“貴女は、誰とでも仲良くなれるのね”。
いつか、先生が、そう言っていた。
瞳を閉じれば、そこには、宇宙が広がっている。
とくん、とくん。
胸の中で、いのちがやや忙しなくリズムを刻んで、冷たい暗がりの中を小さく、しかし確かに揺らす。
少女は固唾を飲み込み、柔らかな胸に手を当て息を吸った。
思いのほか上手く吸えずに、間の抜けた音が紫色の唇から情けなく漏れる。
じわりと汗ばんだちっぽけな両の掌を、脅えから逃げるようにぎゅっと指を絡ませ強く握り、祈る様に額にぴたりと押し付けた。
呼吸の音は荒く不規則で、冷静とは程遠い。
全てが死に尽くす悪夢のような世界の中、それは生物の気配と言うにはあまりにも貧弱で、いのちと言うにもあまりにも儚く。
そして、雨に打たれれば影もなく崩れる砂の城のように、どこまでも脆かった。
けれども此処に在る確かな息遣いは、生の予感は、彼女のちっぽけなそれ、ただ一つだけ。
それだけなのだ。
彼女はゆっくりと青白い顔を上げる。
鉛の様に重い瞼を開いて最初に見えたのは、透き通るような奥行きのある、黒。
そう、そこには一面の黒が広がっていた。
しかしそれは一言に色と言うにはあまりに無機質で、或いは“無“と、そう言うべきかと迷うような、底知れぬ虚ろさがあった。
底無きその常闇からは、油断すれば今にも何かが首根を掴み、何処か知らない場所へ引き摺りこんでいきそうな、そんな明確な強い意思を感じて、少女は小さく震え上がる。
そう、そこは広大な宇宙の中心だった。
彼女を中心に、数多の銀河が瞬き、数え切れないほどの星々がいつか尽きる命を燃やしている。
そも、宇宙とは、多くの人間にとって恐怖の権化である。
それは彼女とて例外ではなく、また、人の定規で測りきれないものへ、何もない事へ、未知へ、恐怖を感じるのは誰しもに当て嵌まる必然だった。
“解らない”は、即ち、“怖い”だ。
怖さに怯えるように膝を折り腰を丸め、そこで初めて自分が一糸纏わぬ姿である、と少女は理解した。
わずかに頬を赤らめたが、しかし誰にも見られる心配がないと直ぐに気付き、少女は膝を抱き顔を胸に埋めた。
無重力の中、静かに回りながら少女は黒い海を漂う。
橙色のウェーブがかった髪が、旋回に揺れて闇の中を緩やかな弧を描きながら、くるくると舞い踊った。
遠く照らす微かな銀河の光に、彼女の艶やかな髪に浮かぶ天使の輪は鈍く、しかし美しく煌めく。
星は遠く遠く霞み歪んで、数百光年向こう側。
掌を翳し、微かな光の残滓を掴もうと伸ばしても、やがては虚しく空を切る。
行き場無く広がった指先を一つ一つ指折り数えるように仕舞うと、少女は目を伏せ唇を強く結んだ。
口には決して、しない。
しかし、それが叶わない現と知っていたが故に。
それでも、遠く彼方に広がる銀河の彼方に想いを馳せ、再び手を伸ばすのだ。
もう帰れないと知りながら、あの日のあの空を夢見て。
嘗て大地に足を付け、全身に風を浴び、汗をかきながら走っていた銀河の中の、ちっぽけな星へ。
潮風に揺られ、煤けた鉄と焼けた油の臭いを嗅いだ、小さな小さな、あの艦へ。
―――曰く、星の一生に比べれば、人の一生はあまりに短く儚いのだ、と。
一光年。
光が一年間進み続け、そうして漸く到達出来る場所。
光速は秒速三十万キロだと、何時か誰かが言っていた。
地球一周四万キロ、凡そ一秒に地球を七周半するスピードで、進み続けて三百と六十五日。
数字にして、九兆四千六百億キロ。本当、眩暈がするくらいに途方もなく馬鹿みたいな数字。
少女は半ば呆れるように小さく笑った。笑い声は聴こえない。
真空の中では自分の声さえ碌に鼓膜を揺らさず、剰え誰かに伝わることなど万に一つありはしない。
離れすぎてもう到底手に入れられないその光から目を逸らし、少女は暗闇を宛もなく泳ぎ――どちらかと言えば漂流に近いが――続けた。
これは、夢なのだ。
少女はそれを朧げに理解していたし、そんな夢の中で届かぬ光に手を伸ばしたところで、現実の何かが彼女の望む様に好転するわけではない事も知っていた。
けれども、と少女は目を細めて胸に手を当てる。
胸元のずっと奥、その芯が、きゅうと締め付けられるように痛んでいた。
原因不明の感覚に、少女は戸惑う。
少し理由を考えて、直ぐに答えは見つかった。
夢だと理解していても、逃げる事が、目を逸らす事が、どこかで希望を諦めているからだと、少女は知っていたからだ。
胸の芯を深く穿つこのどうしようもない切なさは、夢の中とはいえ、友を何処かで見捨てた自分に気付いたからだ。
そう理解した瞬間、ざわざわと、居心地の悪い予感が背後から迫る。
少女の影が落ちた顔に、円らな瞳が二つ、濁った古い電球のように浮かんでいた。
胸を刺す切なさの向こう側に、形容できない黒い何かが、ぼんやりと漂っている。
……怖い。
少女は口を噤んだまま、体を震える腕で抱く。
理由が見つからない。何が怖いのかが分からない。それが何より怖かった。
ただ茫漠と、原因不明の黒い予感が、白濁とした煙に満ちた脳内にずっしりと重く横たわっていた。
その予感は彼女にとって、やはり“怖い”という以外の言葉では到底言い表せず、ふと、しかしそれを誤魔化すように視線を上げる。
緩やかに無重力の中を揺れる髪の隙間から、遠く煌めく淡い銀河が見えた。
ぱちり。
瞬きを、一つ。
長い睫毛を支える瞼を開けば、そこにあった銀河はシャボン玉が弾けたように消えていて、代わりに浮かぶはサッカーボール状の黒い穴。
はっと、思わず息を飲む。
次の瞬間、全てが終わっていた。
その中空にぽっかりと開いた、宇宙空間よりも黒く塗り潰された穴に、瞬く間に少女は引き摺り込まれ、刹那、何もかもが飛沫となっていた。
