつける。攻めに転じていながら一度も隙を与えなかった彼女に、憎々しいと言えるまでに感情が蠢いた。
「疲れているみたいね、随分苦しそうじゃない」
「冗談を。毎日あの屋敷の家事を片付けることに比べれば、なんてことないわ」
息が上がって、その言葉すら一息で言えない自分に腹が立つ。
完全で瀟洒な従者とは誰の名づけた二つ名だったか、今はそれが重荷にしか思えない。
紅魔館は帰る場所ではなくなった。レミリア・スカーレットそのものが自分の居場所となった。
それは、或いは自分を追いつめていくのかもしれない。
咲夜は、再度霊夢への突撃を試みる。
何度やっても同じこと、と霊夢は肩をすくめると、右手を翳して正方形のアミュレットを放つ。
敵を追尾するそれらを、咲夜は辛うじてかわしながら霊夢に肉薄する。
霊夢は面倒くさそうに、咲夜の斬撃をかわす。
大きく飛び退く霊夢に密着するように咲夜は動きを合わせて飛び込んでいく。
幾度も離れようとするその度に、同じように距離をつめる。
霊夢に常置陣のような小細工をさせる時間を与えないように。
そしてこの根競べに負けて一瞬でも隙を見せようものなら、その命を刈り取るために。
引き離そうとする霊夢と離れまいと飛び跳ねる咲夜のダンスは暫し続いた。
「しつっこいわね、怪我人のくせに」
息一つ切らしていないものの、霊夢の声には苛立ちが篭る。
一方の咲夜は息を切らす。既に腹部の出血は痛みを伴っている。
それでも、“冷静に”霊夢の一瞬の隙を、切り札を切るその瞬間を狙う。
――だが、先に限界を感じたのもまた、咲夜であった。
腹部の痛みは増し、僅かずつとはいえ、思考力も運動力も、時間とともに低下の一途を辿っている。
神経を集中させ続けても、事態が好転する可能性が低すぎる。
端から消耗戦になっては分が悪かったのだと悟り、咲夜は今更ながらに自分に腹が立った。
咲夜は、強引にチャンスを引き寄せるため、バックステップで霊夢から一度距離を取った。
「これはどうっ!?」
そして、袋に手を突っ込むと、ありったけの食事用ナイフやフォークを抜き出し、僅か一振りで全て霊夢に投げつけた。
少しずつ軌道の逸れたそれは、“エターナルミーク”さながらに、抜け道のない弾幕となって霊夢を襲う。
さしもの霊夢も、全てを避けることは適わず、そのうち2、3本が霊夢の腕に、腿に、刺さるとはいかぬまでも傷を作っていく。
霊夢の表情が僅かに歪んだ。
その、霊夢の意識が自身の周辺の加害するものたちに移る一瞬の隙を、咲夜は狙ったのだ。
咲夜は意識を集中させ、“冷静に”時間を止める。瞳が紅く変わり、その後に、世界が動きを止める。
咲夜は銃口を霊夢の胸部に向け、ナイフのグリップを握った。
発射される弾丸は、時が動き出すのとほぼタイムラグ無しで霊夢を貫くだろう。
彼女がその刹那にどんな結界を張ろうとしても、無意味だ。
咲夜は、勝利を確信する。
そして、時は動き出す――
咲夜には、何が起こったのか把握し切れなかった。
発射した弾丸は、霊夢に届かなかった。
――いや、霊夢は、僅かな空間の歪みだけを残して、そこから姿を消していた。
咲夜は、一瞬呆けた後に、悟る。霊夢は、最初からこちらの切り札を出させるために隙を見せたのだと。
そして、天性の勘を以って、こちらが切り札を切る絶妙のタイミングで“亜空穴”を発動させていたのだ。
空間を歪め、瞬間移動を可能にする。時間を止めるよりも奇怪な、霊夢の“タネ無し手品”だ。
時を止めていられる時間が短いことに焦っていた咲夜には、それを発動する兆候である空間の歪みを覚れなかったのだ。
二度、だ。焦りがあったとはいえ、相手の挑発に二度も乗ってしまった咲夜の不覚に揺るぎは無い。
背後で、霊夢が地面を蹴る音が聞こえた。
咲夜の動きが一瞬遅れるその隙に、霊夢は咲夜の懐に切り込んだ。
慌てて時を止めようとする。――が、とまらない。僅かな休息で得られた霊力は早くも枯渇していた。
「っああッ!」
思わず翳した、ナイフを握っていない咲夜の右腕の肘の辺りに、霊夢の刃が食い込む。
駆け抜ける痛覚が咲夜の思考を支配する。霊夢が素早く刃を引き抜き、血液がその穴から噴き出した。
声は上げたがなんとか怯まず、咲夜は左腕でナイフを大きく左右に振り回す。
霊夢は大きく後方に跳躍し、やけくそとも言える斬撃を軽々とかわした。
「残念ね、誘いに乗ったあんたの負けよ。
強引に距離を取ったときから、私には全てわかったわ。あとはあんたが能力を発動させる兆候を出すのを待つだけだった。
切り札を出すには早すぎたわね」
