少女の机の上にある、アクリルの小さな昆虫飼育ケース。
 それがれいむの家であり、そして唯一の世界だった。





 地面には茶色の『土さん』───発泡スチロール製のビーズ───が敷
き詰められており、跳ねても転んでも痛くない。
 れいむがゆっくりできるよう、ケースの一角には三角屋根のゆっくりプ
レイスが設えられていて、疲れたときや眠いときはいつでもそこでゆっく
りできるのだ。

 プレイスの近くには広場がある。

 大きな葉っぱのテーブルが敷かれているそこには、たくさんの遊び道具
も置かれていた。
 木の枝でできたブランコや、プラスチックの回し車。
 れいむのお気に入りは、大きなジャングルジムだった。
 あんよやほっぺを上手に使って這い潜り、這い上がるのは楽しい。
 れいむはいつも、そこから『お外』を見渡している。

『お外』とは、アクリルの壁の向こうのこと。
 そこは『お部屋』。 
 れいむのお姉さんの住処。
 れいむの理解が及ばない、不思議なもので満ちた世界。

 おうちの天井は開いている。
 そこからは、『おそと』の茶色いお空が見えた。
 茶色いお空には変な白いものが浮かんでいる。
 丸ではなくて、二重丸。
 登りもしなければ沈みもせず、決まったところに浮かんでいるのだ。
 普段はぼんやり白いだけだが、夜が近づくと明るくなり、夜が更ける
と消えてしまう。
『けいこうとう』という名前らしい。
 本当は太陽さんだろう。
 れいむはそう、思っている。

 くねくねと曲がりくねった大きな木。
 キノコみたいな傘が下がっていて、傘の中の白い実が時々光る。
 明るくなるのは二重丸の太陽さんが消えた後。
 だから、れいむは月さんと呼んでいる。
 月にしてはずいぶん近いとれいむは思うが、どの道へんな世界だから、
あまり気にはしていない。

 れいむのお家の隣には、赤や青、茶色や白の不思議な壁もある。
『ほん』とお姉さんは呼んでいた。
 とても不思議なお話が詰まっているらしい。
 れいむは一度だけ『ほん』の中身を見せてもらったことがあった。
 まだらの模様がいっぱい並んでいるだけだった。
 あの模様をお姉さんたちが見ると、本から声が聞こえるらしい。
 れいむには聞こえないその声は、お姉さんにお空のことや地面のこと、
生き物のことやご飯のこと、きれいなお歌やゆっくりできるお話まで、
なんでも教えてくれるらしい。

 そういえば、お歌を歌ってくれるヘンな箱も何度か見たことがある。お
 歌を歌うだけではなく、おしゃべりをするのも大好きな箱。
 れいむが何を話しかけようとも、箱は勝手に喋るだけ。
 れいむの話など聞きもしない。
 耳がないので、話が聞けないのだ。
 だから、起きるとずっと喋りっぱなし。
 強く生きてねとれいむは思う。

 ご飯だって、お外からお姉さんが狩ってくる。
 朝も早くから外に出て、夕方になるまで帰らない。
 きっと命がけの狩りだろう。
 お姉さんは笑って答えてくれないけれど、れいむにはそれが想像できる。
 なぜなら、お姉さんがくれる甘々(あまあま)は、毎日毎日違うものなのだ。

 甘くて酸っぱい真っ赤な果物。
 味もにおいも薄いのに、ゆっくり美味しい不思議な粒々。
 甘くてコクも物凄い、舌に蕩ける黄色い塊。
 種類があまりに多すぎて、思い出すのさえ大変だ。
 つくづく、お姉さんは狩りの達人だと霊夢は思う。

 狩場の名前は『こんびに』というらしい。
 何とも禍々しい名前だ。

 お姉さんは大変だねとれいむが答えると、
「狩りじゃなくて狩うの、狩ってくるの」
 と言い直された。

 わけがわからなくなる。
 狩りを狩りだと言い直されても困るのだ。
 大体『狩う』なんて言葉はない。
『飼う』だとしても意味不明。

 お姉さんはゆとりなので、時折言葉がおかしくなる。
 もう少し言葉を勉強してね、と思わざるを得ない。

 それにしても。

『こんびに』とは、果たしてどのような魔境なのだろう。
 きっと見たこともない怪物や、見たこともない甘々や、見たことも
ないゆっくりが、いっぱいあるに違いない。


 聞き質すほどに、思い出すほどに。
 知っているけど見たことのない、触れたこともない物だけがどんどん増えて。
 想像だけがプクゥとなって、御し得ないほどに膨らんでいく。

