1、地属性魔法
1、項目名の土や地以外にも地面の名称で
カテゴリーとして石や岩も入る創作される定義魔法
哲学的には、土(固体)魔法
植物が恩恵を受け、土や石に魂を宿らせる魔法
ゴーレムなどに命令を与える魔法
生物には必須な属性。
2、古代より冥き地の底の世界(冥界)に通じる信仰する魔法
キリスト教など葬儀の祈りを信仰する魔法
大地から生まれ大地へと還る生命を象徴する属性で生と死を信仰する魔法
3、攻撃魔法:創作では砂嵐や地震や岩や土砂による雪崩などによる攻撃
4、防御魔法:防御に精通して不利な状況でも態勢を
立て直す時間稼ぎに土や岩の壁を出す。
5、回復・強化魔法:地中のエネルギーを放出させ癒しと成長を促す
6、状態異常攻撃:対象そのものを石にしてしまう
7、地形操作攻撃:地面の隆起や陥没・地震や流砂などで足場を崩す
8、その他:土や砂や岩で攻撃する演出が無属性・物理属性と扱われる。
カテゴリーとして石や岩も入る創作される定義魔法
哲学的には、土(固体)魔法
植物が恩恵を受け、土や石に魂を宿らせる魔法
ゴーレムなどに命令を与える魔法
生物には必須な属性。
2、古代より冥き地の底の世界(冥界)に通じる信仰する魔法
キリスト教など葬儀の祈りを信仰する魔法
大地から生まれ大地へと還る生命を象徴する属性で生と死を信仰する魔法
3、攻撃魔法:創作では砂嵐や地震や岩や土砂による雪崩などによる攻撃
4、防御魔法:防御に精通して不利な状況でも態勢を
立て直す時間稼ぎに土や岩の壁を出す。
5、回復・強化魔法:地中のエネルギーを放出させ癒しと成長を促す
6、状態異常攻撃:対象そのものを石にしてしまう
7、地形操作攻撃:地面の隆起や陥没・地震や流砂などで足場を崩す
8、その他:土や砂や岩で攻撃する演出が無属性・物理属性と扱われる。
定義魔法
土(固体)・生物魔法
ゴーレムを操作する魔法
ユダヤ教・神話からの伝承に登場する自分で動く泥人形。
神話や伝説によっては、石や金属で作られたものも登場する。
「ゴーレム(Golem)」とは、ヘブライ語で「胎児」の意味。作った
主人の命令だけを忠実に実行する召し使いかロボットのような存在。
運用上の厳格な制約が数多くあり、それを守らないと狂暴化する。
額にemeth(真理)と刻まれているが、最初のeの文字を消すとmeth(死)となり
崩壊する有名な対処法がある。
ユダヤ教経典〈タルムード〉では,神が大地からアダムを生み出す前
の胎児を指した。 後に伝説化され,胎児のままの
泥人形がカバラの呪文によって動き出す。
ゴーレムを操作する魔法
ユダヤ教・神話からの伝承に登場する自分で動く泥人形。
神話や伝説によっては、石や金属で作られたものも登場する。
「ゴーレム(Golem)」とは、ヘブライ語で「胎児」の意味。作った
主人の命令だけを忠実に実行する召し使いかロボットのような存在。
運用上の厳格な制約が数多くあり、それを守らないと狂暴化する。
額にemeth(真理)と刻まれているが、最初のeの文字を消すとmeth(死)となり
崩壊する有名な対処法がある。
ユダヤ教経典〈タルムード〉では,神が大地からアダムを生み出す前
の胎児を指した。 後に伝説化され,胎児のままの
泥人形がカバラの呪文によって動き出す。
関連項目
真理(しんり、希: ἀλήθεια、羅: veritas、英: truth、仏: vérité、
独: Wahrheit)は、確実な根拠によって本当であると認められたこと。
ありのまま誤りなく認識されたことのあり方。
真実とも。 西欧哲学において、真理論は論理学や認識論に
おいてとりわけ主題化される。
虚偽とともに、そのいずれかが命題または判断に付着する性質である。
すなわち「或(あ)るものが或るものである
(たとえば「人間は植物である」「この花は白色である」などで、
一般に「SはPである」と表記される)」という命題または判断は、
かならず真であるか偽であるかのいずれかである。
真なる命題の把握または真なる判断が知識であり、
知識は真であることによって知識となるのであるから、
真理は認識に関する超越的価値であり、
知性が目ざす目的としての超越的対象である。
真理の基準が何であるかについては、いろいろな説がある。
伝統的な形而上(けいじじょう)学は「思考と存在との合致」
adaequatio rei et intellectusが真理であるとした。
ギリシア語のalētheia(真理)の語義は、本来、
「覆われていないこと、顕(あらわ)なこと」であると考えられる。
すなわち、真理とは存在そのものの姿が顕になっていることであり、
そのように存在そのものを顕ならしめるもの、
または存在の真実相がそこで顕となる場所が理性であると考えられる。
このように、真理が存在そのものについて語られるとき、
それは存在論的真理とよばれる。これに反して、
真理が知性の分析と総合の作用である判断について語られるとき、
それは認識論的真理である。
中世では、いろいろな真理は、唯一の真理である神に基づくものとされた。
神の真理は事物を創造する真理である。
したがって、これは存在の真に関係づけられて成立するものではなく、
むしろ、存在の真がそれに関係づけられて成立するものとされた。
知性が知性の外にある存在そのものに、いったい、いかにして
達しうるであろうかという問いによって、懐疑論が生まれる。
ゴルギアスや古代懐疑派では、そこから真理の認識は不可能である
という結論が導き出された。
プロタゴラスでは「真理とは各人にとってそう思われるものである」と
いう相対主義が主張された。
これは、人間を真理の尺度とする点で
「人間尺度説」homo-mensura-theoryとよばれる。
懐疑論の主張に対して、「万民の一致」consensus gentiumが
真理の基準として主張されることもあった。
知性は、知性の外にある「物自体」には達しないが、
知性の内部において真偽を弁別する、と考えるとき、
近代の主観主義が生まれた。
この場合、真理の基準は観念の明証性または知性の法則との整合性に
置かれ、知性内の基準が真理の基準となる。
また、真理の基準を知識の有効性にありとするプラグマティズム
の真理説も、主観主義の一形態である。
① ほんとうのこと。まことの道理。真実のこと。
② 特に哲学でいう。
(イ) 古代・中世には、認識が実在の事物に一致すること。
スコラ哲学では、この認識の真理をささえる絶対の真理として神を考え、
神は信仰によって啓示されるとした。
(ロ) 近代では、判断が思惟法則に一致するという
形式的真理と、判断が経験の先天的原理である悟性の法則に
一致するという認識の真理がとりあげられた(カント)。
(ハ) 現代では、命題の性質とみなされ、論理学におけるトートロジー
(恒真式)群とその変形という形式的真理と、
命題と事実の一致という認識の真理、命題が絶対とみなされた
一貫した体系全体の必然的な一部分であると認められること
という筋道一貫の真理、命題が有効であるという
プラグマチックの真理、意識から独立に存在する物質とその運動を認め、
物質を正しく反映する意識をさす唯物論的真理などに
分かれて研究されている。
③ 仏教で、真如(しんにょ)のこと。真実で永遠不変の理法をいう。
真理についての考え方には大きくいって三つある。
第1は存在論的真理観である。〈この絵はレンブラントの真作である〉
〈これこそ真の勇気である〉〈この神は真なる神である〉という
ような例において,〈真〉という形容詞は,絵,勇気,神といった存在者
に付加されている。
このように〈真理〉とは存在者に対して付加される特質
だとするのが存在論的真理観である。
ところでいまの例において絵の場合はそれが真かどうかを決定する
のは比較的簡単だが,勇気や神の場合にはその判定が難しく,
そこからいろいろの哲学的・神学的議論が出てくる。
【二重真理】より
