FIGHT THE FUTURE




(一)

 絶え間ない振動に、つり革がゆらゆらと揺れる。
 赤錆で汚れた車内というものは、留まっていて気持ちのいいものではない。調子に乗った若者の落書きが高尚な芸術に見えてくるほどだ。
 ケビンは壁を背に、大きく吐息を吐いた。貫通扉の窓から見えない座席にともえを座らせるジルをちらりと見て、隣の車両に意識を集中する。
 声や衣擦れの音すらしない。無論、そういったものは走行の際の騒音で紛れてしまうものだが、気配というものは消せない。
 そこに人が在るという存在感は、得てして壁すらも通り抜けて伝わってしまうものだ。ましてや、鮨詰めになるほど乗っている車両ならば尚のことだ。
 ラクーンシティで嫌というほど目にしたゾンビの類とはそこが違う。
 これが、本当の幽霊というものなのだろうか。
 気配は感じないが、悪寒だけは嫌でも身体を這いあがってくる。無意識に、ケビンはベルトに挟んだ日本刀に手を触れた。
 ゾンビや怪物の相手だけでも嫌気が差したというのに、幽霊相手に銃や剣で立ち向かわねばならないとは冗談としても最低だ。
 幸い、隣の車両の乗客たちはケビンたちに気付いていない。もっとも、彼らに"気付く"という行為が出来るのかすら甚だ疑問ではあるが。
 戻ってきたジルが声を落として言った。

「今のところは息を潜めていましょう。気付かれずに済むのに越したことはないから」
「気付かれたら?」
「そのときは銃で撃つ。銀の銃弾でもあれば良かったんだけど。どこかに落ちていたりしないかしらね」 

 ジルはもう片方の車両に視線を向けた。
 幽霊騒ぎで目を離してしまったが、後部車輛の確認をしていない。あちらにも東洋人の群れがいるのか、看護婦の化け物のままなのか。
 どっちにしろ、身動きが取れないことには変わりがない。
 ジルの表情も心なしか強張ってきている。
 訓練も想定もしていないことの連続だ。さすがの女傑も堪えるらしい。
 そもそも現実というものは、いくら準備したところでそれを楽々と踏み越えてくるとはいえ、限度がある。
 幽霊もその一つだ。残念なことに、現実のFBIにX-ファイル課は存在しない。
 ケビンは首筋をぼりぼりと掻きながら、ジルに向けて指を立てた。

「ひとつ提案があるんだが、いいか?」
「この状況を打開できるならなんでもいいわ。言ってみて」
「あいつらが幽霊なら、銃弾よりも掃除機を調達するべきではないかと――」
「黙りなさい。いいから」

 ジルはにべもなく切り捨てると、後部車輛の監視へと戻っていった。
 焦燥感こそあるものの、傍目には穏やかな時間が過ぎていく。
 車内を騒がすのは車体の軋みのみだ。車窓からの景色は面白みのない暗闇だが、明かりがあったところで気持ちのいいものは見られそうにない。
 このまま無事に駅に到着出来れば、なんら問題ないのだ。
 突然、線路が甲高い悲鳴を上げた。車体が大きく揺れ、ケビンは思わず目の前のポールに掴まった。ともえが小さく悲鳴を上げる。
 急ブレーキをかけた列車は、ため息を吐くような音を立ててそのまま停止した。窓の外には何も見えず、扉が開くようなこともない。
 想像でしかないが、列車は線路の真ん中で停車したのだろう。
 配電部分に故障でも起きたのか、車内の蛍光灯が点滅し始めた。

「……そういうもんだわな」

 ラクーンシティでも、トラブルで電車に乗りそびれたのだった。
 諦観の呟きを漏らし、ケビンはジルとともえを見た。
 ジルは困惑げにケビンに視線を送っている。ともえは座席から転げ落ちていた。足を畳む日本式の座り方でいたのだから、当然の結果といえばそうなのだが。
 ケビンは隣の車両を見た。顔色の悪い乗客たちは急停車したことにも気づいていないのか、最初と変わらない泰然とした姿のままで車内に佇んでいる。慣性の法則も彼らには触れられないらしい。

