7.嶽内大名は全てのパンティを愛している
──たとえば、輪廻転生という考え方において。
人間は、下等な虫の身体へと転生する事を恐れる。
高度な知性体にとって、およそ耐え難い事なのだ。
矮小で、窮屈で、無情な運命の中に、閉じ込められるという事は。
ならば、何も己の非運を知らず、それゆえに絶望する事もなく、生涯を過ごすはずの虫がいたとして。
彼に知性を与えることは、罪なのであろうか。
彼の人生は──何も知らなかった場合よりも間違いなく、濃い不幸の色に彩られるのだ。
それが罪であったとして、誰が裁くのかは分からない。
ただ、事実として。
嶽内大名は、一つの罪悪感を抱えながら、今日まで生きて来た。
パンタローネの抱擁。
下着に生命を与え、対話する魔人能力。
"彼ら"の殆どは、下着としての運命を肯定し、当然に受け入れていた。
そこに疑問を抱くこともなく、ただ主人の身を覆う事に喜びを覚える存在だった。
……ただ一枚を除いて。
"彼女"は、生まれながらにして、己が運命を呪った。
真に人間である事を望んだ。
やがて世界を否定し、自らの運命を否定し──執念が、一つの異能へと結実した。
自らの存在を偽り、修正する能力へと。
血の泉に伏した、少女が二人。
平河玲と、朱場永斗──あるいは速見桃。その終末。
そこへ訪れる、人影が一つ。
剥き出しの上半身に、刻み込まれたストライプは誇るべき変態の証。
男・嶽内大名であった。
「……その昔、人間になりたいと考えたパンティがいた」
虚ろに見上げる、朱場永斗の問いを待つまでもなく。
男は、静かに語り始める。
「ヘイストスピーチ」起動──。
彼女は自分自身を偽り、人間と思い込む事で、人間となった。
いつしか当人ですら、その事実を忘れてしまっていた。
忌むべき自分自身の正体を、誰にも知られたくないと。
自分自身ですら、目にしたくないと。
その忌避感が、真実を忘れさせた。
ただ、漠然とした恐怖感だけが残った。
誰にも己を知られたくない。その衝動に従って。
彼女は、「自分自身」に触れる事のない生き方を始めた。
「情報屋」という役割に徹し、他者との交流を無機質な関係だけに留めた。
一切のプライベートを作らない。友人も、遊びもない。
ひとたび内面を見つめれば、恐るべき自身の正体に気づいてしまうかもしれないから。
彼女は人間でありながら、人間らしさを欠如させた。
自分自身の恐怖、あるいは運命によって。
「……その人生を、その在り方を、肯定していいのか」
「俺には、分からなかった」
「あいつの生き方は、まったく人間らしさのない、不幸そのものだったかもしれない」
「俺が彼女に命を与えたのは、罪だったのかもしれない」
「──だけど、ここで再会して、彼女は」
「ようやく、前に進もうとしていた」
「初めて、自分自身の中身を知る者を、作りたいと感じていた」
嶽内は、血の泉の中から、一枚の布切れを掬い上げた。
平河玲の遺体は、いつしかそこには無かった。
……男の手の中には、女物のパンティが収まっていた。
彼女が"死んだ"事で、「流言私語」は解除されていた。
果たして、今。
朱場永斗は、自分の恋する人の、正体を知った。
「偶然にしろ、運命にしろ。君が、彼女の殻を開いた」
「五年前、俺が失敗したこと。彼女を、正しく"人間"にしてやれなかったこと」
男は、その手の内に収めたパンティを、少女の前に差し出した。
「……君に、その希望を託せるか」
「ただ、一言。一言だけでいい」
「全てを知った上で、もう一度。"君を愛している"と、彼女に言ってやれるか」
少女は静かに頷いた。
重い指先を引きずって、両手を差し出す。
「言えるに、決まってるよ」
「生きてる限り……何度だって、言える」