…後期スコラ学に現れた真理観。真理は多数あっても究極的には
一つの真理(根拠)によって成立するというのがギリシア哲学の真理観
であるが,これに対しキリスト教とイスラム教では,
〈啓示(信仰)の真理〉と〈理性の真理〉とを区別する傾向があった。…
独: Wahrheit)は、確実な根拠によって本当であると認められたこと。
ありのまま誤りなく認識されたことのあり方。
真実とも。 西欧哲学において、真理論は論理学や認識論に
おいてとりわけ主題化される。
虚偽とともに、そのいずれかが命題または判断に付着する性質である。
すなわち「或(あ)るものが或るものである
(たとえば「人間は植物である」「この花は白色である」などで、
一般に「SはPである」と表記される)」という命題または判断は、
かならず真であるか偽であるかのいずれかである。
真なる命題の把握または真なる判断が知識であり、
知識は真であることによって知識となるのであるから、
真理は認識に関する超越的価値であり、
知性が目ざす目的としての超越的対象である。
真理の基準が何であるかについては、いろいろな説がある。
伝統的な形而上(けいじじょう)学は「思考と存在との合致」
adaequatio rei et intellectusが真理であるとした。
ギリシア語のalētheia(真理)の語義は、本来、
「覆われていないこと、顕(あらわ)なこと」であると考えられる。
すなわち、真理とは存在そのものの姿が顕になっていることであり、
そのように存在そのものを顕ならしめるもの、
または存在の真実相がそこで顕となる場所が理性であると考えられる。
このように、真理が存在そのものについて語られるとき、
それは存在論的真理とよばれる。これに反して、
真理が知性の分析と総合の作用である判断について語られるとき、
それは認識論的真理である。
中世では、いろいろな真理は、唯一の真理である神に基づくものとされた。
神の真理は事物を創造する真理である。
したがって、これは存在の真に関係づけられて成立するものではなく、
むしろ、存在の真がそれに関係づけられて成立するものとされた。
知性が知性の外にある存在そのものに、いったい、いかにして
達しうるであろうかという問いによって、懐疑論が生まれる。
ゴルギアスや古代懐疑派では、そこから真理の認識は不可能である
という結論が導き出された。
プロタゴラスでは「真理とは各人にとってそう思われるものである」と
いう相対主義が主張された。
これは、人間を真理の尺度とする点で
「人間尺度説」homo-mensura-theoryとよばれる。
懐疑論の主張に対して、「万民の一致」consensus gentiumが
真理の基準として主張されることもあった。
知性は、知性の外にある「物自体」には達しないが、
知性の内部において真偽を弁別する、と考えるとき、
近代の主観主義が生まれた。
この場合、真理の基準は観念の明証性または知性の法則との整合性に
置かれ、知性内の基準が真理の基準となる。
また、真理の基準を知識の有効性にありとするプラグマティズム
の真理説も、主観主義の一形態である。
① ほんとうのこと。まことの道理。真実のこと。
② 特に哲学でいう。
(イ) 古代・中世には、認識が実在の事物に一致すること。
スコラ哲学では、この認識の真理をささえる絶対の真理として神を考え、
神は信仰によって啓示されるとした。
(ロ) 近代では、判断が思惟法則に一致するという
形式的真理と、判断が経験の先天的原理である悟性の法則に
一致するという認識の真理がとりあげられた(カント)。
(ハ) 現代では、命題の性質とみなされ、論理学におけるトートロジー
(恒真式)群とその変形という形式的真理と、
命題と事実の一致という認識の真理、命題が絶対とみなされた
一貫した体系全体の必然的な一部分であると認められること
という筋道一貫の真理、命題が有効であるという
プラグマチックの真理、意識から独立に存在する物質とその運動を認め、
物質を正しく反映する意識をさす唯物論的真理などに
分かれて研究されている。
③ 仏教で、真如(しんにょ)のこと。真実で永遠不変の理法をいう。
真理についての考え方には大きくいって三つある。
第1は存在論的真理観である。〈この絵はレンブラントの真作である〉
〈これこそ真の勇気である〉〈この神は真なる神である〉という
ような例において,〈真〉という形容詞は,絵,勇気,神といった存在者
に付加されている。
このように〈真理〉とは存在者に対して付加される特質
だとするのが存在論的真理観である。
ところでいまの例において絵の場合はそれが真かどうかを決定する
のは比較的簡単だが,勇気や神の場合にはその判定が難しく,
そこからいろいろの哲学的・神学的議論が出てくる。
【二重真理】より
…後期スコラ学に現れた真理観。真理は多数あっても究極的には
一つの真理(根拠)によって成立するというのがギリシア哲学の真理観
であるが,これに対しキリスト教とイスラム教では,
〈啓示(信仰)の真理〉と〈理性の真理〉とを区別する傾向があった。…
【光】より
…光は神的なものの顕現,臨在であり,それによって霊界,精神界が
自覚され,自己認識が生ずる。
アレテイアalētheia(真理)とは〈隠れなきこと〉の意であり,
真理と光は同一視される。
光を重視したパルメニデスとプラトンの哲学およびそれを受け継いだ
形而上学の伝統は〈光の形而上学〉と呼ばれる。…
「真理」といえば、西洋では、昔から「真・善・美」の3つを
価値ある理想として、追い求めてきました。
「真理は一つであって、第二のものは存在しない。
その真理を知った人は、争うことがない。」
この言葉は、真理に目覚めて仏陀になられた釈尊の言葉であります。
変わることのない、いつ、どこの、だれのところにも例外なく通ずる
という性質を持つものが真理であります。
そのような真理に目覚めることによって釈尊は、どのようなものとも
争うことのない広やかな世界を生きるものとなられたのであります。
そのことを『仏説無量寿経』では
「いのちを生きるすべてのものを自分であると見ておられる」
と語られています。
私たちも、この世に在って人として生きるかぎり、どんな人とも争う
ことのない広やかな世界を生きるものになって、
自分の生きることを確かなものにしたいと願っています。
ところが私たち人類の歴史は、悲しいことに争いの歴史でもありました。
どうしてでしょうか。それは自分の生きることを確かなものとするために、
自分のところにだけ在るものを真理だとして生きてきたからであります。
つまり、自分の国とか、自分の民族とか、自分の宗教とかを絶対化する
ことによって生きてきたからです。
しかし、それらは時とともに変化する相対的なものでしかありません。
そのように相対的なものを、あたかも真理であるとして
絶対化して生きることは、必ず異質なもの、反対するものを排除する
ことによってしか成り立ちません。
ですから、この世に争いは絶えず、そのことによって私たちの生きる
ことも不安定なものになってしまっているのです。
とくに近代以降、私たち人間は、自分たちのところにだけ何が
真理であるかを知ることのできる力があるかのように思い、
その力を使ってひたすら自分たちに都合の善い快適で便利で豊かな生活を
実現しようとしてきました。
それは自分たちに都合の悪いものを排除することによって成り立つ
生き方でもありました。
多くの動物や植物が姿を消していったのは、そのためです。
そして、同時に私たち人間も生存の危機を迎えることになったのです。
そういう意味で、現代ほどこのような私たち人間のありようが問われている
時代はないと言えるでしょう。
だからこそ釈尊は、変わることのない、いつ、どこの、だれのところ
にも例外なく通ずる真理を見出すことが大事であると教えているのです。
真理とは何ですか?
