生きるために最善を尽くすのは、決して悪い事じゃない。少なくとも、俺こと保谷州都はそう信じてる。
だが世界がこの様じゃ、そう信じるしかなかったという方が近いかもしれない。
凍てついた窓には、もう外の景色は映らなかった。白い。只白いだけだった。壁も、床も、空も、息までも。
音は消え、空気は止まり、心臓の鼓動さえも自分のものじゃないように遠く響いた。
その家の名前は、もう思い出せない。発音もうまくできなかったし、綴りも知らなかった。
けれどそこに住んでいた人たちの顔だけは、今も脳裏に焼きついて離れない。
家長の男は、俺を“シュウ”と呼んだ。言葉は通じなかったが、笑って飯を出してくれた。
奥さんは英語の覚束ない俺を連れ出しては買い物に付き合わせ、ボディランゲージで奮闘する姿を見るのが好きないい根性したおばさんだった。
長女はアジア人の俺をどこか怖がっていた気もするが、それでも不器用に交流しようと頑張っているのは伝わった。
三人とも、もういない。世界が終わってから一年もしない内に、櫛の歯が欠けるように一人また一人と死んでいった。
最期に残ったのは、長男だった。たぶん、俺より五つか六つは下だったと思う。
最後の方はやせ細って、質の悪い病気にでも罹ったのか咳をするたびに血を吐いて、それでも気丈に笑う姿が記憶に残ってる。
まともな医療なんてものが期待出来る環境じゃ勿論なかったし、俺も自分が生きる事で精一杯だったから、自分を実の兄みたいに慕ってくれる彼が日に日に弱っていくのを黙って見ているしか出来なかった。
よく笑う奴だった。こいつだけは、最期の夜まで笑っていた。他の三人は皆泣きながら死んだのに、こいつは怖くないんだろうかと思った。
誰も居なくなった家を背にしながら、俺は自分の生き方って物を定義した。
この家に留まっていたって何も変わらないし、俺までこの人達と同じ末路を辿るだけだ。
生きるために最善を尽くす事は間違いじゃない。もっと安定した生活が送れる環境が必要だ。この際善悪に拘るつもりはない、贅沢も言うつもりはない。今日を生きる最低限の食い扶持と雪風を凌げる屋根と壁があれば、靴でも何でも舐めてやる。
せめてもの餞別に死体を家族の墓の隣に埋めてやり、別れを告げて、白い町を歩いた。崩れた看板と潰れた車の横を通り過ぎ、燃え残った建物の影で、無言の遺体たちを見送った。
知った顔が死ぬのなんて珍しくもない。そんな事でいちいち泣いたり喚いたりしていたら、この時代を生きていくなんて夢のまた夢だ。
だから俺は恥知らずに生きた。ラスベガスに拠点を構えた破落戸の王様に頭を下げて仲間にして貰い、地道に実績を積み上げてそれなりの信頼も勝ち取った。今じゃ明日の食い物に困る事はないし、その気になれば酒も煙草も人伝に仕入れられる。働きで有用性を示していたら、喧嘩を売ってくる奴もいつの間にかいなくなっていた。
あの家で糊口を凌ぐような暮らしをしていた頃とは雲泥の差だ。衣食住の保証が利いている時点で、俺は今を生きている人類の中でも一握りの幸せ者なんだろう。
それでも俺の前で凍え死んでいった四人の顔が、今も胸に残って離れない。
守れなかった命。朽ちていくのを只見つめるしか出来なかった喪失の記憶。なんでも、神禍はその人間の思想を反映して芽生える力なのだという。
なら俺はやっぱりあの人達に感謝するべきなんだろう。彼らが俺に遺してくれた“守れなかった”という心痛(トラウマ)が、今の俺の暮らしを支えてるんだから。
目を合わせれば、相手の神禍を模倣できる力。それが自分に宿っていると理解したのは、家を出て程なくしての事だった。
誰かの眼を見つめて20秒。その力で、この雪玉の星を生きる隣人を殴り倒す。時には殺す。
全人類が化物になった世界でも、他人の神禍にアプローチ出来る力は希少なのだそうだ。うちのボスの受け売りだが、実際、組織は俺をそれなりに大事にしてくれた。俺が加入した日から組織の版図が目に見えて拡大したそうなので、あながちお世辞でもないんだと思う。
いい暮らしだ。少なくとも此処にいれば、俺は明日に怯えなくて済む。
そう思っているのに、今も時々胸が痛む。死んでいった家族の顔と、最後に見たあの硝子細工みたいな笑顔が俺の心をどんな刃物よりも鋭く突き刺すのだ。
守れなかった、救えなかった。俺は余りに弱くてつまらない存在だから、目の前にある失い難い命を守る事も出来ない。
俺はトラウマで飯を食っている。情けないとは思うが、じゃあ他にどうするんだよと問われたら返す言葉などある筈もなく、だらだらぐだぐだと現状維持のような暮らしを続けてきた。
だから、これはその因果に対する応報なのかもしれない。そう思いながら俺は、遂に目の前に迫ってきた死の姿を見上げていた。
「ッ……げほ、ごほ……ッ!」
みっともなく地面を転がって、泥と雪とに塗れた姿を晒す俺とは対照的に、死神は傷一つない光沢で闇夜の下に佇んでいる。
それは、まるで夜が立ち上がったかのようだった。
漆黒の甲冑に包まれた巨躯は、雪の中にあってもなお一点の白すら纏わず、全長三メートルを優に超える体躯が周囲の木々さえ矮小に見せる。
風が吹いて揺れる裾もなく、繋ぎ目すら存在しない鋼の殻が、あらゆる生物的な輪郭を殺していた。只立っているだけで空間が圧される。人の形を模してはいるが、そこに人間性の気配は微塵たりとも覗えない。
両脇を覆う肩当ては鬼面を思わせる曲面構造で、降り積もる雪すら表面で跳ね返す。
こいつには只、死の静謐だけがあった。左腰に佩かれた一振りの長刀――人間では振るえない程巨大なそれが、俺はこれから死ぬのだと無言の内に宣告している。
艶消しの黒が深く沈む機体の頭部には双眼の代役なのだろう、一対のレンズが覗いている。五感では捉えきれない、存在の根に刺さる感覚が、俺が今この化物に見られているのだという認識を御丁寧に与えてくれてた。
