VOD(SOKAチャンネル)版平成の宗教改革第二部です。DVD版は
こちら。
基本的な流れはDVD版と同じですが、大きな違いとしてはDVD版第二部にあった「日顕宗の実態」が第四部として再構成されていたり、原田稔現会長による新規撮りおろし(台詞は変わらず)映像が追加されていたりします。
また、SOKAチャンネルでの配信に伴い、一部の言い回しや表現の見直し、学会関係者へのインタビューシーンが削除されていたりとDVD版と見比べてみると違いが分かって面白いですよ。
第二部 三代会長の宗教改革
(富士山をバックに)
三代会長による宗教改革
創価教育学会設立
昭和5年11月18日、(日蓮)大聖人の仏法を基調にした教育改造を目指して、創価教育学会が設立された。
初代会長は牧口常三郎(まきぐち・つねさぶろう、1871~1944)先生。
戸田城聖(とだ・じょうせい、1900~1958)理事長との二人の活動から始まった学会は、
やがて仏法を根本とした公宣流布(こうせんるふ)の団体へと発展していった。
しかし、日本は国家主義・軍国主義の道をたどり、やがて戦争へと突入していく。
昭和14年には、宗教団体法が可決。国家による宗教統制が加速した。
(昭和)16年には、思想・宗教弾圧の法律である治安維持法が全面改正され、戦争遂行への思想統制が強化されていく。
そして、太平洋戦争が始まった。
学会の機関紙「価値創造」も翌17年廃刊に追い込まれる。
一方、軍部政府による弾圧を恐れた宗門(日蓮正宗)は、大聖人の教えさえ曲げて軍部にオモロッテ(おもねって)いくようになる。
この時代には不都合とばかり、大聖人が「末法の御本仏」としての確信を述べられた御文(ごもん)を中心に、御書の一部を削除した。
また、戦争を賛美する訓諭(くんゆ)を発し、戦意を鼓舞するとともに、信徒には伊勢神宮を拝むよう徹底させている。
こうした状況の中、牧口初代会長は、特高警察の監視の下、2年間で実に240回を超える座談会を開催し、正義を悠然と語り続けた。
宗門はこうした学会の行動が弾圧の理由になると、昭和18年6月、牧口会長に登山を命じ、神札(かみふだ)を受けるように申し渡した。しかし、牧口会長はそれを拒否する。
(牧口と戸田のイラスト)
「神札は、絶対に受けません」
下山の途中、牧口会長は戸田理事長にこう語った。
「一宗が滅びることではない。一国が滅びることを、嘆くのである」
「いまこそ、国家諌暁(こっかかんぎょう)の秋(とき)ではないか。なにを恐れているのか」と。
そして戦争はいよいよ激化していく。
7月6日、牧口会長と戸田理事長は、治安維持法違反と不敬罪の容疑で連行される。
牧口会長の子息、洋三さんの夫人、故・金子貞子さんは翌日面会に飛んで行った。
金子貞子「玄関から入ってこうらせん的なこう階段だったんですね、
まわりにけっこう人が、警察の関係の人が立ってました。
あぁそれでその中でね、(感極まりながら)
あの『決して心配することはない』っておっしゃってね、
んで、『信心だけは怠ってはいけない』という、
大きな声でね、私に向かっておっしゃいました」
登山停止
末寺の参詣禁止
慌てた宗門は我が身に累が及ぶのを恐れ、登山停止・末寺の参詣禁止という処分を下し、牧口会長らを切り捨てた。
警視庁で特高の取り調べが始まった。牧口会長は当時72歳、尋問は約2カ月半に及んだ。
牧口会長は検事に対し堂々と「立正安国論」を引き、軍国主義の誤りを述べ、仏法の正義を語っている。
のち、巣鴨の東京拘置所に移管され、3畳の独房での闘争が始まる。
一方、宗門は軍部政府に迎合し続ける。
全国の末寺に神札を祀るよう指示を出し、本山では戦勝祈願の唱題会も行っていた。
まさに大謗法(だいほうぼう)にまみれた姿がそこにあった。
昭和19年10月13日、獄中からの便りが(牧口の)絶筆となる。
その末尾に、こう記されている。
「これゆえ三障四魔が奮起するのは当然で、経文通りです」
そして、約1カ月後の11月18日、東京拘置所にて牧口会長はその偉大なる生涯を閉じた。
(「ブレードランナー」っぽいサウンドと米軍の空爆)
昭和20年7月3日、豊多摩刑務所から戸田第2代会長が出獄。
獄中にて法華経をみで読み、地涌(じゆ)の菩薩の使命を自覚した戸田会長は創価学会の再建、日本の広宣流布に一人立つ。
生涯の願行(がんぎょう)として「75万世帯の折伏」を宣言した戸田会長は、本格的な弘経拡大に駒を進めた。
