0-3.日曜(昼2):物語_1

最終更新:

abyssxedge

- view
だれでも歓迎! 編集

トップページ 0-3.日曜(昼2)

0-3.日曜(昼2):物語_1


 気配、というのは余程修行を積んだ仙人みたいな奴でもなければ、分からないのではないかと思うことがある。真っ当な人間なら、普通理解できない分野だろう。健太は高二の夏休みに『武者修行』をしたことがあるが、その修行でだって、力や技はともかく、感覚は鋭くならなかった。
 それでもどこか、兄妹の気配は分かるものだし、双子の不思議か、廉也の事はどこでどうしていようがなんとなく『判る』。
 悪寒ではなく、むずむずと皮膚の表面だけが痙攣してくる感覚。背中を急に誰かに逆撫でされたような、嫌な感触が全身でしている。動かそうとすれば、機能にそれほど差し障りはない。ただただ、おぞましさを感じるだけ。
 多分学校にいるのだろう、廉也に近付く度、それはひどくなっていった。
 これは、廉也の感覚なのか。
 学園の校舎を見上げて、健太はごくりと生唾を飲む。
「あ!」
 校門までたどり着くと、見知らぬ少女が健太を見て声を上げた。見覚えのあるような気もする。制服を着ていれば誰か分かったかもしれないが、あいにくと少女は私服姿だった。多分一年生だろう。顔が幼い。
「ケンタ先輩」
 健太にとっては見知らぬ少女、しかし、少女は健太を知っているらしい。まぁ、知らない後輩から声を掛けられることなんてよくあることだ。モテる男はつらいのぅ、なーんて脳内で考えてみる。
「どした? 今日は模試だぞ」
 ここは正門でなく、通用門。しかも関係者以外を拒むように半分閉じられている。開始からしばらく経ったこの時間に何の用があってこんな場所に私服姿の生徒が一人でいるのか。本来なら部活の生徒も誰も入れない状況だ。一年なら尚更、今日は関係のない日だろう。
 ファッションか、頭にかんざしを挿した少女は少々逡巡した後、健太を見上げて言った。
「ユキヤ先輩が……」
「ユキが!?」
 健太の怒声に、少女は一瞬びくっ、と身体を震わせる。まずい、気が動転しすぎた。健太はとりあえず、全身の力を抜いて、少女にぎこちなく笑い掛けた。
「めんごめんご。あー、ユキがどうしたって?」
 少女はあっけに取られた顔をしていたが、キッと顔を引き締めると、健太の眼を真っ直ぐに捉えて、何か、告げようとした。
 しかし。
「オ二人サン、ナニしてマスカー?」
 突然割り入ってきたその声には妙なイントネーションが付いていた。驚いて振り向く二人。中途半端に閉じられた門の柵に寄り掛かり、一人の女性がこちらに手を振っていた。明らかに染めたと分かる金茶の髪に、ピアス、ネックレス、指輪と、金物が多く並んでいる。歳は健太と同じくらいのようだが、どう見たって、学園の生徒には思えなかった。
「あんた……」
 知り合いなのか。少女が女性を見て瞠目している。
「どうしてここにいんのよ」
 怒気を孕んだ声。いきなり剣呑な態度をとる少女に、健太は少しビビった。少なくとも、友好的な関係ではないようだった。
 対する、女性の方といえば、嫣然と微笑み、余裕の表情を浮かべている。化粧も相まってか、少女よりは断然年齢が上に見えた。どちらかが好みかと聞かれれば、新たに現れた 謎の女性の方を選ぶだろう。ミステリアスな部分がまた魅力である。(それを口にしたら、繭と愛熾に呆れられそうだ)
「Oh! では、修羅サン。貴方ハ何してマスカ?」
 そんな現実逃避から我に返って、二人の動向を探る。とても居心地が悪かった。前門の狼、後門の虎……に挟まれたネズミ男の気分である。間男とも言うかもしれない。
「私がどうしてようが私の勝手でしょ!?」
「アウチッ。修羅サン、怖いネ~」
「馴れ馴れしく呼ばないで」
