虹と太陽の丘(前編) ◆gry038wOvE




 学校の門に凭れて座っている一人の者がいた。頭にバンダナを巻き、中華風の衣装を見に纏った、体格の良い少年。そうしているだけで、どこか風格があるような独特のオーラを持っていたが、今、ここに彼の姿を見ている者はいなかった。
 彼の名は、響良牙。
 変身ロワイアルを生還した、生き残りである。

 幸いにも、こうして生きて元の世界に帰還する事を果たしていた彼は、あのブラックホールにより、彼自身もよく知っている風林館高校の正門に転送されていた。全ての学校は管理の影響で一時休校になっている為、そこに人気は一切なかった。
 彼も、気が付くと、こうして門に凭れて目を閉じていたのである。
 そして、この場に帰って来た今は、まるで、これまで長く眠っていた状態から目を覚ました気分であった。

「帰って来たのか……俺は……」

 良牙は、そこから、無意識に立ち上がり、すぐに、暗く淀んだ顔で俯いた。
 ……確かにこうして無事に元の世界に帰って来た事自体は喜ぶべき事なのだろうが、到底そんな気分にはなれなかった。
 自分が帰って来たこの場所には、もう何もない。──早乙女乱馬もいなければ、天道あかねもいない。シャンプーもいない。あと、誰だか忘れたが、あいつ……あの……えっと……あいつもいない。
 帰って来た人間は、親しい人のいない世界にやって来た空っぽな感情を噛みしめなければならない。この寂しさを胸に宿さなければならないのだ。
 良牙に限らず、つぼみも、翔太郎も、杏子も、零も、暁も、美希も……きっと、生還者たちは、帰って来た時にこの無情感に晒されたに違いない。例外といえば、あの血祭ドウコクくらいの物だろう。
 少しだけこのまま立ち止まっていようかと思ったが、彼はそれからすぐ後に、大事な事を思い出した。

「そうだ……早く、天道道場に行かなくちゃ……」

 良牙は、考えた事を呟いた。
 そう、彼は今から、あそこで出た死者の事を、その親族や友人たちに伝えなければならない。それを──できれば、このまましばらく隠し通したいくらいだが、今それを有耶無耶にしてしまえば、一生伝えきれないまま終わってしまう気がした。
 あかねに結局、大事な事を伝えられないまま終わってしまったように、だ。

「……」

 ただ、今、彼は、何かを伝えていく重さを噛みしめると同時に──ほんの僅かにだけ、ある期待もしていた。
 天道道場に行けば、昨日までの全てが嘘のように、あの天道あかねや早乙女乱馬がいるのではないか、と。
 また、進んでは戻るようなあの途方もない長い日常が待っているのではないか、と。
 あれは、本当に別の世界・別の時間軸の彼らなのではないか、と。
 そんな事を少し期待する気持ちはまだどこかにあった。

(そんなバカな話……あるわけねえのにな……)

 それはあくまで、淡い期待で、現実は甘くないとは知っている。だが、現実の通りだとしても、その時は、大事な事を二人の家族に伝える為に行かなければならないのは確かだ。

 見れば、良牙の手には、ロストドライバーやエターナルメモリ、そして、あの殺し合いの証明となるデイパックがあった。
 やはり、あれは全て現実で──このエターナルのメモリの中には、天道あかねとの戦いまで刻まれている事を、良牙は受け止めなければならないだろう。

 いくら方向音痴の彼であっても、この景色にはどこか見覚えがあったので、ここにさえ来れば、後は、天道道場まで僅かだろうとわかった。──流石に、この場所にいればそこから先は、誰の案内もなしに何とかたどり着く事ができるだろう。

「……そうだよな。今度ばかりは、ちゃんと行かなきゃな」

 そう、大丈夫だ。
 これまで、何度も何度も通った道である。風林館高校に辿り着くまでに一週間かかった事もあるが、なんだかんだで良牙はここに何度も来ている。
 下手をすると、この頃、自宅よりこの風林館高校にいる事の方が多いのではないかと良牙は思った。
 そう。──早乙女乱馬と再会し、天道あかねと出会ったのも、この場所だ。
 良牙は少しだけ、その時の事を回想した。

