アマネオ

今すぐ水族館へ行こう(1993年夏)

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amaneo

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水族館のお手伝い急募!!
業務:餌やり、水槽掃除、事務など
条件:高校生以上・泳ぎが上手・身体が丈夫
給与:時給900円〜
時間帯:9:00〜18:00のうち4時間ほど。土日は終日だが、応相談。
連絡:名呑町・雨多ノ島水族館(××××―××―××××)

 ひっそりした商店街にひっそり張り出されたバイト募集の小さなポスター。日焼けした女子高生がそれに目をとめた。
「泳ぎが得意」
ナツはブツブツと呟いて、手帳を開く。それからサウナのようにじっとりとした熱気の中、歩き出した。

 詰め襟のカナメは雨多ノ島へ行く渡船に乗っていた。生温い潮風がスポーツ刈りの頭を撫でていく。カナメは高校生になってから、ほぼ毎日放課後に一人で水族館に行く。何をするでもないが、水槽を行ったり来たりする魚を見ているのが好きなのだった。
「カナちゃん、あの水族館はヤバいって。来た人間をよくわからんモノに変えちまう実験をやってるんだ」

 友達のヒノスケは半ば冗談でそう言っていた。カナメは海を眺めながら、「たとえそうであっても」と思う。
「そんな夢みたいなことが起きてるなら、見てみたいけどな」

 ナツは家に帰り、着替えた。イヤホンをつけ、口笛を吹く。
「おかーさん、ウチちょっと出てくるけん!」

 泥だらけのスニーカーを履くと、駆け出していく。渡船で水族館前に着くと、受付のお姉さんに話しかけた。
「あの、先程連絡したアルバイト希望の者ですけど」
「ああ、それでしたら裏口の扉から地下へどうぞ」

 裏口には関係者以外立入禁止と書かれた鉄の扉がある。奥に進むとナツの身長ほどもある実験用水槽が並んでいた。見るからに強固で厳重な水槽には自らの触手に巻かれ過ぎて本体がわからないもの、目や口や手足さえないぷるぷるしたピンク色の塊などが入っている。

 そうした水槽に囲まれるように、白衣を着た太めのおばさんがいた。シワの寄った頬が持ち上がり、笑顔になった。
「来たわね。あなたがバイト希望の?」
「ハイ! 竹内夏音です。みんなからはナツって呼ばれます」
「そう。ナッちゃん、私は館長の弓子。ユーミって――よく呼ばれてたわ」

 ユーミは淋しげな目をして言う。
「仕事は簡単。あなたには」

 じろじろとナツを見る。
「収益の計算や餌やりをしてもらうわ。主に事務ね」
「あの、ウチ、水泳部で泳ぐの得意なんで」

 ユーミは目を丸くした。
「水槽掃除の方をやりに来たんだ? へえ〜。結構体力使うから女の子は難しいかと思うけど。それに女の子には他にちょっとした服――ツナギを着てもらう仕事があるしね」
「ウチ、計算とか苦手です。動物に餌やるのよりは掃除してたいです」

 ユーミはそれを聞いて深く頷いた。ナツのやる仕事が決まった瞬間だった。

 カナメは学生証を受付に見せた。名呑高校の学生は無料で水族館に入ることができるのだ。入口脇には錆びたイルカのプレートが建てられ、「海の生き物に触れ合おう! ※イルカはいません」と書いてある。

 カナメはいつものようにタカアシガニの水槽を過ぎ、この水族館最大の目玉である円柱水槽へとやってきた。壁にもたれるように座る。
銀色イワシの群れが反射して輝き、見上げるにつけ水の色が白くなっていく。時折ウミガメがカナメに挨拶するようにゆっくりと旋回していった。
「海の生き物っていいよなあ」

 目を細めて深呼吸する。と突然、カナメはガラスに手をつき食い入るように見つめ出した。
「ナツ?」

 パンフレットが手から落ちる。小学校以来、話すことのほとんどなかった幼なじみのナツが水槽を降りてきたのだ。

 競泳用水着だったが、キラキラを一身に浴びて天上からやってきたように見えた。彼女は気づく様子もなく水をかいて泳ぎ始めた。館長はカナメの隣に来て、落ちたパンフレットを拾いあげた。
「試しに潜ってもらったんだけど。カナちゃん、あの娘ここで働くってよ。君もこない?」

 カナメは視線を一切逸らさず、魔法にかけられたように固まっている。
「いつも来てるし、この水族館の勝手がわかるでしょ。それに、働いたらここの秘密を教えてあげるわ」

 カナメは何度も頷いたが、姿勢は少しも変えなかった。やがてぽつりと呟いた。
「――ヒノスケ。水族館が人間を別の何かに変えるって? そうだな。まるで人魚だ」

 青い水槽の中、ガラス越しに魚たちと戯れる彼女を見て、カナメは胸を抑えていた。