遠く光る銀河は、星は、少女が諦観を自覚した瞬間に砕け壊れ、重力の塊となり全てを消し去ってゆく。
あの銀河も、あの星も、あの海も、あの街も、あの艦も、あの戦車も、あの思い出も、あの友も。
無辜だなんて、言わせない。手を伸ばすことを止め、目を背けた事への、これが罰なのだ、と。
そう吐き捨てる様に、塗りたくる様に、宙は地獄の釜の蓋を開いて少女をその腹へ飲み込む。
光すら脱出出来ぬ絶対の牢獄の奈落へ、死を理解するよりも早く、彼女は全身を粉微塵に砕かれ消えてゆく。
それが終わりだった。
少女は誰にも会えないまま……いや、会う事も祈らないまま、望まぬまま、全てを諦め不様に死んだのだ。
誰にも気付かれず、誰にも悲しまれず、誰にも愛されず。
嗚呼、それはなんて――――――――――哀れな末路なんだろう。
◆
瞳を、開ける。
全身は黒革の鉄塊のようにずしりと重く強張り、全身は冗談みたいな量の汗に濡れていた。
いつもであればふわりと緩やかに内側にカーブする前髪は、車に轢かた蛙が道にそうするようにべったりと額に張り付き、
ブラウスは汗を吸って血の気のない青白い肌に纏わり付いている。
首筋には珠のような汗が浮かび、瞳孔は開いていた。
肩で息を大きく吸いながら、思わず、固くなった唾を飲み込む。
喉がごくりと漫画みたいな音を立てた。
吐息は酷く湿っていて、やけに生暖かい。
二、三回睫毛を上下させ、彼女はここで漸く自分が夢を見ていた事を理解した。
……けれど、目を覚ましたそこもまた、宇宙だった。
思わず、息を飲む。
落ち着き、そして状況を飲み込むまで、少し時間が必要だった。
辺りを見渡せばそこは光など無く深海の様に真っ暗で、けれども息が詰まりそうなほど暑かった。
胸の奥が苦しくなる様な無機質な無音が、きりきりと頭に染み込む。
音の無い世界は雁字搦めに絡まる思考を切り裂くようで、そして、何もかもを染め上げてしまいそうな真っ黒な無音が。
それだけが、ただただ堪らなく煩くて仕方がなかった。
半秒して、自分が仰向けに寝ていること、そしてなにやら体に被さっている事に気付いた。
決して重すぎず、しかしずっしりと体にのしかかるその妙な重さが嫌で、少しだけ身体を抱くように膝を曲げる。
それと同時に、何処かから冷たい風が入ってきた。汗ばみ火照った肌が、気化熱で静かに冷めてゆく。
瞬間、彼女は理解した。
世界の片隅にある彼女だけのちっぽけな宇宙。その正体はなんてこともない。
果たしてそこは、布団の中だった。
そんな至極単純な事にすら気付かないのだから、相当気が動転していたのだろう。
そんな自分に嫌気が差して、思わず深い溜息を吐く。
忘れた方がいい、そう思った。
何もかも、ただの夢なのだ、と。
暑苦しさが故の悪夢だと全てを割り切り、彼女は重苦しい布団を思い切り剥がす。
白。
堪らなくなるくらいに、暴力的な白が世界に満ちてきた。
息を飲むくらいに真っ白な天井と、風に靡く真っ白なレースカーテンと、真っ白な蛍光灯。そして真っ白なシーツに、窓から差す輝く光。
白亜で埋め尽くされたそこは先程までの暗い景色とはあまりにも、あまりにも乖離していて、その眩しさに酷い吐き気と目眩がした。
眉を顰めて胸をさすりながら、少女は震える息を、ゆっくりと奥から吐く。
年齢の割に豊満に膨らんだ胸が呼吸に合わせて上下して、生暖かい温度が、命の証明が、ちっぽけな世界の中にじわりと広がった。
かぶりを振り、少女は手の感触を確かめるように、二、三回拳を作る。
生きている。
まず、暖かい両手を握り、そう思った。そう。まだ自分は生きているのだ、と。
寝起きとはいえ生死を不安に思うくらいには、少女が見ていたそれは、やけにはっきりとしたリアルな感覚が残る夢だった。
ほっと一息つくと、重たい腰を上げて、鈍い銀色に光るベッドの柵にぎしりと背を預ける。
頭をもたげて、ジプトーン張りの天井を見上げた。
三倍襞のレースカーテンが視界の隅で憎らしいど軽やかに揺れる。バルーンを一瞬作って、その隙間から、切り取られた空が見えた。
無機質な病室、鈍い銃声、揺れるカーテン、小さな隙間、突き抜ける空。
馬鹿みたいに晴れたその蒼穹を目線だけでちらりと見て、表情筋の裏側で小さく嗤った。
白が染み込んだ空間の中で、逃げる様にベッドの中の宇宙に潜り込み眠りに落ちた彼女は、嗚呼、どうしようもなくこの街で――――――。
「誰か」
遠く響く鉛色の銃声、高く澄んだ青空、真っ白な部屋の寝起きの少女。
その三つがこの瞬間には確かに重なり合い、けれども、ことごとく関係性を欠き、噛み合う事なく薄らぼんやりと中空に釣り下がっている。
曖昧な空気が淀む中空の下、そこには少女がひとりだけだった。
この部屋には、布団の中には、彼女だけのちっぽけで味気ない宇宙が広がっている。
「誰か……」
消え入りそうな声で、呟く。
肌にねっとりと纏わりつく真っ赤な恐怖と、耳にこびり付く鈍い銃声に、震える小さな身体をみしりと抱かれて。
「だれか……」
塞ぎこむように膝を丸め、シーツを被って耳を固く塞ぐ。空気に爪を立てる様な鋭く冷たい静寂が、ずっとずっと耳から離れなかった。
赤く充血した目もきゅっと閉じ、何もかもから逃げながら、縋るように何かを求め、嗚咽交じりの細い声を喉から漏らす。
求めて、けれども、逃げて。
その矛盾など、最初から解っているのに。
「だれか……だれでもいいから……お願い……」
九月二十二日。
真っ赤な曼珠沙華が野を焼くように染め、地に落つ金木犀の残り香が僅かに漂う。
空は乾いて遠く遠く向こうまで透き通り、宇宙まで突き抜ける様な青が少女達と町を静かに見下ろす。
気温は例年よりほんの少し肌寒く、しかし日差しはまだ肌を焦がす熱の残滓を持っていた。
