アマネオ
カナメロ(2001年)
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amaneo
凪いだ海のただ中で、ボートが慌ただしく揺れている。
「ナツ、ナツッ!」
ボートの上でカナメが焦っていた。手元のディスプレイを揺らして叫ぶ。しかし無情にも、ナツの視界をトレースして表示するはずのそれは暗黒に黙して何も語らない。
「くそッ。ああ、もう。俺は何をやってる。何でこんなことに」
夕暮れの海は石油でも混じったように暗くなっていく。カナメは今にも降り出しそうな空の下で、ボートの縁を殴って天を仰いだ。
雨多ノ島水族館の地下、立入禁止区域には海に面した入江がある。ナツは岸辺で海に脚を投げだし、ツナギの頭を撫でていた。ツナギは粘液にまみれた触腕をにゅるるっと彼女の腕に絡ませる。
バリバリとガムテープを剥がすような声で、戯れに言うナツの単語を復唱した。
「ぬれねずみ」
「ヌ、ブデズム」
ナツは笑顔で、ツナギの腹部にある裂け目に指を挿しこみ、ぐちゅぐちゅと水っぽい音を立ててかき混ぜる。ツナギは嬉しいのか苦しいのか、喚くような声をあげた。
「おいあんまり変な言葉覚えさすなよ。連絡取りづらくなるんだから」
白衣を着たカナメがやってきた。連日の研究で無精髭が出ている。ナツをちらりと見るが、無表情にボートに乗って準備を始めた。ソナーやその他計器の確認をしながら言う。
「ナツ――まだツナギ着なくていいから服着れ」
触腕は全裸のナツに絡み付き、褐色の肌に汁が流れていく。二十五歳の身体は、ゴージャスな海外モデルにも引けをとらなかった。ナツは屈託なく笑った。
「誰もウチの裸とか興味ないやろ」
「お前は伊豆の踊り子か」
カナメは、興味なくなくなくなくなくなくはないが、と心中で呟いた。ナツにタオルを投げ、イヤホンをつけて無線のスイッチを入れる。
「こちら瀬戸内カナメ。こちら瀬戸内カナメ。聞こえますか」
「聞こえ――もっ――おおきな声――」
音がぶつ切りにしか聞こえない。
「もしもぉし! こちらカナメ!」
「うるっせーよ阿呆! こっちゃ二日酔いなんだ」
野太い声が離れたナツのところまで響いた。カナメは顔をしかめてイヤホンを耳から少し離す。
「すんません」
「今日の仕事は、深度千二百メートルの調査な。潜行ポイントはPCの方に送ってある」
事務員の黒川は面倒そうな声を出した。
「そこに何かあるんスか」
「よく知らねえが、ツナギの元になった生物『それ』が見つかった場所なんだそうだ。ようやく政府からの調査許可がおりたって館長が喜んでた」
「ああ、例の――」
カナメはボートを指差し、ナツに乗り込むように指示した。エンジンをかけ、櫂を使って押し出す。無線がガサガサとビニール袋を擦るような音を立てた。
「こっちに面倒が起きないように処理しろよ」
「まあ、大丈夫スよ。俺はともかくナツは天才なんで」
横で聞いていたナツはわざとらしく「うへへ」と言いながらカナメにじゃれつくが、頭を押されて戻された。ボートは水を裂くように進んでいった。
十数分後、周囲には何の目印もない潜行ポイントに着いた。ナツの身体にツナギが膜を張り、内部が溶けて幼稚園児ほどの大きさまで小さくなる。それから急に膨張して数十本の触手をうねうねと踊らせる人間大の「ヒトガタ」に変化した。
カナメはモニターを確認すると、合図を出した。ナツはずるりと紺色の海へ入っていった。ボートにはナメクジが這ったあとのような粘液が残った。
「よし、水中で生体受容器と尾ビレを出すぞ」
「あい」
