なんだここは
+ | プロローグ |
当然のことを言おう。全てのウマ娘が、レースに挑むわけがない。
環境が、適性が、あるいは素質が、はじまりの物語を添削していく。消えていく文章もあれば、描写の欠片もない表現がある。 それでも、彼女たちは走っている。夢か、使命か、あるいはただ速度の世界に身を任せるためか。分かるのは、彼女たちは走っている、その一点の事実。 全て彼女たちの物語は、原体験を序文とする。そして、ここにも一つの小噺。
何かの導きで、彼女はどこかの世界の誰かの名を借りた。
「アドマイヤラプラス」。2通りの歴史を結びつける名前を得た少女は、まず不幸から距離を置かれながら育った。 子は親に似ると言うが、彼女の場合はその通りに進み、「静」か「動」で言えば前者となる、そんな性格に向かっていった。
転機は唐突に姿を現す。
とある原体験が、ラプラスの人生の道を馴らしていた。 白雲交じりの青い空を天上に置き、恵みを超えて害となりそうな日差しを浴びて、ターフの翠を走り抜ける18人の少女。5月とは思えない記録的な猛暑の中、とあるダービーを、彼女はテレビで見ていた。 決着がつく。両親の勝者への賞賛も、テレビ越しで聞こえた歓声も何もかも、具体的なそのままの記憶は時間が流していった。 そして、「何か」の種だけが、まだ幼い心に引っかかり、発芽に向けて眠り始めた。
小学生になるころ、彼女には愛読書が出来ていた。『トゥインクルシリーズ年鑑 20XX』。レース情報を、インタビューを、データを飽きることなく見た。手あかのついた表紙の本を持って、友達に、家族に、内容を伝えようとした。
知識と年齢を重ねるたび、古今東西のレースやスターが彼女の脳内に記憶されていき、しばらくすれば「レース博士」の名前が教室の共通認識に変化した。 幸運が更に埋もれていた。ウマ娘は人間をはるかに超える力を持つ。そして彼女は、校内という小さな枠の話ではあったが最良の能力を備えていた。 「もしかしたら、ラプラスちゃんってトゥインクルシリーズでも頑張れるのかも!頭がいいし、とっても早いし!」 「そしたらみんなでダービーの応援に行こうぜ!」 クラスのふとした熱気が持ち出した夢想に、彼女はこう返した。謙虚さではなく、本音である。 「いやいや…流石にそこまでは、ねえ?」
物語は、時々思わぬ転回を成し遂げる。
「ラプラスちゃんも考えてみたら?トレセン学園」 友達と遊んでいたときのこと。友達がこんなことを急に切り出す。実のところ、聞きなれた話だった。 「えっと…確かに学校の中では一番早いって自信はあるけど…でも中央ってすごく強い人たちが集まるんだよ…?流石に…」 「そんなことないよ、ラプラスちゃんは強いじゃん。レースが好きでしかも強いなら、きっと大丈夫だよ!」 友達の声が完全に本気と言うわけでもないのは、ラプラスには察することが出来た。 それでも引っかかるフレーズ。「好きでしかも強いなら、きっと大丈夫」。走ることも勝つことも、嫌いという感情から飛躍している。もしかして、行けるのでは。
一つ芽生えた野心に従って、ラプラスが母親にある相談をしたのは、翌日のこと。
「トレセン学園の見学に行きたい」と。
さらに暫くの時が経って。
「なぜあなたは、この学園に入学を希望しているのですか?」 面接官の定型通りの台詞に、彼女は、定型通りの台詞の体裁を取って、本心で返した。 「昔からレースを走る選手たちの姿を見て、強い憧れを持っていたからです」
安穏とした序文が終われば、後は本伝が顔を出すだけだ。
|
+ | 担当との出会い |
トレセン学園の練習用グラウンドには、数日前からいつも以上の賑わいが姿を現していた。
選抜レース。定期的に開催される、ウマ娘たちによる模擬レースである。ここで好成績を上げれば、好成績を残すトレーナーからのスカウトを受けやすくなるし、逆に自分から売り込みに行く支えともなりうる。 選抜レースは春に最も頻繁に行われる。そのため、このころのグラウンドは、ある時は時代の帝王、またある時は稀代の女王とそのトレーナーとの物語の第1章に、たびたび姿を現してきた場だ。
一人のトレーナーが、そんなレースの様子を見ていた。この頃では普遍的な光景であった。
彼は若いながらトレーナーとしてなかなかの経験と実績を得ており、名の知れる人物に脱皮しつつあるとはいえ、向こうから売りこまれるほどのネームバリューにはまだ欠けていた。そのため彼が古い呼び名での名伯楽-優秀なトレーナーになれるか否かは、ここでのスカウト眼も大きく左右しているのである。 様々な条件に、様々な素質が見えてくる。時代に押し流されるか、時代を彩るか、あるいは時代そのものを作り出すのか。勝利したウマ娘だけではなく、今後伸びそうな子も含め、トレーナーは出走表にメモを付け、検討を繰り返していた。
「角度を変えるか」
観戦席を少し替えようと思ったところで、彼の視線はコース脇に立っているウマ娘の姿を不意に知覚した。比較的珍しい栗毛の長髪をポニーテール、つまりウマ娘の尻尾のようにまとめた髪形が、自然と印象に残る。 次の出走グループの一員ならすでに集合しているはず。となれば、レースの観戦中と考えるのが自然だろう。それにしても観戦に集中しているのがわかりやすい。 なんとなく浮かんだ興味のまま、他のトレーナーに話を聞く。 「あの子か?あいつはアドマイヤラプラス、初期レースでも好成績を上げて、結構期待されてる子なんだってさ。まだ所属は決まってないし、ちょっとコンタクトしてみるのもいいんじゃないか?」
「おーい」
「……」 ひとまずの呼びかけは、反応で報われなかった。 「聞いてるかー?」 「……」 再度も同様。これから始まるレースへの集中が強いものと見える。 「…」 トレーナーは、後ろから彼女の肩をトントンと叩いた。このご時世だとセクハラ扱いも多少ありえそうではあったが、幸い少女はその手の行為を気にしてはいなかった。 「あ…こんにちは」 思いの外柔らかい声が返ってくる。 「悪いな、急に話しかけて」 「構いませんよ。それよりレースが始まります」
そうして彼女は、視線をグラウンドに戻した。すでにスタート地点には、10人ほどの期待の種が出そろっている。すぐにレースの話題に切り替わる当たり、やはり集中している模様だ。
「見たところ、4番が行けるんじゃないか?体の筋肉の付き方がいい」 「確かに魅力的ではありますが…私は11番の子がいいのでは、と。先週の選抜レース、見てたんです」 「ふむ…だが、前回の選抜では思うように逃げれなかったらしいぞ?外枠は逃げには不利だろうし」 「だからこそ、かえって他の子が予測しづらくなるのでは、と。それに事前のレースを調べてみたら、ほかに逃げを打ちそうな子もいませんでしたからね。あ、4番の子がその次に有力ですね。計算通りに進めばスローで前が残ります」 「…まあ、ひとまず始まってみないとわからないだろう?」
結論から言えば、確かにラプラスの予想通りだった。外枠のメリットによりある程度フリーに動くことが出来た11番はそのまま先頭に立ち、ややスローのままでレースは進行。終盤で前目に付けていた4番が足を伸ばすも、どうにか粘り切ったのである。
「なるほどなあ…相当正確な読みだな?」 「昔から見るのは好きでしたから。今もですが…と、そろそろ順番が」 「おう」 そう言って彼女は、自分自身の走りを見せつけに向かった。読みが正確でも、絶対的な能力を示さねば、今後が明るいとは言えない。それは共通認識であった。
選抜レース、この日7度目のゲートが開く。ため込んだ意欲の解放を現象で表すかのように、12人が一斉に走り出した。
彼女は走り方を決めていた。ゲートが開いた瞬間、先団であっても先頭にならないほどに加速。そのまま2番手で様子をうかがうことにした。 観戦していたトレーナーたちの視線が向く。安定して前に取り付ける加速力と速度に加え、走る意欲を抑えることもできる冷静さ。やや地味ではあるが、陰りの無いレースが展開される。 その後も、理想的な走り。芝の荒れていないギリギリまでインを突きながら4コーナーを加速しつつ一気に先頭に立ち、そこからスピードが緩まる雰囲気もない。理想的な抜け出しだった。 「あれは行けるね」「ええ、能力もセンスも申し分ないわ」
(行ける。思ったより…行けるのかも)
絶対的な能力の差が大きいとはいえ、昔から見てきた強い勝ち筋を実践できた。トレセン学園は雲の上だと思っていたが、意外と……いけない、自信過剰。まだまだ入学したて、謙虚に謙虚に。 そんなことを考えて、最後の勢いを振り絞ろうとした、瞬間のことであった。
「私は!勝つんだあああ!!」
そんな掛け声を幻聴するような(現に当の本人も心中でそう叫んでいたらしい)勢いが、感覚の右後方から迫ってきているのを、ラプラスは感じた。 スピードをさらに上げろ。上げろ!押し切れ! その脳内の言葉が全身に行きわたるより早く、脚が必死に動いた。 しかし、数秒で急変した大勢が最早覆しようのないものであったことを、観戦していた者は驚愕しつつも認めざるを得なかったのである。
大外から雷のような追い込みを決めたウマ娘が、この選抜レースの勝者として記録される。
その走りは、観戦者の注目を一瞬にして移すほどに強烈だった。強い2着を、それ以上に派手に1着が塗りつぶしたのである。
「レースに絶対はない…なんてのは当たり前か。おめでとう」
一人呟きながら、勝者の喜びの声を背景にして、ラプラスはグラウンドの出口に水筒を取りに向かった。 一人のトレーナーが、その背中に視線を送っていた。
その日の選抜レースの日程が終わって数時間。
トレーナーが先ほどまで視線を向けていた少女を再び発見した地点は、校内の図書館であった。ラプラスの呼んでいる本の背表紙には、「炎天」の字。英国の伝説的なウマ娘の回想録のタイトルである。 「奇遇だな」 「…そうですね」 返す言葉はその程度である。信頼関係の構築と言っても、現状はまだそれ以前の段階なのだから何ともしがたい。 数秒間の無言を挟んで、トレーナーは話題を変えてみた。 「今日の選抜、惜しかったな。いいレースだった。あれだけの走りができるなら来週はいけるよ」 「ああ、ありがとうございます…でも、あの子もすごかったです。観客として見てみたかったなーって。だってほら、あの勢いの直線一気なんて、見てて爽快じゃないですか」 「実際そうだったが…負けて悔しい、とかはないのか?」
予期せぬところを突かれたような顔を一瞬みせたのち、ラプラスは答えた。
「んー、それはもちろんありますけど…あまり感覚に上がってこないなー、というか。昔からレースを見るのは大好きだったんですけども、自分がその立場になるのに慣れてないのかなー、なんて」 「なるほど」 「それに、あの子も頑張ってましたし。それはもう手放しに誉めることしか、私にはできないと思うんです。それよりあの追い込み、すごいですよね。何度もビデオで見てます。いやー、本当に楽しみだなあ…」 声に1ファンとしての興奮の因子が入り込んでいるのを、聞き手は感じていた。
好みが高じた巧みなレース眼。レースセンスは知識と穏やかさとの兼ね合い。それに基礎能力の高さが付随するのだから、確かに逸材である。
一方では、やや闘争心には欠けるところもなんとなくトレーナーには読み取れた。スポーツマンシップとも少しズレた、やや他人事のようにレースをとらえてしまう感覚、とでも言うべきだろうか? 果てしない勝負への熱意が、結果を大きく揺るがした例は数知れない。彼女がさらなる成長を遂げるには、そこを学ぶ必要も出てくるだろう。では、そのことをどう伝えるべきか…
トレーナーは思い出す。彼女がレース展開を当てていた時、前回のレースを参考にしていたことを。
ラプラスのいる机の上を見ると、積み上げてある本たちの一番下に、昨年度版の「トゥインクルシリーズ年鑑」が置かれていた。その上には「中山レース場勝利データ統計」、「走行スタイルと勝敗の因果関係についての論文」…… 「もしかして、データを集めるのが好きなのか?」 「お、分かってくれました?子供のころから見続けているうちに、気づいたらこの年鑑が愛読書になってまして…こうやってデータを集めてるといろいろわかってきて楽しいんですよね」 彼女の少し上がり調子の声の後、トレーナーからの疑問。 「そのデータ、自分のレースのために使ってみるってのは?」 「…自分?」 「そう、データを使えば、相手の情報やレースの傾向を読み取って勝ちに行けるかもしれない。ってこれは当たり前か…」
数秒間閉じていたラプラスの口が、再び開く。
「いや、よく考えたら確かに使えますね…気づかなかった…」 「気づかなかったか…ともかく、自分がレースに参加するって感覚を持つだけでも、だいぶ変わってくると思う」 「…自分が?」 「ああ、君がレースというものをこよなく愛してるのはわかるが…君はファンじゃなくて、ファンに夢を見せに行く立場に変わっていく必要があると思う」 「見せに行く立場……なんか、どうしようもない行き止まりに来ちゃった感じがしたんですけども」 「まあ、気負い過ぎることはないよ。君の能力なら、いずれは…ね」
トレーナーは話を続けた。
「それと…君は気づいてないかもしれないが、最後の坂でやや減速していた。あそこを一気に登り切れれば、よりいい走りになるかもな」 「へー…」 今度は何とも言えない反応。一応筋トレの内容を伝えた直後、彼女が急に話題を提示してくる。 「そういえば、このあたりに出してるはちみつの移動販売車、っていいところ」 「お、あのはちみーの店か?俺が前に教えてた子も好きだったぞ」 なるほど、といった顔の後、また話が変わる。 「あ、あと今日の夕食って…」 …思ったよりマイペースな子だ、と思うトレーナーであった。
それから一週。先週と同じように、この日も選抜レースが行われていた。
トレーナーが観客席に姿を現すと…そこにはラプラスの姿もあった。最初に見たときのように、耳を立て、コースをじっと見つめている。 「行けそうか…と、集中してたな、頑張れ」 そう言って少し離れた席に移動していくトレーナーは、彼女が単にぼーっとしていただけということに気づいていない。 もっともそれを見抜けた人の中に、前日までデータを分析し続け、勝ち筋を完全に見つけた結果の疲労気味と退屈…そして一種の冷静さだと感じれる人は幾人だろうか。
少し時間が過ぎ、第6選抜レースの4番ゲートに、彼女の姿はあった。
(今回はこれまでの選抜ですでに勝利した子も、勝ち切れなくとも好成績を見せた子も多い。メンバーは強豪、でも戦術は手の内にある。あとは…) 走るだけ。 賽は投げられた。
数人がまず先頭を争う中、5番手前後でやや落としつつ追走。今回は逃げに出る子が多いだろう。無理に前を狙うより、好位置を見つけて直線で足を伸ばす。ここまではまず彼女のプラン通り。彼女は勝利のため、昨日はあらゆる勝ち筋を研究していたのである。
そのままレースは進み、計算通りなら逃げる4番が流石に減速してくるころ…の、はずだった。
(垂れてない!途中で若干息を入れることはできたけども、それにしても加速するくらいの勢い…だいぶスタミナを上げてきたね) 勢いそのままに逃げる4番は、さらにスピードを上げ、初勝利の栄光を逃げ切りで掴む。そしてこの勝利が、彼女の物語の1章の結末を大々的に飾る…
相手がアドマイヤラプラスでなければ、そんな展開もあったかもしれない。
(成長分をプランに組み込んでおいてよかった。やっぱこの時期のウマ娘の伸びは早いなあ) 4番の勢いが衰えないと見るや、ラプラスは当初の予定より早い位置で加速する。彼女の4コーナーでの蓋を狙ったコース取りのおかげで、後方の差し、追い込みの有力者たちは抜け出し切れていない。 中央をまっすぐに駆け抜け、差を広げ、同時に詰める彼女だが、4番もまだまだ意地を見せる。計算の上では追い抜けるが、いざ走ってみると意外に先が見えてこない。
(脚は痛んできてる気がするし、喉もカラつく。全力で走るのってやっぱ疲れる)
(…私は当事者。選抜であっても、これまでに見てきたいろんな子たちと同じ、「勝負」の土俵に上がってるのは確かなんだ) (追い抜きたい。勝ちたい。私だって、ずっと見てきたような世界に足を踏み入れたいって願ったのは確かなんだ) (未来の主役ってやつ、必ず勝ち取ってやりたい)
(とりあえず、今回の主役は…)
(ここだよ!)
加速度は緩まぬまま、ラプラスは勝者の景色を体感した。計算通りのレース展開が、この日の記録に刻まれることになる。
(…あれ、意外と私、こういうのに熱かったのかなー…) それが天性か、はたまた後天的な素質かは、少なくとも我々のあずかり知るところではない。
「お疲れ。改めていい走りだったぞ」
「アドバイスが役に立ちました。いやー、前もって走り方を決めとくと楽ですねー。そんなことより今日のおやつは…」 途端、トレーナーの視線が強くなったことを、ラプラスは察した。
「…勝つの、楽しかったか?」
「そりゃあね、負けるよりは楽しいに決まってますけど」 「まあ、当たり前か」 そんな他愛ない会話の後、トレーナーは本題を口にする。 「なあ、こいつは提案なんだが…」 「勧誘でしょ?もちろんお受けします。恩は返さないと気分が悪いですからね」 「恩?先週の図書室の事か?」 「そうですそうです。教えていただいた筋トレのおかげで最後加速出来てましたし」 「あ、そっち…と言うより、きっちりやってたんだな、アレ。ともかく、これからよろしく頼む」
…物語がひとまず始まる。
結末に光があるかどうか、まだ知る者はいない。 |
+ | 難敵現る |
「おー!載ってる載ってる」
トレーナー室のソファを音源に、比較的珍しく興奮気味なラプラスの声が部屋を流れた。目線が捉えているページには『新時代のスターは誰だ?ジュニア級特集!』の文字が踊る。 夏のジュニア級重賞の上位陣に、デビュー戦を圧勝した新星。さらに、未デビューながら公開練習で才能の片鱗を見せる名門の令嬢の名前も。 それらの文字列の中に、メイクデビュー、アイビーステークスと2連勝を飾った彼女の名前も刻まれている。
「いやー、毎年の楽しみだったジュニア戦特集の雑誌に自分の名前を見ることになるとは…この世は何が起きるかわからないですねぇ」
「そりゃ、良かったじゃないか」 「…微妙に反応薄くないですか?」 「嬉しいのはホントだぞ?この手の感情があまり出ない質でね」 書類整理中のトレーナーが片手間に発したような声を聞きつつ、ラプラスは記事に目を凝らした。 「今年の主演候補も豪華、とはいえ相当数が気づけば忘れられるのがこの業界の悲しみ…」 俗に言う「単なる早熟」の蔑称は誰しも避けたいものである。殊に、その手の声をファンとしてよく見かけてきた…場合によっては自分自身でもそう評価することがあったラプラスにとってはなおさらのことだった。 贅沢な話かもしれないが、できればこの2連勝が出発点でありたいと考えながら、ラプラスは雑誌の文字に目を走らせた。
めくった数ページの先、姿を表す『注目!クラシックの登竜門、東スポ杯』の項。2つの名前に、彼女の目は引き止められた。「アドマイヤラプラス」、そして「グロリアスブレイズ」。
「やっぱり気になるよな」 「一回負かされた子ですから」 ラプラスの初めての選抜レースに際し、完璧なレース展開を豪快な末脚で叩き壊した少女の名前が、そこにはあった。 夏のデビュー戦をレコードタイで制したものの、札幌ジュニアステークスはハナ差2着。 とはいえその実力は世代の中でも頭一つ以上飛び抜けており、対戦相手のレベルを考慮すれば恐らく相手は彼女一人だと、ラプラスもトレーナーも予想していた。 「すごく明るい子で、努力も怠らない実力派…相手じゃなきゃ素直にファンとして向き合えるんですけどね…いや今もファン兼友達だと思ってるんですが」 「対戦相手のことを気に入るのは悪くないしむしろ良いことだとは思うが、それでも彼女がライバルであることには変わりない。いい意味での敵対心を持ったほうがいいだろうな」 「はーい」 雑誌がソファーの上に置かれる。ラプラスの脳内のイメージが、一週間後の強敵の姿を迎え撃つ、東京1800mコースの俯瞰図に変化した。コースは前回と同様だが、相手が飛び抜けている。勝利のビジョンと同時に、破壊的な速度が外からこちらを追い抜く光景が思考内に浮かんだ。 後者はなんとしても避けたいところではあったが、前者よりそちらの方が画的には映えそう……と、彼女はふと思って、直ぐに思考を戻した。
11月第3週、東京レース場地下バ道。
「やっぱり、緊張する?」と、栗毛のウマ娘が、出口の直前に立ち止まり、外の風景を眺める黒鹿毛のウマ娘…グロリアスブレイズに話しかけた。 「正直、ここまで来ると緊張しっぱなし。無事に走れるか、負けないかどうか、勝ててもライブでうまく踊れるか、色々考えちゃうかな。ところで、そっちは楽そうだね?やっぱ負けてないから?」 「割と緊張してるよ?それでも、こういうのは見た目に出さないのが一番カッコいいからね」 「…うーん、なるほど?」 本心かどうか測りかねる発言に、一瞬だけブレイズの心の集中が解ける。 なお、ラプラスにも緊張感はあるのだが、この段階では彼女の天性の穏やかさのが均衡で優勢を保っていた。
ブレイズの両頬が、彼女自身の掌によって軽く叩かれる。一旦軽量になった心に、強い闘志が宿るのを彼女は感じた。軽めの深呼吸の後、
「私は絶対に勝つ!今日のセンターは私だよ!」 明日のヒーローが生まれる場、時代の主役のオーディションに向け、彼女は歩き出した。 この場のもう一人がその背中に送った「かっこよ」という声は、相手に聞かせる意図が無かった。
「現在人気を二分しているのは5番アドマイヤラプラス、7番のグロリアスブレイズ。実績、パフォーマンス、そして現在のバ体の良さも抜けた存在と言えるでしょう」
「さあ、全員ゲートイン。クラシックの登竜門、目指せ来年の主役、東京スポーツ杯!」 「スタートしました!出遅れなく各ウマ娘きれいなスタートを切りました。まずハナに向かうのはやはり4番…」
ラプラスのレースは計画通りに進んだ。スタート後にやや外を通り、前から5番手の位置につける。直線の長い府中では、やはり積極的な逃げは誰も狙わず、好位置での仕掛けを狙って追走していた。期待通り、前残りになりそうな雰囲気である。
向かい側の直線ではまだレースは動かず、加速のため息を入れておく。 後方を見れば、やや外を通ってブレイズが追走しているのを確認できた。
迎えた最終コーナー、勝負が始まった。コーナーのやや外目をついて、ラプラスは速度を上げた。後方を追走するブレイズは更にその外から向かうが、これはラプラスの計画通りだった。
差し型のブレイズではあるが、かと言って極端な直線勝負をかけてくるタイプでもないだろう。コーナーで加速して位置を上げ、外に持ち出して来る、とラプラスは予測した。ロスが大きくなるが、彼女の末脚に速度を最大限引き出せるバ場の外側という条件が合わされば、十二分に埋められる損失だろう。 しかし、それでもロスはロス。ラプラスは内側を最大限加速しつつコーナリングし、二番手周辺から直線に臨む。 坂の手前で再加速すると、周囲の光景が早送りで後退していく。計画通り、お手本のような先行抜け出し。
それでも、ラプラスは安心できない理由があった。外側の、こちらも予定通りレースを進めていたブレイズの存在を知っていたからである。
実際、ラプラスは札幌ジュニアの段階での彼女のデータを集計し、そこから更に能力を上げてきたとしても押し切れるであろう走りのためにトレーニングを重ねており、そのプランをほぼ狂いなく進めていた。 つまり、ここから差し切ってくるとすれば…彼女との能力差はこの時点では埋めがたい物であるという現実が、そこにあるということである。
風の切れる音が、聞こえてきた。
「先頭アドマイヤラプラスまだリードを保つ、大外からグロリアスブレイズ!グロリアスブレイズが迫る!アドマイヤラプラスまだ粘るがグロリアスブレイズが飛んできた!両者並んでゴールイン!僅かにグロリアスブレイズ体勢有利!最後差し切ったかどうか!」
「うーん、あのまま行けるはずだったんだけどな〜…やっぱ実力の差ってやつかなあ…」
「でもラプラスだってすごく粘ってたじゃん。行けたかな、でもギリ無理だったかな…って、判定中心臓バクバクだったよ」 ブレイズをセンターに迎えたライブは盛況のうちに終わり、つい数時間前の激闘が遥か昔に思えるような穏やかな会話が、ライブステージの袖で交わされていた。心理的な余裕が強かったと言っても、相手の健闘を称える事を、二人共熟知していたのである。
「とにかく、重賞おめでとう。でもこの次…ホープフルはこっちがもらうからね。なにせ中山、前目につけた方が強いし。勿論、私ももっと研究して確実に勝ちに行くつもりだからね」
「むむむ、そうは言ってもこっちには勢いがあるし。次勝つのも私!今度は5馬身くらいつけてやるし!」 「いや流石に次は私。そっちの得意な府中でこの差ならパワーと脚質の差でこっちが優勢だし?」 「いやいや私が…」 そんな仲睦まじい張り合いもやがて終わる。 何を言っても、一ヶ月後に力で証明すれる他無いのだから。