「……」

 体には疲れもある。
 それでも、歩く。
 このすぐ近く、天道道場まで……。






 それから一日が経過した。
 良牙は、日本一高い山・富士山の麓にいた。

「ここはどこだ……前にも見たな、あの山……富士山だか筑波山だか忘れたが……まあいいか。とにかく、あの上から見れば、もしかしたらあかねさんの家が見えるかもしれないな」

 ──あの殺し合いで一日半歩いた距離の何倍もの距離を、この一日、歩き、辿り着いたのがこの昼間でも暗い森である。

 結局、風林館高校から天道道場までのたかだか数百メートルの道のりを彼は迷ってしまったらしい。
 今のところ、なんと一日で二百キロも歩いているのだが、全く天道道場に辿り着く気配がない。
 彼も、その道の途中に小川とフェンスがあったのは覚えていたので、それを探して、それに沿うようにして歩いてきたのだが、とにかくフェンスらしき物を手当たり次第に探していたら、いつの間にかこんな樹海のような場所(というか、実際には樹海のような場所ではなく、樹海なのだが……)に来てしまったわけだ。

 そのうえ、ここまでの道の途中では、「管理」だとか何だとか言われ、だんだんとこの世界が支配されている事を知り、わけのわからない追っ手に追われ、それを撃退したり、道具もろくにないのに野宿したりしながら、丸一日を過ごした。
 中には、多少は骨のある奴もいたが、良牙はそれも五分以内には片づけていた。──はっきり言って、襲ってくるのは、良牙がエターナルに変身するレベルの相手ですらない。

 何が起きているのかと思えば、「良牙を捕まえればどうのこうの~」というくだらないゲームがここでも続いていたらしいのだ。
 あのバトルロワイアルの全ての映像は監視されており、今度は「生還者狩り」と来た。
 いくら何でも、そこまでやるとは良牙も思っていなかったのだが、奴らは本当に良牙の手に余るほどの敵らしい──それをこの一日で再確認する。
 良牙の動向については、一時追っ手に撮影され、町中を浮いている巨大モニターでこの全国(あるいは全世界)に実況中継されていたのだが、逆に良牙を追う者が減るくらいに追っ手を叩きのめし続けたほどだ。良牙も、あれで困る事はなく、むしろ、ああして目立つ事が出来て、他の連中と会いやすくなったとポジティブに考えている。

 まあ、それは良いとして──そんな妨害のせいで(妨害のせいではないが、良牙はそう思った)一日経っても結局天道道場に辿り着いていないのは痛かった。

(お父さん……いや、おじさん……)

 彼が思ったのは、自らの父の事ではなく、天道あかねの父である天道早雲の事であった。
 天道家の人々はこの世界で、あのモニターから発される“殺し合いの映像”を見てしまったのだろうか──、と、良牙はそれだけがずっと気がかりだった。
 あのおじさんは大丈夫だろうか。今も気に病んではいないだろうか。きっと、ここしばらくは寝込んでいてもおかしくないのではないかと思う。
 やはり、あの殺し合いは全て現実で、この世界に乱馬やあかねはもういない事を、良牙は一日歩き回って、はっきりと認識した。

 伝えなければならない事は、当人たちには勝手に伝わってしまっている──だが、それでも、やはり良牙は行かなければならないのだ。
 天道家の人たちに、良牙は謝らなければならない。

 ──天道あかねを救えなかった事を。

 それから、あそこに住んでいる乱馬の父や母にも、シャンプーの祖父やムースにも、あのジジイ(故・八宝斎)にも、とにかく……あそこにいる人たちには会っておきたい。
 それに比べれば個人的な事だが──良牙は、また、あかりちゃんに会いたかった。

「ここなら追っ手は来ないが……こんな所にいる場合ではない! さっさと行かねえと」

 富士山の麓(青木ヶ原樹海ともいう)まで追ってくる者は、流石にいなかった。もっと前に撒いているとはいえ、流石にこんな所は管理の守備範囲外だ。
 既に二百人余りの追っ手を倒している良牙だが、彼にはその戦闘による疲れは殆どない。
 ……とはいえ、そうして雑魚をどれだけ撃退した所で、全く意味はなかった。
 良牙が倒すべきは、この世界を支配している存在──ベリアル帝国の根本だ。一刻も早くこの惨状を打開しなければならないとは、良牙も思っている。
 流石に、いつまでもこんな世界ではいられない。

