天狗風――隙間録・間宮ゆうか編



 駅を出ると、眩い日光が視界を白くする。昼の日差しに暖められた路面からは、薄らと陽炎が立ち上っていた。
 九月を過ぎても残暑は続き、時折、湿り気を帯びた熱い風が駅前の通りを吹き抜けていく。
 普段ならゼミの準備をしている時間だけど、私は今霞ヶ関に立っている。
 別にサボりってわけじゃない。
 霧崎先生が海外に出張し、ゼミはしばらくの間休講となっているんだから。
 出張の目的は、知る人ぞ知る"サイレントヒル"の現地調査。
 オカルトジャーナリストを志すものとして是非とも同行したかったのだけれど、哀しいかな、苦学生の私には飛行機のチケットを手配する余裕もなく――結局、居残りとなってしまった。
 数日前、純也くんもまた休暇を取ってアメリカに行くのだと言っていた。
 私だけ除け者のようで少し寂しい。
 とはいえ、純也くんも霧崎先生も物見遊山で行ったわけではない。霧崎先生の友人である式部人見さんが旅行先で行方不明になり、その捜索に向かったのだ。
 そんなことは現地の警察の仕事だとは思うものの、人見さんの向かった先が問題だった。
 そう。人見さんは"サイレントヒル"に向かったかもしれないというのだ。
 人を惑わし、誘い込む魔の町――サイレントヒル。
 犬鳴村、××村、皆神村、夜見島、きさらぎ駅、雛見沢村、氷室邸――存在を実しやかに語られる、地図にはない空白の土地。
 "サイレントヒル"もそんな都市伝説の一つだ。
 だけど、もし"サイレントヒル"に本当に誘い込まれてしまったのだとしたら――モルダー捜査官のいないアメリカ警察の手には負えない案件だ。
 解決できるとすれば、霧崎先生と私をおいて他にはいない。次点で純也くんか。
 ただし、あの人見先生が"サイレントヒル"に行くなんて考えにくいんだけどね。オカルト嫌いな人だし、そうした場所に面白半分に向かう浅慮な人でもない。人間の絡んだ事件に巻き込まれた可能性の方がずっと高い。
 それはそれで心配だけど、居残りの私には吉報を待つ他何もできないことには変わらない。
 よって、与えられた膨大な時間を有意義に使うことに決めた。元々そんなに講義も取っていないことだし。いや、ちゃんと計算したし、単位は大丈夫……のはず。
 もっとも、霧崎先生はご丁寧に課題を出していったんだけど。
 テーマは自由で、四千字程度のレポートという難物だ。
 自分はアメリカ行くんだから、その辺解放してくれてもいいもんなのに。
 私は小さく溜息を吐く。
 道行く人には、恋に悩む乙女にでも見えただろうか。この可憐な乙女の脳みそがオカルティックな単語に占められているなど、誰も想像できまい。
 珍しく、私のテーマは既に決まっていた。
 それは、"神隠し"。
 多摩地域に広まる"人面ガラス"の噂とも迷ったんだけどね。
 色々と検討した結果、タイムリーな話題でもあるし、私の原点ともいえる怪異に的を絞ることにしたのだ。
 そもそも、"神隠し"とは何か。
 一言で表すなら、人が痕跡を残さずに消えてしまうこと。
 もう少し色を付けるなら、この世ならざるもの――神や魔に取り隠され、この世ならざる世界――異界に連れ去られてしまうこと。
 今でこそ、これを信じる人間は少なくなったが、かつては人が失踪する事象の合理的な説明が、この"神隠し"であったのだ。
 "神隠し"には大まかに分けて三つのパターンがある。
 一つ目は、消えた人間が無事帰還するもの。二つ目は死体として帰ってくるもの。三つ目は死体すら帰ってこないもの。
 一つ目のパターンの首謀者は天狗や狐が多いという。ちょっと人間をからかってやろう。遊び相手になってもらおう。そんなイタズラをしそうなイメージを伴うのが、この二つの神なのだろう。
