灰汁の垂れ滓も空目遣い ◆KZj7PmTWPo
朝焼けの三角地帯を、犬走椛が急き立てられたかのように疾走する。
どれほど走ったのかも分からなければ、どれほど自問自答したのかも分からない。
周囲を見渡し警戒し、察知すれば迷わず遁走する。何も考えず、とにかくだ。
無我夢中はいい。余計な物事を考えずにすむからだ。その時ばかりは、この境遇や仕打ち、仕出かした所業さえも全て忘れることが出来る。
だから、ひとたび足を止めると考えずにはいられない。
――それは陽気な笑顔が一瞬で苦痛に歪む様や、哀願する双眸と共に血溜まりに沈む姿であったり。
その度に振り払う。仕方ない? 自分は悪くないって?
……それすらも判断できない。
不甲斐無さを何かに転嫁出来るなら、一体どれほど気が楽になれるか。
少なくとも、嫌に生真面目な犬走椛には出来ぬ芸当だ。
彼女は哨戒天狗。
幻想郷パワーバランスの一角を担う妖怪の山が、彼女達下級天狗の哨戒場所だ。
椛は下された命令に違反したこともなければ、定めれた規律を破ったことも一切ない。
誤魔化せる失敗や不備があっても、馬鹿正直に申し出てはお叱りを受けるほど潔い天狗なのだ。
堅実な部分で一部上司や仲間に煙たがられることもあるが、協調性が良いことで比較的好かれやすい人格をしている。
少なくとも、暇を持て余す長寿の妖怪の中では、日々を忠実且つ正直に過ごしていると言えた。
そんな実直で勤勉なところを美点の一つに数えてもいいものだが――この展開では邪魔でしかないのかもしれない。
苦悩を割り切れずに不調を来たす気質など、この殺し合いの最中では正に足枷なのだから。
だから彼女は遮二無二走る。陰鬱になる気分を、無理やりとは云え一時的にでも払えることを期待して。
椛のそれは、果たして目的地を定めぬ向こう見ずな行動なのか。……一見するとそう見えるだろう。
だが、それは闇雲ではない。実は、“誰とも”遭遇しないよう正確な道順を辿っているのだ。
事実、あの出会いを除けば深夜から早朝にかけて誰とも遭遇していない。
――何故か?
これは運の良し悪しでもなく、視力や嗅覚が特別優れているからでもない。
それ以上に頼りになるものを――彼女が持っていたからだ。
「……反応なし。こっちだ」
面を俯かせながら一度足を止めていた椛は、弾かれた様に再び走り出す。
彼女が握るのはフィールドマップ。そして、もう一方に長方形の小箱のようなもの。
――長方形の平たい小箱。当初は椛も単なる変わった装飾の小箱だと思っていた。ところが、付随された説明書の内容には目を見張ったものだ。
曰く、各々に取り付けられた首輪を探知する道具だそうだ。
正面に備わったプレートの中央には緑の光点が一つ。恐らく自身の首輪を認識しているのだろう。彼女が移動すれば画面ごとずれることから、そう解釈しても間違いはない。
現在の光点は一つだが、近くに別の首輪があると光点が増えるのだ。実際に何者かがその方角に存在したことで、それは実証済みである。
一介の哨戒天狗に過ぎない椛でも、大将棋仲間で機械弄りが好きな者との接点から、機械装置という便利な道具が確かに存在していることは認識している。
そしてこの箱が、その便利アイテムに該当するということもだ。
――即ち、この長方形の小箱は首輪探知機。大雑把に此度の参加者の位置を割り出す優れものだ。
縋るべく藁を見つけた時、椛は柄にもなく声まで出して喜んだ。
仲間を早期に発見できるからではない。敵の居場所が容易に掴めるからでもない。
――誰彼との接触を安全に回避できると思ったからだ。
顔見知りもいる。上司だっている。
だが、少しでも向けられる危害から遠ざかりたいがために、彼女達とも極力会いたくはない。
どんな悪意が自身に降り掛かるともいえない状況で、何者かと迂闊に接触するのを椛は恐れていた。
親しかった友が突然裏切ったら? 上司にあっさりと切り捨てられたら?
例え再開したとしても、脳裏を掠めるのはこのような懐疑的なことばかりなのだ。
傍にいるだけで神経を注がなければ心の安定が保たれないこと請け負いであり、こんなことにまで哨戒の時のような緊張感と向かい合って精神をすり減らしたくはない。
端的に言って、信用できないのだ。凡そ意思を持つ存在の全てが。
椛が疑心暗鬼に陥った理由はこうだ。
――仕事柄で責任感が強いと思っていた自分でさえ、己の命のためならば他人を簡単に見捨てることが出来ると理解したから。
実感のある椛には、他人が裏切るのも止むを得ないと納得していた。
事実、必死に伸ばされた懇願の手を、自分可愛さに椛は振り払ったのだ。
勝手に見切りをつけ、コイツはもう駄目だと、コイツはきっと助からないに違いないと自分勝手に諦めた。
――充満するのは罪悪感。吐き出すことも叶わず、しこりという汚濁がいつまでも椛を苦しめる。
それを転嫁できないのだ。何時までも付き合うしか方法もない。
従って、彼女が考え付く限りで最適だと思ったことは、症状を今以上に悪化させぬために行動することなのだ。行き着いたのが、人付き合いの断絶であった。
要は不安材料である馴れ合いという前提を、始めから失くしてしまえばいい。
無論、それは問答無用で殺し回るということではない。
椛にそのような度胸もなければ、圧倒しうるだけの戦力もないのだ。
よって、彼女が取るべき手段はただ一つ。
――徹底的に逃げ回る!
腐っても哨戒天狗。いまいち精度が優れないとはいえ、非凡な眼力――千里眼だってある。
極め付けが首輪探知機だ。
これだけ逃走に便利な要素が揃っていて、逃げ切れないはずがない。
フィールド中を駆け回りながら引き篭もってやる。そう言わんばかりに、椛はこの幻想郷を逃げ回ることに決めたのだ。
殺し合いに賛同する妖怪を阻止するだの、主催者に歯向かってゲームを台無しにしようなどという崇高な使命なんぞ及びも付かない。
所詮組織では下っ端妖怪に過ぎない椛には、大物妖怪のような開き直る厚かましなど備わってはいないのだ。
できることなど高が知れている。
知れているほど些細なら、いなくとも惜しまれやしない。
なら、雑魚は雑魚なりに誰にも気づかれない様細々と、この殺し合いが終わるまで雲隠れだ。
最終的なことは後回し。死なないことだけを、生き延びることだけを今はひたすら考える。
「……っ」
――目の前のことだけを考えている内は、少しは罪悪感の存在も忘れることが出来るだろうか。
肩に担いだ二つ目のデイバックに視線を寄せる。苛む負い目からか、それはまったくの手付かずである。
妖怪なら楽に運べるそのデイバックが、何故だかやけに重たい気がした。
【D‐2 山間地帯・一日目 早朝】
【犬走椛】
[状態]良好
[装備]首輪探知機
[道具]支給品一式×2、ランダムアイテム×(2〜5)
[思考・状況]基本方針:誰とも遭遇しないよう逃げ回る。
1:探知機を駆使して、とにかく逃げる。
[備考]
首輪探知機の効果について:
有効範囲は半径200メートルです。範囲内に首輪の反応があれば、画面上に光点が表示されます。
画面はグリッド線が引かれた程度の大雑把なものであり、位置の方角が分かる程度です。
死んだ者の首輪には反応しません。
最終更新:2009年06月11日 18:33