今にも死を迎える少女の、精一杯の愛の表明だった。
自らの掌の上に横たわる恋人に、微笑みかけて。
……嶽内はそれを見て、満足そうに頷いた。
「ならば、もう一度だ、レイ」
「もう一度、君に生命を与えよう。そして──」
「パンタローネの抱擁」、発動。
エイトの指の上で、平河玲が静かに脈を打った。
あまねく下着に生命を吹き込む、彼の異能。
たとえ死者であっても、下着であるなら──その魂を、呼び戻せる。
……同時に、彼の背に埋め込められたパンティが、飛び出し、折り重なっていく。
形作るその姿は、天使の翼のようであった。
「──切り開いて見せよう。君たちの、未来を」
美しきパンティの翼──ふわり、と優美に羽ばたく。
二度、三度──そして、男は飛翔した。
身体中のパンティを翼へと変えて、嶽内大名は飛行する。上昇する。
天より迫りくる光の矢が、二本。
彼自身に狙いを定めた、必殺必中の輝き。
接触の瞬間、彼の翼は閃いた。
数条の真白い光条が、嶽内の翼より放たれた。
二つの光は互いに交錯し、炸裂する。
その爆風を抜け出して、男は飛翔を続けた。
──これこそは、選ばれし下着にのみ為せる絶技。
主の痴態を隠すために現れる、「謎の白い光」。
その輝きは、あらゆる光明を断つ──「光の矢」とて、例外ではない。
「くそ、何だアイツは……!?」
アタルは動揺した。
至近距離で二発、確かに直撃したはずだ──少なくとも、彼にはそう見えた。
矢筒より鷲掴みに、五本。次で確実に、撃ち落とす──!
──再び、嶽内の翼が輝く。
「謎の白い光」の守りが、四つを撃ち落とした。一つがすり抜けて、翼を貫いた。
「エイミーッ……!」
射抜かれたパンティの名を叫ぶ。だが、止まれない。振り返る訳にはいかない。
彼女は最後まで、嶽内に進めと言っていた。
否、エイミーだけではない。
「──大名、お前はずっと悔いていたものね。あの時、彼女に『普通のパンティに戻ろう』って言ってしまったこと」
「君が決めた事なら、最後まで従うさ」
「誰かのために、命を懸ける──それで散ったって、古着として捨てられる最期よりは、ずっと上等じゃんね」
静香、ケイト、ナナ──皆の声が、俺を支える力になる。
もっと飛べ、加速しろ、嶽内大名──もっともっと、高みへ。
光の矢雨は、激しさを増して。
一枚また一枚と、親友が散っていく。
嶽内自身もまた、無事ではない──防ぎきれない矢が彼の腕を裂き、脚を奪った。
(だからどうした)
(俺には、この翼がある──命を預けてくれる、仲間がいる)
輝ける下着の蝶は遂に、高度一万メートルへ至る。
嶽内は、討つべき射手──天使アタルの姿を、そのめに見止める。
その美しき容貌は、憤怒──そして、理解できないものを見る不快感に彩られていた。
「……気に入らないのだ。あの少女といい、お前といい」
「上位者と人間、同じ目線に立つことなど、許されない」
ましてや、生物としての慕情を向けられるなど──アタルにとっては、忌々しく耐え難い事であった。
嶽内大名は、その傲慢を一笑に付した。
「上も下もないさ」
「人間と下着は、対等な友人だ」
片や、"たかが衣類"を友と呼ぶ者。
片や、人間を管理すべき対象と見做す者。
二人の在り方は、天と地ほどにも隔っていた。
もはや語るべくもない──アタルはありったけの矢を手にして、能力を発動。
嶽内は翼を補修し、最後の加速。
放たれた光条は、無数に折り重なり、翼を削る、嶽内の身を焦がす。
カノンが散り、ウッディも燃え上がった。
男は両肩を穿たれ、美しき翼を血に染めて──なおも止まらぬ。止まる訳にはいかない。
「止まれよ、クソッ……止まれぇ!」
──アタルは初めて、人間に対して「恐怖」を抱いた。