およそ二千年前に、真理は裁判にかけられ、偽りに徹している人々によって
裁かれました。
実際に、真理は24時間以内に六つの裁判にかけられました。
そのうちの三つは宗教的なもので、残りの三つは法的なものでした。
最終的に、それらの裁判に関わった人たちのうちに「真理とは何か」という
問いに答えることのできる人はほとんどいませんでした。
逮捕されると、真理はまずアンナスという名の、ユダヤの腐敗した
元大祭司のもとに連れて行かれました。
アンナスはその裁判中、自宅でその裁判を開いたり、被告から自己告発を
誘導しようとしたり、その時点では全く有罪とは認められていなかった
被告を打つなど、ユダヤの法律をいくつも破りました。
アンナスの次に、真理はアンナスの娘むこであった
当時の大祭司カヤパのもとに連れて行かれました。
カヤパとユダヤ最高評議会の前に、多くの偽の目撃者たちが進み出て真理を
非難しましたが、何一つ証明されず、
いかなる不正行為の証拠も見つけられませんでした。
カヤパは真理に有罪を宣告しようとして、少なくとも7つの法律を破りました。
(1)その裁判は秘密裏に開かれました。 (2)それは夜間に執り行われました。
(3)それには贈収賄が関わっていました 。
(4)被告には彼を弁護する人が一人もいませんでした。
(5)二人か三人の証言の必要条件を満たすことができませんでした。
(6)彼らは被告に対して自らを有罪に追い込むような供述を用いました。
(7)彼らは同日中に被告に対する死刑を実行しました。
これらの行為はすべてユダヤの法律によって禁じられていました。
とにもかくにも、カヤパは真理を有罪と宣告しました。
真理が受肉した神であると自称したからであり、
カヤパはそれを冒涜であるとしたのです。
朝になると、真理の三つ目の裁判が執り行われ、その結果、
ユダヤ最高評議会は真理が死に値すると宣告しました。
ところが、ユダヤ評議会には死刑を実行する法的権利がなかったので、
彼らは真理を当時のローマ総督であった
ポンテオ・ピラトという男のところに連れて行かざるを得ませんでした。
ピラトはティベリウスによってユダヤの第5代総督として任命され、
紀元26年から36年までその務めを果たしました。
代理長官として、彼には生殺与奪の権利があり、最高評議会によって
可決された死刑宣告を覆すことが可能でした。
真理がピラトの前に立つと、彼に対して
さらなる偽りの申し立てがなされました。
彼に敵対する者たちは「この人はわが国民を惑わし、
カイザルに税金を納めることを禁じ、自分は王キリストだと
言っていることがわかりました」と言いました
(ルカの福音書 23:2)。
真理は皆に税金を支払うようにと命じていた(マタイの福音書 22:21)ので
あり、自身がカイザルに挑戦する者であるとは
一度も言っていなかったのですから、それは偽りでした。
この後、真理とピラトの間で大変に興味深い会話が持たれました。
「そこで、ピラトはもう一度官邸に入って、イエスを呼んで言った。
『あなたは、ユダヤ人の王ですか。』イエスは答えられた。
『あなたは、自分でそのことを言っているのですか。それともほかの人が、
あなたにわたしのことを話したのですか。』ピラトは答えた。
『私はユダヤ人ではないでしょう。
あなたの同国人と祭司長たちが、あなたを私に引き渡したのです。
あなたは何をしたのですか。』イエスは答えられた。
『わたしの国はこの世のものではありません。
もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、
わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。
しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。』
そこでピラトはイエスに言った。『それでは、あなたは王なのですか。』
イエスは答えられた。『わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。
わたしは、真理のあかしをするために生まれ、
このことのために世に来たのです。
真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。』
ピラトはイエスに言った。『真理とは何ですか』」
(ヨハネの福音書 18:33-38)。
「真理とは何ですか」というピラトの問いは、歴史を通して
繰り返し発せられてきました。
それは、誰も彼に告げることのできなかったことを
知りたいという物憂い願望だったのでしょうか、
冷笑的な侮辱行為だったのでしょうか、
あるいは、もしかするとイエスの言葉に対する無関心で
苛立ちのこもった返答だったのでしょうか。
真理を知ることは不可能であるとするポストモダンの世界において、
この問いに答えることはこれまでになく重要なこととなっています。
真理とは何か?
提案されていえる真理の定義
真理を定義するにあたっては、まず真理がどういうもので
ないのかを特筆することが役に立ちます。
•ただ何であれうまく機能するものが真理なのではありません。
それは目的対手段型のアプローチをする実用主義の哲学です。
現実には、嘘が「うまく働く」ように見えることがあっても、
それはやはり嘘であって真理ではないのです。
•ただ理路整然としていたり、理解できるものが真理なのではありません。
ある一団が集まって一定のうそを基に陰謀を形成して、
皆が一致して偽りの話を語ることに同意しても、
それで彼らの説明が真理になることはありません。
•人々を良い気分にさせるものが真理なのではありません。
残念ながら、悪い知らせが真実であることがあります。
•大多数の人たちが本当だと言うことが真理なのではありません。
ある集団内の51%の人たちが誤った結論に達することもあります。
•包括的なものが真理なのではありません。長々しく詳細にわたる
説明でも間違った結論に終わってしまうこともあります。
•真理は意図によって定義されるものではありません。
善意でも間違っていることがあります。
•真理とは私たちがいかにして知るかではありません。
真理は私たちが何を知っているかなのです。
•ただ信じられていることが真理なのではありません。
信じられている嘘はやはり嘘なのです。
•公的に証明されていることが真理なのではありません。
真実は内密に知られうるのです(例 埋められた宝の位置)。
「真理」という意味のギリシャ語はアレーテイア(alētheia)で、
字義的には「非隠ぺい」あるいは「何も隠さないこと」という
意味があります。それは、真理が常にそばにあり、常に開かれていて
誰にでも見ることができ、隠されていることや分かりにくくされている
ことは何もないという考えを伝えています。
ヘブル語で「真理」に当たる言葉はエメト (emeth)で、
「堅固」「不変性」「持続」を意味します。
そのような定義は永続的な実体や頼ることのできる何かを暗示するものです。
哲学的な視点からみると、真理を定義するには
次の三つの単純な方法があります。
…光は神的なものの顕現,臨在であり,それによって霊界,精神界が
自覚され,自己認識が生ずる。
アレテイアalētheia(真理)とは〈隠れなきこと〉の意であり,
真理と光は同一視される。
光を重視したパルメニデスとプラトンの哲学およびそれを受け継いだ
形而上学の伝統は〈光の形而上学〉と呼ばれる。…
「真理」といえば、西洋では、昔から「真・善・美」の3つを
価値ある理想として、追い求めてきました。
「真理は一つであって、第二のものは存在しない。
その真理を知った人は、争うことがない。」
この言葉は、真理に目覚めて仏陀になられた釈尊の言葉であります。
変わることのない、いつ、どこの、だれのところにも例外なく通ずる
という性質を持つものが真理であります。
そのような真理に目覚めることによって釈尊は、どのようなものとも
争うことのない広やかな世界を生きるものとなられたのであります。
そのことを『仏説無量寿経』では
「いのちを生きるすべてのものを自分であると見ておられる」
と語られています。
私たちも、この世に在って人として生きるかぎり、どんな人とも争う
ことのない広やかな世界を生きるものになって、
自分の生きることを確かなものにしたいと願っています。
ところが私たち人類の歴史は、悲しいことに争いの歴史でもありました。
どうしてでしょうか。それは自分の生きることを確かなものとするために、
自分のところにだけ在るものを真理だとして生きてきたからであります。
つまり、自分の国とか、自分の民族とか、自分の宗教とかを絶対化する
ことによって生きてきたからです。
しかし、それらは時とともに変化する相対的なものでしかありません。
そのように相対的なものを、あたかも真理であるとして
絶対化して生きることは、必ず異質なもの、反対するものを排除する
ことによってしか成り立ちません。
ですから、この世に争いは絶えず、そのことによって私たちの生きる
ことも不安定なものになってしまっているのです。
とくに近代以降、私たち人間は、自分たちのところにだけ何が
真理であるかを知ることのできる力があるかのように思い、
その力を使ってひたすら自分たちに都合の善い快適で便利で豊かな生活を
実現しようとしてきました。
それは自分たちに都合の悪いものを排除することによって成り立つ
生き方でもありました。
多くの動物や植物が姿を消していったのは、そのためです。
そして、同時に私たち人間も生存の危機を迎えることになったのです。
そういう意味で、現代ほどこのような私たち人間のありようが問われている
時代はないと言えるでしょう。
だからこそ釈尊は、変わることのない、いつ、どこの、だれのところ
にも例外なく通ずる真理を見出すことが大事であると教えているのです。
真理とは何ですか?
