序章 サイレント・シンドローム
真っ白だ。
例えば、世界が大きな金魚鉢で、そこにミルクを垂らしたとすれば、おそらくはこんな風になるに違いない。
少女 ――― 岸井ミカはぼんやりとそう思っていた。
振動と、規則正しい音。
本来ならば真っ暗なはずの窓の外に、流れてゆく霧。
珍しい、というより、こんなものを観るのは初めてだったが、何故かそれほど気にならなかった。
普段なら、好奇心の強さから言ってもそそられないことはあり得ないだろう。
何かと奇妙な噂や都市伝説、怪談話を仕入れては、先輩である長谷川ユカリや逸島チサトを、半ば強引に誘って、それらの真相究明へと赴く行動派でもある。
心霊写真の量産される公園があると聞けば撮りに行くし、自殺した女生徒の霊が出る音楽室の噂を聞けば声を録音しようと夜の学校へと忍び込む。
社交的で外向的。怖い話、不思議な話が大好物で物怖じしない、あるいは、人からはちょっとネジがはずれているんじゃないかなどと言われる、軽くてノリの良い今時の少女。
それが、概ね岸井ミカを語るときに言われる言葉である。
その岸井ミカが、ただぼんやりと、地下鉄の外を流れる真っ白な霧を、何をするでもなく眺めている。
眺めていると言うべきか、視線はそこに向いてはいるものの、まさに心ここに非ずという態だ。
きっかけは、実に些細なことだ。
知り合いの作家であるアラマタが、寄稿をしたからとたまたま送ってきたオカルト雑誌。その中にあった記事が、ミカの好奇心を刺激した。
アメリカにあるゴーストタウン、サイレントヒルに起こる奇怪な出来事についての話だ。
それを、いつもの調子でユカリ達に持ちかけた。
面白半分に、「いつか先輩達と一緒に行ってみたいですね」 等と喋っていたのだが、何故か次第に険悪な流れになり、ちょっとした口論になってしまったのだ。
改めて考えれば…というより、実際の所改めて考えるまでもなく、丁度期末試験の直前の時期である事は大いに関係している。
いつもいつも怖い噂だ何だと仕入れてきては、二人をを巻き込んでいるミカ。
その、相も変わらずと言えば相変わらずのマイペースぶりに、いつもならばあきれながらも付き合うユカリも、試験前の追い込み時に長々と益体もない話を披露されては、自然と態度も刺々しくはなる。
売り言葉に買い言葉、とでも言うか、同席していたチサトの取りなしで収まりはしたが、結局なんとはなく険悪な空気を残したまま別れてしまう。
そのことが、ミカの心にわだかまっていた。
いつもなら、早速と気分転換を済ませている。
だいたいにおいて、岸井ミカという少女は切り替えが早い。
と、いうより、常に確固として定まったモノをハナから持っていないとも言える。
思考、行動の中心にあるのは、いつも 「なんとなく」 「なりゆきで」 という、曖昧模糊とした気分によるものばかりだ。
周りからは、「ちょっとズレている」 とも言われるが、そんな事もミカ自身が気にすることはない。
これまで、そういう 「なんとなくこうすれば良い」 という気分で生きてきて、それでそこそこ巧くいっていた。
なんとなく、「面白そうな怖い話」 を仕入れては、「なりゆきで」 ユカリやチサトを誘って、噂の検証に行ったりしてきた。怖い目にあったり、不可解なことにも遭遇したが、結局 「なんとなく」 それらを切り抜けてきていた。
そのミカが、どうにも最近調子が悪い。
何故調子が悪いのか、という事を、ミカ自身はあまり分かっていない。
ただなんとなく、「人付き合いは難しい」 という様なことを思っている。
社交的で活動的、交友関係も広く、異性にも学年で一番人気。学校外にも独自のネットワークを持っている。
とはいえだからかといって、誰とも巧くやれるというタイプでも無い。
現に、彼女が通う雛城高校で最も親しくしているのは、クラスメイトではなく1年先輩のユカリとチサトなのだ。
集団の中で、器用に動き回っているようで居て、どことなく浮いている。
それが、幼い頃からの岸井ミカの立ち位置だった。
白い。真っ白だ。
空気の抜けるような気の抜けた音と共に、地下鉄のドアが開き、濃密な、それでいてふわふわとした現実感のない濃霧が、車内に進入してくる。
ミカはぼんやりとしながら、濃霧の中駅のホームへと降り立つ。
踏みしめたはずのコンクリートの地面に、一瞬脚がずぶずぶとはまりこむ錯覚を覚えたが、すぐに忘れた。
コツン、コツンと、靴音がする。
白い霧の奥にはただ薄暗い駅のホームが広がり、自分以外の気配がまるでない。
その静寂に、その肌寒さに、その非現実感に。
意識が向いたときは、既に地下鉄は発車していた。
「あれ…? ここ、何処…?」