カナメがタッチ操作でディスプレイを弄ると、ナツの両足がくっつき魚のように流線型になった。エラ呼吸に変化する。また、傍目にはわからないが無線が出
す音波をキャッチできる機構が脳内に作られた。ナツは勢いよく左右に水を蹴る。海面からの白い光が射し込んで、大小の魚たちの影が見えた。
ナツはあっという間に深度二百メートルを越える。そのころには、光は海面の一パーセント程度しかなくなる。ここから先は深海と呼ばれる場所。ナツの足元に青い闇が待ち構えていた。
「浮袋、大丈夫なん」
海上のカナメは、ナツの泳ぐ速度に合わせて、ツナギを変化させる命令を出している。各深度に適応した生物の浮袋を、そのつど遺伝子操作の命令で作り替えて用意しているのだ。
「今更聞くなよ。大丈夫じゃなかったら、浮袋が潰れてユーはショック! お前は既に死んでいる」
数秒の沈黙。
「ああ、そう」
「ここからはその身体でもヤバイし、ちょっと太らせるからな」
カナメはツナギを構成している成分のうち、コラーゲンを外皮に集中させた。見た目には、目も口もないプルンプルンしたピンク色の肉塊になった。深海生物シー・ピッグ(海の豚)と呼ばれるセンジュナマコに近い造形だった。
「目指すのは名呑海溝、千二百メートル地点だ」
泳ぐというよりも、静かに落ちていくように更なる深みへと向かっていく。カナメは忙しく数値の微調整を繰り返しながら、ツナギと同じ機構の生体音波器を使い無線の可聴域を高めた。やがて海溝千二百メートル地点へ到達する。完全に黒一色になり腕の先も見えない。
ナツはぼんやりとした闇の中を一人でおちていく。途中で嫌になろうがどうしようが縦横半径一キロは海水で逃げられないという圧迫感。カナメには耐えられそうもない。
「宇宙飛行士ってのは、こんな感じかもしれんね」
肉塊になったツナギから二つの目が現れた。そこから赤い光が放射される。
「なんかウチの目が光っとるんやけど」
「オオクチホシエソの遺伝子だ。その辺りに穴があるらしいんだが」
ナツは海底峡谷の横肌をなぞるように探していく。光を当てると、物体の凹凸に応じて影が踊るように動いた。恐怖を煽る光景だったが、ナツは何も言わず、 それどころか軽快に作業を進める。小さな光だけでは頼りないので、触手を長く延ばして丁寧に触っていくと穴が見つかった。
大人一人がやっと入れる穴から激しい水流が出たり入ったりしている。
「なんか――怖い」
「ナツがそんなこと言うのは珍しいな。水流が出てるってことは、この穴は地上まで繋がってるんじゃないか?」
「でも名呑町にそんなとこがあるとか聞いたことないよ」
躊躇して行こうとしない。迷っていると、カナメがリラックスさせるように気の抜けた調子で言った。
「戻ったらカツカレー奢るから、もうちょっと行こうぜ」
ナツは少し笑うと、その言葉に乗るような形で穴へ入っていく。背後に蝙蝠とタコを混ぜたような軟体動物がいたが、二人は気づかない。
穴は急激な角度で上方に向かっていた。カナメは再度細胞の調整を繰り返していく。壁面を見ながら、二人は驚いていた。
「ウソだろ」
それは壁画だった。大部分がフジツボの類で隠れていたが、明らかに人為的なものだった。
「人間がいたとして、ここが海に沈む前だろ? 一体何年前の話だよ」
壁に刻まれているのは、蝙蝠の頭からタコのような触手が大量に出ている化物だった。ひょろ長い二本脚の生物たちの上位に描かれている。
「これは人間か。海に沈む前ってことは、ここは元々山だったのかもな。今、ナツは山を登ってるってことなのか」
「カナメ、ウチがなんか怖いと思ったんはこれのせいかもしれん。壁の絵。これ、見たことある気がするんよ」