広宣流布の開始にあたって、戸田会長が真っ先に行ったことは、御書(ごしょ)の発刊であった。
戸田会長は、生前こう語っていた。
「牧口門下は教学がないから退転した」
戸田会長を深く信頼していた、宗門の碩学・堀日亨上人(ほり・にちこう、1867~1957)の監修を得て、御書発刊へ向けての作業は進められていく。
しかし、戸田会長と堀日亨との信頼関係と学会の前進を妬んだ宗門は、御書編纂の聖業を黙殺した。
日蓮正宗改革同盟 故・渡辺慈済氏「いや、あれは学会がやることだから勝手だよ。宗門には関係ないよっていう…。
御書を出すんだからっていえば、少なくても10人や20人の手伝いを教学部の方からまわしてくるのが本当でしょう。
それをしなかったところに、やっぱり教学部の狭さっていうか、
その一番のもとはやっぱり阿部日顕なんだよ。教学主任なんだから。
最後の最後まであれですよ、堀上人を苦しめたんだから」
戸田会長は戦時中、牧口会長を死に至らしめた宗門への怒りを生涯忘れなかった。
(『価値創造』11月号「牧口先生」より)
「先生の法難に驚いて先生を悪口(あっく)した坊主共よ、
法を捨て先生を捨てたる意久地無共よ。
懺悔滅罪(ざんげめつざい)せんと欲すれば
我等が会に来たって先生の威風を仰ぎ、仏の御訓(みおしえ)に随順すべきであるぞ。」
会員が各家庭で朝晩の勤行(ごんぎょう)をするようにしたのも戸田会長である。
それは、民衆が聖職者に騙されることなく、自立して信仰の実践を始めた「宗教改革」であった。
創価学会 原田稔 会長
「一人一人があー地涌の菩薩の自覚をして、
で、勤行唱題をする。そして折伏をして、
その使命に基づいて、で、
大聖人の仏法を、おー実践し、世界に広めていく
その上で自分も師匠とともに戦おうという、このうねりが起こって
世界192ヵ国・地域にまで広がってきました。
それが我々の宗教改革です」
(♪威風堂々の歌)
昭和35年5月3日、池田先生が創価学会第3代会長に就任。
戸田第2代会長の意思を継承して、広宣流布(こうせんるふ)の陣頭に立つ。
ヤングテチャク「若輩ではございますが、本日より戸田門下生を代表して、
化儀(けぎ)の広宣流布(こうせんるふ)を目指し、一歩前進への指揮を
執らさせていただきます!」
(拍手)
この第一声の獅子吼(ししく)から、学会の新たな前進が始まった!
(昭和35年10月2日 初の海外指導へ)
(飛行機のタラップでドヤ顔で手を挙げるヤングテチャク)
そして、恩師の遺言であった世界広宣流布への一歩を踏み出す。
(旧ソ連 コスイギン首相(1904~1980)や中国 周恩来首相(1898~1976)とテチャクの握手・会談映像)
師匠・戸田城聖会長の願行を一身に背負ったその戦いは、全世界を舞台にしての広布の胎動を開く壮絶な戦いであった。
同時に、真の僧俗和合を目指して宗門の外護の赤誠(げごのせきせい)を貫く。
これにより宗門は未曾有の発展を遂げていく。
(昭和47年10月 正本堂建立)
昭和47年10月、全世界800万信徒の真心のご供養によって公布の殿堂たる正本堂が完成した。
しかしこの頃から、宗門の学会に対する、反学会感情が浮き彫りになってきた。
原田稔 会長
「世紀の殿堂である、あのー正本堂が完成した折にね、えー正本堂完工式という、盛儀が行われまして
で、そこにえー世界各国の大使や公使などの外交団や、日本の各界の著名な方々が多数
来賓として参加してくださいました。
で、かつ池田先生は世界的に活躍されるような、そういう時を迎えております。
そうした池田先生の存在に、間違いなく宗門は嫉妬心を抱いた。
そしてまた、あれだけ素晴らしい正本堂を建立したという、
そういうことについてその、創価学会の底力をある意味でコンプレックスを抱いた。」
(不穏な音楽)
この、反学会感情を利用し金儲けを企んだ男がいる。
山崎正友。
学会出身の弁護士でありながら学会に対し、億単位の恐喝を行い、懲役3年の実刑判決を受けた男。
昭和50年頃、学会が静岡県富士宮市に建設した墓苑の建設計画を巡って、
山崎は地元の有力な実業家と癒着、土地ころがしやリベートを受け取ることによって、巨額の裏金を手にした。
金儲けに味をしめた山崎が考え付いた策略は、宗門と学会を支配すること。
宗門の権威を使って学会を操ることができれば、大金を得られるという妄想に取り憑かれた。