「……そうだ、帰ったら、あの妖怪ばばあに新しい技を教えてもらおう……! たとえそれがどんな地獄の特訓でも、俺は──」

 ふと、良牙は思いついて、そう思った。
 シャンプーの曾祖母で、良牙にかつて爆砕点穴を教えた、あの拳法の達人のババア──コロンならば、ベリアルを倒す為の有効な策も教えてくれるかもしれない。
 度々、怪しげな道具を貸して人を操ったり騒動を起こしたりもしてくれる人だ。
 何度も言うが、それにはまず、天道道場まで帰らなければ──

「──誰が妖怪ばばあじゃ」

 ──と思ったのだが、その妖怪ばばあの声が良牙の背後で聞こえた。
 良牙が振り返ると、そこには、杖一つを地面に突きたて、そこに乗っかる形で良牙を見ている蛇の干物のような顔の醜い老婆の姿があった。
 それは、確かに良牙の知るコロンその人である。

「なんであんたがここにいる!? はっ……まさか、ここは猫飯店の近くか!? ……ああ、良かった、東京にこんなデカい山があって」
「ここは静岡じゃ!」
「……静岡!? おれはいつの間にか東京の隣に来てしまっていたのか……」

 良牙と土地の話をしていても仕方がない事に気づき、コロンは諦める。
 少なくとも、静岡は東京の隣ではないはずだが、まあ概ね、比較的近い所にはあるはずだ。いつものように、沖縄やら北海道やらまで行かれるよりはずっとマシだろう。
 気を取り直し、コロンは口を開いた。

「しかし、まさか、あの映像を見た時は、お前が生き残るとは思っておらんかったわ。婿殿やシャンプーがいる中でなぁ……」
「……」
「でもまあ、お前にも色々あったからなぁ」

 コロンもまた、映像であの殺し合いをしっかりと見ていた。その上でも、少なくとも、管理の影響下にはないようで、今のところ良牙に仇なしてくる様子はない。
 婿殿──即ち、乱馬や、シャンプーの事を彼女が口にするたびに、良牙は心が痛んだ。この妖怪のような老婆にも、その名前を告げる時は、感情の浮き沈みが口から洩れてしまうのを察知する事ができたからだ。

「すまない……シャンプーの事は」
「──シャンプーの事はもういい。お前が気に病む事でもないじゃろ」

 台詞だけは平然としていた。
 ……コロンたち、中国の女傑族には、元々、死と隣り合わせの掟がいくつも存在する。その為、あれだけ可愛がっていた曾孫の話とはいえ、彼女はその死を覚悟していたし、それを受け止める心も持っているはずだ。
 ただ、彼女としても、欲を言えば、シャンプーにもあと百年ばかりだけ、生きていて欲しかったとは心のどこかで思わずにいられなかったのだが、その気持ちは良牙の前では封じておいた。

「で、ばあさん、なんであんたがここにいるんだ?」
「わしだけじゃないぞ?」

 そう言って、コロンは近くの木に目配せする。
 そこには、コロンやシャンプーと同じ中国のとある村出身のある男が、凭れて腕を組んでいる姿があった。

「よう、良牙。久々じゃな」

 白い服と黒髪の身長の高い美男子。普段つけている丸い眼鏡を外したその整った顔は──中国から乱馬を倒しに来た刺客・ムースである。
 彼も良牙と同じ呪泉郷出身であり、水を被るとアヒルに体質を持っている。それで、良牙とも何度か共闘した事があった。
 あの殺し合いの最中も、良牙はあるアヒルをムースと勘違いしたのを、ふと思い出した。

「──どうせ、お前は帰ってきてすぐ道に迷っていると思ってな。おらたちは、それで先にここに来ていたんじゃ。他の奴らもお前を探して全国の名所に向かった。──それで、おらたちは偶々この富士山近辺を選んだが、お前が来たのはここだったわけじゃ……」