命の価値を秤にかけるでも、情を図るでもなく、死は只そこに立っていた。一端に積み上げてきた自負や意地が霜柱のように内側から崩れていくのを、結局俺はどうする事もできなかった。
『恐れる事はない。速やかに首を晒せ、さすれば安息は忽ちに訪れよう』
化物なら何人か知ってる。例えばうちのボス、『ハード・ボイルダー』。
ホワイトハウスを占拠した自称大統領の一派。絶対に関わるなと厳命されていた十二体の崩壊。
今俺の目の前にいるこいつは、確実にそいつらと同じ分類をされるべき生き物だ。
『一切如來攝受、臨命終時得見如來。この死は貴公への慈悲である』
ほら見ろ、何を言ってるのかさっぱり分からねえだろ。化物どもの共通項だ、どいつもこいつも話がまるで通じねえ。何やら訳の分からん理屈を独りよがりに語っては陶酔してるジャンキーに関わると碌な事がない、凍った地球を生きる上で必須の“マニュアル”だ。
全球凍結前なら見ちゃいけませんの一言で片付けられた狂人共が、今じゃ実際に百軍を蹴散らせる力を持ってるというのだから全く笑えない。
俺の神禍は、ボスが言う所の“神禍殺し”だ。厳密には違うそうだが、強力な異能を持った相手に対するジョーカーとして出られるという点じゃそう間違ってもいないだろう。
言うなれば相手の神禍を相殺出来る力で、実際条件さえ満たせればとても便利だ。何度となくこの力で命を拾ったし、信頼を勝ち取ってもきた。
けれどどんな力にも必ず弱点はある。ハード・ボイルダーの隠し札、神禍相殺の用心棒……そんな俺の力だって決して万能じゃない。寧ろ人一倍取り回しが悪いから、機能しない時は本当に全く機能しない。
今がその最たる例だ。20秒の視認を条件にする以上、当然だが相手が大人しく見られてくれる状況を整えられなければ俺は無能力者も同然なのだ。
俺だって自殺志願者じゃない。雑魚なりに抵抗は試みたし、何とか模倣するチャンスがないかと頑張ってはみたが無駄だった。
まず基本性能が違いすぎる。俺に支給された銃は一発たりとも奴の鎧を抜けず、そもそも二発目を放つ前にぶった切られてゴミになった。
普段は俺が落ち着いて相手を見れるように前線で戦う役の禍者が付いてくれてるのが殆どなのだが、勿論この状況でそんな援護など望めるべくもない。
よって当然の結果として、俺は詰んだ。謙遜でも何でもなく、本当に何も出来なかった。
多分俺はこれから死ぬんだろう。神禍がまともに活かせない上、頼みの綱だった支給武器もあっさりぶっ壊されてしまったのだから、本当に打つ手は一つたりとも残っちゃいない。
『もはや常世に慈悲は非ず。苦界の出口をいざ与えん。首を出せ、小僧』
大体何だよこいつ。なんでこんな武士みたいな口調でロボなんだよおかしいだろう、鏡見た事ねえのかお前。
世界がこの状況じゃなかったらお前なんて只のイロモノ芸人以外の何物でもねえよ馬鹿。
などと毒づいてみても何も状況は変わらないし、そもそも口に出す勇気さえ俺にはなかった。
結局これが、俺の限界という事なんだろう。どんなに大仰な後ろ盾があっても、そこを削がれたら何も出来ない。
意地もない、根性もない。御大層なサーガの傍らで処理される轍の一個、過ぎた後で漸く振り返って貰えるかどうかの村人A。
死ぬのは怖くない。そんな風に思える時点で俺に言わせれば強者だ。だって世界がこの有様なのに、今まで一度だってそんな事は思えなかったから。
死ぬのは怖い。泥を噛んででも生き延びたい。死が間近に迫った今でもそう思えるしそう思う、俺には笑って死ぬなんて事ぁ出来やしない。
大切な何かを守る力もない癖に、自分が死にかけたら心からそんな祈りを捧げられてしまう俺の浅ましさが際立って思えた。
刀が振り上げられる。これが俺の首を落として、それで終わりだ。そしたら俺を殺したこいつは、もう保谷州都という人間がいた事を振り返りもしないだろう。
後悔は死ぬ程ある。今からジタバタ足掻いてどうにかなるなら何だってする。
でも、いいやだからこそ、終わりは文字通り死ぬ程静かに訪れて。救いを謳う破綻者の刃が、ギロチンの如くに俺へ落ちてくるその瞬間に――
「やれやれ。こちとらもう隠居した身なんだがね」
その終焉を食い止める、眩い陽光のような刃が、俺と死神の間に立ちはだかっていた。
◇ ◇ ◇
『――何者だ』
声が響く。旧時代のテレビ番組で用いられた加工音声のような、酷く低く響く声音だ。
鎧武者の名は霖雨。心痛を抱えながら、感情を麻痺させつつ、崩壊した世界を生きてきた青年の元にやってきた鋼の死神。
彼か彼女かも定かでない皆殺観音の剣技はすでに“技”を越えて“業”の域にある。よって保谷州都では0.1%の勝算も見込めはしなかったのだが、そんな剣鬼の一刀を、正面から剣一本で凌いでみせる男の姿があった。
「面倒に巻き込むのは止めてくれよ、ミスター。男のロマンは解る質だが、この状況じゃ唆るものも唆らないんでね」
雪煙と火花が散る中、そこに立っていたのは、まるで場違いな男だった。
無精髭を伸ばした、全体的に無造作な顔立ち。黒髪は寝癖のように跳ね、まるで鏡を見ずに適当に切られたかのようだ。何もかもを見限った人間だけが纏える奇妙な静けさが、全身から染み出ていた。
着ているのは赤い着物。ところどころに金と白の意匠が浮かんでいるが、それすらも着古されて皺が刻まれている。戦場に似つかわしくないその衣の下で、彼は右腕を懐に入れたまま動かさない。
いや、洞察力があれば動かせないのだとすぐに気づくだろう。実際、男のそれには肘から先が存在しなかった。着流しの袖が空虚に揺れ、風に煽られるたびに、その欠落が否応なく際立つ。
それでも彼は、そんな所在のない雰囲気のままに悠然としていた。凶機を前にしても眉一つ動かさず、己の左手だけで目の前の青年へ迫った死を受け止めている。
「あんたは……」
「通りすがりの風来坊さ。取り敢えず今はこれで勘弁してくんな、ブランクのある体じゃ存外に骨の折れそうな相手なんでね」
男が州都の声にへらりと笑ってそう答えた瞬間、皆殺観音の躯体が跳ねた。