 どうにも、和解の道さえ閉ざす様子の少女。間男の居心地の悪さを感じつつも、見かねて、健太は身を乗り出した。
「はい、ストップ~」
 両手を胸まで挙げて、二人の視線の間に割って入る。ちらりと見た少女の顔が不満げに顰められるのが分かる。反対側の女性を見れば、これまたにやりとした表情を浮かべ、真意が掴めない。
「まぁまぁ、ここは公衆の面前だからね。お兄さんもちょっと困っちゃうからさ。ここは俺の顔に免じて収めとこうね」
「……先輩……」
 少女の口が尖る。軽く無視して、健太は女性の方を向いた。
「はーい、カノジョ。お名前なーにかなー?」
「ワタシ、デスカ?」
 大きい円らな眼が驚いたように開かれる。口元には薄笑み。
「アン=ノーンですヨ。名前がアンでファミリーネームがノーン、ネ。コレ本名。ホントホント」
 どうしたって外国人と見るには胡散臭すぎるのに、女性は英名を名乗る。まぁ、そこは突っ込まないでおこう。ハーフとかあるのかね、と健太は愛熾を思い出した。
「へぇ、まぁ、カワイイ名前なんじゃない。見たことないけど、ここの学生?」
「イィエ、違いマス」
「じゃあ、そんなとこいるとコワい鬼教師たちに注意されちまうよ? 遊ぶにしたって、今日はちょっとマズい日でね」
 ひょっとして模試を受けに来た……ということもないだろう。
「ま、関係者以外立ち入り禁止なワケだ。ゴメンね」
 言うと、アン=ノーンは少し考えるように指を顎にあてて悩み始める。さほどもなく、彼女ははっと今思いついたように顔を上げ、陽気に返した。
「ワタシ、関係者ヨ。修羅サンの……」
「……違うっ」
 即座に背後から否定が跳ぶ。思わず溜息が出そうになった。これが廉也なら一応場を任せて黙っててくれるのに。健太は肩を落としながら、頬を掻いた。
「おぉい、否定されてるぜ?」
「愛が理解されナイ。哀シイ事デスネ」
 飄々とした様子で目の前の女性が悲しむ振りをする。よよよ、と持たないハンカチでアン=ノーンは涙を拭く。
「……ケンタ先輩」
 後ろから呼び掛けられ、顔だけ振り返った。
 かなり不機嫌な顔の少女が睨み上げてくる。そんなにぶすくれてると、可愛い顔が台無しだぞー……、妹とその親友になら軽く滑る口も、初対面の女性に挟まれた状態では、言葉が咽喉で引っ掛かってでてこない。
「ユキヤ先輩。さっき、学校に向かってるのを見ました。すっごいおかしな様子だったんで」
 語気強く、吐き捨てるように言う少女に、健太は思わず肩を縮こませた。
 怒っている。とてつもなく。これは「関係のない奴が頭を突っ込むなっ」ていう意味でしょうか。つか、そうじゃないならなんだってんだ。
「ユキが……」
 苦々しく、健太は薄暗い校舎を見上げる。
 少女の言う言葉が、ただの癇癪だったら放っておく。とりあえず二人の間に居座って、この険悪な状態を少しでも宥める。しかし、少女の言葉には聞き逃せないものがあった。健太がここにきた理由は、廉也を追っての事。廉也が「おかしな様子だった」と言われて、じっとしていられる訳がない。
「ハイ、ケンタサン。ワタシ、ユキヤサン見まシタヨ」
「あ?」
 正面の女性をマジマジと見やる。
「コノ中で。案内しマスカ?」
「そりゃ……」
 何処で見たか、言ってくれれば。健太が言う前に、アン=ノーンは「部外者デスので、行ってみナイと分ッカリマセン」と制した。
 背後で修羅が眼を見開いて、疑いの眼差しをアン=ノーンにぶつけていたが、健太は気付かない。部外者なら、何故廉也を知っているのかも、その時健太は疑えなかった。
「それでは、修羅サン。残念デスガ、今日はホームに行けまセン……。パパにヨロシク、言っといてクダサーイ」
「……誰が!」
 少女が憤慨する声を聞きつつ、するりと腕に絡んできたアン=ノーンに引っ張られるようにして、健太は校門を潜る。
「……いいのか?」
 尋ねると、腕に身体を凭れる女性は妖艶に微笑んだ。