 彼は、シャンプーの事を幼少期から愛していた幼馴染だ。──結婚は、掟によって禁じられているが、彼は未だシャンプーを思い遣り続けている。頑なで一図な男だった。
 その感情を発端として、今のムースが抱いているであろう怒りは、その横顔からも察知する事ができた。

「ムース……」

 良牙はシャンプーの死に目には遭えなかったし、今のところ、この世界でも戦いばかりでモニターをちゃんと見ておらず、シャンプーがいつ死んだのかも全く良く知らない。
 しかし、彼らの場合は、おそらくその死に目をはっきりと見ているのだろう。
 ここしばらく、ずっと、その殺し合いを見させられていたのだ。──眼鏡を外すと何も見えなくなる超ど近眼の彼も、今は眼鏡をしていないながら、おそらく彼が命より大事にしている眼鏡(殺し合いの支給品として盗難されていたが、スペアがたくさんあるので平気だった)であの光景を直視したに違いない。

「……それは俺じゃなくて、ばあさんだ」

 もう一度言うが、ムースは近眼である。超ど近眼だ。眼鏡がなければ何も見えない。ムースが真剣に話していた相手は、コロンであった。コロンはジト目で冷や汗をかいている。
 ……気を取り直して、ムースは眼鏡をかけた。

「……っ! 良牙っ!」

 一見すると冷静にそこに立っていようとしたムースであったが、やはり良牙を前に感情を抑えられなかったようで、木に凭れるのを、不意にやめた。
 その怒りが自分に向けられた物なのではないかと思い、良牙は咄嗟に身構えた。

 ──だが、眼鏡の向こうから、ムースの真剣なまなざしが見えた。
 彼は、拳を振り下ろす事も、良牙を怒鳴りつける事も、ましてや、良牙に何かの責任を負わせようとする事もなかった。

「おらは、そこの砂かけババアと違って、シャンプーの事がもういいとは思っておらん……だがな、良牙。お前のせいだとも思っておらんし、お前を突きだして生き返らせようとも思わん! 出来る事ならおらもこの手で仇を取りたい……! 管理だの抜かしよるあのバカどもを全員、おらの手で倒したい!」

 ムースは、怒りを露わにそう言うが、決して良牙を責める風ではなかった。映像上で、良牙がどう行動しようとも彼にシャンプーを救えるシチュエーションがなかった事をちゃんと理解しているのだろう。
 だが、それは真に怒りのやり場がない虚しさも同時に彼に抱かせていた。せめて、良牙に僅かでも責任があったなら、彼は良牙を躊躇なく殴り、一週間分の怒りをどこかに少しでも発散できたかもしれない。
 拳を固く握り、今にも目の前の木々を薙ぎ倒さんばかりにわなわなと震えている。

「……しかし、残念ながら、おらたちにはそれができん。──だから、せめて」

 ムースはそう言って、その長い袖から何かを取りだした。
 彼は、全身に凶器を隠し持っている暗器の達人だ。今も確実に、百以上の武器を隠し持っているのだろう。
 彼の袖から光ったそれは、短剣だった。

「──この剣を受け取ってくれ! 良牙」

 彼はただ、何でもいいから、シャンプーの仇を取るのに協力したいのだろう──と、良牙は思った。
 全身にある凶器の一つでも、良牙に渡し、それがベリアルの打倒に繋がるのならば、彼はそれで少し気分が晴れると思っているのだ。

 ──だが、実際には、そんな事はないのだと、良牙は知っている。

 それは、天道あかねの仇であるダークザギとの戦いの時に思い知った話である。
 いまだに、あかねの死に直結しているダークザギの死に対して、変な未練が残り続けている良牙だ。その上で、まだ、殺し合いを開いたベリアルなる男も生き残っていた。
 少し、良牙の中に迷いが生まれた。

