伊勢神宮


  • 神宮の最も重要な祭りを三節祭という。すなわち、六月と十二月に行われる月次祭と、
   九月に行われる神嘗祭。

  • 神職は、皇大神宮(内宮)が荒木田氏、豊受宮(外宮)が度会氏。

  • 貞観年間に神階制度が成立していくが、伊勢神宮は神階を持たない。

   「自分は伊勢の国に鎮座しているが、一神だけであるため大変寂しい。
    それだけでなく日々の食事もままならない。丹波の国の比治真奈井にしずまる
    わが御饌津神(豊受大神)をつかわしてはくれまいか」と言ったという。
   天皇はさっそく度会の山田の原に外宮を造立し、豊受大神を奉斎した。
   以降豊受大神は、天照大神の食堂ともいうべき外宮の御饌殿で、
   毎日一食も欠かさず天照大神のための朝夕の食事を司るようになった、と云々。
(zsphereコメント:これねぇ、最初に読んだ時、何とも云えないニヤニヤ笑いが止まりませんでした。
            「ひとりぼっち寂しい」とか、日本の神様は本当に可愛いなぁw)


  • 804年(延暦二十三年)、伊勢神宮から神祇官に提出された『皇大神宮儀式帳』によれば、
   内宮別宮の荒祭宮の神体は「御形、鏡坐」、月読宮は「御形、馬乗男形」とある。
   滝原宮、伊雑宮は「鏡坐」。
(神体の形が分かる文献資料は珍しい、とのこと)
   内宮管内の神社では、滝祭神社が「御殿、無」とあり、
   同社は現在も神殿はなく、瑞垣の中に小さな石が露出した簡素な形態を残す。


  • 神仏隔離の意識が非常に高く、仏を中子(なかご)、塔を阿良々支、
   法師を髪長など、仏教用語と不浄な言葉を別の語に言い換える忌言葉が用いられた(『皇大神宮儀式帳』)

  • 古代から中世にかけて、仏法禁忌が薄れていく傾向があり、
   そのきっかけが1186年(文治二年)の俊乗坊重源と60名の東大寺僧による
   伊勢参宮であった由。
   のち、1193年(建久四年)、1195年(建久六年)にも参宮を果たし、
   東大寺再建の祈願を行ったという。



  • 古代において、伊勢神宮に幣帛を捧げる事ができたのは天皇のみ。
   皇后や皇太子ですら、天皇の許可なしには参拝する事が出来なかったとされる
 (『皇太神宮儀式帳』、『延喜式』神祇四)



  • 伊勢国は水銀の産地として名高く、特に伊勢神宮に近い飯高郡が水銀の産地であるという。
   (考古学者の森浩一は、鏡の研磨に水銀が不可欠である事から、伊勢神宮が八咫鏡安置の場所に選ばれた理由の一つと推定している)



      参考文献
『日本神道史』岡田壮司
『日本神話の考古学』森浩一



最終更新:2014年02月25日 04:49