遠い出来事



自分はもう“人間”ではない。
自分はもう“自分”ではない。
北条悟史がその事実を改めて確信してしまったのは、ワゴン車の死体を見つけた時だった。





感情は、どうしようともコントロールが出来なかった。
殺人を微塵も躊躇う事のない、心が凍りついてしまったかの様な酷薄過ぎる冷静さ。
自らの身体に起きている異変への、押し潰されてしまいそうな恐怖と焦燥。
相反する二つの感情は決して共存する事は無く、一方がより濃くなれば、一方がより薄くなり、まるで波の様に移り変わった。
だが、時間の経過と共に、その頻度は次第に減少していった。
徐々に徐々に、頭の中が決して望まない冷静さに侵食されていく。
その冷静さが増せば増すほどに、さ迷い歩く街中の景色に赤みが掛かっていく。視界が赤で染め上げられていく。

それが物語っているのは、何なのか――――。

怪物化が、加速していく。本能がそう伝えていた。
人としての感情は、もう二度と取り戻せなくなる。身体の中の何かが、そう、伝えていた。
葛藤やストレスを感じる事の出来る心でいられる時間は、余りにも短くなっていた。

それでも、理性は抵抗を見せていた。
時折周囲に感じ取れる生き物の気配。その度に生じる殺意の衝動。
理性がそれを押さえ込み、気配からはすぐに身を隠すか、或いは逃げ出すかした。
怖い。変わりたくない。殺したくない。関わりたくない。
心には僅かにも響かない状態であろうとも、そんな呟きを意識的に繰り返しもした。
恐怖は感じなくなっていた。それでも怖がる振りをした。
殺意に嫌悪感を覚えなくなっていた。それでも否定する振りをした。
人間らしさを保つ為に。人間で在り続ける為に。彼の理性は最後の抵抗をし続けていた。
あまりにも無意味で、空々しさすら感じる抵抗をしながら、彼は赤い世界をさ迷い歩いた。
居るのか居ないのかも分からない妹を探して、赤い街の中をさ迷い歩いた。
そうして辿り着いたのが、ワゴン車のある街外れ。彼の妹が死んでいる、この場所だった。

そこで、何よりも先に視界の中に飛び込んできたのが、見間違えようもない、妹の死体だった。
あれだけ大切に思ってきた妹が、死んでいた。
叔母を殺害してまで守ってやろうとした妹が。
その身を人殺しに堕としてまで守ってやりたかった妹が。
あの時の叔母の様に。自分の足元で醜く崩れ落ちていた叔母の様に。物言わぬ塊となってしまっていた。

その沙都子を見つけた時、心の底から湧き上がったのは、どうする事も出来ない激情だった。

激情――――――――ただ、激情だけ。ただ、それだけだった。

沙都子を失ったというのに、生じたのは激情だけ。怒りだけ。自分から沙都子を奪った者に向かう殺意だけだったのだ。
そこには、沙都子を失った悲しみはなかった。こんなところで命を落とした沙都子に対する哀れみもなかった。沙都子に対しての想いは何も生まれなかった。
沙都子の存在は今や、空々しい呟きと同じ。どうでもいい事と成り下がっていた。
そして、それに気付いた自分に対しても、動揺も、衝撃も、絶望も、何も感じられない――――。


化け物め――――あの学生の言葉が思い起こされる。


そうだ。
自分はもう“人間”ではない。
自分はもう“自分”ではない。
人として。北条悟史として。決定的な何かはもう、とっくに失われていた。
その時、それが漸く分かった。それを受け入れてしまった。
最後の抵抗を続けていた理性までが、視界同様に赤く染まり行く。そんなが気した。抗おうとする意識はもう、働かなかった。





これで悟史は、守るべき者を失った。ならば、彼がここでやる事は一つだけだ。
自分をこんな風にした存在を排除する。
自分から沙都子を奪った者を排除する。
その二つの存在が同じ者かどうか。それは分からないが、最早生じる殺意を止める理由はない。

やがて彼は、妹の死体から静かに離れ、扉の開け放されていたワゴン車に近づいた。
死体の側に放置されたワゴン車。沙都子と関連付けて考えるのは当然の事。
沙都子を殺した者に関するものが何か残されていないか。そう考えて、扉の中に入り込んだ。
しかしそこにあったのは、見知った人間の幾つかの死体だけ。彼の求めるものは何もない。
諦めて外に出て周囲を見渡す彼の視線は、見慣れた建物の影で止まった。

「あれは……入江診療所?」

赤い視界に――――既にそれにも違和感を覚える事はなくなったが――――確かに見えるのは、雛見沢村にあるはずの入江診療所。
悟史の脳裏に、フラッシュバックする記憶があった。
頭痛に襲われ、殺風景な部屋で目を覚ました記憶。
何故か着用させられていた拘束具に抵抗し、破壊する記憶。
そして部屋から飛び出し、廊下を走り、階段を駆け上がり、診療所を飛び出す記憶――――。

「そうだ……。僕は、あそこにいた……。どうしてなんだ……?」

この街が雛見沢村ではない事は確かだ。
それなのに、どうして入江診療所が存在するのだろうか。
どうして自分は入江診療所で拘束されていたのだろうか。

「拘束……この身体……もしかして…………」

入江診療所で何かをされた。或いは何かをされた後に入江診療所に運ばれた。
思い付いたのは、映画や漫画の中ではありがちな、そんな馬鹿馬鹿しくて陳腐な物語だ。
だが、それ以外に思い付く事がない。そもそも沙都子や友人達の死体が診療所の側にあるとなれば、あそこで何かが起きた事は疑いようがない。
少なくとも、自分がこの診療所に拘束されていた記憶は思い出されてしまったのだ。行ってみるしかないだろう。もしかしたら、何らかの手がかりが残されているかもしれない。

「先生や鷹野さんは……いるのかな?」

沙都子の他にも、ここにはレナ、魅音、詩音と、雛見沢の人間の死体があった。入江や鷹野の二人がいる可能性は充分にある。
もしも二人が自分の身体と、或いは沙都子を殺した人間と関係があるのなら――――その時は容赦する事はないだろう。
もしも何も関係がないとしたら――――その状況を想定した悟史の瞳は、不気味に赤く光った。
関係ないのであれば、必要ない。多種族は、いらない。
生じたのは、どちらにしても、殺意だった。



悟史は、ワゴン車には二度と目をくれる事なく、診療所へと足を動かした。
感傷を求める事は、もうしない。いや、もう彼にはそれは出来はしない。



妹や友人、恩人へと、彼が優しさを向ける事が出来ていた日々――――それはもう、遠い出来事。





【D-2/入江診療所付近/一日目深夜】


【北条悟史(支配種)】
 [状態]:完全なガナード化、人間形態
 [装備]:無し
 [道具]:無し
 [思考・状況]
 基本行動指針:自分を化け物にした者への復讐
 0:入江診療所内を探索してみる
 1:入江か鷹野を探す
 2:もう排他的本能に逆らう事はしない



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最終更新:2013年11月14日 21:49