電脳少女は愛と死の問いを知るか

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電脳少女は愛と死の問を知るか




「こんな経験ない?ㅤ突然さ、本当に突然、なんのきっかけもなく、心の雰囲気がぎゅんって昔に戻ること」
「なんですか、それ?」
「うーん、私の語彙力じゃ伝えきれないかなぁ。そうとしか説明出来ないんだよ。昔と今がやっぱり違うものなんだなって、比べることが出来る瞬間。そう何度も起こることじゃないんだけどさ」
「はあ」
「わかんないか」
「単に昔を思い出すって事じゃないんですよね?」
「うん、違う。想起するだけじゃなくて、昔のそれになるんだよ、心が、雰囲気が」
「わかんないですね」
「そっかー、なら仕方ないか」
ㅤごめんなさい、お役に立てなくて、と全く申し訳なくなさそうないつもの鳳龍である。紫音はとりあえず、その現象は自分にだけ特別にあるものなのだと仮定し、推察を進めることにした。
ㅤ初めにこの感覚ーーなんとなく「アナムネーシス」と名付けようーーこれを覚えたのはつい先日、真宵愛奈が初主演の映画の試写会のためにホンコンHEAVENに行った後、直後のことだった。鳳龍の助言通り、システムを伸ばしたおかげで紫音の内部データはきっちり整頓されていた。いつもよりも清々しい朝を迎えた時に、その中に妙なログが残っているのを見つけたのだ。それは特定個人の生体電気を特定し、それによって限定されたIANUSを破壊するというかなり凶悪なコンピュータウイルスを紫音自身が作成したという内容で、しかし人間の機能を模倣した記録システム、すなわち記憶にはそのようなものは無い。つまり、紫音の行動を逐一記録しているログと紫音自身の記憶に食い違いがあったわけだ。その違和感に気づいた時に、アナムネーシスは起きた。それは感情の想起であり、記憶の想起ではない。思考はそのままで、記憶だけが暴走したようだった。なんの理由もなく、紫音の胸はまるでナイフでも突き立てられたかのように悲鳴を上げたのだ。それはすぐに収まり、その後イベントは起きていない。
ㅤその日もいつもの様に、ただなんとなく鳳龍にくっついて、時々彼を手伝って。その中でどうしても朝に感じた違和感が引っかかるので、片手間に鳳龍に質問してみた、という経緯だった。
ㅤ紫音の記憶能力はあくまで人間の模倣であり、そのおかげでしっかり忘却の機能もついている。ログはどこか紫音とは別の存在で、紫音が何をしたのかが勝手に書き込まれていくメモ帳のようなものだと紫音は感じていた。恐らく私は何かを忘れてしまっている、紫音はそうとしか考えられず、再び鳳龍に尋ねた。
「じゃあさ、昨日何か変わったこと無かった?」
「ーー昨日、ですか」
ㅤ鳳龍はぴたりと、足を止めて、そしてポケットロンを取り出していじり始め、そのまま答えた。「変わったこと、の基準にもよりますけど。特筆するような事は、ええ、何も」
「そっか」
ㅤ鳳龍も記憶を失っているのかと思ったが、そのような外部からの細工が鳳龍に施されていないのは、彼のIANUS内であぐらをかいている紫音には自明のことだった。鳳龍が隠し事を……?ㅤ動機が思いつかず、その線も捨てた。早くもこの謎、迷宮入りである。
「なんです、記憶喪失でもしたんですか?」
「うーん、どうだろう」
ㅤこうなるとログの方が書き換えられたという方がまだ現実的な気がした。誰かにログを弄られるなんて紫音自身絶対に許さないという自信はあるが、そもそも記憶の方は当の紫音でさえも操作不能なのだ。それを弄るなんて、それこそ紫音の製作者とかでない限りーー紫音の生みの親でない限りできないはずなのだから。

