SSその7

3章「天使」


1.スナイパーあたるは世界を俯瞰する


五年前、希望崎学園の生徒の一人が行方不明になる事件があった。
少女の名を、田中有栖と言った。


異世界への召喚。あり得ざる交錯。
空間に生じた歪みは、大きな亀裂となって、未来を蝕む。
あるはずのなかった可能性が生まれ、時間の経過と共に、傷跡は開いていく。

地上を観測する上位存在──人間の語る伝承において「天使」と名付けられた者たちは、その傷を治癒すべきと考えた。
一人の天使は、人間の姿へと化身し、生徒として学園に入り込んだ。

彼女の名を、ヌメリといった。





……これは、ラブマゲドンが始まって、間もない頃の話。
鳥の声も聞こえないほど高い何処かにて。

雲間に差す天空の城。
殺風景な円い広間の中心で、眠りにつく者が一人。

その顔立ちは、美少年と呼ぶに相応しい。
いかにも人形的な──鼻先から眉目の形まで、何者かがデザインしたかのように見える美だった。
服装はたった一枚、古代のトーガにも似た白布を巻くように身に着けている。


その唇が、にわかに動く。

「……戻って来たか」

エメラルド色の瞳を見開き、少年──スナイパーあたるは呟いた。
立ち上がり、腕を伸ばし、不愉快そうに唇を結んだ。

「煩わしいものだな……この、人間の肉体は。慣れなどあり得ん」

「不効率なエネルギーの摂取に、貧弱な生命力。不完全な知覚器官……」

"スナイパー"あたるは天使である。
誰がいつそのような呼び名を付けたのか、彼は知らない。興味もなかった。

元々「アタル」は天使としての名である。
地上に降りるにあたって人間らしい名を考えるのは、いたって面倒で、無意味な事に思われたのだ。

彼にとって重要なのは、上位者として世界の守護に務めること。
それが全ての本質であり、それ以上の一切は余分だ。


「やはり、こんな仕事は早く片付けるに限る。ここまで引きずったのも、あいつの手際が悪い所為だ」

忌々し気に、同胞の名を呟く。

「ヌメリ──今は、滑川ぬめ子とか名乗っているんだったか。随分と、人間にかぶれたものだ」


先立って彼女がこの学園の調査を開始してから、およそ一年半になる。
彼女の報告は、およそ天使にあるべき客観性を欠いていた。少なくとも、アタルはそう思った。

お前はいつ、如何にしてこの「傷跡」を塞ぐつもりなのか、とアタルは問うた。

彼女の答えはこうだ。
「地上の人間と交流し、緩やかに教え導く」と。
「学園を卒業した後は、教師としてここに残るつもりです──」などと。


(愚かだ。あまりにも無為に時間を費やす、不確実な手段だ)

(我々には、他も多くの為すべきことがある。得るべき進歩が、守るべき秩序がある)

(「傷跡」もここ一つではない……「時間」はただ一つ、我らと人間との間に平等に存在するリソースだ)

(一所に拘っている余裕はない。僕は──同胞として、お前をこそ導かねばならん)


そのために、アタルは天界に戻っていた。
彼が選んだ「結論」の正当性を、天界の執行局に認めさせる手間が必要だった。

上位者の歴史は人間と共に古く、厄介な因習やしがらみは少なくない。
合理性を重んじるアタルにとって、その多くは無価値なものに感じられた。

(無価値であっても、秩序は秩序だ。今のところは、な)

とにかく、三日間を費やして、アタルは無事に大義名分を手に入れた。
半年にわたる調査の甲斐は、無事に実った訳だ。

(後は、地上に行っているヌメリを呼び戻して──)


──窓の傍らに掛けていた望遠ゴーグルを装着し、そして気づいた。

学園の周辺が、黒い靄に覆われている。
ちょうど、学園の敷地一帯を包むように。


アタルはいっそう不快そうに眉根を寄せて、己の内の知識を反芻する。
煙、幻覚……いや、霊的障壁か。

「……ソドムの慈悲結界。あいつ、何をやろうとしている」

聖書に記された罪人の街の名を冠するそれは、古き時代、人間と上位者の間で使われた盟約の術式だ。
今の希望崎学園は、外部にいる上位者からの干渉を跳ねのける。
アタルの「矢」ですら、その障壁を貫く事はできない。


舌打ちをしながら、右手を開く。
赤い光が灯され、同胞との通信を可能にする。
このか弱い人間の身において、今の彼に許された数少ない権能の一つ。

「ヌメリ。……おい、ヌメリ。応答し、状況を説明しろ」

果たして、返答はなかった。炎はただ何もない赤色を映している。
アタルは少し苛立たし気に、その炎を吹き消した。

「やけに人間に入れ込んでいると思ったが……まあ、いい」


過去にも、人間に心を移すあまり、己の使命を忘れた天使がいなかった訳ではない。
アタルも何人か、その末路を知っている。

人間としての仮の肉体と共に、朽ちていった者もいる。
己が身を蝕む老いの恐怖に耐えられず、心を改めて上位者に戻った者もいる。
しかし、その多くは同胞によって処刑された。


今のアタルの手には、天命を為すための執行権限がある。

──それに伴う犠牲も、"ある程度"は許容される。


「当然、お前は理解しているんだろうな」

静かな怒気を孕んだ声。アタルは右手を突き出し、石壁の側面を掴んだ。
こぼれ落ちた石片は、彼の手の中で光へと転ずる。


「光陰矢の如し」──手にした物体を必殺必中の光矢に変える。
罪負いし人間を裁く、天使アタルの権能の一つ。
過去にこの力を使い、暴動を起こした不良生徒を仕留めたかどで、アタルは「スナイパー」として恐れられるようになっていた。

「お前の過ちのせいで、余計な犠牲が出るんだ」

指先より放たれた矢は、光の速度で地上と向かった。
そこには安全な鳥籠を自ら抜け出そうとした、愚か者が二人。


──しかしその光矢は道を外れ、海へと落ちた。
何事もなかったかのように、そのまま彼らは歩いていく。

「……"ハズレ"か」

天使としての殺戮権能には、いくらかの制限がある。
たとえば、全く罪を犯した事のない人間を裁くことはできない。
たとえば、真実の愛によって結ばれた、幸せになるべき二人を殺すことはできない。

これもまた、上位者の伝統が紡いできた、アタルにとっては忌まわしき美徳だった。
もっとも、そんなものに該当するのは、せいぜい百人に一人といったところ。
この学園の全体でも、せいぜい四、五人しか該当しない事を、今日までの調査において確認している。
いちいち気に掛けるほどの数ではない。

……今の時点では、そう考えていた。


アタルは考える。

ソドムの慈悲結界は、そう長期にわたって維持できるものではない。
上位の天使でも、せいぜいが一、二か月。
ましてやヌメリは、アタルよりも数段は"格下"だ。保って数週間といったところだ。

二、三週間。
それだけ待てばいずれ、ヌメリは音を上げるだろう。

「……いいや、待っていられるものか」

それでも、これ以上の余計な時間を彼女のために取られることは許せなかった。
稼いだ時間の中で、次の手を打って来る可能性もある。
何とかして、あの結界を──。


その時、遠くから声が聞こえた。
鳥も飛行機も通過しない、地上一万メートルの空にあって、いったい何者が。
まさか、ヌメリではあるまいが。


「あ、あたる様あああああああっ!!!」

アタルが目にしたのは、翼もなく飛来する少女の姿であった。
彼女の身体は時速三百メートルで上昇を続け、声をドップラーさせながら雲間を突き抜けていった。

「ど、どこにいらっしゃるんですかぁぁぁぁ!!!」

かと思えば、再び落ちてくる。

「私はああああああぁぁっ!貴方さまあああああぁぁぁ!」

上昇。

「を、お慕いしておりまああああぁぁぁぁぁっ!!!」

下降。

「あ、ああああああっ!やばい!!!そろそろ限界!!!」


無言のままその光景を眺めていたアタルは、おもむろに手元で「矢」を作り出し──しかし、射る事をやめた。
無論、慈悲など抱いた訳ではない。

結界を抜けてここまで来た人間、それだけで十分気に食わなかったが。
ただ殺すより、利用した方が甲斐がある。

アタルは扉を開き、背中の翼を羽ばたかせて飛翔する。
喧しい上下運動を繰り返す少女の元へ向かい、その首根を掴んだ。


「あっ……あたる様っ……?思った通り、麗しいお顔……は、羽まで生えて……」

あるいは薄い空気の息苦しさゆえに、少女は息を荒げた。
……およそ見覚えはないし、出会った事もない。
気のせいでなければ、「お慕いします」と言われた気がするが。

何せ、アタルはこの空中庭園より、一度も地上に降りた事がない。
それほど人間と直接的に関わる事が嫌だったし、すべきではないと思っていた。
必要な情報は、全てここから観察すれば手に入る。
実際、それで不都合なく事は運んでいたのだ──ヌメリが、余計な事をしていなければ。

(──まあ、どうでもいい事だ)

理由なく好かれている事に、嫌悪感を抱きつつも。
それ以上に、アタルは個人の人間に興味がない。必要以上、知ろうと思わない。

それよりも今、訊ねるべきは。


「お前。僕の役に立つ気はあるか?」

「え……ええ!あたる様の助けになるのなら、何なりと!」


やはり理由は分からないが、この少女はやけに従順だった。
彼女の名は、牧田ハナレといった。


2.朱場永斗は少しだけ期待している


平河玲はその後、何度も朱場永斗と交流する事になっていた。

理由は大きく二つある。
食事の配給に並ぶと、自然と出くわしてしまい、向こうから声を掛けられるというのが一つ。
加えて、なるべく彼女の情緒を制御し、暴走の回避に努める必要があると考えたからだ。


ともすれば、先の泉崎清次郎の事件のような──ラブマゲドンを止める以前の惨事にさえ、繋がる可能性もある。

最初の依頼で平河が調査した、田中英一という男。
どうもエイトは、彼に対して告白をしていなかったらしい。今のところは、だが。

過去の例を見る限り、彼女の告白を受ければ最後、彼は死ぬ。
そしてその先では、また別の者が好意の対象になる。どこかで止めなければいけない。

……客観的に、判断して。
その役を負うのは、同性で、なおかつ「ヘイストスピーチ」の奔流を受けても「流言私語(ブルー・ライアー)」で耐えられる可能性がある自分が適当だった。
無論、ずっと一緒に過ごしている訳にはいかない。
限られた時間の中で、何とか彼女を思いとどまらせなくては──


「どうしたの?大丈夫?」

「あっ……大丈夫、だ」

ぼうっと考え事をしていると、隣にいたエイトがいつの間にか、間近で覗き込んでいた。
エメラルド色の光。カラーコンタクトを使っているのだろう。

平河はにわかに上ずった声を出し、かぶりを振る。

彼女はこの眼が苦手だった。
蛇の眼だ、と思っていた。
さながら睨まれた蛙のように、身体が縛られ、思考は鈍くなる。
額が熱を帯び、冷静でいられなくなるのを感じた。


(……怯えているのだ、私は)

言葉ひとつで相手を突然死させうる少女が隣にいるという、恐怖。
その冷たさが、胸を締め付けている。

……少なくとも、平河自身はそう思っていた。
その能力の性質が示す通り──彼女は随分と、思い込みやすいタイプだった。

こと自分自身の心理が関わる領域において、彼女の観察力は鈍い。
緊張と恐怖の別を、見失う程度には。


「んー?本当に?」

「あ、ああ……っ」

ぐい、と迫る。距離二十センチ。シトラスの香り。
白い手が肩に置かれる。速まる拍動。翠の視線。かわせない。

駄目だ、このままでは。抵抗しろ。
「恐怖心」を押さえつけろ。せめて、意思だけでも示さなくては。


「……は、離れてくれるか」

「んー、ふふ。嫌かも」

──嫌。嫌かも。

嫌かもとは、どういう意味だ。嫌なのか、嫌じゃないのか。どっちなんだ。訊ね返すべきか。
悪戯っぽく浮かべた、エイトの笑顔。焦燥が思考を鈍らせ、背筋に「怖気」が走る。

