東京発始発列車は薄暗い夜明けの東海道を西へ。
富士鏡里駅という聞いたこともないような小さな駅に着く頃には、
すっかり陽も高くなっていた。
地図の支持通り、富士雲海交通バスというこれまた聞いたこともないバスを探す。
何もない駅前に1台のバスがポツンと停まっている。
運転手はハンドルにしがみつくようにして眠っている。
「すみません。富士大和田木立前に行きたいんですけど」
「あ?ああ、木立前ね。へっへっへ。通るよ」
運転手は額にくっきりと寝跡の付いた顔を上げ、意外と快活な声で答えた。
一郎は最後部の座席に座った。他に乗客は誰もいない。
「そろそろ行くか。へっへっへ」
運転手は車内放送用のマイク越しにボソボソとつぶやくと、エンジンをかけた。
バスはどこまで行っても、たった1台きり。
一度も停まらず、一郎以外の客は誰も乗ってこない。
もう山をいくつか越えた。進めば進むほど、あたり一面、山、山、山。
「へっへっへ。ほら、あれ。すごいでしょ」
初めての車内放送。運転手は一郎に背中を向けたまま、右手のほうを指している。
雲海だ。眼下の山間に真っ白な雲がびっしりと敷き詰められている。
東方から降り注ぐ陽の光が広大な白に映えて反射する。
「へっへっへ。すごいでしょう」
運転手はまるで自分のことの如く誇らしげに話す。
「雲の上にいるんですか?」
「そうだよ。雲の上、雲の背中だよ。普段は腹しか見てないでしょ、へっへっへ」
雲の上の世界。初めて見た。窓にぴったりと頭をくっつけて眺めてみる。
「この辺からあの雲の中に落っこちた車とか、あるらしいよ。へっへっへ、すごいでしょう」
(いっそ落っこちてくれてもいいんだけどな)
吸い込まれそうな白をずっと見ていた。
「お客さん、着いたよ。へっへっへ」
車内放送で目が覚めた。
「帰りのバスは夕方の6時頃だから。じゃ、気を付けて。へっへっへ」
「ありがとう」
もう帰らないから、とは言わずに、礼を言ってバスを降りた。
降り立ったところはひどい霧がかかっている。
遠ざかるバスの後ろ姿はあっという間に霧がくれ。
振り返ると、大きな木がぽつんと立っている。これがバス停の目印らしい。
その木立から富士山の方角へ向かって、道が伸びていた。どうやら辺りは草原らしい。
キョロキョロしていると、突然、甲高い声が聞こえる。
「先生、あっち、先生、あっち」
声の方角を見るとペンキ塗りの立て看板。
その上には見たこともないような大きな鳥がとまっている。
「先生、あっち、先生、あっち」
声の主はこの鳥だった。
「ああ、すっかり眠たかったな」
今度は立て看板の足元の草むらから、牛のような声がするや否や、大男がムクっと起き上がった。
大きな鳥は大男の肩へ飛び移った。
一郎は恐怖を覚えてかすかに震えた。
「昨日、先生のとこ電話くれたな?」
「そうだけど。あなたは誰ですか?」
男はそれには答えず、木立から伸びる一本道を指して言った。
「じゃあ、この道まっすぐ行ったらいいな」
にやにやしながら、目はずっと宙を泳いでいる。
「ありがとう」
「じゃあ、俺はまたずっと眠るな」
言うと男は、鼻唄を歌いながらバスが向かっていったほうへ歩き出した。
「先生、あっち、先生、あっち」
鳥のやかましい声と大男の鼻唄がゆっくりと遠ざかる。
木立から続く道にかかっていた霧は少しずつ晴れていった。