『さぞ名のある剣士と見受ける。手合わせ願おう』
瞬間繰り出されたのは、極限の研鑽に裏打ちされた斬撃の霖雨であった。
重力を無視した超速度の初動、質量と鍛錬を極め慣性を打開する一点突破。
観る者の視神経が追いつく前に、長剣《安居兼光》は巨体を裂く閃光となって空を裂き、寸分の狂いもなくミヤビの眉間へ収束していった。
「やれやれ、血の気の多い御仁だ。こちとら隠居人なんでね、それなりに手加減はしてくれると嬉しいんだが」
対して男は、構えてすらいなかった。
左手ひとつ、遊びのように空を撫でた軌跡から、炎が立った。瞬間、空気が音を立てずに震え、赤金の輝きが形を成す。
それは“炎の剣”だった。凍てつく大地、人を温める事すら忘れたこの星において、彼が生み出す火は唯一愛する人を焼かず、優しさの熱だけを帯びて煌めく。
しかしその火は、敵に対しては天地を焦がす殺戮の英雄剣へと変貌する。技術の粋で造られた鋼より硬く、意志によって振るわれた刃よりも速く。金色の光が、黒鉄の刃と正面から衝突した。
雪面が爆ぜた。衝撃波に土と氷が巻き上がり、押し返された空気の濁流が後方の森までも薙ぎ倒す。
火花ではない、熱そのものが散っていく。
それでも霖雨の剣は止まらなかった。観音機体と完全に同化した脳から、刃を割られぬようわずか数ミリの間隔で軌道を切り替える指令が瞬時に伝達される。
斬撃が雷撃へ、そして旋回へ。刹那に数十の変化を見せながら、霖雨の剣は最短での死へと道筋を立て、刻み、突き刺す。
『笑止。武人が互いに生死を賭して相見え、何故加減の生ずる余地があろうか』
「言うと思ったよ。本当迷惑なんだよな、おたくみたいなバトルジャンキーってさぁ……!」
男は退かなかった。右腕のないその身体で、彼は只歩を進める。
隻腕ゆえ、常人のそれとは異なる足運び、間合いの崩し。呼吸すら計算に含めた柔の所作――。
左の踵を起点に旋回。炎が蛇のようにしなり、宙を這い、霖雨の左腕をかすめた。
通常兵器では一切通らぬ黒鋼が、一瞬だけ軋む。硬度ではない。内部構造を踏まえた温度圧力制御による超臨界操作の賜物だ。
男の火は焼くのではなく通すのだ。熱伝達の極み、如何に扱えば守るべき者を守りつつ敵だけを滅ぼせるのか、という領域に到達している。
さらに間を置かず、火が弾ける。足元に奔ったのは、噴射の流れを逆手に取った推進だ。
男の身体が瞬間、空へと浮く。魔剣の補足範囲外、死角の上方へと。
霖雨が視線を追うより早く、紅の軌跡が背後に回り込んだ。
風を断つ音。斬撃ではない、触れるだけの手刀である。
けれどそれは、機体表面温度を瞬時に危険域まで上昇させる爆熱の“打撃”だった。
『――ッ』
霖雨が体勢を崩す。僅か数センチの誤差、しかしそれが不覚の産物である事は自明。
その証拠に次の瞬間、男の握る炎剣が全長数メートルもの大剣と化して皆殺観音の躯体を痛打した。
熱に焼き焦がされる程やわな作りはしていないが、それでも蹈鞴を踏んでの後退は避けられない。
微かに白煙を上げながら、地面に無様な跡を残して下がった霖雨のメインカメラが、静かに眼前の敵手を睥睨する。
その視線に対し、炎の男は言った。彼は精々中年程度の年嵩に見えたが、しかし老人のそれを思わすような、重たく緩慢な声色。
「どうだい、僕もなかなかの物だろ。これに免じて退いてくれちゃしないかい」
放たれた言葉に、霖雨はわずかに沈黙する。
分析と思案の時間。だがこの鎧武者が皆殺しを教義とする弑天の観音菩薩である以上、それに対する答えは決まっていた。
『……聞いた事がある。この滅びたる常世にありて、滅亡の元凶を討たんと立ち上がった益荒男が居ると。誰もが悲嘆に染まり、明日の食い扶持にすら困窮する中で、天を伐とうと最初に唱えたのは――太陽の化身が如く、炎を相棒に立つ剣士であったと』
刀剣を構え直しながら、霖雨は隻腕の男を見据えて言った。すでに保谷州都の存在など、これは眼中に置いていなかった。
無力な者と侮蔑しているのではなく、単にその余裕がないからだ。自分の前に立ち塞がったこの剣士は、他の事に意識を割きながら相対するには余る相手だとそう踏んだ。
『非礼を詫びよう、『晴』の勇者。此処からは我も本気で之かせて貰う』
自身の正体を看破された隻腕……ミヤビ・センドウという男は一瞬苦笑し、しかし次の瞬間には眼光を鋭く尖らせた。
自嘲に浸っている暇はない。それだけの事態が、目の前の鎧武者を起点として彼を襲ったからだ。
『対人引力発生装置起動――オン・マカ・キャロニキャ・ソワカ』
「へえ、こりゃあ……!」
まず地鳴りにも似た重い脈動が、鎧武者の躯体の底から湧き上がった。機体胸部に埋め込まれた機構基盤を震わせながら、静かに詠ずる皆殺観音。
呪が発されるや、周囲の空気が逆巻く。見えざる磁力線が編まれ、空間の秩序がねじ曲がった。ミヤビ・センドウの身体に、重力とは異なる吸引の力が働く。まるで己が骨芯に巨大な鉤が掛けられたかのような感覚だ。
抗う間もなく、彼の体は前へ、霖雨の方へと凄まじい勢いで引き寄せられていく。逃れる手段はない。四肢の関節が引き裂かれそうな凄絶な重圧に軋みながら、ミヤビは苦々しく息を吐いた。
「僕も思い出したよ。君、あれか。“黒い観音”か」
だが彼は、只では引き寄せられない。
烈火。瞬時に生み出された火輪が、彼の周囲にいくつもの円環を成す。風を切り、熱を纏って彼を取り巻くそれらは、無数の盾となって迫る斬撃をいなす為の布陣だった。
次の刹那、霖雨の巨剣が閃く。人間が振るうには過剰なまでの質量を有する魔剣が、空気を圧して殺到する。
その剣雨はまず、真正面から始まった。
左、右、下段、上段、斜め、半円、反転、跳躍。ミヤビが布いたあらゆる火の仕掛けを、霖雨は一切の詭計と見なす事なく、圧倒的な斬術で屠っていく。
これが業の剣。死により覚醒(めざ)め、死を愛するに到った求道者の到達した、機械武術の極致。業とは積まれた行いそのもの。霖雨の剣技は、もはや人智の技術ではなく――遍く生命に向けられた絶死の狩獄であった。
