「……最悪ね」
最悪のタイミングでの別離から、もう何日経っただろうか。
最悪の気分でいたところへ、最悪の状況に巻き込まれた。それこそ最悪もいいところだ。
思いっきり不愉快な顔を作り、
暁美ほむらはそうぼやいた。
彼女が最初に飛ばされたのは、静まり返った遊園地だ。
色とりどりのアトラクションを見ても、いまいち心が踊らないのは、照明が灯っていないせいではない。
数日前に、最愛の友人――
鹿目まどかを、目の前で殺されたことが原因だった。
(今回の時間軸も、失敗だった)
苦虫を噛み潰したような顔を作る。
時間遡行の魔法を使い、彼女を救うための戦いを、何度となく繰り返してきた。
それでも、何度試しても、彼女を救うことはできなかった。
一番いいところまで行った今回も、
美国織莉子の最期の一撃が、その命を無慈悲に奪い取った。
とっくの昔に、ほむらの心は、疲弊しきっていたのかもしれない。
(それでも、まだ私は生きている)
未だ身体が動くのであれば、立ち止まっているわけにはいかない。
たとえ心が悲鳴を上げても、肉体が動き続ける限り、立ち止まることは許されない。
でなければ、まどかを救いたいと願った、己の奇跡に反することになる。
これまで辿ってきた道程の全てが、それこそ水泡に帰してしまう。
(まずはここを脱出し、見滝原に戻らなくては)
失意に沈んだ自身の心を、ほむらは無理やりに叩き起こした。
あれほど手こずったワルプルギスの夜は、よく分からない金ぴかの男に、一撃で打ち滅ぼされてしまった。
それでも、本来ワルプルギスの夜が攻めてくる日は、今日よりももっと先のはずだ。
時間遡行を行えるようになるまでは、まだまだ数日の時間を要する。
このゲームが何日続くかは知れないが、魔法による脱出は、あまり期待しない方がよさそうだろう。
(となるとゲーム終了まで、どうにかやり過ごすしかなさそうね)
足元のデイパックを拾い上げ、手頃なベンチへと向かった。
鞄の口を開け、支給されたアイテムを確認する。
ひとしきり見終えると、左手のソウルジェムを光らせ、武器として使えそうなものを格納した。
(……さて)
最終的に、手元に取り出したまま残ったのは、地図、ランタン、コンパスの3つだ。
明かりをつけ、地図を両手で広げ、現在の位置を確認する。
現在ほむらがいる場所は、D-5というエリアに相当するようだ。
大きな市街地エリアとも近い。こちらに渡れば、多くの物資を確保することができるだろう。
であれば、当面の目標は、この遊園地を出て、南の街へと向かうことだ。
コンパスで方位を確認し、3つのアイテムをデイパックにしまう。
そのまま立ち上がり、目的地へ移動しようとした瞬間、
「――よう」
不意に、背後から、しゃがれた男の声が響いた。
「………」
見つかったか。
露骨に嫌な顔を作り、来訪者へと無言で向き直る。
せっかく出発しようとしたというのに、こんなところで邪魔が入るとは。己の運のなさを呪った。
「へっ、何だよ。随分とつれねぇじゃねえか」
ハスキーボイスで笑うのは、左目が潰れた大男だ。
痛ましい傷跡の残る隻眼の男が、不敵な笑みを浮かべていた。
「……貴方は誰?」
「俺は牡牛座(タウラス)の
ハービンジャー。力と破壊を司る黄金聖闘士だ。
……といっても、今は聖衣がねぇから、いまいちカッコがつかねぇけどよ」
「セイント……? クロス?」
自慢げに名乗る男の口からは、聞き覚えのない単語が飛び出した。
少なくとも、魔法少女関連の範疇には、そのような用語は存在しない。
(といっても、ハッタリではなさそうだわ)
ハービンジャーなるその男が、全身から放つ気配は本物だ。
そのセイントだとかいう称号――あるいはそこに付随する力への、絶対の自信が感じられる。