「まあそういうわけでまた今度…あ、そうだ。折角だしなんか甘いもの食べてかない?」
「ふむ、名案につき採用」 ブレイズの提案にラプラスは同意する。ライバルの対決が終われば、そこには友人同士がいるだけである。 「じゃあとりあえず控室に戻って用意だね。あ、そっちのトレーナーさんの許可ってどうだろ?」 「多分問題なし。羽を少し伸ばしても怒られることはないでしょ、多分」 「なるほど、じゃあ一時解散!準備できたら関係者入口前集合ね!」 数十分後の楽しみに向け、二人は袖の出口へと歩き出す。
ふと、ラプラスの脚部の神経系が、脳にある違和感を伝えた。それに堪えられず、体が自然と立ち止まる。
「ん?どうかした?」ブレイズが疑問を発する。 「足首のあたりにちょっと痛みが…」 「え、大丈夫なのそれ?とりあえず医務室に行ってみたら?」 「たぶん平気なやつ…あーでも一応行ってみよ…」 「歩けそう?駄目そうなら肩借すよ?」 「そこまで悪くはない…かな」 このことが後々に影響するかもしれないが、少なくとも、今日の残りの時間の計画には巨大な揺らぎが生じたのだと、ラプラスは感じ取っていた。 |
+ | 冬の幕間 |
「筋肉への短期間のダメージの蓄積による炎症ですね。折れはしていませんし、屈腱炎や軽靭帯炎の兆候もありません」
しかし、と挟んで、トレセン学園所属の医師は警告する。 「踏み込みが相当に強いのでしょう。体の成長はまだ続くでしょうが、現段階でこれだけの負荷がかかれば…とにかく、トレーニング中もレース中も負担のケアが必須です。無理はしないようにしてください。幸い脚部に特段弱さがあるわけでもありませんし、シニアには改善されるかと思います」 医師は付け加える。 「あと、これは私の考えですが…朝日杯やホープフルは避けた方が良いと思います。疲労を取り切るためにも、来年以降の始動にした方が確実でしょう」 彼の言葉が誠実でありつつ、しかし覚悟を要求するものであることを、聞き手二名…ラプラスとそのトレーナーは察していた。
『アドマイヤラプラスは脚部疲労のためホープフルS回避の見通し』
練習用ダートコースの砂煙がおさまる。この日二本目の走り込みを、ラプラスはちょうど終えたところだった。
「タイムどうですかー?」 「変化なしー!」 ダートコースの始点と終点から、そんな声が聞こえてくる。状況が状況であるため、ここのところラプラスの練習は負担を抑えることのできるダート中心である。 「うーん、変わってないかあ…フォームは意識してるはずなんだけど」 ここのところ、彼女の成長は今一つ伸びを欠いている。脚の問題の知識が無意識に枷となっているのか、あるいは純粋に練習時間を縮めたためか、それとも別に何かあるのか。 「納得いかないのでもう一本」という発言が発せられかけるのを、トレーナーが制した。 「俺の経験上、タイムの縮まない時期はどうしても出てくる。残念ながらそういう時は何本走ってもうまくいかないものだよ」 「では、どうすれば?」 「走り方の理屈を考える、筋力の強化に専念する、いっそのこと思いっきり息を抜く…とにかく状態を変化させるのが吉だろうな。何にせよ、行き詰まれば別の道を探すのは常道だし」 「まあ、確かに。じゃあ、一つ考えてみたトレーニングがあるのですが」 「と言うと?」 「座禅と瞑想…今風に言えばマインドフルネスですね」 「精神トレーニング兼ストレスの抑制か…確かに重要だが、効果あるのか?」 「世界の一流社長が実践している方法ですよ?世間的に良いものは取り入れるに限ります」 「君、やらなくても元から落ち着いてるだろ?」 「いやそれもそうなんですが…まあ物は試しと言いますし」 興味があるにはあると言った雰囲気の表情を見せた後、トレーナーは楽観論を述べた。 「まあ何にせよ、そう焦る必要はない。クラシックまでは4か月。確かに短いかもしれないが、多少の遅れは君なら問題ない、と信じてるからな」 「…過大評価はやめてくださいよー?吹いといて負けるのは普通にかっこ悪いですし」 蛇足だが、瞑想トレーニングは結局実施に移された。ラプラス曰く、「大地の声が聞こえたような聞こえなかったような気がした」とのことである。
『阪神第3Rジュニア級未勝利戦を勝ったのは6番のフルールドゥオーロ 直線で一気に伸びそのまま5馬身先着』
「デビュー戦で加速しすぎて逸走、競争中止してた子だね。能力を実証できたし、来年が楽しみ。」
年末の中山レース場のスタンド。
「行けー!差し切れー!」 スタンドの歓声に、ラプラスの声も重なる。目前の直線では、コーナーから一気に捲ったグロリアスブレイズが、大外から先行勢をとらえにかかっている。 その長いストライドから生み出されたスピードが、ウマ娘を一人追い越し、また一人追い越し、最後にゴール板を追い越した。歓声が、さらなる拍手喝采へと形質を転換する。今年の最優秀ジュニア級はほとんど決まりだろう。 彼女は称えた。期待に応え、その夢、クラシック3冠達成への大きな一歩を踏み出したブレイズを。仮にこれが最後の勝利だったとしても、歴史に明瞭な輪郭で名前を刻んだことに変わりはないのだから。
それでも。
「ここに自分がいたら?」という想像は、それでも追ってくる。 中山は前有利だし、自分の能力を最大限発揮できれば抑え込めたかも、でも今日の走りをそのままされて勝てる見通しもないかも… 長い期間の知識の習得の中で、「このレースにあのウマ娘がいたら勝っていただろう」という台詞は、彼女にとって既知の思考だった。そして自分がその構図に姿を現すのは、少し前まで考えもしていなかったことだった。変化とはそういうものである。
「まあ、過ぎたことはしょうがないか。来年も同じ舞台はあるからね。3冠の壁ならここにいるよ?」
言葉と一つのため息が、現実を飲み込むための儀式になった。ファンとしての視線を、強敵を眺める際のそれに変えながら、ラプラスはターフ上で手を振るブレイズを見る。 勝負服を着てのレース、そしてその勝者の率直な笑顔は、ラプラスがこれまでのレースを見返してきた中で数多く見てきた光景である。その様は見ている側をも喜ばしめるものであり続けていたし、今現在もその状態が維持されている。それでも状況の変化が生み出したのは、無念さか、あるいは対抗心か……一つの言葉での表現を許さぬ思いを否定させず、むしろ肯定した。
「大きいのを勝ちたい!」
「担当が無事に一年を過ごせますように」
風が頬を駆ける。
そんな陳腐な表現を味わいながら、視界はラプラスに対して逆走していた。坂路コースの勾配の反抗を吹き飛ばし、急速に前進する感覚が、彼女の肉体を覆っている。 勢いを増しながらゴール板を通過。徐々に彼女の運動は抑えられていき、短時間のうちに静止状態に移行する。トレーナーの口からは、去年の末を上回るタイムが発せられた。 「だいぶ伸びるな。フォームの無駄がかなり減ってるし、勢いが戻ってきた感じだ」 「自分でも驚くくらいすっきり走れてる感じがする、と言うか。年末にきっちり休んだのが良かったんですかね?それとも、単に本番が近くなってきたから無意識にやる気が出たのか……それはともかく、もう一本いけると思うんですが」 「いや、本番が近いし、まだ脚に負担をかけたくもないからな。無理せずにここらで上がりにしよう」 「はーい」
『「きさらぎ賞の私の本命は1番人気のアドマイヤラプラス。休養明けですが、ホープフルSを勝ったグロリアスブレイズの2着に粘った実績がありますからね。間違いなく最有力のウマ娘です」』
「まあ、前評判通りに進むだろうな。多数派に混じって信じてるぞ、ラプラス」
「急にどうしたんです?そういうのは表に出さないタイプって言ってましたけど」 「時と場合による。とにかくいつでも俺は君のファンだからな。軽く捻ってこい」 「捻るって……とにかく応援感謝です。計算によると今回は負ける確率の方が少ないですし、期待しててくださいね」 ラプラスは立ち上がり、控室のドアノブに手を置いたところで……立ち止まり、振り返った。 「あ、勝ったらレース場のソフトクリーム奢りで」
観客や視聴者が、栗毛のウマ娘の先行、加速、そして押切りを見ることになるまで、それほど猶予は残されていない。計算され切ったレースと大過なく進んだライブが、彼女の重賞初制覇の色彩となった。
『アドマイヤラプラス、強さを見せてきさらぎ賞快勝! 次走は皐月賞を予定』
|
+ | 四月に響く五月狂騒曲 |
レースの観戦にはいくつかの種類がある。そのうちの一つである中山レース場の関係者スタンドには、出走の時を待つトレーナーたちが集まっていた。
「よお、大言壮語させてもらうがな、3冠はもらっていくぜ。何年か後には顕彰ウマ娘・グロリアスブレイズが誕生するぞ」 学園屈指のベテランとして知られるグロリアスブレイズのトレーナーが、座席に座るアドマイヤラプラスのトレーナーに話しかける。 「確かにブレイズ君には能力がありますが、残念ながら時代が悪かったように見えますよ」 「言うねえ」 負けを一切意識していないラプラスのトレーナーの返答に、ブレイズのトレーナーは、笑いを浮かべつつ語った。 「誰だって自分の担当が最強だと思うものさ。自分の担当が負けるはずがない。それのできない奴には良い娘を育てることなんて夢のまた夢ってな」 「それなら、私はトレーナーとしての初歩は合格ということになりますかね?」 「初歩以前の前提条件だよ。後は運命が自然と近寄ってくるとも」 「はあ、勉強になります。ところで今日は…もしかして緊張しているのですか?普段のあなたならもう少し慎重になると思うのですが」 彼はまた笑いながら答えた。 「緊張してんのはいつもだよ、お若いの」
地下道。
「…」 「…」 途上で二人のウマ娘の視線が合ったのは、全く意図してのことではなく、互いに控室を出るタイミングが、偶然この位置での遭遇を導いた、と言うだけの事。これだけならば問題にはならない。 ただし、「相手だ!」という意識の強さにより意図的な疎遠がここしばらく作り出されていた二人にとって、少々居づらさを感じる遭遇だったのである。 「…」 「…」 二人は数秒間見合って、そして自然と視線をそらした。金縛りにあったように、緊張感の充満した数秒間が経過する。時間が過ぎていくのを感じながら、それが過ぎるままにすることしか、二人にはできなかった。
表現しがたい気分から先に逃げ出したのはラプラスの方で、出口に向けて急に歩き出す。
「あ、おーい!」 ブレイズの声がラプラスを振り向かせたところで、同じ声帯が音を発した。 「良いレースにしようね!」 数秒後、信頼が途切れていないことに安心した聞き手は、口元に緩やかなカーブを、右の親指と人差し指で円を形作り、同意を表現した。
「良いレースにする」。
互いに共通認識、重要な目標には違いない。 この後は、結末において名誉を得るのは誰か、と言う深刻な相違点を争うのみである。
「ジュニア級チャンピオン、グロリアスブレイズがゲートイン。」
「スプリングSを勝ったアールヌーヴォー、きさらぎ賞の勝者、アドマイヤラプラスも。」 「最後に大外のハイリターンがゲートイン、出走準備完了です」 「最も早いウマ娘の座を巡って、第一冠皐月賞!スタートしました!」
(スタート練習は成果アリ、と)
出遅れに百歩離れたスタートの後、ラプラスは先団となる4番手にうまく取りついた。前では二人の逃げウマ娘が先頭争いをしながらレースを牽引。他の有力勢は後方からの展開になるだろう。 (先に出たのは9番…プランB、ハイ逃げ。スローの方が良かったな) 先頭に立ったのは9番。これまでの走りの傾向を見るに、先頭に立つと勢いを増す…と言うより、やや増し過ぎるタイプ。スタミナの消耗を覚悟しつつリードを狙うスタイルが予想できた。無論彼女は追わずにラプラスは自分のペースを保ち、結果やや位置を上げてきた後方の一人に4番手を譲る形となる。 ここまで予測通り。後方に一瞬視線を移すと、前に「炎のイメージ」と説明された柄の勝負服の少女…ブレイズは後方を追走してきているのが分かった。向こう正面の段階でやや外目に付けている。 慎重な彼女のこと、この舞台でリスクのある直線一気はしない、必ず道中で位置を上げる…これも事前に織り込み済みである。
気づけば2000mの距離も1000mを超え、レースは遂に実力を示しあう段階に突入し始める。
(じゃあ、そろそろ勝負!) 脚の回転が上がり始める。4コーナーを過ぎるタイミングで最高速度に到達し、かつそれを最後まで維持できるように、第一加速の開始地点は計算されている。理論と効率による強さという彼女の走りが、ここで大きく発揮された。 曲線の通過、大観衆の見守るスタンドのちょうど正面が、彼女の視野角に入り、流れていく。あそこからの大歓声を自分に向けるために、彼女の努力は存在していた。 ロスと荒れ気味の芝による減速を天秤にかけ、コースの中央周辺から逃げる相手をとらえにかかる。決死の逃走劇が歴史を動かすだけの力には欠けたことを、観戦者は順位の交代という形で認識するに至った。
(ここからが本番。ここまでレースは成功してる、勝てる!粘るんだ!)
柔軟性が生み出す強烈な加速と速度とが、走りのセンスを纏ってこの直線で解放される。ブレイズの末脚は、かつての英雄たちを思わせるほどに強烈なものであると、模擬レース含め負け越しの彼女は痛感している。 しかし、彼女はそれでもよりどころとする台詞を知っていた。「近代レースは先行有利」。 更なる加速で生まれるスピードが、ターフを踏みつけ、勝利への距離を縮めていく。
直線の中、速度は最高点に達していると彼女は認識した。集中的な練習で体に浸透した走法は自然に発揮され、坂路コースで鍛えたパワーもラプラスの追い風となる。一度リードを保てば、中山ではそのまま押し切ることは不可能ではない。
(差が詰まらない…!) (「早い」称号はこっち!) ブレイズの執念の追走を、更なる大きな力が推しとどめている。それによって拡張された差が、ラプラスの決定的な優勢を証明していた。 すべて計算通り。着差は大きくなくとも、それでも最後にゴール板を潜り抜けるための完全なプラン。大いなる栄光が彼女に降りかかるまで、あと1ハロンも残されていない。
はずだった。
外から迫る影が、知識の範疇に存在していても、それが自分がよく知る物とは一致しないこと、そしてここで飛び込んでくるはずだった物とは一致しないこと、そしてそれがもたらす結果も一致しないことに、ラプラスは気づく。
トゥインクル・シリーズを愛好してきた人々にとっては当たり前の台詞が、レースのために最大まで活用していた脳裏に反響した。 「レースに絶対は無い」
体感時間でも実時間でも、「彼女」がラプラスを追い越すのに、ほとんど時間はかかっていなかっただろう。
「グランドカプリース!グランドカプリースだ!9番人気グランドカプリース、猛烈な追い込みを決めてクラシック戴冠!」
電光掲示板に「確定」の文字が現れるのに、時間はかからなかった。 生命に本来不要な速度を下げつつある彼女の水晶体に、力強いガッツポーズが映し出された。
「えーっと…とにかくお疲れ。その…ライブ良かったぞ?」
「まあステージには立ってましたが…センターじゃないときに言われるのはちょっと、ねえ?あ、でもあの子…カプリースさん、トレーナーさんも一緒になって泣くほど喜んでましたよ。いやあ、こんないいドラマを目前で見れたのはいろいろと思い出になりそうですね…流石に多少複雑だけど」 「うんうん、若手のあいつもよく頑張ったな…と、関心はまあ置いておこう。1度きりの舞台に未練を残す意味はないからな。次に目を向けたほうがずっといいことだろう」 「…ダービーウマ娘、目指してみますね。アレを取りたくないウマ娘なんて、きっとこの世界にいないはずです。ましてチャンスがあるなら…」 「ああ、いくらでも俺はサポートするとも。じゃあ、今日はゆっくり休みなさい。今後のことはひとまずその後だ」
ポジティブな言葉の奥に、これからの困難への明瞭な展望が隠れている。
2400m、クラシックディスタンス。 レースの花形にして、スピードとスタミナの双方に優れたウマ娘のみが手に入れられる栄光の舞台。適性で言えば、今日と違って彼女より上のウマ娘は間違いなく現れてくるだろう。 より厳しい戦いが待っていることを、否定できる人物は実在しない。 |
+ | 夢の舞台の舞台袖 |
男には特権と資産、それに才覚があった。
男にはまた、願望もあった。 やがて願望は叶えられる。特権と資産、そして才覚が偉大なる祭典を作り上げた。 紆余曲折が、あるいは運命が、祭典に男と同じ名を与えた。
人はいずれ命の終わりを迎える。
男は人である。 故に、男が既にこの世の存在でないのは必然である。 しかし、彼の願望がこの世に遺した祭典は、人々に夢を与え、それそのものが人々の願望に変遷していった。 熱狂、感動、驚愕、そして歓喜が、気が付けば海を飛び越えて、この国にもたどり着く。 歴史は、こういう風に産声を上げた。
この国のレースの頂点。
現実という連環の物語の中のクライマックス。 東京優駿、日本ダービー。
「積極的に逃げるのは…まあこの子でしょう。皐月賞と同じハイペースの逃げを狙ってくるはずです。もちろん貯めるような逃げ方をするかもしれませんが、相当慣れがいりますからねアレ」
「うん」 5月下旬、トレーナー室での会話。ラプラスとそのトレーナーによるそれの内容は、迫りつつある日本ダービーに向けてのものだ。 「やっぱりレースは控えた位置の方が良いでしょう。もちろん持久力のトレーニングはしてきましたが、根本的に私にはクラシックの距離は長い…ハズですし」 「うん」 「とはいえ枠順にもよりますがね。内側ならできるだけスタートを良くして前に行きたいし」 話を聞き終えたトレーナーが切り出す。 「思ったんだがな」 「何でしょうか」 「こういうレース展開の話し合いって、トレーナー側が積極的に提示していくのが普通じゃないかな」 「…平均に準拠させます?」 「いや結構。個性の尊重は近年の教育の重要課題だしな」 「ふうん…と、もう40分ですね。えーっとリモコン、リモコン…これか」 トレーナー室の小型のテレビの電源を付ける。映ったのは、東京レース場2400mコースのスタート地点。ティアラ路線最大のレース、オークスの始まりが近づいている。 「来週、君もこの場に立つんだな。あったりするのか?感慨とかそういうの」 「そりゃあ、言われたらそんな気もしてきますけども…まあ、ひとまずは見るのを楽しみましょう。異論はあっても、少なくとも見る側の視点からすれば、間違いなくトゥインクルシリーズは娯楽なんですから」 「それもそうか…お、8番の調子が良さそうだな。足取りがしっかりしてる」
1週間。7日間。168時間。不可逆が過ぎ去り、章のタイトルが物語に印字される。
昨年以来の東京レース場の控室。
普段から穏やかかつ動じないラプラスとて、この舞台を前にしては動揺を感じないはずがない。まだ時間的余裕があるにもかかわらず、勝負服をきっちり着込まなければ、なんとなく不安で滅入りそうなほどに。 鏡を見る。見慣れた顔と、「かっこいい奴で!」と曖昧な注文を出した結果完成した勝負服に包まれる肉体が知覚される。 見つめながら、朧げな、しかしそうでありながらも明瞭な記憶が脳裏に再生された。
視界の先にある、今使っているもののひとつ前のテレビ。
画面には壮絶な消耗の結末として、鮮やかな緑の世界を舞台にした決戦が映されている。何度も見直した映像と変わりはない。けれども、それでもなお、あの時の思いの再現は不可能だ。 後方から追い込む一人のウマ娘の力強さ。そして、先頭に立つウマ娘の力強さが、それを凌駕する瞬間。声を張り上げる実況と、タイムを見たスタンドの大歓声。そして映し出された、汗を拭いながらガッツポーズをする王者。 まだ幼い少女の知識には、興奮という言葉は刻まれていない。けれども、その文字だけでの表現を拒む「熱」が、確かにこの時、少女に取り憑いた。
自分をここまで持ってきた根源の場所に、どういうわけかたどり着いてしまった宿命を、思わず笑いたくなる。そして、自分がダービーに対して緊張しながら、それ以上に期待を抱いているのだ、ということに、彼女は気づく。
「ここで勝てたら、私は引退してもいい」
「あそこでの勝利が、彼女を燃え尽きさせたんだ」 「今なら世界中に伝えられる、私はダービーを勝ったウマ娘のトレーナーなのだと」 それなりに広大な知識の中にある台詞の数々が反復する。 様々な言葉を投げかけられるに相応しい一戦。自分は見物人ではなく、当事者として存在する。何をどこで間違えたら、不愉快な感情など生まれるのだろうか?
時計を見れば、本番が近づいているのが容易に分かる。勝っても負けても思い出に残してやろうと思いながら、彼女は一つ深呼吸した。
『現在の人気投票の状態です。1番人気は京都新聞杯を勝ったローズプライム。2番人気に最優秀ジュニア級ウマ娘、皐月賞3着のグロリアスブレイズ。3番人気は皐月賞ウマ娘グランドカプリース。以下アドマイヤラプラス、サトノロンドン、ナウオアネバーと続きます。詳しくは下の表をどうぞ』
「いよいよ始まります、レースの祭典、日本ダービー。1番人気はダービーに絞ってきたローズプライム。ついでジュニア級王者アグロリアスブレイズ、大穴ながら皐月賞の勝者となったグランドカプリース」
「全員おさまりました。さあ、トゥインクルシリーズで最も偉大な2分半、夢を掴むために走れ!」 「スタートしました!」
ラプラスの予想は正確である。
2番と言う絶好の枠を味方につけたあるウマ娘は、やはり皐月賞のように先頭に即座に並びかける。状況として異なっているのは、今回は逃げ争う相手がいないことだろうか。観察すれば、やや出遅れたと見える。 この状況の各自の位置、推定されるペース、全てプラン内に織り込み済み。 ブレイズはやはり後方。ハイペースに備えるという点で間違いなく正解だろう。グランドカプリースも同じようなレース運びだが、やや後方につけすぎている。 こちらも後方にいるローズプライムに関してだが、実は彼女はそこまで意識していない。京都新聞杯では確かに強い走りを見せていたが、あれは展開に助けられた部分も大きかったと見える。加えて2200であれだけの走りをすれば、疲労は確実に蓄積されているだろう。 今回はスタミナ消耗を抑えるため、いつもよりは後ろ、中段に近い位置取りで運ぶ。最終直線で加速し、そのまま粘りこむのがプランだった。勝ち筋は見えているなら、それに正確に走る。そうすれば、勝利はこちらにすり寄ってくるに違いないのだから。
気づけば向こう正面までレースは進んでいく。風のすり抜ける爽快さを感じる余裕をどこかにあった。「走ることは楽しい」という名選手たちの感情に、少し共感するくらいの余裕だ。
コーナーが見えてくる。決着が、1秒ずつ18人を追い詰めている。
ふと、疑問が生まれた。何かが違う。何か食い違う違和感。高速で流れている雰囲気を感じられない。
ハイペースにもかかわらず、先にいる彼女の体力が尽きる雰囲気がない。いつの間に息を入れていたのか。
テレビ中継が大ケヤキをとらえたあたりで、違和感は氷解した。
ああ、こういうレースを、これまでに自分は見たことがあるのだ。自分は今まさに、翻弄される側として走っているのだ。 これはそもそもハイペースではない。ハイペースに擬態した、スローによる逃げ粘り。後から振り返れば喝采を送られそうな、精密なレース展開。自分の予測を通り越した先に、相手はいた。 彼女は「経験を積む必要がある」というラップ調整型の逃げの難点を、きわめて単純な対応法で解決してみせたのだ。 そう、純粋な練習の積み重ねである。
一方で、打開策は存在する。本来決定していた加速タイミングより早めに動き、前の位置につけること。このような逃げになることまでは想定外ではあったが、それでも2番のウマ娘がスローで走った場合のプランそのものはすでに考案済みだった。
考えた後に時間はない。コーナーの途上、早めに加速を始める。周囲のウマ娘たちの動きが、それにつられて速さを増すのが分かった。 視界が開かれる。眼前には直線、坂、離れた場所のゴール板と、それに相対する観客席。 (ここからが…長い!) ある種の絶望感を感じつつ、ラプラスはそれでも前に進む。速度が最高点に近づき、前方の逃げウマ娘が急速に接近してくるように錯覚する。いくらこのための経験を積み重ねても、この距離を逃げ切ることの困難さは全く揺るがない。速度は徐々に落ちていった。 それでもなお湧き上がる賞賛の意を感じながら、彼女に並びかける。先頭の景色が、世界となって広がっていた。
ラプラスは気づいた。最も恐れていた彼女のことが、妙に頭から抜け落ちていたことに。
[灼光 Lv1]
外からブレイズが迫ってくる。読めていた事態だが、圧力が何か、何か違う。
どこかで感じた、既知の感覚…そうだ、東スポ杯。 いや、比にならない。あの脅威感をさらに拡張した、勝利への執念が形成する驚異。 抵抗しようとするが、意思に肉体が抵抗している。脚の乳酸が量を増していき、ただ踏み出すことすら苦痛に思われる。ラプラスもともと足が長く続くタイプではあるが、それでもなお疲労に邪魔をされ、その間に。彼女は迫ってくるのだ。
