SSその7

2章「修羅」


1.ちょんまげ抜刀斎は止まらない


──許せぬ。

嗚呼、許せぬ。許してはおけぬ。
許せぬからには、斬らねばならん。

兎角、この世は許せぬ物に満ちている。
目に入ったからには、斬らねばならん。

だからこそ、拙者が居る。
だからこそ、この手には剣がある。

誅しよう、天の命ずるまま、我が剣の赴くまま。





人気のない校舎裏。二人の生徒が、小声で会話している。
法被を羽織った二人組。糸遊兼雲と、根鳥マオだった人である。
だった人……と言うのは、曰く、


「俺は、ラブマゲドンのせいですべてを失い、生まれ変わったんです」

「根鳥マオなんて男は、もう何処にもいない」

「今の俺は……邪悪なる催しを止めるため、生まれ変わった復讐者!」

「……っつー訳で、一緒に生徒会を倒しましょう!兼雲さん!」


お祭りの露店で売っているような狐の面を着けて、そう宣言した。

本人がちょっと楽しそうだったので、兼雲は何も言わなかった。
あれだけ意気消沈していたのがここまで持ち直したのなら、まあ、良い事だ。

実際のところ、復讐とは根鳥の方から言い出した事ではない。
もはや恋人を作る気力もなさそうに見えたので、兼雲が試しに「一緒にラブマゲドンを止めるか?」と声をかけたところ、思いっきり乗って来た次第だ。
兼雲としては、餌付けした野良犬に懐かれたような感じであった。

このお面自体は、彼女が自身の活動拠点(理事長との伝手で融通してもらった)に替えの法被を取りに戻った際、同行した根鳥が適当に見繕ったものである。

衣装と合わせる事で、彼が根鳥マオであると気づく人間は、まずいないだろう。

「じゃあ、私は君の事、なんて呼べばいいのさ?」

「あー、そうっすね……仮面の復讐者だから、ヴィー?」

「ふふっ」

「すいません、普通にキツネでお願いします」

「あら、私はヴィーでも良かったんだけどね」


くすくす笑ってから、兼雲は一段声を落とす。

「……それで、今から君に任せる事だけども」

兼雲は懐からスマートフォンを取り出すと、根鳥に手渡した。

「あげるよ、私の予備」

「え……?いやあ、そんな、流石に悪いっすよ……?」

「馬鹿、今はそんな端末よりも、動かせる人手が足りてないのよ。捨てちゃったんでしょ、自分のやつ」

「わ、分かりました、そういう事なら……大事にするっす」

根鳥は宝石でも扱うような手つきで受け取り、クリーナーを取り出して画面を磨き始めた。
そんな様子を見ていた兼雲はなんだか少し不安になったが、口にはしないでおく。

「大事にするのはいいけど、肝心なのはこっから。それのトップ画面に、今日の日付のテキストファイルがあるでしょ」

「あ、はい……開きました」

「そこに書いてある情報を、"情報屋"に売って欲しいの。一気にまとめて売ると怪しまれるから、毎回別のアカウントを作って、一般生徒を装いながらね」

「情報屋……ああ」

そういえば昔、部活仲間からそういう奴が学内にいると、聞いたことがあった。
一度聞いたばかりだが、根鳥マオという男、人の名前の覚えは良かった。

「なんだっけ……平河玲?」

「そ、あいつ。ラブマゲドン反対派に関する情報を集めてるみたい。仲間になれば心強いけど、まだ信用する段階にはないから」

「なるほど……?」

いまいち理解していない様子の根鳥に、兼雲は補足する。

「あいつはね、基本的に金で動く奴よ。商売やってるんだからまあ、当然っちゃ当然なんだけど」

根鳥の顔色がにわかに曇った。
──全部、お金の為だったんですか?
加藤春香に向けられた言葉が、視線が、脳裏に蘇る。

「ちょっと、ちゃんと聞いてる?」

「あっ……すみません」

兼雲は溜息を吐いたが、追及はしなかった。
顔色から何となく、その背景は見えたけれど。

「つまり私らは、平河が最初から生徒会に雇われてるって可能性も考慮しなきゃいけない訳」

「ああ……そっか。ラブマゲドン反対派の動向を探って、生徒会に報告してる……って可能性もあるんすね」

「そういうこと。そこで、君の仕事が必要になってくる」


兼雲が根鳥に渡したのは、複数のラブマゲドン阻止計画に関する情報だ。
その一部は真実であり、その一部は偽りである。

実行者の規模は数人~十人程度と小規模。
いずれも目的は生徒会室の占拠や、木下の殺害など、成功すればラブマゲドンの運営に致命傷を与えうる内容である。

そして、その殆どは──ラブマゲドンの中で生じた怒りの火種を、兼雲の手で"育てた"ものだった。


万蕃儿縁起大系・手引足抜繙自在鉄之帖。

兼雲の有する魔人能力、ならぬ魔人手帳。
ノートに記述することで、自身が観察した対象の行動に「手を加える」事ができる。


流石に、完全な洗脳は不可能だ。
しかし、元からあるヘイトを加速させ、具体的な行動に落とし込む程度の業は可能である。

要するに──それぞれの叛逆に対して、生徒会側がいかに対処するか。
偽りの計画に対して、何らかの反応が見られるか。
そのあたりから、平河玲が生徒会に「買われて」いるかどうかを判断しようと言うのだ。


「す、すっげえ……!兼雲さん、マジ知将って感じっすね!」

「……まあ、実際にそれっぽい立場にいたことあるからね」

「そうなんすか?確かに、見るからに只者じゃない雰囲気っすけど……」

少し居心地が悪そうに、兼雲は頭をかいた。

「その辺りの昔話は、また今度してあげるよ。今やるべきこと、分かった?」

「うっす。このキツネにお任せあれ!って感じで!」

(……やっぱ、ちょっと不安だな)


それでも、兼雲はこの男を信用していた。
理屈はないし、魔人能力でもない。ただの勘だ。

彼女は甘之川ほど偏執的ではないながら、なるべく多くの情報を集め、理性に基づく判断を好むタイプだが。

同時に、戦いにおいては自分の培った勘を信じる事ができる者が強い、と考えてもいた。

(あの眼差しを向けた相手を。あの涙を見せた相手を。何より、あの『ありがとう』を伝えた相手を)

(裏切れる人間は、いない。根拠はないが、私はそう思う)

(まあ──もしもこの勘が外れたら、それまで。私が勝負に負けたということだ)

そんな覚悟を決めていても、根鳥の方は知る由もなく。
揚々とVサインを出しながら、隠れ家の方に向かっていった。


(さて、ここからは別行動だ)

兼雲の「自在鉄之帖」は、操作する対象について情報を得る必要がある。
それは多ければ多いほど良い。精度と確度を上げることができる。
そして厄介なことに、その情報は兼雲自身が観察して得たものでなくてはならない。

平河玲の白黒を炙り出すために、いくらか使い潰す事になる反ラブマゲドンの"火種"。
いずれ本格的な作戦を実行する時の為にも、ストックは多ければ多いほど良い。

したがって、兼雲自身が諜報活動に出向かなければならないのは必然であり、根鳥の存在は本当に有難いのだ。

(さて、まずは一年校舎か……)


目当てに向けて歩き出した兼雲の耳に、女性の絶叫が届いた。

(──グラウンドの方角)

一瞬、根鳥が立ち去った方角を振り返ったが、既に背中は見えない。
翻って、兼雲は駆け出す。

──鼻先に触れる、懐かしい血の芳香。

グラウンドに飛び出した兼雲が目にしたのは、噴き上がる鮮血。

頭部を失った男の肉体が、風に吹かれてぐらり、と沈む瞬間。
傍らに尻を付く女子生徒──そして、血濡れの日本刀を手にする和装の男。

「ああ……ムカつくでござるなぁ……道を聞くだけのつもりが、思わず斬ってしまったでござる」

「ひ、ひぃっ……!?」

「いやあ……まあ、しかし、これは天誅でござるゆえ」

男は刀を脇に構え、涙目を浮かべる女子生徒の方に向き直った。

兼雲は犠牲者の切断面を一瞥し、これは強敵であると判断した。
少なくとも並の戦闘魔人、あるいはそれ以上の戦力評価。
まともにやって、自分一人で敵うはずもない──だからと言って、策を立てている余地はない。

