0-2.日曜(昼1):物語_1

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0-2.日曜(昼1):物語_1


 悪魔のミルヤムは人間の観察が趣味だった。
 悪魔には人で遊ぶのが好きな者や、人を食べるのが好きな者もいる。悪魔にとってみれば人間なんて弱小なものでしかなかったし、遊び道具やおやつぐらいにしか考えていないものばっかりだ。
 でも、ミルヤムにとって人間は『面白い』ものだった。
 ミルヤムは人間が好きだったし、見ているだけで楽しめた。
 だから、暇さえ見つければ、こうやって地上にやってきて、人間を観察する。今日も地上を撫でる風に乗って、ベストポイントを物色していた。
「お姉さん、こんにちは」
 そんな時だ。後ろから、声を掛けられたのは。
 ミルヤムははっとして振り向き、屋根の上に立つ『少年』に目を見開いた。
「あなた……誰?」
 問いに、少年は薄笑みを浮かべる。
「さぁ……?」
 少年は銀の目をしていた。身が竦むような白さと輝きを持った瞳だ。真っ直ぐに見つめられ、ミルヤムはたじろいだ。
 人じゃない。
 とても残念なことだけれど、人は悪魔が見えないものだ。よっぽど悪魔や天使に近い魂を持っていれば別なのだが。例え、人には過ぎる力を持った人間だとしても……、いや、その可能性すらも感じさせないほどに、少年は異質だった。
 人ではない。悪魔ですらない。
「お姉さん、この先に行くんでしょ?」
 全く別次元の生き物だ。ミルヤムは本能で悟る。
「止めといた方が良いよ」
「……どうして?」
 魂が逆立つ。今、ここで言葉を交わすことすら恐ろしい。
 ミルヤムはけして力のある悪魔ではない。だが、ここまで生きてきたのは、自分の位を弁え、けして上位の悪魔に関わらぬよう生きてきたからだ。
「この先は、これから戦場になる」
 すらりと喋る銀眼の少年。妙に軽く、茶化した物言いはミルヤムの不信感を煽った。
「下手な罠を張ったものさ。いや、これがこんなところでなければ、よく考えた罠といって良いかもしれない。けれど、彼等は人の存在を侮りすぎている」
「……」
 何の話をしているのか、さっぱり分からない。
 ミルヤムは目を細め、相手の真意を測ろうとした。
「どうしてもっていうなら、止めはしないよ」
 少年は、くすりと笑って、姿勢を変えた。
「俺? 俺はどうしようかな。お上の『実験』から人を救うのも悪くないかな」
 俺、これでも人が好きなんだよね。くすくすと咽喉を鳴らして、少年は言う。
 今すぐにここから逃げ出したい気分に駆られる。けれど、身体は呪縛されたように動かなくなってしまっていた。
「お姉さんも気をつけなよ。その罠は、一度囚われたらなかなか抜けにくいみたいだから」
 じゃあ、と少年は手を振り、その場から掻き消えた。
 ようやく重圧から開放されたミルヤムは深く息を吸い込み、長い安堵の息を付く。気付けば、手に冷や汗が滲んでいた。
「……なんだったのかしら」
 とにかくも、この場からすぐ離れたい。気味が悪かった。
 だが、無闇に動いたのが悪かったのか。それとも、少年の忠告を深く考えなかったのが災いしたのか。先に進んだ彼女を待ち受けていたのは、少年の言う『罠』だった。
 遠く、人の『学校』が見える場所。
 何か見えない壁のようなものにぶつかり、ふとした時には既に吸い込まれていた。
「な……に、コレ……~~ッ!!」
 急速に『力』が抜けていく。
 魂に纏っていた精神の身体が、一瞬にその密度を減らしていった。 (誰か……)
 ミルヤムは叫んだ。
(誰か、助けてッ)