およそ二千年前に、真理は裁判にかけられ、偽りに徹している人々によって
裁かれました。
実際に、真理は24時間以内に六つの裁判にかけられました。
そのうちの三つは宗教的なもので、残りの三つは法的なものでした。
最終的に、それらの裁判に関わった人たちのうちに「真理とは何か」という
問いに答えることのできる人はほとんどいませんでした。
逮捕されると、真理はまずアンナスという名の、ユダヤの腐敗した
元大祭司のもとに連れて行かれました。
アンナスはその裁判中、自宅でその裁判を開いたり、被告から自己告発を
誘導しようとしたり、その時点では全く有罪とは認められていなかった
被告を打つなど、ユダヤの法律をいくつも破りました。
アンナスの次に、真理はアンナスの娘むこであった
当時の大祭司カヤパのもとに連れて行かれました。
カヤパとユダヤ最高評議会の前に、多くの偽の目撃者たちが進み出て真理を
非難しましたが、何一つ証明されず、
いかなる不正行為の証拠も見つけられませんでした。
カヤパは真理に有罪を宣告しようとして、少なくとも7つの法律を破りました。
(1)その裁判は秘密裏に開かれました。 (2)それは夜間に執り行われました。
(3)それには贈収賄が関わっていました 。
(4)被告には彼を弁護する人が一人もいませんでした。
(5)二人か三人の証言の必要条件を満たすことができませんでした。
(6)彼らは被告に対して自らを有罪に追い込むような供述を用いました。
(7)彼らは同日中に被告に対する死刑を実行しました。
これらの行為はすべてユダヤの法律によって禁じられていました。
とにもかくにも、カヤパは真理を有罪と宣告しました。
真理が受肉した神であると自称したからであり、
カヤパはそれを冒涜であるとしたのです。
朝になると、真理の三つ目の裁判が執り行われ、その結果、
ユダヤ最高評議会は真理が死に値すると宣告しました。
ところが、ユダヤ評議会には死刑を実行する法的権利がなかったので、
彼らは真理を当時のローマ総督であった
ポンテオ・ピラトという男のところに連れて行かざるを得ませんでした。
ピラトはティベリウスによってユダヤの第5代総督として任命され、
紀元26年から36年までその務めを果たしました。
代理長官として、彼には生殺与奪の権利があり、最高評議会によって
可決された死刑宣告を覆すことが可能でした。
真理がピラトの前に立つと、彼に対して
さらなる偽りの申し立てがなされました。
彼に敵対する者たちは「この人はわが国民を惑わし、
カイザルに税金を納めることを禁じ、自分は王キリストだと
言っていることがわかりました」と言いました
(ルカの福音書 23:2)。
真理は皆に税金を支払うようにと命じていた(マタイの福音書 22:21)ので
あり、自身がカイザルに挑戦する者であるとは
一度も言っていなかったのですから、それは偽りでした。
この後、真理とピラトの間で大変に興味深い会話が持たれました。
「そこで、ピラトはもう一度官邸に入って、イエスを呼んで言った。
『あなたは、ユダヤ人の王ですか。』イエスは答えられた。
『あなたは、自分でそのことを言っているのですか。それともほかの人が、
あなたにわたしのことを話したのですか。』ピラトは答えた。
『私はユダヤ人ではないでしょう。
あなたの同国人と祭司長たちが、あなたを私に引き渡したのです。
あなたは何をしたのですか。』イエスは答えられた。
『わたしの国はこの世のものではありません。
もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、
わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。
しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。』
そこでピラトはイエスに言った。『それでは、あなたは王なのですか。』
イエスは答えられた。『わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。
わたしは、真理のあかしをするために生まれ、
このことのために世に来たのです。
真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。』
ピラトはイエスに言った。『真理とは何ですか』」
(ヨハネの福音書 18:33-38)。
「真理とは何ですか」というピラトの問いは、歴史を通して
繰り返し発せられてきました。
それは、誰も彼に告げることのできなかったことを
知りたいという物憂い願望だったのでしょうか、
冷笑的な侮辱行為だったのでしょうか、
あるいは、もしかするとイエスの言葉に対する無関心で
苛立ちのこもった返答だったのでしょうか。
真理を知ることは不可能であるとするポストモダンの世界において、
この問いに答えることはこれまでになく重要なこととなっています。
真理とは何か?