季節の変わり目、大洗。
世界が色を変えてしまった日。
何もかもを手に入れた暑い夏は終わり、熱を奪い尽くすような重く冷たい秋にさしかかっていた。
「……誰か、助けて……」
誕生日は、六月二十二日。
蟹座、十六歳、O型。身長157cm。大洗女子学園、あんこうチーム通信手。
好きな戦車はM26パーシング、好きな食べ物はショコラフレンチと納豆。嫌いな食べ物は漠然と、辛いもの。
好きな教科は家庭科、嫌いな教科は数学。好きな花はピンクのバラで、日課はヨガ。
趣味は結婚情報誌を隅々まで読むこと。運動能力はいたって人並みで、学力もそれなりに平均。
家は裕福ではないけれど、特別貧しいというわけではない。
友達は多い方ではあるけれど、別に目立ちたがり屋なわけでもない。
自慢できる事と言えば、僅かばかり同年代の女学生より料理が上手な事ぐらい。
意外に世話好きで、そして人一倍色恋沙汰が好き。
ただほんのちょっと思い込みが激しくて、男の人に挨拶されただけで簡単に勘違いはしてしまうけれど、それ以外は本当に、普通の女の子。
武部沙織は、そんな平凡な女子高生だった。
特別何かの才能に秀でているわけでも、何が突出して出来るわけでもない。
殺し合いがあれば泣いて怖がり、布団に包まり現実から逃げるような、そんなごくごく普通のか弱い女の子だった。
寧ろその方がよほど一般的な女子高生として当然の反応で、故に彼女は、この島で誰よりも“普通”だった。
命短し恋せよ乙女。朱き唇、褪せぬ間に。
熱き血潮の冷えぬ間に。明日の月日は無いものを。
―――人生は息つく間が無いくらいにあまりにも短く、そして次の瞬間気付けば終わっている様な、そんな呆れるくらいに儚いものだ。
そんな人生の中だ。友達は欲しかったけれど、中身のない人間関係を作るのは苦手だし、
ある意味それを短く限られた人生の浪費とするならば、時間の無駄で。
コミュニケーション能力が欠如していることを悩むほうが、よほど辛い。
……そう思う人も、少なからず居る。
人と仲良くなる努力なんて必要ないのだ、と。
無理をして手に入れた友人との間になど、絆なんて存在しないのだ、と。
偽物で嘘っぱちの関係に、何の価値があるのか、と。
しかしこと彼女については、誰しもがその反対だ、と言うだろう。
彼女は誰とでもすぐに打ち解け仲良くなれるし、教室の隅に寂しく一人で居るようなタイプは放っておけない。
そこに意味だの浪費だの、まどろっこしい理屈は持ち込まない。
そんなさっぱりした世話焼きな人間だ、と誰もが口を揃えて評価する。
だが故に、彼女は独りの経験がなかったのだ。
西住みほが浴びた周囲からの冷たい目線も、秋山優花里が続けてきた友の居ない生活も。
冷泉麻子のように家族を喪った経験も、五十鈴華のように親と一時的とはいえ袂を別った事も。
なにも、何も知らない。
嫌味のない性格で誰からも好かれる普通の女子高生だからこそ、武部沙織は“孤独”を知らなかった。
「……ぁ」
けれどもその牙城は、否、砂の砦は、この現実に指で押されただけでボロボロと崩れていく。
友と絆を剥ぎ取って仕舞えば、なんて事は無いただの脆く弱い蛋白質の塊なのだと、
銃声の運ぶ死の予感が彼女の胸にぎらぎらと光る刃を突きつけてゆく。
彼女は赤く腫れた瞼を開き、がばりと顔を上げた。
切り取られた矩形の窓、鈍く光るアルミのサッシ、先の見えない灰色の雲、味気ないレースカーテン、生気のない白い部屋。
周りを見渡しても、やはり何ひとつ命はない。現実から逃げる馬鹿な人間が、ベッドの中心に一匹だけ。
シーツの上、羽毛布団を羽織って震える哀れな女が、一匹だけ。
「あ……れ……?」
腑抜けた科白が、土気色の唇からするりと零れ落ちる。純粋な疑問が、かたちとなって思考から溢れ出た。
何故って、自分は助けてと叫んだのに、誰も何も答えなかったから。
当前だ。誰も居ない部屋で友に縋ったところで、奇跡は起きない。神は現れない。生物は具現しない。
しかし、それが彼女にとっては、当たり前の事ではなかった。
いつだって何かを叫べば、誰かが反応してくれたから。
何かに笑えば、誰かがつられて笑ってくれたから。
悲しめば隣に誰かが居て慰めてくれたし、怒れば誰かが宥めてくれたから。
お昼は常に隣に誰かが居て、通学も、帰る時も誰かと一緒。
家に帰れば両親も居て、近所にも知り合いが居て。
後輩にもそれなりに慕われていたし、友達だって多い方だし、なによりそうありたかった。
親友と居たかった。
誰かと居たかった。
一人は嫌だった。
独りは、嫌だった。
友達も、恋人も、喉から手が出るくらいに、恨めしいくらいに、欲しくて。
欲しくて、欲しくて、ほしくて。
だから、いつだって……“そうなるように努力していたのに”。
「あれ……おかしいな。おかしいよ。私、」
ぺたぺたと頬を震える指で触り、思わず、またきょろきょろと辺りを見渡す。
何かを求めるように、あったはずの何かを何処に落としたのかと探すように。
気付かなかったのは、きっと、今まで、隣に誰かが居てくれたから。いつも誰かの側に居たから。
この場所でも、友人とすぐに出会えたから。悲しみを分かち合えて、再会を約束出来たから。
でも、いざ冷静に考えて気付いてしまうと、もう駄目だった。
自分がそうなのだと納得せざるを得なかった。
「――――――――――わたし、ひとりだ」
この場所にはそれしかない。それしかないのだ。
このちっぽけな白い宇宙の中で、自分は耐え難いほど一人で……そして、どうしようもないほど、独りだった。
「いや、やだっ……やっ、ぅ、あッ!?」
堪らず、ふらつく足で慌てて立ち上がろうとした。
シーツに右足が縺れて、ベッドから思い切り転げ落ちる。