「そっちの車両はどうなってる?」
「白衣の天使たちがアル・セント・ジョンみたいにすっ転んでいるわ。これ、駅に着いたわけじゃないわよね?」
「らしいね」

 ジルは速足でこちらに来て、立ち上がろうとするともえに手を貸した。
 何か人知れず決心でもしたのか、つい先ほどまでは覇気に満ちていた顔が一気に沈んでいる。
 ケビンは背後の扉を親指で指した。

「運転台に行って文句言ってこようと思うんだが。なんとなく、運転士なんていねえ気がするけど」
「……同感。無駄足よ」
「だからって、じっとしていて動くとも思えねえがな。運転士がいなけりゃ、動かすしかねえだろ」
「動かすって……私、やったことないわよ」
「俺もねえよ。ま、状況が状況だし、始末書ぐらいで済むさ。今はひとまず、いちかばちか命を掛けてみるとしようや」
「やめなさいよ、そういう格好よさは。分が悪すぎるわ。オッズを見るまでもない」

 ジルのもっともな言葉に、ケビンは大仰に肩を竦めた。

「その分、当たれば大儲け。だろ? ま、最初は俺がやってみるわ」
「簡単に言うけど、車動かすのと訳が違うのよ?」
「大丈夫だって。先週フレッドに返したビデオで予習済みよ。キアヌが爆弾処理班のやつ」
「あなたねえ……。そもそも、あれって結局脱線した記憶があるんだけど」

 半眼になったジルから顔を逸らし、ケビンは鼻を鳴らした。

「だからってなあ。このまま、ここで大人しく後続列車にケツ掘られるのを待つのか?」
「運行管理システムが正常に動いてるはずはないでしょうね。だけど、あなたのしようとしていることはリスクの上乗せのようにしか思えないのよ」
「じっとしてても、どのみち俺たちは死ぬんだぜ。なら早いか遅いかの違いだ」
「たとえ残り一分の命でも、それを懸命に生かすべきだって言ってるのよ。あなたのは死に急いでるだけ――」
「あの……もう少し待って、状況を見てからじゃ駄目なの?」

 ともえが気遣うような視線をケビンに送る。座るのに懲りたのか、彼女は手すりに縋るように立っていた。
 ケビンは顎を撫でた。無精ひげが指の腹の上で音を立てる。

「駄目なの。運行の間隔が分からねえから、そうのんびりもしてられねえのさ。最悪ドアこじ開けて外に出る手もあることにはあるが。物音で幽霊に気付かれるってんなら、この行動自体に陽動の意味合いも出来てくるしな」
「……果たして意味があるかしらね。だけど、どうしてもっていうのなら私が行く。あなた、自分の銃に弾がほとんどないの分かってる?」

 ジルが苛立たしげに言った。
 ケビンは思わず苦笑した。彼女は自分よりも頭がいいはずなのに、簡単なことを分かろうとしない。

「逆だ逆。あの小汚い白衣の天使どもにゃ鉛玉が効くんだ。状況によっては、最後尾車両まで下がることになるかもしれねえ。そんとき、俺じゃどうしようもなくなっちまう。さすがの俺でもな、サムライブレードでミフネみたくやれるなんざ思っちゃいねえよ。だからこそ、確実に効果がある方に弾を多く残すべきだろうが」
「武器を交換するって手もあるんだけど?」
「……あのな、冷静に考えてくれよ。おまえが行くってことは、三十路超えた鰥夫とうら若き乙女を二人きりにするってことだ。危険だぞ、もの凄ーく」
「………………」

 ジルが苦しげに頬を歪めた。彼が実際に云わんとしていることを察してくれたようだ。
 ケビンと彼女ら二人で決定的に違うことが――よく考えるといくつもあるが、その中でも一番注視しなければならないものが一つだけある。
 T-ウィルスの感染者であるか否かということだ。
 現時点でウィルスの影響は然程表面化していないが、今後どうなるか分からない。
 ラクーンシティの崩壊からすでに一週間ほど経っている。
 ジルの知識と合わせて鑑みても、いつ"人喰い病"が発症してもおかしくない状態であることには変わりない。
 諦めたように、ジルは大きく嘆息した。
 きっと、彼女には"S.T.A.R.S."であるという自負があるのだろう。"S.T.A.R.S."が解体された今でも、常に第一の盾であれと。
 己が選ばれず、彼女が選ばれた理由が何となくだが分かった気がした。仮にラクーン市警が続いていたとしても、己が"S.T.A.R.S."に選ばれることはなかっただろう。
 ケビンはぽんとジルの肩を叩いた。