あと二メートル。男の頭部は光条によって消し飛ばされ、五体は宙に散った。
「あ、ああ……はは……見たか」
「それでいいんだよ、お前たちは──」
──アタルの眼が、驚愕に見開く。
まだ、止まらない。終わらない。
一度は散らばった下着たちが、寄り集まり……再び、翼を織りなした。
友の意志を継ぐために。飛翔し──ついに、届く。
「なっ──」
アタルの腕に、脚に、絡みつく。さながら怨霊のように。
逃がしはしない。言葉はなくとも、その執念がアタルを縛り付ける。
「何だ、これは……!?ふざけるな、やめろっ──」
彼らは翼を封じ、四肢を奪い。
天使を、地の底へと引きずり落とした。
8.かくして木下礼慈は愛を語る
──平河玲は、全てを思い出した。
朱場永斗の掌の上で、彼女は一枚の布切れになっていた。
……流言私語、再発動。
「……私は、人間だ」
「うん、知ってるよ」
白煙と共に、肉体を取り戻す。人間の視界も。
目の前の彼女は、今にも苦悶の呼吸をしながら、なおも私に微笑みを向けていた。
そうして、思考の回転が始まって。
理解した。忌まわしき、私の正体を。
その全てを、彼女に見られてしまったのだと。
「……私は、実は」
「"下着でもある"んだよね。それも、知ってる」
じっとこちらを見据える、エイトの瞳。
胸が締め付けられるような感覚。
思考に靄がかかって、鈍く痺れる世界。
「全部、聞いたんだ。貴女がどうして、人間になりたがったのか」
「貴女が、どういう生き方をしてきたのか」
……「貴女を見ている」と。「知っている」と。
そう告げる言葉の一つ一つが、平河の心臓を縛り付ける。
いつか抱いた、「恐怖心」──いいえ、違う。
「でも、大丈夫だから」
「それでも私は──ちゃんと、貴女を愛してるから」
──そうして、平河玲は知った。
自分を理解されるとは、こんなにも甘美で、胸を熱くする事なのか。
彼女はずっと、見えない不安に追われていた。
いつか、もし、大切な人ができてしまったとして。
自分のおぞましい正体を知ってしまえば、離れていくのではないかと。
彼女の無意識は求めていた。
自分の在り方の全てを、受け入れてくれる理解者を。
その焦がれこそが、平河玲の恋。
「……ありがとう」
そう言って、目の前の少女の手を握りしめる。
血の気が抜けて、ひんやりとしていた──今にも死にゆく者の手。
こんな状態なのに、私のために、何かを残そうとしてくれた。
「あのね」
……だからこそ、返さなければならない。
私も、伝えきらなければならない。
「聞いたよ。君の告白も、伝えたい想いも、全部」
「あんなに細かく……私の事を見てくれてるなんて、少しびっくりしたけれど」
理外の頭脳は、恋する人の中に無数の愛を見出し、嵐を紡ぐ。
一度死ななければ、受け止めきれない言葉の奔流。
平河はそれを、正しく死んで蘇ることによって、聞き届ける事ができた。
答えを返す事ができた。
「ありがとう」
「私も……君の事が、大好きだ」
──少女の言葉は、初めて完全な形で届けられた。
「……ああ」
伝えきれない恋心の妄執、その果てに生まれたモノ。朱場永斗。
彼女は今、その役目を終えた。
「良かった」
速見桃は、満足そうに笑みを浮かべる。
そうして、静かに目を閉じて──愛する人の腕の中で、鼓動を止めた。
──最も。
「レジェンダリー木下」は、融通の利かない能力である。
ここで静かに迎える死を、決して認めない。
あるいは、そうした結末を迎えても、彼ら自身は幸福だったかもしれないが。
彼らの未来に、希望を託した男がいるのだ。
なれば、二人は掴まねばならない。進めなければならない。
二人の身を包む、暖かな輝きと共に。
速見桃の身体に、体温が戻っていく。
……その男の六感は、愛の真偽を知覚する。