 昼にあってもその屋敷は暗く、静寂に包まれている。だだっ広い屋敷の奥に行けば行くほど、その傾向はあった。
 仰人は薄暗く長い廊下を、珍しくバタバタと足音をさせて走っていた。
 家人に睨まれたが、今は構っていられない。普段ならもう少し気を遣った歩き方をして、足音をさせないようにする。築何十年、いや百何十年かも分からないこの家は、若者の無礼な走駆に耐えられなさそうに見える。また、この家に上がってきている一族の者達にも、仰人の足音は耐えられないものがあるのだろう。けれど、緊急事態なんでごめんなさいっ、と内心平謝りしながら、仰人は屋敷の中央を目指した。
「ツギっちゃん!!」
 横戸をがらりと開け放ち、仰人は勢いよく踏み込む。
 屋敷のほぼ中心に位置するのは、潔斎場。屋敷にかけられた何重もの護印に囲まれ、その中央は一種、俗世から離れた空間となる……、と聞いていた。それが本当かどうかは知らないが、そこは確かにあまりにも静かで清らかな空気に満ちている。従兄ほど『視力』のない仰人は、なんとなく体感する程度であったが。
 まぁ、仰人にとってみれば、修行だのなんだの、ちょっと凝った事をする度に入れられる、牢獄のような場所だ。仰人には『精神鍛錬』や『術』がとても苦手で、潔斎場に入って精神を統一せよと言われても、「できない」の一言に限る。
 仰人の一族は、いわゆる者『異能力』の一族だ。時食みの一族、と一族の者は自分達のことをそう称する。霊能力というわけではないが、その原理とかが自分達の使う能力で解明できる為、お祓いやなにやらを商売にしていたりする。
 仰人は一族の中でも血は濃い方らしい。まぁ、従兄弟という関係があるとはいえ、次期族長のお付きを任されているのだから、推して知るべしなんだろう。
「コウト」
 潔斎場の中央に座っていた少年は、闖入者に気付いてすっと立ち上がった。
 彼こそ、一族の次期族長、神生継理である。
「気付いたか」
 継理が目を開ける。その目は金に輝き、強い霊気を漂わせている。昼に時間を作る為、明け方から潔斎場に入って、訓練のノルマをこなしていた継理は、確かにその成果を身に纏っている。仰人にも側に近寄りがたく感じさせる、その覇気。
 ごくりと唾を飲み込む。
「ここんところ、変な気が漂ってるとは思ったんだがな……。とうとう、動き出したらしい」
「何が起きたか……もう、分かったの」
 何が、起こっているのか。既に把握したというのか。
 まるで責めるようになってしまった仰人の口調に、継理ゆっくりと首を振る。
「俺だって、分かんねぇよ」
 仰人は我知らずにひとまず息を付いていた。変わらない口の悪さが、仰人を喜ばせる。
「ただ、家の上に変なのが被さりやがった。でけぇぜ、多分、ここら辺一帯を覆ってる」
「それって何」
「それがすぐに分かりゃあ、苦労はねぇだろう」
 「そうだよねぇ」と相槌を打つ。
継理は一旦目を瞑り、再び開くとその目は黒に戻っていた。
「で、お前はなんでここに来た?」
 「随分バタバタしてただろ。こっちまで聞こえたぜ」と継理。
「あっ、そうだ! あのね、大変なんだ! ルカちゃんがさ、ちょっと外に出ようとした瞬間に倒れちゃって」
 言うやいなや、継理の目がキツく細められ、足早に駆け出す。仰人は慌ててその後ろから継理を誘導した。
ルカの運ばれた部屋に二人が辿り着くと、そこには横たわったルカと、もう一人の下宿人海音が側についていた。
「大丈夫か、ルカ」
 布団に横たわるルカの顔は青白く、痛ましい。
 ルカは異世界からの来訪者である。その好奇心を持って、継理と仰人の世界に降り立ち、一緒に学校に通うなどしてみているが、実際は時の世界の姫君だ。
「あ、……ツギリ」
 枕元に膝をつく継理と仰人の姿を見つけて、ルカが身を起こそうとする。海音が心配そうにそれを支えた。
「心配させちゃって……ごめんなさい」
「無理するな」
 力なく微笑むルカ。継理は咽喉の奥に言葉を詰まらせ、不機嫌そうに言った。
「今はヤバい。下手に動くんじゃねぇぞ」
「そうだよ、ルカちゃん。なんか、街がおかしくなってるみたいなんだ。だから、ルカちゃんも倒れちゃったんだと思う」
 責めてるわけではないが、心配のあまり口調のキツくなる継理を抑え、仰人が横から柔らかく言い直す。
「オレ達がなんとかしてくるからさ!」
 仰人の言葉に、継理も頷く。頼りがいのある二人の言葉に、ルカは嬉しそうに微笑んだ。
「カイネ……」
 継理が傍らの海音を呼ぶ。海音は頷き、自分の胸を叩いた。
「ルカちゃんならアタシに任せて、あんたら二人、さっさとなんとかしてきなさいよ!」
「言われなくても」
 鼻を鳴らして、継理はにやりと笑う。
 なんだかんだ言って継理は次期族長で、彼等の信頼を一身に受けている。彼が自信満々に微笑むだけで、仰人もルカも海音も、自信が湧いてくるのを感じる。
「ルカは、なるべく奥の部屋で寝させろ。屋敷の結界の中だったら、あんまり外の影響は受けないはずだ」
 結界を強化してから行くか、と口の中でごち、継理は仰人を伴い、立ち上がる。
「仰人は結城達に電話しろ。遊びは中止、あと、大人しくしてなるべく外に出るなって言っとけ」
「分かった」
 部屋を出、継理と仰人は二手に分かれる。継理は結界の強化に行くのだろう。仰人は携帯をかける為に、外に近い場所に出る。結界がある所為か、電波が繋がりにくいのだ、この屋敷は。
「じいさんがいねぇ時にやってくれるよなぁ」
 別れ際、仰人は継理の呟きを聞いた。
「こっちに影響がないならほっといたけどよ……」
 ルカが倒れたとあっては、黙っていられない。
 仰人は笑って頷いた。
「『俺の平穏を破った罪は重い』でしょ?」
「分かってるじゃねぇか」
「付き合い長いし。……ガンバろうね。なんか、スゴイ事起こりそうな気がする」