「ジル、偶にゃ男の後ろで守られてろよ。恰好つかねえだろ」
「……守られてるっていうより、単なる役割分担よね。これ」
「細かいねえ。"S.T.A.R.S."の姐さんは」

 ジルの疲れたような微笑みが一瞬だけ見えた。
 決死隊とはこういう気分かと、ケビンは思った。相手が幽霊と決まったわけではないが、まともな相手ではないことは確かだ。
 連中がハロウィンの仮装行列という真相も嫌いではないし、現実的でもあるが、非常識な状況の中でそれを期待するのも酷な話だろう。
 あの夜から、己の"日常"の箍は外れてしまっているのだから。
 とにかくも、今は迅速な行動が第一だ。物理的な脅威はほぼ確実に迫っているのだから。
 ケビンは二人に向けてにやりと笑った。

「すぐ戻る……なんてな」

 そう言い残して、ケビンは貫通扉を少し開けて身体を滑り込ませた。空調が狂っているのか、酷く寒い。
 残されている時間は多く見積もって五分と見ておいた方がいい。
 明滅する明かりの中、大勢の東洋人が浮かび上がる。どれもが虚ろな表情で、声もなく佇んでいる。まるで人の形をした墓石が並んでいるようだ。
 まだ、彼らはケビンに気づいていない。即座に、この車内を駆け抜けられる隙間を確認する。
 とはいえ、ちかちかと光と闇が入れ替わる車内では視覚はほとんど頼りにならない。要は思い切りと切っ掛けだ。後は己の勘と運を信じる他ない。
 短く息を吸い込むと、ケビンは水に飛びこむ様な気持ちで床を蹴った。
 体勢を低くし、人と人の僅かな隙間に潜りこんだ。両腕で泳ぐ様に人の波を掻く。剥き出しの腕に伝わるのは大きさの割に空虚さを伴う抵抗と冷気だ。
 一歩一歩が酷く緩慢に感じられる。
 前方の東洋人が、冬の湖を思わせる瞳をケビンに向けた。いや、それだけではない。粟立つ肌が、数多の視線が己へと注がれていることを報せてくれている。
 突き出された腕を払いのけ、前方の空間に身を投げ出す。受け身を取って、すぐさま転がるように走る。
 ブーツが何か柔らかいものを踏み潰した。目の端に映ったのは、根元から千切られた女の腕だ。あの看護婦たちのものか。
 相手はゾンビではなさそうだが、中身は然程変わらないらしい。
 捕まればどうなるのか。ほんの目と鼻の先に在る未来が、明確な像となって瞼に焼きついた。
 ケビンの逃走を妨げるように立つ東洋人の膝頭を蹴りつけ、動きの起点を潰す。蹴りだした足をそのまま踏み込みに変えて、勢いを殺さずに体を捌いた。
 幾つもの手が空を切ったのを、風音で悟る。
 床を軽く蹴り、ステンレス製の座席に跳び乗る。かんかんとけたたましい音が闇に踊った。食らいつこうとした東洋人の顎を膝頭で弾き飛ばし、座席から飛び降りる。
 己の予感を信じ、踏み出す呼吸を一つ外した。目の前で、覆い被さろうとした東洋人の影が踏鞴を踏んだのが分かる。間髪置かず、ケビンは鋭く息を吐いた。腰に重心を落とし、肩からの当て身で東洋人の身体を押し退けた。手術着がめくれ、東洋人の身体に大きな穴が空いているのが見えた。
 貫通扉を引き千切る様に開ける。その軋む音は、己の焦りを増幅させた。
 次の車両にも東洋人たちが乗り合わせていた。彼らの頭の向こうに、先頭車両の小さな窓が見えた。あと二十歩といったところか。
 小さく踏み変えて、その足を軸にして身体を入れ替える。すれ違うようにして東洋人の脇を抜けた。
 足を滑らせるに任せて大きく踏み出す。その分だけ身体が沈んだ。腕が頭髪を掠めていく。股関節に痛みが走るのを無視して、後に残した足を一気に引き寄せる。
 あと十歩――。
 と、駆け抜けようとしたケビンの身体が、強い力によって縫い止められた。
 原因を探る間もなく、腰から一気に身体を後方に引き摺られる。日本刀を掴まれたのだと理解するのと同時に、複数の東洋人が上から抑え込んでくる。ケビンの膝が床を叩いた。
 跳ね除けようと足に力を込める。と、抑え込まれた左肩が鈍い音を立てた。激痛にケビンの身体が跳ねる。愛銃が手から毀れ落ちた。銃はからからと床を滑って行く。
 丈夫な生地を突き破り、氷のような指が肩や背中の肉に潜り込んだ。
 苦鳴を噛み潰し、ケビンは右手で日本刀の柄を掴んだ。それを一気に引き抜く。
 流れるような鞘滑りの音が暗がりの車内に響く――。
 途端、拘束の手が微かに緩んだ。雄叫びを上げながら、上体を押し上げる。爪先で床を蹴りあげ、前方へと身体を投げ出した。
 背中が引き攣って別の痛みを生み出したが、それに構ってはいられない。
 ケビンは足を動かすことだけに集中した。肩から先の感覚が鈍いが、それも意識の外に押し出す。
 視界に右側の半個室を捉えた。運転台はあの中だ。
 ケビンは戸を背に振り向いた。爪先が拳銃らしき塊に触れたが、それを拾う時間はない。光が戻るたびに、東洋人たちとの距離は縮まっていく。
 ケビンは金属の取っ手に手を掛けた。が、びくとも動かない。目だけを動かして確認すると、運転台の戸は溶接されたように融合し、赤黒い壁と成っていた。
 これでは専用の機材でも持ってこない限り入れはしない。
 ジルの意見は正しかったというわけだ。本当に無駄足だった。
 電灯が狂ったように瞬き、そして周囲は黒に沈んだ。
 刃先を東洋人たちに向けながら、ケビンは大きくため息をついた。