火の奔流が、踏みつけられる。炎の壁が、易々と断ち割られる。舞う火蓮華が、只の火花に帰される。
ミヤビの眼に、僅かな焦燥が浮かぶ。
長らく戦場から離れていた身だ。自分でも言ったようにブランクがあるのは承知の上だったが、此処まで衰えているとは思わなかった。両腕を揃えたかつての自分であれば、更に多重の火術を複雑怪奇に展開できたろうに。
「つくづく、あんな所でくれてやるんじゃなかったな」
歯牙を食いしばる。神禍の火が尾を引き、巨大な斬撃の軌跡を寸前で逸らせつつ、両足に火力を集中させる事で足元の氷雪を焼き溶かして、引力に抗う為の杭にする。
老獪さすら感じさせる的確な対応だったが、それでも防戦一方なのは変わらない。
守りに徹さねばならないという時点で、皆殺観音の殺陣と向き合うには役者が足らないと言わざるを得なかった。他の誰よりも、空の勇者の発起人として第一線で戦ってきたミヤビ自身がそう自覚している。
辺りの雪が過熱した空気の奔流に融解し、気化し、咽ぶほどの湿熱として立ちのぼった。
その中心にあるのは、紅蓮の奔流を纏った隻腕の剣士。太陽の化身のように輝きながら、在りし日のように剣を握って立つかつての“勇者”がそこにいる。
彼の周囲に展開された五輪の火輪の主用途は確かに守りの結界だったが、同時にこれは外からの侵入を防ぐのではなく、内からの爆発を制御するための枷の役目も秘めていた。
『ほう』
生み出した熱を漏らす事なく結界の内側で循環させ、洗練させて研ぎ澄ます。あらゆる方向への広がりを拒絶され、質量としての輝きを持ち始めたそれは、もはや火というよりも爆発そのものに近かった。
自然界にあってはならぬ均衡を持ち、爆ぜれば遍く闇を照らし奉るだろう臨界の閾。
崩れかけた足並みを刹那で立て直し、膝を曲げ、旋回しながら全身を傾けて、遂にミヤビ・センドウは守る事をやめる。
『この間合いでさえ、我が装甲の内に届く熱を用立てるか。晴の勇者、ミヤビ・センドウ』
「十二崩壊でもない野良の殺人鬼に舐められてたら、流石に勇者の面目立たんでしょうよ」
ミヤビが最後に前線に立ったのはもう一年以上も前の事だ。
ブランクは彼の腕を鈍らせていたが、それでも培ってきた経験は裏切らない。
「売ったのは君だ。せめてウォームアップに付き合って貰うよ、機械人形君」
よってこの瞬間、戦況は煌めく炎に彩られながら変転した。太陽の紅蓮が氷原を引き裂きながら、悪なる暗黒を切り払わんと流動する。
霖雨が自分で言った通り、ミヤビの炎は武者の装甲をさえ越えて届く熱を宿している。黒観音の神禍は『即死即空皆殺観音(ヴァルシャイシューヴァラ)』。生体組織とその五感と同化して成り立つ鎧は言うまでもなく非常に堅牢であり、現に霖雨は世を覆う寒気の波にも何ら影響を受けていない。
そんな剣機にさえ熱さを教える、天照の輝き。直撃すれば如何にこの死神でも只では済まないと揺蕩う熱気が告げていた。
『貴公らの逸話は聞き及んでいる。敬意を評して、その生き様に慈悲を与えよう』
対する皆殺観音・霖雨は、不退転の字を体現するように進撃する。
そこに戦略も策謀もない。雪と炎を踏みしめ、装甲越しに危険信号(アラート)をかき鳴らす熱にも一切臆する事がない。
古今あらゆる戦場において、言葉とは交渉であり、時として威圧の手段である。だが霖雨の放つそれには、そのどれもが存在しない。只一つ、殺意の宣言としてのみ使われる。語彙も文法も彼にとっては単なる死の御告げに過ぎず、その内に込められる意味は只“殺す”の一点に集約される。
『秋津弑天流――火不能燒』
刃が閃く。焼死を免れるという功徳を殺人剣に変換した弑天の奥義が、炎の幕を縫って疾走する。
文字通り、炎をすら斬る技だ。ミヤビが展開しては放つ火炎の波を、信じ難い事に霖雨は薄膜のように引き裂いていた。
踏み込む事すら困難な火災の渦中に、無骨な機械音を奏でながら割り込んでいく皆殺観音。
瞠目して然るべき光景だったが、晴の勇者はすでに十二崩壊を知っている。永久の凍結を展開する魔王や、腕の一振りで百の兵を粉々に粉砕する金獅子、生物としての常識が一切通用しない我儘姫。そうした鬼神達と身を挺して鎬を削ってきたミヤビが、今更これしきの不条理を前に怯む道理はなかった。
左足を軸に翻り、右足の踵を削るように踏み込む。隻腕の身体が流れるように軸をずらし、炎の軌道を転回させる。
赤金の剣閃が、迫る黒金と対になるように軌道を描く。軌跡の先で螺旋が形成され、生まれた炎が重力を帯び、螺旋状に敵を締め付ける束縛と化す。
『ぬ……』
霖雨が一瞬、動きを止める。これを好機と見、ミヤビは剣を水平に突き出した。これを受けて皆殺観音は初めて、その無機質な機体から驚愕らしいものを覗かせる。
恐ろしいまでの速度で放たれた剣は、これもまた、無策に受ければ『即死即空皆殺観音』の外装すら砕かれる次元の攻撃だ。
空の勇者が十二崩壊に敗走してから数年。それだけの時間と、隻腕というハンデが横たわっている筈なのにも関わらず、ミヤビ・センドウという男の力量はそれでも隔絶した域にあった。
「もう一度提案なんだが、この辺にしとかないかい」
『異な事を言う。我はその思想を解せないが、勇者というからには世界を救える手立てとやらに喜んで飛びつくべきではないのか? 貴公程の腕があれば、我など決して敵わぬ相手ではなかろうに』
「それはそうなんだがね。僕はもう勇者を辞めた身だ。救済がどうとか、そういう話にはもうそれほど興味がないんだよ。かと言って目の前で殺されかけてる若者を見過ごすほど腐りも出来ないもんだから、適当なトコで手打ちにしようって話さ」
片腕で放たれるとは思えない威力に舌を巻きながら、それをおくびにも出さず霖雨は剣を振るい、火花を散らす。
その光景を蚊帳の外で見つめるしかない保谷州都は、只固まっていた。
なんだこれは。これが本当に、人間同士の殺し合いなのか?
