アマネオ
The Unnamable,Unspeakable;Nothing(1991年)
最終更新:
amaneo
開館時間の迫る雨多ノ島水族館。二人のスタッフがいそいそと餌やりから帰ってきた。今日は開館後、受付係をしつつ各水槽のモニタリングをしておくだけだった。二人は受付に礼儀正しく並んで座る。
「そういえば、どうして『僕』って呼び始めたの? マンガとかアニメとか?」
ユーミは、おもむろにポテトチップスの袋を開けた。
「おい、仕事しろよ」
隣のタマキはイスから前屈みになって、傍に置いた小型モニターを眺めている。
「あんただってソレ、ツナギのモニターでしょ」
タマキは無視して優雅に泳ぐツナギを観察して何やらメモをとる。
「ったく、都合が悪いと黙ってるんだもんね。ひたすら黙ってればそのうち飽きると思ってるんだ? そうは問屋がおろさないわよ。何故なら仕事をしてない点においてあなたと私は平等に悪い、つまり責任の所在はフィフティフィフティで――」
タマキがため息を吐いて、手をのばしてポテトチップスを食べた。
「わかった、わかったから。で、何だって」
「タマキが『僕』になったわけ」
椅子を回転させ、タマキがユーミに向き直る。受付席は狭く、身体が近いせいでユーミは照れてしまい、まっすぐタマキの顔を見ることができない。
「僕らは『僕』と呼ぶことを自分で決めた。僕は四歳くらいで親が死んで、ある川沿いの孤児院――養護施設にいたんだ。そこはもう火事のせいでなくなってるけど」
ユーミの手が止まった。タマキは、気にするなというように軽く手を振る。それから両手を白衣のポケットに突っ込んだ。
「五歳くらいの頃だった。あるゼロ歳の赤ん坊が施設の前に捨てられていた。無許可のちょっとおかしな養護施設だったから特に何事もなく拾われて、戸籍もな
いまま育てられた。そいつには名前がなかった。性別もよくわからない。今でも何と呼べばいいのかわからない。ただ、腕に抱かれて子守歌を聞いてるそいつ
は、かわいかった」
ユーミは手についたポテトの油を人差し指、親指と舐めとる。指先に少しだけ口紅がついた。
「性別がわからないってどういうこと。名前なんてつければいいでしょうに」
タマキは眉間に皺を寄せ口を開いた。が、また閉じて考えて言う。
「そいつの裸を見た人間は黙った。何を見たのかは知らない。今じゃ焼け死んでるから聞き出すこともできないな。そいつはいろんな人間から与えられる名前を拒否した。結局、そいつは『そいつ』とか『あれ』とか『それ』としか呼ばれなくなったんだ」
タマキはモニターの中のツナギを見た。それから、その元となった名前のない生物「それ」を思い出す。どこかへ消えてしまった「それ」。
――この世には「呼びようもないもの」が確かにあるのだ。陳腐な名前をつけて人間の価値に貶るのをためらってしまうような。
「五歳くらいになり、男にも女にも属さず、戸籍も責任もしがらみもないそいつは、やたらと自由で浮世離れしてたよ。でも淋しがり屋で、必ず誰かが傍にいないと泣くんだ。よくわからないが、カリスマがあった。施設にいる大人やこどもは皆がそいつを好きだった」
ユーミはピンときた。
「その人も『僕』って呼んでたんでしょ」
「そう。特に僕はそいつに心酔してたな。しかしあれは強要でも真似でもなかった。そいつは言った。『自分で自分をどう呼ぶか決める。まずはそれが大事なんだ。僕は今から自分のことを僕と呼ぶ』」
突然タマキは自嘲気味に笑い出した。白い顔の目元は陰になっている。ポテトの油でグロスを塗ったような唇の先だけが目立つ。
「以後、僕はなんとなく使ってた『私』をやめて『僕』にした。ま、そこにいた全員が一人称を『僕』に変えてしまってたんだが」
ユーミは笑えずに、頬杖をついてタマキの唇を眺めていた。
「で」
「でって、それだけ。僕は理系の成績が良いのを見込まれて、十歳くらいで買い手がついた」
タマキは手元のレポートに絵を描いた。不定型なツナギの身体をうまく捉え、アニメ調の大きな瞳をつけた。
「引き取り人、でしょ」
「世の中的にはね」
ユーミはそれ以上聞くのが怖くなり、黙った。横でさらさらとペンの滑る音がする。
突然ポテトチップスを二、三枚まとめて掴み、無理矢理タマキの口に押し込んだ。
ボリボリ。
「何だよ」
ユーミは受付の机に突っ伏した。
「それにしても、客が来ないわ」