「……ふぅ」
 走り疲れたのか、仰人の後ろで継理が息を付いた。
 二人はもう、10km近く走り続けていた。先に結界の範囲を確定させて置いた方がいいだろう、と、家から持ってきた地図を片手に、結界の端からぐるりと一周回った。その後、結界の周囲に結界を支える神具や札がないかと探したが、それらしいものは一切見つからなかった。
 結界の外から遠隔的に結界を支えているのかとも考えた。既存の術式の覚えている限りで、結界を支えるものがあるだろう場所を巡ってみたが、そんな気配一つ見当たらない。
「平気?」
 仰人が振り返ってみれば、継理は大きく肩で息をし、額には汗も滲んでいる。
「……平気だ」
「顔青いよ? さっきのルカちゃんみたいだ」
 と、自分で言ってから仰人は気付く。
 そうだ、これは熱に滲んだ汗ではなく、冷や汗なんじゃないだろうか。
「ツギリ!?」
「……騒ぐな、バカ。まぁ、ちょっと疲れが激しいだけだ」
 継理はそう、一族の中でも一番『力』が強く……、言い換えれば、ルカに近いのだ。得体の知れない結界の中を長く走っていれば、消耗も激しいだろう。
「……今から、戻る?」
「バカ言え。ルカがあんなになってんだぞ」
「オレも半年修行したしさ、一人で何とか調べるくらいならできるし」
「アホ」
 継理は仰人の差し出した手を振り払い、鼻で笑った。
「慣れてねぇだけだ。少ししたら、収まる」
「慣れるって」
 仰人は眉を顰める。継理のこの様子では何を言っても聞きそうにない。
その心境は仰人でも理解できる。ルカが倒れたから……。守るべきものが倒れてしまって、こんなヘンテコなものを用意した誰かを恨み、それに気付けなかった自分に怒りが湧いてくる。継理は「薄々気づいていた」というのだから、尚更だろう。
 だが、仰人にとっては継理も護る対象である。
 仰人は、継理の警護と抑制を担っている。継理の力は絶大なもの。暴走してはならないもの。無理をするようなら、殴ってでもとめるのが自分の役目だと心得ている。
 しばらく、継理を睨むように見下ろしていた仰人だったが、やがて首を竦めた。
「無理しちゃダメだよ。ツギっちゃんが倒れたら、海音が泣くよ?」
「なんでそこで海音が出てくんだ!?」
「あ、元気になったねぇ」
 仰人のすっとぼけた顔を張り倒し、継理は足早に先に進んでいく。
「照れちゃってかっわいい~」
「~~っ! 疲れたッ、公園で休む!」
 目に付いた公園の入り口で、継理が言う。仰人がにこにこと(継理にとってはにまにまと)笑っていると、「テメェはコーラでも買ってきやがれっ」と追い払われた。
 この分なら、平気だろう。仰人が気をつけてさえいれば。





 新緑の季節が過ぎ、樹木の翠も濃いものに変わった。日差しは強く、色濃い陰影を大地に落とす季節。紫陽花の花咲く公園で、調子っぱずれた鼻歌が響く。
 絶え間なく聞こえるローラーの音の主、彼女、水本修羅は上機嫌で公園を滑走していた。
 上着は太い枝に掛け、キャミソールにハーフパンツと惜しげもなく肢体を外に出し、一身に風を受ける格好でローラースケートを楽しむ。この季節は晴れるととにかく暑かったりするが、雨になるとそうも言っていられず、鬱屈が溜まる。先週は雨だったので、今週末は絶対、外で走ろうと思っていたのだ。思う存分走れる場所で。
 この公園、実は2段に別れていて、下は子供遊ぶ遊具もあるが、上は舗装された散歩道になっており、人影もまばらなので、『走る』には最適な場所だ。特に今日は上にも下にも人影が見当たらず、調子付いて色々な技を試していた。
 修羅は公園の上段と下段を結ぶ階段に目をつけた。
 一度下に誰もいないことを確かめて、それから散歩道から助走をつけて、階段脇の細い手摺りの上を滑り降りる。子供がいる時には絶対できない真似だ。子供は何もかも真似するから、危険な手本を大人がしてはいけない。
 シャアッと器用に滑りきり、手摺りの下で着地の為に飛び跳ね、見事着地。
 大技をやりきった余韻に、階段を眺めながら、硬めの土の上を周回していた時。
「うわっ」
「きゃ……!!」
 突然、横から割りこんできた男に、ぶつかった。
 軟弱な男はバランスを崩した修羅を支える事が出来ず、二人して共倒れする。
「いった~い!! 何なのよ!?」
「痛っ……」
 男は後頭部を強かに打ちつけたようだった。男の上に覆いかぶさるように倒れた修羅はすぐに身を起き上がらせ、盛大に文句をつけた。
「ちょっと! 気をつけてよね!」
 こっちはローラースケートなんだから。赤信号に車が急に止まれないのと同じように、ローラースケートもすぐには止まれない。確かに、階段に気を取られるあまり、背面走行になっていたのは修羅だったが、けれど、男の方が避けられたのではないのか。
「テメェ……ッ」
 起き上がりざま、憎々しげに顔を歪めて、男も盛大に啖呵をきる。
「テメェの方こそ気をつけやがれ! 歩いてる奴に突っ込んでくるとはどういう要領だ!?」
 「しかも、謝りもなしない! 謝ったら、少しは可愛げがあったのに」と続ける男。思わず拳が出ていた。けれど、誰も修羅が悪いとは言わないだろう。修羅にはそう確信があった。
「悪かったわね、女の子らしくなくて!!」
 「あたしの道に割り込んできたのは貴方でしょ!?」女の子にあわや怪我させるところだったというのに、謝りもしない男の方が悪い。既に修羅の中で修羅の行動は正当化されている。二人はどちらの否も認めようとしなかった。
 倒れこんだまま、一触即発の剣呑な雰囲気を纏わせる二人。
「あれ、……ツギっちゃん、何やってんの??」
 そこに、救いの主がやってきた。