「ケンタサン、逞しィデスネ~」
「いやぁ、それほどでもあるけど」
「惚れちまいそーデスヨ」
 「そりゃ困るなー」と軽いノリで応答しながら、電気の消えた校舎内を歩く。試験会場から遠ざかるアン=ノーンの足取りに疑念が浮かぶが、健太はその腕を振り解く事はしなかった。
 模試が開かれていては、部活もない。生徒のいない中等部校舎は静まり返っている。
「ケンタさん、何してる人デスカ」
「俺? 俺は空手に柔道、古武術……まァ、色んなのやってるぜ」
 鼻の頭を掻いて、健太は答える。
「どうりで」
「んぁ?」
「戦うコト好きなヒト、『気』が強いネ」
「『気』?」
「根性、あるコト」
 根性。健太はがくっと肩を落とした。『気』だとか何とか気取ったこと言っておいて、最後には根性かよ。思わず顔を抑えて、呻いてしまう。
「なんだそりゃ」
「Oh! ナイス! ナイスツッコーミ! ボケとツッコミ、これぞニッポンの心ネ!」
「そうそう、日本の会話の約60%はボケとツッコミで成りたってっからなァ……って、違うだろ!?」
 平手の裏拳を飛ばしてしまう。それは見事なツッコミの形だったろう。
 アン=ノーンは陽気に笑った。純粋な笑顔を初めて見た気がして、健太は息を呑む。
 アンは腕からするりと抜け出ると、くるりと回って正面に躍り出た。そして、相対する健太を見上げた時、その顔には酷薄な笑みが浮かんでいた。
「ケンタサン、ユキエサンはこっちネ」
 視線で暗がりの奥を指すアン。
「それもボケのうちか?」
 健太は肩を竦めた。首を捻り、正面から腕を引っ張ろうとするアンの手を、身を引く事で離させる。アン=ノーンが残念そうな顔を作った。
「お誘いは嬉しいけどさ、今そんな気分じゃないんでね」
 ため息をつき、独り言に近い言葉を並べ立てる。
「こんな美人なお姉さんを前に、かなり損……てか、男の恥だろ、この状況。けどまぁ、廉也を探さなきゃなんねぇし」
 「しかも、ユキエって誰だよ」苦笑を浮かべて、健太。
「Oh! ワタシ間違ってマシタか?」
 悪びれもなく、アン=ノーンは愉快そうな顔で目を見開いた。薄ら笑いとともに頷く。
「さすが武人デス。ジョーカーもビックリね」
 ジョーカー? 何の喩えだ、と首を捻る健太を前に、アンが微笑む。
「ワタシ、貴方好きネ。ダカラ、特別ニ、面白い世界へ招待してアゲマス」
「だから、オイって……」
「こんな美人サンと『未知の世界へ』なんて、めっちゃ惹かれるフレーズなんだけどよ」
 頭の裏を手で掻く。まさに、据え膳を逃そうとしているような状況に、苦笑せざるを得ない。
「クスリやるより、高くトべるネ」
 なんだか物騒な事を言って、アンは手を差し伸べた。払い除けようとも思わなかったが、その手を取る気はなかった。だが、伸ばされた腕は、健太を誘うものではなく、何かを健太に導くものだった。
「ディッセティモール」
 最後に、それだけが聞こえた。
 瞬間、黒い吐息が廊下を包む。健太の視界が闇に染まり、耳、開けた口、身体中のどこかしこから何かが入り込み、身体を蝕んでいくのが分かった。
 それは学園に向かう途中に感じた不快感に似ていた。あれは皮膚の表面が嫌な感覚が奔るだけだったが、今、直に感じている感覚はもっとおぞましい。皮膚の下に、臓器に、細胞の一つ一つに黒の霧が染み込んでいく。
「うあああああああっ!」
 健太は悲鳴を上げる。
「漢なら、根性でなんとかするアルよ」
 どっか、国籍が違ってないか。それにツッコむ余裕もなく、健太の意識は闇に呑まれていった。