州都はラスベガスの王、ハード・ボイルダーに仕える用心棒だ。荒事など数え切れない程経験させられたし、どちらかが死ななければ収まらない戦いというのもそれなりに覚えがある。
しかしそんな経験など、この島では何の役にも立たないだろう。ボスのように戦闘向けの神禍を持っていて、何事にも恐れを抱かない強い心があって初めて土俵に上がれる。少なくとも自分のような凡人は、此処では只死を待つ弱者以外の何物でもないのだと理解した。
彼に出来たのは腰の抜けた格好のまま、押し寄せる暴風にも負けず二人の戦いを見つめ続ける事だけ。
「悪い話じゃないだろう? 正直、今更命を懸けた戦いなんてしたくないんだ。だから君が物分かりよく矛を収めてくれるなら、それが一番助かるんだが……」
『断る』
へらりと笑って言うミヤビに返されたのは、重々しい拒絶と、此処に来てまた一段と加速した巨剣の閃きだった。
『貴公の信念の在処がどうあれ、我のすべき事は一つ。神も仏も見棄てた星に残された唯一の菩薩として、まだ永らえている命の全てを鏖殺す。
貴公のとは異なる動機だが、我もまた救世主の降臨を必要としていない。死とは尊い結末(おわり)であり、抗おうという発想自体がずれている』
全く狂っているとしか言い様のない理屈だったが、それこそが皆殺観音の掲げる救済論だ。
先細り、未来のない星において、死とは唯一まだ万人に許されている救いの形である。
『よって我は貴公も、そこの青年も此処で葬ろう。こうしている今も誰かが苦界の中で喘ぎ続けているのだから、そう時間をかけてはいられない。この島で呼吸を続けている全員を救った後にでもゆっくりと、星の行く末に思いを馳せる事とする』
「そうかい。そいつは残念だ」
州都は、心臓が跳ねる感覚を覚えた。自分の非力を改めて嫌という程思い知らされている形だが、ウジウジやっている暇はない。
自分に背を向けて立つ隻腕の剣士が、炎を操作して送ってきたサイン――決行の合図を認めるなり、彼は皆殺観音を写す鏡になった。
「なら望み通り、君は此処で僕達が討とう」
『……ッ、これは……』
再びの驚きに、霖雨の声が乱れる。両足が勝手に動く、機体そのものがミヤビの方へと、正確には彼が守っている青年の方へ引き寄せられていく。
驚くのも当然だった。霖雨はこの現象の正体を知っている。これは引力、それも特定の標的だけを狙って引き寄せる対人用の現象だ。
皆殺観音の特権である筈の引力操作の神禍が、まるで鏡に写したように、他でもない自分自身を襲っている。
「それと。言い忘れてたんだが、僕は勝てるならやり方には固執しないタイプでね。特に、人に頼って勝つ事には全く躊躇がないんだよ」
保谷州都の神禍『模倣(ミラーコード)』。20秒目を合わせる事を条件に、睨んだ相手の力を模倣する。
霖雨は機械だ。眼球などという部位はすでにメインカメラに置き換えられているから、州都は例外的に“目を合わせる”という条件を無視する事が出来た。それでもこの黒武者相手に20秒も視認を続けるなど生半可な難易度ではないが、そこを助けたのがミヤビ・センドウ。
彼は戦いが始まるなりすぐに、敵に気取られないようにして州都へサインを送っていたのだ。
どうやって州都の神禍を把握したのかは謎だったが、彼の正体があの『空の勇者』の一員だと知って納得がいった。
州都は今日まで彼らと会う事も、彼らが戦っていた十二崩壊の生き残りと出会う事もなく生きて来られたが、それでもその奮戦については聞き及んでいる。希望のない世界で、勇者達の物語は人々にとっての数少ない娯楽だった。
空の勇者。禍者の最上位といっていい崩壊達と最前線で戦い続けてきた戦士達。
積んだ経験も持っているノウハウも、州都のような少し戦いを知っているだけの禍者とは段違い。
仕草や様子など、彼らだけが持つ幾つもの判断基準があるのだろう。だからミヤビは州都が“一対一の戦闘では事実上発動出来ない”神禍を持っていると見抜き、同意を得る事もなく勝手に作戦の一つに組み込んでしまえたに違いない。
「手を払ったのは君だ。悪いが、このまま勝たせて貰うよ」
州都が模倣した引力で歩法を崩された霖雨の動きは、目に見えて歪んでいた。数多くの戦闘経験を持つ皆殺観音も、流石に自分の神禍に苦しめられるのは初めての事だったのだろう。
その好機へ、ミヤビは炎を纏いながら踏み込んでいく。
「天照――」
腕の数は減ったが、それでも『晴』の勇者は強い。これまで彼がその活躍で示してきた事実の総決算として、握った炎(つるぎ)が巨大に膨張し、雪夜の暗黒をも吹き飛ばす光の一刀と化す。
晴の勇者が持つ最大の炎。誰も倒せないと思われた十二崩壊の魔徒を、この世で最初に消し飛ばした東照大権現だ。
苦し紛れのように霖雨が飛ばしてくる斬撃を火輪による防御でいなしながら、かつての勇者は死を夷す一刀を放たんとした。
『重ね重ね、貴公にはとんだ非礼を働いてしまったらしい』
だが――
『我が身で味わい初めて解った。侮られるというのはこうも不快な物か』
重低音の声が響いた途端に、決まりかけていた趨勢が再び逆転する。
「っ……!」
州都が模倣し、放っていた対人引力のお陰で崩れていた霖雨の剣陣が、夢から醒めたように本来の冴えを取り戻した。
引力の鎖から解き放たれた皆殺観音の魔剣が閃き、走るミヤビの左足を膝の部分で切断する。歩みを止められ、凋む炎。
ミヤビは瞬時に何が起こったのかを理解したが、州都がそれを理解するのは彼に一瞬遅れての事だった。
だがその分、彼を襲った失意は大きい。
「……くそ! なんで、こんなに、俺は……!」
保谷州都の神禍は、決して強力なものではない。ハード・ボイルダーが頼りにするのも肯ける稀少な力ではあるものの、カラクリ自体はとてもじゃないが、ワイルドカードと呼ぶには能わない程度の代物だ。
厳しい発動条件も然る事ながら、真に拙いのは、仮に模倣を成功したとしてもオリジナルには決して及べない事だ。
言うなれば劣化コピー。コピーした神禍はあくまで借り物であり、その精度も出力も、決して本人が扱うそれには届かない。
それでも、今まではこれが原因でしくじる状況に遭遇する事はなかった。
神禍とは禍者にとって、自分の思想や人生を反映した存在証明だ。決して侵されない筈の唯一無二を素知らぬ顔で真似されて、動揺もなく打ち破りにかかれる人間はそうそういない。
つまるところ州都は、知らなかったのだ。異能を持っただけに留まらず、心まで人間の範疇の外へ踏み出した化物と遭遇した経験がなかった。王に阿り手に入れた仮初の平穏が、因果へ対する応報のように彼の首を絞める。