「ツギっちゃん、駄目だよ。相手、女の子なんだからさ」
 ごめんねー、と少し背の高い方の男子が、手に持っていたコーラを渡してくれる。
 なんだかんだと喧々囂々のやり取りをして、立ち上がれずにいた二人を、新しく来た男子が引っ張って立ち上がらせた。立ち上がってみると、下敷きにしてしまった方は、背が修羅とあまり変わらず、新しく来たほうに比べると大分華奢に思える。まぁ、普通のもやしっ子だろう。
「謝んなきゃ」
 新しく来た方は、もう一人のに比べて温和で、女の子の扱いを心得ていた。というか、見て、修羅の言い分を聞いた途端、もう一人に代わって謝った。それだけで、大分好感触だ。
「ぶつかってきたのは向こうだ」
 フン、といまだ鼻を鳴らして不機嫌そうにしている子供がいる。子供は、同じく新しく来た男子からコーラをもらって、当然のように一人で飲んでいる。コーラは、その二人で飲む為のものだったらしく、当たり前で二本しか買ってきていない。修羅とガキが持った分で終わりだ。
「ちゃんと注意してないで歩いてるあんたが悪いんでしょ」
「まぁまぁ、二人ともさ。とりあえず、不慮の事故ってことで、済ませとこうよ、ね?」
 多分、この中で一番オトナな彼は、頬を掻きながら言った。
 言われて、二人は顔を見合わせ、同時に「フンッ」と横を向いた。
「えーと……、水本さんだよね、学園の」
 話を変えるように、背の高い方が言う。修羅は目を瞬かせた。
「知ってるの?」
「知ってるも何も、有名だろうが。この爆走娘」
 チビが毒づく。修羅はそれを無視した。
「私、水本修羅。高等部一年。あんたたちは?」
「オレが斎仰人で、こっちが神生継理。同じく高等部一年生。高校から入ってきたから、知らないと思うけど」
 背の高い方、もとい仰人が人の良さそうな顔で、手を差し出す。
 修羅は喜んでそれに答えたが、内心驚いていた。『神生』と言えば、学園の北側にある、一番大きな家だ。旧家だかなんだか知らないが、とにかく格式のありそうなでかい家の、息子か。会ったら失礼のないようにしろ、と親に言われていた。
 絶対、こんなの敬えない、と思うけれど。
「コーラありがと」
「どういたしまして」
 礼を言い、「さて」と修羅がゆっくり立ち上がる。「もうひとっ走りするから」、と言いかけたところに、我関せずとコーラを飲んでいた継理が急に眦を鋭くした。彼は上を向き、素早く立ち上がる。
「伏せろっ」
 その剣幕に、思わず身を屈ませる。
 次の瞬間、ザッと三人の頭上にあった木々が揺れ、それを飛び越える男の影が落ちてきた。
 男は、気味の悪い剣を持っていた。
 ふと見た、ニィと笑う顔が鳥肌を誘う。
「……今の」
 男が三人の頭上を越し、公園を通り過ぎた後。
 三人は呆然と、男の去って行った方向を見上げた。
「オレにも見えたよ、ツギリ」
 仰人が言う。
「コウトにも見えたって事は……少なくとも、肉体を持った奴って事か」
「あれ……、ウチの学校の先輩……」
「なっ」
 修羅には、かの男に見覚えがあった。古くから学園にいる生徒なら誰でも知っているだろう、という有名な双子の片割れ。三年の。
「ユキヤ先輩……」
 しかし、人間に、3m以上もある木々の上を渡り、飛び退っていくなどできるものか?
 あの不気味な剣も、また別だ。遠目から見ただけでぼこぼことした剣は、まるで鈍器のようでもあった。けれど、妖気を撒き散らし、存在を主張するそれは剣だと、はっきりと知覚できた。
「方向は?」
「学校の方だ!」
 地図を広げて、方向を割り出す継理と仰人。
 学校、と聞いて、修羅の顔が険しくなった。
「行くぞ!」
「……待って!!」
 走り出そうとする二人を修羅が牽制する。二人は振り返り、思い出したように修羅を見て言った。
「お前は家に戻ってろ」
「女の子には、危ない事させられないし」
「だからっ。待ちなさいよ!」
 じゃあ、とすぐにでも手を振っていきそうな二人を再度引き止める。きっと前を向き、二人を睨むように見つめた修羅の目は、強い意志に燃えていた。
「あんた達こそ、退きなさい。こっからは、一般人の関わることじゃないわ」
 継理が目を見開く。二人が姿勢を改め、修羅に向き合う形で落ち着いた。
「どういうことだ」
「……こういうことよっ!」
 修羅が言うやいなや、「うっ」と二人の身体が止まる。
 『力』を使わせてもらった。離している間に印を組み、緊縛の術を二人にかけた。
「学園を守るのが、私の役目だから」
 それでも仰人の方はすぐに金縛りから解けたようだった。継理にはどういうわけか上手いこと術が発動し、力を削げたようだ。継理がその場に膝をつく、その隙にローラースケートで距離を付けさせてもらう。
「悪いわね」
 学校へとひた走る道すがら、簡易な結界を施して、継理達が追って来られないようにする。
 修羅には自分の学園を守る役目も、そしてその生徒を守る使命も持っている。
 それが、理事長の娘として生まれた、修羅の役目だ。