「うわああぁぁ……っ」
 聞こえた呻き声に、修羅は物陰から躍り出た。
 優しくて真面目な父を誘惑した女が、健太先輩にまで何の用か、と後をつけていたのだ。健太先輩も中等部に入った時点で気付けばいいのに、分かっているのか、誘いに乗るつもりなのか、他愛もない会話を繰り返している。
 男って、ホント頼りがない。
 途中で二人の歩が止まり、修羅は柱の影に身を隠した。
 そこに、健太の悲鳴である。
 廊下へと躍り出た修羅は、そこの一角、二人がいた部分だけがはっきり、闇に包まれているのを見た。闇、いや黒い霧だ。修羅は印を結びながら、走り出した。
 だが、修羅が駆けつける前に、黒の霧は収束するようにその全体を薄めていった。竜巻のような渦ができ、それらは一人の人間の身体に納まっていく。やがて急速に収束した霧が残したのは、呻く男の身体一人。
「先輩!」
 完全に意識を失っている。
 女の影はすでになく、健太は魘されるように、冷や汗を浮かべ、顔を苦渋に歪めていた。
「……あいつ」
 あの場にいたのは二人きり。先輩をこんなにしたのは、あの悪女以外考えられない。
 しかも、あの女。
『魔』の眷属だ。





 とにかくとても舌打ちがしたくなった。普段はしない。しないというか、やった事が無い。でも、最近ガラの悪い友人に囲まれて、癖が移ったように思う。いや、アスは舌打ちしない。それにガラも悪くない。シエ一人の癖だ。
「……くっそー」
 どこにいるんだ、奴等は。
 怜具は舌打ちする代わりに悪態をついた。同じようだが少し違う。
 走りを一旦緩めて、膝に手を置く。基本的に親友二人と違って怜具は肉体労働系じゃない。なのに、体格が良いというだけで、誰もが運動神経を期待する。体力バカのシエと一緒にするな。良くつるんでるからって、身体神経まで一緒なワケが無いだろう。と誰にともなく怒る。心の中で絶え間なく悪態をついていなければ、走り続ける事もできない。
 夏至の過ぎたばかりの太陽はほぼ真上から、陽光を降り注ぐ。
 こんな中で何処へ行ったかも判らない友人二人を探せ、という方がどだい無理なのだ。
 怜具は朝、四焉に直ぐに付いていかなかった事に後悔し、また、余計な事を口に乗せた自分を内心で責める。
 携帯を取り出してみても、着信はない。
 さっきから、気付いた時には『どこにいる?』『アスは見つかったか?』『居場所を言え』など、何度もメールで送っているが、返事が無い。四焉も飛鳥を見つけてないのか、それともヘソを曲げてどこかのゲーセンで時間を潰しているのか。念の為、家にも電話したが、誰も出なかった。
「……はぁ」
 肩で息を繰り返し、呼吸が大分落ち着いた頃。よし、と再び気合を入れて走り出そうとした怜具は顔を上げて、しかし、そこで硬直した。
「あら」
 頭を上げた怜具の目の前、顔と顔の見える場所。丁度、そこへ歩いてきていたのは、生徒会執行部、二年の六本木咲羅だった。
 咲羅は怜具の顔をまじまじと見る。
 怜具は気まずさに思わず硬直する。そういえば、今朝、廻さんから電話が掛かってきたような気が。そして、午後から生徒会の集まりがあると言われ、用事が済んだら出席する事を伝えなかったか。
「……獅子ヶ谷くん?」
 けして暑さからでない汗を掻きながら、怜具はのろのろと姿勢を正す。
「お、……おはようございます」
「こんにちは。貴方もこれから?」
 一緒に行く? と言外に誘いの言葉が入っている。
 怜具は空を仰ぎ、真上の太陽に溜息をつくと、おもむろに携帯を取り出した。四焉宛てにメールを新規作成。『生徒会で学校に行く。連絡くれ』と入力して、携帯を閉じた。