 見てみたいのだ。
 触れてみたいのだ。
 嗅いでみたいのだ。
 聞いてみたいのだ。

 一度でいい。

 そう。
 たった一度でもかまわないから。

 れいむは。
 れいむは───









         れいむはおそとにでてみたい









「駄ぁ目」

 壁の向こうの、お顔が怖い。
 もう何度目になるかもわからないれいむの訴えは、今日もお姉さん
に否決された。

「れいむはまだ赤ちゃんで、あんよだって柔らかいでしょ?
 ジャングルジムから落ちた時だって泣くくらいなのに。
 お外になんて出たら危ないなんてもんじゃないわよ……」

 お姉さんは指を振りかざしながら、あれも危ない、これも危ないとお外
の危なさをこんこんと説く。
 やはり、お外は魔界なのだ。いやおうなしに、思い知らされる。

 灰色の猛獣。
 それは家の隙間に潜む怪物で、ありとあらゆるご飯をむさぼる食欲の権化であり、
時にはゆっくり全てを食い尽くすという。

 太古の悪魔。
 一匹でありながら三十匹であるソレは、穢れと病の化身であり、数え切れぬほどの
歳月を生き延びてきたのだという。

 多色の羽毛。
 知らぬ間にゆっくりの体に取り付いて、その体を病ませ腐らせ溶かし尽くす。

 地獄の鉄輪。
 日に十の十個分のゆっくりを、たやすく踏み潰してもなお止まぬ。

 邪悪の漆黒に心を染めたゆっくりたち。
 死をも畏れぬ蛮勇は、人間種からの略奪さえも成し遂げる。

 ほかにも、ほかにも、ほかにも、ほかにも。
 留まるを知らないお姉さんの言葉こそは怒涛。れいむは口さえ挟めない。

「……だから、赤ちゃんのうちは絶対に駄目。
 もっと大きくなってからね」

 お姉さんはきっぱりと言い捨てると、立ち上がった。
 それじゃ行ってくるからね、と言う
『お父さん』や『お母さん』とご飯を食べに行くらしい。

 また、れいむ一人でお留守番だ。
 つまりは仲間はずれ。
 れいむが赤ちゃんだからなの?
 それともゆっくりだからなの? 
 まだお姉さんが居るにも関わらず、れいむは何故か強い寂しさを覚えた。

「ゅぅ……」

「あー。もしかして孤独死コース?ったく、もう……」

 お姉さんの深いため息。
 片手で頭をかきむしっている。
 れいむの鳴き声を聞いたのだろう。
 お姉さんは屈み込んでれいむに視線を合わせ、

「れいむ、5の次は?」

 諭すような口ぶりで、そんなことを口にする。
 行ってくるって言ったのに、なんでいきなりお勉強なの?
 お姉さんの考えが、れいむにはまったくわからない。

「『ご』さんのつぎは、『ろく』さんだよ?」

 わからないまま、とにかく答えた。
 れいむの答えを聞いたお姉さんは、目を細めてにこやかに笑う。
 れいむが一番大好きな顔だ。

「正解♪」
「ゆふん!」

 れいむはゆっくり胸を張った。
 数を数えるのには自信がある。
 何しろ、まだプレイスが寒かった頃から、がんばって勉強し続けてきた。
 一桁どころか、二桁だって自信がある。
 と、お姉さんがまた質問してきた。

「それじゃ、3+9は?」

「ゆゆ?たしざんだね!」

 今度は足し算だ。
 たしか、一昨日習ったばかり。れいむは必死にあんこをひねる。
 三は簡単に分かる。九も楽勝だ。問題はそれを足すということ。三は一二三だ。だ
から答えは九の次の次の次。十。十、十……あれ?

 なんだかわからなくなった。
 考え方を変えてみる。九は三が三個分だ。だから答えは三が四個分。
 だから、つまり、つまり、ええと。
 頭の奥で答えがちらつく。あと少し、あと少し考えればピコピコさんが届いてくれ
る……。
 が、お姉さんは無情にも、胸の前で腕を交差させた。

「残念、時間切れ」

 霊夢はゆっくりとうな垂れる。

「おねえさん、はやいよ。ゆっくりかんがえさせてね!」

「待ってあげてもよかったけど、お父さんたちを待たせちゃうし。
 ……れいむ、ひとつ約束してあげる」

 お姉さんの目は、どこまでも真っ直ぐだった。
『約束』という言葉の意味はわかる。とても大切な言葉だということも。
 だからこそ、お姉さんは滅多にこの言葉を使わない。
 そのお姉さんが約束してくれるという。