(見過ごすか──?いや)

逃げ隠れしたところで、もしも男が兼雲を追いかけてくれば同じことだ。
兼雲は法被の懐に右手を入れ、再び加速した。

「恨むなら、己の行いを恨むでござる」

「や、やめ……っ」

「天誅!!!」


少女の首が吹き飛ぶよりも早く、男の視界を緑色が包んだ。
同時に、けたたましいサイレン音が鳴り響く。

「ぬわぁっ、何でござる──!?」

戦闘魔人に遭遇した際の緊急手段、特製の煙玉。
兼雲が身に着けている暗視機能付きコンタクトレンズは、この煙の中においても自由な視界を保証した。
女子生徒の手を引き、煙の中を駆け抜ける。

既に息が上がっていた。
今の兼雲にできる事は、せいぜいが時間稼ぎだ。凶を引けば一瞬の死。

後は、小型警報器の音を聞きつけた勇気ある何者かが、早く駆け付けてくれる事を祈るしかない。
幸いと、ここはグラウンドの中心だ。人目には付きやすい。

「ああ、うぜぇ!うぜぇでござるなぁ……この煙!」

中から、男の苛立たし気な声が聞こえる。
兼雲は掌に収まるだけの煙玉を取り出し、再び投げつけた。
男を取り囲む緑色が、更に一段膨らむ。

「クソッ!天誅してぇ!天誅ーッ!!!」


──次の瞬間、糸遊兼雲は腹を斬られた。

同時に、男を取り巻いていた煙が霧散する。
どこか遠くで、ガラスの割れる音が聞こえた。

(なっ……!?)

激痛と共に崩れ落ちる。
完全な切断には至っていないが、内臓を幾つかやられた。
流れ出した血液が、脚を濡らす。

糸遊兼雲は理解した。理解できてしまった。


(──こいつ、"煙を斬った"のか……!)

斬撃によって鎌鼬を生み出し、間合の外より敵を斬る。
ごく一部の達人のみが成しえる業。
それを一瞬の内に繰り返し、邪魔な煙を吹き飛ばしたのだ。

その副作用として──校舎の壁面に爪痕を刻み、窓ガラスは割れ、糸遊兼雲は致命傷を受けた。

(化物だ、こいつッ……!)

「よしよし、鬱陶しい煙も消えたでござるな……」

男はぼさぼさ頭を掻きながら、兼雲の元へと一歩ずつ、近付いてくる。

「拙者ぁ、緑色は嫌いなんでござるよなぁ……見ていると、どうしようもなく、許せない気持ちになる……」

「我が"天"も、同意見のようでござる」

「天誅」。
斬らねばならぬと思ったものを、斬り捨てるための能力。

彼の剣は、曖昧とした怒りによって進化を重ねる。
必要となれば、風をも断つ。

兼雲は男と会話して少しでも時間を稼ごうと思ったが、声が出せない。
血が溢れ、僅かに苦悶が漏れるばかりだった。

助け出した少女を見ると、傍で立ち竦んで涙を浮かべている。
思いっきり睨みつけて「逃げろ」と伝えようとしたが、動かない。すっかり恐怖に呑まれてしまっているらしい。

(くそ──私も、ここまでか)

痛みと失血の中で兼雲の意識が途絶える瞬間、新たな影がグラウンドに滑りこんで来た。





「お、お前っ……!何やってるんだよ、おい!」

「ん?」

日本刀を持った和装の男──ちょんまげ抜刀斎は、目の前の恋愛の匂いがする女子二人を誅しようとしたところで声を掛けられ、手を止めて振り返った。

背の高い男子生徒だった。
得物としてモップを手にしているが、構えは歪、頬に冷や汗をかいている。見るからに素人。

左手からは、血を滴らせていた。
いきなり飛んできた鎌鼬をかろうじてかわしたものの、飛び散ったガラス片で傷を負ったのだ。
彼こそは、調布浩一である。

「貴様、拙者の天誅の邪魔をする気でござるか?」

「じゃ、邪魔も何も……止めるに決まってるだろ、ふざけんな!」

調布浩一は激怒した。
グラウンドに無残に転がったその首の名を、彼は知らなかったが。
同じ学び舎で過ごす仲間が命を奪われた事に対しては、当然の怒りを抱く男だった。

──浩一がその死を肩代わりできなかったのは、おそらく彼が、何かしら迂闊な行動を取ったのだろう。
仮にこの犠牲者が、「刀を腰に佩いた不審者を挑発した」結果として斬られたのであれば、「不運」ではない「自業自得」であるからだ。

最も、そんな事は今の浩一にとってはどうでも良かった。
彼の内に燃えているのは、怒りであると同時に、使命感だ。

甘之川グラムを自身の不運に巻き込んでしまった罪滅ぼし、ではないが。
何としても、あの女子生徒たちを助けなければと思っていた。
……最悪、自分が命を落としたとしても。

彼はそういう男だった。


「そうか、止めるでござるかぁ……ああ、なるほど、そういえば」

抜刀斎は浩一の眼を見て、酷薄な笑みを浮かべた。

「……貴様からも、恋の匂いがするでござるな」

「は、はぁ……?何、訳の分からないこと言ってんだ!お前、人を殺したって分かってんのか!?」

「問答は無用……天は貴様を許さぬと仰せでござる」

抜刀斎は鍔に手をかけた。
……ターゲットを移し替えた事で、浩一の目論見のまず一つは成功した事になる。

(後は、どこまでやれるか──)

「天ッ!!!」

──跳躍。抜刀斎は奇声と共に空を駆け、刃を振り下ろす。

尋常ならざる速度の一撃──しかし、浩一の視力はその出所を捉える。
日々の不幸によって鍛えられた反応速度、まして最初から「来る」と分かっている攻撃だ。

「誅ゥー!!!!」

侍の一撃は、グラウンドの地面を盛大に斬りつけた。砂埃が舞い上がる。

「む……!手応え、なし!」

「こっちだ、馬鹿野郎!!」

既に浩一の影はグラウンドを飛び出して、森林地区への入り口に立っていた。
面白い、と抜刀斎は目を細める。

(ほお……この一瞬で、数十メートルの距離を移動したというのか)

(ただの生っちょろい学生と思っていたが、意外とやるでござるな)

少年に対する評価を改めつつも、それはそれとして。

「拙者の天誅から逃れようとは、ええい!何たる不届きか!許せねえー!」

抜刀斎は激情を爆発させ、グラウンドを飛び出した。





調布浩一は、森の中を走り続けていた。

「うおおおー!天誅エアマスター!!」

「ああああっ!?やっべぇ!」

背後から飛ばされる斬撃の鎌鼬を、かろうじて避ける。

魔人としては特別な運動能力を持つわけでもない彼が、辛くも天誅剣から逃れ続ける事ができているのは、ひとえに甘之川グラムのおかげだった。

──そう、度重なるアンラッキースケベに理性を爆発させて逃げ出した彼女は。
浩一に対して使用した「林檎の重さと月の甘さ」を、ちゃんと解除できていなかったのだ。

正確には、停止するときに少しは体重を戻したのだが、それでも元の体重には全く届かない。

現在の調布浩一、およそ5㎏。
生み出される膂力との不均衡によって、常識外の跳躍を実現する。

「ええい、ちょこまかと!天誅トリプルエアマスター!!」

「うおおおお!?」

技名に反して、四連続で放たれた斬撃が飛来した。
浩一は近くの木の枝を掴むと、遠心力による高速のターンを決め、辛うじてかわした。
この体重での移動にはいくらか慣れたとはいえ、まだ制御が不十分な側面も大きかった。とりわけ、急に曲がるのは難しい。