であれば、油断はできない。
身構えながら、ほむらは改めて、この大男の姿を見定めた。
クロスとやらを持たないというハービンジャーは、服装だけを見れば普通の男だ。
紺色の半袖シャツにジーンズという、ラフな衣服を身にまとっている。
問題はむしろ、その下で盛り上がっている筋肉だ。それだけでも、普通の人間にとっては脅威となろう。
浅黒い肌に野性的な顔つきをした、筋骨隆々の大男――何から何まで、ほむらとは対照的な人物だった。
「ふぅん……なるほど。骨のなさそうな見た目のくせして、ちっとは心得てるようじゃねえか」
にやり、と。
ハービンジャーの口元が、白い三日月の形に歪む。
瞳にぎらぎらと浮かぶのは、野良魔法少女・
佐倉杏子のそれを、何倍にも増幅したような殺意だ。
「!」
思わず、びくり、と肩を震わせた。
こいつは殺る気だ。
恐らくは、値踏みするこちらの視線を、相手に気取られたのだろう。
それで闘争心を刺激され、それならばと戦う気になった――見た目通りの喧嘩屋ということか。
「面白ぇ。どの程度やれるかは知らねぇが――ひとつ楽しませてもらうぜ」
だが、その気迫の何としたこと。
まるで殺気そのものが、そのまま攻撃として襲いかかってくるような心地だ。
全身をナイフで貫かれるような。
傷口を絶対零度で凍結されるような。
ちりちりと肌を突き刺して、じわじわと体温を奪い尽くす、凶悪無比なプレッシャー。
「……っ!」
何だか分からないが、こいつはまずい。
ほむらは左手の中指に嵌められた、紫の水晶を輝かせる。
ソウルジェムから展開されるのは、奇跡と共に手にした魔力だ。
「そいつがお前の聖衣かッ!」
叫びと共に、暴風が荒れる。
一個の竜巻と化したかのような、ハービンジャーの突撃が迫る。
生身の人間を遥かに超えた、猛烈な加速と共に突き出された拳は、
「か……はッ――!」
魔法少女への変身と同時に、ほむらの腹部に叩きつけられていた。
めりめり、と肉に衝撃が沈む。
五体が連鎖式に軋み、痛みの中心が灼熱に燃える。
「ぬぅぅぅりゃァッ!!」
気合一声。
轟――と炸裂。
いっそうの力を込めたハービンジャーの拳が、ほむらの身体を吹き飛ばした。
魔法少女となって強化されたはずの五体が、まるでゴム毬のように弾かれて、無様に大地を転がった。
「く、う……ぅぅっ」
胃の中をかき混ぜられた心地だ。
耐えきれず、ほむらは身を起こすよりも早く嘔吐した。
吐しゃ物の酸味を吐き捨てながら、うつ伏せの身体を立ち上がらせる。
「んん~……? 妙だな、小宇宙の気配が感じられねぇ……」
前方のハービンジャーは、何か違和感でも覚えたのか、訝しがり首を傾げている。
今の拳の一撃で、5メートルほどは吹っ飛ばされたか。全く、何という怪力だ。
それに今の加速力もある。あの男がその気になれば、この距離も一瞬にして詰められかねない。
(最初から全力で行く……!)
未だふらつく身体に、力を込めた。
左手のシールドを開放し、赤き砂時計を停止させた。
瞬間、時の流れは止まる。
暁美ほむらの視界の中の、全ての物体が静止する。
時間停止――願いの果てに得た奇跡の技。何人たりとも動くことのない、静寂に包まれたほむらの世界だ。
己の固有魔法の発動を認知した瞬間、ほむらは迷うことなく疾駆した。
盾の内側に手を突っ込む。先ほど格納したばかりの、鈍色の拳銃を取り出す。
シグ・ザウエルP226――イギリス陸軍などで採用されている銃だ。
常人を超えているとはいえ、ほむらの戦闘ステータスは、ほぼ全てが固有魔法に割かれている。
歴戦のキャリアを有しながら、身体能力のスペックは、新人魔法少女にも並ぶほどに低い。
ろくな攻撃もままならぬ彼女は、こうして現行兵器を用いる他ないのだ。
(ここだ!)