提案されていえる真理の定義
真理を定義するにあたっては、まず真理がどういうもので
ないのかを特筆することが役に立ちます。
•ただ何であれうまく機能するものが真理なのではありません。
それは目的対手段型のアプローチをする実用主義の哲学です。
現実には、嘘が「うまく働く」ように見えることがあっても、
それはやはり嘘であって真理ではないのです。
•ただ理路整然としていたり、理解できるものが真理なのではありません。
ある一団が集まって一定のうそを基に陰謀を形成して、
皆が一致して偽りの話を語ることに同意しても、
それで彼らの説明が真理になることはありません。
•人々を良い気分にさせるものが真理なのではありません。
残念ながら、悪い知らせが真実であることがあります。
•大多数の人たちが本当だと言うことが真理なのではありません。
ある集団内の51%の人たちが誤った結論に達することもあります。
•包括的なものが真理なのではありません。長々しく詳細にわたる
説明でも間違った結論に終わってしまうこともあります。
•真理は意図によって定義されるものではありません。
善意でも間違っていることがあります。
•真理とは私たちがいかにして知るかではありません。
真理は私たちが何を知っているかなのです。
•ただ信じられていることが真理なのではありません。
信じられている嘘はやはり嘘なのです。
•公的に証明されていることが真理なのではありません。
真実は内密に知られうるのです(例 埋められた宝の位置)。
「真理」という意味のギリシャ語はアレーテイア(alētheia)で、
字義的には「非隠ぺい」あるいは「何も隠さないこと」という
意味があります。それは、真理が常にそばにあり、常に開かれていて
誰にでも見ることができ、隠されていることや分かりにくくされている
ことは何もないという考えを伝えています。
ヘブル語で「真理」に当たる言葉はエメト (emeth)で、
「堅固」「不変性」「持続」を意味します。
そのような定義は永続的な実体や頼ることのできる何かを暗示するものです。
哲学的な視点からみると、真理を定義するには
次の三つの単純な方法があります。
1.真理は現実と一致するものである。 2.真理はその目的に合致するものである。 3.真理とは単純に事実をありのままに述べるものである。
まず初めに、真理は事実に一致します。それは現実なのです。
真理はまた事実上一致するものです。
別の言い方をすれば、それはその対象に合致し、
その指示物によって知られています。
例として、クラスの生徒たちに顔を向けている教師が
「この教室の出口はたった一つだけ右側にある」と言ったとします。
その教師に向かい合っている生徒たちにとっては
その出口は彼らの左側にあるかもしれません。
しかし、その教師にとっては、出口が右側にある
というのは絶対に本当なのです。
真理はその目的に合致します。ある人には何ミリグラムか必要な薬でも、
望ましい効果を得るためにはその同じ薬が別の人にはもっと必要である
かもしれないし、あるいはそれほど必要でないかもしれないということが、
絶対的真理であるかもしれません。
これは相対的な真理ではなく、ただ真理がいかにその目的に合致する
かの例えを示すものです。
患者が医者に不適当な量の薬を要求したり、自分たちの特定の疾患のために
使う薬は何でもいいと言うことは、間違った
(そしてもしかすると危険でもある)ことです。
要するに、真理とは単に事実をあるがままに語ることです。
それはものごとの実際のありさまであり、他のいかなる見解も誤りなのです。
哲学の根本原則は、真理と誤りとを識別することができることです。
すなわち、トマス・アクィナスが述べたように
「区別をするのは哲学者の仕事」なのです。
真理に対する異議
アクィナスの発言は今日ではあまり人気のあるものではありません。
ポストモダンの相対主義の時代にあって、区別をつけることは
時代遅れであるようです。「これは真実だ」と言う発言は、
今日でも、それが「よってそれは誤りである」という発言に
続かないかぎりは受け入れられます。
これが特に目につくのは、真理に関してはいかなる信念体系も対等である
と想定されている、信仰や宗教の問題においてです。
真理という概念に異議を唱える哲理や世界観は数多くありますが、
それぞれをじっくり分析すると
それが本質的に自滅的なものであることが分かります。
相対主義の哲理は、すべての真理が相対的であり、
絶対的真理というようなものは存在しないとします。
しかし、問わねばなりません。
「すべての真理は相対的である」という主張は相対的真理なのでしょうか、
それとも絶対的真理なのでしょうか。
それが相対的な真理であるとすれば、それは実際には無意味なものです。
私たちには、それがいつどこで適用するのか、どうすれば分かるのでしょうか。
もしもそれが絶対的な真理であるならば、
絶対的真理が存在することになります。
さらに、相対主義者が絶対主義者の見解は間違っていると言う時、
その人は自分自身の見解に背いて発言しています。
絶対的真理が存在すると言う人たちも
また正しくてもよいのではないでしょうか。
突き詰めると、相対主義者が「真理はない」と言う時、
彼はあなたに彼のことを信じないよう要請しているのです。
そして彼の忠告に従うのが最善なのです。
懐疑主義の哲理に従う人たちは、単純にすべての真理を疑います。
ですが、懐疑論者は懐疑主義に対して懐疑的でしょうか。
彼は自らの真理の主張を疑うでしょうか。
そうだとすれば、何のために懐疑主義に目を向けるのでしょうか。
そうでないとすれば、私たちは少なくとも一つのこと
(つまり、絶対主義が存在すること)を確信することができます。
この場合、皮肉にも懐疑主義が絶対的真理となるからです。
不可知論者は、私たちには真理を知ることができないと言います。
しかし、その考え方は、少なくとも一つの真理、
すなわち私たちには真理を知ることができないという真理を
知っていると主張しているのですから、自滅的なものなのです。
ポストモダニズムの信奉者たちはどのような特定の真理をも肯定しません。
ポストモダニズムの守護聖人、フリードリヒ・ニーチェは真理を
次のように説明しました。
「では、真理とは何であろうか。
隠喩、隠喩語、擬人化から成る
遊動軍... 真理は幻想である...
絵柄を失ってしまい、もはや金属としての価値しかなく、
もはや硬貨としての価値のない硬貨。」
皮肉なことに、ポストモダニズムの信奉者はその手中に、
もはや「ただの金属」でしかない硬貨を握っていながら、
少なくとも一つの絶対的真理、つまり、いかなる真理も
認められるべきではないという真理を認めているのです。
他の世界観と同様、ポストモダニズムは自滅的であり、
それ自体の主張によって正しいと認められることができません。
広く受け入れられている世界観に多元論がありますが、
それはすべての真理主張が同等に妥当であるとします。
もちろん、それは不可能なことです。
ある女性が今妊娠しているという主張と彼女は今妊娠していない
という主張の両方が同時に真実であり得るでしょうか。
多元論は、何かが同時に、同じ意味において、
ともに「A」であり「Aでない」ことはあり得ないとする、
非矛盾の法則の下で崩壊してしまいます。
ある哲学者による気の利いた皮肉のように、非矛盾の法則は真理ではないと
信じる(そして、自動的に、多元論が真実であると信じる)者は誰でも、
打ちのめされて焼かれるべきです。
そうすれば、彼らは打ちのめされて焼かれることが、
打ちのめされず焼かれないことと同じではないことを認めるでしょう。
また、多元論が、それが真理であり、それに反するものは何でも誤りである
としていることにも注意してください。
それはそれ自体の基礎的な教義を否定する主張なのです。
多元論の背後にある精神は、何でも受け入れようとする寛容の姿勢です。
しかしながら、多元論は誰もが同等の価値を持っているという考えと、
すべての真理主張が同等に正当である
ということとを混同しています。
もっと単純に言うと、すべての人々は平等であるかもしれませんが、
真理主張のすべてが同等なのではありません。
多元論は意見と真実との差異を理解しそこなっています。
これは、モーティマー・アドラーが「多元論は、真理に関する領域よりも、
むしろ好みに関する領域においてのみ望ましく、また許容される」
と特筆している区別です。
真理の不快性
真理という概念が中傷される場合、それはたいてい以下に挙げられた
理由のうちの一つあるいは複数のものによります。
信仰や宗教に関して絶対的真理を知っていると
主張する人に対する共通の苦情は、そのような姿勢が「狭量」である
というものです。しかしながら、批判家たちには、真理が本来狭いものである