ふと、思い浮かんだ。
勝てない。
そういう運命だったのだ。グロリアスブレイズが、その夢を叶えるのは。アドマイヤラプラスが、それを見届けるのは。 そんな諦めの瞬間に、ブレイズは外からラプラスを追い越していった。早いな、という極めて単純な感想が、心中に生まれた。
3着争いに混じりながら、ゴール板を通過した。
東京レース場に歓声が鳴っている。勝者がもたらす熱狂。息が上がりながらブレイズが上げた右手が、それをさらに爆発させた。 呼吸を荒らげながら、ラプラスはそれを見るだけだった。どこかで人を引きつけ、何かで人を魅了し続ける彼女を。その強さを。 勝者への悔しさも無念さも、嫉妬すらも存在する。けれども、妙に素直な祝福の思いが、それを蹴り飛ばしてしまう。 少なくとも、今はそれでいい。この悔しがれないのが自分の弱さかもしれないが、この弱さを捨てたくもない。そう思いながらラプラスは出口に向かった。
「いやー、かっこいいライブだったなあ…本当に。彼女が夢を叶える様、特等席で見れましたよ」
「まあ、ひとまずお疲れ様。もちろん君ならわかっているだろうが、3着だって立派だとも。ライブ練習が無駄にならなかったしな」 「そりゃそうですが、やっぱりセンター用の振り付けをしたかったなー、とは… 「良いんですよ、過ぎたことです。そういう運命だと思えば…ね。ともかく、これでレースとは数か月離れることになりますが…次の舞台は計画通り、ですよね」 「ある意味ではダービーより厳しい場所だな。距離は合ってるにせよ」 「逆に勝てれば歴史的有名人ですね。かっこいいし」 「だな。この夏はそのためにも重要になるぞ。もちろん脚のケアもしながらの必要がある」 「それでもやってみます。無事之名ウマ娘…ってのは好きな言葉ですが、ガラスの脚で一つの時代を作り出したウマ娘もたくさんいる。少なくとも私は、実力も体もそこまでは弱くない…はずだし」
言い終わってラプラスは、いったんこの場をたたむ必要があると感じた。
「まあ後の事は置いといて、今は解散としましょうか。ブレイズの祝勝会があるので」 「おう、また今度。楽しんで来いよ」 そんなふうな会話が、この日の二人の最後の会話になった。 「あー、脚疲れた…お腹すいた…」
次の大目標。
この国のレース体系の頂点の一つたる、歴史あるレース。 天皇賞・秋。
「あのブレイズってのマジヤバいわー!はっや!つっよ!」
「ですね。あれがダービーウマ娘というものです」 「うんうん、2着3着もすっごい!逃げてた子もガチやばい!かっけー!」 「強かったですね。努力の成果です」 「アタシもアタシも!アタシだってガチ強いんだから!あの子らに負けらんない…ってか勝ったらスゴくない!?」 「凄いですよ」 「だよねートレちゃん!よっしゃ、アタシの無敵っぷり見せたげるよー!!」 「…まずは秋華賞。地力をつけていきましょう」 |
+ | 真夏の夜の花 |
「はああああっ!」
海岸に掛け声が勢いよく響く。その音に追いつかんとするような速度で、グロリアスブレイズが砂を巻き上げながら、ラプラスの視界を通り抜けていった。
「タイムはー?」 「ベスト更新」 「よーっし!」
夏合宿のある日の光景。
大半のウマ娘たちが休憩している時間に、ブレイズはまだ走り込みを続けている。僅かな進歩しか続けていないにせよ、少し未来ではその僅かな進歩が想定外の力を発揮する可能性も存在しているのである。 座ってタイムを計測していたラプラスが投げ渡したペットボトルの水を、ブレイズは的確に受け取り、それを飲みながらラプラスの隣に座った。 「すごいよ、ブレイズ。みんなが休んでる間でも練習熱心だよね。その日々努力する力、1割くらい分けてもらいたいなー…なんて」 「ラプラスだって、負担がかかりやすいから練習時間が短くなるのを見越した上で効率的に計画を立ててやってるじゃん。努力してるのは変わらないと思うよ?」 「む、バレたか。頑張りはこっそりの方がカッコ良さが増して良いんだけどなー」 「そうかなぁ…いや言われてみるとそんな気も…?」 そんな意味を持たない、平穏な雑談がしばらく交わされた。
「秋は神戸新聞杯だよね?」
「うん、今はジャパンカップを大目標にしてるかな。シニア級のみんなが相手になるし、今のうちにちょっとでも強くならないと。ラプラスは天皇賞だっけ?」 「うん。距離的に合ってるし……クラシックでアレに勝てたら偉業だしね」
呼吸を整えていたブレイズの肉体が、状況を取り戻しつつあった。
「そうだそうだ!ラプラスも一回併走しない?成長を確かめてみたいし!」 「えー、これからかぁ…今日の分は終わりのつもりだったんだけど」 ラプラスは割と面倒が苦手である。それでも、ブレイズはごく単純な対処法を知っていた。 「今日はかき氷一個奢りで!」 「むむむ…練乳付きで」 「よーし!」 立ち上がった二人が海の方向へ。友人二人は、しばらくの間ライバルとなることに決まった。 「スターターは?」 「トレーナーさんに頼むかな。とりあえず位置について、と…」 同一線上に、二人は揃う。 「努力は裏切らない!」 「量でこっちが上じゃなければ、ね?」
ブレイズのトレーナーの鳴らす笛の音と共に、砂が舞い上がり、肉体の運動が開始された。
「そういえば、クレープの屋台でバイトしてたね、カプリースちゃん」
「『我らが王、キングのご要望なら応えないわけにはいかない!』だってさ。自称キングの取り巻きGさんだからあの子。それにしてもキングさんってお嬢様っぽいけど人徳あるよね」 「そうそう、なんていうか……良い人だよね」
劇的な同着から数時間後。二人は夏祭りの賑わいに身を起き、その熱気に包まれていた。
「お、射的の屋台。景品はぱかぷち…おっ!見てみてラプラス、『あの人』のぬいぐるみ置いてあるよ!」 「へー、でも私は特に意欲が……あ」 ラプラスの視線が、ブレイズの目当てとは別の、一人のデフォルメされたウマ娘のぬいぐるみに固定される。 「状況が変わったな、コレ。ついでに隣のも…」 「そうと決まれば行動は早きが吉!ささ、並ぼう!」
「むむむ…恩を売りつけられた…嬉しいけどさあ…」
悔しがるのはブレイズの方だった。 ブレイズが景品に縁なしだったのに比べ、ラプラスは楽々目的物を手に入れた。余った玉でブレイズの目当てのぱかぷちまで確保し、ささやかにプレゼントした所である。 「いいよいいよ、かき氷の分。でもなー、できればあのハシビロコウぬいぐるみも取りたかった…」 「私はレッサーパンダの奴かなぁ……あ、それはそれとして、もうすぐ花火始まるね」 この時、二人は祭りの会場から少し離れた場所にいた。「ここなら集中して見れそう」と同期が言うのを、ブレイズは耳に挟んでいたのである。 カエルの鳴き声が、暗い水田と点在する家々の風景にに聴覚的な情緒を加える。花火によって彩られるのを待つ空には、夏の夜が広がっていた。
「星がよく見える。空気が澄んでるね」
「あれは…夏の大三角ってやつかな?」 「そうそう。あれがデネブ、あっちがアルタイル、んであそこにはアドマイヤ…ではないベガ。ついでにあそこがよく分からないけど何かきれいな星」 「名前と知らない美しい星…こう言うとロマンチックかも、なんて」 「近くまで行けば岩石しか広がってないかもよ?」 「それはそれで魅力的なんじゃない?」 「さあ?」 そんな他愛のない会話が妙なほど面白く感じられて、少しだけ笑いあった。
ふと現世に顔を出した数瞬の沈黙を経て、
「あのさ」 少々真面目な雰囲気とともに、先に口を開いたのはブレイズだった。 「私ね、実は皐月とかダービーの前とか後とか、結構…いや、ちょっとだけ不安だったんだ」 「珍しいね」 「その…もし勝てても、『負けて悔しー!もうアイツとは口聞いてやらない!』みたいに思われちゃうんじゃないかなー、って…」
少しだけ時間が経ち、聞き手が口を開く。
「そりゃあ悔しいには悔しいけどさ。なんか、『私の友達はこんなに強い!』って嬉しさとか…誇らしさとか、そんな感じのが先にくるっていうか。あ、勿論『次は勝つ!』もあるけどね。そう思えるのが強くなる基礎だって、ある有名なトレーナーさんが言ってたらしいよ」 「…そっかあ」
途端、空に爆発音が響き、色とりどりの光が周囲に舞い、空に消えていった。
二人の視線がその方向に移るなり、その光景が再度再生される。 「とりあえず、一緒にこれを見れて良かったなーって思うんだ、私」 ブレイズの台詞は、花火の音にかき消され、ラプラスの耳には届かない。それでも、思いは曖昧に共有されていた。 後は二人共理屈でなく、感覚で火の芸術を捉えるだけだ。楽しさで心を満たしながら。 |
+ | 現実 |
「グロリアスブレイズ先頭、後続に1馬身、2馬身とリード!完勝ゴールイン!秋初戦を勝利で飾りました、ダービーウマ娘グロリアスブレイズ!」
「おー…流石にダービーウマ娘、めっちゃめっちゃに強い…こっちは昨日3着だったのにー…差を感じるわー」
「前哨戦は前哨戦ですが…やはり、彼女たちは強敵ですね。例年のダービーウマ娘が相手なら、あなたも十分に勝つ能力があると確信しているのですが」 「え、そうなん?それ言われたら反抗しちゃうんですけど?」 「反抗?」 「ダービーの子って毎年強いじゃん?でもアタシそいつらには勝てる能力がある…ってトレちゃんは考えてんじゃん?でもあのブレちゃんは別って事っしょ?」 「彼女は歴代の中でも上位にいるでしょうからね」 「なら別じゃなくする!ブレちゃん相手でも勝ったるよ!そうと決まれば早速トレーニングだー!」 「意気盛んで、私も頼もしいです。できれば普段からその調子でいていただければ…」 「……スイマセン」
「まあ、今回は正直負ける予測が無かったからね」
「そう?でも秋の上り組だっていたし、私は行けるかどうか不安だったんだけど」 神戸新聞杯の翌日、トレセン学園は昼食の時間。食堂で向き合いながら、ラプラスとブレイズは会話していた。 「上がり調子って言ったって、これまでの勝ち方を見てもブレイズには勝てないだろうなーってね。まあ2着は確保してるから実力は確かなんだけど、相手が悪いね」 「あはは…菊花賞、応援したいね」 ブレイズがカツ丼の左端を箸でつまみ上げ、口の中に運んだ。
「宣戦!布告ゥ!」
二人の空間に、突然他者が姿を現した。周囲の視線が集中するが、その対象たる少女はそれを恐れる気配などない。 「どうしました、急に」 「宣戦布告?」 「そうそう、宣戦布告!ダービーウマ娘グロリアスブレイズ及び好走ウーマンのアドマイヤラプラス!蟄居近親の上果たし状申し付ける!」
高らかな宣言の後に、数秒の沈黙が続いた。
「事実だけど好走ウーマンて…と言うか蟄居近親の意味よくわかってないんじゃ…あと誰?」 「えーっと…ああ、フルールちゃんか」 ブレイズが思い出したのは、同期の強豪の名前。レース観戦が趣味のラプラスも、名前を聞いて瞬時に思い出した。 「あー、フルールドゥオーロ…あのデビュー戦で壁に突っ込んで競争中止になった子か」 「そうそう、フェアリーSで掛かりっぱなしから3着…」 「それで桜花賞は全く伸びず、オークスもスローで後方からなかなか動けず3着…」 「…えっと…そっち方面ばっか?」 「あ、いやいや、スピードがすごいのは確かだよね。でも前回は…」 「うう…コース取りマズったのは置いといて…頭悪いから…」 自信をもって突っ込んできた側が、急に旗色を悪くしていた。 「と、とにかく!アタシは秋華賞勝つんで!頭を洗って待ってろなー!」 「…『首を洗って』でしょ。えっと…頑張ってね」 ブレイズの発言を聞いたかどうかは別として、急ぎ足でフルールは食堂の出口に向かった。
「あの調子ではあるけど、実力があるのは確かなんだよね、彼女。ただ…」
「頭が足りない」 「それは言っちゃダメでしょう、ラプラス」 「流石に言い過ぎた」 若干反省したところで、ブレイズは言う。 「でも、私たちも追われる立場になってきてるんだ、って改めて思ったよ」 「だね。互いに頑張ろ」 ラプラスの箸が、皿の上のハンバーグの端を軽く裂いた。
毎日王冠の発走までの時間は縮まりつつある。
「分かってるとは思うが、このコースは枠順関係なく実力を試される。と言っても、本番は2週間後の秋天だからな。感覚を戻すためだし、あまり気負わずにな。着狙いでいい」 「はい。…と言っても、勝つな、とは言わないですよね?」 「そりゃ当然」 今回の強敵は安田記念2着の4番のウマ娘。もっとも、相手の走りやデータを精査した結果、自分のレースができれば十分に勝ちうる相手だと結論付けられている。ここでの勝利は、間違いなく本戦への大きな助走になるだろう。 「じゃ、行ってきます」 「おう、頑張って来いよ」 そんな平凡な会話が、勝利へのサインになる。
「最後に10番、マックスシルキーがゲートイン。秋に向けての重要レース、スーパーG2毎日王冠、スタートしました!」
スタートに成功したラプラスは、安定して4番手に取り付ける。まずは第一関門突破、上々の滑り出しだ。
そのままテンポを崩さずに追走し、向こう直線で息を入れる。走るのはコーナーを意識してやや外側だが、ここまで順調極まりない。
(……なーんか違うなー)
不思議と、順調な感じがしない。よくわからない圧力を感じる。展開そのものが自分に有利なことは理性で感知しているが、感性がそれを許容していない。どこまで行っても不利であり続けているような、そんな感覚が肌を刺す。 当然ながら彼女の意思は無視され、レースは進行する。気づけば最終コーナーの入り口、ラプラスは直線に向けてじわじわと速度を上げていった。 それと同時に、相手も一気に動き始める。圧力が強まるのをラプラスは感じる。抜け出したくなってたまらず早めのスパートをかけたくなるのを、どうにか抑え込み、加速開始予定位置のハロン棒まで耐え続ける。
勝ち筋として結論付けた、直線入口からのスパートが開始された。
才能に加えられた練習の成果だろう、走りの力強さそのものは圧倒的で鈍りはない。自分のレース、良好なパフォーマンスができている。間違いなく勝ちは近い。あとは真っすぐ突っ込むだけだ。 それでも。不安が、全身を刺す感覚。
「ここは勝つ!」
「私は強いんだ!」 「悔しい思いはしたくない!」 徐々に迫っていくゴールを見据えながら、そんな無音の声が聞こえる。 声を振り払うようにさらに速度を上げていく中、後方から影が迫るのを感じた。 前日の思考では確実に勝てる展開。そのはずなのだが、全くそんな気分になれない。影の近づきを振り切れない。 似たような展開ならこれまでも数多く経験したが、抵抗できる余地があると、これまでは瞬時に判断出来ていた。今回はそうではないのだ。よくわからない力が、自分を押しつぶそうとしているように思われる。
ふと、圧の正体が分かった。
経験や成長の差も確かにある。結局は条件戦止まりのウマ娘も多いクラシックと比べれば、出走資格を前提として持っているシニア級重賞戦では、メンバーレベルが明確に高まるのは当然の話だ。 しかし、その上で現れる決定的な強さ。
勝ちへの執念。
「ライズザフラッグだ!4番ライズザフラッグ一気に差し切った!重賞3勝目!2着にはジュニア級のアドマイヤラプラスが来ています!」
地下バ道。
クラシック級ながら、健闘の末に敗者となったラプラスに対して、賞賛の声が客席、あるいは視聴者からも聞こえてくる。叩きのレースではあるし、相手の実力も相当。そう考えると上々の結果、天皇賞も楽しみだ…そんなポジティブな意見を、普段の彼女なら感じ取ったに違いないだろう。
しかし、今日の彼女はそんな気分になれない。(実際に走ったことはないが)3200mを走り切った直後のような、そんな異様なまでの疲労感。耐えきれず、地下バ道の壁に体を寄せ、その場に座り込んでしまった。
「あー…なんか強い。勝ててるはずなのに、本当に強い」 能力。技術。経験。そして、勝利への執念。これまでに感じたことのない…一種の恐怖感すら。 そして、これは前哨戦。2週後の天皇賞に足りていないのだと実感する。2週間しかないのだ、この差を埋めるのに。気が遠くなる、と言う表現を肌で感じた。 「あーホント…この世界、ちょっとツラいかもー…」 座したまま、自分の発した大きなため息を、ラプラスは聞いた。
「はあああっ!」
ラプラスが勢いよく、夜のコースを駆ける。空に見える星も月も視線の外、頬を撫でる夜風は意識の外。 門限が近いことも、まだ脚を使うのも押さえたほうがいいことも理解している。 それでも、衝動が走らせている。無理をしているのは分かっていても、努力と言う名で自己完結し、何も変化しない。 「このくらい…このくらいはしないと勝てないし…たぶんみんなこのくらいは…いや場合によるかな流石に…?」
ネット上の反応も探した。校舎内の声に聞き耳も立てた。まだ厳しいかもしれない、いや到底無理だという反応もあるが、それでも率直な期待の声は数多く見つけられる。少しでも応えないといけない。あそこで見た勝ちへの執念に追いつくために。
「はあ…もう1週!」 切れている息を水分で無理やり押し流して、もう一度コースに走り出した。
「フルールドゥオーロ!外から凄い脚でフルールドゥオーロ一気に先頭!2番手争いはダブルブレードにレイブラスター、さらにインディペンデントも迫ってくるが!抜けた抜けたフルールドゥオーロ!G1初制覇ー!秋の舞台で成長示した、フルールドゥオーロが勝ちました!」
天皇賞・秋は近づいている。
|
+ | 「無理は禁物!」 |
10月末日。天皇賞・秋には、今年も多くの強豪が揃った。今年の春G1の勝者3人を始めとして、サマーシリーズの覇者、昨年のクラシック勝者のウマ娘、さらに今年のクラシック級からもメンバーが集う。
春のクラシックで善戦し、前哨戦となる2週前の毎日王冠でも僅差の2着と健闘したラプラスの名前は、その中でもかなり有力なものとして認識されていた。
「よし、改めてレースの最終確認だ。まずは…」
「今日は逃げ勢が一人しかいなくてペースは比較的落ち着くはずだから、スタートしてなるべく前目に。コーナーの段階で走りやすい外に持ち出して、直線から加速を続ける。有力な差し勢が怖いから位置上げは早めに。仮にスタートがうまく行かなかった場合、無理に前に出ずに後方追走、コーナーから無理矢理位置上げしつつ加速」 予定通りの回答である。 「…問題なさそうだな」 「だって、昨日からずっと練り続けてた奴で…」 言い終わる前に、ラプラスはふと目眩を起こしかけ、右の手のひらで頬を軽く叩いた。 「それで寝不足、食欲も微妙に減ってるせいで疲労気味…と」 「ごめんなさい」 「……えっと、無理はするなよ。脚の問題もあるんだ、最悪回って来れればいい」 「…はい」 「じゃ、頑張れよ」 二人はひとまず、笑顔で別れることは出来た。両者の表情が深刻なものに回帰するのに、それ程時間もかからなかったが。
「そうは言っても、世間の評判ってやっぱ気になるからなあ…」
ゆっくりと、地下バ道を歩く。気にかかるのは周囲の反応。期待を受けているのだから、ある程度返さなくては道理に反するだろう。 他人の目なんて気にするな、ともいうが、かと言って完全に他人からの印象を無視できるほど、彼女は世俗から離れているわけではない。 「調子は…あまり良くないみたいですね?」 声が聞こえる。その方向を見れば、そこにいたのは皐月賞ウマ娘、グランドカプリース。ダービーこそ力を出し切れなかったものの、こちらも人気を集める一人だ。 「いやー、珍しくレース前だから、って緊張が凄くて…寝るに寝れなくて…」 「一流のウマ娘なら体調管理には注意するべきですよ。キングさんもそう仰っていました」 「反省だなあ…」 「まあ何にせよ、良いレースにしないとね。ラプラスさん、先にどうぞ」 「はいはい、また数分後。互いに健闘を」 視線の先には、応援幕の垂れ下がったパドックの観客席があった。
「おい、一つ良いか?」
「どうしました?」 トレーナー席にいたラプラスのトレーナーに、ブレイズのトレーナーが話しかける。彼のチームの所属のウマ娘も、このレースに参加していた。 「パドックを見てきたが、見るからに調子が良くない。無理はさせてないな?」 「…彼女の手綱を握りきれなかったのは確かです。過剰な練習はかえって仇になりうると伝えはしたのですが…」 「失礼なことを言うが、ありゃ今日は厳しそうだ。雰囲気で言えば明らかに負けてる」 「いざとなれば無事に回ってくることを優先しろ、とは伝えています。しかし…」 「彼女が受け入れてくれるかどうかは別問題だな。何も無いと良いんだが…」
「18人、全員ゲートイン完了です」
「それぞれの実力を最大限に発揮し、目指すは栄光の秋の盾!」 「天皇賞・秋、スタートしました!各自綺麗なスタート!」
疲労で集中力がやや落ちていた割には、スタートは自分でも驚くほど良好だった。このまま好位置に…と思った矢先に、進路を阻む強敵が出現した。
(うーん、やっぱり走りづらい…)
この日は晴れていたとはいえ、前日の雨によって水分量を増した重寄りの鞘重の馬場が、不可避の敵として存在しているのである。 ラプラスは踏み込みの強さから速度をあまり落とさずに走れるし、馬場の条件は相手も同じなのだが、実際のレース内での経験としてはまだ彼女は未熟だった。 結果的に思うように行き足がつかず、当初の予定から下げた位置にての追走を余儀なくされたのである。 加えて言えば、今回の相手にはスタミナに優れた春天の勝者もいる。タフなレースになれば、彼女の実力は最大限発揮されるに違いない。 (こりゃ不利かな…いやいや、まだレースは始まったばかりだし) この状況でのプランも用意済みだ。過去は変化できないのだから、現在で最善を尽くすほかに、未来を変える手立てはない。
いつにも増して力のいるコースに多少の苛立ちを覚えつつ、コーナーを回り込み、速度を上げながら前に歩みを進める。周りのウマ娘たちの「圧力」も強まっていくのを感じる。負けじと加速を続ける他、ラプラスに対抗策は存在しない。
馬場状態の悪化も考慮に入れた、計算されたタイミングでの加速。少なくともこれは正確に行えた。位置取りが完璧ではなかったとはいえ、勝ちの芽は出始めている。 右手側にスタンドを見るのは今年3度目。前2回は良いところまで行きはしたが、結局敗者の側だ。3度目の正直、必ず勝ちに行く。 歓声の中、外から速度を一気に上げ、上げて、上昇させ、加速し……
……
……あれ?
スピードが一定値を保って、そこから突き抜けて行かないことに、ラプラスは気づいた。
やはり馬場に脚を取られ続けたのが悪いのか、外を大きく回ったロスが問題なのか、とにかくピッチが上がらない。 どうにかして逃げていたウマ娘にはやや並ぶところまで上がったが、後方の強豪たちが続々と自分を追い抜いく体制に入っていく。磨き抜かれたその戦意と実力を制圧し切ることは、どう考えても不可能だろう。
ラプラスはレース中でも冷静である。それ故、視界に映る光景の意味を理解した。
自分は負けるのだ、と。
屈辱も悔恨も、不思議なことだが、そこになかった。
へー、バ群に沈むってこういう感覚なんだ…と言う、実に奇妙な感慨があった。
後方での入線。何着かは分からなかったが、大敗には変わりないだろう。
人々の期待に応えられなかった、という無念さはもちろんあるが、毎度毎度勝てる、ということもレースにはない。逆に3着以内を保てているこれまでがおかしかっただけで、大負けすることもこの世界では決して珍しくはないのだ。 次は頑張ろう、そんなふうに少しでもポジティブになろうと、ネガティブさを押しつぶしながら、歓声の沸く中、ラプラスはコースから戻り始めた。
んん?おっと…
声を出したかどうかは分からないが、その場に倒れこんでしまう。芝の柔らかくも刺すような感触が顔に刺さった。
こんなところで転ぶのも変な話だなあ、ちょっと恥ずかしいかもと思って、すぐに立ち上がり…立ち上がり…立ち上がり……
ーえ?
体を起こせない。 起き上がろうとする瞬間に、右足に痛みが襲い掛かり、思わずひるんでしまう。 もう一度、と起き上がろうとして…より強い痛みが、今度は全身を突き抜けた。 声すら出せない痛覚の衝撃により、その場に仰向けに倒れこんでしまう。 気分が悪くなりそうなほど青く清々しい空が、空が、視界を埋め尽くした。 「やっばコレ…全然動けない…」
『現段階でこれだけの負荷がかかれば…とにかく、トレーニング中もレース中も負担のケアが必須です。無理はしないようにしてください』
医師の顔が脳に浮かんだ。
原因は理解できた。最近の独断による強めのトレーニングと、このパワーのいる馬場が、筋肉なり骨なりに破綻をもたらしたのだろう。回すだけに留めておけばまあ耐えきれたかもしれないが、それでも勝ちに行こうという走りが、肉体の許容値を超越してしまったのだろう。
流石にやりすぎたようだ。これが現実なのだと受け入れるしかないことは承知しているが、それでも後悔が心を埋め始めている。 勝とうとして必死になっていたのに、結局負けた上にこの有様だ。非効率この上なく、滑稽な限りだ。
…なんとしても勝つ?
…そもそも、誰のために?
というか、なんでこんな思いをしてまで?
