コラム

【もくじ】



文章によるキャラクター表現で使っている手法羅列

※思い出し次第追加

論文の手法
①結論や、表現したいことを定める。
②それに関する資料や経験などの根拠を提示して、プレゼンする。
③ことあるごとに「小さな結論」を出していき、そのたびに議論(物語)を前に進める。
④これを繰り返して最後の「大きな結論」を目指す。

「こういう経験をしたし、こう思ったから、こういう結論を出したんだ」という手法です。
資料というのは世界観とか設定とかです。
そして、結論を、いかにもそのキャラクターらしいものに寄せていきます。

破綻や停滞を防げます。

個人的美学の放棄
「正しい日本語」などないように、言葉は変わり続けています。
キャラクターの整合性も、最低限整っていれば、実はあまり気にされていません。

自分の美学(脳にこびりついた、個人的なこだわり)はできるだけ捨てます。
これは自分を投げ捨てることにも似ているので本当に難しいですし、本当にいいのかという自問がつきまといますが、まずはこれを一度捨ててみると沢山のことが見えます。

自分のこだわりは相手には関係ないと、自分に対して冷たくできるかが切れ味につながります。
相手にはどんなアプローチが合っているか、が、第一課題です。
えげつない手法も間違った言葉遣いも、究極、それで伝わるのならば、わたしは抵抗なく使います。

品質、品性、コンセプトの保持
下品だったり残酷だったり、やたらと直接的だったりする言葉はないか、脳内検閲にかけます。

文章で相手に嫌な思いをさせてしまうと、相手は自分を信用してくれなくなります。
直接相手に投げかける言葉ではなく、独白であっても、相手にとって嫌なものは嫌なのです。

失った信用の挽回は、驚くほど難しいです。
信頼関係の中で交流をしている、という糸を切ってしまわないよう、それが本当に相手に投げるべき言葉なのかを冷静に考える判断者目線は手放さないようにします。

詩的、美的表現
カッコつけるやつです。
自分が考える"カッコイイ"を、セルフィッシュに表現します!

カッコつけは別にヒロイックなものにとどまらず、繊細で優美であること、静かでわびさびがあること、可愛らしくハッピーであること、妖艶で肉感的であること、すべてにおいて言えます。つまりそのキャラクターの「表面的魅力」を推し出す行為です。

ただ、経験則でいうと多分考えているうちの60%くらいしか受け取られません。
更に、これを続けると停滞になります。
そして、この行為はあくまで"表面的"魅力を出すことしか期待できず、相手の心にダイレクトに届くことは稀です。

フラグ回収
「シーンA ⇒進行⇒進行⇒進行⇒ シーンA'(Aダッシュ)への帰結」
"あの時の台詞、シーンが、まったく違う意味で繰り返される"
"あの時の台詞、シーンで受けた感情を、再評価しながら想起する"

人は基本的に、「記憶の再来」つまり"懐かしい"現象を好みます。これは、懐メロが愛されるのと同じ論理です。
それは、過去の地点から今の地点まで辿って来た人生を振り返り、確認すること=自分は生きていると実感することだからです。

できれば、最初の「シーンA」の時点では、なんてことない日常的なシーンにしておくと、最後に"良い意味での不意打ち"になります。
大事件ではなく「なんてことない日常」のほうが、よりリアルに無意識であり、根柢であると言えるのです。

リズム感
文章に限らずすべてのコンテンツの最大の敵、それは"飽き"です。

平坦な文章は、それがどんなに短いものでも、とても簡単に飽きられます。

それを覆すテクニックのひとつが"リズム感"です。
改行を調整するのでも良し、恥ずかしげもなく文字装飾を使うのでも良し。
でもできれば、声に出して読んだ時に緩急があるような、リズムのある文章を目指します。

情報提示(相談)
表現において、人は基本的に秘密主義者です。
"手ぐすねひいて待ち構え、最高のタイミングで感動と意外性を与えたい"というエゴが、どうしてもあるからです。

でもそれは簡単に、"察してほしがり"になってしまい、相手にとって「あなたを追いかけるのに疲れます」という結果を招きかねません。
はじめは、情報開示しすぎではないかと思うほどの相談量が丁度いいです。
相談していく中で、相談により何が起こったかを学び、自分に丁度いい相談量を見つけられます。

