- プリニウス『博物誌』第四巻は、クレタ島の名前の由来について、
島と言いつつ陸に近い。
(なお、プシロリティス山はほぼ同じ高さの頂きが二つ並ぶ姿をしており、
そのため現地の人々に「聖なる牛の角」にたとえられているとか)
- 紀元前6000年頃には既に、農耕を伴う集落が成立していた事が知られる。
- 初期青銅器時代から、円形の石積みの墓(トロス墓)に何世代にも渡って人を合葬する習慣があり、
島内にそうした墓が多数存在する。こうした墓制・習慣は他の古代ギリシャには見られず、
クレタ島に固有であると見られる。
- この島から出土するフレスコ画などから、この島では牛跳びとでも言うべき、
牛の背中で宙返りをするというような内容の儀式が行われていただろうと見られている。
- 同時にまた、紀元前2000年頃以降の宮殿時代に、線文字Aが使用された事でも知られる。
- 紀元前1450年頃を境に、クレタ島では青銅製の武器を副葬品に持つ「戦士の墓」が急増しており、
この辺りの年代にクノッソスの支配権が戦乱を伴う形で、恐らくはギリシャ本土から来た人々に
移ったのではないかと見られている。
- ヘシオドス『神統記』によれば、クレタのリュクトスは、
自らの子を飲み込もうとする
クロノスから子
ゼウスを匿うため、
レイアが逃れ、ゼウスを産んだ地とされる。生まれたゼウスは、レイアの母
ガイアによって匿われたという。
- ヘロドトス『歴史』巻七によれば、ダイダロスを追って島を出たミノス王がシケリアで横死したという
伝承があって、クレタ島住人は一部を除いてほぼ全住民がシカニア(
シケリア)にある
カミコスの町を包囲攻撃したが、占領できず撤退し、さらにその帰りに暴風雨にあって全滅。
さらにミノス王の事例があるにも関わらず
トロイア戦争で
メネラオスに加勢したことから
神意を損ねて飢饉と疫病が発生し、住民が一度根絶されたという。
したがって現在のクレタ島住民は「三代目」であるとヘロドトスは述べている。
- プリニウス『博物誌』第十二巻によれば、クレタ島のゴルテュナという場所にある泉のそばに一本のプラタナスがあり、
- プリニウス『博物誌』第八巻によれば、クレタ島にはオオカミやクマがおらず、
毒グモの他には有毒動物がまったくいないという。またキュドネア地区という一部を除いて
シカがおらず、
イノシシも居ないということである
参考文献
『神統記』ヘシオドス
『歴史(下)』ヘロドトス
『プリニウスの博物誌 Ⅰ』
『プリニウスの博物誌 Ⅱ』
『プリニウスの博物誌 Ⅲ』
『古代ギリシア 11の都市が語る歴史』ポール・カートリッジ
最終更新:2016年06月06日 00:49