白い天板とステンレスの脚のサイドテーブルを薙ぎ倒すと、たらいを落とした様な派手な金属音が部屋の中を反響した。
頬をベッドのフレームに強く打って、口の中が少しだけ切れる。鉄の味が舌の上にじわりと広がった。
がつん、と頭を床に打つ。瞼の裏側に白い星が散った。鈍い痛みに思わず、身体をくの字に折る。
脂汗が真っ青な額にぶわりと浮かんだ。目線がベッドの下に漂う得体の知れない暗がりを泳ぐ。
頭越しに伝わる床の温度は、プラウダの戦車の装甲の様に酷く冷たい。
世界は、熱を拒む様に恐ろしく冷めきっていた。
真っ白なシーツが水面を流れる様にベッドの上から零れ落ちる。体にぱさりと被さった。
視界が前髪の間で揺れて、赤みがかった灰色にぼやけた。焦点が、合わない。
不意に吐き気がした。床に這いつくばって嘔吐きながら、血が混ざった唾を零す。
惨めだ。心の底から、そう思った。
「やだっ、やだよっ……」
こんな筈じゃなかった。
こんなに惨めになる筈じゃなかった。
こんな風になる為に今まで努力をしてきたんじゃない。
こんな、筈じゃ。
もっと簡単に誰かと出会って、協力して。
2チーム作って合流して。
争いなんて起きるはずがないとおもっていた。
だってじぶんは嫌われるようなことなんか何もしていないから。
ともだちも多いから。
なのに。
ひとりにならないようにしてきた、ひとりになるひとがいないようにしてきた。
なかよくして、みんなでわらいあって、それが、すきだったから。
なのに。
だって、いやだから。ひとりのひとをみるのは、ううん、ひとりは、こわいから。
なのに。
「いやっ、いやぁ……! やぁ、嫌、そんなのっ、だ、誰かっ!」
瞬きを、一回。涙が真っ青な頬を流れ落ちて、ぱたぱたと白い床を濡らしてゆく。
何もない部屋に、馬鹿みたいな黄色い絶叫が谺した。
「みぽりん! 華! 麻子! ゆかりん!!」
瞼の裏側で暗い光が瞬いて、うんと小さな頃の、先生の優しい顔が脳裏に焦げ付く。
酷い耳鳴りがした。
顔を顰めて瞳を閉じれば、プールの水越しに聞いた、ぐわんぐわんと歪んだ学校のチャイムと、リコーダーの上ずった調子外れの音。
カスタネットと木魚とトライアングルが騒ぎ出して、黒板消しが窓際で煙を上げて、図書館の本棚から恋愛小説がばさばさと零れ落ちる。
気付いた時には、校庭の白線の上。
位置に着く間も用意をする暇もなく、ピストルの撃鉄が容赦無く弾ける。天地が反転して、風紀委員の頭が真っ赤に弾けるコマ送り。
同時に地面がどろりと溶けて、あっという間にカルキ臭いプールの中。
息が苦しくなって目を閉じれば、夏の田んぼ、カエルの大合唱。
修学旅行の集合写真のフラッシュが焚かれて、戦車の履帯が外れて、次の瞬間夕暮れの多目的教室の中、脳から絞った様な脂汗を流しながら立っていた。
“貴女は、誰とでも仲良くなれるのね”。
先生が、優しく私の髪を撫でながらそう言った。
私はとびきりの笑顔でにかりと頷いて、抜けた前歯を見せながら、鼻息荒げるしたり顔。
「誰かっ! 居ないの!! なんでっ、どうして!!! 友達でしょっ!?? 嫌だよっ!!!」
ああ、でも、違う。違うのに。
先生、違うんだよ。
ほんとは、違うの。逆なんだ。
「やだよ! 怖いよ! 誰かッ!!!」
誰かを一人にしたくなかったわけじゃなかった。
いじめられっこを救いたいわけじゃなかった。
皆を笑わせたいわけじゃなかった。
私なんだよ、先生。全部、私なの。
一人になりなくないのは、一人にしたくなかったのは、私なんだよ。
誰かと仲良くできるんじゃない。誰かを放っておけないんじゃない。
誰とでも仲良くなれるんじゃない。“誰からも仲良くされたかった”んだ。
誰かが側に居てくれなきゃ駄目だったのは、私の方だった。
一人になりたくなくて、いじめられたくなくて、笑わせて欲しくて。
友達も、恋人も。
全部、独りが嫌だから。
だから、欲しかっただけなの。
ずっと、ずっと、そうだった。
「だれかぁぁぁぁッッッ!! 嫌っ、いやあぁぁぁぁッ!!」
―――武部沙織は、どこまでいこうが普通の女子高生だ。
普通に恋に恋をして、普通に友達を欲しがって、普通に我儘で、普通に思春期を迎えて。
普通にモテたくて、普通にお菓子が好きで、普通に悩みを抱える、そんなただのよく居る女の子だ。
誰かの為だのなんだのなんて高尚なものなど彼女の芯には到底なく、
故に彼女は自分の為、安息を守る為、利己的に周囲を笑顔にしたかった。
けれど、別にそれは悪いことでもなんでもなくて。
彼女が彼女の為に誰かと仲良くしていたとしても、事実、西住みほは彼女の笑顔に救われた。
それだけが西住みほの現実で、だからこそ、その見返りをわざわざ求めるのはあまりにも酷だ。
彼女はそれを痛いほど知っていたし、それに敢えて声を荒げて求めようとは、これっぽっちも思っていなかった。
しかし、それでも現実に向かって叫ばずにはいられない。
それだけ努力をしてきて、それだけ皆に振舞って、その結果がこのザマなのかと。
わけのわからないうちに友を殺され、いきなり殺し合いだのなんだのと一方的に宣われ、挙句銃声の雨。
もう、心が疲れてしまった。
「……私を」
だから彼女は、体を抱き寄せながら、息を絞り出すように、呟く。
がちがちと恐怖に音を上げる歯を噛み締めて、血が引き青褪めた肌を震わせて。
「一人に」
風が吹けばあっという間に崩れてしまいそうな弱々しい顔が、そこにはあった。
「しないでよ……」
彼女はきっと、このゲームに参加する誰よりも社交的で、人を選ばず仲良くなれる優しい人間だ。
でも裏を返せば、きっとそれは彼女がこのゲームに参加する誰よりも、孤独である事を畏れ逃げる、耐性がない人物という意味だった。