 特に、"神隠し"の別名を"天狗隠し"と言うほどに、天狗の仕業というのは大変多い。平田篤胤の"仙境異聞"に出てくる寅吉も、天狗に"神隠し"にされた男の子だ。
 一方で、二つ目、三つ目のパターンになると穏やかじゃなくなる。相手もまた、鬼や山の神といった上位の存在だ。魅入られたが最後、無事でいられない。
 隠されたものは異界で生涯を終えることとなる。その期間の長短は別にしても。
 さて、この"神隠し"だけど、調べてみると面白い法則がある。
 まず、起こり易い時間帯。
 これは想像がつきやすいかな。
 そう。夕暮れ時。彼は誰時とも呼称されるこの時間は、物の輪郭がぼやけて、方向を見失いやすい。
 また、親たちが子供たちの失踪に気付くのも、夕飯時を迎える頃だ。それまでは子供は外で遊んでいるものだったからだろう。
 そういった要素から、昼は身を潜めていた隠し神たちが夕闇にまぎれて人を連れ去るのに絶好の機会と考えられていたのだ。
 そして、この夕暮れ時に隠れ遊びをすると神隠しに遭いやすいという。
 考えてみると、隠れ遊び――かくれんぼって疑似的な"神隠し"と言えるんじゃないかな。
 "もういいかい?"
 "まぁだだよ"
 この繰り返しの後に、"もういいよ"と告げられた"鬼"の目の前に広がるのは、友人たちで犇めいていた光景とは打って変わって殺風景な広場だ。
 友人たちの痕跡はどこにも見当たらない。隠れている方も、鬼の居る空間とは一枚隔てた何処かで身を潜める。お互いの居る空間に、疑似的なずれが生じている。
 だからこそ、隠し神が寄ってくるんじゃないだろうか。
 怪談を話すと、物の怪が寄ってくるのと同じ。その遊びをしている時点で、既に浮世と異界の境目が混ざり合っていると言えるのかもしれない。
 次に、人選。
 神隠しに遭うのは、年端もいかない少年たち、知能に何らかの障碍を持つもの、そして女性だ。どれも道に迷いやすい、もしくは攫われ易い存在だ。
 前者二つは天狗の獲物となることが多く、後者は鬼だ。このあたりも、修験者には同性愛が、山人には好色がって風にそのモデルとなった者たちへの先入観が大きく反映されているのよね。
 また、前者二つは、今では差別と取られてしまうけれど、未だ人ではない半端な存在と見られていたこともあるらしい。偶然とはいえ、人の世と神の世を繋ぐ、媒介者という役割も当て嵌めるのにもぴったりだったと言える。
 最後に、神隠しに遭った者への捜索方法。
 決まって、村人総出で村の中から山や谷までを、鉦や太鼓を鳴らしながら探す。勿論、これは一番遠くまで届く音程だという合理的な理由がある。
 もっとも、柳田国男は音で隠し神を呼び寄せるって解釈をしているんだけど。要するに、捜索ではなくて奪還ってことよね。まんまと来ちゃった神に向かって、さあウチの子を返しやがれぇ。って。
 信州大学のある教授は、神隠しの捜索方法は、音による、異界とのコミュニケーションって風に説明づけていた。これには、神事や仏事で鉦や太鼓が用いられてきた歴史を踏まえられている。
 ただ、私にはどこか、諦めるための過程を踏んでいるようにも思える。葬送にも似た、一種の儀式というか。
 さて、隠された者たちは皆異界に連れ去られるわけだ。その訪問譚なんてのも各地に存在する。
 じゃあ、その異界って一体何なんだろう。
 かつて、私たちは人間が住む世界の他に、また別の世界が存在すると考えていた。
 多くは遠い海の向こうか、暗い地中の底、または遥か高い山脈の向こう――人が到底辿り着けないような場所に異界はあると言われていたのね。
 だけれども同時に、海や山、辻などには時空の裂け目のようなものがあるとも信じられてきた。云わば、異なる世界同士をつなぐ、結び目の様なものね。