ということが理解できていません。
2+2は4にしかならないと信じる数学教師は狭量なのでしょうか。
真理に対するもう一つの反論は、ある人が正しくて別の人が
誤っていると断言することは傲慢であるというものです。
しかし、もう一度先の数学の例に触れるなら、ある算数の問題に
対して正しい答えが一つしかないと主張する数学教師は傲慢なのでしょうか。
あるいは、鍵師が、施錠されたドアを開けることのできる鍵は
一つしかないというのは傲慢なのでしょうか。
信仰や宗教に関して絶対的真理を固守する人たちに対する三つ目の非難は、
そのような見解がだれでも受け入れようとするものではなく、
むしろ、排他的であるというものです。
しかし、そういった苦情は、真理が本質的にその反対のものを除外する
ものであることを理解していません。
4以外の解答はすべて、2+2が何であるか
という事実から除外されるのです。
真理に対するさらにもう一つの抗議には、真理を有している
と主張することが侮辱的で不和を生じさせるものだというものがあります。
批判家たちは、その代わりに、ただ重要なのは誠意なのだと主張します。
この見解の問題は、真理は、誠意や信条、また願望の影響を受けることが
ないことです。
私たちが間違った鍵がドアに合うとどれほど本気で信じるかは
重要ではありません。その鍵は鍵穴に入らず、ドアは開かないのです。
真理は誠実さに影響されることもありません。
毒の入った瓶を取り上げて誠実にそれがレモネードであると信じる人は、
不運にも毒の作用に苦しむことになります。
最後に、真理は願望の影響を受けるものではありません。
ある人が自分の車がガス欠でなければよいのにと強く願ったとしても、
タンクが空になっていることが燃料計に示され、
車がそれ以上走らないなら、どんなに願ったとしても奇跡的に
その車を走り続けさせることはできません。
中には、絶対的真理が存在することを認める人たちもいますが、
その人たちも、そのような姿勢は科学の領域においてのみ有効なのであり、
信仰や宗教に関しては通用しないと主張します。
これは論理実証主義と呼ばれる哲学で、デイヴィッド・ヒュームやA.J.エイヤー
といった哲学者たちによって広められました。
本質的に、そのような人々は、真理主張が
(1)トートロジー
(例 すべての独身男性は結婚していない男性である)であるか、
(2)経験的に証明できるもの(つまり、科学によって検証可能)かの
いずれかでなければならないと主張します。
論理実証主義者にとっては、神に関する話はみな無意味なものです。
科学だけにしか真理主張をすることができないという観念に固執する
人たちが認識しそびれているのは、科学が無効である真理領域が数多くある
ということです。以下はその例です。
•科学には数学と論理の領域を証明することはできません。
科学がそれらの領域を前提としているからです。
•私自身の精神が存在するということ以外には、
科学では心理などの形而上的真理を証明することができません。
•科学には道徳や倫理の領域において真理を提供することができません。
例えて言うと、ナチスが邪悪であったことを証明するために
科学を用いることはできません。
•日の出の美しさなど、科学には美的観念に
関する真理を言明することができません。
•最後に、「科学が客観的真理の唯一の供給源である」
と誰かが発言する場合、その人はただ哲学的主張をしているのであって、
その主張は科学によって検証することのできないものです。
また、絶対的真理は倫理の領域には当てはまらないと言う人たちもいます。
しかし、「無邪気な子どもを苦しめ殺害することは道徳的か」
という問いに対する回答は絶対的、且つ普遍的な「否」です。
もしくは、問題をもっと身近なものにすると、道徳に関して
相対的真理を信奉する人たちも、常に、彼らの配偶者が自分に絶対に
誠実であることを望んでいるように見受けられます。
真理はなぜ重要なのか
なぜ、人生のすべての領域(信仰と宗教を含む)において、
絶対的真理という概念を理解し、
受け入れることがそんなに重要なのでしょうか。
単純に、人生においては間違いにはその成り行きが伴うからです。
誰かに誤った分量の薬を与えればその人は死んでしまうかもしれません。
投資マネージャーに財政上の決断を誤らせれば、
家族に貧困をもたらすかもしれません。
間違った飛行機に搭乗すれば、あなたが行きたくない場所に
行き着くことでしょう。
そして不誠実な結婚相手を持つと、家族の崩壊や、
果たしては病気に至る可能性もあります。
キリスト教護教論者のラヴィ・ザカリアスが言うように、
「事実、真理は重要なのです。特に、私たちが嘘をつかれている場合には。」
そして、このことは何よりも信仰や宗教の領域において最も重要なのです。
永遠というのは、間違いを犯すにはひどく長い時間なのです。
神と真理
イエスの六回の裁判の間に真理(義)と偽り(不義)の間にあった
対比は間違えようのないものでした。
真理であるイエスはそこに立ち、そのすべての行いが嘘に
まみれた者たちによって裁かれていました。
ユダヤの指導者たちは、不当な有罪判決から被告を
守るために策定されていた法律のほとんどすべてを破りました。
彼らは躍起になってイエスを有罪とする証言を見つけようとしましたが、
業を煮やし、偽りの証言に頼りました。
しかし、それでも彼らは目的を達成することができず、
また別の法律を破り、無理やりイエスに自らを関与させたのでした。
ピラトの前に出ると、ユダヤ人指導者たちは再び嘘をつきました。
彼らはイエスを冒涜の罪で告発しましたが、それがピラトにイエスを
殺させるのには不十分であることを知っていたので、
彼らはイエスがカエザルに挑戦し、群衆に税金を支払わせないように
促してローマの法律を破っていると申し立てました。
ピラトは速やかに彼らの表面的な欺きを見抜き、
その容疑には一切触れもしませんでした。
義であったイエスが不義な者たちによって裁かれていたのです。
悲しいことに、後者は常に前者を迫害します。
そのためにカインはアベルを殺したのです。
真理と義、また偽りと不義の間の関連は、
新約聖書中の多くの例によって示されています。
•「それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。
それは、真理を信じないで、悪を喜んでいた
すべての者が、さばかれるためです」
(テサロニケ人への手紙 第二 2:11-12下線引用者)。
•「というのは、不義をもって真理をはばんでいる
人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが
天から啓示されているからです」
(ローマ人への手紙 1:18下線引用者)。
•「神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります。
忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと不滅のものと
を求める者には、永遠のいのちを与え、党派心を持ち、
真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです」
(ローマ人への手紙 2:6-8下線引用者)。
•「[愛は]礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、
人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます」
(コリント人への手紙 第一13:5-6下線引用者)。
結論
ポンテオ・ピラトが何世紀も前に尋ねた問いは、完全に正確なものと
するために言い換える必要があります。
「真理とは何か」というローマ総督の発言は、多くのものごとには
真理を有することができるが、
実際に真理でありえるものはただ一つしかない
という事実を見逃しています。
真理には、どこかに起源がなければなりません。
純然たる現実であるのは、二千年以上前のあの日の早朝に、
ピラトがすべての真理の源を直視していたということです。
逮捕されてその総督のもとに連れて来られる少し前に、イエスは
「わたしが真理である」(ヨハネの福音書 14:6)と単純に述べていました。
これはいささか信じられないような発言でした。
ただの人間がどうして真理でありえるでしょうか。
彼が人間以上のものでない限り、それはありえないことでした。
そして実際に、彼は自らのことを人間以上のものであると主張していたのです。
実際に、イエスが死者の中から復活されたとき、その主張の正当性は
立証されたのでした(ローマ人への手紙 1:4)。
パリに住んでいたある男性の話があります。