ㅤーーメリメリ、と。

ㅤ紫音は再びアナムネーシスを覚えた。感情とはなんともまあ、言葉にしにくいものだろう。嬉しいとか、怒ってるとか、哀しいとか、楽しいとか、そういう感情を表す言葉はきっと、心の違いじゃなくてその時の状況とその人の価値観によって決まるんだなと思った。心はただ、止まっているか、動いているかだけ。心が大きく動いた時に人は、その時々の場面によって感情の言葉を使い分けているのだ。この狂えるような心の激震が、しかしなんのために動いているのかがわならない以上、この気持ちが何なのかを知る術は紫音にはない。
ㅤそうなると、そこから先は完全に妄想の世界だった。一体どんな状況だったら、私はこの心境になり得るのか。妄想のネタはログにあったコンピュータウイルス。それこそ、このウイルスに自分が犯されたとしたら、ひょっとしたら死の恐怖でたまらなくなるかもーー。
ㅤ死の恐怖ーー一度だけ、紫音はそれを肌で感じとった。それは、記憶を失いこの地上に「堕天」された直後、目の前にいた男の笑顔。「よう機械、お前、便利そうだな」あの時に感じたものは紛れとなく、一生命としての生存本能の叫び以外の何ものでもなかった。あの時の心境とは、確かに似ているが少し違う気がする。このアナムネーシスは、別のベクトルにも心が動いている気がする。死の恐怖以外にも、何かを感じていたのかもしれない。
ㅤここで「愛の喪失」というワードを思いついたのは全くの偶然というか、最近紫音自身が悩んでいることズバリそれで、今紫音は何事においてもこれを連想しやすい思考パターンなのであった。愛とは何なのかという問は立てないことにした。決めてしまってはいけないものだと悟ったからだ。愛の定義はないが、紫音は確かにたくさんの人の愛を感じていた。鳳龍の愛、十三の愛、愛奈の愛、葵の愛、そして今でもどこかで自分を見ているであろう、親の愛を。これらのうち一つでも失ってしまったのなら、あるいは強いショックを受けないこともないかもしれない。だからこそ紫音は、失った記憶を取り戻し親の愛を確固たるものにしたいと、そう思っているわけだ。
ㅤまあーー所詮妄想。今紫音はそういう気分であるというだけであり、なんの根拠もない推論でしかなかった。何かの拍子に、そう例えば寝ぼけて、自分でログを書き換えてしまったのだろうと、とりあえずの結論に納得しておいて、紫音はこの思考の堂々巡りから抜け出した。
「全く、いつか俺の事まで忘れてしまいそうですね」
「それは無いよ!ㅤ大好きな友人のことを忘れるわけないじゃん!」
「……ええ、そうですね、そうでしょうとも」
ㅤ意味ありげなのはいつもの鳳龍なのかもしれないが、今日は一段と含みを持たせる物言いだった。頭をもたげる、鳳龍嘘ついてる説。馬鹿な、なんのためにそんなことを。私事だから遠慮しているが、紫音が鳳龍に記憶を取り戻すのを手伝って欲しいと頼めばこの友人は必ず協力してくれるだろうと、紫音は確信しているのだった。理屈はいらない、そういうレベルの想いではないのだ。
「ーーところで」と切り出す鳳龍。
「何?」
「ーーツヅネ、という名前に覚えは、ありますか?」
「ツヅネ?ㅤ誰それ?」
「いえ、知らないのなら、いいんです」
「変な鳳龍」
「ほら、仕事関係ですよ。急ぎではないですけど、探してるんです」
「ふうん?」
ㅤ記憶にも、ログにも残ってない名前だ。ざっと検索を掛けてみても、それらしきものはヒットしない。巧妙に隠れているらしい。
「只者じゃないみたいだね」
「ええーー強敵です」
「私の方でも探しておくよ」
「いえ、大丈夫です」
「今更何遠慮してんのさ、私たちの仲でしょーー」
ㅤパタンーーと。鳳龍がトロンを畳む音が妙に耳朶を打った。
「紫音ちゃんには、別に頼みたいことが、あるんで」
ㅤ鳳龍は一言一言、ゆっくりと紡ぐ。語感はあくまで穏やかだったが、紫音には妙に力強く聞こえた。
「そう」
「ええ、別件なんですけど」
ㅤ仕事の説明を聞きながら、紫音は目の前の友人のことを想った。試写会に行く前も何だか様子が変だった鳳龍。どうにも何か悩んでるように見え、それはまだ解決していないようだった。友人の力になりたい。一番傍で愛をくれる彼に、愛を返したい。鳳龍が心配で、紫音はほとんど、愛がどうとか死がどうとかは二の次になりつつあった。
「じゃ、頼みましたよ、相棒」
「合点承知!」


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