しかし、ただ無策に逃げ回っている訳ではない。
彼には一つの勝算があった。


(このまま真っすぐ進めば……もうすぐ、学園の敷地の端に着く)

要するに、不正退場からの"あたる頼み"だ。

何せこの抜刀斎、いかにも理性とかなさそうに見えた。
ラブマゲドンのルールとか理解しているかも怪しいし、仮に理解していたとして、ちゃんと覚えていられるかも怪しい。

(そこに付け込む。斬りかかって来た瞬間に、さっとかわして、勢いのまま敷地の外に飛び出させる……)

(……上手く行くといいけど)

浩一は不安を押し殺し、今はただ背後から迫りくる攻撃をかわすことに集中する。
気のせいでなければこの侍、徐々に速度が上がってきているのだ。

「天誅!!!!天誅ゥゥゥ!!!!!!」

一体、それはどこから湧いているのか。
止めどなく溢れる、怒り。憎しみ。男は吠える。

誅さねばならぬ。誅さねばならぬ。
どこまでも無駄に純粋なその想いが、この男を強くする。


「くっそ……!」

徐々に速度の差が埋まり、天誅の叫びはすぐ後ろに聞こえた。
浩一は急な旋回を繰り返して、何とかかわし続けていたが。


遂にその身を、致命的な不幸が襲った。

(あ、やばっ──)

服の袖が枝に引っかかり、縛り付けられる。
今ここにおいて一秒の空白は、勝負を分けるには十分すぎた。

「天誅でござあああるッ!!!」

──枝を折り、身をかわす。間に合わない。
刃と化した風が、浩一の身体を切り刻む。





──その意識が闇に溶ける直前に。
調布浩一は知らない声を聞いた。日本語ではない、異国の言葉だった。

その言葉と共に、一陣の風があった。
その風は、今にも浩一の襲わんとする風へと衝突し、僅かに軌道を変えた。
浩一の肉体は、即死を免れた。


「何……?」

侍は訝り、振り返る。
深い森の中、凛とした声が響いた。

「遅れてすまない。よく頑張った、名も知らぬ少年よ」

侍が目にしたのは、青く輝く鎧の青年と、純白のドレスを纏う少女だった。

「ここからは、私──勇者ウィル・キャラダインが相手になろう」


2.調布浩一は、さながら世界の中心にいる


甘之川グラムは息も絶え絶えに、保健室へと駆け込んで来た。

いくら体重を軽くしても、彼女は生粋のインドア派。
激しい運動はどうしようもなく疲れるのだ。

何か言葉を発しようとして、呼吸が整わず、魚の様に口をパクパクとする。

「ああ、そんなに慌てて……どうか落ち着きなさってくださいな、お嬢さん」

ドレスを纏い、保健室の椅子に腰かけた少女──麻上アリサ(役名:アリサ・アサガミア)は静かに窘める。
甘之川は、洗面台に寄りかかって水を一口含み──急いで三度の深呼吸をしてから、アリサに向き直った。

「こっ……これが、落ち着いて、いられるものか!彼は、どこだ!」

「こちらです」

アリサが示したベッドの元へ、甘之川はふらふらと駆け寄る。
そこには、手に足に包帯を巻いて眠る、調布浩一がいた。

「浩一様への治癒術式は、ひとまず完了しました。安静にしていれば、大丈夫なはずです」

「そ、そうか……ありがとう」


治癒術式、という言い方がまるで怪し気な魔法のようで少し気にかかったが、この時の甘之川はそれどころでなかった。

調布浩一が不審者から他の生徒を守ろうとして、刀で斬られて大怪我をした、と。
その言葉を聞いたとき、彼女は初めて神というものに祈った。

謝らなければならない、と思っていた。
彼を正しく評価すると言って、できなかった事を。
彼の前から、逃げ出してしまった事を。

もし、もしも──あの別れが、最後になってしまっていたら。
そう考えるだけで、身体中の皮膚が裏返りそうな想いに駆られたのだ。

(──とにかく、無事だった。生きていてくれた)

(あれで最後じゃなかったんだ。私には、まだ機会がある)

気が付くと、頬が濡れていた。
張り詰めていた気持ちが、一気に緩んだ反動か。

(……不甲斐ない事だ。かくも私は、揺さぶられている)

甘之川は目元を拭いながら、自嘲するような笑みを浮かべた。


その様子を見届けると、アリサは立ち上がる。

「それでは、治療も済みましたので……私は改めて、ウィル様の援護に行って参ります」

「援護って‥‥…まだ、犯人は暴れているのか?」

口にして初めて、甘之川はその音を聞いた。
切り裂くような風が吹いて、何かを砕く音。

「はい。かなりの難敵のようで……急がなければ」

アリサは壁に立てかけていた錫杖を取ると、保健室を出て行った。
自分も手伝うべきだろうか。甘之川は考えたが、すぐに却下した。

「林檎の重さと月の甘さ」は戦闘にも応用できる能力だが、甘之川本人はからっきしだ。
戦闘型の魔人が相手では、分が悪すぎる。
それに、何より──。


ぐらり、と。校舎が振動する。
保健室の天井は一瞬、明滅。蛍光灯の一本が外れ、落下した。
その真下には、眠りにつく調布浩一の顔がある。

「ふふ……まったく。本当に難儀な体質だな、君は」

咄嗟に突き出した右手を血に濡らしながら、甘之川は笑った。





「ぬおおおおっ!!天誅雷破斬ッ!!」

森の中に雷鳴が轟き、大樹を裂く。
炎と化した枝葉が、風と共に舞い上がり、ウィル・キャラダインを襲った。

八相より降り注ぐ災厄、完全な回避は不可能。
どうせ当たるなら、斬り返す。敵の骨を断つ。
ウィルは姿勢を低く、相手の実剣の間合へ踏み込もうとして──しかし、足を止めた。

「≪陽光の精霊よ、我が敵を鎖せ!≫」

背後より唱えられるは、神聖魔法の上位術式。
光の柱が折り重なり、檻となって炎を、斬撃を弾いた。

「ご無事ですか、ウィル様!」

「ああ、助かったよアリサ!」

間一髪のところで、救護に戻っていたアリサの術が間に合った。
麻上アリサの演技は、ウィルに出会った時からずっと続いている。何せ止める人がいない。


彼女の演じる「アリサ・アサガミア」は、バーンデンフェルト王国の姫君であり、自ら前線へと赴く高位の治癒術師でもある。
しかし敗走の最中に敵の呪術師に捕らえられ、身の内にある膨大な魔力を利用した怪物化の呪詛をかけられてしまったのだ。
理性を失ったアリサは、植え付けられた衝動の赴くままに破壊を繰り返し、遂には王都の門を打ち破らんとするところ。
勇者ウィル・キャラダインによって呪いを解かれ、その恩によって彼の旅に同行している。

そういう設定に、なっていた。


「貴様ら……またしても、いちゃいちゃ、いちゃいちゃとぉ……」

しかしながら、そのいかにもな振る舞いは、抜刀斎の怒りを加速させる。

「許せねぇ……許せねぇでござる、カップル共……!」

噴き上がる感情は蒸気となって、抜刀斎の表皮から噴出する。
その肌は朱色に染まり、骨と筋肉は突出し、徐々に人外の如き様相を呈する。

さながら、鬼。
恋を憎む、鬼神。

「くっ……いったい何が、君をそこまで駆り立てるんだ!」

「ウィル様、もしや呪いでは……私の時のように、魔術によって憎しみを植え付けられているのかも」

アリサの至って真剣な推論がしかし、火に油を注ぐ結果となる。

「女、貴様ぁ……我が天を、チンケな魔法と一緒にするというでござるかぁ!?」

憤る声と共に、上段に構えた日本刀。

「そいつぁ……めちゃ許せんでござるよなぁ…!!」

その刀身が燃え上がり、天を衝く炎の柱となる。

──そうだ、許すな。許してはいけない。
誅せ。誅せ。誅せ。誅せ。
殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。