 そろそろ、正午を回りそうな時分。二人の少女が、肩を並べてショッピングモールを歩いていた。片や、金髪碧眼の目の覚めるような美少女。片や、清楚な空気を漂わせた和風美人の少女。どちらも周囲の目を引く容姿を持っていた。
「あれ? なんか聞こえた?」
「ううん、なんにも」
 繭の問いに、横を歩く愛熾は首を振る。それから周囲を見渡して、笑った。
「まさか、健兄がついてきてたりしてね」
「えー」
 繭は笑って否定したが、実はありえない話ではない。家を出る時はその気がないようでも、後から「心配だったから」と出掛けた先まで赴いてくる時もある。出会った(見つかった)時の最初に口にする言い訳は「俺もこっちの方に用事があってよ」だったりするのだが、最後には「繭が心配だったからだ」と口を滑らすのだ。
「今日は健兄、暇そうにしてたけど……」
 彼に用事がない時が、一番危険だ。
 二人は一度立ち止まって、きょろきょろと周囲を見回した。
 ……それらしき人影は、ない。
 二人は顔を見合わせ微笑んだ。
「せっかくの水入らずなのに、健兄に邪魔されちゃたまんないわ」
「何か考え事してたから」
「健兄が考え事!?」
 驚く愛熾。繭は苦笑する。
「健兄だって、考え事する時はあるよー」
「まさか! どうやって悟られずに繭に付いていくか考えてたんじゃない?」
 なかなか、信用のない兄である。
「えーと」
 良い子の繭が微苦笑を浮かべて答えに迷っているようなので、愛熾はそれ以上健太について触れるのを止め、繭の手をとった。折角いないようなのだし、ここで噂でもして呼び込むつもりはない。
「喫茶店!」
 繭を引っ張るように駆け出して、愛熾は言った。
「おいしいって言ってたトコ!」
「……うんっ!」


 繭が友人から聞いた場所は、そのショッピングモールから少し離れ場所にあった。駅前の小さなビル群が続く通りを抜け、二・三分歩いた先にある。
 視線の先にそれらしきものを見つけた時。
「いやぁーッ」
 女の子の叫び声が聞こえた。
「待って」
 すぐさま方向転換した繭の腕を愛熾が掴む。
 このご時世、子供の叫び声などよくあることだ。ふと聞こえたとしても、なんでもない、ただ親の注意を引きたいが為に叫んでいる事も、遊びが昂じて興奮しているだけという事もある。
 しかし、繭は首を横に振った。
「行かなきゃ」
 直感が告げている。これは、正真正銘、危険に直面した子供の悲鳴だ。
 繭は愛熾の手を振り切り、走り出す。
 愛熾は舌打ちしたい気分でたまらなかった。どこをどうとったって、あの兄妹はああなのだ。おちゃらけてたり、冷静だったり、奥手だったりするけれど、結局は行動的で、弱者を見過ごせない体質をしている。
「待って、お願いっ」
 だが、進むにつれ、周囲の空気が暗く淀んできた頃、愛熾は今度こそ繭を引き止めた。
 繭は愛熾に責めるような視線を送る。しかし、これ以上、繭に進ませるわけには行かなかった。
「ダメ、この先は」
「なんで」
「私が行ってくるから!」
 陽は天中にあり、真上から二人を照らしている。影もない。それなのに、この暗い空気は。異質の存在を、愛熾に告げる。この先に、悪魔やそれに属するものがいるのだ。
 目を見開いた繭の肩を叩き、「お願い」ともう一度頼み込む。
「この先に、いるのは」
「愛ちゃん」
 認めたくなかった。繭を巻き込みたくなかった。
「ここで。いいえ、もと来た道を戻って、あの喫茶店で待ってて」
 私が奢るから。
 ……この願いは、伝わるだろうか。
「ダメ。愛ちゃん、私も行く」
 繭は分かっている。愛熾がこんなに拘るのは、『それ』関係の事なのだと。
 愛熾は痛いくらいにそれを知りながら、叫ぶ。
「繭が行ったって、何にもならない!」
 言葉に、繭は泣きそうに顔を歪めた。愛熾はそれでも、強い瞳を持って、繭を制止しなければならなかった。
「愛ちゃんだけ行かせるの、嫌!!」
 繭が叫ぶ。潤んだ瞳で、真っ直ぐ、愛熾を見つめる。
 無言の攻防があった。
 と、二人の間を裂くように、再び少女の悲鳴が響き渡る。
「いやぁああっ! おねぇちゃん……っっ」
 次の瞬間、愛熾にだけ分かる、獣の咆哮が耳を襲った。
 二人は同時に顔を上げ、どちらも構わず駆け出した。
「繭、私から離れないで」
「うん」
 せめて、と出した愛熾の言葉に、繭は素直に頷く。
 愛熾は携帯していたロザリオに手をやり、決意する。それから目を閉じ、口の中で祝詞を唱え始めた。