一つの真実の愛が生まれた、その匂いと共に。
死に瀕する滑川の前で膝を付き、呆然としていた木下礼慈は──全てを思い出し、正気を得た。
滑川ぬめ子のもたらした「愛」のこと。
彼女が教えてくれた、「本当の愛」のこと。
……そして、いま自分が為すべきこと。
──墜落音。砂埃が舞い上がり、地面に巨大な窪みが開いた。
少しの間があって、這いあがって来る一つの影。
「……あたる様」
牧田ハナレが呟いた。
地上に降りた天使は、身に纏わりつく下着を振り払い、立ち上がる。
滑川とは違う──上位天使の化身は、高度一万メートルからの落下ですら、致命にならない。
破損した腕が、燃え尽きた翼が、再生し、修復されていく。
その様を見られることが、至上の屈辱であるとばかりに、周囲を見渡して。
再び、飛翔するべく、翼を広げ──。
「逃がす、ものかあぁぁぁぁッ!!!」
銃声。平河玲の弾丸が、翼を削る。
木下礼慈は咆哮し、アタルの背にしがみ付いた。
ここでもう一度飛ばしてしまえば、今度こそ後はない。
「は……離せ、このっ……!人間、如きがッ……!!」
脚を宙に浮かせては地に着き、二人は格闘する。
互いの腕を掴み、頭で突き、蹴りつけ、血を流す。
上位者としての威厳も誇りも、いまこの瞬間において片はなく。
その様、男同士の意地の喧嘩であった。
それでも、アタルの傷だけが見る間に回復していくのだ。
このまま続ければ、どちらに利があるかは自明──速見桃も当然、そう判断した。
ヘイストスピーチ、言葉の洪水。ありったけの致死量。
苦悶に口元を歪めながらしかし、滑川よりも上位ランクの肉体と頭脳は、それを受けきった。殺せなかった。
ナイフを手に、飛び込む。互いに組み合った二人に迫り、アタルの翼を断つ。腹の肉を、抉る。
「舐め、るなよ……!」
アタルは木下に肘を打ち、懐に右手を入れる。
予備に持っていた矢を、掴み取ろうとして──なおも、指先に絡みつく布があった。
マスターパンティ、嶽内大名。その意志を継ぐ彼の友。
撃たせるものかと、指先を阻む。
「っ……!」
苛立ち。動揺。その隙を突くように、彼の右腕を平河の銃弾が撃ち抜く。
木下は再び両腕に力を込め、速見の刃が翼を裂く。
魔力切れで意識を朦朧とさせていたアリサは、錫杖を杖に、なおも立ち続けていた。
横たわるウィル・キャラダインを一瞥、遺体はまだ無事。まだ"終わって"ない。
斃れた勇者の背に手を置いて、深く息を吸う。
「お願い、ウィル──どうか、力を貸して」
彼の身体に残された、魔力の残滓。
大した量ではなくともいい。今、この瞬間を支えられる力が欲しい。
掌を通して、熱が伝導する──絶えていた精霊の囁きが、いま再び聞こえるようになった。
再び、唱えられた呪文。
癒しの風が吹いて、前線で奮闘する木下と速見の肉体に刻まれた傷を癒やし、力を与える。
その戦いを、呆然として見つめながら。
恋する少女は、目の前の、恋する人に問う。
「……貴方は、何者なのですか」
「地上に正しい裁定を下す……天使様では、ないのですか」
縋るような瞳を向ける──その色こそは、牧田ハナレの愛。
崇拝という、恋の形。
──私の人生は、父の所有物でした。
父は母を、たいそう愛していたと聞きます。
早くして病死した彼女のかわりを、娘である私に求めたのでしょうか。
毎日のように、愛を囁き、抱き寄せ、接吻し──夜伽の相手をさせられました。
一度は拒みましたが、その時の彼はたいそう恐ろしい形相になって私を殴りつけたので、私は従順に育ちました。
私は父の言いつけを守り、学校に行く事をやめて、家事をこなすようになりました。
もともと私が好きだった読書や武芸も、「母はそういう人間ではなかった」と言われ、取り上げられました。