ぼたり、ぼたりと血が滴る。
ぎり、と歯を食いしばる咲夜の足下で、乾いた大地が血液を美味そうにその身に染み込ませていた。
眩暈が咲夜を襲う。真正面の、月明かりに照らされた霊夢の顔が歪んで見える。
この数刻の間に、血を失いすぎたのだ。
この状態では、いずれ参ってしまう。
切り札を喪失し、今まさに命を削って立っていても、咲夜の勝機は既に無いに等しい。
「せめて、1ボムでもッ……!」
咲夜は、もう届かないだろう刃を手に、防御を捨てて霊夢に突撃する。
「諦めなさい」
咲夜が次々と繰り出す斬撃は悉くかわされ、その身体に二つ、三つと傷が増えていく。
吹き出ることは無いが、確実に咲夜の身体から血が失われていく。
そして幾度目かの斬撃、ついに握力を失った右腕が、霊夢の打突に耐え切れず、ナイフを放した。
カランと音を立てたて落ちたそれを、すばやく霊夢が拾い上げる。
武器を失った。手の触覚・視覚・聴覚で捉えたその事実を行動に結びつけるまで、僅かなタイムラグが生じる。
「くっ……!」
素早く――少なくとも本人はそのつもりであった――腰に括り付けてあったスキマ袋に左手を伸ばした。
だがそこから何かを掴み取るより先に、霊夢の右足がその腕を蹴り上げた。
昇天脚。敵を突き上げるように蹴りを繰り出すそれは、霊夢の数少ない肉弾戦の得意技だ。
咲夜の腕が制御を失うと同時に、スキマ袋までもが宙を飛ぶ。
高く上がったそれを手にしたのは、咲夜が動くより速く、“亜空穴”で移動した霊夢であった。
咲夜の正面に着地する霊夢を、咲夜は絶望的な表情で眺めた。
武器は無い。能力は使えない。これ以上咲夜に何をし得るのか。
敗北。咲夜の心にその二文字が重く重く、圧し掛かる。
紅魔の従者として、仕事を果たせなかった。悔しさと、これではお嬢様に見捨てられるのではないかという恐怖が、心の中に渦巻く。
「さ、あんたもここまでね」
思わず両膝をついた咲夜を見下ろし、ナイフを向けてそう霊夢は告げた。
奪ったナイフを左腕に持ち、咲夜のものだったスキマ袋は腰に結わえ付けてあった。
「お嬢、様……」
思わず咲夜の声が漏れる。
何故主の存在を呟いたのか、自分でもわからない。
逃げて下さい? まさか。
助けて下さい? ありえない。
申し訳ありません? それを言って何になるのか。
咲夜が自らすら困惑したその言葉に、霊夢は敏感に反応して慌てて背後を振り返った。
レミリア・スカーレットに背中を向けていた、その不覚に今、ようやく気付いたのだ。
霊夢は、霧雨魔理沙との戦いにおいて、
フランドール・スカーレットの奇襲で敗北に等しい結果を得た。
ここでもまた、十六夜咲夜に対して優位に戦闘を進めても、そして勝利を掴むその直前であっても、
それをレミリアの介入によって覆される可能性があったことを、この瞬間まで忘れていたのであった。
だが、霊夢の一瞬の焦燥とは無関係に、レミリア・スカーレットは、ゆったりとした歩調で霊夢へと向かっていた。
咲夜は顔を上げ、レミリアの表情を伺う。
遠く、月を背負った彼女の表情は、咲夜からでは影になってよく見えないが――
その眼に映るのは氷の世界でないか、と咲夜には思えた。
霊夢の背後で息を切らす咲夜、傷ついた咲夜、それでもなお、主への忠誠を誓い戦った咲夜に――何も、感じていない。
レミリア・スカーレットが近づいてくるのは、決して“十六夜咲夜を助ける目的”ではない。
「ふん、やっぱり人間は使えないわね」
レミリアがそう呟くのが、咲夜にも聞こえた。
「あんたが手助けすれば、もうちょっとまともに戦えたかもしれないわよ?」
「本気で言っているのか、この私がメイド風情を助けると?」
「……そうね、まぁ、そう言うだろうと思ったわ」
「下らない。咲夜は敗者だ。そこに如何な言い訳も不要だろう。
そしてお前が勝者だ。だが、お前は私に殺され、支配されるのだ。世の理は変わらないし、運命は動じないわ。
お前の相手は私が直々にしてやる。手加減など無いと思え」
「そう。まぁ何れにしろ、あんたには死んでもらうけど」
レミリアと霊夢が一触即発の空気の中で会話する、その後ろで咲夜は惨めさに震えていた。
見せたくない相手に、見せたくない姿を晒してしまっている。
どうしたらいいのかわからない。そんな初めて抱く感情が咲夜を襲う。
今のお嬢様は、敗者に情けをかけるようなことは決して、しないだろう。
弾幕ごっこで勝敗を競う遊戯とは、わけが違う。
圧倒的な戦闘で敵を捻じ伏せる事を望む今のお嬢様は――
――咲夜が敗者になってなお、その元に置いてくれるのだろうか?