霖雨がやったのはそう特別な事ではなかった。只単に神禍の出力を全開まで引き上げ、州都が自分に放ってくる引力を無力化しただけだ。
如何に州都のが劣化コピーといえども、真正面から打ち破るのは決して容易ではないのだが、そこは皆殺観音が強かったという結論になる。
弱さを嘆く州都には目もくれず、黒い鎧武者の巨躯は重さをまるで感じさせない速度で奔り、魔剣の刀身を振り抜いた。隻腕の上に隻足にされたミヤビに、態勢を立て直す余暇などあろう筈もない。よって無情に、勝負の結果は顕れる。
◇ ◇ ◇
晴の勇者が、一つだけになった膝を突いていた。
口元は笑みを浮かべていたが、空元気である事は明白だ。彼の胸に刻まれた一筋の刀傷と、そこから止めどなく溢れ出す血糊がその事を証明している。
「……悪いね、格好悪い所見せちまったな」
州都はその言葉に対し、何も言えない。言える筈がない。この状況を招いたのが自分の非力である事は、彼が一番解っているから。
「気に病む事はないよ、これは僕のミスだ。やっぱり前線を離れてると勘も鈍るね」
「……ッ!」
空の勇者――それは人類の希望。彼らが敗れた話は知っていたが、その噂が耳に入るまでの間、どこかで勇者達が世界を救ってくれる可能性を夢に見ていた事は否定しようもない。
保谷州都はそんな淡い希望に思いを馳せる、脆弱な民衆の一人だった。だからこそ、自分の視界で膝を突くミヤビの姿を直視出来ない。
自分の体たらくのせいで片足を失い。切り刻まれ、素人目にも致命と分かる出血を垂れ流しているその姿を素知らぬ顔で受け流せるほど、州都は異常な神経の持ち主ではなかった。
「時間稼ぎは請け負うから、出来るだけ遠くまで逃げなさい。流石に此処から先は、君を守りながら戦えるステージじゃなさそうだ」
「……けど、あんたは」
「いいよいいよ、どうせ死にながら生きてるようなもんだったからな。夢を壊すようで申し訳ないけど、空の勇者(ぼくら)はもうとっくに終わってるんだ。見ての通り僕はもう、あの頃みたいには戦えない。体も心も折れちまったんだよ。たとえ今こうならなくても、遅かれ早かれ無様に死んでただろうさ」
事の当人にそう言われてしまえば、州都としてもこれ以上何も言えなくなってしまう。
この状況を招いたのは間違いなく自分の弱さが原因であり、それさえなければかつて希望と密かに仰いだ男が死に体に陥る事はなかった。
なのにミヤビは州都を責めるでも、恨み言を言うでもなく、さっぱりとした様子で、引き続き彼と霖雨を隔てる防衛線として仕事し続けていた。
「只、逃げる前に少し聞いてくれ。この島には、雨の勇者――ルーシー・グラディウスという女がいる。ちょうど君くらいの年の若いコだ」
その名前は、勿論州都も知っている。空の勇者の生き残りは、今やミヤビと彼女だけ。勇者パーティーの中では最年少ながら、発起人であるミヤビに何ら劣らない武功を重ねた若き英雄。
「もし君があのいかがわしい修道女の言う事に従いたくないと思ってるなら、彼女を頼るといい。未熟なところこそあるが、僕なんかよりよっぽど信頼できる『勇者』だ。きっと力になってくれるだろう」
『雨』について語る『晴』の声色には、彼自身把握しているのかいないのか、感傷とも郷愁ともつかないものが乗っていた。
それもその筈。『雲』も『雷』も死に絶えた今、残っているのは彼ら二人だけだ。
娘のように可愛がっていた少女が、人類の勝利の光景を見る事もなく失意に沈む。そういう結末しか用意してやれなかった事実に、ミヤビ・センドウが何を思っているかは彼以外知る由もないものの、少なくとも無感情でない事は州都に彼女の名を語る声へ宿る色が物語っている。
「そして伝言を一つ。背負わせてしまってすまないと、余裕があったら伝えておくれ」
腐っても勇者は勇者。膝から先を失った左足を宙に遊ばせながら、ミヤビ・センドウは立ち上がる。
片腕がなく、片足もないその姿は全盛期を知る者なら嗤ってしまう程に不格好。なのに寧ろ、足を失う前の先程以上に冴え渡って見えるのは何故だろう。これまで心の深淵に沈んでいたかの日の闘志が、煮え立つ炎と共に浮き上がってきていた。
獣は手負いが最も恐ろしいとはよく言ったもの。それが獣でなく、意思をもって立ち上がったかつての勇者ならば脅威度は無論比にならない。
「――行きなさい」
そう言われた瞬間、州都は弾かれたように走り出していた。ひぃ、はぁ、と情けない息遣いを漏らしながら遠ざかっていく気配を背に、ミヤビは小さく息を漏らす。
「ありがとよ。意外と義理堅いんだね、まさか待ってくれるとは」
『詭道は好まぬ。それに、そんな目で見据えられては逃げる鼠を追う気など失せるというものだ』
「はは、買いかぶり過ぎさ。……もしそう見えるんだったら、やっぱり僕はとんだ馬鹿野郎だよ。火が点くのが遅すぎる」
ミヤビの言動は軽々しいものだったが、霖雨は彼に対する警戒をより一層深めねばならなかった。
強くはあってもどこか覇気に欠けた、言うなれば老人のように萎びた闘志しか放っていなかった晴の勇者の眼球に、今は立ち塞ぐ者を皆食い殺さんとする獅子の威圧が宿っている。いや、戻ってきているというべきか。
片足まで失って立つ姿は出来損ないの案山子を彷彿とさせる惨めなものであるというのに、その欠けた佇まいが最も恐ろしく見えるのは何の冗談だろう。
「じゃあ……やろうか」
日輪の刀身が高熱で形を失い、刃の代わりに柄から伸びるのは巨大な炎の竜だった。
州都を巻き込む可能性に配慮する必要がなくなった以上、ミヤビ・センドウはその神禍を全霊で扱う事が出来る。
ミヤビの熱により、彼らが戦っている周囲一帯は氷河期だなどとは信じられない程の有様に変わっていた。雪も氷も溶け切って、水分さえ蒸発して残らないから、辺りに広がるのは只の荒野だ。
空の勇者が壊滅して数年。もう二度と見られる事もないと思われた、晴の勇者の全力がこれから炸裂する。
これでも全盛期には遠く及ばない程度の熱量というから恐ろしかったが、皆殺観音は恐れという感情を知らない。
『之くぞ、晴の勇者。我が剣の真髄、確と味わって眠るがいい』
「勝った気になるのはまだ早いよ、若いの。あの四人の中じゃ僕が一番強かったんだぞ」
構えられる晴の剣。それを迎え撃つのは、救いと称して死を振り撒く黒鉄の剣。
『オン・マカ・キャロニキャ・ソワカ――』
「日の出の刻だ。来たれ大神――」
引力がミヤビの体を最高出力で引き寄せる。抗おうとすれば全身の骨が砕け散る程の威力だったが、今更見苦しく藻掻いてやるつもりはなかった。寧ろ相手の方から招き入れてくれるのだから好都合だとばかりに、勇者は熱を高め上げながら疾走する。