「なんか面白いんだもん、花ちゃんの反応」

「な……っ!?」

動揺を、見抜かれていた。表情には出していなかったはずなのに。
しかもこの少女は、全てを悟った上で、敢えて楽しんでいたという。

何たる明察──異次元の演算能力を誇る頭脳は、僅かな脈動や心拍の差異までも知覚するというのか。

頬を朱に染めながら、平河玲の思考は混沌を巡っていた。





「ね、花ちゃんはさ。気になる人とか、いないの?」

屋上。エイトは翻ってこちらを向き、手摺に背を預ける。

「……気になる、って」

率直に一番気になっているのは、他でもない目の前の相手だったが。
流石に口にはしなかった。

「ほら、恋人候補?いつも私のことばかり話してるから、花ちゃんの方はどうなのかなーって」

「そういう意味なら、いないな」

「んー、ほんと?」

「ほ、本当だ」

何が不満だったのか。
エイトは「む」と唇を結び、眼を細くした。

「作りたくないの?恋人」

「……ああ。ラブマゲドンの脱出は、諦めるよ。適当に過ごして、罰を受けて、終わりにする」

胸に灯る「不快感」。しかしどういう訳か、その瞳の光から目を逸らす事ができない。
「恐怖心」を抑え込みながら、平河はまた嘘を吐く。

ラブマゲドンを潰す、などと軽々しく言えるものではない。
特に、エイトは自主的に参加した手合だ。反対派に引き込む余地はないだろう。

「無理に出ようとしたところで、余計な不運を受けるのがオチだからな。いっそ最初から諦めておけば、気苦労も少ないというものだ」

「ふーん……なんか、勿体ないね。せっかく、女子高生で青春なのに」

「悪いけど、私はそういう人間なんだ」


おそらく、それは本心だった。

恋人を作りたいと思ったことも、そういう関係に憧れたこともない。
他人の交際関係を観察こそすれ、平河玲にとってそれは全て他人事であった。
愛情も、嫉妬も、大抵は「そういうものだ」と情報として理解するだけ。その先はない。

「そういう君は」

平河は訊ね返す。

「やはりどうしても、恋人を作りたいのか?」

エイトが恋人作りを諦める──それは何より、望ましい事だ。

彼女自身、自分の「告白」の危険性に気づいている。
自覚し、理解して──その上でこれまで、己の感情の勢いに流されてしまっている。
その熱を、律することさえ心掛ければ。
少なくとも当面は、犠牲者を出さずに済むはずなのだ。平河はそう考えていた。

「……うん」

やはり、思うところがあるのだろう。
肯定でこそあったが、その返答には少し迷いがあった。

「……そういえば、田中先輩の事なんだけどさ」

空を仰いで、エイトは続ける。

「やっぱり……あの人に告白するの、やめようかなと思って」

「そうか」

平河はにわかに安堵を覚えた。同時に、ある程度予想していた事でもあった。
少し前までは、「田中先輩」について語りだすと止まらない彼女だったが、最近は殆どその話題を出さなくなっていたのだ。
時折会話の中に「でも、告白したらどうなるか不安に思うことはない?」などと、能力を織り交ぜて。
少しずつ思考を誘導していた平河の努力が、ようやく実ったらしい。

──と思ったが、どうやら違った。


「他に、好きな人ができたんだ」

「……え?」

「ふふ、まだ内緒だけど。……ちょっと、思うところがあってね」

誤魔化すようにはにかんで、「それじゃ」とエイトは立ち去って行った。





皆の世界は、私にとって遅すぎて。
私の言葉は、皆にとって早すぎるらしい。


生まれつき、そういうものだと理解していた。
溢れ出る言葉を整理し、抑制し、不自然のないコミュニケーションを築く。

少しばかり退屈な他は、何も問題はなかった。


──初めての「恋」に出逢うまでは。


知らなかった。
恋をした人間が、こんな事になるなんて。

伝えるべき言葉は多く、感情は洪水のように押し寄せてくる。
そこには、一つとして、切り捨てていいものはなかった。

何もかもが大切で、輝いていて、熱い。
この一切を言葉にして、伝えなければと、そう思った。


整理し、整列させ、貴方に伝えるべき完璧な文言を探し、練り上げる。
百時間以上を費やして、削り、継ぎ足し、言い換え、組み立て、磨き上げる。

少し長くなってしまったけれど──それでも、何とか、満足のいく形になった。
貴方のために、作り上げた ■ 万文字。


どうか、受け取って欲しい。
聞いて、答えを返してくれればいい。
私は、それだけで──。


「私は、貴方の事が、好き──」

「ごめん!俺、他に好きな人いるから!」

「……え」


──それだけで。

たった一言。私の感情は、無残に切り捨てられた。

断られる準備はできていた、だけど。


伝えるべき想いの、まだ0.1%も伝えてないのに。

大切に練り上げた私の言葉は。
行くべき所を失い、死んでいったのだ。


(待ってよ。最後まで、聞いていってよ)

(何も知らないうちから、判断しないでよ。否定しないでよ)


そう叫んで、追いかけたかった。できなかった。

だから──。
あの時、伝えられなかった全て。

あの時殺された、速見桃の無念。

それこそが、「ヘイストスピーチ」。


(逃げられる前に、否定される前に)

(どうか、この一瞬で)

(全て、全て)

(全てを、伝えきらなくちゃいけない)


その強迫観念が、速見桃を生まれ変わらせた。
恋愛殺人者。魔人、朱場永斗へと。


……だからこそ。

思えば、それは初めてだったのだ。
仕事とはいえ。当事者でないとはいえ。

一度口にしたら止まらない、この恋心の奔流を。
最後まで聞いて、返事をしてくれたのは。


たった一言、『幸運を』という三文字であっても。
彼女にとっては、何よりも得難い言葉だった。


そう、だから──もしかしたら、と。少女は淡い期待を抱く。

この人が相手なら、私の能力は、いらないのかもしれない。





そして、彼女が立ち去ってから間もなく──平河玲は、知る事になる。


「平河玲」のアカウントに、メッセージが届いていた。
差出人の名は、朱場永斗。
「@鬱」の部分は、いつの間にか消えていたらしい。


『ねえ、情報屋さん。突然、こんなメッセージを送ってごめんなさい。新しく、依頼したい事があって』

『貴方について、知りたいの』

『平河玲が、どんな人間なのか、知りたいの』

『……受けてくれる、かな』


(……待て、落ち着け)


混乱、そして焦燥。
ゆっくりと、重苦しく。平河玲は息を吐いた。

「貴方について、知りたいの」──その文言を見た瞬間、エイトの穿つような眼差しが、脳裏に蘇った。
彼女はやはり、江戸川花の裏側を探ろうとしていたのか。
あるいは、既に勘づいていたのだろうか。

思考は記憶を巡る──飄々として思わせぶりな言動も、全てが怪しく見えてくる。
知られないように心掛けてはいたが。それでも、完璧に隠し通せたという自信はない。
朱場永斗の洞察力は理外にある。
三分の一の時間流に生きる彼女には、通常見えていないものが見えている。


(……どうする。やはり彼女は、気づいたのか。江戸川花が、平河玲であると……)

(私は、どうすればいい)

既に、この正体が知られてしまっているとしたら。
どうして彼女は、直に「江戸川花」を告発しようとしないのか。

いや、これこそが告発なのか──しかし、一体、何が目的で?
彼女の目的は、恋人を作ること──であればその妨害をしていた私の始末?「流言私語(ブルー・ライアー)」の発動に気づいていた?

(……それにしても、手を下した方が早い。あいつは、私よりも強い……)

(つまり、疑念は出ているが、まだ確信には至っていない状態……?確認のために、平河玲の方へ揺さぶりを──)


「思い悩んでいるようだなぁ、少女よ」

強引に混乱を断ち切ったのは、知らない男の声だった。

振り返れば、手摺の上。
上半裸の不審な男が、腕組み、仁王立ちをしていた。
大胸筋に浮かび上がる、面妖なる紋様は猥褻の象徴──ご存知、男・嶽内大名である。

「分かる……ああ、分かるぞ。君の悩み事は、手に取るように分かる」

「えっ……えっ、な、何?」

すごく堂々とした変態が、正月に会った親戚の叔父さんよろしく、馴れ馴れしく話しかけてくる。
平河はいっそう困惑しつつも、目の前の男に警戒を向けた。

「何、そう構える必要はない。今日は性的活動を行うために出て来た訳じゃないんだ」

(説得力が ない)

「平河玲。君はどうも、物事を理屈で解決しようとするきらいがあるな」

「……どうして、その名を知っている」

ラブマゲドンが始まってから、外で平河玲を名乗った事はない。
ましてや、初対面の男になど──まさか、こいつの魔人能力か。


「"手に取るように分かる"と言っただろう。私は、パンティーと心を通わせる事ができるからな」

(えっ、気持ち悪い)

「ははは、その言葉は聞き慣れているよ」

(……本当に、心を読んでいる?)

「そう言っているだろう──君が、"自分自身を知られることに、本能的な拒否感を持っている"事も知っている」


──平河玲は、ただちに翻って逃走を図った。

下着と心を交わす云々という理屈は分からないが、この男の読心は本物だ。
会話を続けるだけ、暴かれ、奪われる相手。向かい合う道理はない。


「おう、待ちたまえよ」

次の瞬間、平河玲は地面に倒れ伏していた。

走り出した瞬間、足元を何かに取られて転倒したのだ。
下腹部を冷たい風が吹き抜けて、その正体が、ずれ落ちた自分のパンティであると分かった。

「はっ、え……!?」

「俺はどこかの間諜でも、君の敵でもない、通りすがりの紳士だ」

「……こ、これが紳士のすることか……!」

「下着を愛でずして、何が紳士か──さておき、さっさと本題に入ってしまおう」


平河は男を振り払おうとしたが、ひとたび上から押さえつけられた以上、体格と腕力の差は大きかった。
諦めて歯噛みする少女の上で、男は言葉を続ける。

「己を秘すべきというその感情、否定はしない。誰しもがそれを持つ、だからこそパンチラは美しい」

「最低……」

「ははは、それも聞きなれている」

不快そうに唇を結ぶ平河に、男は笑顔を向けた。

「だが、己を秘するあまり、自分自身を見つめる機会を失ってはいないか」

「……何の話だ」

「大切な話さ、平河玲」

男は馴れ馴れしく、平河の頭を撫でた。
日ごろの猥褻行為によって、磨き抜かれた技術。

彼は不気味なほど、人の頭を撫でるのが上手かった。
ほんの一瞬でも、ちょっと気持ちいいと思ってしまった事に、平河は猛烈な自己嫌悪を抱いた。


「そうだな、たとえば──君の、好きな音楽は何だ?」

「……別に、ないけど。何なの急に」

突然の雑談に、平河は眉根を寄せる。
素知らぬ様子で、嶽内は問いを続ける。

「好きな食べ物は?」

「好き嫌いはしない」

「好きな漫画は」

「漫画は読まない」

「小説なら」

「読むけど……別に」

「異性のタイプ」

「……なあ、何なんだ。この質問は」


嶽内は肩をすくめた。
無論、下敷きになっている平河には見えないのだが。

「"勝手に知られる"のは嫌なんだろう?だから君に直接、訊ねているのさ」

「何のために。目的は何だ」

理解できなかった。
敵であるとして、何らかの目的で平河を尋問しているとして、どうしてこんな事を訊ねる必要がある。
読心術が無欠の本物であれば、嘘でも本当でも「考えた」時点で情報を掴み取れるのだ。
もっと他に、いくらでも実のある質問があるはずなのに。

「言っただろう。私は君の敵ではない……まあ、味方とも限らないが」

「ただ、君について知りたいと言っているんだ。実にありふれた、人間の営みだろう」

それで、こいつに何の得がある。こいつも、「平河玲」を暴くことが目的か。
依頼を請け負った同業者か、そうでなければ、愉快犯か──

「情報屋でも、愉快犯でもないさ。どういう異性がタイプなんだ?」

「……もうすぐ、誰かが通りがかってお前を見つける

「そうかもしれないが、今すぐにじゃない──答えられない、でいいのかな」

平河の能力を知ってか知らずか、嶽内は飄々として続ける。

「両親の得意料理は」

「…………カレイの煮つけ」

否、これは田中英一の好物だ。平河は嘘を吐いた。
当然、嶽内大名は切って捨てる。

「今度は適当な嘘を吐いたな。本当のところ君は、"両親の事なんて覚えちゃいない"」

「うるさい、黙れ」

「君は、君自身の事を何も知らない、語れない」

「……だから、どうした」


……薄々と、平河自身も自覚はしていた。

事実として平河玲は、日に数十の人間と交流をしていたが。
それはあくまで、「情報屋」としての役割(ロール)である。

彼女という個人は、誰とも交わらない。
自分自身ですら、その正しい姿を知らない。

機械的な役割に没している限りは、自分自身の空虚を忘れられた。
そうして、ずっと、見て見ぬ振りをしていた。


「つまり、だ。情報屋さん」

「人間は、一人では何者にもなれないのさ」





……彼女に見つめられた時に、感じるもの。

冷たい氷のような、ぐずぐずと蠢く感情。痛み。焦がれ。


この心を射られた、とでも言うのか。
自分が、今まで明かさずにいた、空虚な中身を。

曝け出してしまいたいとでも。
その先に、何かを見出してもらいたいとでも。

──狂気だ。甚だ狂っている。


「恋とは、得てして狂気だよ。平河玲」

「命の危険ですら、時には甘露となる」


……分からない。私は、情報屋で、平河玲。
探偵に憧れて、探偵になりきれない人間。

私の心は、どこにある。


3.麻上アリサにとっての僅かな幕間


ラブマゲドンの開催期間中、来賓用の宿泊施設は解放されている。
普段から敷地内で生活する生徒は自分たちの寮で寝泊まりしているが、島外からの通学者や学外の参加者は、基本的にこちらを使う事になる。

たとえばウィル・キャラダインが後者で、麻上アリサが前者だった。
明日また迎えに来るとウィルは告げて、二人は別れた。


「……んん」

麻上アリサは、深い微睡の中から静かに目を覚ました。
随分と疲労が溜まっており、節々が痛い。筋肉痛だろうか。

(ああ……けっこう無理が来るもんな、殺杉ジャックの役は……)

そんな事をぼんやりと考えながら、洗面台に向かう。
十二月の水は、ぴしゃりと指先を凍えさせた。

その時、ドアをノックする音があった。

「……ん」

誰だろう。

「おはよう、アリサ姫。ウィル・キャラダインだ。ご加減はいかがかな」

とても聞き覚えのある──凛とした男の声が響いた。
ウィル・キャラダイン。胸の内で、その名を反芻して、


「……あ、ああああ……!」

そうして、思い出した。
深い眠りを越えて忘れていた、自分の演じる役のこと。

「そ、そうだ……私はアリサ姫で……賢者キノシティーが……私は帝国の呪術師の呪いで……」

おろおろと周囲を見渡して。
そして、ようやく気づいた。
無心で演技に没頭するあまり、今まで見逃していた違和感……!