膨れ上がる怒りと共に、男の脳に響く声は大きくなる。

目の前の相手を、「天誅しなければならない」。
その目的が、その思いが、男をどこまでも強くする。

相手が死ぬまで、止まらない。
相手が死んでも、きっと止まらない。

猛る火柱はもっと、高く、熱く。

「天誅ゥゥゥ……火之迦具土ィ!!!」





「なっ……何だ、あれは……!?」

森が、燃えている。
ふと、保健室の窓から外の様子を確認した甘之川は、驚嘆の声を漏らした。
木々という木々が赤く染まり、十二月にあるまじき鮮烈な紅葉を見せている。

ただの気が狂った辻斬り、と聞いていたが。
一体どうして、あのような戦いになるのか。甘之川には想像がつかなかった。

「くそっ、本当に大丈夫なんだろうな……?生徒会は何をやっているんだ……」

「ラブマゲドン」のルールそのものには反していないとはいえ、人殺しだ。
あんなもの、運営として自由にしておく道理がない。とうに報告は行っているだろうに。
「スナイパーあたる」が狙撃して、それで終わりではないのか。

しかし現状を見るに、そうなってはいないらしい。

「おわっ……!?」

またしても、ぐらりと校舎が揺れる。
平衡を失った上着掛けのパイプが倒れて、浩一に迫った。

「ええい、忌々しい……!」

軽くして受け止めたパイプを、床に寝かせる。
この反応にも、少しずつ慣れてきてはいたが。

(やはり、恐ろしい能力だ)

甘之川は嘆いた。
アリサが立ち去ってから、時間にして未だ十五分といったところだったが。
既に十七回、彼の身を不意の危機が襲っていた。


──パシャン、と窓ガラスが割れる。

林檎の重さと月の甘さ(ニュートンズ・イクエイジョン)ッ!」

咄嗟に質量を失ったベッドを蹴りつけて、降り注ぐ破片の雨から逃がす。

しかし、滑りだした先に、戸棚!
衝突──弾けた引き出しから、注射器が浩一に降り注ぐ!

「うおおおおおッ!!!」

こんなこともあろうかと、部屋にあった傘を先んじて開いておいた!
引っ掴み、スライディングー!降り注ぐ針を弾き飛ばす!


「ま、間に合ったか……?」

したたかに打ち付けた腰をさすりながら、立ち上がって浩一の無事を確認する。
しかし、その安堵を嘲笑うように、一際に大きな爆音!

「なっ、何だ──!?」

甘之川が叫んだ次の瞬間、保健室は瓦礫の山に埋まった。
飛来した衝撃が、上階の校舎をまるごと破壊したのだ!


(──ああ、そうか)

そして、甘之川グラムは理解する。

「アンラッキーワルツ」は、周囲の不運を引き寄せる能力。
現状においてそれは、「全ての流れ弾を引き受ける」事を意味する。

戦闘の規模が、広がれば広がるほど。
吸い寄せる不運は多く、強く。


「……さながら、君のいる場所が、世界の中心であるかのように」

「不運が、君に引き寄せられ、集まって来る」


林檎の重さと月の甘さ。
一度に大量に落ちて来た瓦礫片に対して、その能力は完璧には作用しなかった。

何発か、喰らってしまった。
浩一に覆いかぶさった甘之川の背中には、無数の傷跡が刻まれた。


──それが、どうした。
こんな物は、彼の歩んで来た痛ましい人生の、百分の一にも満たない。
苦悶を抑え込み、甘之川は語る。


「ああ……君の在り方は、あまりにも不合理だ」

「運というのは、平等であるべきものだというのに」

「私は、そういう不合理なものが嫌いだ。だから──」

「……いや、違うな」

「違うんだ。そうじゃないんだ……」


甘之川は、降伏した。
自分の理性は、感情に敗北したのだ。

それでいい、と思ってしまった。
だから、もう、どうしようもないのだ。

この頭脳は、とっくに狂ってしまっていた。


「私は、君の事が好きだ」

「だから、君が傷つくのを放っておけない」

「君を、守ってやりたい」


その言葉を受け取るべき相手は、未だ眠りの中にいたが。

それでも、甘之川の心は、随分と軽くなったような気がした。


3.■■■■■は愛を忘れたか


「ほ、報告しますっ!」

生徒会室に駆け込んで来た男子生徒は、慌てた声を出した。

腕には「生徒会役員」と書いた緑の腕章。この色は「役職なし」を意味する。
対して会長である木下や副会長の滑川の腕には、赤色の腕章が巻かれていた。

「第二グラウンドの周辺に、日本刀を持った不審者が出現しました!」

「男は魔人能力者のようで、近くにいた生徒を殺傷し、現在も暴走中、確保は困難のようです!」

「……嘆かわしい。ああ、嘆かわしい事だ……」

報告を聞いた生徒会長──木下礼慈は、額を抑えて呟く。

「悪を憚らぬ生徒たちを更生するため、愛を知ってもらうために……俺達はこの"ラブマゲドン"を企画したというのに」

「あっ……いえ、暴れているのは、生徒ではなく部外者のようです」

木下の言葉を聞き、慌てて補足する。
どろりとした粘膜に覆われた眼球が、彼を見つめた。

「……でも、予想はしていた事でもある……強いって、どれくらい?」

「はい、その……一般役員では近付くこともできないほど、苛烈な戦闘であると……!」

「そうか……分かった、すぐに向かおう。俺自らが鎮圧する」

木下は椅子から立ち上がると、上着を脱ぎ捨てる。
カッターシャツの裏側から張り詰め、鍛え上げられた上半身が露になった。

「ふ……ふふ、フヒ……待っていろ」

不意に木下は、怪しい笑みを浮かべた。
この頃の彼の癖であった。様子を見ていた生徒会役員にとっては、既に慣れたものである。
それでも、不気味だと思わない訳ではなかったが。それ以上の言葉はない。


その時、緑の腕章を着けた役員の一人が、手を挙げた。

「お言葉ですが……相手は、人殺しです。この際、"あたる"殿に依頼をするというのは──」

「駄目よ」


学園最強の狙撃手、スナイパーあたる。
この被害の状況を見れば、そういった意見が出てくるのは自然と言えた。
しかし、滑川はその言葉を一蹴した。

「あたるは、駄目。不正な脱走者を、ずっと見張ってる必要があるから」

静かな語気だが、有無を言わせぬ迫力があった。この場には誰も、それ以上の反論を続けられる者はいない。

木下も「ああ、ぬめちゃんの言う通りだな」と頷いた。

「それじゃあ、行ってくる。留守の事は任せたよ、ぬめちゃん」

「うん……大丈夫」


生徒会長、木下礼慈。
生徒会選挙を己が拳一つで制し、「学園最強」を冠する男。
不埒なる剣客を罰するべく、動き出した。





(い、意味わかんない……!何やってるの!?何が起きてるの!?)

泉崎ここねは、一階の空き教室に一人で残っていた。
同行していたへんてこな二人組──ウィルとアリサは、森の方で人斬りが暴れていると聞くと、一目散に向かったのだ。

「ちょ、ちょっと!?別に行かなくていいよ、生徒会が何とかしてくれるでしょ」

いつになく大きな声を出して追いすがるここねだったが、二人の正義に一蹴された。

「それ以前に更なる犠牲者が出るかもしれない。私は勇者だからね、見過ごせないよ」

「私もウィルさまと同意見です。泉崎さまは、いかがなさいますか?」

一緒に付いていくか、ここに残るか。
この問いに、ここねが迷う筈もなかった。選択する余地がなかった、とも言える。
終わったら迎えに来るという二人を見送り、近くの空き教室に隠れる事にしたのだった。

ここねとしては不満が募ったが、反対できる立場にない。
一人でうろついたらどうなる事かは目に見えている。

(ああ──もう、やだ)

ヘッドホンの音楽を、静かなクラシックに変更する。
適当な机に突っ伏して、不貞寝。

しかしながら、その微睡みはまもなく破られる事になった。

揺れる校舎。燃え盛る木々。割れる窓ガラスに、崩れ落ちる隣の天井。

(なっ……なんなの、なんなのこれ!?)