自分以外誰もいない、真っ白な霧に包まれた地下鉄のホーム。
その濃霧の向こうに透けて見える駅の様相は、少なくとも岸井ミカが普段知っているものとは違う。
初めて見る駅。初めて見る場所。
その上、なんとなく、日本らしからぬ雰囲気がする。
まるで、そう ――― 映画や海外ドラマで観る、外国の地下鉄ホームの様だ。
その違和感をぼんやりと抱え込んだまま、しかしこのままここにいるのにも気が乗らず、ふらふらとミカは歩き出す。
誰か、そう、駅員が見つかれば、ここが何駅かも分かるだろうし、いっそ何なら外に出てタクシーを拾っても良い。
そこそこ裕福な家庭に育つ岸井ミカにとって、それが数駅程度の距離ならばお小遣いで事足りるし、思ったより多ければ親に謝って払って貰えば良い。
そう思い、階段らしき方向へと歩き出し…何かを踏み…滑った。
白い。全てが真っ白だ。
霧と言うよりもむしろ、純白の薄絹を幾重にも被せられたかと思うほどに白い。
ぼんやりと白い膜。
その膜の内側に、岸井ミカはいる。
おしりが痛んだ。
ずきずきと、熱をはらんでいる。
半ば混乱した意識のまま、上体を起こす。
地面はしっとりと濡れて冷たい上に、薄汚れている。
一瞬、自分がこんなところで何をしているのか分からなくなったが、それでもなんとか思い出す。
駅のホームで、何かを踏んで、転んだ。
おしりが痛いのは、尻餅をついたからだろう。
軽く悪態をつきながら撫でさする。
「はぁ~、もう…。ツイてないなぁ~…」
良くも悪くも、自分の不注意やミスではなく、タイミングや運の悪さに原因を求めるのがミカの楽観的なところ。
そしてその不運の原因を探すことより、まずは目についた事に興味を引かれるのも又、ミカの気質だ。
ひんやりとした地面の感触。
自分の姿を見る。
いつもの通りの雛城高校の制服。ひときわ短くしたスカートに、レモンイエローのお気に入りのデイバッグ。
そのバッグが地面に落ち、口を開け荷物をまき散らしている。
(あー、もう、サイアク…)
バッグを引き寄せ、散らかっている自分の荷物を緩慢な動作で拾い集める。
ノートに教科書 (どちらも真新しいままで、ほとんど使われてはいない)、ペンケースに筆記用具、小物入れのポーチ、三種の神器こと、MDウォークマンとカメラとポケベル、オカルト雑誌。それから、無造作に纏められた何かの包みに、赤黒く汚れた黒皮の手帳……。
…手帳?
そこで初めて、ミカは違和感を感じる。
(何…これ?)
成人男性が持つような使い古しの手帳。赤錆びた様な汚れがこびりついている。
嫌だな、と、顔をしかめる。
そうしつつも、それを放っておくのも何か居心地が悪く、おそるおそる手を伸ばして少しめくる。
『この街のルールについて記しておく―――』
乱雑な走り書きと、地図やメモに、奇妙な文言。
地図は、一見するとただの観光案内のパンフレットのようだった。
見たこともないはずの地図。
しかし、何故か記憶に引っかかる。
真ん中に湖があり、ペンで、「墓地」、「病院」、「教会」、「遊園地」 と書き込まれている。
さらには、「屋敷(東洋?)」「研究所」「ラクーンシティ警察署(?)」等と乱暴に続き、最後に目についたのは、「高校 (雛城?)」 の書き込み。
知っているはずの場所。親しみすぎているはずの場所の名前が、いやにこびりつく。
それ以上見ていたくない気分なり、無造作にそれをバッグに入れる。
そのまま、地図を挟んであった手帳の方をパラパラと眺めるようにすると、その中でやけに鮮烈に、件の一文から始まる箇所が気になった。
『ここは サイレントヒル だ。
かつて来たときとは、さらに様相が違っている。
街の配置はバラバラだし、相変わらずの濃霧はさらに酷い。
しかし、ここはやはりサイレントヒルだ。
そして、ルールも又、以前とは違っているらしい。
街の至る所に、ルールが記されている。
さらにおぞましいルールが。
1.殺せ
これは第一のルールらしい。
この街に居る他の者達を殺せば、解放されるという。
また、殺すことで街からギフトがもたらされるともいう。
2.サイレンにより、世界は裏返る。
時間経過により、定期的に裏世界へと変貌する。
これが何を意味するかは分からない。
3.定期的に追跡者が追加される。
追跡者が何者かは分からない。
一定時間毎に、我々を追いつめる者が新たに街に訪れるようだ。
4.最後の一人には、完全なる幸福が約束される。
完全なる幸福とは何なのかは分からない。望みが叶うと解釈した者も居たようだ。
ここまで書きはしたが、分からないことだらけだ。
何故私はここに居る? 何故殺し合いをしなければならない? 誰がこのルールを決めた?
