学生寮に足が赴いてしまったのは本当に偶然、というか何の気なしの行動でしかなかった。
赴任して間もない学院で、全体像を知っておきたい気持ちからあちこち足を向けていたのは確かだが、それでも男性が女学院の寮に近づくというのはあまり褒められた行為ではないことくらいは理解している。
「あら、七那月先生。こんなところでお会いするなんて」
そういうタイミングで決まって気まずい出会いが訪れるのが世の常だ。
これじゃ、父にも、叢雲厳三さんにも、いや、八重さんにまで𠮟られてしまうな……。
「ああ、神ヶ崎さん。こんにちは」
またよりにもよって出会う人物が生徒会長とは。
あくまで平静を保って挨拶をする。
相手によっては取り繕っているとでも受け取られそうだが、果たして。
「先生……失礼を承知で伺いますけど、なんの用事でここにいらっしゃったのですか?」
「ええ、学院にはやく慣れたくて、構内を一通り見回っていたんです。場に慣れるのに、自分の足で歩いて、目で見て回るのが習慣というか、性分のようなものなので」
自分の言葉に神ヶ崎さんは、
「そうでしたの。そういえば先生は地理が専門でいらっしゃいましたね。やはりまずは学院の地理もおさえなければ、というわけですね」
と特に訝しんだり、咎める様子は見せない。
「いやあ、お恥ずかしい……確かにうっかりでも、用もなく男性が近づいていい場所じゃなかったですね……」
無意識に頭を掻くような仕草とともに一礼し、そのままその場を立ち去ろうとする。だが、
「叢雲八重さんのことが気になって……のことではございませんの?」
その一言に足がつい止まる。
うしろめたさがあるわけじゃない。生徒会長である神ヶ崎さんがここにいて、自分にそのことを問いかけてきた事実に、興味が湧いてしまった。
「どこで、誰から聞きました? まさか本人から?」
はぐらかすのはやめた。
神ヶ崎さんとは今回の呪い騒動の件で、生徒会が教職員を強調して対応をしている関係で、まだ教育実習生とはいえ、自分も会話をした経緯があり、名前を顔を知っている間柄だ。
もちろん自分のプライベートについて直接話したことはない。
ただ、八重さんが今回の騒動に関わる中で、生徒会ともコンタクトを取っていることは知っていた。聞けるなら八重さんから直接、しかなさそうなのだが、果たして彼女がこの神ヶ崎嬢とそこまで親睦を深めたりしたのだろうか?
「いいえ違います。でも八重さんとはそんなお話をゆっくりとできるようになれたら、と思いますけど」
くすくす。ころころ。
そんな音を立てたように笑うお嬢様からは、素直にそう思っているようでしかなく、嫌味のような邪さは感じられない。
「……噂ですよ。もう、とっくに噂になってます。お気づきになられないんですね。ああ、それは八重さんもそうみたいですけど。噂の当事者のほうが案外気が付かないものなのでしょうか」
「………そうなんですか。いやあ、気づきませんでした。でも、さすがに耳が早い。やっぱりそういう立場だからこそなのかな?」
「そうかもしれませんわね。でも」
そこで一瞬、言葉を切り。
「噂というのはそういうものですよ。広がりはじめればあっという間。
…………『血濡れのマリア』、あれも同じです」
「うーん、それと一緒にされるのは、さすがに気持ちがよくないなあ」
「そうですね。失礼しました。
でも……失礼を重ねるのを承知で申しますわね」
「……どうぞ」
ここで話を切る気にはなれなかった。
少し、意地を張っているかもしれない。
教師として。大人として。男として。
那月の家の者として。
八重さんのパートナーになる者として。
「八重さんとのご交際。私は心から応援いたしますわ。自分で言いながら偉そうだとは思いますが。
……それだけに。
やはり相応に、慎重なふるまいを、先生にはお願いしたいと思いますの。
喜ばしい噂。
ですが少し間違えば簡単に、恐ろしい噂に飲み込まれてしまう恐れがあります」
「飲み込まれる……?」
なんとなく、話の行先に察しはついた。
だが、最後まで聞いておくのが度量というものだろう。
「ええ。
今や、学院中が『血濡れのマリア』の噂に混乱しています。
たとえ先生が寮を訪れる理由の中に八重さんのことがあったとしても………男性教師が本来立ち寄る場所でないところに赴いている、ということがどう『血濡れのマリア』の噂と結び付けられて、危険視されるかわかりません。
なにより……これこそ申し上げにくいことですが、
先生は学院にとっての新参の方。
今の状況においては疑われやすいお立場………わかりますよね?」
「…………なるほど」
「教師で、あの八重さんの関係者でもあられる七那月先生……私、疑いたくありませんし、疑われるような状況に置かれるのは望みませんの。
………ご自重くださいね」
「なるほど、なるほど……八重さんのことも考えてくださり………。その、いいですね」
「え?」
「いえ、あなたたちくらいの年齢では、そうした友情がふとした折に生まれるものだなあ、って」
「………友情……ですか。なんだか照れくさいですね」
友情、と言っても、この年ごろの関係というのは複雑なものだ。
(というほど自分が彼女たちと年が離れているわけでもないけれど、それはさておき)
どちらも優秀・有名人な神ヶ崎さんと八重さん。
今回の騒動のような特別な状況で、対抗心のようなものも手伝って、少なくとも神ヶ崎さんは八重さんのことを意識するようになったのだろうか。
「えっと、ひょっとして神ヶ崎さん、はじめから僕のことを見張ってました?」
「え? まさかそんな。私はそんなこと」
私は、か。生徒会の結束は生徒会長、神ヶ崎さんを中心に固いものと聞いている。
誰か彼女の使いが自分を、いや、学院中の疑わしい対象を見張っている可能性は否定できない。
「うーん、手ごわいのは、『血濡れのマリア』だけでもないような気がしますねえ……」
「……どういうことでしょうか」
そんなふうに小首をかしげる神ヶ崎さんも、実のところはまんざらでもないだろうに。
「それを言うなら、先生こそ。その若さで学院に入り、ましてやあの八重さんとのご交際…………並外れたものを秘めているのではなくて?」
「……やれやれ、勘のいい若者はなんとやら、ですねえ」
「先生、それ、悪人のセリフらしいですよ?」
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