何が明るいムードメーカー、何が社交性のある元気な女の子。
それらは全部、蓋を開けてみれば前提として“誰かが居たから”で、故に最初から、その評価は的の芯から外れていた。
誰かが居ないと駄目だったのは、西住みほでも、秋山優花里でも、冷泉麻子でも、五十鈴華でもなく――――――武部沙織だったのだ。
■
そこへ彼女が入った明確な理由は、これといって無い。
ただ、強いて絞り出して言えば、自分の罪を認識する為の標として、それなりに適しているのだ、と。
目の前を通りがかった時に、そう何となく思ったからなのだろう。
そういった時、普通なら懺悔し易い教会や墓地を選ぶものなのだろうが、
わざわざ殺し合いの舞台なんていう地雷原の上をそんなものを求めて彷徨うほど日和ってはいないし、
ましてや此処は大洗で、そもそもそれを度外視しても教会だなんてものは滅多に見当たるものではない。
しかしそんなものは全部、此処に入ってぼんやりと考えてからの後付けに近い理由で、
実際本当にそんな事を意識していたわけでもなく、病院に足を運んだのはただなんとなく視界に入ったからだ、と表現するほか無かった。
けれどもその“なんとなく”が、きっと彼女―――五十鈴華の、ターニングポイントだったのだ。
大洗海岸病院。
少し錆び付いたクリーム色のサッシに囲われたガラス扉を開いてまず気付いたのは、微かな血の臭いだった。
元々、昔の戦車を森から見つけ出せるくらいには鼻の利く体質なのは彼女も勿論自覚してはいたが、それにしても妙に“微か過ぎる”臭いだった。
確かな理由はないが、故に一筋、嫌な予感が走る。
ふと足を止め、顔を正面に向けたまま、視線だけを生成色の床に落とした。
薄暗い病院のロビーの床に、僅かだが砂が点々と落ちている。
―――誰かが、居る。
その小さな予感に、華の全身が強張った。
石目調の長尺シートは、受付からまっすぐ左右の廊下に伸びている。別れ道だ。
そのままゆっくりとしゃがむと、華は顔を床に近付けた。
ロビーを正面にして右側の廊下には、黄色い砂粒が向こう側へ点々と続いていた。
逆に左側の廊下に土や砂の類は無かったが、ワックスコーティングに反射する光が、所々鈍い。
よくよく見れば、何かを零して拭いたような跡。
成程、と納得する。
つまるところ、傷の手当てをしようとしている負傷者が一人。
そして、土だらけの靴でそのまま此処を走り抜けた怪我のない人間が一人。
今もまだ居るのかどうかは別として、少なくとも、合計二人が今までにこの病院内を訪れているのだ。
華は立ち上がり、顎を指でさすりながら、考えに耽る様に天井を見上げた。
「……少し、考えてみましょうか」
華は目を閉じ、此処が足を踏み入れてもいい場所かどうかを値踏みする。
左は、血の跡をわざわざ消す周到さ。罠、ではない……恐らく。
釣りであればわざわざ拭く必要がないからだ。ただその周到さから考えて、恐らく隊長か副隊長クラスだと華の勘が告げていた。
右は、恐らく“乗った側”ではない。気が動転して逃げた一般隊員か、虎に終われて逃げた兎か。
何れにせよ土や砂を廊下に残す御粗末さから考えても、十中八九、脅威になる様な存在ではない。
しかし、ならば何故左の侵入者は右の廊下を無視して左へ進んだのか。血の跡を拭くほど用心深い真似をしておいて、何故。
華は腰の銃を静かに抜くと、砂の導が続く右の廊下へと足を踏み出す。
電気の消えた病院は、日中とは言え重く不気味な空気で澱んでいた。
暗がりに続く愚直なほど真っ直ぐな廊下は、まるで生者の侵入を拒む様な暗さでその口をあんぐりと開いている。
……答えは、簡単だ。左の虎は―――ゲームに乗っている。
そして右の兎をこの命の城で狩るつもりなのだ。追い詰めて、ゆっくりと、確実に。
手に残る発砲の感触を確かめる様に、華は銃を握り直す。汗ばんだ掌は、緊張か、後悔か。
少なくとも、人殺しを知ってしまった華の足は、もう前へ進み続けるしかない。
幾ら生身の体を拒む茨の道だろうが、罪を犯した以上、陽だまりへ引き返すことは到底許されないのだから。
足音を立てないよう、靴を脱ぎ、背囊の中へ突っ込む。
足の裏から、ぎょっとするような冷たく固い感触が伝わってきた。
酷く無機質で、神経を逆撫でるような不快な冷たさだった。
人を殺すのも、こうして殺すために工夫して動くのも、華はこの死合が始まるまでは想像もしたこともなかった。
けれどもそれは、いざそうなってみれば拍子抜けなくらいとても簡単で。
その得体の知れないギャップに、胸を焼くような吐き気がした。
馬鹿正直に正面から突撃してきたあの隊長は―――知波単の西絹代は、人差し指で軽く引き金を引くだけで、わけの分からない肉塊になった。
先程まで突撃だのなんだのと叫んでいた生物が、瞬きをする間もなく、学園艦のスーパーで売られている三パック千円の豚の内臓の様になった。
あの隊長にも、守るものがあったのだろう。
家族が居たのだろう。部下がいたのだろう。友人が居たのだろう。未来があったのだろう。
それを断ったのだ。鉛球一発で。指先一つで、塵をゴミ箱に捨てるように。
「う……っ……ぇ……」
階段に上がる角を曲がって、不意に、だらしなく垂れた彼女の脳味噌と眼球がフラッシュバックする。
ピンク色の肉と、なんだか弾力のありそうな白い塊と、そこから繋がる管と、糸を引く紐みたいな何か。
流れ出る真っ赤な――見たことがないくらいに本当に真っ赤な――血。
そこまで脳裏に浮かんで、思わず、口元を押さえて蹲った。その拍子に銃を放してしまい、派手な音が上がる。
慌てて銃を拾い喉元に迫り上がる酸味を無理やり飲み込むと、華は背を壁に預け、心を落ち着かせる様に深呼吸をした。