「大丈夫だから」
 漣は、自分の腕の中で震える小さな少女に語りかけた。
「ごままー、ごまごごまーごま?」
 更に少女の腕の中で、白い謎の物体が鳴いている。その言葉は分からないが、少女を心配しているように聞こえた。漣は……、いや、セイレーンはその様子が可愛く思え、ふっと笑ってしまう。
「そうよ、貴方はこの子を守りなさい」
 たまたま散歩に出た彼女が出くわしたのは、醜悪な悪魔が女の子を襲っている、そんなシーンだった。悪魔の狙いは、女の子なのか、それともその腕の中にいた謎の生き物だったのか、今では判断がつかない。とりあえずも、少女が白い生物を抱え、懸命に逃げ回る様子に興味が湧いた。
 だから、ほんの気紛れで、セイレーンは少女を助けようとした。
 風の魔法を使い、突風を起こして悪魔にぶつける。一瞬動きが鈍った隙に、セイレーンは少女と悪魔の間に割り入った。
 そこまでは良かった。
 しかし、少女を持ち、飛び去ろうとした瞬間、風が吹かなくなった。愕然としたセイレーンを悪魔が襲い、巨体から振るわれる棍棒の攻撃を避けられず、セイレーンの身体は後ろに吹っ飛んだ。少女が悲鳴を上げたのが聞こえ、セイレーンは自分のミスを悟った。
 そのまま、逃げても良かった。借り物の身体に傷を付けてまで、同族(こんな低俗なものと自分は同等ではないが)と戦いたくはない。
 けれど、少女の泣く姿がどうにも耐えられなかった。
 ここで見捨てたら、セイレーンの下で眠る『漣』の心は、またその扉を閉ざすだろう。そう、思った。
「……大丈夫よ」
 再び小さく声を出せば、声に風が宿るのを感じた。
 セイレーンは再び立ち上がり、階調を付けた声でもって、『唄い』始めた。
 立ち上がったセイレーンに、少女が駆け寄る。その横を突風が掠め、悪魔の巨体を叩く。醜悪な魔物はその歩みを幾分か後退させ、咆哮を上げた。


「セサミ、おねぇちゃんをまもって」
 アリエラが目をきつく瞑って言うと、白い謎の物体ことセサミは「ごまー」と(セサミなりに)力強く頷いた。セイレーンにしてみれば、気が抜けるような言葉だったが、セサミは本気だ。小さな眦(?)がきつく吊り上がる。
「……女の子を襲うなんて最ッ低ね」
 そこへ、新たに響いた声に、セイレーンは、はっと顔を上げた。
 悪魔を挟んで対岸に、二人の少女の姿が見える。漣と同じ年頃か、もう少し下か。金髪と黒髪の二人組みだ。
「貴方達、逃げなさい!」
 セイレーンは叫んだ。しかし、漣と同じ金髪の女の子は、冷や汗を浮かべながらも不敵に微笑み、否定した。
「できるわけ、ないでしょっ」
 そして、道端の石を拾い、大振りで投げつける。それは醜悪な悪魔の頭に命中上手く命中し、悪魔は彼女の思惑通りに、背後、彼女達がいる方向へと向きかけた。
「ダメよ!」
 セイレーンはその風を操る力を最大限に引き出し、あらぬ限りの声量を悪魔へとぶつけた。
「セサミっ」
 その時、アリエラの手からセサミが飛び出し、ぽよんっと高く跳ねて、魔物の頭に体当たりをかます。そのまま張り付いて離れない白い物体に、妖魔は視界を塞がれ、たたらを踏んだ。
 今のうちに。
「来てっ」
 金髪の少女が叫ぶ。セイレーンは、呆然とセサミを視線で追うアリエラを抱えて、魔物の横を走り抜ける。
 やがて、がむしゃらに動かされていた悪魔の腕がセサミを払い落とした時には、四人は既に、路地から逃げ出していた。
「セサミッ」
 セイレーンの腕の中、少女がしきりにその名を呼ぶ。
 だが、あの場はこうするしかなかった。
 あの間抜けた姿からはとても想像できない勇姿を見せてくれた謎の生き物の、最後に見た引き締めていたらしい顔が、心に残った。