対して霖雨は、静謐のままに構えを取っていた。秋津の剣は天をも弑する殺人剣。時代の流れと共に本来の意味は失われ、今ではその名が残るのみだが、死に通じ悟りを開いた求道者は自然の流れとしてその真骨を解している。
日輪の竜が焼き尽くすか、観音の剣が切り伏せるか――決着は一瞬の内に訪れる。
『――秋津弑天流・不生於惡趣』
「――天照・大日光貴ッ!」
水蒸気爆発すら引き起こしながら二人の禍者は激突し、世界は光と衝撃に包まれた。
◇ ◇ ◇
『……恐ろしい男だ。生涯一の難敵だった』
切り伏せた男の躯を見つめ、皆殺観音はノイズのかかった声で評した。
倒れているのはミヤビ・センドウ。あれ程の激突であったというのに死体は綺麗な物だったが、それでもその胴に刻まれた傷は、彼の体にもはや命が宿っていない事を示すには十分過ぎる。
勝ったのは霖雨。晴の勇者は皆殺観音の凶刃に倒れ、此処に一つの伝説が沈んだ。
『惜しい物だ。貴公にもしも二本の腕があったなら、結末は違ったろうに』
だが勝者である霖雨の躯体にも、戦いの壮絶さを物語る破壊が刻まれている。
機体の右半分が消し飛び、残った箇所も装甲が所々融解し、内部の配線や基盤が露出している状態だ。『即死即空皆殺観音』に自己修復の機能が内蔵されていなかったなら、ミヤビはこの殺人者を見事討ち取れていた事になる。
全ては巡り合わせ。ミヤビが隻腕でなかったなら、もっと早くあの頃の志を取り戻せていたなら、きっと結果は違った筈。
或いはそれは、彼ら勇者の冒険がすでに終わっている事の証明なのかもしれなかった。十二崩壊を倒しきれず、世界も救えなかった敗残者達に、もはや天は微笑まないのか。
『今追えばまだ間に合うだろうが……危険が勝つか』
それでも、ミヤビ・センドウは保谷州都の事だけは守り通した。霖雨は生きているがこの通り健在とは言い難く、機体の修復が完了するまでにはまだ多少の時間がかかる。
よって皆殺観音は、州都に追い付けない。ミヤビが剣を握った理由が彼を生かす為だったとすれば、命こそ失えど、晴の勇者は最後に懐かしい勝利の味を覚えながら逝けたのだろう。
空の勇者を組織し、誰も果たせなかった人の手による十二崩壊打倒を成し遂げた稀代の英雄――『晴』の勇者、ミヤビ・センドウ此処に死す。残る勇者はあと一人。人類の希望はもう彼女だけと嘆くべきか、それとも。
【C-2・平原/1日目・深夜】
【霖雨】
[状態]:機体半壊(修復中)
[装備]:『安居兼光』
[道具]:
[思考・行動]
基本:皆殺し
1:機体を修復し、殺戮を再開する。
[備考]
◇ ◇ ◇
――第十二崩壊。それが司った滅亡の形は、『終末』だった。『姫』とは違い、恐怖で人を破滅へ走らせる最終番号(ラストナンバー)。
人間離れした敵ならゴロゴロいたが、奴は真の意味で人間じゃなかった。第十二崩壊はゴグだったのだ。牛の頭を持つカソック姿の怪人に意思らしいものはなく、今となってもあれにどんなバックボーンがあったのかはまるで解らない。
更に言うなら神禍もそうだった。一応の推測は立てて臨んでいたものの、全員どこか釈然としない物を感じながら戦っていたように思う。
『第十二崩壊に囁かれた者は必ず発狂する』。誰も彼もが強固な終末思想に取り憑かれ、自他問わずあらゆる命を奪おうとし始める。そんな有様なのに何を言われたのかは口が裂けても言おうとしないし、実際どんな尋問も全く意味をなさなかったらしい。
いわば他者を発狂させる何事かを理性なく囁いて回る、悪魔のような存在だ。神禍は精神汚染だと推測されたのも仕方のない話だった。
実際あの牛頭が暴れていた地域は酷いもので、終末論と集団自殺のメッカと化していた。こうなるともうどっちが悪なのか分かったもんじゃない。自分達を死に至らしめようとする第十二崩壊を守るために民が僕らに向けて武装蜂起し、正気のフリをして寝首をかこうとしてくる地獄絵図だ。僕は右腕を失くす程度で済んだが、『雲』は勇者として致命的な“守るべき者達への不信感”を植え付けられた。
誰もが、崩壊の予兆を感じ取っていた。それでも第十二崩壊との決戦を引き伸ばすわけにはいかなかった。
今でも後悔してるし、夢にも見るよ。要するに僕らに足りなかったものは、少数の犠牲を許容する利口さだったのだろう。
まず、『雲』が発狂した。守るべき民に殺意を向けられる状況に心をすり減らしていたあいつは、第十二崩壊から何かを聞かされたらしい。
制止も聞かず、血涙を流して絶叫しながら突貫したパーティーいちの知恵者は、次の瞬間には肉片同然に引き裂かれていた。『雷』に続いて二度目になる、しかし一度目とは比にならない程あっさりと訪れた離別を嘆く暇もなく、今度は『雨』に矛先が向いた。
鼓膜を潰せと、僕は叫んでいた。『雨』は即断してくれたし、そのおかげで最悪の事態だけは免れたが、戦闘の最中に自ら聴覚を手放した代償は大きく、彼女もやがて魔獣の猛攻の前に沈んだ。
そうなれば後は単純で、全身を血まみれにしてか細く呼吸する『雨』にとどめを刺そうとする第十二崩壊と僕の一騎打ちになった。
幸い、『雨』と二人で与えたダメージはちゃんと蓄積していた。そうでなかったなら隻腕の僕では、相討ち覚悟で挑んだとてあの戦いに勝利する事は出来なかっただろう。
重傷を負いながらも最大火力の太陽剣を叩き込み、牛頭の心臓を貫いた。確実に殺った手応えがあったし、そうでなかったら僕はこの場にいない。仲間の犠牲と多くの痛みを背負いながら、辛くも終末の崩壊を討ち果たした――裏を返せば、油断していた。
『 ■■■■■■■■ 』
心臓を貫かれながら、牛頭のゴグが囁いた。僕は、それを聞いてしまった。『雨』に耳を潰させておいてよかったと、撹拌される自我と去来する絶望の中でそう思った。
『雲』のように発狂せず済んだ理由は解らないが、死に行く第十二崩壊が最後に遺した悪意だったのかもしれない。もしかすると逆に、あれなりに何かを思っての事だったのかもしれないが、今となっちゃ知るすべもない。
負った手傷の出血で意識を失い、目が覚めた時には全てが終わっていた。空の勇者も、人類の未来も、僕の心も。
僕は膝を折った。今まで何があろうと見失う事のなかった戦う意思というものが、情けない程ぽっきりと折れてしまっていた。
『雨』は何度も理由を問い質してきたし、僕も何度か打ち明けようとしたものの、口にしようとすると声が出なくなる。その度に僕は、この右腕を奪った市民達が何故ああも狂っていたのかを思い知らされた。