 責めているような炎天下の中、咲羅は憂鬱にため息をついた。道路を挟んだ向こう、通る日傘が恨めしい。手の平で目の上に屋根を作ってみるが、効果は薄かった。というか、手が疲れるし、こんな格好でうろついているのも怪しい。
 やっぱり止めて、素のままで坂道を上る。学校まで、あと少し。意味もなくコンビニの涼しい空気に当たりたくなったが、止めた。遅刻する。
 静かに嘆息しながら、ふらふらと歩いていると、目の前で元気に走っている男を見掛けた。背が高いシルエットはどこか見覚えがある。学校の生徒だろう。まぁ、学校の近くなのだし、休日に一人二人遊んでいても普通だと思う。休校のはずの学校に呼び出すような、非常識を通すお嬢様もいるわけだし。
 男子は咲羅の前方で急に足を止め、屈むように膝に手をつき、「くっそ」と怒気強く言い捨てた。尋常ではない様子だった。
 青春してるなぁ、とどこか遠い感想を抱きながら、前をゆらりゆらりと通り過ぎようとした咲羅だったが、不意に男子と目が合って、歩みを止めた。頭を上げた男子の顔には、確かに見覚えがあった。
「獅子ヶ谷、くん?」
 やがて身体を起こし、背筋を伸ばした彼に、確信する。女子にしては背の高い咲羅で目線が上向きになる長身、耳に三連ピアス。
 一年の生徒会準役員、獅子ヶ谷怜具だ。
 彼は肩で息をしながら、咲羅の方をじっと見つめてきた。何か、言い出そうとして言い出せない、そんな雰囲気だろう。もしか、と案じて、咲羅は首を傾げた。
「貴方も生徒会?」
「え、ええっと……」
 明らかに、彼は戸惑っていた。サボるつもりだったのだろうか。
 そういえば、真貴子からの連絡で、彼は用事があるけど、終わったら出席すると言っていたという。他の準役員全員、用事があると断っている中、唯一中途半端な言葉だ。しかし、所詮は用事があったと欠席になるだろうと踏んでいた。男子なんて、そんなものだ。
 彼はおもむろに携帯を取り出すと、何か打ち込んで、また仕舞った。メールか。それから、頬を掻き、一挙一動を静かに見守っていた咲羅に向けて微笑むと、横に並んだ。
「良かったの?」
「え」
「用事、あったんでしょう」
 怜具の歩みが一旦遅くなる。コンパスの長い彼はすぐに咲羅へと追い付いたが、答えはなかった。自己主張するタイプなのかと思っていたが、そうでもないらしい。
「……ホント、困るわよね。休日に呼び出しなんて。私もサボりたいくらいだわ」
「俺はサボるとは」
「他の子達がそうなの。結局来るのは樋坂くんと真貴子ちゃんだけでしょ」
「俺も行きますよ」
 拘って、後ろの一年は言う。咲羅は苦笑を漏らした。
 しばらくそのまま歩き、ふと、怜具が再び口を開いた。
「三年の人は」
「さぁ? 色々用事があるみたい。出席の義務がない人は楽ね」
「義務ですか」
 アスファルトの坂の上で、蜃気楼が揺らいでいる。目を細めて咲羅はそれを見、うんざりして溜息をついた。
「私、奨学生だから」
 学園側に奨学金をもらっている身分では、やたらと公儀の場に欠席できない。どんなに面倒くさかろうと、身内の不幸でもない限り、出席するのが義務だろう。日曜の夕方はバイトが入っていて、昼間は休んでおきたい。だが、いくら学園に許可を取っていると言っても、それを考慮してくれはしない。
 あのお嬢様も。
「あぁ、なんとなく、分かります」
「ホント?」
 斜め後ろからの相槌に、咲羅は疑わしげな微笑みを浮かべて見上げる。視線に気付いて、怜具が目線を下ろし、頷いた。
「俺も、特待生狙うくらいには」
「そうだったの」
 「でも」と自分から歩調を緩めて隣に並び、咲羅は長身の後輩を見た。
「実際、特待生になれてるんだから、凄いじゃない」
