それこそ息がかかるくらいの距離で見つめ合い、思わず呼吸を止めてしまった
俺に向かって朱唇がぽそりと呟きを零す。
「……いくさ場では、いつもこれくらいの近さでアンタを見てたんだよな」
その通りだ。このかた相手では通常の槍の間合いなど保つことができず、
ありえないほど接近して闘ったことが幾度となくあった。
無論、闘いの最中に気を散らせば即ち負けを呼び込むこととなるし、意識した
ためしなど実際一度たりともありはしないが、しかし今この瞬間に意識するなと
いうのは逆に無理だ。
間近で見れば驚くくらい深い色をしている隻眼に吸い込まれてしまいそうで、
目を逸らすことができない。
川風が髪をさらりと揺らす音すら耳に届き、不思議に胸が苦しくなった。
いくさ場以外でこのかたと、こんなにも間近で見詰め合う機会があろうとは
思いもしなかったから。
「こんな近くにいて、なのに武器も持たねえで、のんびり話なんてするとは、な」
同じことを、姫君も考えていたらしい。微かな笑みと共にそんな言葉を紡ぎ、
近付きすぎていた互いの顔もようやくそれなりの距離を置いた。
もしも今が戦乱の世でなかったなら、こうして言葉を交わすどころか、目通りすら
簡単にはかなわなかったに違いない。何せこのかたは一国を治める御立場、
本来であれば俺などの触れられるところにいる存在ではないのだ。
そしてまた、出逢ったのも敵同士として。甲斐と奥州とが同盟を結ぶなど、
あのころには考えもしなかった。
ただ初めて刃を交えた、その瞬間から奥州の竜姫は俺の中で特別な存在だった。
最初は純粋にその強さに惹かれ、次第に強さだけではない将としての器をも
賞賛すべきものと感じるようになり、そしてその素顔すらも垣間見ることが
かなう今、全てが俺の心を惹きつけてやまない姫君は、夕闇の迫る空を見上げる。
「そろそろ、戻るか」
そう呟いた声がどこか残念そうに聞こえたのは、俺の勘違いか。
自然な動作で俺の腕をすり抜け、立ち上がったひとは大きく伸びをした。
歩き出した後ろ姿はどこか頼りなく、夕陽の中に溶けてしまいそうな気さえする。
屈強な軍を纏め上げ、決して狭くはない国を立派に治める『奥州筆頭』。
けれどその素顔は、手にしたものを失うことを怖れる、ひとりの娘。
部下の前で、また他国の主の前で、国主として立つことしか許されないこのひとにも
弱い部分、脆い部分はあるはずで。
そんなひとを歳相応の娘に戻さんがため、今の俺の存在はあるのではないか。
だからこそお館様は、甲斐に滞在する間の警護役として俺を選び、片倉殿も
(どこか不本意さを滲ませてはいたものの)それを容認したのではないのか。
このひとの部下でもなければ、他国の主というわけでもない、ただ歳が近いだけの
ひとりの武将でしかない俺を身近に置くことで、ともすれば見失ってしまいそうな
本質を、このひとに取り戻させようとしているのではないのだろうか。
「何してる、真田幸村。帰らないのか?」
凛とした声に引き寄せられ、半ば駆けるようにして近付いた俺は細い肩の隣に並ぶ。
部下として仕えてもいない。釣り合う身分でもない。しかしおそらくそれ故に俺は、
ここにいることを許されている。
それを――――『名誉である』とか『光栄なことだ』とかではなく、ただ単純に
『嬉しい』と感じてしまうのは、間違った感情なのだろうか。
俺に向かって朱唇がぽそりと呟きを零す。
「……いくさ場では、いつもこれくらいの近さでアンタを見てたんだよな」
その通りだ。このかた相手では通常の槍の間合いなど保つことができず、
ありえないほど接近して闘ったことが幾度となくあった。
無論、闘いの最中に気を散らせば即ち負けを呼び込むこととなるし、意識した
ためしなど実際一度たりともありはしないが、しかし今この瞬間に意識するなと
いうのは逆に無理だ。
間近で見れば驚くくらい深い色をしている隻眼に吸い込まれてしまいそうで、
目を逸らすことができない。
川風が髪をさらりと揺らす音すら耳に届き、不思議に胸が苦しくなった。
いくさ場以外でこのかたと、こんなにも間近で見詰め合う機会があろうとは
思いもしなかったから。
「こんな近くにいて、なのに武器も持たねえで、のんびり話なんてするとは、な」
同じことを、姫君も考えていたらしい。微かな笑みと共にそんな言葉を紡ぎ、
近付きすぎていた互いの顔もようやくそれなりの距離を置いた。
もしも今が戦乱の世でなかったなら、こうして言葉を交わすどころか、目通りすら
簡単にはかなわなかったに違いない。何せこのかたは一国を治める御立場、
本来であれば俺などの触れられるところにいる存在ではないのだ。
そしてまた、出逢ったのも敵同士として。甲斐と奥州とが同盟を結ぶなど、
あのころには考えもしなかった。
ただ初めて刃を交えた、その瞬間から奥州の竜姫は俺の中で特別な存在だった。
最初は純粋にその強さに惹かれ、次第に強さだけではない将としての器をも
賞賛すべきものと感じるようになり、そしてその素顔すらも垣間見ることが
かなう今、全てが俺の心を惹きつけてやまない姫君は、夕闇の迫る空を見上げる。
「そろそろ、戻るか」
そう呟いた声がどこか残念そうに聞こえたのは、俺の勘違いか。
自然な動作で俺の腕をすり抜け、立ち上がったひとは大きく伸びをした。
歩き出した後ろ姿はどこか頼りなく、夕陽の中に溶けてしまいそうな気さえする。
屈強な軍を纏め上げ、決して狭くはない国を立派に治める『奥州筆頭』。
けれどその素顔は、手にしたものを失うことを怖れる、ひとりの娘。
部下の前で、また他国の主の前で、国主として立つことしか許されないこのひとにも
弱い部分、脆い部分はあるはずで。
そんなひとを歳相応の娘に戻さんがため、今の俺の存在はあるのではないか。
だからこそお館様は、甲斐に滞在する間の警護役として俺を選び、片倉殿も
(どこか不本意さを滲ませてはいたものの)それを容認したのではないのか。
このひとの部下でもなければ、他国の主というわけでもない、ただ歳が近いだけの
ひとりの武将でしかない俺を身近に置くことで、ともすれば見失ってしまいそうな
本質を、このひとに取り戻させようとしているのではないのだろうか。
「何してる、真田幸村。帰らないのか?」
凛とした声に引き寄せられ、半ば駆けるようにして近付いた俺は細い肩の隣に並ぶ。
部下として仕えてもいない。釣り合う身分でもない。しかしおそらくそれ故に俺は、
ここにいることを許されている。
それを――――『名誉である』とか『光栄なことだ』とかではなく、ただ単純に
『嬉しい』と感じてしまうのは、間違った感情なのだろうか。
―――――お館様。某、まだまだ修行が足りぬようにござりまする。