「誰か担架を!急いでください!大丈夫なの!?」
ぼーっとした思考を、少女の大声が現実に引き戻した。記憶をたどり、発したのはグランドカプリースであると判別する。 観客席からもコースからも、ざわめきが聞こえてきた。こりゃちょっと経ったらウマッターなりウマチューブなりに映像がアップされるから見てみようか…という変な考えが、何故か脳裏に現れた。
意識があいまいになる。痛みが疲労感を増大させて、自分を押しつぶそうとしているのだと、ラプラスは理解できた。
医療班が駆け寄ってきたあたりで、彼女は眠気、倦怠感、痛みの連合に降伏する。瞼が閉じ、その視線が見る世界は、闇に包まれた。 |
+ | 「がんばって」 |
「わたし、おてがみかいてみたい!」
「ふうん、誰にだい?」 「あのかっこいいうまむすめさん!わたし、『だいファン』なの!」 「そうかい。確かにあの人は怪我で大変らしいからねぇ。応援してもらったら、きっと喜ぶと思うよ」 「うん!あのひとをよろこばせてみたい!」
学園のベンチに、彼女は近づく。右脚にギブス、両手には松葉杖。何かしらのトラブルがあったことが明らかな風体で、彼女はゆっくり、腰を下ろした。
太陽は西に傾き、空の橙色は、これから訪れる闇を待ち受けている。学園の生徒なら、まだ練習の終盤の時間といったところ。彼女がこのベンチで暇を紛らわしていたのは、言うまでもなくこのような状況に追い込まれたトラブルのせいだった。 ふと彼女の脳裏に妙な欲求が現れ、肉体に対して行動を指示した。空の茜色を見つめたあと、ベンチに座った際に立てかけておいた松葉杖の片方を持ち、それを空に向ける。 「バン!」
勿論、何も起きない。
松葉杖を空に向けつつ、その虚無を感じながら数秒経ち、状況は元に戻った。 「あー、暇」 その愚痴を聞く相手は周囲にいなかったし、聞かれることをそもそも求めてもいなかった。
不幸の中にも幸運はあった。
ラプラスは確かに骨折していたが、それは現役生活が危ぶまれるような程度のものでもなかったのだ。相応の負傷は、待つことさえできれば、治癒力が自然と修復してくれるものである。 ただし、程度の大小に寄らず、待つことは事実として変わりない。その間もちろん運動はできないから、ラプラスは練習風景を眺めるか、レースに関して知識を得るか、あるいは長めの余暇と扱いながら過ごすか、と言ったふうに時間を過ごすしかないのである。 彼女はポジティブな方だから、最初は「公然と練習を休める」と多少なりとも喜びを感じ取っていたが、気づかないうちに飽きが訪れた。 オフだけが続く日常が、やがて無為の感覚を押し付けてくる。人は、同じことをあまりに長く続けられないようにできているのだ。 そのうち彼女は気づいた。自分自身で思っていたより、自分が努力していたことに。
「さあ外からグロリアスブレイズだ!外からダービーウマ娘が突っ込んでくる!」
東京レース場の直線では、最後の競り合いが繰り広げられている。(厳密にはこの後に第12レースが控えているが)東京開催のトリを飾る大レース、ジャパンカップ。ダービーと同じ舞台を、ダービーと同じように外を通って、グロリアスブレイズが駆け抜けていく。 「2番手はグランエトワール、さらにヒシセフィラムにクリシュナも前に出たが!先頭グロリアスブレイズだ!グロリアスブレイズ先頭でゴールイン!ダービーウマ娘が快挙達成です!グロリアスブレイズ、クラシック級がジャパンカップで堂々の勝利を収めました!」
友人の偉業を、スタンドから彼女は見ていた。耳には割れんばかりの熱狂の音が流入する。
何故か、彼女のところに向かって声を掛けに行く気になれなかった。もちろんうれしくない筈がない。歴史的な瞬間を観客席で見れた、あるいは見せてくれたことへの感謝は大いにある。表彰式を終えた彼女に駆け寄り、抱き合って祝福するのも悪くないと、確かに感じている。
だが、嫉妬ではなくても、それに近しい何かのせいで、気分を表に出したくなかった。
自分が得ることのできなかったクラシック級での勝利を、彼女はやってのけた。ブレイズがとてつもなく強いことを、ともに走っていたラプラスは良く知っている。 完全かそれに近しい、そんなレースをしても勝てない相手がいると、彼女は精神で知覚していた。 ああいう相手がこの世界には…彼女だけではない、複数いる。立ち向かうなら、自分は数か月のブランクと言うハンデを背負い込むことになる。そうやって、あの圧力と競い合わなければならない。 そして、彼女はあの圧力を、より強い力で叩きのめしたのだ。
勝てない。
あのダービーの時より、明瞭に感じる。 その思考に支配されて、彼女はしゃがみこんだ。
ふと、彼女は心中の囁きを聞いた。広範な知識が、それと知らせずに忠告をしたのかもしれない。
あるいはこの世界が、ふとした思い付きと言う形で、彼女に語りかけたのだろうか。 「これは特別などではない。普遍の思いでしかない。歴史はこの思いを幾千も生み出してきた」 「逆らう必要などない」
この年のカレンダーが、そろそろその需要を終える時期。
トレーナー室で適当な日常会話が交わされている。話題はやがて、ウマ娘の側の近況についてのことに自然と移り変わった。 「やっぱ大変か?リハビリ」 「正直に言うと…まあ、そうですかねー。運動不足はキツイなーって」 「まあ、無理せずにな」 「元からそのつもりですよ」 そんな会話を暫く続けていたものの、実のところこれは深刻な話題への入り口でしかないと、彼女は信じている。適当なタイミングを見計らい、彼女はふとした願望を伝えようとしていたのである。 言い出せば、それで終わりだ。彼は残念がるだろうが、それでも意思を尊重するだろう。 さあ、口を開け。妙な抵抗心などに負けずに……
「…やっぱ、やめたいか?」
背筋を電流が通り抜ける。 彼女が思って、発する直前に達して、しかし確かに口には出せていなかったことを、日常の様子と何か言いたげな雰囲気とから読み取り、彼は的確についた。 「たぶん、きっと、一時の気の迷い…って奴のはずなんですけど」 自分の口調が、台詞に対して否定気味なことに彼女は気づいた。 「そっか」 トレーナーは下を向く。思考しながら、彼はその言語化に時間をかけていた。 沈黙の中で、どちらが先に言葉を続けるのか、そんなくだらない探り合いの均衡が続いた。
「そりゃ、辛いわな。ただでさえ日々大変なのに、そのうえ時間も空いて、周りの強さも良く知ってるんだからな」
先に切り出したのはトレーナーの方だった。 「だって、こうやって落ちぶれて…ああ、失礼な言い方ですけど、とにかくうまくいかなくなって。そうやって『未完の大器』なんて言い方をされるウマ娘なら、歴史上大勢います。今の私は…もともと大器なんてほどじゃないと思いますけど、そんな感じになっていくのかなあ、って思うと、やっぱり…」 二人の発言の手が終わり、また沈黙の均衡へと時間は逆流する。
「こういうことを言うのは、少し憚られるかもしれないけど」
ある決心が、彼にその均衡を再び破らせた。 「君の気持ちも分かっているつもりだ。君と同じようなウマ娘が大勢いることだって良く知ってる。けど、それでも引き留めさせてくれ。聞き入れてくれなくたっていい」 彼は立ち上がると、トレーナー室の棚に向かった。引き出しを引き、蓋のついていない箱を一個取り出す。 「早いところ見せとけばよかったな…渡しそびれてたんだ」 箱をテーブルの上に置く。ラプラスはその中を覗き込んだ。封筒が群生している。 「読んでみてくれ。みんな君宛てだ」 少し浮き出た興味の顔つきを維持しながら、ラプラスはそのうちの一つから、便箋を取り出した。
『アドマイヤラプラス様へ。デビュー戦で見かけてからずっとファンです。いつかG1を勝つ姿を見せてください!』
『足のお怪我で大変かと思います。無理せず堅実に、少しずつ歩んでいってください』 『シルバーコレクターの星…と言っては失礼ですが、あなたの確実な強さに惹かれました。私も船橋で、堅実に、少しずつ頑張っていきます。』 『らぷらすさんはれーすでいつもがんばっていて、すごいなーっておもいます。わたしもらぷらすさんみたいに、すごいれーすをしてみたいです!』 『ラプラスちゃん、元気にしてたかな?クラスの中で一番レースが好きだったラプラスちゃんが選手になったと聞いて、とても納得しました。応援してます!』
そんな調子のファンレターが、満載されていた。
「みんな…俺も含めて、君に走ってほしい。エゴではあるが、それでも君が走る姿をもう一度見てみたい。そういう人たちは、君が思ってるより大勢いる」
言葉が続く。 「考えてもみるといい。重賞を勝って、皐月を2着、ダービーを3着に持ち込むウマ娘。故障しながら、それでもなお、少しでも立ち上がろうとしているウマ娘」
「もう君は、どこかの誰かの夢に、願いに、希望になっているんだ。勿論、俺も含めて」
「…重いなぁ」
うつむきながら、文字の列に視線を落として、彼女は小声でつぶやく。 「重いよ、期待が。いやあ、本当に」 漏れ出るため息を抑え込むように、彼女の右手が顔を軽く覆う。 どんな人生が、どんな日常が、どんな夢が、この文字列を動かしたのだろう。皆、彼女の見ず知らずのものばかりだ。 期待に応えることは義務ではない。彼女は自由な一人の人間で、それを見ていた見ず知らずの人々は要求ではなく、申請を行っているにすぎないのだから。いくらでも拒否はできる。 それが楽なのだから、そうすればいい。ターフを早々に去って、あるいは足すら踏み入れずに、よりよい生活を手に入れた人々など幾万といるのだ。 苦しみにあえて向かい続けることなど、人生の概形では非効率でしかない。
だとしても。
そんなに求められたのなら、応えたくなってしまう。
かつての自分が希望を求めて、誰かがそれに応えてくれたように。
強制力に見せかけた確かな意思が、そこに姿を現した。
「もしも、ではありますけど」
逡巡の果てに、少女は口を開く。 「仮に…私がこの後に勝てたなら」 回答のある程度読める質問を、それでも確認したいと感じた。 「この人たちは、楽しめますかね?」 「ああ、保証するとも。誰がなんと言おうが、絶対に譲らない」 「…重くないです?」 「このくらい信じれる奴が良いトレーナーになれる…かもしれないからな?」
とうに良いトレーナーだと思っている…という言葉を伝える必要性を、彼女は感じなかった。
「はは…はあ…まあとにかく、もうちょっとだけ頑張ってみます。駄目で元々です」
ー数年前、トレセン学園の一室。
とあるウマ娘が、トレーナー室の椅子に腰かけていた。
この年に彼女が掴んだダービーウマ娘という栄光を、秋に発覚した屈腱炎が持ち去っていった。トウィンクル・シリーズを諦め、ドリームトロフィーへの移籍を行うために、彼女は日々を多忙に過ごしていた。 期待と不安の両面の圧力の中、記憶にも残らないような日常の1コマの中の、確かな事実。
「ファンレターか?」
「子供の字だね、これ。流石に住所とかは親御さんが書いたやつだけど」 「読んでみてくれるか?」 彼女は、荒くたどたどしい文字に視線を集中させた。
『こんにちわ。あしのおケガはだいじょうぶですか?いたくはないですか?わたしはあなたのだいファンです。ダービーがとってもかっこよかったです。わたしもかっこいいひとになるのでがんばるから、これからもがんばってはしってほしいです。
『らぷらす』
「だってさ。小さなファンさんからも期待されるなんて人気者はつらいね」
「あんなレースをしたんだ、皆が君に心を惹かれるのも当然だとも。やる気は出たか?」 「やる気ならいつだってあるけど、特別強くなったかも。だってこんな小さな子に期待されたなら、夢をもう一度見せてあげる責任があるんじゃない?」 「そうか。何、君ならどこでも勝てるとも。君は僕が見てきた中で間違いなく一番のウマ娘だから」 「わあ、重い期待」 笑いながら、彼女は悪筆の名前を見つめた。
ありがとう。私もやってみるから、君も頑張ってね。
どこかの誰かに向けた独り言を、彼女はつぶやいていた。 |
+ | 少々休暇 |
正午前、練習用コース。
ターフの上を駆けるアドマイヤラプラスの勢いは、コーナーに入ってさらに増していく。やがて直線で最高峰となり、勢いを保ちながらゴール位置を通り抜けた。 同時にトレーナーが、ストップウォッチのボタンを押す。固定されたデジタル数字が、彼女の能力が戻りつつあることを証明している。
「上々!」
「わーい」 やや抑えめな喜びの表現とともに、ラプラスはトレーナーのもとに向かった。スポーツドリンクの入ったペットボトルが手渡される。 「問題ない、能力水準はほとんど戻ってる。流石はG1候補ウマ娘だな」 「候補は正直いらなかったんだけどなあ…いやシルコレ組にもそりゃあ味はありますけども」 ボトルを口から離しながらラプラスは言う。彼女の執念は決して強いわけではないが、それでも思うところの無い筈はなかった。特に皐月賞。 「で、これからもう一走…な雰囲気じゃないです?体調はまだまだ大丈夫ですけど」 「まあそうなんだろうが、念のためだ。体の仕上がりのおかげで丈夫になったと言っても、まだ怖さは残ってる。下手にやり過ぎると健康に悪いのは君だって良く知ってるだろう?」 「…人の黒歴史には触れないのが礼儀ですよ」 「黒歴史なんだ…まあとにかく今日は終わり。自主練するときもやりすぎは控える。後はアイシングも忘れずにな」 太陽がちょうど頭上に輝き、風は春の目覚めを告げつつあった。
「予期せぬフリー時間…」
学園近くの公園のベンチで子供たちを見守りながら、一定まで飲み終わったはちみー(Mサイズ、濃さ硬さともに普通)のストローを口から離して呟く。 この土曜日は元々一日練習のつもりだったのだが、好タイムと配慮によって思わぬ予定変更が入った。公然と休むのは彼女の好みではあるが、そうは言っても急が過ぎれば面食らうものだ。 ともかく状況は良好であるのだから活用しよう…と思いつつ、彼女はまた一口すすった。
しばらく経ち、彼女があてもなく歩いていたのは、近隣のショッピングモールの2階。休日の午後と言うこともあってか、老若男女が賑わいを演出している。
ファンからサインを求められる…と言うことは残念ながらなく、彼女はあいも変わらず専門店街の喧騒を旅していた。数人がこちらをじっと見てきた気もするが、少なくとも声を掛けられることはなかった。煩わしさはないとはいえ、これはこれでよい気分でもない。
とりあえず書店でレース雑誌でも漁ろうか…と思い、エスカレーターに近づいたタイミング。
「おー、ねえキミキミ!」 聞き慣れていないが、しかし記憶に残っている声が、自分を呼んできた。方向に顔を合わせた瞬間に、声の主を発見する。 「あ…どもー」 「よっす!ブレちゃんのダチちゃん、友達のフレンドもフレンド!」 「海外帰りみたいな話し方になってる…」 秋華賞ウマ娘、フルールドゥオーロも、ちょうどここで休日を過ごしていたのである。
「お待たせしました、『春のフレッシュフルーツパンケーキ ホイップ増量』です!」
「おー!映える映える!色とか映えるっしょ?」 「映えるね」 「いや、反応薄くない?濃縮還元何倍なのそれ?」 「何そのめんつゆみたいな表現法…」 そんなことを言いつつも、ラプラスは律義にカメラアプリのシャッターボタンを押した。
場の流れが、二人をフードコート店のパンケーキ専門店に連れてきた。
流れに乗った二人はおもむろにフォークを取り出し、フルーツ部分とクリームを巻き込みながら、パンケーキを切り取り、ほとんど同時に口に運んだ。 「んん、よきよき!このフルーツのバン!ってのとクリームのドドン!ってのにパンケーキ部分のふわあ…ってのが最高にベストマッチグー」 「表現法が少年誌にバブル期を混ぜたみたいになってる…でも確かにおいしいね、コレ。今度ブレイズに教えよっかな」 「あー、ブレちゃんなら数回食ってるよー?アタシらも込みで」 「……あの子交友広いねー」 謎の敗北感とともに、フォークが運ばれる。甘みと引き立ての酸味が口の中に広がり、セットで注文したコーヒーの味を要求した。まあ、彼女は誰からも好かれるタイプである。流石に妥協の圏内だ。妥協というのもアレだが。
淡々とパンケーキとフルーツを口に運びながら時間は過ぎ、両者の皿から商品が無くなったころ。
「ところでお主さあ」 「お主?」 何故か古語になりつつ、フルールは先ほどからの思い付きを伝えた。 「こう、シンプル過ぎね?服が。人それぞれだし悪いとは言わねーけども、それ込みでも」 「あー…まあ、興味なかったからなあ」 実用性を追求した白のシャツとジーンズを軽く見ながらラプラスは言った。 「C組のファッションリーダーのフルール先生がコーディネイトしてしんぜよう。アタシみたいな雰囲気でね!」 「…おー」 興味なさげな中にも多少は意欲の含まれた反応を返しながら、ラプラスは相手の服装を改めて見返す。ふと、再認識する。眼前の少女は、俗にいうところの「ギャル」らしさがあった。へー、悪くないじゃん…と思ったあたりで、状況の新たな認識が可能になった。 「…ちょっと待った、その服みたいな感じって…割と過激じゃnあっちょっと待って」 「良いではないかー、良きに計らえー!」 「悪代官と殿が混ざってるー!?」 手を引かれながら、フルールの背中の肌色が見える。へそ出しのファッションだから当然のことであった。おそらく彼女の狙いは「この手」の服装の普及…流石に恥ずかしい。 危惧の通り、この後数時間、ラプラスは無事に流行と趣味の実験台として過ごすことになった。
「あー満喫したわー…そっちはどーよラプラス先生?」
「なんていうか…まあいろいろかな。次服買う時も参考にしてみるかな」 財布のキャパシティが原因で今回は見送ったものの、ラプラスはフルールのセンスの良さは感じていた。 「うんうん、よろしいよろしい。ファッションの可能性は無限大だかんね。つーか割と楽しかったっしょ?」 「まあ…結構?」 二人は駅から寮への帰り道を歩く。世界は夕焼けの色に変わり、やがて来る夜の訪れを待っている。実時間も体感時間もそこまで長いわけではなかったが、それでも奇妙なほど、二人は満足していた。
「ねえ、ちょい聞くけど」
「どしたの?」 歩きながら、フルールの側から会話が始まった。 「そりゃまあ、負けてうれしくなる人なんてこの世にはいないとは思うけどさあ」 「つまりつまり?静かな岩の上にも三年みたいに、どんな時でもあきらめずやるのが正解なん?」 「ことわざと俳句が混ざってる…まあ、それでいいんじゃないかなあ」 「…はぐらかされてない?」 「この手に関しては基本は単純で良いと思うよ。あ、後はこっちからも質問あるんだけど」 特に意味のない、答えの見えた物だが、質問をできる相手のいない質問を、彼女はした。 「G1で勝つって、やっぱ嬉しい?」 「そりゃもう、ガチですげーめっちゃくっちゃ!」
移動はやがて、二人を終着点に導く。ここで一度別れることになるのを、二人は察していた。
「んじゃ、互いに頑張ろーぜ奥方様」 「未婚…まいっか、そっちも元気でね」 そうやって二人は、互いの寮の方向に向かっていった。 休暇の意味は、その終わった直後には分からない。ただし、その後しばらくの様相が、その価値を定めるのである。 |
+ | あるウマ娘の回顧 |
「本馬場入場を終え、各ウマ娘がゲート前でレースの始まりを待っています。実力派のウマ娘が揃いましたが、どのような展開に…」
発走時刻が近づいている。
今日の1番人気を背負う私-ケイティファミリアにとって、G2の舞台は初めてだった。 本格化が遅かったために春のクラシックには間に合わなかったものの、オープン戦で力を付け、年初のの京都金杯で重賞を初制覇。人気を背負うだけの実力はあると自負している。才覚は平均を大きく超えているし、それを引き出す相応の努力もしてきたはずだ。 シニア級の重賞だけあって、なかなかの面子が揃っているが、「一人分からないのを除けば、君の実力は間違いなく最高だろうね」とトレーナーは言っていた。今の勢いのままなら、確かに私もそうと信じれる。
そうなれば問題なのは、「分からない」相手。今日の2番人気、アドマイヤラプラス。去年の春を賑わせた彼女は、怪我明け第1戦にこのレースを選んでいるのだ。
実力は確かだが、怪我によるブランクや心の根底にこびり付く走りへの恐れは大きな要素になりえる。彼女の怪我は復帰できる程度のものではあったようだが、それでも練習を長らく休まなければならないダメージではあったのだ。 勿論恐れないわけではない。彼女は去年の最優秀クラシックウマ娘、我が世代のダービーウマ娘たるグロリアスブレイズにすら先着したこともある強者だ。しかし、私の心は、確実に強者の打倒のために盛り上がっていた。 待機の中、私はターフの上で彼女を見据える。やがて強い視線に気づいたか、彼女もこちらに視線を向けてくる。 レース前の割には微妙に緊張感に欠けた気楽そうな表情が、記憶に残った。 ターフ上のそんな雰囲気に見て見ぬふりをするように、楽団の鳴らす音が、観客席の拍手を呼び込んだ。
「最後に大外枠がゲートイン終了。勢いに乗るか、あるいは猛者の復活か、それとも新星登場か?金鯱賞、スタートしました!」
門が開かれ、肉体が一気に活力を得る。
今日のレースには積極的な逃げ組はいない。好スタートだったであろう強敵も無論先行しているが、先頭には立たない。最終的に、スタートの良かった6番が先頭に押し出される形になった。私はその様を見ながら、後方でレースを進める。 向こう正面に入っても大きく変化はなく、レースははよどみなく流れていく。バ群のやや外側を進み、コーナリングをやや犠牲にはしつつも、直線で確実に決めることを狙う筋書きだ。 仮に6番の彼女…プリンピキアが逃げの巧者だったら、また異なる走りをする必要があっただろう。しかし彼女は逃げているのではなく、単に先頭で走っているというだけだったから、変更の必要はあるまい。
直線の出口に達し、第3コーナー。
緩やかな下りと中京のコーナーは、私のような後方仕掛け組を優位にする。学園で繰り返したコーナリング練習の成果は確かにあった。スムーズに外側に持ち出し、視野が広がる。外側の荒れていない馬場と、最後の急坂が視線上に広がる。 ラプラスを見れば、さすがにうまく立ち回っている。急なコーナーでありながら速度を維持…むしろ加速するような勢いで、逃げているプリンピキアを交わす寸前にまでたどり着いた。とはいえ、彼女もこれで足をある程度使ったはず。実際、直線の速度そのものはやや落ちているように感じられる。 今や先頭に立ち、押し切らんとする2番人気との距離が縮まっていくのが見て取れる。眼前の坂すら一気に飛び越えるような力が沸き上がり、観客の歓声を肌で浴びる。確かに彼女は猛者だったが、それでもなお私の勢いが上回ろうとしていた。 ここはまだ通過点。今の私なら、さらに上に向かえるという信念が、先頭を進むアドマイヤラプラスを捉える-
妙だ。確かに距離は詰まってきている。しかし接近の速度は、依然として遅いまま。これまでで勝ってきた中で、最も遅いのだ。まるで、相手がこのまま勝ち切るかのような速度。
違う、「ような」ではない。
自分の推測が違うと、理解できた。 彼女の勢いは「弱まった」わけではない。彼女は「弱めた」に過ぎなかったのだ。おそらく相手の実力と展開とを割り出し、脚への負担を抑えるために若干流すことにしていたのだろう。これから近づいたところで、彼女のスタミナはまだ残されているだろう。 そう、勝ちを狙っている私と違い彼女にとってこのレースは…あくまで「叩き」でしかない。
気づいた時には…いや、気づく前の段階から、自分と彼女との差はあまりに大きかった。
次の瞬間、こちらに一瞬視線を向けていた彼女が、即座に向き直し、足をより前に踏み込む。直後、もうすぐで追いつけそうな距離は、少しばかり、しかし絶対的な距離に拡張されていた。
「アドマイヤラプラスだ!世代の強者が、復帰戦を勝利で飾りました!」
やはり、王者候補は何かが違う。その思いのまま、1着のゴールからほとんど時を置かず、私はゴール板を通り抜けていた。
目の前にはペンライトと観客の群れ。歌詞の最後の部分と同時に、最後のポーズを決める。同時に喝采が巻き起こり、無事なライブの終了への安堵を感じた。
一応非センターダンスの練習をしておいたのは無駄ではなかった。勿論無駄にはしたかったのだが…
袖を抜けて、衣装の着替えのために控室に向かう最中、ふいに彼女に声を掛けられた。
「いやー、正直思ったより強かったよ。実際焦ったし。後200長かったら正直まずかった」 謙遜だろうが、しかし本音にも聞こえた。勝者から肯定されると、自尊心も多少は守られるというものである。言ってて悲しいが。 「それはそれとして、金杯のレース運びほんとによかったよね。ちょうど中継で見てたんだけど…」 急に私のことに話が変わる。話によれば、彼女は幼少期からのレース視聴ファン。自分のレースも見守っていたとのこと。自分たちの世代が勝つのはやはりうれしい、なるほど、それなら勝つ甲斐も新たに生まれるものだーそんな風体の会話が、脈絡もなく行われた。
「ところで、思ってたことがあるんだけどさ」
妙に真面目な顔になる彼女。何か相談でもあるのだろうか?いや、1回走っただけの相手に相談というのもアレだが。とはいえ「一度走ればみんな友達」なんてセリフも子供向けアニメにはあるくらいだし… 「一般ライブ服の露出って強めじゃない?へそは言わずもがな、トモ部分も結構出てるし…前に『トゥインクルシリーズ ライブ衣装写真スレ』ってのを見つけたことがあって、そこに…」 え?あ、うん…話題がコロコロ変わるな…脈絡なく… 自由気ままでマイペース、それでいて実力者。それが彼女なのだと、なんとなく理解できた。
部屋に向かいながら、ふと先まで会話していた今日の最大の敵を振り返った。
強いとしか言いようが無い。おそらくこのまま2週間後に挑んだとしても、勝てるかどうか。自身皆無ではないが、喪失があるのも事実。 いっそ予備登録しておいた香港に…海外に「逃げる」なんてのも妙な話だな。そんなことを考えつつ、私は控室のドアノブに手をかけた。
控室。勝者とその育成者とが合流する。
「ほい、お疲れ。前途洋々でいいじゃないか」 「まー、思ったより気分よく走れましたかね。感覚はそこまで覚えてなかったんですけど、その分事前予習しといてよかったです」 「この分なら大阪杯もかなり行けそうだな。じゃあ、勝利祝いと行くか。何食う?」 「名古屋名物ひつまぶし」 「高級志向な奴…まあいいか、重賞祝いだしな。幸いトレーナー業の給料はそのくらいの余裕はあるもんでな」 「さすがは我らがトレーナー、話が分かる!」
こういうわけで、勝者たちの1日は少しだけ続く。
愉悦の中で、彼ら彼女らは、2週後のさらなる戦いへの緊張を一時隅に置いていた。 |
+ | 強者はここに |
3月末。
一人のウマ娘が、携帯の画面に目をやる。 液晶に移される内容は不都合であったが、しかし避けがたい内容。逆立ちしても、こればかりは受け入れざるを得ない、そういう内容だった。 となれば、不都合を前提として、明日の予定を遂行する必要に迫られるだろう。幸い、その際の計画も彼女は立ててきたのである。だとしても予想が外れないものか、と若干願いつつ、彼女はベッドに倒れこんだ。 「明日の近畿地方は全体的に雨の見込みで…」
阪神レース場に雨上がりが訪れる。付随して虹色のアーチ形が空に現れ、SNSを少しだけ賑わせたのとほぼ同刻。アドマイヤラプラスは勝負服を着こみ、その準備を盤石なものにしていた。