全く意味が分からないが、何かとんでもない事態が起きているのは分かる。
立ち込める粉塵にむせ返りながら、何とか部屋を這い出して、廊下へ。

(逃げっ……逃げないと、安全な方向へ……)

周囲を見渡せども、人気がない。
ここねが夢の世界へトリップしている間に、みな逃げ出してしまったらしい。
勇ましく飛び出したあの二人は、いったい何をやっているのか。

(ああ、むかつく……何もかもむかつく……あいつらも、生徒会も、他のやつも……!)

身を包む恐怖を怒りで誤魔化しながら、ここねはひとり彷徨い始めた。





甘之川グラムは、気を失ったままの調布浩一の身体を抱え、走っていた。
肉体は軽く、その歩みは風よりも速く。

以前の自分ならば、彼の身体にこうして触れるだけで、目を回していたかもしれない。
しかし、今は違う。思考が手足が痺れる事も、渦を巻く事もない。

ただ──どこまでも我が身は軽く、理性は冴えて。
何よりこの心臓は、気力に溢れていた。

(なるほど)

(──恋は強し、とはよく言ったものだ)


同時に彼女は、調布浩一の能力が作用する効果範囲を計算していた。
彼とて、世界中の不幸を余さず吸い寄せる訳ではない。
その範囲には、間違いなく限界がある。
それも、思ったより狭い──この学校の敷地を、覆い切れない程度には。


保健室を飛び出した直後、甘之川は電話口に向かって叫んだ。

「おい、情報屋!今日、この学校で起きた"不運"の時間と場所を、ありったけ!すぐに!教えろ!」

「十万だ、既に振り込んでやった!金額に恥じない仕事をしろ!いいな!」

普段の平河玲が提示する、相場のおよそ百倍の金額。その効果は覿面だった。
数分後に帰って来た返答を確認し、頭の中に叩きこむ。

今日、彼女が浩一と出会ってから、時間と共にある位置情報。
集まった「不運」の記録と照合すれば、浩一の元へ吸い寄せられる距離の境界を絞り出せる。


(そして、あの戦闘の影響範囲、拡大速度、周辺の地理情報──)

(予想しろ、回答しろ!最も彼の安全を確保できる位置──)


──甘之川の足が止まる。
目についたベンチの上に、浩一の身体を寝かせた。

ここであれば、日常的な不幸はともかく──あの戦闘によって起こりうる、致死性の不幸は及ばない。
……あと一時間は。

どういう理屈かは不明だが、あの戦闘の影響範囲は徐々に大きくなっている。
平河がついでに送ってくれた情報によると、件の辻斬りの魔人能力らしい。
戦いを続ける中で、力を増幅させて、成長していく能力者。


一時間。それまでに、この戦いに片は付くか。
生徒会は、鎮圧してくれるか。

誰も、保証はしてくれない。


「──だから、私が保証してやる」

分が悪い、それがどうした。

甘之川グラムは弱い、それがどうした。

「守ってやると、決めたのだ」

恋する乙女は、何より強い。





冬の森に、熱風が吹き寄せる。
さながら、この戦場は燃え盛る地獄であった。

「≪大地の精霊よ、我が歩みに従え!≫」

大地から突き出した岩の槍が、抜刀斎に迫る。

「しゃらくさいでござるなぁ!」

右手、左手、後背──三方の死角より迫る攻撃を、侍は駒の様に回転し、一太刀の元に叩き落とす。
どこまでも研ぎ澄まされた剣戟、反応の速度。
ウィル・キャラダインが立ち会った中でも、この男は紛れもない強敵であった。

「甘い……甘いでござるわぁ!」

土槍の奇襲に合わせた、アリサの転移魔術。
この連携は初めて見せたはずだ。前触れなく頭上に現れたウィルの斬撃を、抜刀斎はまたも受け止めてみせた。

「ひゃはああああああっ!!天誅雷轟砲ゥゥ!!!」

「ぐあああっ!!!」

侍の持つ刀に、電光が迸る。
空中にあって回避もままならないウィルは、痛烈な電気エネルギーと共に吹き飛ばされ、燃え盛る炎の海の中へ。

「ウィルさまっ……!!」

翻って、駆け寄ろうとするアリサ──その目の前に、燃えるように赤い肌の男が舞い降りる。

「どうしたァ」

「ひっ……」

異貌の侍に間近で睨まれ、怖い物知らずという設定のアリサ姫も思わず息を呑んだ。

「まだ、貴様への天誅は終わっておらんでござるよォ……?」

血糊に濡れた刀を見せつけ、舌なめずりをする。

「受けるがいいでござる……我が天を侮辱せし、罪深き恋の女よ」

「天!!誅!!!かぐつ──」


再び刀を天に掲げ、炎を灯そうとした侍──その上体が、不意に吹き飛ばされた。
無論、アリサは何もしていない。
炎の中から飛び出してきた巨漢が、拳の一撃を喰らわせたのだ。


「うちの敷地を滅茶苦茶に燃やしておいて、生徒にまで手をかけるとは……」

「こいつぁ、容赦も慈悲も不要と見たぜ」


赤色の腕章。溢れ出る闘気。
魔人能力を使わずして、数多の戦闘魔人を薙ぎ払って来た豪腕。
その武をもって数多の猛者を打ち払い、生徒会選挙を制した。「学園最強」の男。

「ああ……貴方こそは、賢者キノシティー様……!」

「いや誰だよ」

木下は拳を握り締め、侍を突き飛ばした方向に向き直る。

「いいから、君は下がっていろ!連れの男なら、途中で気絶してるのを見かけたから、グラウンドの方に放り投げておいた!」

「放り投げ……え、放り投げた!?」

「ここで灰になるよりはマシだろ、行って手当てしてやれ」

アリサは一瞬、迷いを抱いた。自分もここに残って、彼を支援すべきではないかと。
その迷いを、木下は一蹴する。

「いいから、行け」

炎の向こう側から、低い唸り声がした。
犬のようで、犬のようではない──例えるなら、そう。昏い地の底に住む、番犬のような。

「女に地獄は見せたくねえんだ、俺は」

その背中を見ると、アリサはグラウンドへ向かって走り出した。


直後、炎の海の向こう側から、全身に炎を纏う幽鬼が現れた。
すでに髪は焼け、ちょんまげと言う名の面影もない──。

しかし、尚も彼はその刀を手放さず。
止まらない。止められない。この怒りが尽きるまでは。

「天……天……天誅ゥゥゥゥ」

「ほざけ。誅されるのは、貴様だ」

燃え盛る地獄の底で、二人の鬼神が激突した。





麻上アリサがグラウンドへと戻ると、ウィル・キャラダインの傍に一人の少女がいた。

「ああ、ウィルさま……それに、泉崎さま!」

泉崎ここねはいかにも不機嫌そうな顔をして、ウィル・キャラダインを治療していた。

「ああ、ありがとうございます……!泉崎さまが、助けて下さったのですね!」

「……違う。なんか成り行きで、木下に押し付けられただけ。本当、意味わかんない……」

「押し付け……あれ?投げ飛ばしたのでは?」

アリサは混乱したが、この際どうでもいいと判断した。
ウィルの隣に屈みこんで、胸に手を押し当て、治癒魔術の詠唱を開始する。


ここねは彼らが出会ったときから当たり前のように使っている魔法らしきものについて、気になる事がないでもなかったが。
何かもう今更だと思ったので、あるがまま受け入れる事にした。

(わざわざ自分から勝手に突撃して、死にかけてるなんて……本当に、馬鹿じゃないのこいつら)

(……別に、わざわざ人の生き方に口出ししないけど)

泉崎ここねは平穏を好む。
こういった善良で勇敢な手合とは、極力付き合ってはいけないのだと思う。
すぐに暴走して無茶をするし、周りにいると必然、そのリスクに巻き込まれるのだ。
ほら、現に今、こうなってる。

(──まあ、今は緊急事態だし、例外というか)

(一人で行動する方が、やばい状況だから)