そんな、疑問を抱いてしまった。あとは、それがただ不安として膨れ上がっていく。
“でも、それでも……お嬢様がいなくなってしまったら、私の時間は止まるしかない!
そんな惨めな時間に……私は戻りたくないから……例え先に何もなかったとしても、お嬢様だけが私の拠り所なのよ!”
誰かの声が、頭の中で反響する。
その言葉は、紛れも無く十六夜咲夜自身が放ったものだ。
用済みだと言われてしまえば、咲夜にはもう、行くところが無い。
自身の不安と恐怖、それはただ一つの方向だけを指している。
だから。
――十六夜咲夜という人間が、紅魔の従者として、まだ出来ること。
咲夜は、“冷静に”考え、それに行き当たった。
その瞬間、咲夜は犬が唸る様な声を上げていた。
レミリアに気をとられ背中を向けていた霊夢の肩が、びくりと跳ねる。
だが彼女が振り返るよりも早く、咲夜は立ち上がり、霊夢に飛び掛ると彼女を後ろから羽交い絞めにした。
「くっ……離しなさい!」
霊夢が呻く。拘束を解こうともがく。だが突然のことに対応しきれていない。
その背中で、咲夜は、決して離すまいと力を入れる。
どこにそんな体力が残っていたのかと、霊夢も、咲夜自身も信じられない気持ちであった。
「さぁ、お嬢様ッ!」
自分の声で無いかのような、しゃがれた汚い声が出た。
全身の筋肉、全ての精神力を以って、霊夢の身体を拘束する。
両肩に腕を絡め、長身である咲夜の体重の全てを霊夢の身体にかける。
武器を失い、体力を失いつつある咲夜が、今考えられる最良の選択だと、少なくとも本人は考えた。
霊夢の白装束が咲夜の身体から出る血で染まっていく。
「さぁ、お嬢様ッ!私ごと霊夢をその剣でッ!」
ただ一つ。主のために生きる、それが自分の存在意義だ。
それ以外の全ての疑問を封じる。それをついさっき誓ったからこそ、自分はここにいるのだ。
それこそが、不安と恐怖と取り除いてくれるのだから。
敗北してなお、例え死が自分を襲おうとも、私は紅魔の従者でなくてはならないのだ――
近づいてくるレミリアの足が、ぴたりと止まった。
その手に握る剣先は、ぶらりと地面を指した。
レミリアは、咲夜に送る視線に、何一つの感情を込めていない。
そして、
――その表情は、怒りと侮蔑の混じったものに変わる。
「――思い上がりも程々にしろ、咲夜」
レミリアの声は、冷たく、苛立ちと怒りが強く篭っていた。
咲夜は、その言葉の意味を一瞬理解できずに呆ける。
拘束が緩んだその隙を突き、霊夢は咲夜を振り払って大きく咲夜の左側に飛び退いた。
咲夜は、それを追えない。レミリアが視線を、自分に突き刺して動かさせない。
霊夢は、動けない咲夜とにじり寄るレミリアの動向を見極めようと、構えを解かぬまま息を整えていた。
「その身を捨てて王に尽くす――騎士(ナイト)を気取るとは勘違いも甚だしいわ」
王たるレミリアの声は、取り繕うことも無く重く、憎々しげだった。
それは、あの河童の骸に投げた声と同じものに、咲夜には聞こえた。
「言ったはずだ、お前は紅魔のメイドで、掃除係。それを弁えろ。
役目を果たせぬならそれを詫び、畏まって面前から去れ。私の戦場に出しゃばるな」
咲夜は言葉を返せない。忠誠は畏怖と同じくして、絶対である主への申し開きなどを出来るはずも無い。
「その醜悪な振る舞いは、スカーレットの名を汚すものと知れ。
本来ならばこの場で貴様の命を亡いものにしてやるところだぞ。
――だが、まさか尚も醜態を晒しスカーレットの名までも貶めるのは流石に望まないな?