「準備は済ませてきたはずだ。まあ沈みはしないだろうよ」 彼女のトレーナーが楽観的に話しかける。 「うわあ、プレッシャーがひどい。それはそれとしていろいろ相手はいますが…とりあえず、一番は彼女ですね」 「この距離なら君にも勝ちの芽は十分ある。何せコース体系の似てる皐月で、君は先着してるからな」 「そうはいっても、相手が相手ですよ?この間により強くなってるでしょうし、この馬場です」 「何、問題ないさ。それ込みで俺は言ってる」 トレーナーは若干笑う。「自分を信じろ」と言った雰囲気を彼が纏ったのを、ラプラスは読み取れた。 「俺はな、単なる楽観的観測はしないタイプなんだ」 「…そうですか」
一人のウマ娘が、地下バ道の出口の前にいる。足を踏み出せばすぐにでも物語は始まるが、それをやや躊躇しているように、他の人からは見えた。彼女は一つ大きく息を吸うと、それを吐き出して、精神の均衡を図ろうとしていた。
「なんでかなー、レース前に妙にばったり会うよね私たち」 知己の発した言葉を、グロリアスブレイズは聞き取った。 ブレイズがもう一つ深呼吸する。そして前に踏み出す…寸前まで行って、もう一度深呼吸した。 「あー、自分も地面も重い」 ブレイズがつぶやく。彼女には世代の代表を超え、一時代の代表としての重圧まで双肩に課せられている。彼女の活躍が背負わせた、逃げれない負担重量だった。
見かねたか、ラプラスがその肩をポンポンと軽くたたく。想定外の行動にきょとんとした顔を向けるブレイズに対し、ラプラスは微笑んだ。
「ハイハイ、リラックス。年度代表ウマ娘なんだから、皆期待してるよー?私も込みで」 「分かってる、気張らないとね。後はターフで」 もう一度の深呼吸。そこで覚悟を決め切ったのか、彼女は一歩踏み出し、その場を離れた。 力強い背中と足取りを、ラプラスの視線が追う。
「あー、敵に塩送っちゃったか?ま、いいか…」
全力の状態のブレイズと対決し、それを倒す。それなら王座も一安心。 「それ『言うは易し』の典型例じゃん、あーやだやだ」 それでも、彼女が歩みを止める選択など、最初からありはしない。 それで歩みを止める彼女なら、この場にはいないのだから。存在する勝算を投げ捨てる選択肢など、有るはずもない。 「んじゃ、行きますか」 自分自身に語りかけつつ、彼女は自分たちの世界へと駒を進める。
『やはり期待を持てるのはグロリアスブレイズ。クラシック級ながらジャパンカップを快勝、有馬記念でもハピネスブラックの2着、クラシック級ワンツーを決めた。ここまで上位入着率100%、柔軟性を生かした強烈な加速が魅力的。今年の初戦となる大阪杯でも間違いなく本命の一角となるだろう』
『一方、最大の対抗となるのはアドマイヤラプラス。去年は惜しくもクラシックには及ばず、さらに故障により休養を余儀なくされていた彼女。そこから復帰戦の金鯱賞を快勝し、実力健在をアピールしてみせた。そつなく先行しスピードとパワーを発揮するバランスの良さは相当。注目に値するだろう』 『また、更なる候補には…』 (情報サイトの記事より)
ファンファーレが鳴り終わり、1番のウマ娘が、ゲートの中に入る。やがて自分の順番も終わり、ごく狭い空間に閉じ込められた。
ここは必ず勝つ。祝勝会の料理を気楽に食べれるように…ではなく、ここまで届けさせてくれた、「誰か」の集合のために。まあ前者も事実…と、余計なことを考えている場合ではない。 「ゲートイン完了。中距離路線の頂上決戦、春の仁川の桜を突き抜けろ!」 一瞬世界が止まったかのような静寂が、また別の一瞬とともに崩壊した。 「大阪杯、一斉にスタートしました!」
予定通り、ラプラスは4番手のあたりを最初のポジションにした。
先頭に立った1番が好枠を生かして先頭に立ち、バ群はそのまま第1コーナーに展開する。 1番はペースをそのまま維持したため、各ウマ娘には短いながら休息と思考の余裕ができていた。この安穏の中では、しかし様々な思惑と信念らが陣取っているのだ。
レースが動いたと判断できたのは、後ろにいた10番のバンシーキャットが、ポジションを上げ始めたときだ。
体内時計による正確なペース把握が彼女の持ち味だと、事前のデータ収集が示していた。彼女のトレーナーのこれまでの担当もそういった傾向が多いことを考えると、後天的な努力の成果と推定できる。 その彼女がここで位置取りのため動いたということは、思いの外このレースはスローで進んでいる。他の相手も気づき始めたか、コーナーの入り口、各自の動きは激しくなってきた。 スローそのものは先行勢にとっては好都合だが、1番は逃げに関してはかなり鍛錬してきただろう。逃げ切りを許すわけにはいかないと、より前に出る。
コーナーを回りながら、ラプラスはさらなる加速を成功させるつもりだった。脚のピッチを上げつつ重心を下げ、しかし内側に寄り続けるように、坂を回り込んでいく。
足元には、降り続いた雨によって重量感を増した芝。視線の先には最後の坂道、左手には満員のスタンド。目論見通り、直線入口で絶好のポジションを掴んでいた。ここまで計画通り、ここからも能力が許す限り、プラン通り進めば良い。 観客の固唾を飲み込む音が、聞こえる気がする。おそらく、自分自身このレースを見ていればそう思っただろうから理解できた。 脳裏によぎるのは、去年の天皇賞。自分を押さえつける理不尽な力と物理法則、それに痛覚が思い出され、一瞬体を止めそうになる。
「またあの感覚を、痛みを、苦しみを、お前は体験するかもしれないぞ?」
聞こえてきたそんな声-おそらく、自分自身の心が生み出したそれを、彼女は振り払った。 「どっちも意外とどうにかなるのが多いっての!」 視界の先には、真っすぐな、少し濁った色合いのターフの道が見える。
ブレイズは後ろから猛然と追い上げているであろうが、いっそもう無視だ。ただただ前へ。誰もが持つ勝利への執念が生み出したプレッシャーは…こっちも無視。程度の差があるとしても、勝とうとする意志なら、自分の心の中に、確かに生きている。
顔も知らない誰かに応えるために。顔も知らない誰かが送ってくれる声援を、彼ら彼女らに返すために。 「勝ってやる!」 そう、絶対に。 そんな気概とともに、坂へと一歩を踏み出した瞬間。
不可思議な、この場では認知しえない筈の感覚。ただ一人だけの世界。
一瞬世界が止まったかのような、突然の静寂。広がった暗闇の中で、どこかを突き抜けた光が、ゴール板に向けて飛翔した。
そうだ、あの光とともに。
光を追いかけろ。追い越せ。踏み込め。全て叩き潰せ。 自分のレースが、一つの完成を迎える。そんな全能感が神経を駆け巡り、相応に蓄積されているはず筋肉の疲労が消し飛ぶような、そんな感じがした。
【complété ciel étoilé】
アドマイヤラプラスの加速は一切緩まらず…いや、むしろ突き放していき、他の相手が差を詰める暇など与えはしなかった。あらゆる観客が、このレースの勝者を一瞬にして確信する。そんな走りが、仁川の坂を突き抜けていった。
「アドマイヤラプラスだー!これがG1初制覇!最後は一気に押し切りました!」
夢を見ていた後のようなふわふわした感覚の中にいた彼女が、感覚を取り戻す。
すでにゴール板は通過し、勢いのまま進んで、コーナーの周辺で減速しつつある。聴覚が世界に復帰し、いくつかの会話と、それをかき消す大音量の歓声に埋め尽くされた。
そうだ。自分は勝ったんだ。G1を。
喜びより、安堵感の方が先に出て、天を眺める。朝の雨空は、予報通りこの時間には晴れに変わっていた。 やがて、感情が新しく現れた。彼女は喜びをあまり表に出さない質だ。それでも内心で、これ以上ない喜びが、内面の世界を埋めている。 自分が表紙を飾る雑誌、あるいはSNSのトレンドに上がる「アドマイヤラプラス」の文字…そういった空想をしながら、電光掲示板を見つめる。 まず、一番上に4番、つまり自分のゲート番号が点滅していて…
妙だ。電光掲示板には、どこにも…8番が見当たらない。
2着ならまだしも、3着に、4着に、5着に…いない。どう見ても。 ターフビジョンのスローストップに視線が移る。最初に自分が駆け抜け、その後の…バ群後方に、彼女はいた。
何かを察して地上に視線を映したラプラスの視界には。
顔をややうつむかせながら帰っていく、グロリアスブレイズの姿。
「あ…」
物理的には遠くもない距離の壁が会話を阻む。ブレイズがコースを去っていくのを、彼女は見ているだけだった。それが勝者の権利だった。 このスローで上がり切れなかったのか、馬場に足を取られたか、マークが集中したか、あるいは何か故障でも… いろいろ脳裏によぎったが、レースそのものを見ていない以上、確実な結論は現れなかった。
考える余裕はない。最後にコースに残された彼女は、観客に手を振りながら、直線入口に向かう。様々な形の声が、釈然としない心に聞こえてくる。
人は不思議なもので、怒りや悲しみ、あるいは驚愕の間でも、喜びや楽しみを思わぬところでに差し挟める物。 そういうこの世の法則をなんとなく思い出しながら、彼女はウイニングランに向かった。 |
+ | 感謝祭の一幕 |
「『アメリカの名ウマ娘ランキング』にて、1位はマンノウォー、2位はセクレタリアト、では3位は…」
「サイテーション」
「『三国志演義』などに登場する、猛将呂布に仕えたウマ娘は…」
「赤兎」
「アガサ・クリスティの小説で、オカルト要素を取り入れた作品として知られる…」
「『蒼ざめたウマ娘』」
「おめでとうございます!感謝祭クイズ大会、優勝はアドマイヤラプラスさんです!」
周囲から響く8割の賞賛に2割の儀礼を混ぜた拍手の音が、賞賛される立場の少女の耳に届いていた。
「とりあえずビワ先輩が他の競技参加でよかった。いたら準優勝だね」
「この手のは強いもんねー、あの人」 学園内に設けられた飲食用テーブルで、競技ウマ娘全体層の上位から見て、さらに上位の存在2名が会話していた。方や昨年の年度代表ウマ娘、片や昨年春のそのライバルにして、つい最近ついに立場を逆転したか、とまで言われるウマ娘。それでもレースの場を離れれば、そこにいるのは単なる人だ。 G1戦線の只中である春先であっても、感謝祭に限っては普段の形式を離れて楽しませ、また自分たちも楽しむのが、アイドル的存在を内包する競技者たちの習わしである。 ラプラスが焼きそば(屋台の手伝いに入ったグランドカプリース作)をすする音が、カラフルな喧騒に混じっていく。祭りがまだ始まって間もない、そんな余裕のある空気が、周囲を覆っていた。
「そういえば、ちょっと安心したことがあってさ」
ブレイズがオレンジジュースの入ったプラスチックカップを置いて、話題を投げかけた。 「安心?」 「『やーい大阪杯負けてやんの!バーカ!ザーコ!』みたいな声が無かったの。アンチ?的な奴がね」 「…その層はいても基本ネットで騒いでるだけだし、公共の場でそれ言ったらただではいれないくらい把握してるでしょ、さすがに。うわさに聞く闇レースじゃあるまいし」 「まあ、そっか」 勿論、大勢の人々…勝者のラプラスをも含んで、グロリアスブレイズ…昨年の年度代表ウマ娘の大敗は衝撃的な出来事だった。感謝祭の時期が大阪杯とほとんど差がないこともあって恐れがあるのも当然ではあったが、今のところは杞憂で止まっている。 そこからの連想により、ラプラスは、聞こうとして、しかし聞きそびれていた話があるのを急に思い出した。
「えーっと、こういう場で聞くのも失礼だけど…」
「本当に失礼だったら答えないよ?」 「あ、はい。……えー、単刀直入に言って、何がまずかったんだと思う?」 「そりゃ、フォームとか位置取りとか、あと馬場もちょっと…」 「あー、それはそうなんだけど、そっちでもなくて」 彼女の走りに問題が有り、精彩を欠いていたのは、終了後にレース映像を見返して研究したラプラスには既知の事項である。真の疑問は別のところにあり、変化を起こさずに疑問の状態をキープしていた。 「なんと言うか、こう、『何がそういう状況を作っちまったのか』みたいな具合で」
流石に口が重かったのかしばらくは沈黙があったが、それでもブレイズが黙秘権を使うことはなかった。
「気負いすぎちゃったのかなー、変に。『勝ちたいじゃなくて、勝たないといけない』なんて意識ちょっとあったし。あはは、今考えるとちょっと傲慢だねえ」 笑いを浮かべながら、それでも悔やむような雰囲気を払いきれない、そんな顔だった。 「みんなが私の姿を見に来てるんだ、勝たないと期待に応えられない、そういう思いが出すぎちゃったんだろうね、やっぱ。おかげで頭は余計集中できないし、気づいたらフォームもどんどん乱れてくるし」 「なるほど。やっぱメンタルって大事だなあ…当たり前か」 当然の事項は、しかし緊急の時にこそより重要性を増すものである。
「ヘーイ彼女ども!楽しんでるゥ?」
「口の悪い上に前時代的なナンパだなあ」 「『うわ出たよこいつ』みたいな目線やめなさいラプラス。フルちゃんも元気?」 「アゲてる☆」 フルールドゥオーロがジャージ姿で現れる。おそらく向こうも参加競技を終えたところだろう。 「フルちゃんは綱引きだっけ?」 「イエーッス。もう二の腕とか脚の当たりとかヘトヘトだわー…んでもこんな感じにパーティなメンバーで派手にテン上げしながら綱をプルするっていとグッジョブ」 「古文と英語の単語をある程度学んだのは分かったよ」 「でしょでしょー?この前、単語小テストギリ追試なしで行けたんだー!」 「おっ、やるね。成果出てるじゃん」 「……」 友人とともにいるとき、その友人がそれ以外の友人と話しているときは、結構一種の不満に近い心情を獲得するのが人間の一法則である。最もラプラスはそれを堂々と言うほどの嫉妬を感じもしなかったので、淡々と食事だけ続けていた。濃い目のソースの塩味が舌に残留する。
「あら二人とも、悪いねフルールの奴が世話になってて…」
一人のウマ娘が場に新しく姿を現す。それが少しばかり前のトゥインクルシリーズの短距離路線に欠かせなかったウマ娘、ブルームクイーンであると、一目で分かった。サイン用紙持ち歩いとけばよかったか…と思いはしたが、後悔に至るほどでもない。 「…ブルさんはアタシのママか何か?」 「アンタはどっかしらで目を光らせてないと何やるか知れないからね、フル子」 名前の呼び方から気の知れた仲をうかがえる会話の後、ブルームは二人の方を向いた。 「まあこいつは単純で不器用、おまけに頭もちょいと足りねえところもあるけど、それでも根はいい子だから、そこんとこ分かってくれよ」 「はい。勿論、そのことは知ってます」 ブレイズが回答する。ラプラスも心中と頷きの双方で同意を重ねた。 「なんか良くねーって感じの言い方なのは分かったんだけど?」 「いいとこも割と言っただろ?…そういや、クリスエスの奴が執事喫茶か何かに巻き込まれたって聞いたな。アンタも来るかい?」 「それは無論!オンコース!」 それはonじゃなくてoff…とラプラスは脳内で指摘しつつ、二人がその場を去るのを確認してから言った。 「みんながみんな、あのくらい純粋に生きれたら世界は多少平和かもね?」 「どうだろ?みんなが純粋だったら、返ってみんながみんなを許せなくなるかもよ」 思索のようで、しかし大して意味もない会話だけが残された。
喜ばしい時間の経過は、この世界に流れる時間が均質である事実にもかかわらず、確かに高速である。
気づけば、夕陽すらほとんど姿を消し、星々が地上を見下ろし始める時間が近づいてきた。オレンジ色に染まった空を、これと言って特別さのない話をしながら、二人が歩いている。 分かれ道に差し掛かる。ここから栗東寮と美浦寮への道へと分かれていく。2つの寮同士の友人が今日を楽しんでここにたどり着いたのなら、1日は一段落。開催は明日もあるのだから、しっかり英気を養う必要性に迫られるだろう。 「じゃあここいらで。また明日」 去ろうとして、しかしラプラスは急に翻意し、「あのさあ」とだけ呼んで、ブレイズを呼び止めた。 「言っとくけどさあ、いや急で悪いんだけども」 「何?」 不思議そうな視線を向けるブレイズに、衝動的で、しかし計画的でもある台詞を言い放った。 「…次は本気で来て。前も本気だったのは知ってるけど、それでもこれだけ言いたい」 息を一つ吸って、 「フィジカルもメンタルも最高にして、勝つつもりで来て。その上で、自分の強さを知りたいから」
流れる沈黙が生み出した、あれ、マズイこと言ったかなコレ…という考えを、聞き慣れた声による返答が的確に封じていった。
「分かった。本気でね」 ブレイズが親指を立てる。その小さな動作と微笑の中に、何よりも大きな決意が含まれているのが、ラプラスには確かに理解できた。 「じゃあ、また明日!」
おまけ・感謝祭の隅っこで
ラプトレ(元アウグストゥストレ)「何かあったならいつでも相談に乗ろう。思えばあの日々も昔のことになりつつあるが…俺は君の担当で良かったと、きっとこの仕事を離れた後でも思い続けるだろうな」 アウグストゥス「トレーナーさん…
重いです」
「すいません」
テイオー「…トレーナー、アーちゃんのトレーナーっていっつもあのノリじゃない?」
ブレイズトレ(元テイトレ)「新人時代脳焼かれ組だからな…」 |
+ | ニュースターは突然に |
生きるということは、時に流されていくということ。
大阪杯が終わったのち、気づけば春のクラシックが秋への土台に変化し、宝塚記念のファン投票は終了していた。 こうして訪れた現在の阪神レース場に、17人のウマ娘は集っていた。
「さすがはアドマイヤラプラスだ!調子は絶好調だな」
「見栄えもいいし、今日は期待できそうだぞ」 観客一人一人の小さな声が、パドックの熱気を形成している。 少し前まではその熱気の形成者としてこの世界に関わっていた彼女、ラプラスは、今更ながら、自分が熱源になっていたことを再認識した。 「いや、ここまでとは思わなかったんだけどねぇ」
時折、現実を見直してみると、なんとなく恐ろしくもなる。
地域のレースクラブから推薦を貰えたことから自身の才能には気づいていたのだが、それもせいぜい入学できる程度…それ以降は保証しないと思っていたのだが、そう考えて数年。気づけばG1ウマ娘としてこのパドックに立っているのである。その可能性を見出した人はいたのかもしれないが、少なくとも彼女の予定にはなかった。むしろ、これで行けるのならこの世界の才能の幅も狭いものだ、とすら思うこともあった。 尤もその才能を引き出したのは間違いなく彼女自身の少なくない努力ではあったが、今の彼女がそこまで思いを巡らせることはない。
パドックを引き上げていくとき、見知った顔がそこにあった。「あの」フルールドゥオーロ。軽いノリの性格ではあるが、これでも(?)秋華賞をきっちり勝利した強豪である。
軽く挨拶しようとして、ラプラスは急にその気を失った。 フルールの表情がいつになく深刻になっていたことを察し、声を掛けようにも何ともし難かったのである。それでも向こうから接してきてくれれば─と言うより通常のパターンでは向こうから絡んでくるのだが─、と考える。が、こちらに気づかなかったのか、気づいても会話をしないだけの事情があったのか。とにかく彼女はこちらに一言たりとも、何も伝えないままに、結局二人はすれ違った。 「アレが原因かな」 彼女には思い当たる節があった。
【1番人気フルールドゥオーロは10着】
『今日のヴィクトリアマイルで1番人気ながら10着に終わったフルールドゥオーロ。トレーナーは次のようにコメントしている。』 『「コーナーでインをつき過ぎたため、最終直線で前が塞がってしまい、切り替えにも時間がかかってしまいました。マイルは少し短かったかもしれません。残念な結果にはなってしまいましたが、能力の高さは言うまでもないので、今後はレースに関する技術も含め、より改善させていきたいです」』 (NetUmamusumeより)
「ありゃ綺麗な前壁だったもんなあ…」
嘆きを通り越して若干の笑いすら出てくるようなレースだったのは、逸走も掛かりも若干の斜交も経験していた彼女らしくもあるのだが、それでも初めて掲示板を外す格好になった彼女のことを考えれば、ラプラスは同情を禁じ得なかった。 マークの集中もあったにせよ、能力に比べて彼女のレースが稚拙であったことは事実。ショックが尾を引いていたとして、不自然なところはない。
先の、珍しく深刻そうなフルールが思い出される。自分の記憶に写っている顔は─
「いや、もしかするともしかするかも…?」 ─うなだれているというより、何かの決意を秘めた、そんな雰囲気だったことを思い出した。 思考の方向性が、唐突に旋回する。
物語の舞台は、すでにコース上に移動している。拍手に迎えられてターフに降り立った17人(フルゲート割れ)は、この日のための特別なファンファーレを耳にした。楽団の一糸乱れぬ演奏の後、拍手がこの空間の音を征服する。
「これをここで耳にする日が来るとは…」 感慨にふけろうとして、しかしラプラスは即座に気を切り替えた。ゲート入りまでの短時間、その間に走りの予定を再検討する。 各路線から強豪が来たとは言え、今回も最大の強敵がブレイズであることは変わりあるまい。普段通りの関係ではあるのだが、妙な緊張のせいで話す機会が無かった。似た事例なら前にもあったが、その再来である。となれば、結末の方も恐らくは変わりあるまい。
「『次は本気で』、か」
数か月前のファン感謝祭が終わった後の何気ない会話。普通大雑把な記憶しか残さない彼女にとって、いくらか例外的な事例がそれだった。前は空回っていたが、ブレイズが負けの一つや二つで大きな影響を受ける質でないことは知っている。最大限の強い走りに、全霊で応える必要が生じるだろう。この心境になると、不思議と恐れは感じていない。それを上回る覚悟を前にしては、恐怖は翼を失う。 となれば、怖いのは… 「むしろ、『あっち』かなあ」 コース内側に2つ飛んだゲートに視線を移そうとしたが、それをすると一瞬の出遅れに繋がりかねないとも思い、結局正面を向き続けた。
「復権か、連勝か、はたまたニュースターが生まれるのか!」
「宝塚記念、今一斉にスタートしました!」
6枠11番から直進し、6番手にラプラスは付けていた。先頭に立つ4番がやや差を付けながらの逃げを図っているため、タイミングが重要になることを即座にうかがえる。これは織り込み済みだ。ややペースを落としつつ、一団の先方はバックストレートにたどり着いた。
観客として見る分には問題なく全員が順調なレースも、一定の熟練度を持つ人物なら、それぞれの懸念を読み取ることが出来ただろう。
(…ちっと分が悪いな)
この日の阪神は内が荒れ気味とみて、内には寄せながらもやや外側を通りつつ4コーナーを回ることは事前に決め、少し外側のポジションを確保する腹積もりだった。 が、最適と思った場所を確保していたのは、今年AJCCを勝った17番のウマ娘である。自分のデビュー前から走り続けているベテランであるだけに、ポジションの確保においては正確だった。能力差を考慮すればなおこちらが有利を取れるだろうが、それでも予期せぬ蹉跌となってしまう。
(見る分には良いんだけど今やらないでほしいなかあ…4コーナーはプラン変えるかな?というか、するしかないか)
コーナーでポジションを上げつつ、内を通って早めに先頭集団に…とはいうものの、思いの外マークが集中しているためか、抜け出すのに時間がかかりそうだった。有名税と割り切れればよいが、レース中そんな風に思考が回るようなことができるほど、彼女の神経のリソースは多くもなかった。
レース終盤、大いに展開は動いた。
各ウマ娘の加速開始に合わせてラプラスも速度を上げ、荒れ気味のターフに若干足を取られつつも一定の勢いは保ち、逃げている4番の背に近づいていく。 後方から、気迫ある「雰囲気」を感じる。明らかに大阪杯とは違った。間違いなくあちらも、ほとんどロスなくここまで捲ってきた形になるのだろう。 どう考えても向こうの方が勢いでは優勢。こちらは位置の差を生かしつつ粘りこむのが唯一の抵抗になる。 「てなわけで、勝負!」 視覚に仁川の坂、聴覚に無数の声援、そして感覚には迫る影。戦いの様相は、壮絶なマッチレースに突き進みつつあった。 振り切ろうと進み、汗を気にとめず、加速を続け、やがて──
「押し切られる」のだと、とっさに理解した。もはや勢いに抗することはできない。ブレイズの強さが事前予想の中でも最悪の物を引き当ててきたのだと
高貴なる怪物は蘇り、灼炎が噴き出す。一ファンとして見れば喜ばしいが、相手にしてみると…いや、やはり敬意と賞賛が出てくる。ここまで正面切って負けては、ぐうの音も出なかった。 一つのイメージが、即座に現実の光景に同期する。風を切りながらやってきたブレイズが、自分の左手側に並んでくるのが見えた。
不思議なことだった。
後々回想してみても理由の見当がつかなかった事実なのだが、ラプラスはもう一つの警戒を失っていたのだ。最大の敵への集中が警戒を上回ったのか、あるいは恐怖の因子から目を背けていたのか。
──少し前、府中のトレセン学園近辺の公園にて。
「……」
明るさを持ち味にしていても、常に発揮できるわけではない、と言う単調な事実を、ベンチ沿いの池にいる担当が再確認させる。 「…ねえ、トレちゃん」 「はい」 「…たぶんだけど、甘かったよね、アタシって?」 「……」 「ホントはティアラでも足止めされてるのに、ブレちゃんとかラプラスとか、そんなふうに上ばっかり向いて。本当は地面をまっすぐ歩くのだって…なんか、ダメだったのに」 「…正直に言うと、壮大な目標を公言しつつ遊び優先でサボりをした時には、私も多少」 言いながら隣のフルールに視線を向け、口を閉じる。見たこともないような彼女の表情の深刻さが、自分の台詞によって引き出されたものだと察するのに時間は不要だった。 「その、実は私自身も、あなたの目標をヴィクトリアマイルと言う選択にしたことには、正直ミスだったと考えていまして…」 いくつか本音を入れつつへりくだって、再び表情を見る。変化なし…と言うより、余計に悲しげにすら感じる。そこまで言わせた自分への失望を深めたか、あるいは妙な形式の憐憫に不機嫌にすらなったか。なんとなく悪手だった気はした。
言ってしまった、とは思ったが、同時に時にはこの手のプロセスも必要になるのかもしれないとふと考える。
「…フルールさん」 彼女は確かに若い。でも私だってまだまだ、この世界では子供のようなものだ。プロとしては甘えに決まっているが、常に正しい道を進めるわけではない。手のかかる子なのだから、もっとベテランのトレーナーと出会えていれば、また違った過去と現在があったのかもしれない。 それでも、彼女と出会い、そこから過ごしてきたことは、絶対に間違いではない。どんな結末であっても、この仕事を終える時まで、きっとそう思い続けると思う。 「私は選抜レースの日に、あなたが強かったから、格好よかったから、声を掛けようって思ったんです」 担当を最高の状態で送り出すのがトレーナーの責務なら、果たしに行くしかない。それが自分の望みなら、なおのこと。 「そうやって、ドタバタして、でも強くて…そんなあなたが好きだって人は、たぶん大勢います」 「バカみたいに走って負けるのが?アタシの人気ってそっち方面じゃねーの?」 「馬鹿な走り方して負けて、それでもいずれ勝つさまですよ」 「…あっそう」 少しだけ、沈黙が流れる。
「あなたのせいで怒ったことより、あなたのおかげで嬉しくなった人の方がずっと多い。勿論、それは私も」
何故か知らないが、URAが出している、そこそこのセンスならありそうなキャッチコピーが、トレーナーの脳裏に思い浮かんだ。変な台詞かもしれないが、未来は大げさな理想から生まれるものだ。 「あなただって…誰かの、いや少なくとも、私のヒーローです」
(あー言われちったら、カッコ悪いとこなんて無理じゃね?ダメじゃねフツー!?なんかアタシにも分かるっつーか!)