「あ、あれ……?え、脚本は……か、カメラもない……スタッフのみんなも……」

「も、もしかして、これって……」

「……撮影じゃ……ない……?」


そう、遂に!麻上アリサは気づいた!
これは撮影ではない!

八割がた、唐突なイケメンからの接吻に動転したアリサの……勘違い!

残りの二割はウィル・キャラダインというファンタジー存在そのものだ。


「だ、大丈夫かい、アリサ?今、叫び声が聞こえたけど……」

扉の外から、心配そうなウィルの声が聞こえてくる。

「ちょ……ちょっと、待っててください!身支度に、まだ時間が……!」





学園の中庭。
ベンチに二人の男女が腰掛けて、配給された菓子パンを食べている。

「えっと、アリサ……?随分と、様子が変わったね」

ブロンドではなく茶髪。碧眼ではなく黒。
昨日とは随分と様変わりした──麻上アリサの本当の姿を目にして、ウィル・キャラダインは驚嘆した。
「知恵の女神の加護」が彼女の名を示していなければ、別人だと疑ったかもしれない。

「え、ええ……まあ、色々、事情がありまして……」

麻上アリサはそっと目を逸らした。
その額は熱を帯び、声はにわかに震えていた。

この人に、全ての事情を説明しなければならない。
そう思って、部屋を出たはずだったのだが。


(い、言えない……!ずっと、勘違いでお姫様の演技してたとか……!分かってもらえないじゃん絶対……!)

(……っていうか、この人も演技じゃなくてこれやってるの!?勇者とか自称して……?な、なんで!?)

(しかも、演技じゃなくてキスしてたの!?私に??え???)

アリサは混乱していた。何が現実で何が設定だったのか、あやふやになってきていた。
よもや夢ではあるまいかと思って、頬をつねる。果たして現実である。


そんな混乱をよそにして、ウィル・キャラダインはぽつりと呟いた。

「昨日、キノシティーさんから聞いたんだ」

「キノシティー……あ、木下さん?」

「僕が探しているモノ……それは、"恋"と言うのかもしれない」


勇者の問いに、木下は答えた。

「家族を愛する、友人を愛する、人民を愛する」

「それらは、紛れもなく正しい、肯定されるべき愛だ」

「だが、その上においてなお、愛には区別が存在する」

「ただ一つ、ただ一人にのみ、向けられるべき愛の形がある」

「──人は、それを"恋"と呼ぶ」

……答えを得てもなお、彼にはその意味が理解できなかった。
泉崎ここねと、その兄の間にあったもの──曰く、あれは恋ではないらしい。


「ただ一人の"恋人"を選び、一番に愛する……」

「それでは、選ばれなかった人は、不幸になってしまう」

アリサは勇者の横顔を見た。

とても、嘘や冗談で言っているようには見えない。
昨日話していた──彼は異世界から来た勇者で、「人を愛するために必要なもの」を探しているという話。
あれは、果たして真実だったらしい。


「……ウィルさんの世界には、結婚とかってなかったんですか?」

「いや、それは勿論ある。私にも伴侶がいるし、私は彼女を愛している」

……さらっととんでもない事を言った気がする。
この人、奥さんがいる癖して、私と、こんな──いや、悪気はないのだ。
ただ、理解していないだけ。全ては無知ゆえに。


「ええと……じゃあ、もしも奥さんが、他の男の人と結婚したいって言ったら、どうする?」

「うーん、とりあえず会って話をしてみたいかな。僕も一緒に暮らす相手になる訳だし……」

「あ、多夫多妻とか普通な世界なのね……こう、腹立たしくなったり……胸がもやもやしたり。そういう事は、感じない?」

「どうしてだい?」

ウィルは心底、不思議そうな表情をした。

「妻の愛する人が増えるんだ。祝福すべき事じゃないかな」

「あー……そう来るかぁ……」


アリサは額に手を当てた。
確かにこれでは、本人も苦労する訳だ。

しばらく悩んで、別にいいんじゃない?と思った。
一人の異性を愛するというのは、私達の文化だけど。
どこか遠い場所にそういう世界がある事を、別に否定する必要はない。

……個人的に、行きたくはないけれど。

「……貴方も奥さんも納得しているのなら、それでいいんじゃないかって思いますけど……」

「それは、そうなんだけど……僕の妻、アリスはこの世界の出身者でね。僕が恋を知らない事で、彼女を不安にさせてしまっているらしい」

「あぁ……それは……」

既に、行っている人がいた。
麻上アリサは、まだ見ぬアリスに心から同情した。


「……じゃあ、そうね。今度は逆に、私達の世界の話をしましょうか」

「聞かせてくれるかな」

「ええ。……今からおよそ五百年前、オセローという軍人がいたわ」


アリサは語る。シェイクスピアの恋愛悲劇の一つ、その顛末を。

デズデモーナと愛し合い、彼女を伴侶にした、勇敢にして聡明なるオセローは。
悪人の謀略により、妻が他の男と共に夜を過ごしたと──思い込んでしまった。

もちろん、それは事実ですらない。デズモデーナは否定した。
だけど、怒りに狂ったオセローは、彼女を自らの手で殺してしまった。


「どうして……そんな、愚かなことを。愛していたんじゃないのか」

「そう、とても愚かで、哀れな人。最後は自分の勘違いに気づいて、命を絶った」

「……そういうもの、なのか」


ウィルは困惑した。
かくも凄惨で、人を狂わせる……そのような愛の存在は、彼の理解を越えていた。

アリサは語り続ける。


「そう、だから……恋って、必ずしも善いものじゃないわ」

「ただ一人に愛されたい、自分以外を向くのは許せない、あの人にとっての一番でありたい」

「それは時に毒であり、狂気でもある」

「貴方自身は、きっと違うんでしょうけど──」


そう言って、己の胸元に手を当てる。
締め付けるような拍動。焦がれ。
にわかに燻る炎が、そこにはあった。

「──貴方の奥さんは、そういう感情を抱くことがあるかも、ってこと」

「そう、か……ありがとう、アリサ。少し、分かって来た気がするよ」

「そう。それは、よかったわ」


礼を言う彼の笑顔を見て、アリサは胸の内に呟く。

ああ──本当に、恋なんて。
煩わしくて、愚かで、ろくなものじゃない。


4.糸遊兼雲は狐を走らす


希望崎学園、医術部部室棟。

四階建ての白亜の建造物は、さながら病院そのものであった。
建物まるごとが、卒業生である医師からの寄贈品らしい。

通常、この施設が生徒のために使われることはなかったが。
先の泉崎清次郎の騒動で出た負傷者、破壊された第三保健室──その煽りを受けて、生徒会は施設を開放している。
最も、ラブマゲドンを運営する生徒会の人数は最初から不足気味であった。木下と滑川の他に、二十数名。

その中に医療を心得たスタッフはどれほどもいない。
一般の医術部部員ですらボランティアに駆り出され、麻上アリサは再び「アリサ姫」を演じる事になっていた。


糸遊兼雲は、四階の一室のベッドに横たわっていた。
斬撃の鎌鼬によって腹部を斬り裂かれ、失血により気を失った彼女は、戦闘の様子を見に来た生徒会役員によって保護されていたのだ。


「ああ……!だ、大丈夫ですか、兼雲さん!」

彼女が目を覚ました時、傍にいたのは、狐の面を被った男子だった。
壁に掛かった時計を見上げる──まる一日近く、倒れていたらしい。

「……ああ、どうにか生きているらしいね」

あの傷の割には随分と、回復が速い。誰かの魔人能力が使われたのだろうか。
手足は……動く。声を出すと痛みが走るが、行動に差し支えはなさそうだ。

「よ、良かったっす……俺、本当に、どうしようかと……!」

兼雲が冷静に自分の状態を分析している横で、根鳥マオは声を震わせていた。
解けた緊張と共に崩れ落ちて、膝を付く。

「兼雲さんが、不審者と戦って大怪我したって聞いて……俺、何も気づいてなくて……」

根鳥マオが事態に気づいたのは、森が赤く染まった後の事だった。
兼雲に連絡を取ろうとすると、代わりに出たのは、治療をしていた医術部の有志生徒。
彼女の容態が危ないと聞かされ、一も二もなく、ここへ向かって来たのだ。

そうして、医術部の生徒から看護を引き継いでからずっと。
彼はここで兼雲の様子を見守っていた。
面を取れば、深く隈取られた目が現れる事だろう。

そんな後悔や必死を汲んで、敢えて兼雲は嘆息した。

「はあ……心配してくれるのはありがたいけど。あんまり、思い詰めるもんじゃないよ」

「"自分には私しかいない"なんて思われても、私が期待に応えるとは限らないし」

あくまでも冷静に。その必死の裏側に、兼雲は彼の依存心を見ていた。
……学内の情報を集める中で、根鳥マオの身に何があったのか。おおよその見当は付いている。
そして、彼が自分自身で思っているほど、やり直せない場所にはいない事も。


「そ、そういう訳じゃあ……いえ、すみません。もう、大丈夫です」

彼は一度かぶりを振ったが、すぐに申し訳なさそうに俯いた。
声の震えは、もう止まっている。

「……落ち着いたかな。それじゃ、水でも貰えるかい。口の中が渇いて仕方ないんだ」

「あ、はい!すぐに!」

ペットボトルを受け取り、喉を潤す──これで、随分とマシになった。
眼を閉じて、深く息を吸う。
随分と、休みすぎてしまった。次に為すべき事を求めて、思考を巡らせる。


「──ひとまず、君は戻って休め」

「え」

「どうせ、私の事が心配だとか言って、昨夜から一睡もしていないんだろう。そのぼけーっとした応答を見れば分かるさ」

果たして事実を突かれた根鳥は、ばつが悪そうに頭を掻いた。

「ほんと、何でもお見通しって感じっすね……」

「そんな面を付けておいて、隠せない方もどうなんだ。まあ、素直は美徳だけど」

「褒め言葉っすかね、今の?」

「いいから、休みなさいって。八時間後、また連絡するから」

悪戯っ子のような笑みを浮かべる後輩を、片手でしっしと追い払う。
どうも、彼と話していると、気が緩んでしまっていけない。





建物の外に出たところで。
根鳥マオは、すぐ引き返す事にした。
兼雲から連絡用にと預かったスマホを、病室に置き忘れてしまっていたのだ。

言い訳のしようもない、睡眠不足から来るケアレスミス。
一体これでどうやって次の連絡を取るつもりだったのかと、また小言を飛ばされていた事だろう。


そんな事を考えながら、病室に戻り。

──そして、聞いた。目にした。


「あっ……に、に逃げろっ……!私は、あ、頭のなか、入ってきて……もうっ……ク、クヒッ……!」


ベッドを覆いつくさんばかりの粘液が、彼女の細い肢体を覆っていた。
いや、侵入り込んでいた。

口から、耳から、鼻から、眼孔から──這うような水音を立てて、侵略する。征服する。
身体の内側に。心臓に。脳内に──。

その傍らに、滑川ぬめ子が立っていた。


……ラブマゲドン準備中に生徒会側へと引き込めなかった、学園理事長。
彼が格別の信を置く生徒の中に、糸遊兼雲がいた。
自ら進んで校内に残った彼女が、「ラブマゲドンを止めろ」と命を受けていると予想するのは難くない。

加えて、彼女の持つ魔人能力。情報を元に、人間関係へと働きかける力。
これを生徒会が活用すれば、参加者たちにより効率的に、愛を手に入れさせることができる。

最初から理由は十分にあった。後は、襲撃のタイミング。
負傷した彼女の傍から、人がいなくなる瞬間を待っていた。


「……戻って来て、しまったのね……」

ぬらりと輝く黒い瞳が、根鳥マオを捉えた。

「あ、ああ……」

恐怖に声が漏れだす。足が竦む──ダメだ、止まるな。
考えろ、前を向け。今度こそ、間に合う内に気づけたのだから。


武器は──入り口近くに立てかけてあったパイプ椅子を手に取り、構える。
喧嘩の心得だって、ない訳じゃない。そう言って、自分を奮い立たせて。

「……おい、ふざけんなよ。あの人に、何してんだ」

ありったけの気魄。虚勢。面を投げ捨て、目の前の相手を睨みつける。
滑川はしかし一顧だにしない様子で、ぬらり輝く指先を掲げ、広げた。

それを、攻撃の合図と見た。
振りかぶったパイプ椅子を、滑川へと叩きつける。

手応えは、水音の中に消えた。
ぶよぶよとしたゼリー状の壁が、滑川を覆うように展開し、武器を絡め捕る。
「ぬめんぬめん」。滑川の体表より溢れ出す液体は、白兵の間合いにおいて自在の肢体となる。

(何だよそりゃ……!?くそっ!)