「……おらの代わりに、これで戦ってくれ、良牙! あのくだらん事の為に、シャンプーを殺した奴を叩きのめすんじゃ!」

 その虚無感を知らないムースは、震える手で、その短剣を良牙に押し付けようとする。
 良牙は、ムースが構えるその短剣の光を見つめて、少し落ち込んだ気分にもなる。
 この短剣で何が出来るだろう。──良牙ですら、少し力を入れればこのくらいの剣は生身で折る事が出来るのではないかと思う。

「……」

 ムースも、この武器が無効な事くらいはわかっているはずだ。
 しかし、何も出来ないなりに、何かをしたいという願いだけがあって、そのやりきれなさがこの短剣に込められているような気がした。
 良牙は、それを汲み取りながらも、その短剣を受け取らずに、ただ、ムースの目を見つめ直して言った。

「……ムース。俺も、お前が思ってるのと同じくらい、あいつらが憎いぜ。お前がシャンプーを喪ったように、俺もあかねさんを喪ったんだ……」

 まるで諭すような口調で、それは、今までの良牙からは滅多に出てこないような言葉だった。
 だが、これまでの日常とは違い、もっと真剣に挑まなければならない事態と遭遇し、目の前で愛する人との戦いを強いられた彼は、これまでの彼よりもずっと重い言葉を投げかける事が出来た。

 自分自身でも、自分の口から出るのは変な、センチな言葉だと思っている。
 だが──彼は続けた。

「……乱馬もあかねさんもシャンプーも全部亡くして気づいた。──あいつらは、そして、お前も……! 俺にとっては、かけがえのないダチだって! だから、勿論、シャンプーの仇は取るし、お前の想いも奴らにぶつけるつもりだっ!」

 それが、たとえ心が晴れやかにならないとしても──良牙のムースへの本心だった。
 せめて、愛する者を奪った存在に、一撃を与えたいのが彼ら格闘家の想いだ。それはわかっている。復讐で心が満たされないとしても、満たされない理由を知る為に仇討ちに協力させるくらいは、させてやったっていい。
 そして、良牙はムースの差し出した短剣を一瞥した。

「──だがな、俺たちがこれから戦うのは、残念だが、こんな剣じゃ倒せないような相手なんだ。だから、この剣じゃなくて……お前も格闘家なら、お前の……お前の技を教えてくれっ! そいつを……そいつを、ベリアルとかいう奴に叩きこむ!! 約束するっ!!」

 彼も、元は一般人であるとはいえ、戦いへのプライドは持ち合わせている。
 この目の前の老婆や巻物から秘伝の技を受け継ぎ、それを使う事は多くなったが、元々はどの格闘系譜にも存在しない一般家庭の出身である為、「誰かに学ぶ」という事への免疫がなかったのかもしれない。
 ましてや、乱馬やムースのように、同世代の格闘家から技を教わる事など、これまでには絶対になかった事である。あくまで自分自身のセンスを活かして戦いをするのが良牙だった。──そして、乱馬は勿論、九能やムースにも負けたくはないとずっと思っている。
 そんな良牙が、ムースに対して、両手を地についた。

「──頼む。ムース」
「良牙……」

 コロンが、二人の様子を見守った。
 この老婆としては、何か重要な秘伝技を彼に送りたかったところだが、先にそれはムースに山籠もりで修行させて教えていたくらいである。それはムースが熱望しての事であり、彼自身もシャンプーを助けたいと思ってそれに耐えた。
 ただ、その後に、この世界に来た通りすがりの仮面ライダーが、彼らに「ベリアルを倒す事が出来るのはあの世界に入った事のある人間だけ」だと伝えた為、それは果たされない事がわかったのだ。
 ムースには無念であった事だろう。
 それに、実際のところ、あの画面上に映った巨体を破るのに適切な技など、コロンたち女傑族の持つ中国四千年の秘儀の中にもない。──ベリアルが、十五万歳ほど女傑族より長い歴史を持っている存在だというのがその理由の一つなのだが。

「大変あるっ! 街のモニターで──」

 ──と、そんな時、シャンプーの父が、取り乱した様子で良牙たちの前に駆けてきた。
 一応、ここは樹海とはいえ、遊歩道もあり、そこから見える距離に良牙たちがいたので、すぐに辿り着けたようである。
 彼によると、街のモニターに何か大変な物が映ったらしく、良牙たちは、話を中断し、慌てて街の方に向かった。