気持ちばかり学んでいた折り合いの付け方をより完全にして、今日のフルールは走っている。 約1か月、思えばここまで集中したのも初めてかもしれない。2分と少しで終わる話にしては少々多すぎるけど、そこに期待するって人が一人でもいるのなら。そして、そこで自分が勝ちたい相手がいるのなら。絶対に価値はある。きっと。のーだうと。綴りなんだっけ。いやそうじゃなくて。
直線で、すでに見知った仲の二人が走っているのが見えた。すごい戦い。みんなが見たい走り。
でも、そういう期待をぶっ壊してドカンとやってくる、それもなんかスゴくね? 実際の体格以上に大きな背中。でも、乗り越える。乗り越えないといけない。そう感じている。 使命とか名誉とか責務とかよくわからないけど。そうやって走ってる人はいるらしいけど。自分にはたぶんないと思うけど。
でも勝つ。勝ちたい自分も、勝ってるとこ見せたい人も、間違いなくいるんだから。
「いっけー、アタシ!!」
周囲の世界の見え方が入れ替わっているのに気づかない程に。
千人に一人いるかどうか分からないような世界に。 その美しさには気づく間もなく、フルールドゥオーロは前を目指していた。 3つの影が重なった瞬間は、しかしごく短かった。 直前まで繰り広げられた2つの星の競り合いより、ずっと短い攻防戦が終わった。
「フルールドゥオーロ!驚きましたフルールドゥオーロです!復活なったぞー!華やかなグランプリの舞台に、新しい花が咲いたー!」
「ティアラからダービー、そっから勝つって割と派手めにヤバくね?えーっと名前は」
「ロンドンアイ。まあ派手めにヤバいかな」 「いやー、海外レースあんま興味なかったけど、こうして見ると面白いかもだわ」 「お分かりいただけますか、トップスタア殿」 「トップスター殿って、ちょい何それ…あーヅカね、りょ」
「良く持ち直したな」
「元からあれだけの強さがあるとは信じていましたから、少しやればあのくらいは。その少しに割と苦労はしたんですけど」 「次回に続くかは分からないぞ?」 「続かせますよ」 「生憎こっち側の問題だよ、お若いの」
東京へ向かう新幹線で、偶然1着と3着の2組は乗り合わせていた。この際なので担当とトレーナー同士で隣に座り、それぞれの会話を始めている。つい先ほどまでの優劣の競い合いがウソのような空間が展開されていた。
祭りは終わり、何でもない日の何でもない時間が、また過ぎていった。 |
+ | 夏の幕間集 |
「へへへー!脱走せいこー!」
のどかな夏空の中、短い未来を最後まで使い切らんとするセミの鳴き声を、無限の未来を内包する全速力の走りの轟音がかき消していった。 クアンタムセオリー、未来を飾りうる金の卵。嘱望によって歓迎された、近づきつつある新時代の担い手の一角。 が、天才とアレは紙一重、という言葉もあるように、逸材が性格の面で問題…とは言わずとも、ある程度の難を抱えていることは決して少なくない。彼女に熱意が無いとは言わないが、それとは別に集団での拘束状態にどこかで糸が切れてしまったか、果敢にも脱走劇を開始したのである。
能力値は確かなだけに、気づけば追手がたどり着く前に、彼女はどこかの森林の安全圏に到達していた。
「そういう風に、すべてが順調に「はい成功」といったらハイセイコーも苦労してない…いや待て、これ通じるのかな」 進路上に、木陰から現れた人影が現れる。それが人となる瞬間、クアンタムはその人物の名前に気づいた。アドマイヤラプラス、現役でも上位のウマ娘の一人。 「いやモチベーションが無くなる気持ちは分かるよ。分かるけどそれはそれでね?今のうちに戻れば怒られることはないと思うけども」 アドマイヤラプラスはじわじわと距離を詰めてくる。薄めの敵意の中にも確かな捕獲の意思が含まれていることを、クアンタムは察知した。 「むむむむ…!でも逃げ切れば関係ないもん!並のGⅠウマ娘になんて負けないよーだ!」 純粋な自信と、同じく純粋な強がりの混成されたセリフの後、クアンタムが別方向に逃走するのが、ラプラスの水晶体に写された。 「生憎逃げを追うのは得意でさ。そもそもここで伏せる前に周囲の下見はしてるから概ね道は把握済みだし。あ、そっちのルートは道が荒れてるから注意ねー。こっちも無事に連れて帰りたいし。あと並のG1ウマ娘呼びはちょっと凹むからやめて…」 言い終わるか言い終わらないかのタイミングで、彼女は鮮やかにスタートを決めた。
この後の捕物劇の仔細は省略する。結果を言えば、昼にはクアンタムセオリーはいつも通り練習に参加していたのは確かである。なおこの後の合宿期間中、彼女はとある葦毛の秋華賞ウマ娘と併走する機会を得ているのだが、差し当たりこの物語には関係ない。
速度曲線の頂点に達したあるウマ娘の軽快な走りが、一定のラインで下向を始め、最後には静止した。
「いいタイムだ、確実に伸びてるぞ!」 「走ってる側は正直のびそうなんですけども…」 トレーナーの賞賛に本音のアピールで返答しつつ、ラプラスは深呼吸を一つする。疲労による不満を表明している肉体に、この場所ののどかな大気が染みこんでいった。
一流のウマ娘にとって、夏は休養と充実の期間となる。無論サマーシリーズで活躍する面子を二流三流と見なすわけではないが、しかしGI戦線を主戦場とするウマ娘たちに、秋までの間出走をしないものが大半なのも、また事実ではある。
この間はトレセン学園を飛び出し、特別なトレーニング施設を利用しているウマ娘たちも少なくない。先ほどラプラスが駆け抜けていたこの坂路コースは、その手の施設が保有する、国内でも有数の調整施設だった。 「ていうかブレイズ先生、呼吸の戻り早すぎないかなあ…」 「距離適正の差よ、適正差」 すでにこのコースでの練習を終えたグロリアスブレイズが、水筒をもってラプラスの方に寄って来る。ラプラスは半ば奪い取るようにしてそれを受け取ると、欠した水分を一気に補充した。 「しかしまあ、ココを使う側の立場なんて、ちょっと前の私に聞いたら呆れられそうだなー、なんて」 ウマ娘の集中育成、及びリハビリを行うこの施設は、勿論業界人とファンの中では著名なのだが、関係者、それもまさかの利用者として関わるとは…という感想を、ラプラスは禁じ得ない。尤もこの手の驚愕は、すでに「驚き慣れた」ものになりつつあったのだが。 「そっちの調整はどうなの?ブレイズ」 「まだ伸ばせる。まだ『あそこ』には足りてない」 自分にお厳しいことで…と言いかけて、ラプラスは思考を修正する。『あそこ』の空間と立ちふさがる壁を押し切るならば、確かに並大抵の努力では不可能だろう、と。
「Sea The Sky wins in the King George Stakes!」
興奮気味の英国人アナウンサーの声が、歓声との間にマリアージュを作り上げる。施設内の一室のスクリーンには、英国最高峰のレース、キングジョージ6世&クイーンエリザベスSの映像が再生されていた。 「あの不器用な万年シルコレ、「惜しい!」ばっかりな善戦マンのシーザスカイがキングジョージで勝てるとは…盛大に出遅れたドバイシーマから追ってた1ファンとして感動を禁じ得ない…!」 「ラプちゃん、ビミョーにひどい言い方になってね?」 「熱狂的ファンも考えものだよね」 欧州に輝く光度の急激な増加を勝手に喜ぶレースヲタを、多少引いた眼で一レース好きのブレイズとフルールが眺めていた。
さて、この段階で、グロリアスブレイズには一つの決心、それも公表済みのものがあった。
凱旋門賞、世界への挑戦。多くの名ウマ娘たちが挑んだものの、ついに跳ね返された大きな壁を乗り越えるという壮図が、現在の彼女のモチベーションとなっていた。 野心の実現は準備を伴わなくてはならない。欧州でのレースに向けた肉体強化もその一つだったが、一方では対戦相手を知ることも重要である。そこで、友人であり有識者のラプラスと、通りがかりに混ざってきたフルール、そしてついでに1名を伴って、今年の海外路線の強豪たちのレースの鑑賞会が成立したのである。 結果として、海外レース有識者と非有識者との間に少々、愛すべき(?)ギャップが生まれた…という経緯がここまでにあった。
「そういえば、このスカイさんの他にはどんな相手が凱旋門に出そうなの?」
「その前に今の欧州のレースの状況を理解する必要がある。少し長くなるよ」 「どっかで聞いたような台詞」 解説が始まる。 「欧州だと、今年はイギリス・ティアラ路線で注目が集まってる。1000ギニーとオークスを勝って2冠を達成したキャロライン、そして1000ギニー2着からまさかのエプソムダービーに挑戦、見事勝利を飾って『今年の名場面』間違いなしのロンドンアイ。フランスはクラシック級だとジョッケクルブ賞2着、パリ大賞勝ちのダヴー。シニア級なら今年のサンクルーを勝ってるブレードランナーが有力かな?アイルランドはさっき見たシーザスカイが最重要。フランス遠征で好成績なドイツのウィルヘルムマイスターも気を付けないとね」 「なるほど…」 なお、オタクは自身の知識範囲を語る際に早口になるという俗な表現がある。この時の彼女がこのような状態だったかは、今回は読者諸兄のイメージに委任したい。
「先輩!質問っス!」
この物語の中で初めて声を挙げた人物が、ラプラスに尋ねる。 「どうぞ。えーっと名前は…」 「マテノステロ、ウチはマテ子って呼んでるねー」 フォローを入れたのはフルールである。面白そうだから、という理由でこの会に混ざってきた 「はい、どうしましたマテノさん」 「さっきの強い人らの何がどう凄いのかがよくわかりません!」 ズコッ。 「あ、そういえばアタシも凱旋門以外よく分かんなーい」 …ズコッ。
「…ああうん、そこか…」
ラプラスが聞き手の無知に対していくらか落胆したのは確かではあるが、(この場面において激しい転換を必要とするかどうかは置いておくとして)切り替えの早さは彼女の美点である。仕方のないことだろうと思いなおした。 海外への挑戦は別に珍しいものではなくなったにせよ、基本的にはドバイや香港、それに近年ではサウジへの遠征がメインであり、欧州に堂々と乗り込む、なんて例は流石に少ない。意識が無ければ、関連する知識に不足が出るのも仕方ないだろう。 …待て、「類は友を呼ぶ」。フルールが何か抜けていることを考えると、後輩の側も相応に…
一旦思考を振り払って、少し趣向を変えようと、ラプラスは思い立った。
「じゃ、多少身近なところを…香港の話とかどう?」 「香港…あーそっちなら分かるかも?」 「私にも教えてくださいっス!」 知識を持つ人は、自分のそれを示せる場になると、いくらか活気づくものである。 「よし来た。やっぱり外せないのは前シーズンの香港年度代表ウマ娘、インディファディカブルだね。去年から香港に移籍、ジョッキークラブカップを皮切りに香港カップ、ゴールドカップ、QE2世杯、チャンピオンズチャターと連戦連勝。香港の中距離路線を制圧してる感じだね」 「走り方はどんな感じなん?」 「追い込み寄り差し。あの末脚は本当に画面に映える!」 「なるほど…!」 食いつきが良くなったのをラプラスは確かに感じる。
興奮気味な語り手に、聞き手の一人が発言した。
「質問いいかな、ラプラス?」 「どうぞブレイズ」 「香港の中距離ってことは、しょっちゅう日本勢も海外路線で行く場所。ラプラスは回りの方向を問わず2000mが得意。つまり…香港カップなりクイーンエリザベスなりで、挑戦する機会もあるんじゃないの?」 饒舌だった語りが、一瞬硬直する。自分がかの強者のことを、「ファン」としての視線で見ていながらも、同じ時代を生きている「壁」としては認識していなかった、あるいは眼をそむけていた…という事実が、前振りなくラプラスの前に提示された。 「あー、その…気が向けば、かなあ…」 「真っ向から仕掛けに行く覚悟はない、と」 「えー、恥ずかしながらその通りですブレイズさん…」 「ま、ラプちゃんがその…七面鳥マンだっていいっしょ、無茶やってるって感じなくて」 「七面鳥じゃなくてチキンね」 「どっちにせよ嫌な呼び方だね、お二人…」 一瞬何とも言えなくなった空気を和ませようとするフルールの誤りを、ブレイズが訂正する。悪意無き事を相互に理解したうえでの侮辱が、心にいくらか打撃を与えた。
「なんだか…聞くだけでワクワクしてくるっス!」
その情景を、第四者の声が無意識的に破壊した。 「そうやって強い敵が、日本だけじゃなくて外国にもたくさんいる、ってことっスよね!それなら走りに行って、戦って、そして勝つ!すごい目標になりそうっス!」 邪気の無い声でステロが言う。場が本格的に転換した。 彼女が言うことは、勿論やすやすと目標にできるものではない。高望みではある。 だとしても、意思は確かに私たちの力となる。この場にいた彼女の先輩3名は、そのことを心のどこかで理解していた。 「ブレイズ先輩、凱旋門も頑張ってください!みんな応援してるっス!」 「あら、ありがとうねー」 「ラプラス先輩とフルール先輩も、デカい目標、叶えてください!応援してるっス!」 「…おー?」 「ノリ悪いぞーラプちゃんよ。ウチの後輩が言ってるんだから大声出せー」
研究、壮行、目標の発見。
そんな流れで、この会はいったん終了する。ふと「そういう」気分に襲われて、彼女は窓越しに夜空を見ていた。この夜空も、ある場所では朝焼け、ある場所では盛りの太陽、またある場所では夕陽の中の雲。世界中の強豪のウマ娘たちが、確かにこの同じ空の下でそれぞれの運命をたどっている。そんな発想が唐突に浮かぶ。 「海外…海外か」 無論、憧れを抱くような単語。「何年たてばジャパンカップに勝てるのか?」などという暗中模索の時代はもう終わり。世界に飛び出して戦い、大きな名誉といくらかの賞金を持ち帰る。この上なく魅力的であり、それを長らく志向していたのならなおさらのこと。だけど… 「…目標が明瞭この上なくて見てるこっちが頭に来そうだなあ、なんて…」 それが結局愚痴、その中でもナンセンスな部類の話であることに、彼女は気づいていた。とはいえ、明確な夢を持って挑むブレイズの姿を見て、意識の鏡に映る、漠然とした、本当に漠然とした勝利の願望が支配する自分自身に、いくらか侮蔑的になったのも確かな話だった。
「へー、狙いはティアラなんだ」
「華やかだからいいなー、なんて」 ラプラスが「ファン」らしい一人のウマ娘に併走のお願いをされたのは、練習時間の終了後、グラウンドでの自主練中のこと。拒否するだけの理由はなく、その時間は始まった。 併走が始まった直後は、普段通りの態度をラプラスは維持できていた。顔色をいくらか変えることになったのは、中盤にかけてかなり強めにペースを上げたにもかかわらず、「まだ行ける!」とばかりに食いついてきたことである。 それでも最後には、ラプラスが成長、経験の大きな格差を生かして先着。が、それにしてもこの時点でこれだけの走り…先ほどまでともに走っていた相手が、壮大な未来を秘めた源石であることを、ラプラスはひしひしと感じ取らざるを得なかった。 「正直驚いた、割と本気で行かないと危なかったかも…えーっと、そういえば名前聞いてなかったね」 併走相手の方も、ちょうどそのことに意識が回っていた。 「私、ソルシエールブランって言います。大阪杯、テレビで見てました!踏み込みが力強くて…」 「ありがとう、ブランさん。これだけの実力があればクラシックでも…と言っても、そういう状態から怪我なりなんなりのせいで全部棒に振ったような子も大勢いるからね。注意を欠かさず、気になったことがあれば相談、決して無理はせずに!」 「そうですか…日々のケア、大事にしますね」
「実は私、無事ティアラ路線が終わったら、目標がありまして…」
「目標?」 水筒の一口目を付け終わった後、ブランの側から会話が再開された。 言うことには、シニア級以降にねらい目がある、ということ。となるとジュベナイルフィリーズ、トリプルティアラはひとまず考慮外だろう。 すでに伺える軽快なスピード、及びこの段階にしては発達している筋肉量を考えると、方針はスプリントかマイルか。心肺機能を鍛えれば、あるいはミドル、クラシックも視野に入れることも可能かもしれない。となれば春秋スプリントやマイルの連覇、あるいは秋の天皇賞、それともグランプリ…そんな答えをラプラスは予想した。
「スプリント、マイル、そしてミドルでの3階級G1制覇です!」
ブランが言い放った大望を咀嚼するのに、ラプラスは一瞬だけ時間を必要とした。 「…3階級?」 「はい!3階級です!」 彼女の無垢な瞳は、この台詞にハッタリの要素がみじんも含まれない、純然たる願いであることを、「察しろ」と言わんばかりに突きつけてきた。 現代のレース史にある程度知識のある人なら、これが多くの強豪が乗り出し、それでも達成しえなかった野心であることを知っているだろう。距離適性というものは本来強みでも弱みでもないニュートラルな存在なのだが、この場合は非常に大きな壁と化してしまうのだ。
両者にとって幸いだったことは、聞き手側が無謀を軽蔑し、嘲笑する気分で無かったことである。そしてその知識は、このあまりに大きな夢想が、しかし完全なる夢想とも言い切れなかった、そんな例をいくつか内包していた。
「うん。いい目標だと思う」 「…え、あっさり受け入れられた…」 かえって拍子抜けしながらブランは言う。あるいは彼女は自分の願いの過激さを知っており、多くの苦難を知っている先輩に対し、無意識のうちに否定を求めていたのかもしれない。 「そりゃ難しくはあるけど…正直、目の黒いうちに見たい光景だよ、それ」 本心を語る。一人の先達として、それ以上にこの世界を楽しみにしてきた一人のファンとして。 想像以上に安易な肯定が、むしろ肯定を求めた側すら動揺させた。 「その…もしかして、応援して下さる、ってコトでしょうか?」 「そりゃ、願望をハナから否定してたら何にもなんないでしょ?私たちはそうやってみんな強くなってくもの…らしいからね」 ラプラスは微笑んだ。後輩を持つってのは結構楽しいかも、そんな思いを抱きながら。 「もし、年表に君の名前が刻まれたら」 いくらか詩的なセリフ回しから、話を継続した。 「その時は、きっと私の人生でもいい部類の一日になると思うよ」
(…妙なことを言ってしまった…)という印象が、彼女の脳内に流れていく。引かれてないといいけど…といった気持ちで、ラプラスは相手の顔に視線を向ける。
幸い、悪印象があくまで言い手側の主観でしかなかったと、話し相手の表情を見た彼女は気づいた。引いたというより、惹かれた。そんな表情だった。
「こんなもんでヨシ、と…浴衣のがよかったかなあ、やっぱ」
宿泊部屋のトイレの鏡の前に立ち、ラプラスは自分の身だしなみを見る。問題は無さそうだったが、しかしいつも通りの私服なので、若干無難な気がする。無難を笑え…なんてURAのCMキャッチコピーを思い出した。あの時期のコア層向けのCM好きだったな、でもライト層向けの奴も割と…閑話休題。
今日の練習を終えたラプラスは、外出の準備をしていた。参加するのはブレイズとフルールの他に、グランドカプリース、エストリルディス、フブキカスケイド、ロースプライム、カフェヘスティアなど。…ハピネスブラックを呼ぶのにはちょっと勇気が必要だった。
一見して単純にこの世代の強豪の名を挙げているだけだが、それをクラシックの同期の名前、そしてこれから見に行く花火大会の同行メンバーとして語れることは、彼女の生涯の自慢になるだろう。
未来にはどうなるのだろう、とふと思う。
次の世代を担うような人材が日々現れて、そしてかつての未来を担っていた人材が消えていく。 自分たちも同じだ。今は輝いていても、どこかで傷つく、あるいは輝きを衰えさせる。永遠を保証してくれることはない。どこかで私たちはいったん断絶する、その形すらどうにもできない。
まあいいか。「楽観的予測」すら今は必要ない。ただ今だけを見てようかな。
漠然とした未来を予想するより、明確に目の前にある現実を楽しむのが、多少賢明なのかもしれない。 そんなことを思い浮かべながら、ラプラスはドアノブを掴んだ。
余談だが、ウマ娘同士には不思議と良好な関係を作りやすい、運命的なつながりが発生する場合があるという。古代の宗教家、ついでにその流れを継ぐという少々胡散臭い人々は、「私たちの魂は、あらゆる世界で惹かれあう相手を見つけるのだ」と主張している。
根拠のない話ではあるが、しかしそれを信じたくなるような出会いにこの世界が満ちているというのは確かな話である。 |
+ | What makes you |
『先頭シーザスカイ、3バ身のリードを取った!2番手争いはロンドンアイかダヴー、そして外から日本のグロリアスブレイズだ!一気に伸びるぞ!届くのか!』
『譲らない!譲らない!先頭はシーザスカイ!シーザスカイ、先頭でゴールイン!一気に押し切った!そして…日本のグロリアスブレイズ、良く伸びましたが、素晴らしいレースでしたが…未だ、凱旋門賞の壁は厚かったか…』
トレーナーが自身の担当ウマ娘─俗な言い方をすれば「愛バ」とでもなるが、別にその言葉を使うほど深い関係とまでは考えていない─が自室に現れたのを見たのは、近づいてくる秋の天皇賞に備え、今回の難敵となるであろうフルールドゥオーロの宝塚、そして前走のオールカマーでの映像を見返していた時の事だった。
「お疲れ様です」 「そっちもご苦労さん。この時間帯に来るのは珍しくないか?そもそも私用で君がトレーナー室に来るのもそこまで前例がないけども」 「まー、はい。速攻で帰りますからね基本は」 窓の外の世界では、夕焼けが終わりに近づき、夜のとばりが姿を現しつつある。 「で、来た理由は?」 「いやー、相談…なんて程深刻でもないし、自分でも何を考えてるのか分からないような話ではあるんですけどね」 「構わないぞ?」 「なんとなく思ったんです。『何のために自分は走るのか』、なんて、ありがちな話を」
「まあ、確かにありがちな話ではある」
正直な感想を、トレーナーは返答した。 「でしょ?今更ながら、ちょっと考え始めちゃってるんですよね、こんなこと」
数週間前の劇的な凱旋門賞、そしてその帰結を、彼女は振り返っていた。
フォワ賞を勝って乗り込んだブレイズの走りは慎重かつ果敢なものだった。やや消耗戦気味のペースに乗らず後方でじっと待機する。合理的な考えではあるが、例年比で良好な馬場状態、イギリスのそれと比べれば瞬発力のウェイトの高いフランスの芝だとしても、あのパワーのいる馬場を考えると、前に付けず後方での待機を行う決断力には脱帽する。終盤もロスなく立ち回り、外側から一気に伸びた。冒険的であり、あの時の最善の走りだったと言ってもいい。…それが勝者の最善を下回っていたことを除けば。 彼女の帰国後に交わされた会話は、平常とそこまで変わるわけではなかった。しかし、その何気ない日常の延長から、悔いのなさと悔しさは両立するものなのだと学んだのは確かである。涙を流す顔が現実で観るものではなく、イメージの中の物語なのだとしても。
「あの決意とそのための努力、その後に現れた…あの、残念そうな顔。これまでの私は、あんな顔をしたことが無い気がするんです。いつも『しょうがない、次どうにかしよ』になっていくというか。確実な負けがあるとしても、それに抗えないというか…」
「相手に勝ちたいとか、声援にこたえたいとか、そういうこと以外に当てがあるのか?」 「勿論走るなら勝ちたいですし、応援してもらったなら結果で返す責任はあると思いますけど…」 「責任、か。妙に真面目な単語だな?」 「言われてみれば?」 応援など勝手なのだから、期待する人物は望みの結果を見れずとも、本来。…たまに原則を守らぬ輩もいることも、この世の習いではあるが。 「とりあえずは…今は答えが出無さそうだな。少し時間が要りそうだし、今日はここらへんで」 「はーい。ではまた明日」
夕焼けが夜空に変わる速度が、日々加速しつつある。そういう空気感の帰り道を、いつも通りにラプラスは歩んでいた。
『走ってみれば何か見つかる』という単語が脳裏で生成される。 「…ほいっ!」 思い付きのままに、単語の意味を実行する。寒空を印象付けつつある風は、衣替えをしてもなお体に突き刺さった。温まる筋肉とバランスを取らせようと、勢いが高まっていく。 それなりには真剣に、でも気楽さも忘れず。普段見ている光景を倍速で再生する。そして…
分かったのは、自分が走るのを決して嫌いではないこと、及び自分がいつもより早く寮の入り口についたことだった。
一方通行の頂点への道、クラシック級が先週終わった。続いて始まるのは3週連続G1の締めくくりにして、戦前から続く一大対決。
今日の主演候補とその教育者は、控室で緊張と…ついでにわずかな疑問の最中にいた。
「理由…ねえ」
「トレーナーさんなら、これまで実例をいろいろ見てきたので何か分かるのかなー、と。いや、自分の目標を他人に丸投げする、という意味ではなく…」 「俺の経験から学べることはあるのかどうか、か」 トレーナーは少し考えるが、その思考のフィルターを、記憶はすり抜けていった。 「なぜ走ってるのかが分からなくなる奴は大勢いたが…お前ほどのレベルになって言い出すのは初めてだな、たぶん。大抵そういうのを言う時は4月で未勝利か、オープン入りたてで負け続きか、リステッド勝った後に重賞掲示板外の繰り返しか…」 「そうですかあ…」 妙に暗い顔になった。大したことのない不安だと思っていたが、大したことが無いという事実そのものが、意外に不安を増してしまうことも偶にある。「自分は大層な悩みを抱えているのだ」と思いたい心の発現だろうか。
トレーナーは、穏当な回答をふと思いついた。
「理由なんてのは自分で探しても意外と見つからないもんでな。探すんじゃなくて、向こうからやってきてくれるものらしい」 「向こうから?」 「できるのは、そいつを察知して、掴まえることくらいだな」 実のところトレーナーも、そこまで明瞭な回答を用意できたわけではない。経験からそれらしい答えを探してきただけだ。尤も選択とはそういうことの繰り返し、生きるというのは選択の繰り返し。
トレーナーの顔が変わる。曖昧な台詞を言う時のいくらか魂の抜け出るようなそれから、明瞭に信念を語る人のそれに近づく。
「とりあえず、舞台に上がれば、トレーナーにできるのは見守ることだけだ。今回も君を信じるよ。必ず勝てるってな」 「期待が過剰じゃないですか?」 「誰が相手でも、俺はそう思うさ。いくら過大評価でも、それを間違いだと思ったことはない」 「…へー?」 興味なさげな返答は、思うことの裏返しでもあった。
コースに向かう地下バ道も慣れた道。いつも通り、でも少しハイテンポに歩いてしまう。何かを恐れているのか、それとも高揚しているのか。
そんな最中、フルールドゥオーロも、(当然ながら)同じ道の人になっていた。ついてもいない勝負服のホコリを落とす動作。彼女なりの緊張感を払うジェスチャーだったのだろうか。 誰かに話しかけないと不安になるようで、声で疑問を届ける。 「一応聞いとくけど、オールカマーって本気だった?」 急に話しかけられた聞き手が、少し目を丸くした。 やっべ、私は緊張でもしてんのか、話しかける話題ミスった…とラプラスは後悔する。幸いフルールの驚きは急に話しかけられたことへの方だったらしく、すぐに語り手に変化した。 「まーそりゃ勝つつもりではあったんだけどね。トレちゃんが『あくまで勘を戻すだけだから全力で行きすぎないように!』って言ってたし、じゃーちょっと我慢しよっかなー、と」 「で、勘は戻った?」 「えーどうなんだろ、分かんね…そっちは?レースは久々っしょ?」 「こっちは…こっちもわかんないかなあ、勘とか」 似たり寄ったりの状況への返答が見つからず、両者沈黙。数秒後にクスクス笑いが即興で上演された。弛緩はこれで十分だと、その時二人は察知する。 「じゃ、寝耳に水入れて待ってろよー!」 …相変わらず妙な語彙での宣戦布告だった。
揚々と行く彼女の後をついていこうとして、少しだけ足を止める。
「ねえ、君はなんの…」 言葉を中断したのは、勢いよく光の指す方へ向かう彼女が、自身の言葉を聞いていないことに気づいたからだった。
ふと思い出した。「彼」の発言を。今の自分を信じているならまだしも、どんな相手が待ち構えていても、それでもなお「ずっと」だなんて。過大評価ってものだ。
「誰が相手でも行けるなんて、私も買いかぶられたねえ…ま、信用されて嬉しいのは確かか」 独り言を一つ。大して意味なき言葉が、しかしここでは儀礼的に重要だった。 目前に広がる光に向かった。その先で待つ活気も、いくらか慣れた光景になりつつある。 そうやって、また一歩踏み出した。
『最後に16番のアヴァンギャルドがゲートにおさまり…準備完了』
『伝統の秋の盾、手に入れるのは熟練の名手か、それとも新勢力の台頭か!』 『天皇賞秋、今一斉にスタートしました!』
スタート、集中を欠いていた割には問題なし。出遅れ時の予備プランを脳内記憶から洗い流し、即座にポジション取りに向かう。4枠7番から出て先行集団に取り付く。同時に体をやや傾けつつ、無駄なくコーナリング。ここまではプラン通りに進む。もう少し内の枠ならさらに良い展開ではあったが、こればかりはどうこうできるものではない。
徐々にゴールまでの距離は縮まる。少しでも気を抜けば、この先団でのテンポを失いそうだったので、再び一呼吸。 今度はフォームがブレていないか気になる。修正を気に掛けると今度はラップの脳内計算が、かといって、おっ空が結構綺麗… 珍しく気の迷いを持っていたのが影響したかはともかく、どうにも彼女は冷静になり切れない気分だった。
時間とは、人の意思などは無碍にする存在。
気が付けば、一団は大ケヤキを超えていった。ここを走るのも実に4度目。けれども、緊張感はその都度増していく気がする。長い直線とスタンドからの声の群れが、自分の感覚を満たしていった。 ここまでのレース展開は予想より少し早くミドルペース。この場合、先行集団が残ることと、後方集団が差しきることのどちらもあり得る。つまり、直線では純然たる実力の競い合いとなるのだ。 まだ早いのか。まだか。もう行かないとだめなのか。事前プランではもう数秒待つつもりだったが…
「…前に出る!」
何故こういう判断になったのか、実のところラプラス自身も分かっていなかった。ただ足が進むままにした結果、いくらか早めの仕掛けとなってしまったのである。「このままではキレ勝負に巻き込まれるからリードを取っておく必要がある」という無意識の思考か、緊張感からとっとと解放されたかっただけか、それとも流れる雲を眺める時の様に何も考えていなかったのか。
『さあアドマイヤラプラスがここで動いた、一気に先頭に食らいついていく。バ場中央を通ってフリッジにローズプライム伸びる、さらにフルールドゥオーロが大外から!』
「!」
府中の群衆の中でも観察眼や経験のあるものは、ラプラスの仕掛けが明確に早かったことに気づいただろう。 よほど自信があるのか、焦りに負けたのか…どちらにせよ、1分足らずの攻防への視線は、その興奮の最高潮に達しつつあった。
「来た来たあ!」
歓声が聞こえる。やっぱりいい音だとフルールは悦に入った。勢いのままに、ややまくり上げるような形で馬場の整った外側へ。 用意は整った、トレーナーによるとここまではプラン通り…らしい。 府中の直線を自在に使った大胆な追い込み。相手に粘らせる隙を与えず一気に差しきるのが狙いだ。この位置で届くのか、などという不安を持てるほど彼女は賢くないが、この場に限って言えばそれは力でもあった。
じゃ、行きますか!よーし、こういう時は…えーとセリフは…どうしよ…よし!前に見たなんかかっこいい言葉で!
