手が離れたと思った瞬間人にぶつかり、謝っている間に小十郎を見失ってしまった。
幸村は俯き、ぐいっと手の甲で目を擦った。
小十郎は、奥州の政や軍事において重要な立場にいるため、雪の時期でも何かと忙しい。
妻を迎えたからといって戦や事故がなくなるようなものではなく、どこで戦だ、どこで雪崩だと
忙しく出かけ、何日も帰って来ないこともよくあった。
家の者は皆温かく迎えてくれた。小十郎の姉とは仲良くなり、毎日あれこれと
世話を焼いてくれるし、槍の稽古にも付き合ってくれるのが有難い。
家事に失敗しても、大丈夫、と笑って許してくれる。
だが、大事にされればされるほど、申し訳ないという思いで一杯になる。
一方的に押しかけ、妻として迎えられた。何でもこなそう、という気概はあるのだが、
家事は苦手で失敗の連続である。押しかけ女房がこの体たらく、と気分が鬱々としてくる。
好きで好きでたまらない夫は、幸村が失敗するとため息をついて頭をかき、
「後は俺がやる」と幸村を拒む。好かれてないのでは、と不安になるが、確かめられるはずがない。
長い間慰み者として扱われていた。その負い目が小十郎にある。
本当は拒みたいのかもしれない。
幸村は俯き、ぐいっと手の甲で目を擦った。
小十郎は、奥州の政や軍事において重要な立場にいるため、雪の時期でも何かと忙しい。
妻を迎えたからといって戦や事故がなくなるようなものではなく、どこで戦だ、どこで雪崩だと
忙しく出かけ、何日も帰って来ないこともよくあった。
家の者は皆温かく迎えてくれた。小十郎の姉とは仲良くなり、毎日あれこれと
世話を焼いてくれるし、槍の稽古にも付き合ってくれるのが有難い。
家事に失敗しても、大丈夫、と笑って許してくれる。
だが、大事にされればされるほど、申し訳ないという思いで一杯になる。
一方的に押しかけ、妻として迎えられた。何でもこなそう、という気概はあるのだが、
家事は苦手で失敗の連続である。押しかけ女房がこの体たらく、と気分が鬱々としてくる。
好きで好きでたまらない夫は、幸村が失敗するとため息をついて頭をかき、
「後は俺がやる」と幸村を拒む。好かれてないのでは、と不安になるが、確かめられるはずがない。
長い間慰み者として扱われていた。その負い目が小十郎にある。
本当は拒みたいのかもしれない。
「……申し訳ござらぬ」
男は、好きでもない女を簡単に抱けるが、好きでもない女の手は握れないと聞いたことがある。
小十郎もそうなのだろうか。だから、手を繋いでくれないのだろうか。
肩を抱き合う男女とすれ違う。あんな風にくっつくことは無理でも、せめて。
(……やはり、小十郎殿は……)
沈んだ足取りでふらふらと歩いた。京から来る一座の芸は、小十郎と見たかったのだ。一人では何の意味もない。
ぼんやりと辺りを見回し、ため息をついた。
古着屋の格子越しに、紅の着物を見る。模様は小さく慎ましいが、色が綺麗だ。
(綺麗な着物だ。だが……)
自分に似合うだろうか。紅は、どちらかといえば尾張の魔王の嫁辺りが似合うだろう。
普段から、未婚の女のような色ばかり着ている。もう落ち着いた色の着物を着れば
いいのだが、まだ決心がつかない。
家事一つ満足にこなせず、夫の重荷となるばかり。
こんな着物を着ていい道理がない、とさえ思える。
「おねーさん、どーしたのー?」
聞き覚えのある声に、幸村は振り向いた。
かなりしっかりと上を向き、顔を確認する。見覚えのある黄色い衣装。
上田で会った男だ。勝手に乗り込んできて喧嘩を売ってきた。佐助を殴り幸村も
こてんぱんにされた。
散々戦ったあとでこちらが女だと分かると、掌を返すように「あんたと恋をしたいねぇ」
だの「恋をすると、女は綺麗になるよ」だのと迫ってきた。十日は付き纏われただろうか。
加賀の前田夫妻が来たと思ったら、いつの間にかいなくなっていた。
あの時侘びにと貰った菓子はうまかったなぁ、と思い出す。
「前田慶次殿か」
幸村は男の名を呼ぶ。慶次は「覚えててくれたんだねぇ」と人懐こい笑みを浮かべた。
「聞いたよー。片倉小十郎に嫁いだんだって?」
噂はあちこちに広まっているらしい。互いに名の知れ渡った武将ならば仕方ないことだが、
できればそっとしておいてほしい、と思う。
馴れ初めも、婚姻に至った経過も、人に語れるものではない。お互いの胸の内に秘めようと決めた。
「綺麗になったねぇ、幸村ちゃん」
「そのようなことは……」
顔を伏せて視線をそらす。面と向かって「綺麗」なんて、言われ慣れてない。
小十郎が美辞麗句を並べ称賛するのは、主君だけだ。そういう男だと分かっているから求めたことはない。