浅はかさを恥じ、私の視界から去ね。頭を冷やすまで帰ってくるな。
……そうだな、あの小生意気な天狗と妖精は私が殺すが、それ以外の輩の首の一つでも狩って来い」
重々しく低く響く声。主が従者に対して発した、叱責よりも重い言葉。
咲夜は絶望に近い気持ちを、一瞬なれど、抱く。
咲夜は、形は歪であれど忠誠を誓う従者であれば、自分にはその場所が与えられると思っていた。
それを失うのが怖くて、そう、いつしか、命を失うよりも怖くなって、その位置を保つために身を削っても構わないと思うようになっていた。
だというのに、レミリアにとっては結局、従者とて歯牙にもかけぬ存在であり、彼女は決して、共に闘う部下など望んでなどいなかったのだろう。
――申し訳ありません、お嬢様。咲夜は、お嬢様のお気持ちを履き違えておりました――
だが、敬愛と畏怖を同時に抱く主の言葉に逆らうことは適わない。
咲夜は、鉛のように重い足取りで、一歩、二歩と、その場から後ずさる。
霊夢が襲ってきても対処できる距離まで下がると、くるりと向きを変えて、自身の主の“戦場”から走り去った。
――
――
「さて」
レミリアは、霊夢に向き直った。
霊夢は、咲夜を追うのを既に諦めていた。レミリアは、片手間で戦える相手ではない。
終始優勢だったとはいえ、あの十六夜咲夜と全力で戦った後である。
レミリアと戦い、勝利を得るために、余裕は僅かにも無いのだ。
「あれを敗走せしめたお前なら、私の牙にかける価値もあろう。
お前は決して我が軍門に下るまい。だからここで私が蹂躙して殺す。
――霊夢、紅魔の贄となれ」
レミリアの口端が、にぃ、と上がる。
それは、“あの”博麗の巫女を蹂躙し、自らが勝者になる事への、悦びに他ならない。
「お断りよ、吸血鬼。あんたこそ、さっさとやられちゃいなさい」
うんざりするほど強者と渡り合ってきた霊夢には、相手が夜の帝王であっても一切の怖気が無い。
それが命を懸けた死闘だとしてもなお、霊夢は“博麗の巫女”であった。
「ふん。例え紛い物だとしても、誂え向きの月夜じゃない。でも残念、あの時のようにはいかないわ。
こんなにも月が紅いから、本気で殺すわよ」
レミリアの眼が見開かれ、淀んだ血のような紅から炎のような緋へと色を変える。塗り替えたのは闘争心だ。
“本気”に嘘など無く、“殺す”に偽りなど無い、その瞳がそう語っている。
「こんなに月も紅いのに」
霊夢は右手に果物ナイフを持ち、左手には咲夜から奪ったナイフを握る。
二刀流――だ。不思議と、霊夢は懐かしい気持ちにすら、なった。
吸血鬼は、今にも飛び掛らんと剣を構えている。
霊夢は、咲夜がそうしたように、右腕を上げて刃先をレミリアに向けた。月光は血を照らし、臙脂色の鈍い輝きを放つ。
どちらからとも言わず、しかしそれは台本通りであるかのように、二人は同時に声を発した。
「――楽しい夜になりそうね」
「――永い夜になりそうね」
【D-3 二日目・深夜】
【博麗霊夢】
[状態]疲労小、霊力中程度消費、腕と腿に軽度の切傷
[装備]果物ナイフ、魔理沙の帽子、白の和服、NRS ナイフ型消音拳銃(0/1)
[道具]支給品一式×5、火薬、マッチ、メルランのトランペット、キスメの桶、賽3個
救急箱、解毒剤 痛み止め(ロキソニン錠)×6錠、賽3個、拡声器、数種類の果物、
五つの難題(レプリカ)、天狗の団扇、文のカメラ(故障) 、ナズーリンペンデュラム
支給品一式*5、咲夜が出店で蒐集した物、フラッシュバン(残り1個)、死神の鎌
NRSナイフ型消音拳銃予備弾薬15、ペンチ 白い携帯電話 5.56mm NATO弾(100発)
不明アイテム(1~4)
[基本行動方針]力量の調節をしつつ、迅速に敵を排除し、優勝する。
[思考・状況]
1.レミリアを排除する
2.自分にまとわりつく雑念を振り払う
3.死んだ人のことは・・・・・・考えない
※咲夜が出店で蒐集した物の中に、刃物や特殊な効果がある道具などはない。
【レミリア・スカーレット】
[状態]背中に鈍痛
[装備]霧雨の剣、戦闘雨具