そして、大振りの直後の間隙。
返すはパイプに絡まり這う触手が、根鳥の肉体を捕らえるべく、手元へと遡上。逃れる機はない。
粘液の壁の内側へ、引き込む──その狙いはしかし、赤い景色に阻まれた。

「馬鹿が……に、逃げろと、言っただろうがっ……!」

声の主は、赤い煙の向こうから怒号を飛ばす。
糸遊兼雲が護身用の煙玉、その催涙毒。
投擲の中心にいた滑川が怯んだ事で、数秒、触手は目標を見失う。
指先に絡みついた粘液を払い除け、根鳥マオは廊下へと転がり出た。

(──どうする、俺は)

一瞬の迷い、引かれる後ろ髪。
違う、そうじゃない。今にとって、最善の選択は。

根鳥マオは部屋を背に、駆け出し──叫ぶ。


「──生徒会に襲われている!助けてくれ、誰か!!」

最悪、捕まってもいい──自分が為すべきは、今ここで起きていた事実を広めること。
糸遊がラブマゲドンを潰そうとしていたのは事実だ。滑川としても弁明の余地はあるだろう。
しかし、それでも。この光景を目にすれば、翻る者はいるはずだ。そう思った。

「滑川だ!滑川ぬめ子に、襲われているんだ!」

──ぬちゃり。ぺちゃり。

背後から近づいてくる、冷たい音。
地を這い、壁を叩き、告発者の口を塞がんとして迫る。

速度を緩めるな。振り返る意味はない。
地を蹴り、手摺を引き寄せ、身を滑らす。

踊り場で翻った瞬間、上階より迫る仮足が視界に入った。
壁を蹴りつけ、反転──粘液は、コンクリート壁に当たって四散する。

安堵している暇はない、なおも叫びを上げながら、走る。

助けの手は、まだ来ない。根鳥マオが走り出して、まだ十秒も経っていないのだ。
三階をすり抜け、二階へ続く踊り場。

「こっちだ」

何者かの声、無機質な機械音声──足を止めず、視線を彷徨わせる。
声は下方、踊り場の足元より。
通気用の窓口から、人の顔が見えた。

「早く」





……見失った。
三階の廊下に出たところで、滑川ぬめ子は立ち止まった。

どの道、糸遊兼雲の支配には成功している。
根鳥マオが何を喧伝したところで、彼女自身に否定させれば、いくらでも突っぱねる事は可能だ。

「だけど……やはり、望ましいことじゃ、ない」

「ぬめんぬめん」は彼女の体内で分泌される粘液を操作する能力だ──基本的には。
魔人能力は、使用者の認識によってその性質を変化させる。
滑川ぬめ子は「自分が操作できる粘液」の範疇に、粘液を染み込ませた対象をも含めていた。

最初は小さな綿切れから。
雑巾、ぬいぐるみ、人形──そして、生身を持った生物へ。
そうして、今や木下礼慈や教頭の「支配権」を手にすることができる。

マリオネットのようにして、彼らの一挙手一投足を操作することはしていない。
それでは滑川自身にかかる負荷が過ぎるし、あまりにも融通が利かない。

むしろ、生物を操作するメリットはその逆──彼ら自身に知覚判断を委ねられる事だ。
思考を支配し、感情を誘導し、望ましい意思を定着させる。


意思と目的の同化──この技術を、滑川自身は皮肉を込めて「愛」と呼んでいた。

無論、この方法ではどうやっても「真実の愛」には届かない。
他人に植え付けられた言葉は、どれだけ本物らしく色づいても、偽物でしかない。
時間が経てば、いずれどこかで綻びが生まれる。

だからこそ、支配の維持には定期的な「調整」と「点検」が必要だ。
それは、無闇と支配する数を増やす訳にもいかない理由でもある。
ラブマゲドンの開始と同時に本土に帰らせた教頭はそろそろ、正気に戻っている頃合いだろう。


滑川ぬめ子は、足元を見下ろす。
自動追跡させていた触手の足跡が、通気用の窓口を濡らしていた。

根鳥マオを追跡する触手の先端には、探知用の蠅が埋め込まれている。
滑川の知覚や指示に関係なく、あの触手は目標を追い続ける。

……この先に、逃がした獲物がいる。あるいは、既に捕えている。
滑川はしゃがみ込んで、窓を開いた。

(……隠し通路)

窓を開いたすぐ下の位置に、ちょうど人ひとりが通れる程の穴があった。
建物の裏手を通るだけでは、不審に思うまい。
こうして、窓から真下を覗き込んで初めて、そこに人の通り道があると知れる。

ちょうど、三階と二階の間の屋根裏。
蠅の触手の粘液痕も、その中へと続いていた。

中に入って追うか。奥で待ち構えられている可能性を考えて、滑川は逡巡した。

(……ここで、不意討ちのリスクを負う必要はない。狭い通路は蠅に探索させて、私は出口に回る)

粘液を帯びた制服の袖口から、追加の三匹を呼び出す。
しかし、それらが飛び立つよりも早く、駆けつけてくる足音があった。


「──ついに、見つけました!」

先ほどの根鳥マオの声を聞いて、駆けつけて来た者がいたらしい。

振り返れば、背に薙刀を負って、長身長髪の女子生徒が立っていた。牧田ハナレ。
その手に握られていたのは、真紅の金属時計。

(……あれは)

ぎょろり、黒目が見開かれる。
滑川ぬめ子──天使ヌメリは、その道具の名を知っていた。

エクソダス懐中探査計。
強い霊力を持つ物品を指し示す、天界の魔具だ。
誰が、彼女にこれを与えたか?考えるまでもない。

「貴女に恨みはないけれど……あたる様のために、少し痛い目を見てもらいますよ!」

(そう……そう来たのね)

あたるが生徒を使役し、間接的に干渉する──可能性は考慮はしていた。
しかしこの状況は、滑川にとって少し予想外だ。

上位者の中でも特にプライドの高い彼が地に降りるのは、元より考え難い。
牧田ハナレが、超速度の飛翔能力を持つ事は知っていたが。
致命の矢に撃ち抜かれるリスクを負ってまで、進んで自分から会いに行くとは思わなかった。
彼女が秘め続けていた恋心までは、見抜けていなかった。

二階の廊下に立つハナレ。脇構え。
静かに一歩ずつ、段差を詰める。上ってくる。

滑川は両手を開き、粘液を染み出させ、構えた。

懐中探査計が出て来た時点で、ハナレの狙いは明らかだ。そして、正しい。
あの真紅の針が指し示すもの。今この希望崎学園で、最も強い霊力を帯びた魔具。

それこそは、滑川の体内に埋め込まれた魔石──「ソドムの慈悲結界」の制御核だ。
これを破壊されてしまえば、あたるはこの学園に対して、自由に干渉できるようになる。
牧田ハナレは、そのための使徒。

(……思ったより、不味い事になった)





根鳥マオは名も知らぬ先導者と共に、屋根裏より梯子を降り、見覚えのない地下通路へ。
古い石壁を、ランタンの細い灯が照らしている。
ここは遠い時代にあった坑道の名残だ。最もそんな事を根鳥マオは知らないし、訊ねる暇もない。走り続ける。
滑川の姿は既に見えないが、なおも一本の触手が自律する蛇の如く、二人を追い続けていた。

「ど、どこに向かってるんだ、これ……!?」

「っ……もう少し、ここだ」

その声は男とも女ともつかない、機械音声。
マフラーとニット帽で顔の半分を隠したジャージ姿の生徒──平河玲は、翻って錆びた扉に手をかけた。
根鳥マオも手を貸した。鉄錆が低く軋み、鈍重な門扉は閉じられる。

「っ……これで、いくらあの触手でも、通り抜ける事はできない

息を荒げながら、青い言葉を発する。
扉の向こう側からは、なおもびちゃびちゃと水音がしていたが──ひとまず、襲ってくる様子はない。

膝を折って座り込んだ平河に、根鳥マオはひとまず礼を言うことにした。

「その……助かったよ」

「……滑川に襲われていると、声が聞こえたから。何があったんだ?」

「ああ、兼雲さん……俺の恩人が、あの触手に襲われて。助けようとしたんだけど……俺も、捕まりそうになって、逃がされて……」

親指の爪を噛み、苦渋を浮かべる。
彼の言葉から大凡、平河は何があったのか察した。

糸遊兼雲──最後のハルマゲドンを戦った平和主義者。滑川の手が及ばなかった、学園理事長が特別の信を置く生徒。
そして、粘液を介した意思の書き換え。彼女の言うところの「愛」。

「──おそらく、殺されてはいない。生徒会の味方になるべく、思考を書き換えられている」

「どうして分かるんだよ。……っていうか、聞くタイミング逃してたけど。何者なのさ、君?」

「平河玲。情報屋をしている」

「あっ……そうだったのか、君が」

彼にとっては昨日、兼雲の指示に従って、少しやり取りをした相手だ。
「情報屋」が生徒会に買われていないか確認をするための仕込み。
果たして、その結果を待つまでもなかった。

「……ラブマゲドンを推し進めているのは、滑川ぬめ子だ。生徒会長ですら、彼女の傀儡に過ぎない」

校長も、教頭も、各学年主任も──学園運営の意思決定に関わる人間は、殆どが皆、彼女の「愛」を受けていた。
糸遊兼雲。おそらくは、ラブマゲドン阻止の命を受けて潜入していた参加者。
彼女もまた、「排すべき不穏分子」と見做されたのだろう。

殺されている可能性も、ゼロとは言えない。
しかし、滑川はどうやら──「生徒たちに真実の愛を得させる」という点においては、真摯である。
あくまで現時点の結論としてだが、平河玲は自身の元にある情報から、そのように判断していた。
なれば、彼女の持つ魔人能力。「自在鉄之帳」を利用しない手はないはずだ。

「……私は既に名乗った。君は、どうだ」

「ああ──いや、根鳥マオ。好きなように呼んでくれ」

面ならば逃げる時に失った。
何より、この期に及んで自分の体面に拘るのは、もはや矮小なことだと思った。

今まで築いてきたものが崩れ去った。その事実が既に、どうしようもない過去であるとしても。
過ぎた後悔に囚われて、「今の縁」を失う──これ以上の後悔が、あるものか。
咎あらば責めろ。それで前に進めるのなら、安い苦痛だ。

「根鳥マオ。君は、生徒会と戦えるか」

「やるに決まってるだろ。どうすれば、あの人を助けられる」


根鳥マオは無力だ。

百人と友情を結ぶことはできても、たった一人、力になるべき人を守れない。
肝心な時、傍にいられない。彼女を害する敵を倒すことも、身代わりになることすらできない。

……判断自体は正しかった。あそこで意地を張って戦っても、無意味な犠牲者が増えるだけだ。
格好つけるためじゃない。あの人のために。
どうか、勝ち目のある戦いを。

「確実ではないが……一つ、予想していた事はある」

本当ならもっと準備を進めてから実行するつもりだったけど、と平河は呟く。
糸遊兼雲が敵方に付いた以上、もはや時間に猶予は期待できない。





兼雲は病室を出て、生徒会室へと向かった。

「ラブマゲドン」の遂行。滑川が下した命令は、彼女の意思の上に正しく記されていたが。
根鳥マオの乱入──そして牧田ハナレの襲撃により、その調整は不十分。彼女本来の持つ、怜悧な思考を欠いた。
頭の内に渦巻くのは、鈍く靄がかった痛み、そして。