ナツの背後に軟体動物「それ」が張り付き、背中部分のコラーゲンを触手の先にある爪で破き始めている。
「ああ、それ俺も思ってた。名呑町のゑびす像に似てるんだよ」
カナメは壁画を映し出すモニターを眺め、一人頷いた。ナツの声を待つ。
「や、ウチは夢で見た気がするんよ。えらい怖い夢で」
そこで急に海上のモニターが消えた。暗い画面に、疲れた男の顔が映っていた。カナメはうんざりした表情で自分の顔から目をそらし、落ち着いて呼びかける。
「ナツ?」
呻き声だけが聞こえた。
「大丈夫か!」
「多分『それ』が来とる。あの壁画みたいな。モニターのところ壊」
音声まで途切れた。
「ナツ、ナツッ!」
海上でカナメはモニターを揺らす。二人が経験する初めての事態だった。カナメの頭には責任問題やらが駆け巡り、嫌がるナツを無理に行かせたことを思い出した。
「すぐに復旧するかもしれないしな」
水族館に連絡すると自分が怒られるに違いなかった。しかしディスプレイを見て一瞬でその考えは激しい自己嫌悪に変わった。ツナギの表皮コラーゲン量がみるみる減っていた。おそらく攻撃されているに違いなかった。
カナメの体が動いた。
「水族館、誰か応答してください、お願いします!」
数秒の判断ミス。数十秒の沈黙。取り返しのつかない事態。永遠の別れ。カナメは考えるだに脳みそが焼き切れそうだった。
「くそッ! ああ、もう。俺は何をやってる。何でこんなことに」
「何が起こったの」
館長ユーミの声がした。
「ナツの連絡が途絶えました。『それ』に襲われたみたいです」
ユーミの顔から血の気が引いた。脳裏に蘇る恐怖を必死で抑えながら声を張った。
「見たら体勢を立て直せるまで全力で逃げなさいって前に言ったでしょうが! PCは?」
「生きてます。映像と音が聞こえません」
「今すぐプラナリアの遺伝子から自己再生、同時にヌタウナギの分泌物を出して」
カナメは言われた通りにするが、指が震えてしまう。
「あとは?」
「祈るしかないわ」
深海のナツは、失敗したつみれのようにホロホロと崩れていた。「それ」は容赦なく中を喰い破ってくる。ナツは自分ではツナギを変化させられない。今の肉 塊形態では動きも遅く逃げられない。できるのは、表皮コラーゲンに潜っている「それ」を自分の身体ごとちぎって振り払うことしかなかった。
「それ」は一旦離れるが、すぐにやってくる。コラーゲンの無くなった箇所から、激しい水圧がかかる。こんなことをしていても、時間の問題だった。
「大丈夫。大丈夫。すぐにカナメは何かやってくれる。ウチは天才やないけど、カナメは天才なんやし」
ナツは自分に言い聞かせながら、神経を尖らせて待つ。
「カナメが何もせず負けを認めることは絶対無い。ありえん」
すぐにツナギの肉が沸騰するように再生し始めたが、「それ」の動きの方がまだ速い。同時に分泌されはじめたヌタウナギの粘液が、半分水に溶けたような「それ」を固めていく。今度は煮凝りのようにして「それ」を突き放した。
「ホラ、カナメはやっぱりなんとかした」
海上のカナメは時計とディスプレイを見つつ、深度数値からツナギの浮袋を操作する。ナツの状態を想像しながら、ほとんど勘が頼りだった。雨が降り出したが、既に計器類にはビニールがかけられている。カナメの白衣にはじっとりと水が染み込み、前髪から水がぽたりと落ちた。
ボートは小川を行く笹舟のように揺れた。
「完全再生まであと七分――」
完全再生は即ち通信環境の復活を意味した。また左手でボートの縁を殴った。指から血が滲む。