「遊ぼうぜえッ、ラプちゃん!!」
進軍が始まった。
「流石に早かったかなあ…!?」
もう前には誰もいない絶景を堪能する暇もなく、ラプラスは後方から迫る相手を引き離す作業に忙殺される。 長く脚を使い、先頭としての距離を可能なだけ広げる。襲い来る獣からの逃走という無意識の走りの中に、しかし同時に今の状況の計算という明確な思考がノイズとして混じりあう。
外側から迫ってくるやつのデータ上の速度、今の心拍、坂による減速率、この段階での位置関係、速度の維持能力その他諸々を短期間に脳内に打ち込んでその結果…
あーこれ無理、負けるパターン。
事前の計算を、全て考慮に入れたうえで悟った。
このペースでいけば、先頭で粘り切ることは不可能だろう。予想の最悪を行く相手が、唐突なプランの変更の隙をついた、そういうレースになったのだ。もう、打つ手はない。掲示板まで粘ったところでこれ以上何を望める? なら、早いとこ諦めて…
「…いや、終わりじゃないでしょ」
魂が拒絶した。敗北を、屈辱を、そしてその覚悟を。
勝ちたい、と、奇妙なくらい純粋に願った。何が自分を突き動かしているのか。 「ただ走りたい」という快楽か。 「アイツに勝ちたい」という対抗心か。 「栄光を得たい」という名誉欲か。 「応援に応えたい」という責任感か。 「みんなを楽しませたい」という娯楽精神か。 「費やした時間を無駄にしたくない」という合理性か。 どれもこれも、あまりに魅力的だ。1つだけでこの数年の物語を飾るのに十分だ。 けれども、どれもこれも決め手には欠けている。あれでもないし、これでもない。今の自分を突き動かしているもの、あるいは動かそうとしているもの。
単純な答えを見つけた。
全てだ。 どれか一つ、なんて単調な物じゃない。 全ての思いが事実で、全ての思いが、今の自分の心臓なのだから。
なら、欲張って総取りしてやろう。どれもこれも、今勝とうとすることを絶対に否定しない。矛盾なんて生まれようが無いんだ。
「自分のため」ではなく、「他人のため」ではなく。純粋な利己と利他の融合。予想していた自分自身の限界を台無しにしたい。 全てのために、今の私は負けたくない。
勝ちたい。
不思議な体験だ。
腕も脚も心臓も、疲労に至る過程など最初からなかったかのように活性化している。感情など関係なく、ただ早く走ることに、全ての血液と神経が集約されるようなソレ。 周りにあったすべてが、気づけば星々の様に変化していた。前に見たような光景だが、もっと明瞭な姿として映っている。
目の前には…これまで見たことのないような、ひときわ大きく目立つ星。あそこが目標点なのだと、感覚が教えてくれている。
理屈ではない純粋衝動。アレを掴み取りたい。掴み取りたい。前に進まなければつかめない。
そのために、もう一完歩だけ。もう一歩だけ。たった1cmでも。1mmでも。
「前にぃ、進めええぇえぇッ!!」
何か力を込めた魂が確かに爆発し、物理現象へと還元された。
逃げる者、追う者。両者の距離が縮まる密度が、ごくわずかながら、しかし確実に減速する。アンコール無き公演がフィナーレに近づいていく。 二つの点の一致を前に、楽章は終止符まで達した。
「アドマイヤラプラス!アドマイヤラプラスだ!最後は粘りました!追い込んだフルールドゥオーロ、わずかに届かなかったか!」
「領域」という自分専用の世界からラプラスが解放されたのは、減速中に、同じレースを走っていた同期のロースプライムが声を掛けた瞬間のこと。称える表情の中に、しかし確実な悔しさがにじみ出ているのを彼女は認識した。
教育の上では、他人から称えられた時の対応も教えられる。彼女は別にひねくれる道理はなかったから、安堵感と小さじ半分の不要な罪悪感とともに、「ありがとう!」とだけ返した。 きっと彼女は、この悔しさを糧に、更なる成長を遂げようとするだろう…いや、同期相手にこれは偉そうじゃない?実際こっちはG1勝ってるから偉いけど…いやそういう訳ではなく。プライムの後ろ姿を見つつ、そんなどうでもいい思考の独り相撲をできるような状態が、間違いなく彼女の平常運転の神経だった。
歓声に誘導されるように、その視線は観客席へ。いろんな瞬間の昔の自分が、あそこで物語を眺めていたことを思い出す。あの日のヒーローたちの見た景色が、確かに自分の水晶体に投影されている。
この光景は…思えば、去年の自分が目指していた光景だった。あの日、ターフの上に動けないまま寝転んでみた空は、気分が悪くなるほど綺麗だった。今日は素敵な秋晴れの空。むしろ気分が悪くなりそうなくらいに。
小さな気づきがあった。
あーそうか、そんなに細かいこと考えなくていいんだ。その場その場で理由が変わったって、勝ちたいってのはどこでも変わらない。勝てばうれしいって事実はいつだって純粋なままなんだ。虹はいろんな色を含んでいても、それでも同じ一つの虹なんだ。 妙な高揚感があった。自分自身の何かの殻を破ったような、繭から抜け出て羽ばたいたような…待って私はイモムシか何かだったのこれまで?まあ休日だとイモムシくらいにしか動いてないけど…いやそうじゃなくて。 ズレにズレた思考から立ち直ると、彼女は秋風が吹くのを感じた。
去年とは逆に視線を大地に向け、小さくガッツポーズする。
何千の週末に、数えきれないドラマを運んだターフにだけ見せていた、その顔は。
この世界で間違いなく「笑顔」だと認識される顔だった。
今日のドラマの主役を目指して敢闘し、無念にもなお引き立て役だった人々が、連なって帰り道を行く。主演女優はそれを尻目に、無数の歓声をBGMにして、小走りでウィナーズサークルに向かうのだった。
自分に舞い込んできた、あまりに単純で、だけど力強い『走る理由』を噛みしめながら。 |
+ | まだ次がある、その次はまだない |
クリスマス・イブの日、冬枯れの中山レース場。16人のトゥインクル・シリーズの精鋭が、それぞれの汗と思いを乗せた勝負服とともにゲート前に集結している。
クラシック・シニアからファン投票を受けた強豪たちが集うレースとしての権威と勝利によって獲得される名誉、そして普段トゥインクル・シリーズを見ないような人々ですらこの日を例外とすることがある程の盛り上がりの点において、有馬記念はダービーと双璧を成す、最大級のレースである。その出走直前となれば、その緊張と高揚の言語化を図って実施したとて、本質を感じ取ることはできるまい。
「ペースのカギを握るのはおそらくハピネスブラックでしょうね、他のウマ娘も彼女にはハナを譲るのではないでしょうか。その後は彼女のペースで展開は変わるでしょうね。去年はやや早めに逃げていましたが、今年は足を貯める方針かもしれません」
「なるほど、有力勢がどのようなレースをするのかが楽しみですね…さあスターターが登場しました。今年を締めくくる1戦、有馬記念のファンファーレです!」
実況席の発言の終わりを待たずに、完璧に調律された楽器と、熟達した演奏家とが、音という普遍を芸術作品に仕立て上げた。人々の熱気のさらなる推進剤として機能する。さしたる時を置かずに、今年を彩った名前が、続々とゲートの中に入っていく。心中には勝利への渇望か、生命への感謝か、強者への反骨か、それとも意外に皆無だろうか。とにかく16通りの夢と希望の物語が、形式的な、一方で客観的な優劣を決めんとして、ついに集ったのである。
……さて、読者の皆様には、ここで謝罪すべきことがある。作者の非才ゆえ、この1戦を純然に楽しめるものとして描くことが不可能であった。怠慢、努力の不足と言われればそこまでだが、ともかくこの決定は当面覆されることはない。
よってこのレースに関しては、結果を伝えるテレビ中継の実況をもって、描写として代えさせていただく。
「勝ったのはトーセンオシリス!ダービー2着、菊2着から、ついに開花!フルールドゥオーロがほとんど並んで2番手、3番手争いにアドマイヤラプラスとスピットファイヤ、そしてカルセドニーらで接戦のようです。しかしあの位置からこのメンバーを相手に大捲りをかけるとは大胆なレースでしたね、細江さん…」
クリスマス・イブの夕方─尤も12月末の夕方というと、夜との定義を分ける壁は無いものとそう変わらないが─船橋のどこかにあるレストラン。この日、その店主は三つの感情を同時に抱いていた。
大規模な団体客が入ったことへの愉悦、自分の料理を楽しんでくれる人々がこれから現れることへの歓喜、それだけに大仕事になることへの緊張。そういう考えを持ちながら、店主と従業員たちは、準備に励んでいた。
件のレストラン、パーティ用の部屋。昨年は非参加だったメンバーも含めて、さらに増員された懇親会兼クリスマス会兼忘年会の準備が整っていた。
「えーっと、後から合流される方を除けば揃いましたわね…」 「問題なさそうだ。では、乾杯の準備を!」 幹事担当のグランドカプリースとローズプライムの声の後、さらなる高揚が会場に充満し始めた。 会場のメンバーを聞けば、トゥインクル・シリーズのファンはそれだけで興奮を隠せなくなるだろう。所謂シニア級王道路線において、去年にクラシックだった世代…現在シニア級1年目の世代は、すでに強豪世代としての名声を確保しつつある。春秋6つの王道路線G1のうち、5つをこの世代が占めたとなれば、確かに他の呼び方はないだろう。
「ではアドマイヤラプラスさん、乾杯の音頭をお願いします」
「え、ラプちゃん乾杯前にダンスでもすんの?いいねぇアタシも一緒に…」 「そっちじゃない」 フルールドゥオーロの無知をグロリアスブレイズが訂正しているのを、「実際、踊るのも悪くない気がする?」とも一瞬思いながら、結局予定通り、ラプラスはスピーチを開始した。 「じゃあ、今年もみんなお疲れ様。来年も健康に、朗らかさを忘れず、走りを楽しく、真剣さと真面目さも…」 「長い!」 そういう要件の言葉が数多く聞こえたが故、ラプラスの言葉の選択肢は、ただ一つに狭められてしまった。 「…じゃあ乾杯!」 若干無念そうな彼女の声。そこにそのほか大勢の、大小の声が続いた。
起爆剤の影響によって、準備されていた会場から、相応の雰囲気が発生し始める。飲食と会話とのシームレスな関係、という宴会の形式が成立するにつれ、雰囲気は拡大していく。
「ヘスちゃん、小食?」 「そうでもないけど、ゆっくり食べたいから~」 ニンジン焼きを小口でかじっているカフェヘスティアに話しかけるのは、フルールドゥオーロ。 「それにしてもフルールも結構やるようになったよねえ。2年連続の補習回避できたじゃん。びー・いんてりじぇんすだねえ」 「あざまーっす!あ、このチキンバチクソ行けるから行ってみ?フライングするかもよー?」 「ふうん、どれどれ…なるほどあっこれめっちゃからいゴホッゴホッ」 ヘスティアが大急ぎで水を口の中に押し込む姿が生まれる。 「あ、なんでかはよくわからねーんだけど、辛い物食べた後に水グイってやるともっと辛くなるんだってさー」 「重要なことは先に言って~!うう口が痛い」 去年はティアラ路線のライバル同士だった二人だが、この時はそれを感じさせないものである。さらに正確に言えば、この二人の様子は日常生活の延長でもあった。 対立と融和。二面性の物語が存在していることは、スポーツという世界では別に珍しくない。ゆえに、この会場でもそれが普遍的であった。今年はこの二人の路線があまり被らなかったという条件を込みにしてもなお。
「はいはーい!みてみてー!モノマネだよー!」
急に大声を出したのは、マイル路線の筆頭格であるレッドコンチネント。どこからともなくウマ娘のぬいぐるみを二つほど取り出し、両手に持つ。先ほどの声によって会場の注意が惹かれたところに、彼女流の渾身のネタが叩き込まれた。 「レースが好きな私は!家で一緒に見て見て盛り上がる!」 とある通販サイトのCMである。恐らくこの作品の読者層であれば概ねお判りいただけるネタであろう。 行動に対しての賞賛は、彼女の想定通りの爆笑というより、(なぜか変なツボに入った)フルールを除く全員の微妙な笑い、という形式で支払われた。 「…これは世俗で言う『スベり』というものでしょうか」 「『スベり』かは分からないけど…彼女の想定よりウケなかったのは確かだね」 短距離路線で今年コンチネントと激闘を繰り広げていたエストリルディスの感想。そしてアドマイヤラプラスの冷静な否定寄りの意見。 「ほらほらー!みんなノリ悪ーい!はいはーいもう1回やるよー!」 それらをガン無視した、コンチネントの大声が速攻でかき消す。「ウェーイ!いいぜーい!」というフルールのレスポンスが少しは触発を与えたのか、歓迎の声も、ないよりマシ程度には聞こえた。
「意外に珍しい集まりですわね?」と皐月賞ウマ娘。
「確かに。カプリースもハピちゃんもそこまで会わないなあ」とダービーウマ娘。 「寮の問題だと思う」と菊花賞ウマ娘。 去年のクラシック路線を走ったグランドカプリース、グロリアスブレイズ、そしてハピネスブラックが近くのテーブルに座っていた。去年のトゥインクルシリーズを有馬記念ワンツーという形で締めくくり、今年の凱旋門賞にも共同で出走したブレイズとハピネスにはある程度接点があったし、カプリースと他2名の関係も決して劣悪ではなかったのだが、こうして集まることは、振り返ってみると彼女らの記憶にはない。 ハピネスのいう寮の問題は、栗東寮のブレイズとカプリース、美浦寮のハピネスという構図を考えればある程度成立するだろう。同じ寮のブレイズとカプリースの接点の少なさを認めれば。 「お二人と比べると、今年は差がついてしまいましたわ」 「去年から」 「…直球過ぎない?」 ハピネスの言うことは無遠慮ではあるが、客観的に見れば間違いとは言えない。去年の段階でシニア級との混合戦を勝利し、今年はシニア級としてG1を勝ち、そのうえ海外でも好成績を上げた二人と比べれば、皐月賞以降のカプリースの戦績は寂しいものがある。言うまでもなくG1を1勝しているだけでも偉業ではあるのだが、それでも常時その自信を持てているというわけではないのである。 「まあ、上手くいかずともいずれはどうにかなる…っていうのは無責任かな?でも、今の走りが悪いわけじゃないし、カプリースにはもう少し挑戦する意義はあると思う」 「負けても次勝てばいいし、別に」 「…ええ。我らの王もそうでしたね。このくらいでへこんでいて何だというのですか!」 顔を一叩きする動作。二人なりの激励は効果があったのだとその表情は示す。 カプリースが皐月賞を取る少しばかり前に生じていた各種の軋轢の解決において、解決に重要な役割を果たしたのは、「運命的な縁で」出会った『我らの王』…キングヘイローであった。G1を獲得するために苦難と戦い続けたキングヘイローと、一度その栄光を獲得しつつも苦難の道に入っているグランドカプリースとの間には、いくらかの違いがあるが、しかし方向性には似通ったものがあった。 「さ、気を取り直して今日はまだまだ楽しみましょうか!」 「おー!」 「…おー?」 娯楽への決意に、2つの同意が付け加えられた。方や表面化し、片や内面におさまっているが、依然同意には変わりなかった。
「今日は結構集まりましたね」
「去年より多く呼んで派手に行こう、というのは私の提案でね。宴は人がいるほど楽しいものさ」 G3止まりのケイティファミリアが話しかけたのは、G2止まりのローズプライム。 彼女が去年の5月末日に得たダービー1番人気という評価は、今では「善戦はしてる」という類に変貌している。今年のジャパンカップでは2着であり、能力の衰えはないのだが、どうにも勝ち切れていないのだ。もっともそれは一般世俗における風潮であって、一個人としての人格への糾弾ではない。彼の提案が、今日という日を些か盛り上げる推進力となったことは確かである。
「だげんじょ、おれも来てよかったがや?勿論呼んでもらったんは嬉しい、だけんどビーツさんたちに悪くねえかなあ…?」
イントネーションからして標準語とは異なる日本語の様式で発言したウマ娘は、入店の段階から肩身を狭そうにしていた。 彼女はキタマエホープ、田舎から上京して、ダート路線を歩むウマ娘だ。先ほどの2名と同じくG1は未勝利だが、先日のチャンピオンカップで掲示板内に入る辺り、実力は申し分ない。とはいえ、路線の違いゆえ、彼女は今回のメンバーとの接点がそこまで多くなかった。 同期のダート組で、JDD(ジャパンダートダービー)を勝利しているハイレートビーツがいれば別だったかもしれないが、生憎彼女は東京大賞典の準備中である。その点で、彼女は孤独のみならず、いくらかの負い目もあった。 「ははは、気にすることはない!縁が無ければこれから作るまでのこと!」 プライムが励ます。彼女はポジティブである。ホープの口角が少し上がったことが、その効果の証明である。そもそもこのように騒がしく楽しい空間は、ホープ自身も大好きである。それを自重する制約が取り払われれば、彼女も場の空気に乗り込むだろう。 「…んだな!そっだら、ビーツさんの分まで食うて飲むべな!じゃあ、次の注文はなじょすんべか…おっ、よっしゃ、半殺しにするべ!」 「急に物騒!?……ははは、面白い!半死半生になることを辞さぬ決闘を仕掛けようとするのだね!?我々薔薇一族の誇りにかけて、その決闘を」 「半殺しは一部地方でのおはぎの別名ですよローズさん…というよりこの店のメニューにありましたっけ、おはぎって?」 ささやかなケイティファミリアの疑念が、一つの線を結びつける。あまりに恐ろしい疑いが、彼女の脳裏に浮かぶ。あまりにも不都合なそれに、彼女は戦慄しながらつぶやくのだった。 「まさか、作者はこの別に面白くない方言ネタを」 唐突に、台詞はかき消された。
「フブキングからLANE来た。レイちゃんと一緒にもうすぐ到着だってさー」
「ほうほーう。雪で新幹線が遅れたんだっけ?」 「そうですね。レイブラスターさんが到着したら、昨日の阪神カップの祝福をしなくてはいけません」 「雪と言うと、ホープさんの故郷も豪雪地帯だと聞いたのだけれど?」 「んだんだ、雪さ降っど家さ埋まるべ!」 「埋まる…?」 場の話題が絶えることはなかった。時間が過ぎるにつれて、既存の交流が、また別の交流に移っていく。会場内の人員が思うままに移動する。 ラプラスはその中で、ブレイズとの慣れた交流を開始したところだ。 「にぎわってますな、ブレイズ先生」 「みたいだね。とにかく、皆楽しそうで何より」 気の知れた人間同士の会話。新しい出会いは大事と何かと人は言うけれど、有るものを大事にすることも、それに劣らぬ重要な真理に感じられる。
「ねえ、ラプラス」
「『今年はありがとうラプラス大先生、来年もよろしくね』的な?」 「…こら、そういうセリフは先取りせずに言わせなさい」 「てへぺろ、ブレちゃん許してちょんまげ☆」 この子アルコール入ってないよね?と一瞬考えたブレイズだが、 「あ、そうそう。今年の感謝はまあそうなんだけど…あ、特に大先生とは思ってるわけではなくて。それはそれとして、もう一つ話したいことが」 と、ほとんど無視しながら更なる話題を伝えにかかる。ラプラスには、その顔がいくらかの緊張を含むように思われた。それが真面目な話なのだと察せられて、さすがに彼女はニヤついた顔を矯正する。 「というと?」 「私たち、もうすぐシニアの2年目なんだね。こうしてる間にも、終わりが近づいてるんだな、ってちょっと思ったの」 「ああ、確かにそう……」
レース史に聡いラプラスは、ブレイズの感慨を理解していた。
シニア級の2年目は、ウマ娘たちの引退が増え始める時期でもある。この時期の周辺に、ウマ娘の成長曲線が徐々に下降し始めるのが原因だ。もしくは、これだけ現役を継続すれば、競技者にとって致命的な怪我の可能性が増えるのも当然ということだろうか。そのどちらであっても、歴史上高名なウマ娘たちは、シニア級の2年目で一線を退くことが多かった。すでにある程度の実績を挙げているなら、なおさら。 無論、全てがこの流れに流されるわけでもない。シニア4年目や5年目にしてG1を勝つ事例もあるし、障害レースや地方トレセンに関して言えば、さらに長期間現役を続ける例など無数にある。 それでも依然として、シニア級の2年目という時期は、重い時期ではあるのだ。心理的にも、衰えつつある肉体を引っ張る際の物理的な部分でも。
そんな2人の感慨が、ふと消えていった。
コンチネントの似ていないキングヘイローのモノマネに対するカプリースの抗議、アメリカ遠征の思い出を話すハピネスと聞き入るケイティ、なぜか開始されたフルールの時代劇講座とそれを半ば聞き流しつつ聞くエスト、さらに店内へのフブキカスケイドとレイブラスターの到着、それに対してのプライムによる歓迎の挨拶…… とにかくそういった、集積された諸々のカオスな思いにかき消される。繊細な感情がこんな風の大味な思考に征服されるのは、しかし彼女らにとっては不快でもなかった。この場ではそれこそが正しさであるという、妙な同意が2人にはあった。 「まあなんだ、だからこそ余計に、今日は忘れるのが必要なのかもね。月並みの意見だけど」 ラプラスが言う。ブレイズも同意したように見えた。 この場を支配するあらゆる悦楽への追及に対しては、悲観的な感慨など、結局さしたる価値を持たない。100年に達する人生の中で、塵と変わらないような総時間であっても、そこに生まれ行く意味を探すには、希望と歓喜が多い方が気楽になれるに違いない。仮に悲観によって、有限の希望も歓喜も尊さを増す、という背景があるのだとしても、なお。
彼女たちが気づくと、まだ太陽光で薄暗かった外は、もう暗黒を照らすクリスマスのライトアップで彩られていた。祭りが終わりに近いことを認めなくてはならない時が近づいている。
ハレは終わるからこそハレとして成立する。ハレがケに戻る感触、そこにある諦念。それを呑み込まなければ、私たちに降る明日の太陽に、満たされた希望がいなくなるのだから。 そんな面倒な感慨まで抱く人間はいなかったけれども、確かにその場はお開きとなったことだけは、読者にお伝えしよう。
「もうすぐで3着だったんですが…惜しかった…」
「2500じゃあよく粘ったよ。お疲れさま。有馬は楽しんでこれたか?」 「まー、結構楽しめました。やっぱ人多いですね…って小学生の感想か」 ほとんど予定通りの時間にラプラスがトレーナーと合流したのは、合流予定の駅の改札前だった。 二人が会話する背景になっているプラットホームは、電車を待つ人であふれている。それぞれの人生の形が、あるいは楽しんできて、あるいは悲しみを背負って、あるいは向かい、あるいは帰る。そんな物語が一人一人を彩る。この二人にも同じことだ。 「もう今年も終わりだな。年末は実家か?」 「ええ、久々に。G1ウマ娘ラプラス様の凱旋って感じでね」 「何にせよ楽しく過ごすのがよろしい」 「はーい。あ、そういえばなんですけども」 ここでラプラスは、新たな物語の導入を記述せんとしている。実のところ、腹の中には随分と長くため込んでおいたプランではある。それを具体的なものとして相談するに至らしめた二つのもののうち、片方が先の秋天の勝利。そしてもう片方が今日の宴会である。 名誉なり、あらゆる欲望を肯定することへの許容。及び自分に残された制限時間が意外と近いことへの自覚。2要素の作用が、彼女を決断させたのだ。
「…来年は目標がありまして。あった、というよりは、ちょっと前に出来たヤツですけどね」
「何だ?」 一瞬間ができた。ここまで行っても、スムーズにつなぐことは彼女には容易でなかった。けれどもそれが不発とされるべきでないという無言の認識が、話し手と聞き手の双方に共有されている。そうして最後には、発言という結果が確かに残された。
「ドバイターフ、そしてクイーンエリザベス2世カップ」
「なるほど。いい選択肢だ」 アナウンスが列車の訪れを告げる。祭りの終わりは日々近づくが、それでも帰るその時まで、宴の空気が抜けきることがなさそうだった。 |
+ | 摂氏28度の夜 |
(正直慣れないな)
そんな感想を自分の現在地に対して抱きながら、一人のウマ娘の少女が、メイダンレース場で出走準備をしている。これまでに大レースは何度も経験したし、直前の緊張は毎度のことではあるのだが、今回は格別であった。国を背負って…という意識はないが、それでも海外のまだ見ぬ(勿論、事前リサーチを入念に行ったうえでもなお)強豪との戦いという意識が、国内での一戦とは別の意思上に存在している。 彼女が相当の不愉快を感じる原因には、やはり第一に、日本に比べて赤道に近い故の暑さが挙がる。3月のドバイは相対的に過ごしやすい時期ではあるにせよ、その理屈が現在人々の感じる暑さを和らげる理由にはならないのである。ましてその中でスポーツをするとなれば、全員に同じ条件が適応されるにしても、能力発揮において相応のペナルティが課せられているのだ。 そこに加えて気温に留まらず、時差や食事、周囲を包む言語までも内包したドバイの空気が、確かに彼女に、健康を無視して生じる違和感を覚えさせていたのである。
ただし一方では、練習を積み重ねた上で、それに裏打ちされた実績と実力、及び自負が彼女に備わっているのも事実である。
天賦の才をさらに磨いた身体能力、そこから生成されるスピード能力で言えば、彼女は出走メンバーの中でも上位に違いない。冷静なレースを心がければ勝率は十分高いことを、ファンや専門家、そして分析を繰り返した彼女自身も承知していたのである。 肉体を導く彼女の意欲もまた十全である。ここでの勝利はGI3勝目という名誉をもたらすものであるが、同時に今後のさらなる野心に向けての発射台でもあった。この後の海外遠征の予定もあるのだから、幸先の良いスタートを切るに越したことはないだろう。 (まずはここで弾みを付けに行きますかね) そう思ったあたりで、ゲート入場が始まった。スタンドの観客の高揚はもとより、中継でこれを見ている各地のファンたちの視線まで浴びているように, 彼女には思われる。 アドマイヤラプラスはゲートに入る。視線の先には、夜闇にいくらかの星、無駄なほどに煌めいている照明が写っていた。 「ゲートイン完了。ドバイターフ、各ウマ娘一斉にスタート!」
彼女は3番手…に向かおうとしつつ、最終的には4番手に位置取る。少しでも加速すれば即座に先頭に立てそうな位置ではあるが、全く必要性のないことをする道理は彼女にはない。
(予定通りだ。コーナーまで内を回ろう) コース内側の中継車両を横目に、彼女は一斉にワンターン・コーナーに入っていく。このあたりで900m、このレースの半分。この時点で追走にも苦労している面子ならば、そろそろ脱落し始めるころだ。そして勝利への意思と肉体を残した者たちの中には、進出を開始するものも現れ始める。 才能と努力の計算式の解に基づく選別と、その中のより苛烈な選別を生き残った精鋭たちの攻防戦が、メイダンの直線で開始された。
ロスの無い内側にルートを徹底するという策は、一方では悪手になった。
逃げた8番が垂れて、相対的にこちらに向かってくることは予想ができていた。外側には、同じく内を突こうとした2名が来ているが、これも想定内。 しかし問題は、その状況が理解できていても、その解決である突破に相当の手間をかけることである。状況認識の正確さと状況打開の難易度にギャップが生じるというのは、彼女にとってなんともうれしくない事態だ。 (冷静にルートを探せ…一瞬のタイミングを狙って突破口を…) ゴールまでの距離が縮まる中で、彼女は冷静さを保つよう、自己を対象として命令する。まで見つからない。強引に押しのけるわけにはいかない、冷静になれ…と、かえって焦るような気分にもなったとき、 (…よし!) 前方右手側、わずかに開いた隙間を目指し、ラプラスは一気に加速、気づけばその穴を潜り抜け、ゴールラインを真正面に見据える。すかさず彼女は全力疾走を自分に命じる。自分を切る風が汗を吹き飛ばすように感じた。このままいけば、あるいはどうにかなるかもしれない。
ルートを作るこの時までは、勝敗の女神は確かにラプラスに微笑んでいた。然して、この神は気分屋或いはしまり屋だったそうで、その笑みは決着までの担保をしてくれなかった。
もし別のポジションを取り、ために交代の影響を受けず、進出タイミングが少しだけ早ければ、レースの結果もまた違ったものになっただろう。この表現が使われるということは、現に起きた事態は、また別の物語であったということだ。
外で足を溜めていた12番が、ここで一気に加速する。
焦慮の間もなく彼女は鼓動を強めて走り続けるが、最高速度はラプラスの方が上でも、最高速度への到達速度…つまり瞬発力の点で、彼女はわずかに後れを取った。一定の距離が瞬く間に消失し、12番が迫ってくる。事態の焦眉たるがラプラスにも即座に理解できた。 (いやまだ…まだ負けてないし…!) まだ食い下がる。負けたくないと、勝ちたいと走る。それが人生そのものの目的にすり替わるくらいに走った。激しい鼓動も肉体の疲労も、全てこの世に元から無いものだったと思わせるように彼女は進んだ。
それでもなお、理性を以って、現実の光景を見据えざるを得ないその時が、彼女には訪れたのである。
『ストロングネーションだ!ストロングネーションが先頭でゴールイン!このガッツポーズだ!そして日本勢は……内にいた2番手のアドマイヤラプラスが最先着!その後は外からレッドコンチネントと内のパーシャンハーバーが…』
敬意と悔しさを概ね半々にしてラプラスがコースを去ると、そこにペットボトルを持ったトレーナーが待ち構えていた。
「御覧の通り負けました。内をつき過ぎたのがかえって裏目に出たと思います。あとは…意識してたより遠征疲れが大きかった…と言うと言い訳臭いでですかね?」 「何事も最初は上手くいかないもんだ」 そう言って手渡されたペットボトルを受け取りつつラプラスが行った弁明に、レースの様子を収めたビデオカメラから目を離さずにトレーナーは答える。 「ともかくお疲れ様。初遠征で2着、上々の成果だ」 「できれば勝ちたかったですがね」 もうすぐ4月を迎える星空に目をやっていたラプラスは、蓋を開ける中で、思い出したように口を開く。そこまで多くもない、自分への妥協を自分に許すことのない心情のことについて。 「追い抜かされる直前、負けたくない、って気が急に強くなって、思いの外…まあ差し返すほどでもありませんでしたけど、粘れたんですよね。少し前なら、あの段階で諦めて力を抜いてたかもしれないと考えると、我ながら多少の成長を感じました」 「そりゃ実にいいことだ。ただ……余計な負担の問題もあるからそればかりとも言い切れない。追加の消耗のせいで次につながらなければ元も子もない。その戦意がいざという時勝負を分ける可能性があるのも確かだが、まだ先があるしな」 「…ですかね」 そしてラプラスはペットボトルを口に運んだ。 トレーナーの反応は、彼女の想定よりは、賞賛に寄らないものである。最も評価すべきところはそのまま評価していたし、賞賛に当たらない部分には筋が通っていたから、概ね不満はなかった。概ねというからには、多少なりともその手の気持ちが無かったというわけではない。とにかくそのことが問題を起こすわけではないから、彼女はその後は沈黙して、レースを振り返る……とその前に、一つの疑問が彼女に生まれた。 「そういえば、私はワールドカップの勝ちくじにソルトレークシティを入れるのは決めてますけど、トレーナーさんは何か予想してます?」 「注目してるのはバルバロッサかな。ま、細かくは雰囲気を見てから決めることにしよう」
先ほど観客席から見られる立場だった彼女は、逆に観客席から見る立場に転身している。その目的は、ドバイミーティングにおいて、メインレースであるドバイワールドカップの一つ前。芝の世界最高峰レースの一つ、ドバイシーマクラシック。
彼女は今回注目すべき人物を、『Indefatigable』─香港名「不撓不屈」、仮に日本に出走したなら表記は「インディファティガブル」─に決めていた。その理由というのはいたって単調である。 彼女が次走として計画しているクイーンエリザベス2世カップには、「香港の英雄」、あるいは「現在進行形の伝説」たる彼女が出走することは確実であり、その下調べの必要を感じ取ったからだ。彼女と戦うがために、春の海外遠征ローテを考えたと言っても、一応は過言ではない。 どのような走りを見せるのか、それは研究材料であったが……彼女にしてみればそれと同等、あるいはそれ以上の価値が、この観戦にはあった。 単純である。彼女にとって、あのウマ娘が魅せる走りは、一選手である彼女を大勢の観客に同化させてくれる娯楽の一環としての価値を持つ。だからこそ、これを見れる特権を、彼女は味わい尽くすつもりだった。つまるところ、レースを見る人間は、大抵はその時間を楽しむ人なのである。
時が流れて、時が来た。
ゲートオープン。出足が付かなかった6番以外の11名は概ね好スタートを切る。歓声と走行の轟音が聴覚を刺激する中で、ラプラスは7番ゲートスタートの11番である今回のターゲットに、一観客として、そして分析者としての視線を向ける。 「彼女は思ったより後ろからだね。差しきれるかな」 後から見返してみると、インディファティガブル自身も意外に出足に恵まれなかったことにラプラスは気づいたのだが、この瞬間にはその事実は未明である。とにかく一団は固まり、コーナーを回って、向こう正面に一方通行の前進を継続していた。
直線を進む一団は、4番の先導の元で、やや縦長に進む。ラプラスの集中はその中でも外側後方3番手、インディファティカブルに相変わらず向けられていた。
レースの熱気は疲労とともに本能を刺激するが故、走者の冷静さを剥奪することが多々あり、このために敗戦したウマ娘の事例を挙げれば、一山積みあがるであろう。その点では今回のインディファティカブルの澱みない走りは、同じく冷静さを保つのが得意なラプラスにとってさえも、まず評価すべき点であった。 「先頭が割と飛ばすね。ラビットか」 やや厳しい流れとなっただけに、先行勢の息が微妙に上がる様が伺える。となれば、ハイペースからの上り勝負か、スタミナ豊富な先行勢が押し込むか。そんな思考の中で迎えられる直線の目前は、観戦者にとっても緊張と、そして高揚のボルテージを引き上げる瞬間だ。
4番のハートナイトは自信をつけ始めていた。G2を1勝した他は振るわず、G1では3着1回が限界。今回の出走は、やや早い流れが得意な同チームのためのペースメーカーとしての出走であると、トレーナーより暗に伝えられている。
チームのために勝つ、という意識が皆無でなかったが、彼女にも一定のエゴイズムがある。それ故、早めのペースながらぎりぎり残り切れそうなラップを計算し、それに沿った走りを行っていた。その実行は正確に進み、彼女は「してやったり」の感を増しつつある。勝てれば圧倒的な栄誉。負けても好勝負となれば、相当の名誉。 人々を一気に見返し、観客を仰天させ、ほとんど全方面からの賞賛を浴びるその時は、確実に近づいている。
野望の儚さを彼女、ハートナイトが認識するまでは、いくらかの時間が要された。
まず先行勢に追い抜かれた彼女は、既に勝利をモノにできなくなる。なおも粘ろうとしたところで、抗う暇を与えられずに、その姿はバ群に消えていった。
レースは直線を迎え、有力勢がそれぞれの脚色でゴール板へ直進していた。瞳が迫りくる勝利にぎらつき、一種の闘争本能が刺激される。
インディファティガブルは大外に出て、ついに2分間の封印から脚を解き放ち、進出を開始する。概ね彼女の予定通りの展開であった。そしてこの通りに進めば十二分に勝算があると、彼女は理解していたのだ。
ものの数秒で、どよめきの波紋がメイダンレース場を満たす。後方集団に位置していたが故に、豪脚を持ったうえでそれをある程度温存できていたとしても、先頭までに生じている距離を埋めるには時間がかかる。実際時間は流れた。ただしこの場合問題となったのは、その経過時間のあからさまな短さだったのである。
彼女がこともなげに距離を破壊していく瞬間は、レース観戦の経験が少ない観戦者をもってしても、明らかに勝利を確信させる光景だった。周囲と異なる時間の流れに身を置く末脚は世に皆無ではないが、それがG1で観測されることの異質性は、多少考えれば思い当たる事項である。
ラプラスの心境には、驚愕も賛辞もなかった。そういう感覚のさらに内側にある感覚は、数秒後の勝者を前にして、明らかに圧倒されていたのである。
「……」 印象を発そうにも、彼女のニューロンが喉の筋肉を前にして断絶しているかのように、口が動くことが無かった。 真なる美とは理屈を生じさせない。どのような分析や解釈を対象に対し張り巡らせようと、最終的には言葉になることのない感覚そのものに対して、芸術は美を示すものなのだ。この走りはそういう作品だったのである。 一つの芸術表現が、開始から2分と20数秒が経過したことで、ついに幕を下ろした。 『インディファティガブル、完勝ゴールイン!香港年度代表ウマ娘インディファティガブル、英雄はドバイでも強かった!豪快な差し脚で相手を寄せ付けずそのままゴールイン!』 観客席のいたるところから聞こえる拍手と歓声に、嘆声なり溜息なりも混じる。畏怖とはまた別種の恐怖すら感じさせるほどに、彼女は今日の王者であった。
スタンドの一角、レース準備の続くメイダンを目前にして、ラプラスとトレーナーがいる。
「しかし凄かったですね。正直、アレを相手にするのはちょっと無謀な気すらする」 「まあ、気持ちはわかるさ。無理そうか?」 少し考えてから、ラプラスは返す。 「そうですね…骨が折れそう、おっとこの業界でこの言い方は不吉かな……まあ並の苦労じゃ彼女を倒すのは不可能でしょう」 「…勝てない、とは言わないんだな?」 「実際に戦わないうちはいくらでも自信を持てますよ。それが無知の特権ですから」 「まあ、確かに。戦う前から負けることを意識すれば、大抵は予想通りの結果へと進むものだ」 ラプラスの結論は、悲観的でありながら、しかしその割に楽観主義的かつ自信過剰的だった。かの走りに対して覚えた鮮烈は確かだったにせよ、一方では勝ちの芽が無いわけではないとも彼女は考えていたのである。無いわけではないというだけではある。その検証は、1か月後のチャンピオンズデーを待つことになるだろう。
一種の緊張感を孕む会話が終わると、二人の間にある程度の弛緩が現れる。即ち、一流のアスリートとその指導者としての関係が、10代女性とその引率者たる成人男性といった風情となった。
「ところで、せっかくの海外だ。どこに寄る?」 「スカイダイビングは気分じゃないかなあ…ここは王道かつ安直にブルジュ・ハリファとかどうでしょ?」 「ドバイモールなんてのもあるぞ。噴水が有名だとか」 「水族館も捨てがたい…と、まもなくワールドカップですね。いざ、スタンドへ」 こうやって、気楽に二人は歩き出す。
希望を持つでもなく、しかし失望を覚えるでもない、そういう1日が幕を閉じようとしていた。この日の意味を知るのは、未来にいる当事者だけだろう。
ひとまず確実なのは、展開予想やバ体診断の甲斐もなく、アドマイヤラプラスとそのトレーナーが、勝利予想くじを見事に外したことである。 |
+ | 人事を尽くして天命を待つ |
インディファティガブル、香港所属。現地表記では『不撓不屈』。香港ではポピュラーな両耳のリボンに、目元を覆うマスクがトレードマーク。素顔を見れるのはごく一部の関係者のみだとか。威厳を漲らせる堂々とした体格と圧倒的な実力、そしてその王者の風格が、「香港の英雄」たる由縁である。
出身はアイルランド。3年前にイギリスでクラシック時代を走った後、その年の末ににイギリスから香港に移籍。 香港クラシック路線には出走せずに一般競争を4戦ほど繰り返して実力を見せていき、その年の香港ジョッキークラブカップで重賞初制覇。その後は香港カップ連覇など、中距離路線で連戦連勝。前シーズンの香港女王…つまり、香港の年度代表ウマ娘のタイトルを獲得した。 前走のドバイシーマクラシックはまさしく完勝、その実力が世界に通用すると証明した。G1勝利数から考慮するに、今年も年度代表ウマ娘の獲得は確実。 その最大の武器は後方からの豪脚。どちらかといえば先行有利なシャティンでも余裕の差し切りを見せる。経験からなるレースセンスも優れており、ギャンブルじみた戦いはしない、というより必要ない、まさしく王者の好位差しを決めてみせることだろう。 この怪物を打ち負かす、そのために何が必要なのか。見出したところで、それを現実のものとはできるのだろうか?