 静岡県某所の小さな町。──近くが名所・富士山とはいえ、観光で賑わう事も今はないので、こうして良牙たちが下りてきても、ただの田舎町にしかならない場所であった。
 土産物を売っている町中も殆ど静まり返っており、まるでそこはゴーストタウンだ。
 だが、その土産屋のアナログテレビを一度つければ、そこには巨大モニターで写っている光景と同じ映像が映る。

 画面上には、加頭と同じ服装の眼鏡の中年男性が映っていた。
 テロップでは、「財団Xのレム・カンナギ氏による重大放送」とある。それは、変身ロワイアルの「第二ラウンド」などを告げた男であったのを彼らは思い出す。

「これはっ……!」

 そして、そのカンナギという男の立っている場所には、良牙も見覚えがあった。
 純和風な、灯篭や池のある庭──あれは、天道家だ。
 良牙たちの間に、緊張が走る。

『この世界の生還者、響良牙くんに告ぐ。天道家の家長・早雲、長女・かすみ、次女・なびきの以上三名は、今日、我々が捕えた』
「何だと!?」
『君が一週間後までに大人しく天道道場まで来ない場合、彼らを殺す。では、家長の言葉だ、よく聞いておくといい……』

 その言葉の後に、カメラが180度方向を変え、今度は、十字架に磔になっている三人の男女の姿が映し出された。
 ──それは、良牙たちも知っている顔である。
 中央には、髭を生やした立派な中年の男性の姿。どこか、憔悴しきった表情であった。画面では、彼の顔がズームになっていく。
 もう画面から消えてしまったが、残りの二人の女性は、若く、一方はロングヘア、一方はショートカットで、いずれも眠ったように首を垂れていて、顔すらはっきりと見えなかったが、やはりそれが誰だったのかは良牙にもすぐわかった。
 ここで写っているのは、天道早雲、天道かすみ、天道なびきの三人で間違いない。──つまり、天道あかねの父と、二人の姉が囚われたのだ。
 彼らの言った通り、三人は財団Xによって捕えられ、このようにして、良牙をおびきだす為の人質にしているらしい。

『来なくていい……良牙くん。もうこれ以上、関係のない私たちの為に、君が辛い思いをして戦う必要はないんだ。乱馬くんやあかねの事は、とても残念に思う。──あかねの事は、君にもすまないと思っているし、感謝もしている。最後にあかねが本当のあかねを取り戻してくれたのは、君のお陰だ。それが見られただけでも私たちは幸福だった。だが、君にこれ以上、重荷をいつまでも背負わせたくはない……』

 早雲が、いつになく疲れ切った顔で、良牙にメッセージを送っていた。これまで、あまり良牙と話した事はなかったのだが、だからこそ、遠ざけるようにそう言っているのかもしれない。無関係な少年を巻き込むのは申し訳が立たないと思っているのだ。
 早雲は、立派な大人だ。──一人の親として、良牙の親にも顔向けが出来ないような状況にはしたくなかったに違いない。第一、良牙の親にまで同じ思いを背負わせるのは、彼の人格からすれば耐え難い話である。
 だからこそ、強がるように、良牙に告げたのだろう。

『私は、こう見えても、かつて辛く厳しい修行に耐えた武闘家だ。自分のピンチは必ず、自分で脱して見せる。それに、私の妻の置き土産は、これ以上失わせはしない。──君が来ずとも、私たちは戦いぬく。……だから、君は来なくていい。どこかで休んでいてくれ』

 隈のできた目で、こちらを見つめる早雲と目が合った気がした。精悍な顔でそう言う彼だが、いくら何でも、今の彼に、このピンチを脱する余力があるとは思えなかった。
 良牙は、目を逸らし、握った両手を震わせていた。
 彼を見守る者たちはその手の震えを見逃さなかった。

『──まあ、こうは言うが、彼ら三人はこの通り、拘束されている。響良牙くん、君が来ない限り、全員の処刑は確定だよ。……まあ、君に情けがあるのならば、いつものように迷子にならない事だ。私たちは、一週間後までは、ここで待っているからね』