「っ……う、うう」

何度かの詠唱を終えると、ウィルの意識が戻った。
アリサは目に涙を浮かべながら、その瞳を覗き込む。

「ああ、ああ……無事でよかったです、ウィルさま……」

「すまない……そして、ありがとう。アリサも、ココネも」

「……き、気持ち悪い!なんで私の名前知ってるの!?」

率直な反応だった。下の名前で呼ばれたくないから、極力苗字しか名乗らないようにしていたここねとしては。

(いや、できれば苗字も言いたくなかったんだけど……このアリサって人がしつこいから……)

「ああ、失礼。そういえば、説明していなかったね……」

ウィル・キャラダインには知恵の女神の加護があり。
弱体化した今でも、人の名前くらいは知ることができる、と。
そう説明しようとして、彼は何かに気づいた。

「あっ……そ、そうか!ココネ……イズミザキ、ココネ!」

「や、やめろ!マジでキモイ!イケメンだからって許されると思うな!次やったら容赦しない!」

事実上の「能力を使うぞ」という宣告だった。
これだけ言って人の嫌がることをする奴は、恩人でも何でもない。
いや、既に借りを返したのでもう恩人ではない(という事にここねの中ではなっている)が。

「すまない」と繰り返して、ウィル・キャラダインは続ける。

「一つ確認したいんだが……君は、セイジロウという名に心当たりがあるか」


「──え」


脳の奥、そのまた更に奥。
チカリ、と輝く光があった。
外れていたプラグが、一気に繋がってしまったような。

ああ──そうだ、それは。

理解してしまった。
思い出してしまった。

泉崎清次郎。
四年ぶりに耳にした、懐かしい名前。

呆然とするここねの隣で、グラウンドが爆風に包まれた。





──砕け散った意識、その残骸の下で。
幽鬼は夢を見ていた。

客演は、二人きり。
自分と、もう一人の誰か。
嗚呼、何という名前であったか。

■■■、■■■。

ダメだ、ダメだ。思い出せない。
記憶なんてものは全部、炎の向こう側へ行ってしまった。
ここに残っているのは、思い出だけだ。

思い出。何もかもを、忘れてしまった後に。
それでもまだ、残っているもの、知っていること。
たとえば、そう。

■■■が、とても悲しんでいること。
誰かに傷つけられたのだ。
何かに悲しまされたのだ。

■■■は、とても弱い。
■■■は、とても脆い。
この世界は、敵ばかり。
だから、■■■は、どこにも行けない。

──ならば、自分が代わりに戦おう。
いつかのむかし、そう決めた。

戦えない君のかわりに。
君を傷つける者を退けよう。

嗚呼、そうだ。
だからこそ、自分は訊ねるのだ。

「どうだろう、■■■」

「これを許すべきか」

「誅するべきか」

「私は君の剣だ」

「君が傷つける全てと戦い」

「君を否定する全てを愛そう」

「そうして」

「何時の日か、この世界が」

「君の愛するもので満たされるよう」





「おおおおおおおおっ!!!!」

木下礼慈は燃え盛る日本刀の一撃を拳で受け止め、咆哮した。
長らく使っていなかったが──昔取った白羽取りの業は、尚も健在。

だが、侍も負けてはおらぬ。
否、常にその上を行く。
斬らねばならぬ。誅さねばならぬ。
その一念が、彼に目の前の相手を越える力を与え続ける。

「天誅ゥゥゥゥ!!!阿修羅転生ォォォォォ!!!!」

「何ィィっ!?」

抜刀斎の脇の下より、新たなる剛腕が二本、四本!
柄に掌を重ね、木下の剛力を押し込める!

「ああああああああっ!!!!」

鍛え上げた両腕、腰に力を込める──だが、止まらない!
最強の男を以てしても、この修羅を止めることができないッ!
吹き飛ばされた木下の身体は、燃え盛る海を越え、校舎の壁へと激突する!

「キノシティーさんっ!?」

アリサが叫んだ。もはや、その呼び名に対して突っ込む余裕もない。
爆炎はついにグラウンドを焦がし、木下礼慈は崩れ落ちる。

「アリサ、彼に治癒を!」

「ええ!」

追撃を加えんと走り出す鬼の前に、ウィルが繰り出す。
一合、二合。吹き飛ばされ、背中を打つ。

「まだ、まだだ!来いッ!!」

剣を地面に突き立て、ウィルは叫ぶ。
その間にアリサは木下の元へと駆け寄り、治癒魔術を唱えようとした。
しかし、彼は片手で制する。

「必要ない」

「そ、そんな……今は強がってる場合じゃありません!共闘、しないと!」

「ああ、分かってる……俺も今更、無駄な意地を張るつもりはない」


木下は立ち上がり、火の付いたシャツと赤色の生徒会腕章を投げ捨てた。

「だが、これくらいは俺にとって、怪我の内に入らん。本当だ」

それが強がりなのかどうか、アリサには分からなかった。
「それに」と木下は付け加える。

「何度でも際限なく使えるって訳じゃあないんだろ。その技」

「……はい」

「だったら、もっと有効な使い方を考えろ。……それでも余ったら、他の怪我した生徒に使ってやってくれ」

「は、はい……!」

「頼んだぜ」と木下は告げて、奮戦するウィルの元へと突っ込んだ。


修羅の横腹に、木下の蹴りが炸裂する──だが、僅かにぐらつくばかり。
埒外の膂力を誇る足腰が、その衝撃を受け止める──否。

「流石に、そいつは無理ってもんだ!」

「てんッ……誅ウッ……ガ、ハァ!」

吐血。その内臓を潰し、呼吸を奪った。
その間隙に、ウィル・キャラダインの刃が迫る。

「グ、グガアアアアアッ!!!」

赤黒く変色した手首が二つ、宙を舞った。
血潮の噴水がグラウンドに咲き、地獄の絶叫が響き渡る。
その音響が破壊となって、僅かに残っていた窓ガラスを砕いた。

「天ッ……天誅ッ……天、誅ァァァァッl!!」

アリサは片手で耳を塞いだが、逆の耳からは血が滴っていた。鼓膜が破れたらしい。
構うものか。なおも最前線で危険に晒され続ける二人へ、治癒魔術を飛ばす。

斬り飛ばされた修羅の傷口で、粘液が蠢く。再生の予兆。
最後に残った右腕が柄に触れ、刃に雷鳴が迸る。
ウィルは二度目の太刀でその手首を落とさんと試みたが──左腕を犠牲に、太刀筋が遮られた。

(ダメだ、間に合わない──!?)

「なんて化け物だ、クソッ……!」

「天誅ゥゥ……!!!インドラァァァァ!!!!」

緊急避難。アリサの詠唱が、二人の身体を転移させ、引き戻す。
しかし、叫びに呼応する如く集められた電流は、一帯を焼き尽くすべく光輝し、溢れ──。


その寸前。
修羅の雄叫びに、重なる絶叫があった。


「させるものか」、と。
空から、女の叫び声がした。

次の瞬間、巨大な鉄塊が落下──修羅を踏み潰し、グラウンドを削り取った。

気中に放出する筈のエネルギーは、行き場を失い、逆流し──その肉体を灼く。





──グラウンドの上空、三百メートル。

「っ……はっ……き、決まった……ようだな」

寒風に声を震わせるのは、甘之川グラム。
背に負うは、珍奇なるプロペラ飛行ユニット。

いつか、こんな時が来る──そう思っていた訳ではないが。


甘之川グラムは天才である。
その天才が、自分の体を綿の様に軽くする能力を得たとして。
タケコプター的な……個人装着型のフライトユニットを、作ってみたくならない訳がないだろう!
少なくとも、甘之川はなった。

後は、近くにあった工事用のロードローラーを「軽くして」拝借。
敵の真上で重さを元に戻し、墜落させたのだ。

最も、落下するタイミングにはラグがあり、超高速で動き回る彼らの戦闘のタイミングを、甘之川に見切れた訳ではない。
頑張って見切ろうとしたが、無理だった。
現に、アリサの魔術がなければ、二人まで巻き込んでいたかもしれないし。