 咲羅は陽気に言って、視線を前に戻す。瞬間、つい、溜息が漏れた。
「羨ましいわ」
 咲羅も、中学までは特待生だった。成績こそ万年二位だったが、勉学だけに力を注いだ日野西に甘んじての事だった。その分、咲羅はスポーツもそこそこできたし、音楽も芸術も、センスはあった。だから、特待生でいられた。
 しかし、高校生に入ってからは、中学首席の日野西でさえその地位を譲る天野の存在、そして他にも様々な才能を持った者達の入学に、咲羅の存在は薄れた。価値と言えば、中学時にも生徒会を仕切ってきた事、そして同時に、一貫の強み、独自のネットワークを持っている事。しかし、それだとて、今、カリスマ生徒会長の和田忍がいる状態では、あまり必要とされることではない。
 一方、この後輩、獅子ヶ谷怜具もその経歴は華々しいもので、高校入学時に壇上に上がり、新入生総代になった人物である。その意味するところは、最優秀の成績をもって、入試に合格したという事。頭の良い人間なのだ。
「そういう割に、貴方は随分遊んでいるように見えるけれど」
「……まぁ、色々……」
 言いよどむ言葉は、咲羅の頭上で笑みに変わったようだった。気になって見上げると、彼は申し訳なさそうにこちらを見て、視線を逸らした。咲羅から逸れた視線は、咲羅の頭上を通り過ぎて、前方の、どこか遥か遠い所を見ているようだった。
「家がそうだからとか、そういう自分が望んだことじゃない要素で、今やる事を決める事、止めたんです」
「……」
 背の高い彼が、少し羨ましく思える。彼の視線の先を探ろうとしたが、咲羅には彼の高い視点がどこまで見渡せているのか、想像もつかなかった。前方上部を見上げているうちに、足元の石に躓きそうになって、咄嗟に俯く。
 視線を通常に戻して、咲羅は嘆息した。
「でも、貧乏なのはどうにもならないわ。ウチには妹も弟もいるもの、両親が働いてたって、私がバイトしなきゃ、授業料も払えない。遊ぶ暇はないの」
「……家族、多いんですか」
「弟妹だけであと四人いるわよ」
「凄い、ですね」
「欲しかったらあげるわ」
 冗談に、心底驚くような視線を投げかけてくる後輩。呆れた咲羅の眼に気付いて、すぐに苦笑に変えられる。
「いりませんよ。妹や弟なんて持ったことないから憧れますけど、今、それに近いようなのが二人、家にいますからね」
「あら」
「どうかな、奴らは兄弟ってより……」
 呟いて、彼は一人で考え込む。咲羅は息を吐いた。
「二人って、いつも一緒にいる?」
「あ、ええ……」
 問うと、彼は咲羅の存在を思い出して、話を続けた。
「あいつ等曰く、家出してるそうで。だったらどうやって学校通ってるのかって、あいつ等、なんか仕事してるそうなんですよ。何の仕事が知りませんけど」
「……随分とあやふやね」
 いかがわしいバイトでもしていて、彼は口止めされているのではないかと思う。なんと言ったって、彼の言う二人の連れは、頭を金に染めているのだ。あまつさえ、一人はふざけたような赤メッシュが入っているのだ。
 咲羅にとって、『遊び人』のイメージの最もたるものになっている。
「まぁ、でも、嘘じゃなさそうだから」
 上からこぼれてきた、あまりにも純粋な言葉に、咲羅は呆れた顔になった。
「騙されてるわよ」
「そうかも知れない。けどまぁ、先輩が今話してくれた話と同じくらい、俺は信用してますよ」
 言って、ふっと怜具は微笑んだ。
 咲羅はしばらく声を失い、その場では何も言えなかった。
 照れ隠しのように、歩を緩めて距離を開けた後輩と、会話する時期を逸して、そのまま無言で二人は校門まで歩いた。
 後々、思い返して、こう結論付ける。
「つまり、信用できないって事じゃないの」