シャティンレース場に集う様々な色形の顔は、今日のレースイベントの多国籍性を如実に表現していた。
人々の話題は先のスプリントレースの感想に集中している。見事に勝利してニュースターとして俄かに頭角を現した1番、オーストラリアから遠征してきた5番の健闘、あるいは昨年の香港スプリント王者の熱発による回避を残念がる声。この空気もおそらく、次のチャンピオンズマイルの時には、目先のレースを楽しむものに一変していることだろう。 スタンドで新聞を握る人々の中には、チャンピオンズマイルのその次、クイーンエリザベス2世カップの出走表を確認する人々の姿もある。インディファティガブルの凱旋レースをぜひとも見たいという人々も含めて、スタンドの活気が形成されている。ここに吹く娯楽の風を浴びることによって、少女たちは夢を目指そうと腰を上げてきた。その光景は現在も、そして楽観的視野の下で見れば訪れるであろう平穏な未来まで、脈々と続くものである。
同タイミング、スタンドから物理的にはそれほど離れず、しかし社会的には遠い控室。
『レースプランは何回も計算したんでしょ?じゃあ大丈夫。自分を信じて頑張ってきてね』 「はいなーブレイズ先生。悪いね、わざわざ連絡してもらって」 アドマイヤラプラスは、同期たちとビデオ電話の最中である。 『応援してるから。自分の走りで行けばレース場は関係ない』 「ハピちゃん、ありがと。カプリース、彼女との対戦経験者的には何かある?」 『生憎あの時は差が大きくて、参考になりそうなことはないけど…どちらにせよ前で粘り切れるかどうか、この一点にかかっていますわね』 「オーライ」 『ラプちゃーん!例のインディアン、じゃなくてインドガハジニヨルみたいな奴、正面からぶっちしてみー!』 「フルールはこれを機にinとかableの使い方を…まあそれはそれとして応援よろしく」
通話終了のボタンを押したところで、同室にいた男性、つまりトレーナーに彼女は声をかけられた。
「友人に恵まれたな、君は」 「恵まれすぎてるくらいに、ね」 幸福を讃える二人の微笑は、しかしすぐに真剣さで上書きされた。机の上には、無数の書き込みがされたノート。その筆跡の群れこそが、ここまでの真剣さの重要証拠品である。導き出された勝算をつかむには、できることを最大限にこなさなくてはならない。 「わかってるとは思うが、相手は単純に強い。その空気に呑まれないように気をつけろ。そうやって全能力を発揮できれば勝てる見込みはあるし、それに…レースに絶対などないものだ」 「はい」 いつになく、緊張感のある声をラプラスは出した。事前にトレーニング量を大きく増加させつつも、最善の仕上がりを確保することに彼女は成功していた。これで勝算の前提条件はクリアーとなるであろうから、あとは戦略の精巧性、そして本人のメンタリズムが大きな鍵になるはずだった。しかしそのような時は、事前準備を重ね、神経の集中を高めていても、その事実がむしろ緊張の度を増させることもあるのだ。 「楽しんでこい…といいたいところだが、今回はそれだけではどうにもならない。全力で行け。目的はただ、勝つこと。喜びなり楽しみなりがついてくるのはその後だ。その心構えを忘れるなよ」 「はい」 トレーナーが、平常はないことであったが、勝利を至上のものにするかのように語る。それが、恐らくは穏健な彼ができる、最大限の思いやり故の発破だろうとラプラスは看破していた。部屋の緊張感が、普段とは違う形式となっていることを彼女は認識せざるを得なかった。 「…時間だな。勝ってこい」 「言われなくても」 言いながら、ラプラスはドアの前に立った。
チャンピオンズデーもいよいよ最終レース、QE2世杯。各国から集まった12人のウマ娘は、まだ空白のゲートの背面にて、それぞれの行動に当たっていた。ある者は準備体操、ある者は精神集中。そして今回の2番人気は、断然の1番人気をじっと観察している。
1番人気、香港王者インディファティガブルはこちらには一瞥もくれない。仮面がその表情の仔細を隠す。けれども露出している口元の結び方が、その厳格な視線までも伺わせるようである。 不意に、向こう正面側を向いていた彼女の視線が、こちらに向いた。ラプラスのそれに気づいたのか、あるいはその実績と事前評価から、彼女の側からも警戒対象として見てきたのか。どちらにせよ分からないが、その顔が、ラプラスの視線内に直接入り込む。 その表情はラプラスを──多少、狼狽えさせた。彼女の連想内に現れたのは、3女神の神話の絵図に登場する、バイアリータークの厳しい目。その手のストイックさと勝利欲が彼女の顔に敷き詰められていた。そういう険しさだった。その手のものはラプラスの苦手なものだったから、とっさに彼女は、まだ空のゲートに視線を変更した。その周囲の職員たちの慌ただしい動きが、レースの近づきを誰にも連想させる。
(『世界威圧大会』とかじゃなくてよかった。それなら負けてたわー)
存在もしないような大会を思いつくのは、緊張感の欠如か、はたまたリラックスゆえの余裕か、あるいは恐怖への誤魔化しだったのか。そこからゲートインまでの時間では、それを客観視するだけの余裕は残されていないようである。 係員が、誘導を開始した。会場に広がる緊張の高まりと、その地下で滞留するマグマのごとく熱気を、誰もが感じたことだろう。 12通りの物語が、既定の位置に集結する。
ゲートが開いた、一斉にそろってスタート。
先頭に真っ先に出たのは…2番だ。思考がプランCをなぞり始める。ロスなく3番手に…といったところで、5番と10番が先方を目指して仕掛けてくる。この2人との先行争いは想定内、そしてその結果は今後の趨勢にも達するという予測の上で、ラプラスはいきなり、このタイミングでできうる最大の加速を仕掛けた。その大胆さが功を奏し、うまく先団追走のポジションにつく。外からをプレッシャーをかけてくる8番と並走する形をとりながら、ラプラスはバ群先行集団の一員として、最初のコーナーを回り始めた。 これが正当な作戦であったかどうかは、未だ彼女の知りえるところでなく、ただ結果だけが私たちに通知するものである。
一団はそれぞれのリズムを統合しながら、向こう正面へよどみなく流れていく。先頭を進む2番がスローに落としたことが全体に波及して、風の中に静けさが生まれる。大胆な動きはなく、それぞれが後半に向けて、概ね同様に足を温存し始めた。しかし、脳裏に浮かぶ勝利への方策は、我々が普遍性を持ちながらもなおも異質であることと同じく、依然として十人十色である。
(この遅さなら願ったり叶ったり。んで、ここからが問題かな) その内の一色であるラプラスの意識は現在の走りに大半を割かれていたが、残る部分で、事前に決定していた戦略について極めて深刻に思考していた。
ドバイから帰り、国内でトレーニングと学びを続け、現在の香港遠征まで、この間約1か月。その相当数を消費して、彼女がトレーナーと築き上げた決戦の一点は、既に見出されている。圧倒的な壁にほころびを与えうる、ただ一つの加速開始点。この一点を逃さなければ、それは勝利へのルートを導き出すだろう。
幸い事前予測が「恐ろしいほどまでに」完璧に進んだこともあり、前方にラプラスの走りを阻む対象はない。
ただ一瞬を。
明確な一刻を。 一度限りのタイミングを──
「見つけた!」
その魂は勝負師のそれに変貌した。 最終コーナーと直線との付け根の周辺、豪快な勢いとともに、ラプラスは急進出した。強烈な速度を維持しながらの、最適ルートでのコーナリング。肉体への負荷は確かだが、先週のギリギリを攻め続けるコーナリングの練習がその感覚を軽減させていた。勝利という結果から逆算して必要とされた戦術の一環、そしてさらに逆算して見出した練習の成果である。 先頭集団に追いつくまでの速度を考慮すれば、それを追い抜くのに必要な時間の短さは容易に想像できる。 全霊を集中させながら、衝動に導かれつつ、しかしフォームを崩すことはない。効率よい走法が体に染み込むように、太陽が西に落下するまで反復練習を繰り返した結果が、確かに現れていた。
気づけば先頭に立つ。ゴールラインは目と鼻の先、と表現してもよい先。そこまでこの状態を維持できれば、トレーナー室のトロフィーが一つ増えることとなる。
後方集団も温存した末脚を出し始めるが、先頭に立ったラプラスのそれを上回る勢いの速度と質量は、外側から迫りくる一名を除けば存在していなかった。 (まあ問題は…その残り一名なんだけどね!) その一人が自分を追っていると、振り返らずとも彼女には理解できていた。シャティンを数十回に渡って征服した、勝利の意思の明白な具現たる速度。聴覚を刺激する声の数々が、その事実が逃げ足をさらに急がせている。 クラシック時代に対峙したシニア級の相手を想起させる、圧倒的な圧力。迫りくる獣の王。被食者としての恐怖とスリル、そこから生まれる言語化しえない法悦。脳に響くほどにまで強い拍動。それらすべて、明確な感情として彼女の足を動かす。
彼女が挑んでいたのは単なる強豪ではない。凡百の猛者を相手にするのならここまで入念な準備はできなかったかもしれない。
しかし残念ながら、そして一面では喜ばしくもあることに、彼女の今回の相手は、生きる歴史の一場面なのだ。同じく歴史の一環に位置するであろうラプラスが全霊を尽くしても、完全な勝利は見込めない。迫りくる迫力がその確信を一秒ごとに高めている。 そうだとしても、勝利そのものなら、困難であっても決して無理な要求ではないと彼女は予想した、というよりは信じた、あるいは傲慢となった。そして、このレースの世界には、時に無情であり、一方で時に有益なルールがあるのだ。 「ハナ差でも勝ちは勝ち」。 できる最大限を尽くせれば、その時に見える光景の選択肢を願う権利を持てる。彼女はそう信じた。それが、未だに彼女にギリギリの先頭を維持させる、明白な信念というものである。
(今日までできることは全部積んだ。積んだことをできるだけ皆出した。そうやって、やり尽くしたのなら……)
理屈なんぞ通り越して、天命を待て。
実況席の視線が、観客席の視線が、中継を見る視線が、そしてターフという同じ戦場に立った少女らの視線まで。
重なりつつある2点に集中する。 見計らった運命という名の指揮者が、タクトを止めた。場面という名の楽団がそれに合わせて、一斉に演奏を終えた。
「ゴールイン、まったく並んだ!アドマイヤラプラスとインディファティカブル!ものすごいレースでした!これは…どちらが勝ったのか!態勢は互角のようです、粘ったアドマイヤラプラス、そして後方からやはり伸びてきたインディファティガブル!さあどのような結果に…」
「…はああ…うー…ん」
原則を完全に終わると、自然と嘆息が現れた。 鉛を全身にまとったような重い肉体で、首を強引に上に向け、ラプラスは電光掲示板を見る。1着と2着はまだ表記されていない。 わずかな祈りと、無数の純粋な好奇心とともに、掲示板を見つめ──やがて、世界の分針と秒針が多少動いた、その後。
4番に1着の表記。
「……よっし」
もっと狂喜せんとばかりに喜ぶと思っていた彼女は、自分の妙なくらい冷静なリアクションが妙に不思議だった。尤も彼女自身、喜びを表に出す質でもなかったのだが。それもまた重要な個性には違いない。疲労故に喜びを表現しきれなかった、というのもまた正確であったろうか。とにかく彼女は勝者のみが獲得しうる歓喜の権利を獲得していたのである。 そしてスタンドから聞こえてくるのは、賞賛の声と拍手の音……
居座わっていたのは、沈黙だった。
「…なんかマズいことでもした?」
そういう気分に、ラプラスはなった。ギリギリセーフな斜行とか、そういう類のものはなかったはず…なのだが、その手のは自分だとそうそう気づかないものである。尤も、降着という裁定が現に下されていないのだから、非常に深刻な妨害をやらかしたわけでもなさそうだった。そうなれば、この賞賛の音以上に強烈な、陰鬱すら感じさせる空気の正体とは。
「…もしかして」
自分が破った相手の詳細を思い返した。なるほど妙に合点がいく。 恐らくここに集まる人々の大半は、1番人気を背負った香港の英雄の力強い走り、そして栄光に満ちた勝利を待っていたのであろう。そして結果は、香港初来訪の日本のウマ娘によって、ギリギリのところで後者が果たされなかったというものである。波紋の広がりは間違いなかった。香港中距離戦が例年日本勢が強いことも沈黙の一員であったかもしれないが、しかしこちらは重要ではあるまい。インディファティガブルの敗北は重いものであった。
(…仕方ない、のか)
心中の一部、何なら相当部分は納得している。かく言う自分自身、日本の強豪が海外の挑戦者に敗北などという事態を現地で目撃したとすれば、賞賛はまあ前提だとしても、何とも言えない気分には絶対にならない、という保証はどこにもない。 いずれにせよ、そういう宿命だと思った。自分の勝利とは、誰かの希望の敗北でもある、そういう当然の宿命の一環だ。無数の過去が繰り返してきた、そして未来でも繰り返されるであろう過程だ。そんなことは理解している。競争というものの摂理なのだから。 それが心にしっくりとこないのが、しかし確かな事実。その事実に対して喜より悲が浮かんでくるのも、同じく確か。 どちらにせよ、それを覆せるような空気でもなかった。おとなしく踵を返して、コースの出口に向かう。ヒールとしてはこれ以上ない名誉だけど、それでも恨み言なりなんなり、この後の滞在でとやかく言われたらどうしようかなあ、それは流石に凹むかもなあ……そういう思考が脳裏に浮かんだ時の事。
凡百のものではない、背面から自分を刺殺せんとするような、そんな勢いの視線。それが先までの絶対的な強敵によるものだと、振り向くと同時に察知する。小さく、しかし確実なハンド・クラップの音が、聴覚というより視界を介して聞こえてきた。
「すばらしい闘志、そして強さだった、挑戦者よ!」 声はその声を出す人間の人格をも反映する。インディファティガブルの場合、威厳と誇りを携えた中にエッセンスとしての若々しさが加えられているといった風である。人間の声量ではシャティンに響く声に限界があるにも関わらず、確かに会場のすべてに、その広東語のフレーズは伝播したように思える。 「彼女の走りはすばらしかった!私の想像のはるかその先に、現に彼女はいたのだ。礼節に沿って、皆も彼女を賞賛しよう!」 会場の空気が一変するのに十分な一発の銃弾が、打ち込まれた瞬間だった。
単純に彼女が結果的にヒールとなった自分を憐れんだのか、それとも本心か、そちらはもう関係なかった。今はただあれだけの強敵と戦えたことへの喝采に、勝利への達成感、そして改めての敬意が浮上している。
聴覚を熱気が包む中で、視覚にはずかずかと歩くインディファティガブルが見える。不機嫌さを露骨に隠しながら…という風体でなかったのは、当面のラプラスの精神衛生上よろしいことであった。彼女が最接近する。少しだけラプラスは身構えた。 「Nice fight, Congratulations!」 そう言ってインディファティガブルが右手を差し出す。ラプラスの側にそれを断る理由などありはしない。相応の敬意が返答として表現される。 握手が交わされる瞬間が、大衆の目に写った。会場の活況が、先の困惑が偽書の一節であると思わせるほどに、瞬時に爆発した。
一度走った相手なら、それが終われば後は友人。安い物語の類型に思えたが、しかし彼女を納得させるのに十分な脚本である。彼女にはそういう経験が少なからず。あるいは、目の前にいる、派手な仮面で目元を覆った彼女にも、そういう物語群があったのかもしれない。
感謝を伝えたかったが、浮かび上がっていた言葉が喉の奥で詰まっていた。 自分は…有り体だけど、感動しているのだろうな。そんなことが、会場中の拍手を耳に収めている、アドマイヤラプラスの脳裏に思い浮かぶ。 不意に仮面の女の瞳を見た気が、ラプラスはした。その中に鬼神はいなかった。
レース参加者用に手配された国際宿泊所、賑わう朝食会場。
「…香りの良い紅茶だ」
「流石は旧イギリス領ってとこですかね。派手な朝食を含めて」 「『イギリスで良い食事をしたいなら3食朝食にしろ』だっけな」 アドマイヤラプラスとそのトレーナーが、プレートいっぱいに盛られた料理を前に向き合い、英国式のもてなしを楽しんでいる。 「昨日は燃え尽き気味で少食でしたからねえ。今日は色々と食ってやりますよ」 「…まあ、ここまで自重期間長かったもんな。無理は終わりだ。…しかしよくやるよ、君は」 レースに向けた減量解除のお墨付きと、焼きトマトの風味の両方が、ラプラスの笑顔を形成した。
「おはようございます、お二人とも。昨日はお見事でした」
日本語で不意に話しかけられた。二人が見れば、そこにはスタッフの服を着た、一人のウマ娘が佇んでいる。さて、この日本生まれウマ娘には、かつて日本で芽が出ずに香港へ……といった語るに値する諸々の物語があるものの、今回は関係ないが故に割愛。 「香港レース協会の方から、連絡が来ております。私が代わりに読み上げましょうか」 「ああ、中国語なら読めます」 そういってトレーナーは、スタッフから受け取った封筒を開く。中には手紙、そしてメモ書きが同封されている。 手紙を開いたトレーナーは、しばらくその文面と格闘した。異国語習得の度合いからして、スラスラとはいかなかったが、それでも彼はその意味を理解したようだった。そのふとした微笑に、ラプラスが気付く。 「『この手紙が、彼らの運命を大きく変えることとなるのだ……』って類ですか?」 「そこまで面白くはないが、しかし面白い内容ではあったな」 「どんな内容なんです?」 先ほどまで持ち上げていたティーカップをテーブルマットの上に置いてから、トレーナーはラプラスの顔を見た。 「あるトレーナーからの伝言だった。インディファティガブルが、君に個人的に会いたいんだってさ。詳細はメモ書きを見ろとのことだったが…」
本伝が、少しだけ脇道に逸れるようである。
|
番外編
+ | SSR怪文書 |
「珍しいね、お誘いなんて?」
海風が平等に世界を撫でて、君の髪は遠景の海に触れる。
普段真剣なそれが、緩んでいるのを見れる口元。滅多に見れない解いた髪が、どうしたって記憶野を逃げ出さない。
君はそのまま、かもめの空に視線を合わせる。観測者の目で、しかし存在しない目的を伴いながら。
同じ横顔を何度も見たはず。周囲の空気が違うだけで、それは何もかも魅力的。
少しだけこの世界を楽しませるもの。必須でなくても、きっと必要なものが、君。
こっちを見る顔が不思議なのか、それとも知っていて出さないだけなのか。君はそんな笑いを浮かべて、グラスに優しく口づけした。
|
+ | オジュウチョウサンの選出を祈る会 |
正直に言えば、彼女はスマートフォンにこれから映る情報を、遅かれ早かれ、むしろかなり早く知っていただろう。それでもなお、知る速度を可能なだけ素早くしようと努めたのは、彼女がその情報に対し、意識している以上の本能的な関心を寄せていたからである。仕事が手につかないほどではないにせよ、いくらかの緊張感があった。
「そろそろか」
ニュースサイトのトップ画面を開く。最初の画面で、さらに上にスクロール。読み込み中の表示が出て数秒…リロード完了。変化なし。また読み込み。変化なし。再読み込み。「NEW!」の文字が踊るニュース記事を、タイトルを読まぬまま即座にタップした。 アクセスが集中したのか、文の表示まで少し時間が経つ。 時は来た。
「あー、まあ足りんか…しゃーない」
そう言って、彼女は携帯電話の電源ボタンを軽く押した。先程までの静電気を恐れながら金属を触れるのに似た緊張から、彼女は解放されきった。 自分自身で想像していたよりは落胆がなかった。実のところ、彼女は眼の前にある結果を概ね予想していたし、それに妥当な理由があるのも理解は出来ていた。 ただ、可能性があるなら見たかったというだけだ。それに敗北した、というだけで。
『202X年 殿堂入りウマ娘はなし』
(中略) アドマイヤラプラス 108 (後略)
(※この文章はフィクションです。実在の人物・団体とは一切関係…一切とは言えないかもしれませんがとにかく関係ありません)
|