(二)

 貫通扉の窓の向こう、ケビンの背中が東洋人たちの中へと消えた。東洋人たちの群れはケビンを追って、貫通扉から離れて行った。
 ジルは大きく息を吸って、それから目を背けた。心がそぞろだっているのが分かる。明滅する車内は、己の不安そのもののようだ。
 洋館事件から、己は臆病になったのだろうか。目の届かないところで見知った誰かが死ぬ。それがとても怖ろしい。
 陽気な毒舌家のジョセフ。寡黙で勇敢なエドワード。同じ歳とは思えないほどの傑物だったリチャード。全幅の信頼を置いていたケネスとエンリコ。そして――誰よりも世話になったフォレスト。
 皆死んでしまった。個人のくだらない欲のために、彼らは永遠に失われてしまった。
 フォレストを撃ったクリスの顔は、今でも鮮明に覚えている。哀しみという言葉では到底言い表せない深い苦悶に苛まれた、あまりにも痛々しい表情――。
 いや、彼ら"S.T.A.R.S."だけではない。ラクーン市警に勤務する警官の殆どが殉職したとケビンは言っていた。また、中央政府によって空爆による滅菌作戦が行われるとも聞いた。
 彼女が単独で行動している間に、事態はそこまで進行してしまっていたのだ。
 そして、ケビンは悪魔のウィルスに身を犯されている。何も出来なければ、彼の末路はフォレストやエドワードと同じだ。それを悟っているケビンは、ジルに手を汚させまいと不器用にも心を配ってくれている。
 こんな無謀な賭けに率先して動いたこともそうだ。だからこそ、反対したのだ。認めたら、頼りない自分を再確認してしまう。否定したところで変わりはしないのに。
 あちこちで火の手の上がっていたラクーンシティの光景が蘇る。あの劫火は、ジルが今まで歩んできた証までをも燃やし尽くしてしまうようだ。
 それらを思うと、己の弱虫な部分が大声で騒ぎだしそうになる。今更ながら、傍にクリスがいないことが心底堪えた。頼るべき背中がないという事実がとても心細い。
 とはいえ、この状況を恨んだところで意味はないのだ。予想外の出来事こそあれ、ひと月前から一人で戦わねばならないことは覚悟していたのだ。
 今は弱さをひっくるめて"S.T.A.R.S."という殻で覆い包み、己の奥底に押し込めていくことより他ない。