 カンナギがそう言う映像が流れると、映像はまた何度かインターバルを置いて、また同じ物を最初から流し始めた。見ていなかった部分に、これといった新味はない。良牙の目に入るよう、何度も何度も放送されるのだろう。

「カンナギだかゼアミだか知らねえが、汚い真似をしやがって……!」

 良牙だけが、そんな言葉を投げかける。
 今にも怒りに震えて、天道家に向かおうと言いかねない姿であったが、その一方でムースたちシャンプーの関係者たちは、今の放送の重要なポイントを一つ見つけ出していた。

 そう、考え直してみると、期限が妙に遅いのだ。──一週間もある。その事に、何故だか妙な含みを感じたムースたちであった。
 その長い期限は、確実に“良牙”を待つ上で最低限必要な時間のように思えた。カンナギたちからすれば、良牙がムースたちと合流している事はまだ明かされていない話であり、良牙が単身で天道道場に向かえば、何日もかかるという大前提がある。
 だから、良牙を待つ時間を取り、確実に良牙を取り殺そうとしているように感じられた。
 そこにあるのが、ただの優しさだとは思えない。良牙を本当に連れて来させなければ意味がないと思っているのだろう。
 これは、その為の準備だ。
 ムースは、良牙に向けて言う。

「これは罠だっ、良牙!」
「罠でもなんでも行くしかねえだろっ!!」
「何故だっ! どうせ、一週間が過ぎても奴らは人質を殺さん。考えても見ろ、奴らはお前を確実に手元に引き寄せたいはずじゃ。それまで、特訓で鍛えるんじゃ!」

 今、良牙を殺させに向かわせるのは、ムースとしても絶対に避けたい状況だ。
 ここは何としてでもここに留まらせておきたいと彼は思うが、現実には、この切迫した気分の良牙に対して、それが出来るのか不安ではあった。
 その不安の通り、良牙が言葉を返す。

「──じゃあ、普通の人が一週間もあんな状態で耐えられるかっ!?」
「うっ……それは」

 人質は、何といっても、普通の人間である。道場の師範である早雲はまだしも、かすみやなびきは、格闘の素養さえ持たない普通の若い女性だ。彼女たちをああして財団Xの管理下で一週間も放っておけるだろうか。
 まあ、普通の若い女性といっても、天道家の血を継ぎ、多少の事では動じなくなっているあの二人ならば、おそらく大丈夫だろうとは思うが、やはり──そんな楽観視だけで人を見捨てられる良牙ではなかった。
 いずれにせよ、ああなってしまえば、食事もトイレも風呂も睡眠も、全てが財団Xに管理され、精神的にも参ってしまうかもしれない。

「──だいたい、俺は、乱馬に勝つ為に戦いを始め、乱馬に勝つ為に戦いを続けてるんだぜっ……!」

 良牙から出てきたそんな言葉は、ふと、ムースの胸を打った。
 ほとんど無意識に良牙から出てきた言葉であるようにも思えた。

「……乱馬に勝つため、だと?」

 乱馬に勝つため──という、ムースもまた良牙同様に持っていたその目的。
 それは、とうとう、一度も果たされる事のないまま、乱馬の勝ち逃げという形で終わってしまった。そもそもが、乱馬に勝つという目的は、シャンプーを得る目的の為であり、それがなくなった今になって、まだ乱馬という男に執着を抱き続ける必要はなく、それでムースも、この一週間の中で、乱馬の事はあっさり諦めたのだ。
 しかし、どうやら良牙の方は、この期に及んで、まだ諦めていないらしい。
 元々、体力があるだけの一般人だった良牙だが、パン食い競争から始まって積み重なった乱馬との因縁は、彼の運命までも変えてきたのだ。彼にとっては、諦めきれるものではない。

「ムース……お前が言う通り、奴らが言う事は罠かもしれん。だが、もしかしたら、罠じゃないかもしれんっ! その時はどうするっ!?」

 乱馬との決着は、もはや、彼の人生だ。
 下手をすると、あの天道あかね以上に、良牙が執着している存在なのかもしれない。
 ──そして、こうして言われると、何故かムースの胸にも湧きあがってくる物があるのは確かだった。
 彼もまた、こうして言われると、諦めたはずの心が再熱してしまいそうになる。

