(テロップ:京都府・長岡京市)
(タイトル:「信仰体験シリーズ」)
(タイトル:幸せの交響詩(シンフォニー))
(テロップ:日本新薬㈱開発企画部・部次長 瀬戸英助さん 圏壮年部長)
京都の製薬会社に勤務する瀬戸英助さん。昭和31年に入社。薬作り一筋に歩み、現在、開発企画部の次長として新薬の開発・研究に打ち込んでいます。
最近、東京勤務から京都本社に再び転勤になった瀬戸さん。その引っ越しに、東京から駆けつけた、次男の勲さんを交え、団らんの花が咲きます。
(テロップ:妻・麗子さん 地区指導長)
(テロップ:次男・勲さん(27才) 公務員 男子部班長)
(テロップ:長男・健史さん(30才))
昭和36年、瀬戸さんは紹介者の熱意と真心に打たれ、本当に崩れることのない幸せを築けるものかどうか、真摯に仏法を求めてみようと、日蓮正宗創価学会に入信しました。
麗子「光陰矢の如して言うけど、月日が経つのって早いねー。」
そして今日まで、瀬戸さんと家族は信仰を根本に、数々の人生の苦難を乗り越えてきたのです。
(テロップ:昭和44年11月 発病9日前)
(テロップ:小学校4年 健史くん(10才))
英助「あれ、昭和44年の11月ですよね。長男に、あの蕁麻疹ができましたね。それを町の保健所に見て、行って診てもらったらですね、すぐなんか注射かなんか打たれたらしいんですけどね。それから帰ってきた後に、子供がぐったりしてきましたね。あの、なんかもう元気がなくなってきたんですね。で、手を握ると、手に、力がありませんしね。で、もう立たせる。立たせようとすると、もう足に力が入らないし、クラゲみたいにグニャグニャになりましてね。で、慌てて家内が、あの高槻の大阪医大に連れて行ったわけです。」
麗子「で、病院に連れて行ったらね、もう先生がすぐ入院しなさいって言ってね。で、いろいろ検査、検査、検査でね。あの、脊髄に穴を開けてね、脊髄の液を取ったりね、本当。でもね、で、あの大人でもね、その脊髄に穴を開けて、液を取る時はね、ベッドから飛び降りるんだって。だけどね、じっと我慢してね。で、それを耐えてね。で、あの、まあ、闘病生活に入ったんだけどね、あの時ね、私ね、本当ね、あのーお医者さんがね、検査検査してもね、原因は分かりませんって言って」
英助「入院した時にはですね、手にも力が全くありませんから、物を握ることもできませんしね。もちろん立つこともできませんし。で、こうして座ってることもできないから布団に寄りかからせるんですけど、それでも手を離すとゴロンって首変わるんですね。当時としては、あのSMONがちょうど流行りかけたんで、SMONではないかということを言われたり、あるいは、神経の病気です。ギラン・バレー症候群ではないかということ言われて。大学病院に入れられたわけですね。医者が、治療の方法がわからないと。お気の毒ですけども、元通りになるかどうかわかりませんということを言っている時に、ああそうだ、自分が人生何があるかわからないと、いうことも考えて自分が入信したんではなかったかと。で、このご本尊様にかけてみようと。で、医者がダメと言うならね、ご本尊様にかけてみようと、気がついたんです。でそれからは、ま家内も私も、それから次男もですね、一生懸命やって題目あげましたし、一家総出で題目あげていきました。」
麗子「夜中の1時、2時ね、参じて、涙流しながらね、題目をご本尊様の前でね、あげてるのを見てね、本当に、私もね、お父さんと一緒にね、この信心でね、なんとかね、変毒為薬してね、そしてみんなにね、こんなになりましたっていうね、その日をね、みんなに見てもらう。そのためにね、私たちはね、信心してたんだって。このことにね、会うために私たちはね、信心してたんだなって私も思ったの。」
現在の医学の力ではどうすることもできない。再起不能と宣言された健史君。ご本尊にかけるしかないという両親の必死の思いに、健史君も真剣な唱題に励むようになります。よくなりたい。でも、どうなのか。幼い心が不安に揺れ動いていきます。