絶望を抱えていながら、この世の誰ともそれを語り合って共有できない。それがどれ程孤独で苦しいものか――あの頃の僕は知らなかったんだ。
第十二崩壊の神禍は多分“予言”だ。僕の知る『宣告者』のとは違って、奴はやがて世界に訪れるたった一つの未来だけを、壊れたラジオのように吐いて回っていたのだ。
僕はそれを聞いてしまった。聞いて、折れた。剣を握る意欲も、世界を救いたいという願いも、綺麗さっぱり萎えてしまった。
空の勇者崩壊の真相はそんな所だ。発起人のミヤビ・センドウが勝手に折れて、もう戦えないよと投げ出して、僕らのサーガは打ち切りに終わった。
二度と表舞台に立つつもりはなかった。心が折れていたのもそうだが、全てを投げ出した男がいけしゃあしゃあともう一度勇者をやるなんて身勝手は許されないと思うだけの常識は、砕けた心にも残っていたから。
だから耳を塞いだ。自分を探している人間がいるという話を聞いても、へらへら笑って聞こえないふりをした。
そんな男の最期としては、これでもきっと上出来な方だろう。格好良く再起こそ出来なかったが、それでも最後に“らしい”事はしてやれた。
正直、戦ってて泣きたくなる程懐かしかったよ。無鉄砲な旅をして、お偉いさん方の胃を痛めに痛めて、戦果を誇りながら皆で勝利の宴をやった、もう戻らないあの頃の事が懐かしくてしょうがなかった。
悪いね、『雨(ルーシー)』。君には散々迷惑かけたのに、また君を置いていっちまう。
君が僕を探してる話、何度も耳にしたよ。君は知らないだろうけど、一回だけ僕が滞在してる村を当ててた事もあったんだぜ。
居留守を決め込んだのは本当にすまないと思ってる。合わせる顔がなかったんだ。何もかもへし折れてグズグズになった身でも、せめて妹分の頭の中でだけは格好いい自分のままでいたかったんだよ。お調子者は相変わらずですねって笑う声が聞こえてきそうだけどさ。
僕は多分、勇者の器なんかじゃなかったのだと思う。あの時、牛頭の言葉を聞かされたのが僕でなくて君だったなら、案外死ぬ程凹んだ後に顔を上げて、全て知った上で勇者をやり通していたのかもな。
僕らの中じゃ、多分君が一番英雄だった。悪を倒して善を助け、何度挫けても立ち上がり続ける不屈の信念ってやつを持っていた。
死んだ『雲』と『雷』にどの口で言ってやがるってシバキ回されそうだけど、お調子者の放言って事で話半分に聞いてくれ。
空の勇者は崩壊した。言い出しっぺの『晴』はこの通り腑抜けになって、残ってるのはもう君だけだ。
それでも君なら、僕らが辿り着けなかった何かを成し遂げられる。そう信じて、僕は此処で死のう。
僕の事なんて記憶に残さなくてもいい。もうわんわん声をあげて泣く程子供でもないだろうし、あの屑カスの役にも立たねえなって中指でも立ててくれれば餞としちゃ十分さ。君は只君のままで、君に成せる事を成して欲しい。きっとそれが、このどん詰まりの世界を前に進める何かになる筈だ。
つくづく無責任な発言と承知で言うけど、実のところ、そんなに悔いはないんだ。負け犬に出来る仕事は果たした。そして此処には君がいる。ならこれ以上、何を不安に思う事があろうか。
唯一悔やんでるのは、最後の最後まで君に報いてやれなかった事だ。これだって所詮は只の独り言で、君の耳に届く事はない訳だし。
その上で言おう。何の意味もない遺言と百も承知で、恥も外聞もなく君へ遺そう。
真の勇者は君だ、ルーシー・グラディウス。自分で始めた虚勢も最後まで張り通せなかった情けない男だけど、『空』の名は君に託す。そうだな、だから――
(勝てよ、ルーシー)
【『晴』の勇者/ミヤビ・センドウ 死亡】
◇ ◇ ◇
息を切らして、この寒い中で汗まで垂らして、俺は走っていた。
あの化物が追ってきている気配はない。それに安堵を覚える自分の情けなさにすら腹が立って、胃の中身を全部吐き出してしまいたかった。
『晴』の勇者が、俺を守るために死んだ。最後まで見届けた訳じゃないが、俺だって禍者達の命のやり取りは相当な数見てきている。
だから解るのだ。勝つにしても負けるにしても、ミヤビ・センドウは絶対に死んだ筈だ。あの傷では生き延びる事など不可能だし、手当ての出来る人間を逃がしてしまったら万に一つの奇跡も起こる余地はない。
空の勇者の生き残りが、何を思ってその後の世界を生きてきたのかなんて解りやしない。確かなのは、あの人が生きていたならきっと大勢の命を救えただろう事だ。
誇張でなく、儀式の元締め達を打倒して、この殺し合いを終わらせていた可能性だってあるだろう。
その可能性を、あの人は俺ごときの為に投げ捨てたのだ。俺が、『晴』の勇者の再起という誰もが望む未来を断絶させたのだと遅れて実感が込み上げてくる。
この時代を生きていく上で最も不要な物は、つまらないプライドだ。
矜持、沽券。誇りや自負。そういう物に固執する余り雁字搦めになった人間は、俺の知る限りほぼ間違いなく早死にしている。例外はボスのような、自分の力で迫る現実をどうとでも出来るごくごく一部の人種だけ。
それなのに俺は、殺し合いたくないと考えてしまった。ハード・ボイルダーの飼い犬らしく、変な色気など出さずに小狡く目の前の勝ちを狙っていればよかったものを、事を荒立てずに世界を救って貰える可能性はないかと都合いい夢を見てしまってた。
だからこんなに心が痛いのだと思うと、自分の馬鹿さ加減に頭が痛くなってくる。何も考えず、チンピラ崩れの小物らしい無鉄砲を選び取れていたのなら、きっとこの最悪な気分を味わわずに済んだのだ。 ミヤビ・センドウに託されたあの言葉もさっさと胸の外に追いやって、綺麗に切り替えられていたに違いない。
奴が俺に言い残した名は、『雨』の勇者、ルーシー・グラディウス。三つの天候が滅んだ今、生き残っている唯一の空色。
「俺は……」
俺は、どうすればいいのだろう。忘れるのか? それとも雑魚のハンパ者なりに勇者の系譜を追って、今度こそ何かになろうとやってみるのか。
答えを出せないまま、俺は走り続けていた。足がもつれて転び、ガキみたいに膝を擦り剥きながら、口内に溜まった唾液を吐き捨てる。
自分がどんな顔をしているのかは、考えたくもなかった。
【保谷州都】
[状態]:疲労(中)、精神的疲労(大)
[装備]:
[道具]:支給品一式(武器なし)
[思考・行動]
基本:生き延びる。だが、殺し合いは……
1:今は逃げる。その後は……?
[備考]
※支給された銃は破壊されました。
最終更新:2025年07月08日 21:12