 アリエラ、漣、愛熾、繭の少女達4人が去った後。
 醜頭の悪魔が突然、呻き声を上げて、膝をついた。悪魔は唸り声を上げ、もがき苦しみ、その雄叫びは次第に断末魔へと変っていった。
 ジュウッと強い日差しに水が蒸発するように、悪魔の姿が揺れ、掻き消える。
 その場に残るは、白い謎の生命体、セサミのみ。
 セサミは「ごままー」と一言だけ呟くと、アリエラの後を追った。





「あっ、セサミ~~!」
 今の今までぐずっていた少女は、「ごままー」と呼ぶ声を聞いた途端、ぱっと顔を輝かせた。
 セイレーンと愛熾は少なからず驚愕し、街路樹の茂みから顔を出した白い物体に目を瞬かせた。あの状況で、どうやって悪魔から逃げ出してきたのか。ともかくも、一時の戦友の生還に、二人はほっと安堵の息を吐いた。
「ありがと」
 と、アリエラの手に抱えられたセサミに繭が手を伸ばし、頭を撫でる。
「!」
 愛熾はあんぐりと口を開けた。
「繭、見えるの?」
「え、うん」
 「可愛いよね」なんてすんなりと言う。
 これにはセイレーンも驚いて、呆然と繭を見た。
「『悪魔』はヒトには見えない……余程、『ヒト』の方が見る力に長けているか、存在自体が強い悪魔でないと」
「悪魔?」
 掠れた声の告げた言葉に、繭は首を捻る。
「この子が?」
 四人の視線がセサミに集まる。セサミは「ごま!」と鳴くだけだ。
 確かに、このぷにゃぷにゃぽてぽてが……。
「セサミはセサミだって!」
 アリエラが元気に言う。三人はふっと笑みを漏らした。
「それもそうね」
「この子が悪魔なんて」
「でも訳分かんないのは変わんないけどね」
 セイレーン、繭、愛熾の三人は揃ってセサミに手を伸ばし、その柔らかな触感の頭を撫でた。この触感がたまらなく、良い。
「えへへっ、おねえちゃんたち、アリエラたすけてくれてありがとう!」
 そしてまた、無邪気に4歳のアリエラが笑うものだから、可愛くて仕方ない。
「あのねっ、おれいにアリエラのさんもんのとくあげるね」
 そう言って、少女が肩から提げた小物入れから取り出したのは、数枚の紙だった。良く見れば、割引券と書いてある。
「三文の得?」
「かーくんが言ってたのよ。はやおきはさんもんのとくだって。それは大事にもってなさいって言ってたの。おねえちゃんたちにも分けてあげる」
 割引券……。苦笑した三人だが、受け取った繭がその紙面を見て、声を上げた。
「あ、これ、あそこのだ」
「え」
 ほら見て、と書かれた店名は確かに、先程行こうとしていた喫茶店の名前が印刷されていた。
 繭と愛熾は目を見合わせ、うん、と頷き合う。
「折角だから、一緒にお茶でもしません?」
 繭が漣に向かって手を差し出す。セイレーンは二人の申し出に目を瞬かせたが、一瞬の逡巡の後、首を縦に振った。
「アリエラも?」
 セイレーンの手が、幼い少女の頭を撫でる。
「ええ。……奢らせて? 助けてもらったお礼がしたいの」