かわりに、音楽と舞踊の稽古を与えられました。
私は従順に育ったので、全てを正しくこなしました。
いつしか父は、私の事を「カエデ」と、母の名で呼ぶようになっていました。
私は従順に育ったので、疑問や反感を抱くことは、既にありませんでした。
さながら、あの頃の私は、父の理想を演じる人形でありました。
五年前、人形は主を失いました。
目の前で、空から降って来た光に撃たれたのです。
頭蓋を撃ち抜かれ、父は即死していました。
──かくして、私は人間になりました。
……運命、だと思った。
この学園に入って、再びあの光を見て。
私を救ってくれた誰かが、この学園にいると知って。
「……気づけばいつも、貴方の事を思っていました」
「その隣に立ち、共に語りたいと焦がれていました」
「まだ見ぬ貴方の姿に恋するなど、おかしいと仰るでしょうか」
五年前、少女が目にした光。
あの輝きは、言われるがままに生きて来た空っぽの少女にとって。
ただ一つ、提示された「正しさ」だった。
彼女の心は、それに縋りついた。
再びその輝きが、自分の足元を照らす事を、待ち望んだ。
「貴方と共にあれば、私の運命は善いものになると」
「……そう信じたのは、間違いだったのでしょうか」
今、少女は初めて、アタルを疑った。
自分を救ってくれた、絶対だと信じていた輝きが。
彼女自身を貫こうとしたのを見て、ようやく。
──果たして、その疑念は正しい。
五年前のアタルは、ただどうしようもなく愚かな罪人を屠ったに過ぎない。
一年に数百とある仕事の一つでしかない。
牧田ハナレの事など、見てはいなかった。
──アリサの魔力が、再び尽きる。
木下の腕は、既に限界に近い。翼は銃弾を弾き、速見を蹴り飛ばす。
尚も縋りつく巨漢を振り払って、アタルは遂に地を離れた。
「──ああ、間違いだとも」
空に立ったアタルは、牧田ハナレを見下ろし、答える。
「上位者の使命は、さらなる大局にこそある」
「共に並び立つ事など、あり得ん」
「徹底して俯瞰し、合理化し──世界にとって、正しい道を選ぶ」
「"お前ひとりの運命"など、どうでもいい」
──ああ。
それを聞いて、牧田ハナレは、憐憫を抱いた。
あるいはそれは、妄想であった。
この期に及んでもなお、アタルの善性を信じようとする。
恋の狂気が生み出した、一つの幻。
──この人は、使命に囚われている。
天使様は、誰かに肩入れしてはいけないのだ。
自分の心を殺して、"正しい"裁きを下さなくてはいけないのだ。
"本当は、私の事を愛していたとしても"。
恋をする事など、きっと許されない。
いつかの私と、同じように。
「……ああ、だったら」
「天使としての使命。それこそがあたる様を、縛っているのなら──」
「私が、貴方を連れ出します。眩い光の中から」
──ヘイストスピーチ。
速見桃は、彼女の言葉から零れ落ちた心を汲み取った。
牧田ハナレは、果たして狂っていた。
自分とアタルは、本心では想い通じ合っていると、思い込んでいる。
彼に愛を伝えようとしている。
「レジェンダリー木下」の作用によって、二人の結末は幸福になるのだと、信じているのだ。
「ああ──愛しています、あたる様!」
牧田ハナレは、空に立つ天使に向かって、叫ぶ。
「ずっと、ずっと昔から──そして、これからも!」
果たして、その言葉を受け取ったアタルは、不快そうに顔を歪めると。
懐より矢を手にして、ハナレへと向ける。その掌は白く輝き──
──青い言葉が、それを遮った。
「不幸とは、当事者の立場に応じて、相対的に変化するもの」
平河玲の脳裏に、言葉が流れ込んでいる。
速見桃から届く、ヘイストスピーチ。
無数の言葉と論理は、彼女の認識を補強する。