麗子「ある時、もう母さん、僕はもう死ぬかもわからん。もうこのまま死ぬかもわからんぐらい、自分、今、あのー、ものすごく辛いって、あのー、苦しいってこう言ったんですね。で、あ、そうかって私言ったんです。と、お母さんね、自分の息子がね、あの、今ね、死ぬっていうのにね、お母さん、どうして泣かないのって。お母さん、どうして泣かないのって言うんですね。だからね、お母さんが泣いてね、たけしが助かるんだったら、お母さん、この病院中ね、轟き渡るようなね、大きな声でワンワン泣いてやるよって。お母さんが泣いたからってね、お前が助かるわけじゃないって。お母さんがね、お前にしてやれるね、最高のことがね、例え1回でもね、お前のために題目をあげることなんだ。だからお前もね、息の根が止まるまで、題目をあげなさいって。あげながらね。ご本尊様に引き取られるなら、引き取られなさい。それがね、お母さんがお前にしてやるね、最高のことなんだ。」
未だわからない治療方法。薬の激しい副作用。けれども家族が一丸となって懸命に唱題。やがてかすかに光が差し込むように、少しずつ体力が回復。どうにかリハビリテーション治療を始めることができるようになりました。
麗子「リハビリの先生がね、私と一緒に、あのー、登らせて、そしてその足を動かすー、まぁ訓練をするんだけど、こんな治療法しかないんですかって言ってね、先生に言ったら、もうこれしか今ね、みこm、ありませんって。で、じゃあもう家に帰ってね、ご本尊様のあるところでね。ええ、しっかり題目上げさして、」
英助「そうだ、そうだね、」
麗子「で、まあ、うちの近くで階段があるとかあるんだから、あの歩道橋でね、あのー、リハビリさせたらいいと思って。
英助「そう。」
(テロップ:昭和45年1月 退院して3日前)
新たな年を迎えようとしている12月31日、担当医と相談の結果、自宅療養に唱題とリハビリ、そして固く熱い家族の絆。
(テロップ:神足小学校前歩道橋)
その生命のリズムはさらに回転を増していきます。
英助「退院してからはもう本当にあのう、ご本尊の前に座って。題目を唱えてですね、やっぱり人目がありますから、あの子供が恥ずかしがりますのでね、あの表連れて出れませんから、夜になってもう11時、12時になりまして、でーあの、家内と私と、それから次男で、あの両脇、後ろをこう支えながらですね、あの、歩くの怖がるわけですね。で、それを、あの支えながら、くじけそうになるのを励まして歩かせて、歩道橋を一段一段こう上がりましてね。 毎日、あのー訓練しました。それから家内も一緒にこのプールに入って、あのー、重りをつけて、あのー、リハビリをやったりですね、そういうことをずっと続けていきました。それでもう徐々に徐々に、歩けるようになり、また指に力が入ってくると、いうことになりましてね。これは、治るかもしれんぞちゅう自信が湧いてきましたね。それでまた題目をすることに対する確信が湧いてきたわけです。」
家族全員の唱題にも力が入り、健史君はわずかずつではあるけれども着実に回復。やがて授業も受けられるようになり、無事小学校を卒業。
(昭和45年5月 退院して5ヶ月)
池田先生の作られた、創価学園で勉強がしたいという武君。本人の強い希望で47年、東京創価中学校に入学します。
(テロップ:創価学園当時の健史君)
英助「やっぱたけしがね、創価学園に行ってね、僕は正解だったと思う。っていうのはね、小学校卒業する時、まだロボットみたいな歩き方してたでしょう。で、こんな体でいけるのかなと思ったんだけども、あの学園に入ってから先生が折々にね、学園に来られて。であの、寮生なんかみんな集めてね、あの肩組んで一緒にテニスをされたり、一緒にジュースを飲んだりしてね、激励されたでしょう。で、あれがものすごく、やっぱりこう、健史の支えになったね。で、もう本当なんか先生に育てられたというか、それであの、なんか、中学校卒業する時に足がもうほとんどわからないぐらい治ったでしょう。で、それと、あの学園の先生にお願いしてね。体が悪いからって言って、体操とか外してくださったら困りますって。同じようにやらせてくださいってお願いしたでしょう。」
麗子「うん、自分もね、そのそういう他の人と一緒のことがやりたいって言ってね。」
英助「もう学園に入って明るく回復してってね。でもみんなとのびのびやってる姿見てね。よかったなと思ったよ、僕。」