 そういえば、昼時だった。駅の外れの方にあるというのに、店は程よい込み具合を見せている。20坪ほどの小ぢんまりとした店だったが、照明の薄い店内の雰囲気は女性好みで、良い感じだ。
 空いている四人席に案内され、ランチメニューを見た途端、繭と愛熾のお腹が小さく鳴った。
 相手に、しかも見知った相手でもない人に奢りを宣言された身で、あんまり量を頼むのも居心地が悪い。しかし、朝からモールを歩き、その上先程の運動の後では、空腹は致し方ない。この後外に出てまたどこかに入るのもなんだし、という事で。
「おごりはいいですから」
 と断って、二人とも食べたいままに注文することにした。
「とりあえず、自己紹介からね」
「はい」
 どうやら年長者らしいセイレーンの言葉に、二人は頷く。
「私は漣=ミューズ=清。漣で良いわ。そこの源学園に通ってる。高等部一年よ」
 ファーストネームが先に来る氏名に、二人は少なからず驚いたが、そういえば、漣は愛熾と同じく艶やかな金髪碧眼を持ち、一目で日本人でないと分かる。愛熾のように、身近に同じような色彩がある為、二人はそれが違和感なく受け入れていた。
「あ、私と愛ちゃんも同じです。そこの学校の中等部の三年。私は斎木繭で」
「御使愛熾。愛熾でいい。繭も」
 ふっと小さく笑う愛熾。セイレーンは金髪の少女が活発そうな笑顔を浮かべているのを見ると、どうにも目を細めてしまう。それは眩しいようで、とても羨ましくもある。
「愛ちゃんに繭ちゃんね」
「はいはーい、わたしアリエラ! アリエラ=メディエ!!」
 最後に元気に手を上げたのは、最年少のアリエラだった。黒髪だが、良く見れば目の色が赤と蒼で、左右ともに違う。珍しい光彩だった。
「で、セサミ! セサミ、あいさつしなきゃめーなんだよ」
「ごまごままー」
 白い物体の前足らしき所を掴んで、アリエラがセサミに挨拶をさせる。
「良い子ね」
「妹じゃないのよね」
 愛熾が首を傾げて問う。同じ『横文字』なのでふとすれば血の繋がりがあるかと一瞬思ってしまうが、セイレーンは静かに目を閉じて、首を横に振った。
「いいえ、『私』もこの子とは初対面。さっき、あの場所で……」
 言って、目を開けた瞬間、愛熾と繭の視線にぶつかる。
 そう、この四人は先程の、あの場所で出逢った。
「あの……」
 言い淀む繭。彼女の言葉を代弁するように、愛熾が口を開いた。
「あれは、何なの」
「愛ちゃん!」
 言い方がキツい、と繭からのお叱りが来る。けれど、繭も聞きたかった事は同じだろう。愛熾が繭に視線を向けると、繭は困ったように下を向いた。
「分からないなら、いいんです」
 小声で繭がフォローを入れる。小さく畏まる黒髪の少女に、セイレーンは薄く笑った。
「悪魔、と言って信じるかしら」
 歌うようなセイレーンの声が、繭と愛熾の耳に届く。
「あの場にいたのは、人が悪魔と呼ぶ存在。人の世界に近い場所に住んでいる、人や獣とは違うモノ」
「さっき……、その子の事、悪魔って」
「そうね」
 セサミの事を視線で伺う繭に、セイレーンは頷く。
「ごまちゃんは、また別のものだと思う。少なくとも、悪魔じゃない」
 渦中のセサミといえば、机の上でぬいぐるみ然として、たれている。その緩みに緩みきった顔と、先程の醜悪な悪魔では、イコールに結ぶことは難しいだろう。
「なんで。あなた、なんでそんな事が分かるの?」
 愛熾がまっすぐな視線をセイレーンに送る。
 セイレーンは眉をわずかに上げ、咽喉の奥で逡巡する。そして、素直に告白することにした。
「私が悪魔だからかしら」
 これに、繭と愛熾の二人は閉口した。二人して面食らった顔をして、どこか間抜けに見えた。
 そこに先程注文した品が続々と届く。三つ個のコーヒーにミルクたっぷりのカフェラテ。繭はBLTサンド、愛熾はソーセージピザ。セイレーンは自分が取ったホットケーキを切り分け、アリエラとの中央に置いた。
「あなたが?」
 ピザに触れ、それを持ち上げる前にまた離れる。少し触っただけで油塗れになったような感触の指を、愛熾は備え付けのペーパーで拭いた。
「愛ちゃんは違うのね」
「当たり前……、っ」
 セイレーンの静かな言葉に、愛熾は怒ったように反論したが、我に返って、語気を緩めた。
「……ごめんなさい。私は生まれ付き、ああいったものが判るの」
「繭ちゃんも?」
「はい……。でも、私は、ほんのちょっとしか……。なんとなく、『いるな』ってぐらいしか判らないんです」
 小さく取り分けたホットケーキを、アリエラがフォークで掴み、口に運ぶ。甘いものを食べて、ご満悦のようだ。
 セイレーンは、ホットケーキを切り分けるだけでナイフを皿に置く。
「今、ここらへんはおかしな事になっている」
「なに?」
「おかしな結界が街を覆って、悪魔たちの力を奪っているの。大概の悪魔はヒトを食べて、わずかな力でも取り戻そうとしている。あの場所にいたのは、きっとそれね。少しでも頭の良い悪魔なら、『器』を探すわ。ヒトの肉体の中に入っていれば、結界は作用しない」
 どういうこと? 愛熾と繭の視線がセイレーンの口に集中する。
「人に取り憑くのを狙っているの。私のように」
「!」
「あ、あの……」
 愛熾の顔が強張り、繭は恐る恐るといった様子で声を出す。
「私は……、ここにこんな結界が張られる随分前から、『この子』の身体に『憑いて』いる。『漣』が身体を返してと言えば、返すわ。……この子、良い声してるの」
 あっけらかんと、屈託のない告白は、愛熾の怒気を殺ぐ。
 言う通り、『漣』の発する声はほどよく高く、心地よい発音をしていた。
「じゃあ、あなたは『漣』さんじゃないんですね」
 繭の問いにセイレーンは頷いた。
「私はセイレーン」
「善い、悪魔さんなんですね」
 微笑む繭の顔。愛熾はわずかに目を見開き、何か良いたそうにしていた。
 セイレーンは苦笑し、告げた。
「悪魔に善いも悪いもないものよ?」


続く

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