彼には田舎から初めて彼に会いに来た人がいました。
その客にパリの壮麗さを見せたくて、彼はその人をルーブル美術館に
連れて行って優れた芸術を見せ、それから壮大なオーケストラホールでの
コンサートに連れて行って素晴らしい交響楽団の演奏を聴かせました。
その日の終わりに、田舎から来た客はその芸術も音楽も特には
彼の気に入らなかったと言いました。
それに対して男性は言いました。
「 彼らが試されているわけではないのだよ。試されているのは君なんだ。」
ピラトやユダヤ人指導者たちは自分たちがキリストを裁いている
と思っていました。
ところが、現実には、裁かれていたのは彼らの方だったのです。
その上、彼らが有罪としたお方が、いつか彼らを実際に裁くことになるのです。
彼は、不義をもって真理を
はばんでいる者たちみなを裁くことになるのですから。
明らかにピラトは真理を知ることはありませんでした。
歴史家でありカイゼリアの司教でもあったユーセビウスは、ピラトが
最終的にカリグラ帝の治世中に自殺をしたと記録しています。
これは悲しい結末であり、真理を無視すれば必ず望ましくない結果になる
ことを私たちに思い知らせています。 End
真理はまた事実上一致するものです。
別の言い方をすれば、それはその対象に合致し、
その指示物によって知られています。
例として、クラスの生徒たちに顔を向けている教師が
「この教室の出口はたった一つだけ右側にある」と言ったとします。
その教師に向かい合っている生徒たちにとっては
その出口は彼らの左側にあるかもしれません。
しかし、その教師にとっては、出口が右側にある
というのは絶対に本当なのです。
真理はその目的に合致します。ある人には何ミリグラムか必要な薬でも、
望ましい効果を得るためにはその同じ薬が別の人にはもっと必要である
かもしれないし、あるいはそれほど必要でないかもしれないということが、
絶対的真理であるかもしれません。
これは相対的な真理ではなく、ただ真理がいかにその目的に合致する
かの例えを示すものです。
患者が医者に不適当な量の薬を要求したり、自分たちの特定の疾患のために
使う薬は何でもいいと言うことは、間違った
(そしてもしかすると危険でもある)ことです。
要するに、真理とは単に事実をあるがままに語ることです。
それはものごとの実際のありさまであり、他のいかなる見解も誤りなのです。
哲学の根本原則は、真理と誤りとを識別することができることです。
すなわち、トマス・アクィナスが述べたように
「区別をするのは哲学者の仕事」なのです。
真理に対する異議
アクィナスの発言は今日ではあまり人気のあるものではありません。
ポストモダンの相対主義の時代にあって、区別をつけることは
時代遅れであるようです。「これは真実だ」と言う発言は、
今日でも、それが「よってそれは誤りである」という発言に
続かないかぎりは受け入れられます。
これが特に目につくのは、真理に関してはいかなる信念体系も対等である
と想定されている、信仰や宗教の問題においてです。
真理という概念に異議を唱える哲理や世界観は数多くありますが、
それぞれをじっくり分析すると
それが本質的に自滅的なものであることが分かります。
相対主義の哲理は、すべての真理が相対的であり、
絶対的真理というようなものは存在しないとします。
しかし、問わねばなりません。
「すべての真理は相対的である」という主張は相対的真理なのでしょうか、
それとも絶対的真理なのでしょうか。
それが相対的な真理であるとすれば、それは実際には無意味なものです。
私たちには、それがいつどこで適用するのか、どうすれば分かるのでしょうか。
もしもそれが絶対的な真理であるならば、
絶対的真理が存在することになります。
さらに、相対主義者が絶対主義者の見解は間違っていると言う時、
その人は自分自身の見解に背いて発言しています。
絶対的真理が存在すると言う人たちも
また正しくてもよいのではないでしょうか。
突き詰めると、相対主義者が「真理はない」と言う時、
彼はあなたに彼のことを信じないよう要請しているのです。
そして彼の忠告に従うのが最善なのです。
懐疑主義の哲理に従う人たちは、単純にすべての真理を疑います。
ですが、懐疑論者は懐疑主義に対して懐疑的でしょうか。
彼は自らの真理の主張を疑うでしょうか。
そうだとすれば、何のために懐疑主義に目を向けるのでしょうか。
そうでないとすれば、私たちは少なくとも一つのこと
(つまり、絶対主義が存在すること)を確信することができます。
この場合、皮肉にも懐疑主義が絶対的真理となるからです。
不可知論者は、私たちには真理を知ることができないと言います。
しかし、その考え方は、少なくとも一つの真理、
すなわち私たちには真理を知ることができないという真理を
知っていると主張しているのですから、自滅的なものなのです。
ポストモダニズムの信奉者たちはどのような特定の真理をも肯定しません。
ポストモダニズムの守護聖人、フリードリヒ・ニーチェは真理を
次のように説明しました。
「では、真理とは何であろうか。
隠喩、隠喩語、擬人化から成る
遊動軍... 真理は幻想である...
絵柄を失ってしまい、もはや金属としての価値しかなく、
もはや硬貨としての価値のない硬貨。」
皮肉なことに、ポストモダニズムの信奉者はその手中に、
もはや「ただの金属」でしかない硬貨を握っていながら、
少なくとも一つの絶対的真理、つまり、いかなる真理も
認められるべきではないという真理を認めているのです。
他の世界観と同様、ポストモダニズムは自滅的であり、
それ自体の主張によって正しいと認められることができません。
広く受け入れられている世界観に多元論がありますが、
それはすべての真理主張が同等に妥当であるとします。
もちろん、それは不可能なことです。
ある女性が今妊娠しているという主張と彼女は今妊娠していない
という主張の両方が同時に真実であり得るでしょうか。
多元論は、何かが同時に、同じ意味において、
ともに「A」であり「Aでない」ことはあり得ないとする、
非矛盾の法則の下で崩壊してしまいます。
ある哲学者による気の利いた皮肉のように、非矛盾の法則は真理ではないと
信じる(そして、自動的に、多元論が真実であると信じる)者は誰でも、
打ちのめされて焼かれるべきです。
そうすれば、彼らは打ちのめされて焼かれることが、
打ちのめされず焼かれないことと同じではないことを認めるでしょう。
また、多元論が、それが真理であり、それに反するものは何でも誤りである
としていることにも注意してください。
それはそれ自体の基礎的な教義を否定する主張なのです。
多元論の背後にある精神は、何でも受け入れようとする寛容の姿勢です。
しかしながら、多元論は誰もが同等の価値を持っているという考えと、
すべての真理主張が同等に正当である
ということとを混同しています。
もっと単純に言うと、すべての人々は平等であるかもしれませんが、
真理主張のすべてが同等なのではありません。
多元論は意見と真実との差異を理解しそこなっています。
これは、モーティマー・アドラーが「多元論は、真理に関する領域よりも、
むしろ好みに関する領域においてのみ望ましく、また許容される」
と特筆している区別です。
真理の不快性
真理という概念が中傷される場合、それはたいてい以下に挙げられた
理由のうちの一つあるいは複数のものによります。
信仰や宗教に関して絶対的真理を知っていると
主張する人に対する共通の苦情は、そのような姿勢が「狭量」である
というものです。しかしながら、批判家たちには、真理が本来狭いものである
ということが理解できていません。
2+2は4にしかならないと信じる数学教師は狭量なのでしょうか。
真理に対するもう一つの反論は、ある人が正しくて別の人が
誤っていると断言することは傲慢であるというものです。
しかし、もう一度先の数学の例に触れるなら、ある算数の問題に
対して正しい答えが一つしかないと主張する数学教師は傲慢なのでしょうか。
あるいは、鍵師が、施錠されたドアを開けることのできる鍵は
一つしかないというのは傲慢なのでしょうか。
信仰や宗教に関して絶対的真理を固守する人たちに対する三つ目の非難は、
そのような見解がだれでも受け入れようとするものではなく、
むしろ、排他的であるというものです。
しかし、そういった苦情は、真理が本質的にその反対のものを除外する
ものであることを理解していません。
4以外の解答はすべて、2+2が何であるか
という事実から除外されるのです。
真理に対するさらにもう一つの抗議には、真理を有している
と主張することが侮辱的で不和を生じさせるものだというものがあります。
批判家たちは、その代わりに、ただ重要なのは誠意なのだと主張します。