(昭和54年11月3日(創大)クレイトン大学留学の出発3日前)
創価高校を卒業し、念願のアメリカ留学を控えた54年11月、思いがけず池田先生から激励を受けたのです。
英助「君の未来はね、前途はようようとして開けているよと。で、後輩のために頑張って来てくださいと、まあ激励してくださいまして。で、私たちも、あの題目を送ってますよということをおっしゃってくださいましたね。本当にあの、握手をしてくださいましたけども、その時の本当。手の感触、うちにまだ残ってますね。」
(テロップ:クレイトン大学)
子供の頃からの夢だった医学を学び、英語を自由に話せる国際人に育つために、健史さんはアメリカ・ネブラスカ州のクレイトン大学に、後に続く後輩のために道を開こう。
(テロップ:1987・5月 クレイトン大学を卒業)
(テロップ:「医学博士」の学位を取得)
健史さんは池田先生の励ましを胸に、優秀な成績で医学博士号を取得。大学を卒業します。現在、武さんはトルーマン・メディカルセンターの神経内科クリニックの研修医となって3年。
(テロップ:トルーマン・メディカルセンター)
(テロップ:神経内科クリニック)
「自らの闘病の中から生まれた患者の痛みを知る医師として、病気で苦しむ人たちのために一生を捧げたい」という夢は、今、現実のものとなったのです。
健史「僕は両親を見てて、本当にあの、僕以上に辛い思いしているというのはよくわかりました。やっぱり口と態度ではね、あの、僕を励ますために、あの、なるべく涙を見せたり、あるいは辛いことを僕の前では言わないように努力しているっていうのがよくわかりました。だけども、その、と同時に両親がね、本当にその信心を通して大きな病気を、その、乗り越えていこうっていう気持ちを僕にも一生懸命伝えようとしているのが感じられましたね。」
健史「Good Morning!!!!!!!!!」
アメリカの地で、男子部副本部長として振興に励み、自らを高めています。
健史「池田先生のその思想を持った一人として、やっぱり、あの、世界平和のためにですね、貢献していける人材になっていこう。ことあるごとに先生がおっしゃったのは、社会の中での一流の人材になっていきなさいと。それを強く、まあ今も、心にあのー、刻んで、それを自分のモットーとしてですね、頑張ってるんですけれども。」
(テロップ:立命館大学名誉教授 足立政男氏)
足立政男「わたくしは、この聖教新聞を仲立ちにして、ええ、瀬戸さんとお知り合いになっても長いんですが、瀬戸さんはやっぱり子供を立派に大きくされて、ええ、世の中にお出しになったって、これは偉いもんですわ。積善の家に余計ありっていうようなことがあるけどね。それはs、瀬戸さんの徳を積まれた、その徳の延長線上にご家庭があるんだと、私はそういうふうに思いますよ。」
英助「まぁ池田先生が、よく言われるんですけども、自分を乗り越えていくような、自分より素晴らしい人間を作れということをおっしゃってますし、私が個人的にそう偉くなること、もちろん大事なことですけれども。その私を乗り越えて、私以上の子供がまた後に続く人ができなかったらですね、私の考え方、やってきたことだから嘘だと。私はそう信じるようになったわけです。幸い自分が信心しているから、このご本尊様の力を借りてですね、そこをやらせてやりたいということで、子供たちはのびのびと私は育てたつもりです。ですから、本当に信心して、また池田先生に巡り合って良かったなと思うんですね。御書に書かれていることが、やはり私の、まあ人生の本当の至難だという御所があり、またそれをわかりやすく指導してくださる池田先生がおられてね。で、あの、あちこち回り道せずに今日に来たということに本当にもう感謝しています。」
人生の試練の坂を不屈の祈りで乗り越え、尽きせぬ感謝の思いをかみしめる瀬戸さん。「現代の、激動の時代こそ、本当の知恵を必要とする時代だと思います。そのためには真実の信仰を持つことが大事です。」と力強く語り、今日より明日へと生き生きとした日々を歩み続けます。
(タイトル:幸せの交響詩)
最終更新:2026年02月27日 19:58