可能性を、"確信"へと引き寄せるために。
それを"事実"へとつなげるために。
──ただの高校生にとって、一万円の喪失が「不幸」となるが。
彼が大地主の家の子であれば、もっと大きな金額を失うに違いない。
元より貯金など持たない根鳥マオの場合は、その供給源を失った。
なれば──天上に立ち、人間を見下し、裁きを下す者においては。
「ならば、天使アタル──お前にとっての不幸とは」
「人間になってしまう事だ」
「……馬鹿なことを、何を言っている」
「そんな、道理が……人間ごときの能力で、僕が」
あるはずがない。アタルは、理屈の上では理解していた。
しかし、彼女の言葉には、どこか有無を言わさない力があった。
嘘ですら、正しさに変えてしまうような力学が。
「……牧田ハナレ」
木下礼慈は、静かに答える。
「お前の愛の告白、しかとこの俺が聞き届けた」
「これが、その答えだ」
──アタルの掌から、輝きが消えた。
「な……」
白い翼は、綿のように散っていった。
「なぜだ」
信じられないものを見て、ただ茫然と呟いて。
少年は、落下する。
その先に、拳を構える木下礼慈がいた。
「──あたる。先輩として、教えてやる」
「力尽くで築き上げたモノはな」
「手前が負けた時に、全部なくなっちまうんだよ」
それは──かつて非魔人ながら最強の不良として名を馳せた男が、学んだこと。
彼が初めて敗北した、一年前のあの日。
誰もかもが逃げ出して、あるいは敵に回った。
彼が仲間だと思っていたものは、幻想だった。
絆だと思っていたものは、果たして支配でしかなかった。
ただ一人──その頃はまだ名前も知らなかった、一人の少女。
彼女だけが、木下を助けてくれた。
理由を訊ねると、彼女は「強いて言うなら」と置いて、一言。
「この学園の皆を、愛してるから」
──かくして、木下礼慈の今がある。
「だから──本当に負けるかもしれないって、ギリギリの戦いの時」
「愛は、強い」
男が拳を振り抜く──あたるは、地を転がり、意識を失った。
戦いは、終わった。
終章
1.エンドロール
──あれから、一週間が経った。
学園の敷地内にある礼拝堂。
静かな時間の中で、アリサ・アサガミアが唱える呪文の声だけが聞こえていた。
勇者に与えられた加護をもってしても、死者蘇生の術式には、準備を抜きにしても四日以上の時を要したが。
無論、アリサはやり遂げた。
ここで彼を生かさなければ、何のための冒険か。
彼が無事に、元の世界に帰るまでは。
舞台は、まだ終わらないのだ。
「……ありがとう。無事に、終わったんだね」
久しぶりに聞く、その声の主。
棺の中から、ウィル・キャラダインは立ち上がった。
硬直した身体をほぐすため、腕を回す。
「はい。治療が遅くなり、申し訳ありません」
「もちろん、気にしていないよ。僕も仲間にした事があるから、手間と苦労がかかるのも理解している」
アリサに差し出されたタオルを受け取り、身体の汚れを拭きとりながら、ウィルは訊ねる。
「……皆は、どうなった?」
「無事に、お帰りになりましたよ」
滑川も、木下も──重症ではあったが、既に命に別状はない。
嶽内大名という、あの指名手配犯の男だけは……未だ、行方が知れなかったけれど。
糸遊兼雲は、入院している滑川や木下の代わりに、学園の復興を指揮した。
突如として終わったラブマゲドンに混乱する生徒たちを収め、各方面への手配と連絡を行った。
不審がる生徒に対しては、洗脳時に木下に貰っていた腕章を見せて、「会長代行を託された」と嘯いて通したそうだ。
その甲斐あって、授業はなんとか年内に再開されるらしい。
激怒する理事長や校長を何とか言いくるめ、木下礼慈の解任を止めさせたとも言っていた。
根鳥マオは、友人たちに謝罪をして回っていた。