「……乱馬なら絶対、ここであの人たちを助けに行く……。そして、あいつは必ず助けるだろう! だから、おれはここで逃げるわけにはいかないんだっ!」

 せめて、斃れた乱馬に何か一つでも勝とうとする信念が、今の良牙には存在している。
 中国拳法の達人であるムースが、全く気づかぬうちに、彼のような凡人よりも先に、勝利を諦めていたという事実。──それが今、ムースを苛立たせた。
 ムースもまた、拳を強く握った。

 ……このままでは、たとえあの世でも、シャンプーを乱馬に取られてしまうのではないか。
 それどころか、乱馬がいなくなっても、今度は良牙がムースの前に立ちはだかってしまうのではないか。

「くっ……!」

 かつて見た、強く、何度挑んでも負けない男の姿。──目の前の良牙が、かつて、乱馬に対してムースが抱いた執着と重なってくる。
 そうなると、ムースは、どうしても、その男を殴らざるを得ない衝動にかられた。
 シャンプーは渡さん──と、何故か、良牙にさえ思う。

「それにあかねさんの事で辛いのは俺だけじゃない……。あの人たちも、俺なんかよりずっと辛いのに……それでもまだ戦おうとしてるんだ! 俺は、あの人たちにも負けるわけにはいかない……今すぐにでも行ってやるっ!」

 そして──遂に、その拳が、怒りに触れ、良牙の頬を殴った。

「この、たわけがっ! ────っ!!」

 ただのパンチではない。
 それは、この一週間、コロンとともに、ムースが鍛えて編み出した新たな気が込められたパンチである。
 暗器ではなく、修行によって得た“拳”の一撃は、的確に良牙の左の頬に叩きこまれ、彼を土産物の山の中に吹き飛ばした。

「……!?」

 頑丈な良牙が今、気づけば土産物の台や床を突き破り、地面に半分埋もれている──。
 良牙には、一体、何が起こったのか、さっぱりわからなかった。
 コロンは頷き、シャンプーの父は呆然とそれを見た。──『土産物の台を突き破ったり、床を叩き潰したりしないでください』と書いてある注意書きの紙が、あまりの衝撃に剥がれた。
 良牙は、ムースを見つめ、呆然としていた。
 目を見開き、何かに興味を示した幼児のように、今のムースの攻撃を振り返る彼は、痛みなど忘れていた。

「ムース……お前、その技……!」

 先ほど、ムースに「教えてくれ」と頼んだ、ムース自身の技ではないか。
 それを今、自分は食らったのだろうか。──一瞬の出来事で、良牙はそれが何なのかわからなかったが、攻撃を受け、妙な清々しささえ覚えている。

「……」
「……ムース!」

 ムースは、ただ黙って、そこに立っていた。
 これが、良牙へのムースの返答でもある。──「今は行くな」と、それから、「この技を教えてやる」と。
 良牙がムースに技を聞くのを躊躇うのと同じく、ムースにも自分が折角編み出した自分だけの技を、同年代の人間に伝授するのはプライドが許さなかった。ゆえに、それを認める言葉を良牙に投げかけようとは思わなかった。
 そんな時、ふと、コロンが口を開いた。

「……一日じゃ」

 良牙とムースは、コロンの方に目をやった。

「ムース。今の技を、明日までに良牙に教えよ。良牙は死に物狂いでそれを覚えろ──二人とも、甘さを捨てて戦え! そして、残りは一日かけて天道家に向かう! 修行の休息は全てそこで取る!!」

 良牙とムースは、彼女の言葉には口を挟めない。
 二人の意見はぶつかっているが、それを傍観していた彼女の意見は、百年の人生経験から来る確実な中立であったからだ。
 良牙とムースは、再び互いに見つめ合った。
 慣れ合うつもりはない。──殺し合いだと思って、修行に挑むつもりだった。

 彼らの苛烈な修行は始まった!






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最終更新:2015年08月11日 22:31