 まさか。

 れいむは、思わず壁に這い寄った。

「もし、足し算を覚えたら」

「おぼえたら?」

「そのときは、れいむをお外に出してあげる。
 私の部屋だけじゃなくて、台所にも居間にも……ううん、家の外にも出してあげる」

「ほんとに?!」

 跳ね上がりたくなるほどの喜びが、れいむの頭に突き上がった。

「れいむ、ぜったいおぼえるよ!
 たしざんおぼえて、おそとにでるよ!」

「えーと、泣いたカエルがもう笑うってヤツ?
 扱いやすいんだか扱いにくいんだか……」

 お姉さんが苦笑いする。
 おーい、と遠くから声が聞こえた。
 太い声。
 お姉さんの『お父さん』だ。お姉さんは慌てた顔をすると、

「おやつはいつもどおり広場に用意したけど、食べ過ぎたらだめよ。
 じゃ、お姉さんたちは出かけてくるからね。」

 畳み掛けるようにそんなことを行って、お部屋を飛び出していく。
 ドアが開け放しのままだ。 
(おねえさんはあわてものだね)
 れいむは小さくため息をつく。

 何かが唸るような音が響いた。
 自動車という生き物の鳴き声だ。
 人間用のスィーがその正体なのだという。
 音はどんどん遠ざかる。
 スィーは途轍もなく早いのだ。
 なのに、ゆっくりできるらしい。
 ソレはとても不思議なことだ。 
 足し算さえ覚えることができれば、きっとれいむもスィーに乗れる。
 お姉さんとお出かけできる。

 あれ、ソレってもしかして。
 不意にれいむはそのことに気づいた。

 大好きな大好きなお姉さんと、ずっと一緒に居ることができる。
 それだけじゃなくて、もしかして───

「おねえさんがかえってくるまえに、たしざんさんをぜんぶおぼえるよ!」

 れいむはリボンを解くと、ぴこぴこで両の頬を叩く。
 そのまま、プレイスの中に引きこもった。

 本気モードだ。
 れいむは一日でも早く、足し算を覚えなければならない。

 ゆっくりと、れいむはつぶやき始めた。

「いちたすいちは、にー。にたすいちは、さん。
 さんたすいちは……よん。よんたすいちは……」

 ・

 ・

 ・

 ・

 ・

 ・

「いちたすにーは、さん。さんたすにーは……えーと、ご。
 よん、たす、にーは……ゆ、ゆゆゆ……ご、あれ、なな?」

 難しいよ。難しすぎるよ。
 餡子が頭をめぐりすぎて、思考回路はもう限界。
 なんだか目が回りそうだ。

 汚い。
 さすがお姉さん汚い。

 煩悶。苦悶。苦悩。悩乱。
 難しい。
 でも覚える。
 覚えたい。
 どうすれば。
 れいむは悩む。
 悩みに悩む。

 そうして、悩むこと一時間。

「おひるのあまあまのじかんだよ」

 悩む理由を忘れることにした。
 むずかしいことは後でもできる。
 そんなことより甘々(あまあま)だ。

 プレイスを出て、広場に向かう。 
 甘酸っぱい匂い。とてもゆっくりできる匂いだ。

「ゆ、きょうのおやつはさくらんぼさんだね」

 葉っぱのテーブルの上には、真っ赤な果実が五つある。
 れいむより、ほんの少しだけ小さなソレは、『カンヅメ』なるもの
から取れるらしい。
 一度カンヅメの実物を見せてもらったが、ガランドウの木の幹としか
表現しようのない変な草だった。
 もっとも、お姉さんに言わせると、カンヅメは草ではないらしい。
 けれど、それはおかしなことだ。
 餡子の常識に照らすならば、お姉さんの言葉は間違っている。

 果物は草からしか取れないものだ。
 そしてサクランボは果物だ。
 故に、『カンヅメ』は草である。

 自明の理とはこのことだろう。
 いろいろな事をそれこそ沢山知っているのに、お姉さんは時々お馬鹿になる。
 本当に人間って不思議だよ、とれいむは常々思うのだ。

 もっとも、草かどうかなんてことは、れいむにとってはどうでもよかった。
 大切なことは、ただ一つ。 
 サクランボが甘々であるということだ。
 あまあまより重要なものなんて、お姉さんぐらいのものだろう。
 それくらい、れいむにとって甘々は重要なものなのだ。

 サクランボは五つある。
 三つがお昼の分として、二つは三時のおやつの分。
 ちゃんと数えて食べないと、せっかく数字を習ったんだから。

「ゆっくりいただきます!」

 ゆっくり感謝の挨拶を終える。
 赤くて丸い大きな粒に、れいむはゆっくりと歯を立てた。
 少しだけ歯ごたえのある果肉を齧り取り、何度も何度もかみ締める。

 むーしゃ。むーしゃ。
 甘くてほんの少しだけ酸っぱい果汁が、口いっぱいに広がった。
 それは、れいむにとって、幸せそのものを具現する味だ。
 だから、正直にソレを口にする。