……何でも、今まで自分が魔人能力を使って友達から小銭を集めていた事が、バレてしまったという話だが。
彼の深刻な表情とは裏腹に、皆あっさりと謝罪を受け入れてくれたそうだ。
「べっつに。男として失望しましたけど、先輩は先輩ですし」
「っていうか、何だったんですか、あの狐のお面。めちゃくちゃ似合ってなかったですよ」
……小柄な少女に毒づかれていた事は、聞かなかった事にしてあげた。
速見桃は、本土の中学校に帰っていった。
来年は絶対に希望崎を受験するのだ、と息巻いている。
戸籍名をちゃんと変えたから、親が喜んでいる──などと、よく分からない事も言っていた。
まさか、結婚でもするつもりなのだろうか。まだ中学生なのに。
平河玲は、あの暑苦しそうな格好をやめていた。
情報屋そのものは続けるらしいが、受ける仕事の数は減らさなきゃいけない、とぼやいていた。
何でも、毎日大量に送られてくる愛のメッセージの返信で忙しいらしい。
この前見たときは、ずっとスマホの画面に視線を落として、指を忙しくポチポチしながら歩いていた。
いつか怪我しそうだな。
泉崎清次郎は、精神鑑定を受けている。
「ちょんまげ抜刀斎」として行った、数々の殺人。
普通にその罪を量れば、死刑は避け難かったが、当時の彼は正気でなかった。
自分の能力のせいで廃人になっていた事が証明されれば、また一緒にいられる筈だと。
その一心で、泉崎ここねは兄を守るために戦っている。
「いつかその事で証言を求めるかもしれない」と電話を掛けてきた彼女の依頼を、アリサは快く了承した。
前よりも随分はきはきと喋るようになっていたので、少し嬉しくなった。
あの時、空から重機を落として泉崎清次郎を止めた少女──甘之川グラム。
彼女は、恋人の魔人能力を無効化する研究を進めるのだと言っていた。
どういう能力なのかと聞くと、すごい勢いで苦労話を始められた。
なぜか途中で惚気トークも混じって来たので、ちょっとだけ無心で聞き流してしまった。
天使の力を失ったあたるは、精神的なショックが強かったらしい。
無気力な廃人のようになって、精神病院へと入れられた。
今は口も利けない状態だ。
その傍らでは、牧田ハナレが甲斐甲斐しく世話を焼いていた。
彼女の愛は、どこまでも真っすぐに歪んでいて──真実には、足りなかったが。
「あたる様を連れ出す」という彼女の願いは、結果的に叶っていたのではないか。
「──と、私が知る限りは、そんな感じでしょうか」
ウィルは細かく相槌を打ちながら、アリサの語りを聞いていた。
その時、腹の虫が鳴った。
くすくすと笑いながら、アリサは鞄の中に仕舞っていた菓子パンを手渡す。
「失礼……かたじけないね」
「いえいえ」
アリサは笑顔を浮かべて、パンを食べるウィルを眺めていた。
ああ、本当に。
言葉はないけれど、穏やかで……狂ってしまいそうなほど、幸福な時間。
……彼女は、決着を付けなくてはならない。
そのために、訊ねるべき事がある。
そう決めて、今日、ここへ来た。
「ウィル様、貴方は……」
「恋を、知ることはできましたか?」
「ああ」
口元を拭い、ウィルは答える。
「……君と、皆のおかげでね」
その答えを聞いて、その眼差しを見て。
一瞬だけ、アリサは悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「ふふ……では、試させてもらいましょうか」
「え」
近付いて、彼の手を取る。
アリサの表情から、笑みは消えていて──いつになく真剣で、悲しげだった。
それは、彼女の渾身の演技。
麻上アリサではない──アリサ・アサガミアとして。
この物語の幕を下ろすため。
彼に別れを告げるため。