 知らず知らずのうちにそこに触れたものは、そこから異界、浄土、幽世、彼岸、常世――様々な呼び方があるけれど、つまりは向こう側に引き込まれてしまう。
 地方によっては、その結び目を閉じるためには誰かの命を投げ出す必要があるなんて伝わっている場合もあるみたい。馬頭観音は、裂け目から主人を守るために命を捨てた馬たちを祀ったものなんて解釈もあったりね。
 一番有名な異界のお話は"浦島太郎"じゃないかな。
 助けた亀に連れられて~の唄の通り、太郎は竜宮城に連れて行かれるわけだけど、竜神の妻・乙姫に別れを告げ、結局彼は常世から、こちら側に返ってきてしまう。しかし、人の世では何百年も経過しており、太郎を知る者は一人もいなかった。
 これは視点を変えれば、何百年も前に海辺で失踪した若者が、その当時の姿のままで帰ってくるという"神隠し"のお手本ともいうべき要素が揃っている。
 そして、これは人が容易に異界に隠されてしまうことも示している。
 海の向こうにあるとされる異界だけど、それは同時に人の生活圏の中、薄皮一枚隔てた場所に存在しているとも解釈できるのだ。
 山や海――自然は人の世界と隔絶されているなんていうのは西洋的な考え方で、伝統的な日本人の見解からすれば、自然と人に境目なんてない。
 故に山も海も、人の営みと同じ場所に併存していたと考えるべきだ。
 引いては、異界もまた人のすぐ隣にあったと容易に解釈できる。隔絶された遠い世界でありながら、異界は人にとってとても近しいものであったのだ。
 そして、だからこそ"神隠し"が、迷信ではないある種の事実としての立ち位置を形成できたのだろう。
 というよりも、"神隠し"は事実でなくてはならなかった。
 人が消える理由――私自身の立場としては、怪異としての"神隠し"が皆無であるとは思いたくないけれど、未解決の失踪事件の全てがそうであると思ってもいない。
 "神隠し"が事実とされた、過去の日本。そこにおける人の失踪の理由として何が挙げられただろうか。
 家出、人身売買、駆け落ち、心中、口減らし――事故以外にも、人が消える理由は多くある。
 そして、村社会にとって、例え周知の事実であっても露見すれば、何事もなしという訳にも行かなくなる。
 そこで利用されたのが"神隠し"だった。人が消えれば、それは全て"神隠し"と片付けられた。
 人だけでなく、事実すら"神隠し"は隠すのだ。
 それは忌むべき慣習にも見えるけど、人が生きていくための優しい嘘と言えるのかもしれない。
 辛さ、哀しみ、苦しみ、怨み――憂世にあるそうしたものを覆い隠し、一時の夢まぼろしを見せてくれる手段。
 消えてしまった子供の親たちの絶望を、ここと異なる世界――それもずっと良い世界で生き続けているという希望として。
 何らかの理由で姿を消し、舞い戻ってきた者たちを、"神隠し"からの帰還者として、蟠りなく再度受け入れる儀式として。
 子や娘などを売り、捨てざるを得なかった者たちの罪を隠し、コミュニティを存続させるための方便として。
 苦痛多き世界を覆う哀しくも優しい霧となって、"神隠し"は事実として扱われてきた。
 ただ、これはあくまで過去の日本だ。民俗学の見地での、"神隠し"の解釈に過ぎない。
 西洋化が浸透し、知性で捉えられるものこそが絶対視される今日の日本において、人の失踪は"神隠し"などで片付けられる筈はない。
 しかし、それでも解決されない行方不明者は毎年千人程度いるという。しかも、オカルトめいた語り口で述べられる事件も少なからず存在する。
 現代において"神隠し"と噂される事件は、ではどう説明をつけるのだろうか。
 共産圏による拉致か。殺され、山深くに捨てられたのか。運悪く死体が見つからないだけなのか。