「……ねえ、ジル。ケビンって、なんていうか……その、色狂いの気があるの?」

 ともえの言葉の突拍子のなさに、物思いに沈んでいたジルは眉根を寄せた。しばし黙考し、ケビンの口にした戯言を真に受けたのだということに思い当たった。

「――ああ。あれは彼なりの冗談よ。かといって、紳士かって訊かれたら否定するけど。それはもうきっぱりと」 

 諧謔を含んだジルの言葉に、ともえが安堵したように息を吐く。あ。と、ともえが小さく呟いた。

「――彼に鯉口切れって言ってあげれば良かった……」
「……コイクチキレ?」

 何ともなしに問うと、ともえは自答するように呟いた。

「刀をちょっとだけ抜くってこと。鬼や化生は金気――特に刃物を嫌うから、そうしておくと寄り付かないらしいの」
「一種の御呪いね。帰ってきたときに言ってあげたら?」
「……早く言えって大騒ぎしそう」
「やりそうね、彼なら。ま、そういう見世物だと思って楽しみましょうよ」

 二人で笑った時、ふいにケビンが入った方とは反対の貫通扉ががんと音を立てた。目を走らせると、貫通扉の向こうで看護婦たちが激しく叩いているのが分かった。

「……あれは楽しむって範疇をもう超えているけど」

 拳銃を構え、侵入してきても押し留められるよう息を整える。おそらく弾込めをしている猶予はない。
 よって、使える弾は三十発。空間が限定されているから外れはしないだろうが、それでも二十体を無力化できれば御の字だ。

「トモエは自分が生き残ることだけを考えて。いい?」
「……わかったわ」

 ともえがジルの邪魔にならない位置に身を寄せた。扉の軋み上げる音が車内を支配する。力づくで押し開けようと言うのか、一番扉に近い看護婦が押し潰され、窓がどす黒い赤に染まった。
 ばきと音を立てて戸が敷居から外れ、半ばからひしゃげた。
 隙間から溢れるようにして看護婦たちが車内に傾れ込む。
 電灯と呼応するように、ジルの銃口から閃光が迸る。ハンドライトの明かりの中で看護婦たちが血と共に踊った。

「ジルっ!」

 ともえの悲鳴が聞こえた。逼迫した声に思わず振り向くと、背後の貫通扉の窓から何人もの東洋人がこちらを覗き込んでいた。
 銃声を聞いて戻ってきたらしい。貫通扉が冗談か何かのように弾け飛び、壁に跳ね返った。
 土気色をした東洋人たちの姿は、ゾンビというよりも幽鬼そのものに見えた。
 怨み。哀しみ。苦しみ。憎しみ――。
 恥辱。恐怖。憤怒。無念――。
 彼らの虚ろな表情は、そういった負の感情を全て湛えているが故のもののように思えた。噎せ返るような瘴気は、毒のようにジルの意識を揺さぶる。
 ジルは舌打ちしながら、ライトを拳銃に持ち替えた。ともえを背中に庇うように姿勢を変える。二つの咆哮はいくつも重なり、あたかも雷鳴のように車内を暴れ狂う。
 看護婦は崩れ落ちたが、撃たれた幽鬼は足を僅かに止めただけですぐに歩みを再開する。
 ケビンの言葉通り、看護婦の群れの方に活路を見出すのが賢明か。
 冷や汗に身体を濡らしながら、ジルは思考を巡らせる。それとは別に、頭の冷えた部分が銃声の数を刻んでいく。
 貫通口の隙間から出てこようとした看護婦が、ジルが引き金を引く前に後ろへと引き摺り倒されるのが見えた。隙間から投げ出された生白い足が苦しそうにもがき動く。
 ひしゃげていた扉が開き戸のように内側へと折れ曲がった。そこから現れたのは同じような白い手術着をまとった幽鬼の群れだ。あの看護婦たちはジルに気付いたのではなく、あれから逃げてきていたのだ。
 右手の拳銃の遊底が引かれたままの位置で止まる。弾切れだ。
 車内の電灯が断末魔のように激しく点滅し、やがて消えた。あたりに暗闇が落ちる。素早く用無しになった拳銃とライトを交換する。
 無駄と分かりつつ、引き金を引く。陰火のような閃光が数度闇を裂いた。
 溜息を吐くような音を立てて乗車口が開いた。とどろとどろとした風声が車内に入り込む。すぐに扉は閉まり、ゆっくりと軋みを上げながら列車は動き始めた。ケビンは上手くやったようだ。
 だが、彼の偉業を讃えることはできそうにない。
 残った拳銃も弾を撃ち尽くした。虚しい空撃ちの音が手元から毀れていく――。
 ふと、ジルは眉根を寄せた。幽鬼たちの歩みが止まっている。周囲五ヤードよりも内側に入ってこようとしない――いや、入ってこようとはしている。それは彼らの動きで分かる。
 だが――入ってこられない。
 ジルは己の周りに人の気配が充満していることに気付いた。しかし、ライトを翳しても何も見えない。
 ただ、息が詰まるほどの懐かしさが胸の内に湧き上がった。
 ひとつひとつの区別は難しいが、この感覚は肌が覚えている。ほんの数ヶ月前まであった安心感が胸を満たしていくのを感じた。
 電車の速度が上がるのに呼応するように、周囲の空気が激しく震えていくのが分かった。それは目の前が真っ赤に染まるような、烈しい感情の奔流だ。
 混ざり気のない、身悶えするほどの激情の波が車内を包みこんでいく。幽鬼たちは慙愧とも狼狽ともとれぬ表情を、虚ろの中に宿していた。
 それは幽鬼だけでなく、ジルたちにも向けられているように思えた。
 憂慮も不安も全て吹き飛ばし、昇華させるが如く身体の芯が火照っていく。 