原田稔 会長
「山崎正友は、あのー池田先生があのー、小説『新・人間革命』正義の章において
山脇友政(やまわきともまさ)というふうに彼のことを書いておりますけれども
要するに彼は、宗門側には反学会感情をあおるような情報を流す。
宗門側には『自分が参謀役になって、学会と宗門の関係を収めますから』と、
このように宗門を言いくるめて、懐に入り込む。
で一方、学会に対してはそんなことまったく知らぬ存ぜぬの顔で、
えー『宗門との関係は私がやりましょうか』という風にしゃしゃり出てきた。
このようにこの人物はもう極めて、このえー稀代の、まあペテン師と言ってもいいし
マッチポンプ。マッチポンプというこの、通途(つうず)な表現では表現しきれないぐらいの
ま大変な謀略そのものの男だと。」
山崎は信者からの告発を装った謀略書簡を宗門内部に持ち込んだ。
それは「学会が宗門支配を企んでいる」とのデマ文書であった。
さらに山崎はマスコミを利用し、度重なるデマを流すことで、宗門に学会への不信感をあおりたてる。
山崎のマッチポンプ手法に撹乱された宗門の反学会感情は全国の末寺にも飛び火していった。
原田稔 副理事長
「数多くの坊主たちが、
あの彼が流布したデマを掲載した週刊誌を振りかざしながら、
『創価学会では成仏できない』
とか、あるいは、
『創価学会を脱会しろ』と。『そうしないと葬儀に行ってあげない』
とか。あるいは、あまつさえ葬儀の場で、
『学会員は地獄に堕ちる』
だとか。ま、とんでもないことを、この、えー言い出しました。
まぁ池田先生があぁ『新・人間革命』正義の章でも書いて下さってますけれども、
そういうこの、えぇ悲惨な状況が全国各地からあのー、報告が入ってまいりました。」
(随筆 新・人間革命「嵐の『4.24』」断じて忘るな!学会精神を より引用)
「私は苦悩した。 ――これ以上、学会員が苦しみ、坊主に苛められることだけは、防がねばならない。」
昭和54年4月24日、どこまでも広布のため、僧俗和合を願い続けてきた池田先生は、第3代会長を勇退、名誉会長となった。
(テロップ:随筆 新・人間革命「昭和54年5月3日」獅子となりて我は一人征く)
「学会伝統の総会も(中略)宗門の"衣の権威"の監視下、管理下に置かれたような、異様な雰囲気であった。
しかし、私を見つめる同志の目は真剣であった。
体育館を出た直後、渡り廊下を歩いている私のもとに駆け寄って来られた、
けなげな婦人部の皆様との出会いは、今も、私の胸に深く、くい込んで離れない」
その後、池田名誉会長は神奈川文化会館へと向かう。
そこで名誉会長は『正義』の文字をしたためた。
「われ一人正義乃旗持(たも)つ也」
そしてただ一人、反転攻勢への戦いを開始したのである。
創価学会 大場好孝 副理事長
「『指導してはいけない』『先生と呼んではいけない』『先生の写真を載せてはいけない』。
そういうことをー…まぁ理不尽な要求が出されておりましたんで、
先生は『指導をしていけないのならばあぁー…記念撮影をしよう』と。
それから『話してはいけないというのならばピアノを弾いて激励しよう』と。
それから『会合で話してはいけないというのならば、家庭訪問しよう』と。
こう言われて先生は、あー、実行されました」
(テロップ:神奈川・静岡合同協議会)
「神奈川文化会館の前から、海を見つめて、
これからの全世界の指揮を執ろう!
そう決意していたのである」
(扇子を持って踊るテチャク、座談会で語りかけるテチャク、竹田城址で学会員を激励するテチャクの映像インサート)
(テロップ:随筆 新・人間革命 「我が闘魂の勝利城・立川」)
「もう一度、新しい創価学会をつくり直す覚悟で
(インサート:後にニコニコで発掘される「美味しそうだねー!」と言いながら創価学園の生徒にもんじゃ焼きを手際よく焼くテチャクのお宝映像)
一人、また一人と、同志を励ますことから始まった
私は、徹して同志のなかに飛び込んだ
会うこと、それ自体が戦いであり、一瞬一瞬が真剣勝負であった」
卑劣な坊主や反逆者をものともせず、池田名誉会長と会員の絆はさらに強靭なものとなった。
名誉会長のこの戦いがあればこそ、嵐に揺るがぬ不滅の師弟の城は築かれた。
(雪の中で学会員の皆さんと一緒に右手を高く掲げる、白いコートを着たテチャクのお宝映像)
第二部 完
最終更新:2026年10月10日 18:29