何より、これが本当にこのサイレントヒルを支配しているルールなのか、確証はない。
だが、一つだけ思い当たることが無くは無い。
つまりは、私の罪はまだ赦されていないのだろうと言うことだ。
いずれこの手帳を読むであろう人よ。
そのときおそらく、私は生きてはいまい。
しかし、それでも、貴方の罪が赦されることを願う。
――― J.サンダーランド』
読み終えて、後悔した。
うなじの後ろに虫が這い回るかの様な、嫌な感触が止まらない。
途中から読むのを辞めたかったが、そうする事が出来なかった。
あまりに内容が荒唐無稽で、常軌を逸している。
それでいて、あるいは魅入られたかの様に、目で文章を追い続けた。
(たちの悪い冗談…だよね?
てか、この人、チョットおかしいんだよ…。
アラマタが前、言ってたっけか。コダイモーソーキョーとかいう奴…。
殺し合い? サイレントヒル? サイレントヒルって…)
思い出す。
アラマタから送られてきたオカルト雑誌。その中にあった数ページの特集記事。
アメリカのゴーストタウン、サイレントヒルにまつわる忌まわしいうわさ話 ―――。
頭の中では、矢継ぎ早に否定の言葉がわき上がる。
同時に、もっと頭のおかしな事実がわき上がり、それらの言葉を押しのけて意識の真ん中に居座り出す。
(英語…何で読めるの?)
生粋の日本人だし、ごく普通の高校生でしかないミカは、付け加えれば成績も大して良くはない。
スラング混じりの英語で書かれたメモ書きを、理解できるわけがないのだ。
(………そっか、やっぱり夢だ。夢なら読めるのもアタリマエだよね)
全ての不条理な現象を解決する、最も合理的な回答を呼び寄せる。
呼び寄せて、それにしがみつこうともがくようにして、身体のバランスを崩した。
崩して、両手を後ろに伸ばし。
地面に着いて ――― 。
ぬるり。
「ひっ!」
声が出てしまう。
本能的に、それを押さえようとして、短く浅い息を繰り返す。
既に冷たく、半ば乾いていた。
へどろの様な、半固形状のモノ。
匂いが … 何故今まで気がつかなかったのだろう?
こんなにも強く、鉄錆びた匂いがしているのに。
こんなにも激しく飛び散っているのに。
これだ。
これに足を滑らせたのだ。
これに足を滑らせて、転んだのだ。
駄目だ。
後ろを見ては駄目だ。
この手に触れたものが何なのか見ては駄目だ。
見たらきっと ―――。
戻れなくなる。
岸井ミカはただ闇雲に走っている。
濃霧の中を泳ぐように、あるいはかき分けるように、ただ此処ではない場所に行き着くために走る。
ここがどこかも分からないし、分かりたくもない。
今まで何度か、奇妙な出来事に巻き込まれはしたが、なぜだかそのときとは "違う"。
これは違う。
何もかもが違う。
全部嘘だ。
長谷川センパイも、逸島センパイもどこにいるのか分からない。
今までなら、こんなときにはいつも一緒にいたはずなのに ―――。
教えて欲しい。
ここは何なのか。何でこんな事になっているのか。
この手にこびりついた赤黒いものは何なのか。
あそこにあったものは ―――。
屠殺された牛のように、頭から真っ二つにされている。
かつてジェイムス・サンダーランドであったそれは、過去の罪に追いつかれ、そこに果てていた。
血だまりは半ば乾き、黒ずんでいる。
彼がサイレントヒルに迷い込み、果てた姿。
そのオブジェの向こうから、何かを引きずる様な音が響く。
ゴリ、ゴリ、というその音は、真っ白な霧の中から浮かび上がっては、再びその白の中へと吸い込まれていく。
それは罪。
それは、ジェイムス・サンダーランドが自らを罰する意識が具現化したもの。
あるいは遠目には、鳥の横顔のようにも見える、三角形の金属を頭部に持つ、人の形をしたもの。
在らざるもの、今あり得るはずのないものが、どす黒く汚れた金属の板…およそ広げた両手にも余るかの、尋常ならざる大きさの鉈を引きずりながら、ゆっくりと歩いている。
それに、何等かの意志や目的があるかと言えば、分からない。
ただその顔 ――― 三角形の赤錆びた金属の顔 ――― を正面に向けたまま、確固とした足取りで歩いている。
駅のホームから、階段を上がり、引きずった大鉈が段毎にゴリゴリと音を響かせている。
そのはずみで、鉈にこびりついた赤黒い塊の一部が落ちる。
既に原型など分からぬそれは、かつてはジェイムス・サンダーランドであったものの一部。
三角頭によって裁かれた、彼の罪の欠片。
在らざる時、在りうべからぬ場所で裁かれた、彼の罪の欠片。
その欠片をこびりつかせたまま、三角頭は白い闇の奥へと消えていった。
【D-5駅構内/一日目夕刻】
【岸井ミカ@トワイライトシンドローム】
[状態]:健康、軽いパニック
[装備]:特になし
[道具]:黄色いディバッグ、筆記用具、小物ポーチ、三種の神器(カメラ、ポケベル、MDウォークマン)
黒革の手帳、書き込みのある観光地図、中身の分からない包み、オカルト雑誌『月刊Mo』最新号
[思考・状況]
基本行動方針:逃げる。
1:安全(?)な場所へ逃げる。
2:誰か(センパイ)に会いたい。