「お父様……なの?」

 ともえが戸惑いの声を上げた。
 と、車窓から淡い光が差し込んだ。駅に――着いたのだ。
 車体に先ほどと同じような急ブレーキがかかり、ジルはよろめいた。そのとき、誰かに肩を支えられた心地がした。しょうがねえなあ。という苦笑すら聞こえた気がした。
 扉が開くと、幽鬼たちは潮が引くように薄れて消えていった。何事もなかったかのように、車内に光が戻る。
 その刹那、ジルは陽炎のような長髪の男の影を見た。その横顔には、いつもの不敵な笑みが刻まれていたように思えた。
 ぶるりとジルは身体を震わせた。心に残る温もりを零さないように、両手を胸で抱く。
 まだだ。まだ終われない。
 ジルは深く長く息を吐いて、ともえに向き直った。彼女は泣きそうな顔で一点を見つめていた。ジルの眼には何もない虚空にしか映らないが、彼女には何か見えたのだろう。
 彼女の肩を叩き、開け放たれた扉を指差す。

「……降りるわよ」
「でも、ケビンがまだ――」
「生きているのなら、彼も降りる。そうでないのなら、ここで待っていても意味はないわ」

 うむを言わさずにともえの手を掴み、ジルはプラットホームに降りた。その背後で扉が閉まり、列車は走り去って行った。
 プラットホームは相変わらず赤黒く汚れ、照明も満足ではないが、その光がとても眩しいように感じられた。
 しかし、ゆっくりとしている時間はない。ここでは何かに囲まれるかもしれないし、大蛇が追ってくる可能性も否定できない。
 ジルはともえの手を離し、行きましょうと言った。
 見える範囲でケビンの姿はない。その事実を噛み締めながら、無人のプラットホームを歩く。ともえの足取りも重い。

「……よお。遅かったなあ、お嬢さん方」

 柱の影から、多少くたびれた声が聞こえた。ずりずりと這うようにケビンが現れた。背中を柱に預け、ケビンはジルたちににやりと笑いかける。
 相変わらずの表情だが、その顔が白いのは照明のせいだけではないだろう。左腕は力なく垂れ、少なくない血が滴っていた。
 ケビンがこちらに向かおうと足を踏み出すが、小さくよろけた。
 ともえが慌てて駆けて行き、ケビンに肩を貸す。身長差が大きいため、どちらかというとケビンに潰されているような見た目になったが。

「ありがたいが、綺麗な服が汚れっちまうぞ」
「……私の染み抜きの腕、嘗めないでよ」

 ケビンの左肩の形が変わっていた。服を脱がせないと最終的な判断は下せないが、軽傷では決してないだろう。
 制服の肩当てには人間の五指による深い傷が刻まれ、その奥の肉にまで達しているようだ。
 銃を受け取りながら、ジルはケビンに笑いかけた。