(……私は、滑川ぬめ子によって愛を知った)

(私は……ラブマゲドンを遂行し、生徒たちに愛を教える)

その二つの言葉のみが、彼女の意思を支配している。


生徒会室。
滑川より事前に「新しい仲間が加わる」と伝えられていた木下は、糸遊を歓迎した。
「滑川から愛を教わった」と聞けば、にこやかに破顔し、緑色の腕章を差し出す。

「そうか、お前も……フフ、クヒッ……ぬめちゃんに、"愛"を教えられたのだな」

「ああ。彼女のおかげで己が蒙昧と決別し、正しさを見つけることができたよ」

「ぬめんぬめん」の支配下にある者にとって、滑川のもたらす「愛」は絶対的な正しさの標である。
右が右であり、左が左であるように。そこに論理を差し挟む余地はない。
「自分は操られている」という知識と記憶を有していてなお──「それでいい」と判断を下してしまう。今の時点では。


「ああ、それは何よりだ!共にラブマゲドンを成功させ、この学園を愛で満たそうではないか!」

兼雲の腕に腕章が巻かれ、二人は固い握手を交わした。
その様子を見ていた他の役員は、まばらに拍手を贈る。

「まずは──ふふ、クヒッ」

頭蓋の内を胎動する「愛」に脳神経をくすぐられ、兼雲は上ずった声を上げる。

「ヒ、ハハハ……ッ、ラブマゲドンを止めようとする、不埒の輩を……」

「探し出して、止めなくちゃ……ね」

法被の懐中より和本を取り出し、机上に広げた。
「自在鉄之帖」とは違う、只の一冊。
木下が向かい側から覗き込み、訊ねる。

「これは?」

「"反抗者"……および、その可能性が高い参加者の名簿よ」

糸遊兼雲の調査によって絞られた、「反ラブマゲドン」素養のある十三名。
図らずもその情報は、元来の意図とは逆に用いられる事になる。
──その中に、根鳥マオと平河玲の名もあった。

「よし。こいつらを問い質し、折檻し──正しき"愛"へと、導けばいいのだな!」

木下が帳簿を手に取り、号令をかける。

緑腕章の役員が散らばり、校内を巡り始めた。
「糸遊兼雲」を奪われた以上、もはや時間に猶予はない──平河玲の憂いは、果たして事実となった。





地下道より出て、校舎廊下。
二人は、再び息を切らして駆け回る。

生徒会の猟犬、数は四。
幸いと、いずれも戦闘向きの魔人ではないようだが、それはこちらも同じこと。
ひとたび捕まれば、有効な手立てはない。だからこそ、他に味方が必要だった。

既に平河の端末を通して、連絡は付けている。
知る限り、生徒会に反抗する理由のありそうな者、宛になりそうな者にはすべて。
敵方に叛意ありと確信されてしまった以上、もはや慎重に動く意味はなくなった。


「──くそ、こっちも回り込まれてる!」

屋上へと続く階段。その手前で、根鳥マオはたたらを踏んだ。
背後には、一人増やして五つの影。対して、階段の上には二人。

「二人……力尽く、やってみるしかないか?」

「……そのくらいの数なら、問題ない。私は、実はかなり強い

平河は虚勢を張った。彼女の身体能力は、魔人の中では並以下だ。
流言私語(ブルー・ライアー)」は万能ではない。自分がいきなり超人にはなれない事を、平河玲は知っている。
それでも、僅かな作用はある。身体能力と反応速度の底上げ。削るように、少しずつ、現実を上書く。誤魔化す。

「なら、ちょっとは宛にしとくよ」

知ってか知らずか、根鳥は返答した。
目線で合図を取り、一瞬の間。飛び出すは同時──段差を詰め、間合いへ飛び込む。

上方より、先の一撃。
根鳥マオは姿勢を屈めてかわすと同時、右手を繰り出した。足襟を掴み、引き降ろす。
攻めの後の間隙、浮ついた重心が掬う形になった。敵は姿勢を崩し、伏して段差を滑り落ちる。

平河は掌を内側に引いた、歪な打突。一合。間合より退かれ、手練は相手の腕を掠める。
返す敵の選択は、組み付き。体格と位置を利して、ねじ伏せる動き。

(──ここだ)

互いの右手が重なった瞬間、平河は手首を返した。
隠すように握りしめていたのは、刃物ではなく黒色の小棒。
そして、二人の間に閃光が走った。
電圧警棒──小型にして、百万ボルトのスタンガン。鈍い絶叫が響く。

熱と光に焼かれ、平衡を失った身体はしかし。
組み付きの勢いそのままに、平河玲の身体を絡めとり、敷いて倒れ込んだ。

「っ、平河!?」

反転、根鳥は彼女を助け出そうと、手を伸ばす。だが、闇雲に繰り出された敵の抵抗に頬を打たれた。
殴り返すが、平河は下敷きになったまま。二発目の電撃──太い腕が、がくりと脱力した。
しかしその直後、背後から追いかけていた五人が追いついた。

「おい、手伝え!逃がすなよ、会長の命令だ!」

「さっきのは、スタンガンか!取り上げろ!」

平河の手首を押さえ付け、武器を取り上げる。
根鳥は襲い来る一人を捌いたが、後背より打撃を受け、崩れ落ちた。

「くっそ……っ!」

二対七、その分を押し返す程の超人性は、彼らにはない。少なくとも、この距離で戦いが始まった後には。
一瞬で突破し、屋上に出なければならなかった。その勝負に負けた。

しかし、四肢を封じられてなお、平河玲には言葉を発する余地があった。
「ハルマゲドン」にて名を馳せた糸遊兼雲とは違い、彼女の魔人能力の正体を知る者は僅か。それが彼らの無警戒に繋がった。

(どうする。何を発すればいい──)

現実的に、起こり得るもの。あり得るもの。逆転の可能性。
騒乱の中で小さく、自分にばかり聞こえる声で。青く呟く。

────────

その言葉が作用したのか。あるいは偶然の一致なのか。
平河自身ですら分からない──何者にも気づかれず世界を侵す。
だからこその、真赤に非ざる、青色の嘘。


ただ、事実としては。

平河を押さえつけていた男の背中から、鮮血が噴き上がった。
いつの間にそこに立っていたのか、朱場永斗。

血に塗れたナイフを掲げて、少女は猫のように妖しく笑った。
あるいは──その瞳の色は、怒り。

「ふふ」

(わたし)より(そこのおまえ)へ。
見せつけるは、凄惨たる血の情景。

「ねえ、君たち」

(わたし)より(そこのおまえ)へ。
伝えるは、無慈悲な家畜の運命。

「失せてくれる?」

降り注ぐ鮮血、突然切りつけてきた女子生徒。
その直後に彼らの脳内へと流れ込んで来たものは、悪意に彩られた言葉の洪水。


──指を断つ。一つずつ爪を剥ぎ、剥がれた跡に刃を突き立てて肉を抉り、熱湯をかけて悲鳴を上げさせ、関節を砕いて断つ。最初は手、次は足先。二十の苦痛を越えた先で、耳。外側から何度も刃を突き立て、刻み、時間をかけて削ぎ落とす。腹は特に丁寧にやる。臍にかぎ針を突き刺してかき混ぜ、徐々に半径を広げるように抉り

「ひ、あああああっ……!?」

「た、助けて、や、やめっ……!!」

突如として描写された、凄惨なる拷問情景。目の前には、血塗れのナイフを手に笑う少女。切りつけられて蹲る同胞。
止めどなく流れ込む情報は、心臓を掴み──与えられた命令を、理性を圧倒する。
その結果が、この恐慌。

「ねえ。失せろって、言ってるんだけど」


(──ここにいたら、殺される)

その言葉は果たして、外から流し込まれたものだったか、自分の内より湧き出たものだったか。
分からない──ただ、それこそが今取るべき最善の判断、選択であると思われた。
疑いも、考える余地もない。今この間にも、人体に対する苛烈な責めの情景が入り込んで来ている。
刑吏は刃を構え、次の犠牲者を見定めているのだ。

……各々に悲鳴をあげながら、彼らは散らばっていった。
背中を斬りつけられた男も、怯え、這うようにして逃げ去った。
何があったのか知覚できない根鳥と平河は、呆然としてその光景を見ていた。

「……むかし読んだスプラッター小説、役に立つとは思わなかったけど」

その光景を引き起こした魔女は、得意気に笑みを浮かべ振り返った。

「助けに来たよ、愛ちゃん」

「……ああ」

その眼差しを受けて、平河玲は心を決めた。
そこにいる根鳥マオに本名を名乗ってしまったとか、糸遊兼雲を通して生徒会から周知されてしまっているとか。
そういう事情はどうでもいい。

ただ、この人に名を告げなくてはならないと思った。
私が、何者かになるために。人間であるために。
何より、この心の在処を確かめるために。

「愛ちゃんではない」

「え?」

マフラーを解き、帽子を脱ぎ捨てる。
頬に触れる風が、いつになく冷たい。

「……私を知りたい、と言っただろ」

「平河玲だ。よろしく」

彼女は果たして、気づいていたのか分からないが。
その名乗りを聞くと、嬉しそうに目を細めた。

「ああ……ん、ふふ。そっか、レイさん」

「"やっと会えた"ね」

その微笑みを見て、平河玲は。
自分は、この人のことが好きなのだと、理解した。


5.滑川ぬめ子には救いたいものがあった


医術部部室棟、二階廊下。
相向かうは、滑川ぬめ子と牧田ハナレ。
一合ごとに薙刀が走り、触手が千切れ、粘液が飛散する。
騒動を察知して部屋を出て来た者たちは、彼女らの尋常ならざる様子を前に、逃げ出していた。

「この、厄介ですね……っ!」

刃が膜を裂く。
じゅくり。ゼリーのように震えた切断面が再生し、触手が現れる。本数は四。
柄を巻き取り、引き寄せ──しかし、千切られる。

牧田ハナレの飛翔。発動中継続する、秒速三百メートルの上方遷移現象。
百分の一秒で、三メートル。
能力の解除と同時、無より生じた運動エネルギーは無へ還る。

「これは──試合では、使わないようにしているのですが!」

気づけば牧田ハナレは天井にいた。彼女の能力を知っていた滑川の目ですら一瞬、見逃した。
その間隙、斬り下ろす一撃。触手によるガード、間に合わない。
穂先が腕を覆う粘液を擦り、鮮血を散らす。

(……どっちが、厄介だか)

痛みを堪え、滑川が見据えるのは敵の着地点。

(足元を触手で崩し、追撃を潰す)

空中にてひとたび姿勢を崩せば、攻めに回る事は難しい──しかしその隙は、何よりハナレ自身が自覚していた。
「試合では使わないようにしている」なれば、実践で振るっているのだ、この少女は。
競技武道として修めた薙刀術に、「エターナル・フライ・アウェイ」の瞬発発動を織り込んだ、独自の戦闘術式。
自身においてはこれを「地斥流」と呼んでいた。

待ち構える触手の二十センチ上方にて、彼女の身体は静止した──ように見えた。

「発動」と「解除」を同時に行った直後、彼女の肉体の速度は消失する。落下速度すらも。
それはほんの一瞬、しかし滑川にとっては予期しない"間"である。
宙に打ち留められた少女は、振り下ろした刃を引き戻し、返しの斬撃を放った。

「がぁっ……!」

呻く滑川。
脇腹を裂かれ、血が噴き出る。膝を付く。刃は内臓に達したらしい。
牧田ハナレは斬り返した勢いのまま反転し、階下の踊り場へと下った。
彼女の武技において、高地の有利は逆転する。低地にいるほど、攻め手は広がる。

「……そんな喧嘩の技、どこで覚えたのよ。お嬢様」

「古い家のしがらみ、あるいは有名税とでも申しましょうか。荒っぽいお客様も、頻繁にいらっしゃるのですよ」

追撃の足音。滑川は傷口を抑え、立ち上がる。

「どうして、あたるに協力するの」

「貴方こそ、どうしてあたる様を……あのような場所に、閉じ込めて」


──そう、教えられたらしい。

「滑川があたるを学園に干渉できないようにした」という意味で、その言葉は事実だ。
そして滑川は、その理由を彼女に教えるつもりはなかった。
否、誰にも。

(知った上で逆らえば、それは言い逃れのできない"天命への叛逆"になる)