「『それ』があんなことで止まるわけがない。このままじゃすぐ追いつかれちまう!」
ナツは来た道を全速力で戻っていた。浮袋のことを考えるが、もたもたしていても死ぬだけだった。穴の入口に差し掛かったところで、ナツは小さく「いかんかもしれん、ね」と自嘲気味に呟いた。
外には「それ」が五、六匹いた。
後ろからも一匹、粘液を解きながらではあるが来ている。ツナギは勝手に浮袋を組み替えられ、身体が浮かんでいく。カナメの仕業だった。これ以上隠れることもできず、ナツは一か八か飛び出した。
ツナギはこれまでにない危険な速さで浮上していく。
カナメは瞬きせず、次々に浮袋を作り替えながら同時に不必要な肉を切り離し「それ」にエサをばらまいた。
「完全再生まであと五分」
ツナギは気圧の変化に耐えられなかった部分から崩れていく。現在深度千メートル。少しずつ黒から濃紺へと風景が変化していく。ナツが足元を見ると、「そ
れ」らは異様な速度で上がってきていた。コラーゲンが剥げた部分から出てきた尾ヒレで叩くが、決定的なダメージを与えられない。
「あと三分」
カナメはとりつかれたように血走った目をグルグル動かして操作する。
館長ユーミは水族館で祈っていた。
「お願い、ナッちゃん達を助けてあげて。タマキ」
急激に濃紺から青へと変わっていく世界で、ナツはどこか落ち着いていた。自分は死なないだろう、何故かわからないが頭のどこかでそう確信していた。
「それ」は触手を胴に巻き付け、ツナギの腕へ噛み付いた。上皮部分が外れ、無数の触腕が姿を現す。ナツはそれを使って追い払おうとするが、とらえられず逆に噛み付かれた。
「あと一分」
「それ」は頭部触手に隠れた牙で、ツナギの腕を噛んだ。触手はスルメのように細長く水中に裂け広がり、「それ」らが群がった。ナツは覚悟した。
「クソが。腕くらいやるよ。多分死なんやろ」
しかし、噛み付いた「それ」たちは動かなくなり、暗い海底へと落ちていった。
「ナツ、ナツッ!」
ようやく通信が戻った。ナツは不思議な気持ちでカナメに言う。
「――やあ、久しぶり。さっきのは何が起きたんかね」
「ああ、無事か。良かった! その前に謝らせてくれ。ナツが怖がってたのに行かせた。俺の判断ミスだった。しかも責任とか考えて連絡が遅れたんだ」
カナメは自分を殴り倒したい気持ちで一杯だった。
「えっと。ウチもカナメがちゃんと助けてくれないかもって思っとったし、同じやないかな」
「同じじゃねえよ!」
「じゃあ、とりあえずカツカレーをおごってもらおうかい」
ナツは次第に白くなっていく海を見ながら続ける。
「で、さっきのは何」
「カツオノエボシの触手だ。触れた瞬間に毒が回って痺れる。毎年死人が出てるくらいだ。別名電気クラゲ」
「えらい危ないもん使いよったね」
ようやく水面を突き破ってツナギが姿を現した。ボートの上に乗ると、脈動するツナギの腹が裂け、ナツがどろりと出てきた。
「ナツ、悪い。いっそ俺を殴ってくれ」
ナツが立ち上がる。雨で身体から粘液が洗い流されていく。カナメは膝をついて俯く。ナツはそっとその頭を撫でた。
「顔上げて」
カナメが言われた通りにすると、ナツは思いっきり頬を叩いた。二十五歳の男は吹っ飛んで海に落ちた。
「カナメが納得いくように叩いとく。でもウチも考えて、カツカレーの取引に乗ったってことを忘れんでね」
泳いでボートの端につかまり、カナメは息も切れ切れに言った。
「了解した――ナツ、もう絶対こんなことはないからな!」
ナツはため息を吐くと、カナメに手を貸して引き上げる。雲間から赤い夕陽が差し込み、海と二人を染めていた。