[道具]支給品一式、キスメの遺体 (損傷あり)
[思考・状況]基本方針:威厳を回復するために支配者となる。もう誰とも組むつもりはない。最終的に城を落とす
1. ・・・・・・
2. 霊夢を蹂躙して殺す
3. 文とサニーを存分に嬲り殺す
4. キスメの桶を探す
5. 咲夜は、道具だ
※名簿を確認していません
※霧雨の剣による天下統一は封印されています。
※周囲に落ちている道具:食事用ナイフ(*4)・フォーク(*5)、血塗れの巫女服
――
――
完全で瀟洒な従者、十六夜咲夜は、決して揺るがない。
彼女は、主に突き放されるようにその元を去っても、決して主を恨まない。
動揺しても狂わず、取り乱しても瀟洒で、彼女は“冷静”であった。
レミリアと霊夢の元を逃げるように去って数分、月明かりを遮る木の下に座り込むと、傷に手当てを施した。
膝上までのエプロンドレスも、紅白にまだらに染められて、明かりに照らせば不気味に呪われた、いわく付の呪術飾具にさえ見える。
「お嬢様に賜ったものだけど――こんなにしてしまうなんて」
その境界から伸びる細く白い二本の脚も、細かな傷だらけではあったが、咲夜の興味はそちらには向かない。
失われた血は還らない。いくらか休めば霊力同様に復活するだろうが、それよりも優先されるべきことが、十六夜咲夜には存在する。
手当てが終わると、咲夜は立ち上がり、歩き出す。
目標は無いが、目的は明確だ。足取りは軽くはないが、足を止めることは決して無い。
咲夜は、ほんの一時だけ絶望を抱いたが、決して悲観などしていない。
咲夜は、紅魔の従者という位置を失ったわけではないのだ。
確かにお嬢様はあの時、お怒りになった。
私の浅慮により、お嬢様の望まぬことをしてしまった、ということを今、“冷静に”理解している。
だが、その前――私を労った言葉には、嘘はなかったのだと信じている。
お嬢様は、少なくともその時、私の身をその下に置く事を、許してくださっていた。
“だが、お前は勝った。たった一人で、屈せずに支配した。そこは評価してやってもいいわ。
私に支配される者だけが、勝利を得る。ねえ、咲夜?”
それを私の拠り所とする限り、私はお嬢様の全てを信じ、従わなくてはならない。
支配され、勝利し、評価されるという無比の存在価値を、守らなくてはならない。
それ故に、咲夜は“冷静”に、こう考える。
そう、あくまで前向きに捉えるならば。
お嬢様はただお怒りになった、というだけではなく。
レミリアお嬢様は、私を“死なせないように”“逃がしてくれた”のかもしれない。
私に、“次の指令をこなせ、さすれば元の居場所を与えてやってもよい”と、そう言っているのだ。
私を、少なくとも、失うには惜しいと思ってくれているのだ。
咲夜の歩みが速くなる。
スカーレットの家名を汚すことは出来ない。汚名は濯ぐためにある。
体中の痛みは、咲夜の行動を否定する理由としては余りに小さい。
武器がその手に無いことも、真に“冷静”な彼女にとって、大きな意味を成さないことだ。
夜霧の幻影殺人鬼は、あらゆる手段でその敵の命を刈り取ることを考えなくてはならない。
或いは――自身にそれのできる方法があるかは未だわからないが、冬妖怪のように自らの身体を失うことによって手に入る武器が有るかもしれない。
主に加勢する事も、霊夢の隙をついて殺すことも、紅魔の従者の選択肢には無い。
いずれにしても、だ。咲夜は極めて聡明で忠実な従者であり、また極めて“冷静”あるから、その結論は恐らく、揺らぐことは無い。
「――仰せのままに、首を一つ狩って参ります。それまでお待ちくださいませ、お嬢様」
【D-3 二日目・深夜】
【十六夜咲夜】
[状態]腹部に刺創(手当て済み)、左目失明(手当て済み)、右肘に刺創(処置済み)全身に軽度の切傷
[装備]個人用暗視装置JGVS-V8
[道具]なし
[思考・状況]お嬢様に従っていればいい
[行動方針]
1.お嬢様の命により、首を一つ狩ってくる
最終更新:2012年01月01日 10:27