覚悟は決めた筈だ。その為に、撃鉄を鳴らした筈だ。
そうだ。だから、階段を登らなくてはならない。既に戦車は動き出した。
これは殲滅戦だ。戦車道でも同じだったじゃないか。
戦車は、戦闘が終わるか戦闘不能になるまで降りることは許されないのだ。
階段を登りきると、またうんざりするくらいに長い廊下だった。
華は溜息をつくと、構えた銃を握り直し、周囲を警戒する。
銃を落として少し心配だったが、幸い人の気配はない。
床の砂粒を確認する。右から六番目、南側の病室207号室の入り口で、それは途切れていた。
開いた扉が並ぶ中、その部屋だけ扉が閉まっている。
華の喉がごくりと音を上げた。
確率としては、当然五割と五割。箱に詰まった兎が生きているかどうかなんて―――兎にも角にも、開けてみないことには分からない。
■
怪我の消毒ついでに、幾つか武器になりそうな手術道具や薬、ファーストエイドをかっぱらおうとしただけだったが、どうやら間抜けな先客がいるようで。
少しだけ迷って、自分の存在を悟られないよう、垂れた血を拭きながら進んで先客の様子を伺う事にした。
後の客に気を使わないそいつは、始末してしまうには簡単そうだった。
ただそれがそう思わせるための巧妙な罠ではないとは言い切れないし、足手纏いの仲間を作っておきたい気持ちもあった。
「……こっちにするかな」
だから、ケイは左を選んだ。
止血、消毒処置と、そして粗方道具を物色した後、ケイは二階に進んだ。
案の定その間抜けな客人の足跡は病室に続いていて、思わず苦笑が漏れる。
鬼も邪も出なさそうなその部屋に入るかどうか迷っていたら―――階段から、物音。
侵入者……いつから?
ほんの僅かな硬直と、早まる鼓動。背筋に冷や汗が流れた。
気付かなかったのは、恐らく自分と同じ様に靴を脱いで足音が無かったからだ。
ぎくりとして、隣の部屋に思わず逃げ込む。
廊下は直線、障害物はなし。壁の色は白。扉が開いているせいで病室の入口からは外光が漏れている。
少しでも顔を出そうものなら、簡単にバレる嫌らしい作り。
拠点は持ちたいが籠城には向いていないか、なんて下らないことを考えながら銃を抱える。
安全装置をゆっくりと解除し、息を殺した。今度はしくじらないように。
布が擦れる様な微かな足音が近付き、そしてその侵入者が隣の部屋の前で、足を止めた。
ケイは乾いた唇を舐め、タイミングを見計らう様に指先で銃を叩く。
十回、と胸の中で念じた。十回叩いたら、廊下に出て銃を向けよう、と。
先ずは両手を挙げさせて、武器を捨てさせて……相手の出方次第では、撃つ。
そこまで覚悟した時だった。
隣の部屋の中から、夏の夕暮れの様な切ない少女の声が聞こえてきたのは。
■
五十鈴華は言葉を失った。
結論から言うと、箱の中の兎は生きていて、しかもそれは彼女の親友で。
しかしそれは顔を見たからではなく、扉に手を掛けようとして、中から聞き覚えのある声がしたからだった。
そして、それが、あまりにも。
故に華は一瞬、動揺に頭の中を空白にせざるを得なかった。
馬鹿な事に彼女はこの場合を想定していなかったし、何より、こんなに切羽詰まった声で“助けて”だなんて。
胸を撫で下ろすと同時に、華は顔を顰めた。
引き戸の手掛けに指は掛けていたが、その扉は学園艦の錨の様に酷く重く感じた。
どの面を下げて友人と会えばいいのか、華には答えが見つからなかった。
そして人を殺した事を、黙っているのか。言うべきなのか。言ったとして、どうなるというのか。
それは余りに、残酷な告白だ。
しかし今の状態の沙織に、果たして自分が安心させるに足る言葉なんて、掛けられるのか。
……解らない。
解りたくない。
今の自分に出来る事は、
もしかしたら、
なんにも、
なくって、
彼女を救う事なんか、
出来ないんじゃないか、
なんて。
華は下唇を噛みながら、手掛けから指を離す。
無意識に離した事がショックで、息が詰まって、胸が苦しくなって、目の奥が熱くなった。
親友として、そんな事すら解らず躊躇する自分が呪わしくて、悔しくて、悲しくて。
堪らなくなって、思わず項を垂れる。
いくら藪を掻き分けても、爪が割れるくらい土を掘っても、掛ける言葉はまるで見つからなかった。
人殺しの自分に、彼女を助けられる筈がないのだと、知ってしまったから。
そんな風に考えて躊躇している内に、不意に部屋の中から、自動車部が工具箱をひっくり返したような派手な音がした。
それはあまりにも豪快な音で、華は思わずめちゃくちゃになった思考を中断し、肩を弾き息を飲む。
続け様に聞こえてきたのは神父に許しを乞う様な独白。
血反吐を吐き、地べたを這いながら呻く様なその声を聞いた時、事態が自分が想像するよりも遥かに深刻であると、五十鈴華は本能的に理解した。
その声は扉越しにもはっきり分かるくらいには、彼女の口から聞いたこともないほどいたく弱々しく、核心めいたものに差し迫る響きがあった。
言うべき事は解らない。
解らないが、それでも、行かなければならない気がした。
親友としてではなく、一人の人間として、見過してはならないと思った。
胸が締め付けられる様な声は、本当に聴いているだけで苦しくなるような想いが篭っていて、
華は今度こそ迷わず扉を開け、彼女の名を叫び、床に伏す彼女を先ず、見た。
潤む涙に歪む焦点が捉えたのは、息をするのも忘れる様な表情で親友が泣く姿で。
ああ、こんなにもなってしまったのか、と。少しだけ、残酷だけれど、哀れに思った。
堪らず華は縺れる足で倒れこみ、彼女を乱暴に抱き寄せる。
友の身体は噴き出してしまいそうなくらいに小さくて、そして、まるで死人の様に冷えきっていた。
「……ごめんなさい……」