それに、単純に、こちらを驚かせようとしている人より、顔が見られる機会が丁寧にある人の方に、人間は好感を持ちます。
「次に何が起こるかわからない」というのは不安であり、不安はストレスであり、ストレスは悪印象です。

"例え"の手法
「まるで~のように美しい」という直喩の文化はかなり前に流行が過ぎました。

個人的に、今は隠喩をいかに文章に馴染ませるかが流行していると考えています。
それは"例え突っ込み"というお笑いの技法にも似ています。

なんにしろ、人は何かに例えられることが好きです。
何故そうなのかは考え切れていませんが、いまのところ、「占ってもらい評価されることが好きであるように、自分のカテゴリ(属性)を知ることが好きだから」ではないかと考えています。

相手を何かに例えることは総合してリターンが大きいです。

羅列する
一旦休憩

偶然を信じる
決して100%にならない確率をできるかぎり高めることの意味と、確率100%ということの意味



「文章」について個人的な経歴

わたしが文章にこだわるようになったきっかけは何だろうと改めて考えました。

その"兆候"は中2から学生時代に書き散らしたリプレイや小説の文章量、そしてマスタリングにありました。


GMやっていると、同じこと言ってるのに伝わる人と伝わらない人、好まれる人と嫌がられる人がいるという場面に何度も遭遇します。
本当に「楽しい」のは、全員で現状をちゃんと共有し、「こういう結果になったら一番うれしいし、楽しい」という同じ方向を見た上で、話し合い、個性を出していき、時にはぶつかり、ごちゃごちゃわちゃわちゃっとした上で全員でゴールすることです。
でも、その前段階の"全員の共通認識"を作るのがまず難しいんだけど……と、考えていました。

"伝える"の土台がしっかりしていなきゃ"楽しい"に辿り着けない。
「じゃあ"上手く伝える"って何だろう」と、方法を模索しました。
わりと早く辿り着いた答えは、"総合力"という身も蓋もないことでした。

PLには様々なタイプがあります。

スッと距離を詰められるのを好む人もいれば、そうされると咄嗟に防御する人もいて、その一方で斬りこんでいかないと何もできない人もいて、ただ斬りこめば最高のパフォーマンスを見せてくれる人がいて、地に足をつけて殴り合うのが好きな人がいて、ただただ傍観者であることを好む人もいて……。
そういう人たちに対する答えは1:1ではなく、たとえば「距離を詰められるのを許す人」へのアプローチも、ストレートに遠慮なく言うとか、危機的状況に追い詰めてみるとか、騙し討ちして反応を見るとか、選択肢は本当に多岐にわたります。
相手を見てどんなアプローチを仕掛けるか選択する力を形容する言葉として、わたしは"総合力"以外に知りませんでした。

ただ、"伝える"という行為に強い興味を持ちました。
最大母数を目指してできるだけマクロに伝える方法、同じ好みや共通知識を持った人にだけ伝わればいいというミクロな方法、どちらも素晴らしいことだと思いました。



わたしの問題意識の、はっきりした"スタート"は「卒論」でした。

わたしの卒論のテーマは「中高生でもわかるようにベルクソンの主張を解説する」です。
その頃にははっきりと"どんなに素敵なものでも伝わらなければ意味がない"って思ってました。
(今考えると、あの時の自分はものすごいことにチャレンジしてたな、怖いもの知らずかよ、と思います。数百人の哲学者が総出で攻撃して崩せないベルクソンの堅牢で複雑な哲学を、大学生如きが本当に中学生にプレゼンできたら、革命です)

結局それなりに頑張って自分なりの手ごたえを掴みました。
そして、これ以降、"とても難しいことを、わかりやすく、受け入れやすく表現する"がわたしの目標にになりました。

難しいことを難しいまま言うのって簡単だというのがわたしの主張です。
哲学本さんおまえのことだよおまえ。すごく画期的で面白いこと言ってるのにエンタメ精神が決定的に抜けてるからこんなに流行らないんじゃないかああああああつまり哲学さんの在り方に常に文句を言ってるのがわたしの文章の源泉なんですうううううう。



更新メモ

名前:
コメント:

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2018年04月30日 21:56