「やってみるもんね。あの映画、生きて帰れたら私も借りて見直すわ」
「……俺じゃねえよ。運転台にゃ入れなかった。勝手に動き出したんだ」

 骨折り損だと、不貞腐れたようにケビンが溜息をついた。首筋をぼりぼりと掻く。

「なんつーかよ、真っ暗になってからフレッドやジャンがいたような気がするんだよな。俺も焼きが回ったかね」
「いたんじゃないの? 私も死んだ仲間に会えた気がする」

 階段に足をかける。ともえとケビンの足元をライトで照らしてやりながら、神経を背後に配る。
 安全を確認したら、すぐにでも銃に弾丸を装填しなくてはなるまい。そして、どこか安全と言えそうな場所でケビンの手当てもしなければ――。

「生きろってことよね……?」

 ともえが言った。
 生きろ――。
 確かに、ジルたちは生かされた。だが、それだけだろうか。
 あの激情は、そんな穏やかな言葉では言い表せないように思えた。
 もっと強い言葉だ。強く、雄々しく、聴く者を奮い立たせようとする言葉――。
 エンリコの、野太い叱咤の声が甦った。

「……"戦え"――じゃないかしらね」
「戦うって、誰と……?」

 ともえの言葉を反芻する。
 誰と――。
 何と――。
 即座に排除すべき敵の姿はあっても、この事態の全貌は、この街と同じように霧に包まれたように見えてこない。
 ただし、それは生き残った"S.T.A.R.S."が身を置く戦場と変わらない。
 捉えられない敵。終わりの見えない戦い。
 そんな自分たちが戦わねばならないのは何か――。

「そうね……きっと――」

 階段を上がり切ると、改札口からの冷たい風が頬を撫でた。





【C-3/C-3駅の改札付近/一日目夜中】

【ケビン・ライマン@バイオハザードアウトブレイク】
 [状態]:身体的疲労(中) 、左肩と背中に負傷(左腕の使用はほぼ不可)、T-ウィルス感染中、手を洗ってない、ともえに肩を借りている
 [装備]:ハンドライト
 [道具]:法執行官証票、日本刀
 [思考・状況]
 基本行動方針:救難者は助けながら、脱出。T-ウィルスに感染したままなら、最後ぐらい恰好つける。
 1:駅から出る。
 2:警察署で街の情報を集める。
 ※T-ウィルス感染者です。時間経過、もしくは死亡後にゾンビ化する可能性があります。
 ※傷を負ったためにウィルス進行度が上がっています。
 ※左腕が使用できないため『狙い撃ち』が出来なくなりました。加えて精度と連射速度も低下しています。
 ※闇人がゾンビのように敵かどうか判断し兼ねています。



【ジル・バレンタイン@バイオハザード アンブレラ・クロニクルズ】
 [状態]:疲労(中)
 [装備]:ケビン専用45オート(装弾数3/7)@バイオハザードシリーズ、ハンドライト
 [道具]:キーピック、M92Fカスタム"サムライエッジ2"(装弾数0/15)@バイオハザードシリーズ、M92(装弾数0/15)、ナイフ、地図、ハンドガンの弾(24/30)、携帯用救急キット、栄養ドリンク
 [思考・状況]
 基本行動方針:救難者は助けながら、脱出。
 1:駅から出る。
 2:どこかでケビンの傷の処置をする。
 3:警察署で街の情報を集める。
 ※ケビンがT-ウィルスに感染していることを知っています。
 ※闇人がゾンビのように敵かどうか判断し兼ねています。



【太田ともえ@SIREN2】
 [状態]:身体的・精神的疲労(中)、ケビンに肩を貸している
 [装備]:髪飾り@SIRENシリーズ
 [道具]:なし
 [思考・状況]
 基本行動方針:夜見島に帰る。
 0:夜見島の人間を探し、事態解決に動く。
 1:ケビンたちに同行し、状況を調べる。
 2:事態が穢れによるものであるならば、総領の娘としての使命を全うする。
 ※闇人の存在に対して、何かしら察知することができるかもしれません


※「名前の無い駅」周辺には「悪魔の実験」の犠牲者以外の魂も囚われているようです。
※銃撃や打撃で実体化した霊魂を無力化することはできませんが、ほんのわずかだけ動きを止めることが出来るようです。これは怨霊にも当てはまるのか、またその効果が裏世界特有の事象であるか否かは後の書き手さんにお任せします。


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最終更新:2012年06月23日 17:28