 本当に、それだけで説明がつくのだろうか。そして、それらを単に行方不明事件とせず、何故"神隠し"という表現を使いたがるのか。そこを突き詰めれば、現代人の抱える闇や羨望が浮き彫りにされてくるんじゃないだろうか。
 私は、現代における"神隠し"として、ネットで拾った二つの事件を調べてみることにした。
 一つ目は、千葉県にある私立鳴神学園で起きたと噂される集団失踪事件。
 この鳴神学園は、今では珍しい生徒数千人を超える超マンモス校だ。だが、同時に毎年大勢の行方不明者・死亡者が出ていると"噂"される、曰くつきの学校であったりもする。
 もっとも、あくまで噂だ。ただし、同時に学校に纏わる怪異譚は膨大な数にのぼると言われていて、霧崎先生ならば、抑えつけられた真実が漏れだしているとでも言うかもしれない。飴玉ばあさんなんて、ネット上でも人気の妖怪の発信元でもあったり。
 勿論、その失踪事件もそうした有り触れた噂の一つとして、ネット上でしばしば挙げられている。
 噂の概要はこうだ。十数年前、旧校舎の取り壊しを記念して、新聞部の主催で学園七不思議を語る会が催されることになった。
 その当日。語り手として呼ばれた六人の生徒は順番に怪談を披露していく。語り終える度に怪現象が起こり、その語り手は姿を消していく。会場には、新聞部の生徒唯一人が残された。
 後日、語り部たちの死体が旧校舎の壁の中から見つかるなんて風にオチがつく場合もある。
 調べてみると、この噂の原型となったであろう失踪事件は実在していた。事件が起こったのは、1995年の6月。
 だけど、ここに問題がある。実際に消えたのは、四人なのだ。
 日野貞夫、岩下明美、新堂誠、風間望――当時の新聞に載っていたのはこの四つの名前だ。いずれも高校三年生。当初は、受験のストレスによる集団家出と解されていたようだ。
 けれども、とうとう彼らが帰宅することはなかった。下校し、梅雨の闇の中で四人の高校生は永遠に消えてしまった。
 追加された二人の名前は、当たり前と言えば当たり前だが、どの噂でも明言されていない。そもそも、実際の被害者である四人の名前すら噂に上がることはない。それほどまでに事件は風化してしまっているということだろう。
 噂の原型なんだから、もっと語り草になっていてもいいのに。
 話を戻そう。
 この数字の食い違いは、よくある誇張とも取れるんだけど、それならば七不思議にかけて、七人の失踪にするのが筋なんじゃないだろうか。六人という中途半端さに違和感を禁じ得ない。
 この六人という数字に、何か意味はあるのだろうか。消えたのは、本当は四人じゃないのか――。
 先日、私は実際に鳴神学園に足を運んだ。とはいえ、警備の厳しい昨今、部外者が勝手に入れる訳もない。レポートのための取材といえば承諾してくれるかもしれないけど、内容が内容だ。
 だから、下校途中の生徒を捕まえて突撃取材――だったんだけど、収穫はゼロだった。
 皆一様に、まさかと笑った。そんなものはない、ただの噂だと。
 ただ、その定型文的な誤魔化し方に疑念が生まれたのは確かだ。誰ひとり、気にも止めていないのか、実に呆気ない反応だった。一人ぐらい、面白おかしく語ってくれるお調子者が居てもいいものだろうに。暇人と憐れむようなあの視線を、私はしばらく忘れられそうにない。
 とはいえ、しつこく訊いて、不審者に思われても仕方ない。私は敗北感に打ちのめされながら、朝希に愚痴ってその日は眠った。
 気分を入れ替えて、今日はもう一つの事件について調べる予定でいる。
 それは、都内にある雛城高校で起きたと噂される女子生徒失踪事件。
 同じく十数年前、二人の女子生徒が行方不明になったと噂されている。
 トイレの花子さんに攫われただとか、裏側の霧の町に誘い込まれただとか、展開には幾つかパターンが存在する。