(失敗した時、殺される数は、百八人では済まない)

(これは……私が、一人で為さねばならないこと)


「──何を、やっている」

……滑川にとっては聞きなれた、野太い声。
騒動を聞きつけて、駆けつけた男一人。

木下礼慈が、憤怒の面相を浮かべて、牧田ハナレを睨みつけていた。





「──お前のやり方には、無駄が多すぎる」

「生きている限り、人間は変化する。成長し、適応する」

「拡散し続ける、可能性を止めるには。どうすればいいか」


──知っている。
理解している。痛いほど、何度も繰り返した歴史。
だからこそ、今の私はそれを忌む。


「百人いれば、それが百通りに存在する」

「互いに弾き合い、連鎖し、集合し──束ねた生は、歴史の潮流となる」

「その果てには、栄光もあれば」

「取り返しのつかない荒廃(カタストロフ)がある」


たとえば、極度寒冷化による太陽系の凍結。
魔人能力の暴走による、全人類の白痴化。
時間流の停止。母星のブラックホール化。
またあるいは──異界との終末戦争(ハルマゲドン)


事実だ。
観測星(かみさま)が示す未来は、必ず現実との地続きにある。

カタストロフ──人類荒廃の可能性世界。
近年の科学技術の発展、そして魔人能力者の増加と共に。
その観測数は、目に見えて増加していた。


「だから私達は、止めなければならない」

「彼らを、導かなくてはならない」


「違う。この地において、既にその時期は終わっている」

「我々が正すべき節目は、まだ無数にあるのだ」

「この地に費やせる時の限界は、既に過ぎた」


……確かに、上位者のやり方は今の時代に追いついていない。

この数百年で、人類の可能性は急速な膨張を続けている。
破滅への道筋を塞ぐには、とても手が足りなくなってしまった。


博識な者たちは、緩やかに人々を導くという「旧来の上位者の在り方」の是非について議論を重ねる。
古い格式や法について一つずつ是非を問い、あるいは改め、あるいは留めて。
保守派と改革派は、静かな摩擦を繰り返す。

そうして一年を費やす間に、人類の数は一億も増えている。
地図の色は塗り替わり、新たな秩序が生まれる。


「議論よりもまず行動を」と、焦燥に駆られる者が現れる事は、また道理と言える時勢だった。
アタルもその一人だ。
半年前、彼は執行局の改革派を通じて、ヌメリが修正を担当する希望崎へ「指導」に現れた。


「この学園は、魔人能力者の巣窟。強烈なエゴの坩堝だ」

「五百二十ものカタストロフ可能性を実らせる、毒に侵された枝だ」

「切断する必要がある。剪定し、消毒し、世界に害をもたらさぬよう」


「──しかし、それを続ければ」

「可能性を絶ち続ければ、いずれ人は滅ぶ」


「無論、"我々"としても無闇な犠牲は望ましくない」

「だからこそ、この半年間だ。この地区にいる人間を調査し、彼らの持つ可能性を測定した」

「測定し、選定した。最小限の、然るべき犠牲を」


アタルが差し出したのは、一枚の刻銘碑だった。


「終末戦争の因子、滅するべき百八人」

「彼らの死と共に、剪定は完了する」

「腐りきった果実の毒は、歴史より排される」


──百八人。
彼らの名を載せた名簿を、滑川は目にした。
思い出せる顔が、そこら中にあった。


「百八人。"たったそれだけ"で、人類の全てが破滅を免れる」


"たったそれだけ"。

一度は、そう思おうともした。
この地球に生きる全て、この世界にこれから生まれる全てに想いを馳せて。
この痛みは最善なのだと。

だけど、やはりできなかった。
自分の前で、涙を流しながら改心を叫んだあの男を思うと。
彼らを見捨てることは、どうしても選べなかった。

こうして、天使ヌメリ──滑川ぬめ子は、あたると戦う事を決めた。





「──お願いします。力を、貸してください」

生徒同士の喧嘩、と聞いて駆けつけたウィル・キャラダインと麻上アリサは、平に頭を下げる根鳥マオを目にした。

「ど、どうされたんですか、急に……?」

困惑するアリサに、平河玲が補足する。
生徒会の滑川ぬめ子が生徒を洗脳し、ラブマゲドン反対派を潰そうとしていること。
木下礼慈すら、彼女によって操られていたに過ぎないこと。

──彼らの正気を取り戻すために、二人の協力が必須であること。


「ウィル・キャラダイン。貴方が、目的があってラブマゲドンに参加した事は知っている」

「……その通りだ。本来、私は、このイベントを阻止する立場にない。そうした生徒がいるらしい事は聞いていたが」

「待ってください、どうか。……俺の、恩人が……大切な人の、命がかかっているんです」

先の抜刀斎の騒動のように──戦いが起きれば止めるが、基本的には不干渉を貫く。
それがウィル・キャラダインのスタンスだった。
"アリサ"という役割は、それに付き従うもの。

「……ウィル様」

彼女は迷った。アリサという役割の分を越えて、彼に意見すべきかどうか。
しかし、ウィルはそれを目線で制した。

「私は"勇者"だ。そこに苦しむ人がいれば、救うために最善の努力をする」

「アリスが苦悩し、見知らぬ少年が悲痛を叫ぶとき。私は、どちらかを選ぶことはしない」


勇者とは、常に「選ばされる」存在だった。
誰かを助ける選択は、他の誰かを助けない選択だ。
地上に困難が尽きない限り、世界はそのようになっている。
勇者の力は、万能ではない。理解している、そんな事は。

それでも、自分の目に入る限り、手の届く限りにおいて、どちらかを捨てる事はしない。
犠牲者の価値を量り、比べる資格など。自分にはない。

「その上で、一つ訊ねたい事がある。少年」

面を上げてくれ、と手を引いて。
ウィル・キャラダインは根鳥マオの眼を見据える。

「君は、その人に"恋"をしているのか」

「……それは」


恩があるから。
ただ一つの縁だから。
必要とされて、嬉しかったから。
だから、彼女の役に立ちたい。
義理を通すのは大事なことだ。

……最初は、そう思っていた。
だけど、気づかなかった筈はない。
その裏側にある、焼けつくような情念に。

気が合わない人間とは、適度に距離を置く。
無用な摩擦によるコストを下げ、最大多数のコミュニティを目指す。
それこそが──最もリスクが少なく、居心地のいい生き方だ。
そう、信じていた。

だから……こんな風になるとは、思わなかった。


「俺は──あの人の役に立ちたい。認められたい。必要とされたい。隣にいたい」

「……きっと、俺じゃ力不足だろう。そんな事は、分かってる」

「今も……結局、こうして頭を下げる事しかできてない」

「だけど、それでも……手に入らないと分かっていても、手に入れたい物があるとすれば」


その気持ちに、名前を付けるなら──それはきっと。


「なるほど」

根鳥マオの答えを聞いて、ウィル・キャラダインは頷いた。

「それは、とても──頼もしい事だ」

恋は必ずしも善いものではないと、麻上アリサは言った。
事実だろう。あの必死さが、根鳥マオの身を滅ぼす可能性は、想像に難くない。

しかし──だからこそ、見せる輝きもある。

不安定に揺らめき、扱いを間違えれば身を焼き焦がし。
温もりをもたらし、暗闇を照らすもの。

喩えるならそれは、炎のような。





医術棟、響く破砕音。
窓ガラスが割れ、牧田ハナレの身体は吹き飛ばされた。

──彼女が振り下ろした一刀は、確かに右腕を切り裂いた。
噴き出した血と共に咆哮を上げ、木下は刃を掴み取った。
宙にいる少女を引き寄せ、叩きつけ、蹴り飛ばす。


(戦闘用の魔人能力なんて、ない筈なのに──強いとは、聞いていたけど)

(……これは思った以上に、規格外)

飛翔。解除。もう一度。
牧田ハナレは速度を「殺し」ながら、静かに着地する。
屋外に移った事は、天地自在の歩法を有する彼女にとって、幾らかの利だ。

一瞬、手元の赤時計に視線を落とす。針が示すのは、術式の在処。
近ければ近いほど、その精度は磨かれる。
滑川ぬめ子との交戦によって、その正確な位置──つまり、彼女の体内のどこに「核」があるのか、徐々にあたりが付いてきていた。
上半身。首の付け根から、腹部の間。腕にはない。

(後は──少し"引き裂けば"、はっきりする)

それを見つけ出せば、終わりだ。"私達"の勝ち。

(──なんだけど)


二階、砕けた窓より飛び出した巨体。木下礼慈。
牧田ハナレは下段に構え、走り出す。
鉛直上方にいる相手、それは何より得意の間合だ。

「飛翔」と共に刃を走らせる。秒速三百メートルの破壊的切断。
暗殺者モデルの特製薙刀は、その速度の過重に耐え、コンクリートすら引き裂いてみせる。


──その、筈だった。

ハナレが能力を発動した瞬間。
彼女の手の中で、刃が反転した。
まるで、自律した意志を持ったかのように。

……その柄からは、透明な粘液の触手が染み出していた。
「ぬめんぬめん」──自在の粘液と、それを沁み込ませた対象を操る能力。
これは既に、牧田ハナレの所有物ではない。


最も──彼女自身はこの一瞬、何があったのか理解できなかった。
ただ、自らの刃に貫かれたのだと知った。
能力の解除は間に合わず、引き裂かれた肩に激痛が走る。
苦痛と混乱。右手はもう使えない。どうすればいい、上か、下か。

その間隙へ、木下礼慈の拳が叩き込まれる。
牧田ハナレの意識は、そこで途絶えた。


「……ありがとう、助かったわ。会長」

壁面を"歩いて"降りて来た滑川は、出血した箇所を抑えながら、いつもと変わらぬ平静で礼を言った。

「ヒヒ……いや、礼など不要。生徒会長として、当然の事をしたまでだ」

木下は暗い笑い声をあげながら、しかしまた憤然とした表情に戻った。

「大丈夫か、ぬめちゃん?一体こいつは、どうしてこんな事を」

「ええ、大丈夫……血は出てるけど、致命傷は避けれたから」


地に赤い滴をこぼしながら、滑川は歩く。
木下の足元に倒れる、牧田ハナレの元に屈みこんだ。

「理由なら、貴方の想像通り……ラブマゲドンを止めるために、私を」

その答えを聞いて、木下は嘆息した。

「ああ……嘆かわしい。ここまで舞台を整えてやって、どうして彼らは俺達の"愛"に気づけないのか」

「そうね……だから、規則より早いけれど」

滑川の袖口から伸びた触手が、牧田ハナレの首に絡みつく。

「私の手で、"愛"を教えてあげないと」


滑川にとって、無暗と洗脳対象を増やす事は、望ましくない事だが。
この少女があたるの命を受けているというのであれば、無視する訳にもいかない。

「ク、ヒヒっ……ああ、頼むぜ」

滑川によって特別に精緻な「意思の調整」を受けている木下は、その言葉を否定しない。
彼女の能力による「愛」と、真実の「愛」の区別がつかない状態になっている。

パッシブ能力である「レジェンダリー木下」の結果までは誤魔化せないが。
木下礼慈の意識が、その歪みに気づくことはない。
……彼女の手元にいる限りは。

(歪みも、綻びの種も、無数にある)

(それでも、結界が保つのは、あと二週間──)


その間に、一人でも多くに愛をもたらす。
伝統的に、伝説的に。天使という存在は(それ)を重んじていた。
アタルの矢は、幸福な運命を辿るべき彼らを、裁くことができない。
天命の遂行が失敗した先で、もう一度上位者の司法へと訴えかける。

彼らはやはり、剪定されてはいけない。
導かれるべきなのだ、と。

(もし、失敗すれば……私と、百八人は粛清される)

間違っても、勝てるとは断言できない戦い。
木下礼慈、糸遊兼雲、あるいは平河玲──彼らのような、本来死ぬべきでない人間に、罪を負わせないため。
彼女は一人を選び、誰にも真実を語らない。
木下礼慈は、どこまでも操り人形であり、それ以上であってはいけない。


──風を切る音。

粘液の防壁よりも早く、木下礼慈が反応した。
掴み取るは、矢。滑川の背を狙ったもの──道着を身に着けた、根鳥マオが立っていた。
否、数は五人。

「そこまでだ、滑川ぬめ子──お前の能力の仕掛けは、既に割れている」

機械質の音声が響く、平河玲の声。
滑川が返答するより早く、木下礼慈は飛び出していた。
たて続け、彼女に危害を加える者が現れて。そうそう我慢できるほど、気長な男ではなかった。