無事に抜刀斎にだけ直撃させることができたのは、偶然。
放電のタイミングに重なってダメージを増幅させることができたのも、偶然。


「まあ……要するに、この結果は」

「君の不運、という訳だな」





窪んだ穴。焼けこげた地面。
立ち込める黒煙と共に、細い唸り声が聞こえる。

「……まだ、息があるみたいだ。気を付けて」

「ああ、分かってる」

ウィル・キャラダインと木下礼慈は、構えを解かぬまま静かに歩み寄る。
ぺたり、と。
高熱に歪んだ鉄塊の隙間から、赤黒い手が這い出た。

即座に、ウィル・キャラダインはその手首を切り捨てた。
ぎょあっ、と悲鳴が漏れる。
傷口を確認──再生の様子は、ない。


天誅。
怒りと使命感によって、理外の成長を促す能力。
身も蓋もない話だが、要するに──その力の源は脳である。

不意の一撃、質量による圧殺が、男の大脳へ致命的な損傷を与えたらしい。


這い出て来たのは、赤黒い、痩せこけた人型の肉塊。
いや──もはや、これがヒトであったのかどうかも分からない。
加えて、先ほどまで見せていた炎のような怒りも、殺気も。すっかり立ち消えている。

その喉に、もはや言葉はなく。意味を為さない呻き声を発して。
ただ異常な強さの生命力が、身を包む死の運命を、僅かばかりに遠ざけ続けていた。

ウィルと木下は、その有り様を理解した。


「……今、楽にしてやろう」

「いや」

しかし木下の言葉を、ウィルは静止する。
続けて、「待って」と声がした。

息を切らして、靴を焦がして、駆け寄って来る少女の影があった。

「何だ。ここはまだ危険だ。下がっていろ」

「……私の質問に、答えて」

木下の忠告を無視して、泉崎ここねはウィル・キャラダインに向かい、訊ねる。
途中、爆風に煽られてヘッドホンを落としてしまっていたが、どうでもいい。

「構わない」

「あんた、人の名前が見えるのよね」

「ああ、見える。そういう加護を持っていてね」

またよく分からない用語が出てきた気がするが、こっちもどうでもいい。
ここねは鉄塊の上に蠢く赤い男を指さし、続ける。


「……こいつが、"泉崎清次郎"なのね」

「ああ」

ウィルは頷いた。

「ど、どういう事だ……?」

話がさっぱり見えないと、木下は二人を交互に見た。
戦闘の終わりを察したアリサも、様子を見に駆け寄って来る。

「ああ……」

少女は声を震わせながら、「彼」の方へと向き直り、呟いた。

「こいつは──泉崎清次郎は、私の兄よ」





野蛮で、頭が悪くて、感情的。
私が兄を嫌いになる理由は、その三つだけでも十分だった。

さらに言えば、常識がない。時代錯誤だ。あと、汗臭い。
この二十一世紀にもなって刀剣を振り回して喜び、将来は立派なサムライになるのだとか吹聴して回っていた。

私は兄の事が嫌いだった。


ところで、不思議な事に、あるいは理不尽な事に。
兄の方は、私を好いているらしかった。

いつも、私が与えられたおやつを食べ終わるのを待って、得意げに自分の分を差し出して。
「いる?」などと、恩着せがましく訊ねてくるのだ。

まあ、当時の私は、タダより怖い物というやつの恐ろしさを知らなかったので、喜んで受け取っていた気がするけど。「ありがとう」と笑顔さえ浮かべて、お礼を言っていたかもしれない。不覚だ。


そうだ、初めて小学校に通った日からずっと、私の登下校の道を先導しようともしていた。聞けば、私が車に轢かれないか心配だったらしい。
そのくせ自分が六年の時には、車にぶつけられて入院していたのだから、呆れて言葉もない。

まあ、当時の私にとっては、身近な人が大怪我をした経験などなかったし。
なぜか「人はクルマにぶつかれば死ぬ」ものだとと思い込んでいたので、泣きながら見舞いに行ったりしていた記憶があった。不覚だ。


そんな兄妹の関係は、私が中学に入った頃にはいっそう冷え込んでいた。
その年頃になってもまだ、兄は私の事を、ぬいぐるみを手放せない幼児か何かのように扱ってきていたのだ。

勝手に携帯の履歴を確認したり、勝手に着替えを用意したり、部活をさぼって私の参観日の様子を見に来たり。
馬鹿じゃないだろうか。いくら両親がいない環境だからって、過保護にも程がある。