「その桜色の着物も似合ってるけど……何、あの着物欲しいの?」
「綺麗だと思って見ていただけだ。……俺には似合わん」
「そんなことないって。試してみる?」
にこっと笑いながら、慶次は古着屋に入っていった。幸村も恐る恐る入ると、
慶次は馴染みのような軽い様子で紅の着物を手に取っていた。
「今、旅一座が来てるだろ? 俺、あの一座の用心棒をやっててね」
「……それで、か」
「幸村ちゃんはめかしたら綺麗になると思うよ。旦那様に惚れ直されるって」
「そのような……」
「大丈夫。俺は嘘は言わないから」
ぱちっと片目をつぶると、慶次は冗談めかして着物を羽織った。傾いた衣装がますます傾く。
「どう? 似合う?」
「ようお似合いだが、小さいのではないか?」
慶次の冗談を受け流さず思ったままの言葉で返し、幸村は上がりかまちに座った。
「幸村ちゃんの方が似合うよ。買ってあげようか?」
「そそそそそのような施しなどいらぬ!」
「そう? じゃあ幸村ちゃんが買う?」
「……財布は小十郎殿が持っている故、買えぬ」
「じゃあ俺が買ってやるよ。――おい主人、奥の部屋を貸せ」
男は、好きでもない女を簡単に抱けるが、好きでもない女の手は握れないと聞いたことがある。
小十郎もそうなのだろうか。だから、手を繋いでくれないのだろうか。
肩を抱き合う男女とすれ違う。あんな風にくっつくことは無理でも、せめて。
(……やはり、小十郎殿は……)
沈んだ足取りでふらふらと歩いた。京から来る一座の芸は、小十郎と見たかったのだ。一人では何の意味もない。
ぼんやりと辺りを見回し、ため息をついた。
古着屋の格子越しに、紅の着物を見る。模様は小さく慎ましいが、色が綺麗だ。
(綺麗な着物だ。だが……)
自分に似合うだろうか。紅は、どちらかといえば尾張の魔王の嫁辺りが似合うだろう。
普段から、未婚の女のような色ばかり着ている。もう落ち着いた色の着物を着れば
いいのだが、まだ決心がつかない。
家事一つ満足にこなせず、夫の重荷となるばかり。
こんな着物を着ていい道理がない、とさえ思える。
「おねーさん、どーしたのー?」
聞き覚えのある声に、幸村は振り向いた。
かなりしっかりと上を向き、顔を確認する。見覚えのある黄色い衣装。
上田で会った男だ。勝手に乗り込んできて喧嘩を売ってきた。佐助を殴り幸村も
こてんぱんにされた。
散々戦ったあとでこちらが女だと分かると、掌を返すように「あんたと恋をしたいねぇ」
だの「恋をすると、女は綺麗になるよ」だのと迫ってきた。十日は付き纏われただろうか。
加賀の前田夫妻が来たと思ったら、いつの間にかいなくなっていた。
あの時侘びにと貰った菓子はうまかったなぁ、と思い出す。
「前田慶次殿か」
幸村は男の名を呼ぶ。慶次は「覚えててくれたんだねぇ」と人懐こい笑みを浮かべた。
「聞いたよー。片倉小十郎に嫁いだんだって?」
噂はあちこちに広まっているらしい。互いに名の知れ渡った武将ならば仕方ないことだが、
できればそっとしておいてほしい、と思う。
馴れ初めも、婚姻に至った経過も、人に語れるものではない。お互いの胸の内に秘めようと決めた。
「綺麗になったねぇ、幸村ちゃん」
「そのようなことは……」
顔を伏せて視線をそらす。面と向かって「綺麗」なんて、言われ慣れてない。
小十郎が美辞麗句を並べ称賛するのは、主君だけだ。そういう男だと分かっているから求めたことはない。
「その桜色の着物も似合ってるけど……何、あの着物欲しいの?」
「綺麗だと思って見ていただけだ。……俺には似合わん」
「そんなことないって。試してみる?」
にこっと笑いながら、慶次は古着屋に入っていった。幸村も恐る恐る入ると、
慶次は馴染みのような軽い様子で紅の着物を手に取っていた。
「今、旅一座が来てるだろ? 俺、あの一座の用心棒をやっててね」
「……それで、か」
「幸村ちゃんはめかしたら綺麗になると思うよ。旦那様に惚れ直されるって」
「そのような……」
「大丈夫。俺は嘘は言わないから」
ぱちっと片目をつぶると、慶次は冗談めかして着物を羽織った。傾いた衣装がますます傾く。
「どう? 似合う?」
「ようお似合いだが、小さいのではないか?」
慶次の冗談を受け流さず思ったままの言葉で返し、幸村は上がりかまちに座った。
「幸村ちゃんの方が似合うよ。買ってあげようか?」
「そそそそそのような施しなどいらぬ!」
「そう? じゃあ幸村ちゃんが買う?」
「……財布は小十郎殿が持っている故、買えぬ」
「じゃあ俺が買ってやるよ。――おい主人、奥の部屋を貸せ」




