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目次
#contents()
#endregion
|&nicovideo(https://www.nicovideo.jp/watch/sm36633465)|
作詞:[[ukiyojingu]]
作曲:[[ukiyojingu]]
編曲:[[ukiyojingu]]
唄:[[結月ゆかり]]
**曲紹介
>&bold(){「言語交錯 3/10」}
曲名:『&u(){私たちは何者だろうか?}』(&u(){わたしたちはなにものだろうか})
-ukiyojingu 作品集第3弾『言語交錯』収録曲
**歌詞
([[bandcamp>>https://ukiyojingu.bandcamp.com/]]より転載)
1月22日、新宿駅にいた。
大宮行きの京浜東北線に駆け込む人の前で舌打ちをしたあの人は、何者だったのだろう?
考えたところで仕方がない。
京浜東北線を渋谷で乗換え、井の頭線に乗った。
途中で喉が渇き、改札前の自販機で安い水を買った瞬間、急行はすでに出発していた。
時間をつぶすため、売店で何か食べようか考えていたら、
後ろに中年サラリーマンが立っていることに気づかなかった。
私もいずれは、こうなるのだろうか。
きっとそうなのだろう。
人間はいつか、最後に死を迎えるはずだから。
気を紛らわそうと、通信制限がかかった携帯電話をのぞき込む。
不意に目に入ってきたのは、中国の肺炎についてのニュースだ。
やはりここでも、人が「死」を迎えている。
勘弁してくれと思いながらネットを見ているうちに、急行電車が渋谷駅のホームに流れこんだ。
乗り降りする人、人、そして、人。
彼らは何者だろうか。
彼らのうちのどれくらいが、「死」について考えているのだろうか。
渋谷から井の頭線に乗って、下北沢で降りた。
ホームの前ではホームレスと、自作絵画を売る人がいる。
自動販売機を眺めているホームレスはいかにも飲み物が欲しそうだが、他人に興味がない大衆たちは誰も、彼に飲み物を与えようとはしなかった。
だからといって、誰も彼らを責めることはできないだろう。
私も、彼らと同じ「私たち」の一部なのだから。
友人との待ち合わせに指定されたこの場所は複雑な構造な駅舎があるという印象で、改札口を見つけるのに苦労した。
小田急線のホームは、探しても見つからない。
誰かに尋ねようかと思ったが、「他人に興味がない彼らが私に興味を持つはずもないだろう」と、不意に諦めて自分で探すことにする。
彼らを咎めることは私には決してできない。
なぜなら、私も彼らと同じ、「私たち」の一部だからだ。
待ち合わせののち、用事を済ませた私は何となく上野に来た。
コンビニでいつでも飲んでいる缶コーヒーを片手にベンチで休憩していたら、男女のペアが傘袋に手をかける風景が目に入ってきた。
男性の方が誤って傘袋を二重で取ってしまい、余分にとってしまった一枚を使わずに使用済みの袋入れに入れてしまった。
それを見た私は思わず、傘袋を使用していなかった私の傘に、その未使用の傘袋を入れた。
その傘袋を使用しないともったいないと思ったからだが、そう思ったのはなぜだろうか。
「他人」は、未使用の傘袋を見てどう思うのだろうか。
何も、思わないのだろうか。
私たちは何者だろうか?
そのようなことを考えている私たちこそ、疑うことのできない存在だ。
私たちは何者でもあるし、そして何者でもない。
それは定義の問題だろう。
私は私を確かめられることを恐れ、人と話すことを避けている。
誰かが私の身体に介入することを恐れている。
だが、私の恐れを一向に理解せず、他者は何も思考することなくただ生き続けるだろう。
生命や死を何も意識せずに、ホームレスに飲み物を分け与えないように、そして未使用の傘袋を捨てるように。
それは私たちであり、そして私たちではない者たちなのだ。
**コメント
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作詞:[[ukiyojingu]]
作曲:[[ukiyojingu]]
編曲:[[ukiyojingu]]
唄:[[結月ゆかり]]
**曲紹介
>&bold(){「言語交錯 3/10」}
曲名:『&u(){私たちは何者だろうか?}』(&u(){わたしたちはなにものだろうか})
-ukiyojingu 作品集第3弾『言語交錯』収録曲
**歌詞
([[bandcamp>>https://ukiyojingu.bandcamp.com/]]より転載)
1月22日、新宿駅にいた。
大宮行きの京浜東北線に駆け込む人の前で舌打ちをしたあの人は、何者だったのだろう?
考えたところで仕方がない。
京浜東北線を渋谷で乗換え、井の頭線に乗った。
途中で喉が渇き、改札前の自販機で安い水を買った瞬間、急行はすでに出発していた。
時間をつぶすため、売店で何か食べようか考えていたら、
後ろに中年サラリーマンが立っていることに気づかなかった。
私もいずれは、こうなるのだろうか。
きっとそうなのだろう。
人間はいつか、最後に死を迎えるはずだから。
気を紛らわそうと、通信制限がかかった携帯電話をのぞき込む。
不意に目に入ってきたのは、中国の肺炎についてのニュースだ。
やはりここでも、人が「死」を迎えている。
勘弁してくれと思いながらネットを見ているうちに、急行電車が渋谷駅のホームに流れこんだ。
乗り降りする人、人、そして、人。
彼らは何者だろうか。
彼らのうちのどれくらいが、「死」について考えているのだろうか。
渋谷から井の頭線に乗って、下北沢で降りた。
ホームの前ではホームレスと、自作絵画を売る人がいる。
自動販売機を眺めているホームレスはいかにも飲み物が欲しそうだが、他人に興味がない大衆たちは誰も、彼に飲み物を与えようとはしなかった。
だからといって、誰も彼らを責めることはできないだろう。
私も、彼らと同じ「私たち」の一部なのだから。
友人との待ち合わせに指定されたこの場所は複雑な構造な駅舎があるという印象で、改札口を見つけるのに苦労した。
小田急線のホームは、探しても見つからない。
誰かに尋ねようかと思ったが、「他人に興味がない彼らが私に興味を持つはずもないだろう」と、不意に諦めて自分で探すことにする。
彼らを咎めることは私には決してできない。
なぜなら、私も彼らと同じ、「私たち」の一部だからだ。
待ち合わせののち、用事を済ませた私は何となく上野に来た。
コンビニでいつでも飲んでいる缶コーヒーを片手にベンチで休憩していたら、男女のペアが傘袋に手をかける風景が目に入ってきた。
男性の方が誤って傘袋を二重で取ってしまい、余分にとってしまった一枚を使わずに使用済みの袋入れに入れてしまった。
それを見た私は思わず、傘袋を使用していなかった私の傘に、その未使用の傘袋を入れた。
その傘袋を使用しないともったいないと思ったからだが、そう思ったのはなぜだろうか。
「他人」は、未使用の傘袋を見てどう思うのだろうか。
何も、思わないのだろうか。
私たちは何者だろうか?
そのようなことを考えている私たちこそ、疑うことのできない存在だ。
私たちは何者でもあるし、そして何者でもない。
それは定義の問題だろう。
私は私を確かめられることを恐れ、人と話すことを避けている。
誰かが私の身体に介入することを恐れている。
だが、私の恐れを一向に理解せず、他者は何も思考することなくただ生き続けるだろう。
生命や死を何も意識せずに、ホームレスに飲み物を分け与えないように、そして未使用の傘袋を捨てるように。
それは私たちであり、そして私たちではない者たちなのだ。
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