「……ウィル様。アリサは、貴方様をお慕いしております」
「どうか、この世界に留まって。私と共に、過ごしていただけませんか」
秘められていた想いの、告白。
静かな声の裏に、燃え上がる情熱──ともすれば演技ではない、麻上アリサの本心と見紛う程の。
ウィル・キャラダインは、彼女の眼を一瞬たりとも逸らさず見据え。
その不安を、情熱を、叶う限り汲み取ろうとした。
そして──答えを出す。
「素敵なお誘いをありがとう……だけど、それはできない」
「僕の恋人は、アリスただ一人なんだ」
果たして、"恋"というものを理解するに至ったウィル・キャラダインは。
愛する人を悲しませないがため、正しい答えを返す事が出来た。
聞き届ける、アリサ──涙を堪えて、はにかんで見せる。
「……ふふ、良かった。もう、大丈夫そうですね」
一人、教会を背に立ち去って。
演目を終えた麻上アリサは、静かに呟く。
「……さようなら」
「ちょっと、意地が悪すぎたかな、あれ」
「でも……いいよね、あれくらい。奥さんいるくせして、人の初恋、奪っていったんだもん」
ひとたび言葉にすると、止まりそうになかった。
走る、走る、遠くへ。
彼にこの声が、聞こえてしまわないように。
走る、走る。
世界が、濡れる。
少女の声は、森を掻き分けて。
「っ……う、うう……うああああ……っ」
「ぜっ……絶対、大女優なって……!もっと素敵な恋、してやるからなぁ……うああああっ……」
正しく、ウィル・キャラダインは恋を知った。
アリサ・アサガミアの役目は終わった。
幕が下りる──。
ラブマゲドン。
百八人の生命を賭けた、狂気の恋愛戦争。
開催期間、三日。
祝福されし恋人たち、四十人。
彼らには、幸福を享受する権利がある。
喜ぶべき結末を迎えるべき義務がある。
人間は、どこまでも、愛とともに歩む種なれば。
──上位者たちは結論する。
彼らの可能性は、未だ摘まれるべきではないと。
2.ウィル・キャラダイン語り継ぐこと
ウィル・キャラダインは、かつて勇者であった。
今はもう、戦う事はない。
この世界は、勇者を必要としなくなった。
剣を持つのは、若者に稽古をつける時くらいのものだ。
田舎にある屋敷で、妻子と共に、平穏な日々を過ごしていた。
「お父さん、お父さん!」
「はいはい。私はここにいるよ、メイ」
屋敷の上階から、だんだんと駆け下りてくる娘の足音が聞こえた。
書斎で友人への手紙をしたためていたウィルは、愛する娘に自分の居所を伝えた。
数秒ののち、ドアが開く。
メイは風呂に入った後の寝間着姿のまま、あちこち駆けまわったらしかった。汗をかき、襟元が乱れている。
これは後でアリスに怒られるな、と内心、苦笑した。
まだ五歳の娘は、そんな父の気苦労も知らず。
「ねえ、ねえ、お父さん!恋って、なに?」
「おや。どうしたんだい、急に」
突然、この世界に馴染みのない言葉を口にするものだから、驚いた。
「お母さんがね、言ってたの。"私は結婚する時に、恋をしたんだ"って」
「ああ、なるほどね」
まあ、そんな事だろうとは思っていた。
ウィルは自分の隣の椅子を引いて、ぽんぽんと座面を叩いて娘を座らせた。
「そうだな──では、少し昔話をしようか」
「わーい!また、お父さんの冒険の話が聞けるの?」
「うーん……いつものとは、また少し違うけれどね」
勇者が必要だった時代の冒険譚は、メイにとってみれば一つのファンタジーだ。
だからこそ、彼女は知りたがる。
ウィルはその好奇心を否定しない。
自分が語り継いだ言葉が、いつか彼女の中で正しく実ると信じていた。
……愛娘の肩を抱いて、ウィル・キャラダインは静かに語り始める。
「これは、遥か遠い異世界の物語。希望崎学園と呼ばれる地であったこと──」
Fin