この見解の問題は、真理は、誠意や信条、また願望の影響を受けることが
ないことです。
私たちが間違った鍵がドアに合うとどれほど本気で信じるかは
重要ではありません。その鍵は鍵穴に入らず、ドアは開かないのです。
真理は誠実さに影響されることもありません。
毒の入った瓶を取り上げて誠実にそれがレモネードであると信じる人は、
不運にも毒の作用に苦しむことになります。
最後に、真理は願望の影響を受けるものではありません。
ある人が自分の車がガス欠でなければよいのにと強く願ったとしても、
タンクが空になっていることが燃料計に示され、
車がそれ以上走らないなら、どんなに願ったとしても奇跡的に
その車を走り続けさせることはできません。
中には、絶対的真理が存在することを認める人たちもいますが、
その人たちも、そのような姿勢は科学の領域においてのみ有効なのであり、
信仰や宗教に関しては通用しないと主張します。
これは論理実証主義と呼ばれる哲学で、デイヴィッド・ヒュームやA.J.エイヤー
といった哲学者たちによって広められました。
本質的に、そのような人々は、真理主張が
(1)トートロジー
(例 すべての独身男性は結婚していない男性である)であるか、
(2)経験的に証明できるもの(つまり、科学によって検証可能)かの
いずれかでなければならないと主張します。
論理実証主義者にとっては、神に関する話はみな無意味なものです。
科学だけにしか真理主張をすることができないという観念に固執する
人たちが認識しそびれているのは、科学が無効である真理領域が数多くある
ということです。以下はその例です。
•科学には数学と論理の領域を証明することはできません。
科学がそれらの領域を前提としているからです。
•私自身の精神が存在するということ以外には、
科学では心理などの形而上的真理を証明することができません。
•科学には道徳や倫理の領域において真理を提供することができません。
例えて言うと、ナチスが邪悪であったことを証明するために
科学を用いることはできません。
•日の出の美しさなど、科学には美的観念に
関する真理を言明することができません。
•最後に、「科学が客観的真理の唯一の供給源である」
と誰かが発言する場合、その人はただ哲学的主張をしているのであって、
その主張は科学によって検証することのできないものです。
また、絶対的真理は倫理の領域には当てはまらないと言う人たちもいます。
しかし、「無邪気な子どもを苦しめ殺害することは道徳的か」
という問いに対する回答は絶対的、且つ普遍的な「否」です。
もしくは、問題をもっと身近なものにすると、道徳に関して
相対的真理を信奉する人たちも、常に、彼らの配偶者が自分に絶対に
誠実であることを望んでいるように見受けられます。
真理はなぜ重要なのか
なぜ、人生のすべての領域(信仰と宗教を含む)において、
絶対的真理という概念を理解し、
受け入れることがそんなに重要なのでしょうか。
単純に、人生においては間違いにはその成り行きが伴うからです。
誰かに誤った分量の薬を与えればその人は死んでしまうかもしれません。
投資マネージャーに財政上の決断を誤らせれば、
家族に貧困をもたらすかもしれません。
間違った飛行機に搭乗すれば、あなたが行きたくない場所に
行き着くことでしょう。
そして不誠実な結婚相手を持つと、家族の崩壊や、
果たしては病気に至る可能性もあります。
キリスト教護教論者のラヴィ・ザカリアスが言うように、
「事実、真理は重要なのです。特に、私たちが嘘をつかれている場合には。」
そして、このことは何よりも信仰や宗教の領域において最も重要なのです。
永遠というのは、間違いを犯すにはひどく長い時間なのです。
神と真理
イエスの六回の裁判の間に真理(義)と偽り(不義)の間にあった
対比は間違えようのないものでした。
真理であるイエスはそこに立ち、そのすべての行いが嘘に
まみれた者たちによって裁かれていました。
ユダヤの指導者たちは、不当な有罪判決から被告を
守るために策定されていた法律のほとんどすべてを破りました。
彼らは躍起になってイエスを有罪とする証言を見つけようとしましたが、
業を煮やし、偽りの証言に頼りました。
しかし、それでも彼らは目的を達成することができず、
また別の法律を破り、無理やりイエスに自らを関与させたのでした。
ピラトの前に出ると、ユダヤ人指導者たちは再び嘘をつきました。
彼らはイエスを冒涜の罪で告発しましたが、それがピラトにイエスを
殺させるのには不十分であることを知っていたので、
彼らはイエスがカエザルに挑戦し、群衆に税金を支払わせないように
促してローマの法律を破っていると申し立てました。
ピラトは速やかに彼らの表面的な欺きを見抜き、
その容疑には一切触れもしませんでした。
義であったイエスが不義な者たちによって裁かれていたのです。
悲しいことに、後者は常に前者を迫害します。
そのためにカインはアベルを殺したのです。
真理と義、また偽りと不義の間の関連は、
新約聖書中の多くの例によって示されています。
•「それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。
それは、真理を信じないで、悪を喜んでいた
すべての者が、さばかれるためです」
(テサロニケ人への手紙 第二 2:11-12下線引用者)。
•「というのは、不義をもって真理をはばんでいる
人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが
天から啓示されているからです」
(ローマ人への手紙 1:18下線引用者)。
•「神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります。
忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと不滅のものと
を求める者には、永遠のいのちを与え、党派心を持ち、
真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです」
(ローマ人への手紙 2:6-8下線引用者)。
•「[愛は]礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、
人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます」
(コリント人への手紙 第一13:5-6下線引用者)。
結論
ポンテオ・ピラトが何世紀も前に尋ねた問いは、完全に正確なものと
するために言い換える必要があります。
「真理とは何か」というローマ総督の発言は、多くのものごとには
真理を有することができるが、
実際に真理でありえるものはただ一つしかない
という事実を見逃しています。
真理には、どこかに起源がなければなりません。
純然たる現実であるのは、二千年以上前のあの日の早朝に、
ピラトがすべての真理の源を直視していたということです。
逮捕されてその総督のもとに連れて来られる少し前に、イエスは
「わたしが真理である」(ヨハネの福音書 14:6)と単純に述べていました。
これはいささか信じられないような発言でした。
ただの人間がどうして真理でありえるでしょうか。
彼が人間以上のものでない限り、それはありえないことでした。
そして実際に、彼は自らのことを人間以上のものであると主張していたのです。
実際に、イエスが死者の中から復活されたとき、その主張の正当性は
立証されたのでした(ローマ人への手紙 1:4)。
パリに住んでいたある男性の話があります。
彼には田舎から初めて彼に会いに来た人がいました。
その客にパリの壮麗さを見せたくて、彼はその人をルーブル美術館に
連れて行って優れた芸術を見せ、それから壮大なオーケストラホールでの
コンサートに連れて行って素晴らしい交響楽団の演奏を聴かせました。
その日の終わりに、田舎から来た客はその芸術も音楽も特には
彼の気に入らなかったと言いました。
それに対して男性は言いました。
「 彼らが試されているわけではないのだよ。試されているのは君なんだ。」
ピラトやユダヤ人指導者たちは自分たちがキリストを裁いている
と思っていました。
ところが、現実には、裁かれていたのは彼らの方だったのです。
その上、彼らが有罪としたお方が、いつか彼らを実際に裁くことになるのです。
彼は、不義をもって真理を
はばんでいる者たちみなを裁くことになるのですから。
明らかにピラトは真理を知ることはありませんでした。
歴史家でありカイゼリアの司教でもあったユーセビウスは、ピラトが
最終的にカリグラ帝の治世中に自殺をしたと記録しています。
これは悲しい結末であり、真理を無視すれば必ず望ましくない結果になる
ことを私たちに思い知らせています。 End