「──お前が、そっち側に付くとはな!」

片腕で、己の拳を受け止めた眼前の男──ウィル・キャラダインに。
木下は、怒りと失望が入り混じった眼差しを向けた。

「悪いけど……今の君は、正気じゃないみたいだからね」

「何を……ヒ、ヒヒッ……言っている」

「戯言よ、聞かなくていい」

滑川は釘を刺す。念のため、相手の言葉に耳を貸すなと命令を下して。

「ああ、分かってる……イカれてるのは、どう見てもお前たちの方だろうが!」

「──そこまで言うなら、戦って決めるとしよう」

吼え立て、懐に飛び込み、蹴り上げる。
膝先に当たったのは、堅い防壁の感触──鎧ではない。アリサ・アサガミアの防護魔術。
返しに放つ、勇者の剣。足を封じるべく撫でた斬撃は、掠る。
足元より伸びた粘液の触手にうち当たり、軌道が逸れた。

「全く、敵に回すと厄介だな……!」

「褒め言葉と受け取っておきます」──絶えず呪文を唱え続けるアリサは、そのような意味を込めて視線を返した。
その発声は、ただ精霊に呼びかけるばかりではない。

──(アリサ)より(ウィル)へ。
三秒後、地霊の術で足元を崩す。

ウィル・キャラダインの気合発声。

──(ウィル)より(アリサ)へ。
左腕の治癒と、防護壁を。

たて続けに使用される、朱場永斗の「ヘイストスピーチ」。
発声を鍵とする即時意思伝達は、暗号化と念話の役割を果たし、連携を補助する。


「糸遊兼雲は、どこにいるの」

滑川に問いかけると同時、根鳥に狙撃の指示を出す。
喧嘩こそ強くはないが、弓道部副部長として何度も入賞を重ねた腕前は確かだった。

ましてや、今の彼は何時になく本気だ。ここで外すはずがない

その言葉が意味を為したのかどうか、果たして分からないが。
連続して放たれた矢は、的確に滑川の防護壁を削る。
追い込んだ先に、ナイフを手にした朱場永斗。

「……生徒会室に残っているわ。彼女は、私達に共感してくれたから」

気絶した牧田ハナレを背に、向かい合った。
彼女の思考速度は、常識の埒外にある。しかし、肉体はその速さに追いつかない。
粘液による波状攻撃を捌き続ける事は、おそらく不可能。
ウィルとアリサの連携を取る傍ら、言葉の洪水を撃つ。

「そう──」

(わたし)より(あなた)へ。
滑川の思考は、流れ込む無為の言葉に上書きされた。

その情報量は膨大だが、致死には至らない。
滑川を殺せば、洗脳は解除されるか──分からない。洗脳を解除できる可能性は見つけた。
しかし万一を考えると、殺すわけにはいかない。
そして、こと恋愛に関する話でさえなければ。朱場永斗は、その分量を理性的に制御することができていた。

無数の文字に塗りつぶされて、意識の虚が生じる。
そこに飛び込んで、ナイフの一刺し──しかし、主の意思を離れて、阻む触手。四本。
突き出そうと構えたエイトの右腕を、逆に絡め捕ろうとする。反転。
間合いから退く最中、その先端に羽ばたく羽虫を見止めた。

「──なるほど、そういう絡繰りなの」

「見た事のない、生徒……念話能力か……いや……」


額を抑えながら、思考を己が手に取り戻す滑川──そこに、青い声が重なる。
「──違う、滑川は気づかない。ここまでの発声は、完全に偽装されている
後方で、静かに呟く平河玲。
誰にも聞こえない、小さな呟き。
「ただの念話能力だと、普通は思う。聞こえる音を塞ぐ事など、思いつかない


「──さて、どうでしょう」

朱場永斗は、不敵に笑った。
立ち直りきる前に、二度目の攻勢。言葉の洪水の再構築。
根鳥マオに指示を出そうとして──そして、気づく。平河の声が重なった。


「おい、何処に行くんだ」

根鳥マオは、走り去っていた。逃げるのではない──おそらく、生徒会室に向かうため。
木下の洗脳を解除し、滑川を確保する。糸遊兼雲は、後でいい。

それが平河たちの判断だったが、彼にとっての優先順位は違った。

「──行かせてあげてくれ」

背を向けたまま、ウィル・キャラダインは言った。
鋼の如き拳は刃を掴み、受け止める。
木下礼慈との打ち合いは、一方を徒手にして、さながら鍔迫り合いの様相。

「私は、彼の意地を尊重したい」

「我儘を言って悪いが、しかし──」

勇者の刃が風を纏い、炎を噴き上げる──属性付与魔法。
木下の驚嘆。拳を振り払い、面を横薙ぎに叩きつけ、吹き飛ばす──。

「──ええ。私達が勝てば、問題ない事です」

一呼吸だけ、アリサは詠唱を止め。
そう言って、微笑みを返した。





四階、生徒会室前。

顔面に包帯を巻いた、一人の男が立っていた。
衣装は道着。背には弓。根鳥マオである。


未だ校内に手配されている彼は、混乱する医術部棟より包帯を拝借し、素顔を隠してここまで来た。
もっとも、ここから先は、隠れ続ける訳にもいかない。
生徒会室の入り口近く。集まっている役員は三人。いずれも、役職を持たない緑色。

そのうちの一人が、近付いてきた男の異様に気づき、声をかける。

「な……何だ?怪我人か?治療を受けるなら、第二校舎の保健室か──」


次の瞬間、声をかけた男は、緑色の煙に包まれた。
袖口より地面に転がる。糸遊兼雲に、「万が一の時のために」と預かっていた煙玉。

何が起きたのかも、分からぬまま──顎下に打撃、崩れ落ちる。

「なっ……何だ、おい!?」

「くそ、今は会長も副会長も──」

閉ざされた視界を、走る矢が二つ。的は音で見る。
命中、悲鳴が重なった。一人は逃げ去る足音がした。
もう一人は、なおも向かってくる。

第二矢を──いや、近すぎた。間近に息遣いがあった。
その直後、腹に殴打を受ける。
姿勢を崩したところに、もう一発。包帯の結びが解けて、床に落ちる。

(くそっ……何やってんだ)

息が乱れる。駄目だ、立て、負けるわけにはいかない。面を上げる。
煙が薄ら晴れて、互いの輪郭がにわかに浮かび上がった。


撃ち込んだタイミングは、同時。
互いの内臓を揺らし、嗚咽が漏れた。

……互いに重なり、崩れ落ちる。技術もへったくれもない、ただ力を込めただけの拳骨。
根鳥マオだけが気を失わなかったとしたら、それは、たまたま当たり所が良かったというだけの話。

果たして、彼はその偶然を味方につけた。


静かに息を吐き、立ち上がる。
端正な顔を大きく腫らし、目線は虚ろ。緊張の糸を切らせば、今にも倒れそうなほど。
それでも、止まる訳にはいかない。
新たな追手が現れる前に、片を付ける必要がある。


「……おや、休んでろと言った筈だけどね。フ、フフ」

「随分と手際がいいね、"キツネ"。私達の仲間になると言うのなら、歓迎するんだけど」


ただ一人、生徒会室の奥で椅子に寄りかかっていた糸遊兼雲は、静かに口角を歪めた。

武器も構えず、ただ静かにこちらを見ている──いや、手を懐に。
矢を構える、間に合わない。
今度は白煙が、彼の視界を包んだ。

「っ……」

机、椅子、書類棚──。部屋の構造を思い出して、根鳥マオは煙の中へ飛び込む。
椅子を踏みつけ、机の上へ。一気に突っ切って、兼雲の元へ。


「──ただの煙玉と、思ったかい」

煙を抜けた先に、少女の不敵な笑顔があった。

次の瞬間、根鳥マオは平衡を失う。足に棒が張ったような感覚。硬直。
そのまま、盛大な音と共に、転倒する。
頭を打ち付けた──数秒、意識が絶えそうになる。

「特製の麻痺毒だよ。一息も吸えば、二時間はその調子だ」

「安心しな、死にはしないからさ」


そう言って、足元に転がった根鳥マオを見下ろした。
彼の眼は、尚も諦めていない。歯を食いしばり、腕に力を込める。
ままならぬ神経信号が、無為に筋肉を震わせる。

「気合は結構。しかし、それ一本で何でも解決するのは無理ってもんだよ」


──平時の糸遊兼雲であれば、その不自然を警戒していただろう。
粘液に侵され、調整も不十分であった状態で。その洞察力は、一手遅れた。

根鳥マオは、ここまで一言も、言葉を発していなかった。


「兼雲さん。手を、貸してくれ」


開かれた彼の口蓋は、白い光に満ちていた。
その輝きは、アリサ・アサガミアが"解毒の魔法"。
それを、彼はずっと口の中に含んで持っていた。


──解毒。その本質は、体内に侵入した異物を排出する事だ。

血管を巡る竜の牙毒を抜き取るように。
毒泡に犯された肉を浄化するように。
体内の不純物を除去する奇跡。

「脳髄を侵す粘液」を、吐き出させる。


……そのための準備が、彼自身を侵す麻痺毒を消し去る事になるのは、予想外の幸運だったが。

根鳥は、地に腕を突き、兼雲へと手を伸ばす。
彼女は驚愕する。ようやくその不自然に気づき、警戒する。


──だが、その意思とは裏腹に。
無意識のうち、右手を差し伸べてしまっていた。


「宇宙ヒモ理論」、発動。

目の前で転んだ時に、手を貸す程度の好意──持っていない筈がなかった。


果たしてそれは、真実の愛には足りない。
恋心と呼ぶには、あまりにも小さい灯。
……知っていた。この男は、誰よりも他人からの好意に敏い。


(分かってる、そんな事は)

(それでもやめられないから、恋なんだ)

(だから、一方通行でいい──見返りなんて、この手ひとつで十分だ)


二人の手が重なる。兼雲の身体は、ぐいと引き寄せられて。

その唇に、温かい物が触れた。



──根鳥マオにとって、永遠にも感じられる時間が過ぎた。



「……随分と、荒っぽいやり方をするんだな。君は」

兼雲は、静かにそう呟いた。その呼吸は、いつもより少し乱れていた。
根鳥は何と弁明しようか迷い、視線を泳がせたが。

「いいよ、不明点はあるけど、大体の事情は察したから。……君が、助けてくれたんだろう」

彼は静かに頷いた。

「……ええ。本当に、もう大丈夫なんですね」

「ああ、多分ね。さっきより随分と、頭ん中がすっきりしたよ……ちょっとはしたない物、見せちゃったけど」

頭を掻いて、今ほど自分が吐き出した粘液を見やる。もはやそれが蠢く様子はなかった。
溜息を吐いて立ち上がり、手を差し出す。

「立てるかい。解毒剤なら、用意はあるんだけど──」

「いや、大丈夫っす。なんかそういう、魔法の力があって」

「魔法……まあ、君があると言うなら、あるんだろうな。何にせよ、すまなかった」


自力で立ち上がった根鳥を見て、手を引っ込める。
そうして、思い出したように「ああ」と呟いて。

「ありがとう。本当に、助かったよ」


──それを聞いた根鳥は、口元に弧を描いた。喜色満面。

「……何、その笑顔。ちょっと気持ち悪いかも」

「いやあ、ふふふ……ずっと、その言葉を言わせたかったもんで」

「何だい、そりゃ……」

口調こそ呆れた様子だったが、兼雲の頬も釣られて緩んでいた。


言葉を続けようとして、彼はふらり、とその場に崩れ落ちた。
緊張の糸が緩んだらしい。徹夜からの逃走と、戦闘の連続。
肉体の疲労が限界を越えるのも、無理からぬ事だった。

「……悪いね、本当に。君はよく頑張ったよ」

目を閉じて眠りにつく、少年を見下ろして。

「さて……私も。自分のやった事の後始末くらいは、片を付けないとな」


6.牧田ハナレの見た悪夢


木下礼慈に対して、解毒魔法を撃ち込む。
果たしてその試みは、何度となく行われていた。

ウィル・キャラダインの持つ刃にアリサの魔術を乗せ、撃ち込む。直接当てるには、あまりにも速度が足りないゆえに。
拳に、足に、腹部に。何度も傷を刻み、流し込む。

しかし──粘液の中枢は、あくまでも頭部。脳髄だった。
四肢を流れる粘液は、血と共にいくらか排出されたが。
念入りに重ねられた、木下の洗脳を解くには至らない。


「フ、ヒヒッ……まだ、まだ……この程度で、俺は倒れん!」

「お前らに……この身に漲る、"愛"を伝えきるまではッ!!!クヒ、ヒヒヒヒッ……!」

不気味な笑いを上げて、立ち上がる巨体。
ヘイストスピーチが、ウィルとアリサを繋ぐ。

(──魔力の残量は、まだ大丈夫かい)

(多少の余裕はあります──このペースで戦闘を続けて、あと十分くらいは)

(転移魔術による奇襲は、難しいか)