震える彼女を強く抱きしめ、華の口から出た言葉は、たったそれだけだった。それだけしか言えなかった。
何度も何度も、謝る相手見失うくらい謝って、彼女の濡れた頬を隠す様に、胸に沈めた。
生と死と罪と罰が入り混じるこの場所で、それ以外に言葉は見つからない。見つかる筈がない。
口先だけのまやかしの言葉なんて意味がないのだと本能が知っていて―――そして、だからこそ、自分の無力さを痛感するのだ。
消え入りそうな彼女の泣き声と、それを受け止める灰色の謝罪が、白い部屋に冷たく、真冬の海の様に本当に冷たく、ただただ染みていった。
■
落ち着いた時には、ホッとしたことよりも、その様子を見られたことがあまりにも恥ずかしくて。
だから最初に何を話していいものやら、解らなかった。
……どうして謝ってるの。
だから先ず、私は自分の事からどうにか上手く話を逸らそうと思って、そう質した。
華は泣きそうな表情のままぎこちなく笑って、私を抱き寄せる。
私は目を伏せて、華の腕を押し返す。
華は私の名前を何度も呼んで、鼻水と涙を流しながら、また謝った。
「やだ、もう。ごまかさないで……謝らないでよ。
嫌なとこ見せちゃったから、謝らなきゃならないのは、私の方……だし」
……華が来てくれて、本当に嬉しかったんだよ。
一人が怖くて、頭が割れそうになって、。
ああ、もう駄目だぁ~ってなんとなく思っちゃったから――――でもね、
「も、もぉ~……。
謝ってばかりじゃわからないったら。私はもう大丈夫だって」
ホントに、もう大丈夫だから。
心配そうな顔するのやめてよ。
そんな風にされるのって私のキャラじゃないじゃん。いやあ、逆っていうかさ。
うん、でも来てくれたのが華で良かった。
えっ、どういう意味? って……そりゃあ華なら弱みとか、そういうの見せてもなんとなく……ほら、お母さんみたいな雰囲気あるし。
わ、笑わないでよ……べ、別に本気で思ってるわけじゃないもん……。
まあ、それはさておき、なんか、華ってうまぁく色々気を回してくれそうだしさ―――でもね、
「……ねえ、華。……何か、あったの?」
あっ、そっか、そっかあ。
何にもないか。そうだよね、思い違いだよね、うんうん。
私の思い違いだよね。良かった。それなら良いのよ。
あっ、私? いやいや、私はいいの。いや、いいってばホントにぃ。
ほんとに何もなかったから。ほんとにほんと。
えっ、ならどうして……って? いやあ、どうしてって、ね。
だって華、なんで謝ってるのかわかんなかったんだもん。
あっ、もしかして私のせい? はは、参ったなあ……ごめんね、なんか。
あのね、この事はみんなには黙ってて。お願い。
うん。うん……。言っちゃ駄目だからね。
……あっ、そうそう。麻子と会ったんだよ。
うん、無事だった―――でもね、
「うん。二人で、チームを作って合流しようって」
華もチームになる? あぁ、うん……良かった……。
私、一人は嫌だったから……本当に良かった……。
ずっとね、怖くて。まともな人はもう居なくて、私だけが怯えてるんじゃないかって。
そう思っちゃったから―――でもね、
「……。華は、誰かと、会った?」
ふうん、大洗の人とは会ってないんだ。
そ、そうだよね。会ってたらチームになってるよねえ。
一年生とか心配だし、私達がしっかりしないといけないのにね。
ほんと、何やってんだろ……私。馬鹿だなあ。
信じられる? あそこのベッドで寝ちゃってたんだよ? 変だよね。も~、あはは。
いやいや、変だよ……―――でもね、
「……ありがとう、華」
助けてくれてありがとう。来てくれてありがとう。抱きしめてくれてありがとう。
楽になった。これは本当に。
でもね、華。やっぱりおかしいよ。
だってさ、どうして、どうして、どうして。
「……これから、どうしよっか……取り敢えず、お昼食べる? なーんて……はは」
――――――どうしてそんなに、ふくがまっかなの。
■
「―――Мне кажется порою, что солдаты,(時々私は兵士たちのことを想うのだ)
С кровавых не пришедшие полей,(血に濡れた戦場から遂ぞ帰らなかった彼達のことを)―――」
太陽が、姿を隠した。
空気は重く、風がやや強い。
灰色の雲が分厚く空を隠して、湿った隙間風が病院の扉をかたかたと揺らした。
病院の入り口から南を見ると、呆れるほど広い海が見える。
鼻から息を吸うと、磯の匂いがした。
「―――Не в землю нашу полегли когда-то,(兵士達はいつか、我が大地で眠りについたのではなく)
А превратились в белых журавлей.(白い鶴に姿を変えたのだ、と)―――」
先日、大洗は台風があったばかりらしい。
この季節の天気は狐のように気紛れで、とどのつまり、一雨降りそうな予感がした。
彼女、
ノンナには雨にあまり良い思い出がない。
酷い雨が降るたびに苦い思い出が鼻腔を侵し、顳顬が痛む。
一年前の優勝は気持ちの良い勝利ではなかったし、先日の大学選抜戦では、あの激しい雨の中、必要な犠牲だったとはいえ、脱落せざるを得なかった。
「―――Они до сей поры с времен тех дальних(彼らはあれから、今もずっと)
Летят и подают нам голоса.(飛び続け、私たちに空から話しかけている)―――」
目を閉じて、小さく息を吸った。
冷めた旋風を肌で感じながら、夏の残り香を全身に運ぶ。
リズムを取るように頷くと、ノンナは瞳を開き、踵を返した。
「―――Не потому ль так часто и печально(そのせいではないだろうか、空を見上げて)