「あそこにいるのは君の友達だろう?」
 不意に掛けられた言葉に、飛鳥は顔を上げた。
 低い企業ビルの屋上、誰も足を運ばず、濃い色の埃で黒くなった塀の上に、自分の他に一人、人が立っている。飛鳥と同じくらいの低い背の少年。色の薄い茶髪から覗くのは銀色の眼。
 一瞥し、飛鳥は何事もなかったように、ビルの下を歩く少年と少女に目線を戻す。
「ねぇ、アスくん。話し掛けないのかい?」
 くすくすと銀眼が笑う。飛鳥はそれに答えず、隣の建物の塀に移動する。
「つれないな。折角、君と話せるようになったのに」
 銀眼が言うと、飛鳥は視線だけ一瞬、銀眼を見やった。銀眼は口元を緩めて、一歩を踏み出す。すると、先のビルの屋上にあった筈の身体は、隣の屋根の上に移動した飛鳥の横に現れた。
 飛鳥が眼を見張る。真横で、銀眼は微笑んだ。
「瞬間転移。君の中にいる、悪魔も同じような力を持っているじゃないか」
「悪魔」
「そう、悪魔」
 やっと向き合った飛鳥に、満面の笑みを浮かべて銀眼は言った。
「まぁ、大体予想はできていたけど、悪魔だって、天使がいうほど無能じゃない。いや、ある意味、天使よりも裏道に通じている。肉体がなければ、人のものを奪えば良い」
 無表情に、飛鳥はしかし、視線を逸らさずに、眼前の異様なる銀の双眸を見つめている。
「けれど、それが一筋縄じゃいかない。現に、君はまだ、人の心、『八櫛 飛鳥』のままだろう? 面白いことになってきたよ」
 呼吸が入り、銀眼の会話が途切れた途端、飛鳥の眼は下に行く二人に戻った。二人は随分ゆっくり歩いていたが、それでも建物二つ分、離れてしまっていた。飛鳥は屋根から屋根へと超人的な脚力をもって飛び移る。銀眼はその後を追うように、残像を揺らめかせ、転移を繰り返した。
「どうして、話し掛けないんだ? 追いかけていたのと違うの?」
 銀眼は、移動した飛鳥に問いかけた。
 飛鳥は答えず、無表情に下を見ている。
「彼は、レグ、君の友達。合ってるよね?」
 頷く飛鳥。話は聞いているようだ。
「君の心は揺らぎが少ない。あまり考えてもいないんだろうね。君の心は今、悪魔が入り込んだことで大きく膨らんでいるけれど、実際、そこに入ってるのはまだ赤子のような感情だけだ」
 下の二人、怜具と咲羅は、上の二人の会話をよそに、何やら長い会話を繰り返している。
「きっと、前のままの君なら、俺と話しさえできなかったろう。ただ、自分の殻を開けてくれた人間の後を追うだけだったんじゃないかな。親鳥の後ろに付いて歩くヒヨコのように」
「……おれは……」
「君にとって、悪魔はプラス要素だったのかな。でも、気をつけないと、その膨れ上がった心の隙間を悪魔が支配してしまうよ」
 「お節介かもしれないけど、言わずにはいられない性格でね」と銀眼は嘯く。
 しばらくの逡巡の後、飛鳥は再び銀眼に向き合い、ひたと見つめて言った。
「おれは、ひよこじゃない。シエは違う、親鳥じゃない」
 銀眼が口角を吊り上げ、目尻を下げる。飛鳥でなければ、含み笑いの表情だと思った事だろう。
「おれはシエの仲間だ。シエがそう言った。だから、おれはレグを護る。おれもレグの護衛だから」
「なるほど、君は友達を追い掛けていたんじゃなくて、陰ながら見守っていたわけだ」
 飛鳥が頷く。
 すると、銀眼はふっと笑って、呟いた。
「じゃあ、いい事を教えてあげる。彼は学校へ行こうとしているけれど、今、学校には悪魔が集まってる。『生徒を守る』結界が張ってあるから、『生徒』が呼び込んだ悪魔に優しい状況なんだ」
「悪魔……」
「それを危険と取るか、取らないかは君の自由だよ。でも、余計だったかな。君がこのまま彼を見守り続けるなら、彼に害を及ぼす悪魔はもちろん片付けるんだろう?」
 少々の思案の後、頷く。
「大丈夫。悪魔の殺し方を知らないくらい。君は人間の殺し方は知っているんだよね? とりあえず、取り憑いてる人間を殺せばいいんだよ」
 そうすれば、悪魔の行動は一時的に抑えられる。
「どうしても悪魔を殺したくなったら、君の内側にいる悪魔に話し掛けるんだ。そうすれば、答えが返ってくると思うよ」


続く

トップページ 0-3.日曜(昼2)

ウィキ募集バナー