幸いと兄には学習能力があり、私が「嫌だ」ときちんと表明したものに関しては二度としなくなるので、この頃の私は口癖のように「嫌だ」を使っていた。


私が快適な生活環境を手に入れるまでに、およそ二百回の「嫌だ」が消費された。

兄は時代劇の番組をリビングで見ないようになったし、我が家の食卓からは無事にネギとピーマンが消えた。

私が着る服の好みにも、テレビ番組にも、食べ物の好き嫌いにも口出しをしなくなった。

玄関とトイレには可愛らしいテディベアのセットが置かれ、食器棚の下の引き出しにはチョコレートの予備が尽きなくなった。


そんな兄がいなくなったのは、四年前の事だ。

中学二年生。私が生卵になった、すぐ後の頃。
私は学校に行くのをやめて、自分の部屋の中で暮らしていた。

その判断には、何か理由があったような気もするし、色んなものが積み重なった結果だった気もする。

その時の兄は、いつになく鬱陶しかった。
ねちねちと世話を焼いて、煩わしくて、どうしようもなかった。

「何か、嫌なことがあったのでござるか」

「あるよ、沢山。たとえば、あんたがそうやって話しかけてくる事とか」

正直にそう言ってやった。随分と困った様子が、扉越しにも伝わって来ていた。


しかしどういう訳か、この男はめげなかった。
執拗に、執拗に、生卵の殻を叩き続けた。

話しかけるなと言われれば、扉の下からメモを渡してきた。
毎日、毎日。


『ここね。お前の好きなチョコレートケーキを買って来たでござる。ここに置いておくでござるよ』

『ここね。今日もかなえちゃんがプリントを届けに来てくれたでござる。クラスの皆は、お前が戻って来るのを待ちわびているそうでござるよ』

『ここね。お前に嫌がらせをしていた先輩には、拙者からきつく言っておいたでござる。もうあのような事はしないと、言質を取って来たでござるよ』

『ここね。今まで気づいてやれなくて、すまなかったでござる。お前に不埒を働いた男は、拙者が誅しておいたでござるよ。だから、安心して──』


「──誰も、そんなこと頼んでない」


まだ血が乾いてもいなかった、心の傷口──そこに、触れられてしまったからか。
気が付けば、私は爆発していた。

何を言ったのか、もう覚えてもいないけれど。

偽善、余計なお世話、うるさい、気持ち悪い、消えて、出て行って。
推測するに、多分、おそらく、そんな感じの言葉を投げつけた。

次の日の朝、兄は本当に家からいなくなっていた。
私は、久しぶりに学校に行った。


兄は、本当にそのまま、二度と戻ってこなかった。





「何……何、やってんの、ほんとに……馬ッ鹿じゃないの……」

妹は、理解してしまった。
この場にいる人間の中で、彼女だけが理解できた。

この狂戦士が、何のために剣を振るい続けたか。
その怒りが、どこから湧いてきたものだったか。

「あんたを、こんな風にしたのは、私だってのに……!」


理性を抉られ、判断力を奪われ、記憶を失い、知性を溶かされて。

それでもまだ、心のどこか、肉体のどこかに。
兄としての使命感、その残滓が宿っていた。

いつか妹が口にした、二百の言葉を覚えていたのだ。
思い出として、残っていたのだ。


「そうやって喧しくされるの、あたし嫌だから」

──ならば、斬らねばならぬ。


「あんまりお金にうるさいの、嫌だよ。好きに使わせて」

──ならば、斬らねばならぬ。


「寝てる時に騒がしくしないで。嫌だ」

──ならば、斬らねばならぬ。


「お味噌汁にネギ入れるの、やめて。私これ嫌だよ」

──ならばこそ、斬らねばならぬ。


「……男なんて、馬鹿ばっかり」

「もう、恋愛なんて嫌だ」

──嗚呼、嗚呼、それならば。

──全て、全て。斬らねばならぬ。


もはや名も忘れてしまった、顔も覚えていない相手。
どこか遠くにいる、大切だった人。

泉崎清次郎は、これを天と呼んでいた。


「あ……ああ」

赤く萎れていく肉体は、彼女の声に反応するように眼球を蠢かせ、唸りを発した。
意味をなさない発声。されどその瞳は、目の前の少女の姿を映していた。

「本当に、馬鹿……馬鹿すぎて、意味わかんない……なんで、なんでそんな事になるのよ……」

「なんで、そんなになってまで、あたしの言ったこといちいち覚えてるのよ……!」

「なんで、なんで……ッ!あたしみたいなやつのために、そこまで……!」

「もっと、自分を大事にすればいいのに……!!」


堰を切った感情は、止まらない。
四年分の、否、それよりももっと深い層から。
溢れて出てくるものがある。こみ上げてくる想いがある。

この少女は、待っていたのだ。
相手を失って、伝えるべき言葉を抱えたまま、ずっと。

あるいは、もう──とっくに遅すぎたかもしれないけれど。それでも。


「あ……あたしがっ……あたしが、悪かったから……!」

「ごめんなさい……っ!本当に、ごめっ……ごめんなさい、兄さんっ……!!!」


四年越しの謝罪。ここねは嗚咽しながら、確かに言い切った。

……最も、その言葉は、正しく届いたのだろうか。
分からない。
泉崎清次郎だったものは──やはり、意味を為さない呻き声を漏らすばかり。

「それでいい」とここねは思った。

(これからも……ずっと、この罪を記憶したまま、生きていく)

だから、それでいい。
泉崎ここねは、許されなくていい。


「……邪魔して、ごめんなさい」

膝を付き、頭を垂れたまま、少女は言う。

「どうか……お願いします。この人を、もう、楽にしてあげて」


自分の言葉によって呪われ、狂わされ。
狂った先の世界においても、なお呪われ続けた男に。

怪物と成り果てて、気が触れたまま戦い続け、そして、正気もなく死んでいくこの男に。
他に、何をしてやれようか。

せめて……せめて、止めてやらなくてはと。
そう、思った。


「……引き受けよう」

ウィル・キャラダインは、少女の頼みを聞き入れる事にした。
それこそが、彼女の心を救うために必要な事であると、理解したからだ。

静かに剣を振り上げ、弔うべき対象を見据える。
最も楽に逝けるであろう死を、太刀筋を、心の内に描いて。

「では……どいてくれるかな」

ウィルの言葉を受けて、ここねは立ち上がった。

涙を拭い、視界を晴らす。
自分の罪の結果を、最後まで見届けなくてはいけないから。


──引き留めるように、掴む手があった。

「え」

赤く、熱を帯びた掌が、ここねの手を握りしめていた。
双眸は今もしかとここねを見据えて、唇はぷくぷくと開閉し、泡を吹いている。

「……いいの、待って」

助けに入ろうとしたウィルを制して、ここねは翻った。

たとえ、このまま殺されたとしても、文句は言えない。
……叶う事ならむしろ、その方が望ましい。

だから、しゃがみ込んで、目の高さを合わせて。
静かに顔を寄せる。

「あ……あ、あ……」

それは、羽虫の羽ばたきのように。
あるいは、小鳥の足音のように。

聞き逃してしまいそうなほど、小さな、小さな音。


──だけど、確かに届いた。


「あ……こ、こね」


「あっ、あい……あいしてる、よ」


気が付くと、彼の身体を抱き寄せていた。
火照るような熱が、身体中に伝わった。


「そんな……そんなのっ……私だって……!」


──野蛮で、頭が悪くて、身勝手で。
乱暴で、時代遅れで、大嫌い、だけど。

ずっと、傍に付いてきて。
いつも、いつも、私の為に何かしようとしてくれていた。


そんな鬱陶しくて、面倒で、しつこくて──どこまでも、愚かな人のことを。

大切に、思ってしまわない訳がない。


「兄さん……兄さん、あんたは、あたしのっ……!」


ここねが最後の言葉を口にした瞬間、二人の身体は光に包まれた。





甘之川グラムが浩一の元に戻って来た時、彼を寝かせていたはずのベンチは、黒い焦げ跡に焼かれていた。

「なっ……!?」

調布浩一は、その傍らに力なく寝転がっていた。
制服は破け、肌には凄惨な火傷の跡が刻まれている。

──雷に、打たれたらしい。
それでも、かろうじて意識はあった。

「あ、ああ……甘之川、さん」

「なっ……何故だ、クソッ……!私が、計算を誤ったとでもいうのか……!」

甘之川は混乱した。戦闘領域の拡大は、予測の範囲内に収まっていたはずなのに。
あるいは、あの戦闘とは関係のない不運に見舞われたというのか。

だが今は、過去の事をどうこう言っている場合ではない。


林檎の甘さと月の重さ。
軽くした浩一の身体を抱え上げ、走り出す。
このお姫様抱っこも、きょう一日で随分と板に付いた。

「待っていろ、今、治療ができる奴のところに連れて行ってやる」

「あ、ありがとう……」

保健室は壊れてしまったが、他にも治療のできる場所に幾つか心当たりはある。
いや、それよりも──あのアリサという女性だ。

「情報屋」によると、あれは麻上アリサという生徒が自分の役に没入し過ぎた結果、魔人能力によって得た姿であるらしい。
あの治癒能力は本物だ。医術部の連中なんかに任せるより、ずっといい。
しかしその力は、彼女の「演技」が終われば失われてしまう。

(──急げ、駆けろ、甘之川グラム)

(ここで足を止めたら、お前は死ぬまで後悔するぞ)

彼女の能力をフル活用している事を差し引いても。
決して運動が得意ではない少女の肉体は、既に限界に近かった。

だが、止まらない。ギアを一つも緩めない。
ここで失敗したら、いったい何のために──。


その時、甘之川の腕の中で、浩一が呟いた。
朦朧と、うわ言のように。


「……夢を、見たんだ」

「"君を守ってやりたい"、って……そう、俺に言ってくれる人がいた」


──落とし穴、転がるボール、落ちてくる木鉢、ハチの群れ。

次々と押し寄せる不運。だが、小さい。
この程度で、足止めを食ってなるものか。


「その人は、空を飛んで……戦いに向かったみたいだった」

「だけど……地上から、雷が飛んできて」


飛び、かわし、弾き、受け止め。
二人は風となって、学園を突っ切る。


「俺は、それを、どこかで見ていて……」

「このままだと、取り返しのつかない事に……なるんじゃないかって、思って」


……果たして、甘之川の計算に間違いはなかった。

「君が傷つくなら、どうか身代わりになりたい」。
それは、調布浩一の、「アンラッキーワルツ」の原点にある想い。

魔人能力は、己の認識を世界へと押し付ける。
より強い感情は、誰かを想う心は、時に能力を成長させる。


「……本当に、君というやつは」


ああ、なんと愚かで滑稽なことか。

君が誰かを守ろうとすれば、私は君を守ろうとして。
私が君を守ろうとすれば、君は私を守ろうとするのだ。

繰り返し、入れ替わり。


二人はさながら、不格好な円舞曲(ワルツ)のように。






「レジェンダリー木下」は、融通の利かない能力だ。

望むとも、望まざるとも。
願うとも、願わざるとも。

真実の愛を抱く二人の、バッドエンドを認めない。

あらゆる因果を捻じ曲げて、あらゆる無理を押し通して。
彼らの結末は、幸福に彩られる。

一隻の船が、希望崎から東京へと出港した。

共に不運を踊り続ける、二人の恋人と。

一度は止まった兄妹の、再び動き出した時間を乗せて。
最終更新:2018年12月10日 01:50