Мы замолкаем, глядя в небеса?(幾度となく悲しげに私たちが押し黙るのは)―――」
病院、入口、硝子扉。
透明なスクリーンに映る自分の血濡れた顔が、酷くやつれて見えた。
土気色の肌、痩けた頬。到底健康体には見えなくて、少し可笑しかった。
食事は無理矢理試みたが、どうにも腹が減ってないみたいで喉はちっとも通らなかった。
「―――Летит, летит по небу клин усталый,(空を飛んで行く 疲れた楔形の群れが)
Летит в тумане на исходе дня,(夕暮れの霧の中を飛んで行く)―――」
本当に酷い顔だ、と思いながら、ノンナは扉を開く。
硝子に映り混んだ自分の面を隠すように掌を翳して、押す。
人間に出会えば、殲滅。出会わぬならば、次の施設に往く、それだけだ。
彼女の指針はそれ以上も以下もなく、至極単純だった。
けれど人の想いとは不思議なもので、何時の時代も凝り固めたものより単純な方が遥かに強く、気高い。
「―――И в том строю есть промежуток малый,(その列の中にある小さな隙間は)
Быть может, это место для меня.(もしかすると、私が入る場所なのかもしれない)―――」
廊下の真ん中を、堂々と歌いながらノンナは進む。右で銀の銃を抜き、左で黒い刃を抜いて。
踵が床を弾く音は淀みなく示し合わせたかのように等間隔で、さながら軍の行進の様だった。
「―――Настанет день, и с журавлиной стаей(いつの日か私も鶴の群れと一緒に)
Я поплыву в такой же сизой мгле,(この青灰色のもやの中を飛んで行く日が来る)
Из-под небес по-птичьи откликая(空から鳥のように声をあげながら)
Всех вас, кого оставил на земле.(地上に残る皆と別れていくのだ)―――」
風が、容赦無く病院の窓を叩く。
かたかたと揺れる飴色の硝子達は、まるで何かから怯え逃げる様に、不協和音を奏で続けていた。
【D-4・病院/一日目・昼】
【武部沙織@フリー】
[状態]健康、強い悲しみ、激しい恐怖と人間不信
[装備]大洗女子学園の制服
[道具]基本支給品一式、不明支給品(ナイフ、銃器、その他アイテム)
[思考・状況]
基本行動方針:みんなで学園艦に帰りたい
1:チームを組んで殺し合いを止めたい……けど怖い
2:麻子や仲間達を死なせたくない
3:麻子以外の人間を信じるのが怖い
4:華が来たことは嬉しいのに、どう接すればいいか解らない
【五十鈴華@フリー】
[状態]健康 ・血塗れ
[装備]イングラムM10、予備マガジン×2 肉切り鋏
[道具]基本支給品一式 不明
支給品-ろ 、小型クロスボウ、西絹代の支給品(一式及びナイフ及びその他アイテム)
[思考・状況]
基本行動方針:大洗(特にあんこうチーム)を三人生かす。その過程で他校の生徒を排除していく。
1:友を護る、絶対に。
2:沙織とチームを組む。
3:ゲームに乗っていることは黙っておく? 乗っている人間として沙織に黙ったままどう動く?
※動転していて自分に返り血がついたまま沙織に接触してしまったことにまだ気付いていません。
【ケイ @フリー】
[状態]脇腹に刺し傷(止血済み)
[装備]パンツァージャケット S&W M500(装弾数:5/5発 予備弾丸【12発】) M1918トレンチナイフ
[道具]基本支給品一式 不明支給品-は S&W M36(装弾数5/5) 医療道具 ファーストエイドセット
[思考・状況]
基本行動方針:生きて帰る
1:正々堂々としていない戦いには、まだ躊躇いがある
2:ある程度の打算的なチームを作る
3:2人に対してどう接触する? それともスルーする?
3:合理的な(正々堂々としていない)戦いなら殺傷よりも負傷に足手まといを作る方がいいとは知ってるけど……
4:なるべく、みほに遭遇しないようなルートを選ぶ
【ノンナ @フリー】
[状態]健康・血塗れ
[装備]軍服 オンタリオ 1-18 Military Machete 不明支給品(銃)
[道具]基本支給品一式 M7A2催涙手榴弾 8/10・広報権・近藤妙子の不明支給品(ナイフ)、アキの不明支給品(銃・ナイフ・その他)
[思考・状況]
基本行動方針:同志
カチューシャの為、邪魔者は消す
1:見付けた参加者をあらゆる手を使って殺害する
誰もを好きで、誰からも好かれる人は、しかし裏を返せば“誰でもいい人”だと言える。
実際はそうではないのだと解っていても、理屈上ではそんな幾らでも交換の利く関係が、少しだけ、厭だった。
誰かが居ないと寂しくて死にたくなるくらいにしようがないのに、誰も彼もと一緒に居ると、大切な何かをふとした瞬間に見失ってしまうのだ。
彼女は、武部沙織は、少なくとも本当に大切な人から“君じゃなきゃ嫌だ”と言われたかった、そんな女子高生だった。
でも、それを、言われなかったから。
だから、勘違いするしかなかったのだ。
決めつけてかかるしかなかったのだ。
思い込みが激しいと言われても、仕方がないくらいに。
自分はあの人に愛されているのだと。必要とされているのだと。
自分の心を満たすために、そう言い聞かせるしかなかった。
それが無意識的か意識的かはどうにせよ、“普通”を地で行く彼女はやはり、究極的には誰かに必要とされたかった。
“普通”ではなく、“特別”なのだと、言って欲しかった。
それだけだったのだ。
登場順
最終更新:2018年03月03日 13:16