 勿論雛城高校にも突撃取材に行くつもりだけど、その前に実際にあった事件かどうか証拠見つけておかないと。1996年の冬頃にそういう事件があったという書き込みを見たし、心許ない情報源ではあるけれど、まずそれを頼りに国会図書館で当時の新聞を探してみるしかない。
 まあ、その前に何か食べよう。腹が減っては取材は出来ぬって言うしね。
 お店を探す私の目に、見覚えのある大きな人影が映った。人ごみの中で、頭一つ分以上抜けている巨体は見間違えようがない。小暮宗一郎という、純也くんの同僚の刑事さんだ。強面だけど、これが実にからかい甲斐のあるオジサンなのだ。
 小暮さんはどこかうきうきとした歩調でコンビニに入っていった。せっかくだし、純也くんから何か連絡があったか聞いてみようか。こちらから掛けてもいいんだけど、国際電話だ。ちょっと躊躇してしまう。ていうか、純也くんから私に連絡あってもいいと思うんだけど。
 と、歩行者信号が赤となり、人の流れが止まる。ああ、もうタイミング悪い。
 じりじりと焼けるような日差しの中、再び信号が青に変わる。
 コンビニの前に立つ直前、一際強いビル風が通りを駆け抜けた。その強さに、私は思わず目をつぶる。こういう時、短髪でよかったと心底思う。雑踏の中、自動ドアの開く音が聞こえた。
 手櫛でざっと髪を整えて、私は小さく溜息を吐いた。
 気を取り直して、私はコンビニの自動ドアを潜る。ざっと見た限り、店内に小暮さんの姿はない。トイレにでも入っているのかな。
 そう思って雑誌棚奥のトイレに目を馳せると、丁度細身の男の人が出てきたところだった。
 ……えーと、あの人が今までトイレに入っていたってことよね?
 じゃあ、小暮さんは何処?
 棚の陰になんてのは、小暮さんに限ってありえないし。
 私がコンビニから目を逸らしたのは、風が吹いた一瞬――とまでは言わないけど、小暮さんのように目立つ人が出てきたならすぐに分かる。
 ま、悩んでも仕方ない。
 私は長々と続く行列を押しのけて、店員さんに質問した。会計しようとしていた長髪の男が大量のホットサンドを床にぶちまけたが、勿論無視する。

「あの! 無駄にでかい身体で、岩みたいな顔した男の人、ここに来ましたよね!?」
「え? ええ。その人なら、今お会計して出ていきましたけど――」

 何故か非難に満ちた目で私を見ながら、店員さんが自動ドアを指さす。
 私は足早にコンビニを飛び出した。人通りの中に、あの大きな背中はない。このコンビニの出入口は一つしかない。搬入用の裏口を使うなんてのも考えにくい。
 いや、そもそも自動ドアが開く音を私は聞いている。しかし、ドアのすぐ傍にいたにも関わらず、出てきた人間の姿を私は見ていない。
 もしかして、あれが小暮さんだったのだろうか。
 私は、自分の肌が粟立っていくのを感じていた。私の周りだけ、あの冬の夜に戻ってしまったかのように空気が冷えていく。
 たった今、小暮さんは消えたのだ。なんら変わることなく自動ドアを通って、そのまま異界に引き込まれた。
 空間の裂け目――。
 薄皮一枚隔てた、向こう側の世界――。
 私が立つ、この位置に裂け目は有った。こんな、何の変哲もないコンビニのドアの前にも。
 ドアの横に身を寄せると、私は携帯電話を取り出して躊躇なく純也くんの番号を呼び出していた。だけど、呼び出し音すら鳴らずに電話は切れてしまう。霧崎先生も同様だ。
 痛いほどに鼓動が激しくなっていくのを感じていた。
 携帯電話の液晶画面から顔を上げた時、一瞬だけ、霧に覆われた街並みが見えたような気がした。
 純也くん、霧崎先生――……大丈夫、だよね?



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最終更新:2016年02月08日 09:12