 しあわせー。
 お姉さんたちも、今頃こうして美味しいものを食べているんだろうか。
 何度も幸せーしているんだろうか。
 サクランボかな。
 それともブドウかな。  
 れいむが食べるご飯の量は、ちょうどれいむが一人分だ。
 おねえさんたちもそうだろう。

 人間さん三人分。
 そんな甘々、一杯すぎて想像もできない。
 れいむのお家なんて、きっと埋まってしまうだろう。

 だからお姉さんたちは、あんなに体が大きいのかな。
 でも、れいむがそんなに食べたら、たぶんぽんぽんが破れてしまう。
 そんなに甘々を食べられるお姉さんは凄い。
 でも、それは多分食べすぎなんだ。
 だから、いつも体の重さのことについて悩んでいるのかな。

「むーしゃ、むーしゃ……」

 気づけば、れいむはお姉さんのことばかり考えていた。
 一人でご飯を食べるときは常にそうだ。
 お姉さんにはお父さんが居て、お母さんが居る。

 れいむには居ない。
 れいむは自分のお父さんの顔を知らない。
 お母さんの顔も知らない。
 親の居ないゆっくりなんていないと餡子が言う。
 けれどれいむには親が居ない。
 記憶をどれほど手繰っても、影も欠片も見当たらない。

 別に、そのことをどうとは思わない。
 れいむにとって親とは記憶にも無い存在だった。
 事実上の虚無に過ぎない。
 故に姿を想うこともない。乞い慕おうとも思わない。
 かわりに、お姉さんがいる。

 お歌を教えてくれたお姉さん。
 ごはんをくれるお姉さん。
 いろいろな事を知っているお姉さん。
 すごく頭のいいお姉さん。
 ときどきお馬鹿なお姉さん。
 怒ると怖いお姉さん。
 でも、いつもやさしいお姉さん───

 ───そんなお姉さんのことが、れいむはとても好きだった。

「おねえさん、まだかなぁ」

 食事を進める口が止まる。

 はやくかえってこないかなぁ。
 おうたをきかせてくれないかなぁ。
 らじおさんのおはなし、ききたいなぁ……。

 何故だろう。
 サクランボはとても美味しいのに、なんだかちっとも美味しくない。
 甘々は幸せな筈なのに、ちっとも幸せな気分にならない。
 体から餡子が抜けたみたいな心地だ。

(もう、ごはんはいいよ)

 と思い、れいむは甘々から口を離す。

 そんなことよりお勉強だ。
 足し算を覚えれば、お姉さんはきっと喜んでくれる。
 そして、お外に出ることができる。
 お外に出られれば、もっといろいろなものを見ることができる。
 お姉さんともっと遊べる。
 お姉さんが居ないとき、探しに行く事だってできる。
 だから、ゆっくりがんばらなくちゃ。

 そのことを思うと、少しだけ元気が沸いてくる。
 れいむはブランコに腰掛けると、ゆっくり勉強を再開した。

「さんたすさんは、ろく。よんたすよんは、きゅう。
 ごぉたすごぉは、じゅう。じゅうたすじゅうは、いっぱい。
 いっぱいたすいっぱいは……あれ?」

 ふと、れいむは暗唱を止める。
 何かの物音を聞いたような気がしたのだ。
 れいむはゆっくりと耳を済ませる。



───・・ん。

───・・ん。・たん。

───・たん。・たん。ぺたん。

───ぺたん。ぺたん。ぺたん。ぺたん。

 聞こえた。
 足音だ。
 お姉さんのものでもなく、お父さんのものでもない。
 つまりは人間以外の何か。
 お姉さんの部屋へ、れいむの方へと近づいてくる。

 何?何がくるの?
 誰が来たの?お姉さんの言う泥棒さん?

 れいむの背筋に寒気が走った。
 こないでね、こわいひとたちこないでね!
 だが、無常にも声は近づいてくる。

「・・・・・・、・・・・・・・」
「どう・つは、・っくり・・・ね」
「・・が・・ひろい・・・・。
 ・・さたちの・・・りぷれ・・・するよ!
 ゆっくりしていってね!」

 今までで一番明確な声。
 れいむは思わず視線を向けた。
 開いたままのドアの向こう。

 居た。

 黒い帽子に、金色の髪。
 白くもちもちしたお肌。
 なんだかのんびりした表情。

 それは生まれて初めて見る存在だ。
 けれど、れいむには何かわかる。
 名前でさえも、理解できる。
 わかるからこそ、わからない。
 どおしてまりさがここにいるの?
 れいむは叫ぶことも忘れて、まりさの事をぽかんと見つめた。

続く

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最終更新:2022年05月03日 22:49