(……一度か二度なら。ですが、緊急退避の要を考えると、使い切る事は──)

(──そうだな。何より、既に見られた相手だ)

良好ではない。今のところ、どの解毒も有効に作用したようには見えない。
粘液を排出できているのは事実だが──細かいダメージの累積が、果たしてどこまで意味を持つか。

(あれが知性に干渉すると言うのなら、やはり)

頭部を、打たなければ。


もう一つ、懸念があった。
滑川は、木下から少しずつ排出されている粘液に気づいている。
木下に対して「頭部を守って」と指示を出し、触手によるサポートを続けている。

朱場永斗と平河玲が、彼女を釘付けにしていた。
平河は改造銃を構え、エイトに襲い掛かる触手を射抜いた。
当然、射撃の経験などなかった。シューティングゲームすらも。
弾丸は真っすぐに飛ぶ。きちんと狙いを重ねれば、外す道理はない」──ただ、そう言い聞かせて。


あれから何度か受けた「ヘイストスピーチ」の洪水により、彼女の思考はひどくダメージを受けていた。
それでも、蠅によって自律化した触手は木下の脇を固め、エイトの迂闊な踏み込みを許していない。

流言私語(ブルー・ライアー)」の功か、彼女は果たして「ヘイストスピーチ」の本質──声を介した圧縮言語であることに気づかなかった。
しかし、正体不明の念話から脳を守る目的で、粘液をヘルメット状にして頭部へ纏わりつかせ──結果的に、耳を塞いだ。
自身だけでなく、木下にも。攻性ヘイストスピーチは封じられた。


状況は膠着に近い。アリサの魔力が尽きるか、木下の体力が尽きるか。
こういう時こそウィル・キャラダインは、自分が決めなければと考える。

(次の一合で、彼の額を打つ。援護を、回してもらえるか)

(分かった、レイさんの援護を二十秒貸す。こっちは、うまく抑えておくから)

対面する、男二人。咆哮が重なる。巨躯を走らせ、突っ込んでくる木下礼慈。

「おおおおおおッ!!!」

守りはしない──上段に構えたまま、鎧で受ける。銃声。二発の弾丸が男の肩を裂き、拳の威力を弱める。
尚も金属プレートがぐしゃりと凹み、脇腹が砕けた。──それなら安い、と勇者は笑った。
拳を受けながら、剣を振り下ろす。斬るのではない──側面を見せて、頭部へ叩きつける構え。

果たしてその意図を、木下は読み切れなかった──読めないが、「絶対に防げ」と命を受けている。
逆手を掲げ、遮る。同時に踏み込んで、拳をさらに一段、押し込む。
勇者の内臓が潰れ、呼吸が絶える。背骨が軋み、悲鳴を上げた。

(まだだ、退けるものか──負けてなるものか!)

彼の気魄は、決して折れない。諦めない──再び上段に構え直し、叩きつける。
銃声。彼の背に迫る触手を、弾丸が散らす。
ウィルは振り返らない。木下も逃げない。剣による打撃に左腕をぶつけ、咆哮する。

「俺のっ……俺たちの"愛"は!!決して、負けんッ!!!」

──しかし、その一撃はいやに軽かった。
勇者は腕へと叩き付けた剣を、反動に任せて手放した。
否、最初からフェイントを狙っていた。唯一の武器を手放すという盲点を隙とする、背水の一撃。
空いた木下の左脇へ、拳が迫る。その手には、真白に輝く魔術が握られていた。

ぬらりとした感触が、手に残った。
粘液がウィルの拳を絡め捕り──しかし、魔力の輝きに吹き飛ばされる。

そのまま、木下の顎を強かに打ち上げ、振り抜いた。


白い閃光が、一帯を包んだ。


「ああ……ヒ、ヒヒ……な、何がっ……ぐ、うぼっ……」

仰向けに倒れ伏す、木下礼慈。
心臓が、手足が、発作を起こしたように跳ねる。
口と鼻から、ごぼごぼと泡が噴き出る。その巨躯を侵していた粘液が、溢れ出す。

「俺、の……俺の、愛は、っ……」


「会長っ!」

駆け寄ろうとする滑川、エイトが立ち塞がる。
このタイミングでの再洗脳、それだけは避けなくてはならない。

「邪魔ぁっ!!」

「どっちが」

手をかざし、前後より六本の触手。乱暴に払い除けて、突破しようとする。
圧縮言語で支援を要請──ナイフと弾丸が触手を砕き、風の魔術が防壁を為す。
なおも、滑川は退かない。ここで退けば、木下を失えば、ラブマゲドンは立ち行かなくなる。


その必死が彼女を追い詰めた。あるいは、盲目的にさせた。

いや──ここにいる人間の中で、一体どれほどが気づけたか。
皆、目の前の相手への対応に必死になっていた。

誰も気づかなかった──そこに倒れていたはずの牧田ハナレが、いつの間にか姿を消している事に。
秒速三百メートルで飛び上がり、空より奇襲を仕掛けていた事に。

今、この瞬間までは。


「ようやく……"見つけ"ました」

滑川ぬめ子の胸元から、刃が突き出した。
それは超硬度を誇る、魔人暗殺用の薙刀。

噴き出す血と共に、真っ赤な晶石の断片が、辺りに散らばっていた。
……学園を覆う、ソドムの慈悲結界。その核が。


「あ……ああっ……」

滑川の瞳が、絶望に濁った。
彼女の戦いは、最悪の形で失敗に終わった。

「あ、あ……ぬ、ぬめちゃんっ……!?」

口元から粘液を吐き出しながら、木下がこちらを向いた。
崩れ落ちる滑川。二人の目線が合う。

虚ろな瞳。彼女は何かを伝えようと、口を開く──。


──刹那、朱場永斗は決断した。
目の前で何が起きたのか、まだ完全な理解には至っていない。

牧田ハナレは、ただ生徒会に襲われていた、反ラブマゲドン生徒。
彼女が隙を見せたから、仕留めにかかった。
……それだけなら、いい。

それでも、滑川の瞳が語る絶望の深さは。
牧田ハナレの浮かべた、狂気的な笑みは。
不穏の気配を感じさせるに、十分だった。


ヘイストスピーチ、発動。
──(なめかわ)より(わたし)へ。


「ああ──」


「私は、失敗した」





「ああ……見える。見えるぞ」

「よくやった、人間の少女」

「いや──"我らが同胞、天使ヌメリを害した罪人よ"」

「──褒美だ。お前から、終わらせてやる」





「何、これは……」

全てを、語り聞いた──朱場永斗は額を押さえ、膝を付いた。
ラブマゲドン。その実態は、滑川ぬめ子──天使ヌメリの仕掛けた、大叛逆。
百八人の生命を賭けた、天使アタルとの戦いであった。

その全てを知って。
僅かな時間、彼女は迷った。


(混乱、している場合ではない──皆に教えるべきではないか。教えて、いいのか)

(木下の承認を受けた生徒たちは、無事に帰還したという──「真実の愛」を手に入れた者達が殺されないというのは、果たして事実らしい)

(では、結界が破壊されて、この学園はどうなる──「真実の愛」を手にした生徒が、どれほどいる)

(天使アタルは、この状況に気づいているのか)


果たして、その疑問の答えはすぐに、目の前で実証される。

一筋、閃光が走った。
さながら落雷の様に──しかしながらその光は、矢の形を取っていた。


「え、あ……っ」

「どう、して……あたる様……」

牧田ハナレは、呆然として見上げる。
自らを庇うようにして突き飛ばし、代わりに矢に穿たれた男を。

「ウィル様っ!?」


ウィル・キャラダインは勇者であるゆえに。
見知らぬ少女に危険があれば、身を賭して守る者である。

彼の腹部には、巨大な孔が開いていた。
駆け寄り、治癒魔術を唱えようとするアリサ──彼はそれを、片手で制する。


(……私はもう、間に合わない。君のその魔力は、正しい事に使え)

(皆を、救ってくれ)


圧縮言語がなくとも、その瞳は過たず意思を伝えた。
アリサは迷いを抱いたが、振り切った。
遺体の腐敗さえ逃れていれば、魔力が回復した後──時間をかけて、蘇生魔術を使う事ができる。

勇者は一度死ぬ。だけど、決してまだ終わりじゃない。
この局面を、切り抜けさえすれば。


──ヘイストスピーチ、連続発動。全員に状況を知らせる。
この学園は、処刑場となった。


「<<──弾け、弾け、弾け……!光輝の、聖霊よ!>>」


全てを聞いて、アリサは上空に光の防護壁を展開した。
残り少ない魔力リソース、その全てを費やした疑似結界。

──学園の全てを覆うには、とても足りない。
それでも、アタルにとって彼女の行動は気に喰わなかった。


二撃目、三撃目。

続けざま、光の矢はアリサの元へと狙いを定めて、降った。
頭上で二つの光が衝突し、炸裂する。
眩いばかりの閃光が、空を覆った。

防護壁に開いた穴を塞ぐべく、アリサは体内の魔力を振り絞る。


「っ……く、ああ……ああああ!」

「負けるものですか……ここで負けたら、私は!!」


両手を掲げ、咆哮する。
自分自身に、言い聞かせるように。
まだ幕は降りない。──こんな結末は、あまりにも美しくない。


「牧田、ハナレっ!!」

朱場永斗はウィルの横で座り込む少女の襟首を掴み、揺さぶった。
圧縮言語による説得──アタルを止めるために、お前の力を貸せ。空へ連れて行け。

「わ……私は……っ、あたる様を、お慕いして……」

なおもこの少女は、混乱に陥っているようだった。
信じていたアタルの裏切りから、立ち直れていない。
だが、アリサの守りがいつまで保つかも分からない。


「──むしろ、怒らないのか、お前は」

「自分を利用されて、裏切られて、殺されそうになったんだ」

あたる様とやらに、復讐したいと思うだろう!」

流言私語(ブルー・ライアー)による、事象歪曲──しかし尚も、少女の瞳は虚ろのまま。
どうすればいい。エイトは周囲を見渡す。滑川とウィルは倒れ、木下もまだ動ける状態にはない。
根鳥はまだ戻らない、他に頼れる生徒は──再び、頭上に閃光が弾ける。


「……あ」

声が漏れた。何かと思えば、胸に深い痛み。
朱場永斗の胸を、光の矢が貫いていた。

アリサの防護壁に衝突し、穿ったらしい。


(ああ……そっか)

少女の瞳から、色が失せていく。瞼が重い。
まるで、眠りに導かれるような──だけど、この失血量は。破損した内臓の数は。

(……死ぬんだね、私)

「エイト……!?」

平河玲は──振り向いて、事態に気づき、悲痛を浮かべた。


「そんな顔しないでよ」と言いたかったけど。
血の泡と一緒に、変な呻き声が出るばかりだった。

それでも、「ヘイストスピーチ」は"まだ"生きている。
可愛い顔を見せて、なんて我儘も漏れていたらしい。マフラーも帽子も、取ってくれた。

(……やっぱり、いいじゃない)

そっと、指を彼女の頬に当てる。
指先が、涙に塗れた。


「……死ぬはずがない。貴女が、こんなところで、死ぬ訳がない!

涙声で、そう何度も、何度も繰り返す。
青い言葉は、無情にも宙に消えていく。

それは無情にも、死の運命を変えるには、足りない。
エイト自身が感じている身体の重さが、何よりその事実を物語っている。


(……やめてよ。潔く、死ぬつもりだったのに)

(今度こそは、我慢しようって……そう、思ってたのに)

この胸にある全て。私が見つけた、貴女の素敵なところ、その全て。
一度言葉にしたら、止まらない。死なせてしまうと分かっていても、衝動を抑えられない。

次こそは──貴女なら、"最後まで聞いてくれるはず"って、そう思ったのに。期待したのに。
そうしたら、今度は私の方が、先に逝っちゃうんだ。
また、この想いはどこにも行けないんだ。

それでも、納得しようと思った。
貴女に期待したまま、途中のまま終わろうって、そう覚悟を決めようとした。


(なのに……そんなに、優しくされたら)

(私は、貴女を殺してしまう)


「……"大丈夫"」

平河玲は、静かに呟く。

貴女の言葉で、私が死ぬはずない

すべて受け止める。受け止めきれない、はずがないから

繰り返す。
世界に、自分に、そして目の前のエイトに、言い聞かせるように。


(……馬鹿な人。ああ、大好き)

(やっぱり、私は──私の恋は、間違ってなかった。ああ、ごめんね)

(溢れてきちゃった、もう、止められないや──)


「だいすき」




──平河玲の意識は、愛の渦の中に弾けた。

肉体は静かに血を流して、その場に倒れ伏した。


それはとても、幸福そうな死に顔だった。
最終更新:2018年12月10日 01:48