すれ違いざまに、銃を構える。
トリガーを素早く引き、3連射。
どん、どん、どん――という裂音を伴い、鉛弾が虚空に姿を現す。
ほむらの手を離れた弾丸は、せいぜい手元まで飛ぶのが限度だ。
そのかわり時間停止が解除されれば、それらが一斉に運動を再開し、ハービンジャーの懐へ襲いかかる。
このまま4撃目を撃ち込もうと、指先に力を込めた瞬間だ。
「――何っ!?」
突如としてハービンジャーの口から、驚愕の声が上がったのは。
「!?」
むしろこれに驚かされたのは、他ならぬほむらの方だった。
どういうことだ。たっぷり8発は撃ち込んで、そのまま敵後方に回り込むつもりだったはずだ。
それが何故、たった10秒ほどで、時間停止が解除されている。
「このっ……!」
びゅん――と顔面を風圧が襲う。
その衝撃で我に返り、ほむらは前方へとステップを踏む。
目論見通りの着地点だ。しかしそこまでの計算は、何から何までが狂っていた。
それは何も、時間停止が、予期せぬ中断を迎えたことだけではない。
恐るべきことにこの大男は、腕のたった一振りで、銃弾を払い落したのだ。
こうなるともはや、同じ人類として考えるのも、馬鹿馬鹿しく思えてくるほどだった。
牡牛座のハービンジャー――荒れ狂う隻眼の猛牛は、さながら神話の怪物のようだ。
「今のは面白かったぜ、嬢ちゃん。ちゃちな分身よりは驚かされた」
振り返る男の顔に宿るのは、牙を剥く獣の獰猛な笑みだ。
ほむらにはそれほどの余裕はない。未だ痛む腹を押さえ、冷や汗と共に男を睨む。
どうやら防御能力に関しても、油断のできない相手らしい。
少なくともこの拳銃程度では、あれを殺すことは難しいと見ていい。
(一瞬でも気を許せば死ぬ)
どういうからくりかは知らないが、相手は走攻守全てにおいて、こちらよりも遥かに格上だ。
これ以上は一撃も食らわず、確実に殺しきる覚悟でなければ、あれを倒すことなど不可能だ。
こいつは同じ人間でありながら、あの美国織莉子とも次元が違う。
上位の魔女と同等――否、それ以上の怪物と見なさなければ、こいつの強さは語れない。
「どれ、ひとつテストしてやるか」
言いながら、ハービンジャーが跳び退った。
バックステップの着地点は、コーヒーカップのスペースだ。
電源が落ちている今、無数に並ぶ巨大なカップは、いずれも回ることなく静止している。
「ふん!」
そのうち1つに、手が添えられた。
力こぶが脈動し、勢いよくその腕が振り上げられた。
何ということか――このハービンジャーという怪物は、片手でコーヒーカップを引っこ抜いたのだ。
ぎゅうぎゅうに詰めれば、4人は座れるであろう遊具が、1人の人間によって持ち上げられている。
右手1本で支えられながら、それでも大質量のカップは、微塵の揺らぎも見せることはない。
「俺を本気にさせたけりゃ、こいつをその妙な技でかわしてみな!」
左手を次のカップに向けながら、猛牛は嬉々として唸りを上げる。
瞬間、ハービンジャーの右腕が、勢いよくカップを投げつけてきた。
「チッ……!」
奴の本気になど興味はないが、これを乗り切らなければ確実に死ぬ。
再び時間停止を発動し、速やかに射線上から回避した。
左側に回避しながら、敢えてハービンジャーの懐へと走る。
その間に盾の裏をまさぐり、次なる武器を用意する。
「これ」の破壊力も相当なものだが、単独で使うのは心もとない。
狙うのは、もう1つの支給品とのコンボ攻撃だ。危険な賭けだが、やるしかない。
「ぉおおおおりゃぁあああぁぁぁッ!!」
制限を超え、時が動く。
妙な表現ではあるが、今の時間停止で止められる期間は、せいぜい10秒が限度らしい。
唸りを上げるハービンジャーが、次なるカップを投げつけてきた。
更に後方へと下がり、そのまた次のカップを投げる。
1つ、2つ、続けて3つ――悪夢のような光景だ。
「!」
初撃が地面へと落ちて、盛大な爆音を上げると同時に、再び時間を停止させる。
合計3つのコーヒーカップが、空中で音もなく停止する。
ほむらはかわすべきそれらを、敢えて足場として使った。
盾から取り出した新たな武器――対戦車兵器・RPG-7を構える。
そのままかつんと跳躍し、2撃目のカップの側面に着地。
その場でトリガーを素早く引いて、先端の弾頭を発射する。
淀みない動作でカップを蹴り、再び空中へと躍り出る。
かつん、かつんと足場を蹴って、ハービンジャーの頭上へ到達したのが、きっかり10秒経過の瞬間だ。
「!?」
瞬間、鼓膜を突き破るような爆音が響いた。
いきなりロケット弾が目の前に現れ、猛烈な音と共に突っ込んできた――ハービンジャー視点からすれば、そんな風に見えるだろう。
常人ならこれだけでも即死ものだ。しかし、ほむらはこの怪物に対して、更なる追撃を用意していた。
(これで……!)
左手の盾を、眼下に突き出す。
正面を向けたわけではなく、盾と腕の隙間を向けてだ。
瞬間、そこから落下したのは銀色。
ほむらの身の丈をも凌ぐ、長大な鋼のサーベルが、重力に従い降り注いだ。
前方のロケット、上方の剣。2方向からの同時攻撃が、ほむらの打った作戦だった。
「ぬぅおおおおおおっ!」
それでも、猛牛はひるまない。
右手は目の前のRPGに、左手は頭上のサーベルに。
まるで目が頭上にもあるかのように、双方同時に手を突き出す。
瞬間、両の手のひらに、雷のような光が見えた。
「!」
ほむらが着地すると同時に、RPGの弾頭が爆ぜた。
どうっ――と響き渡る音が、衝撃波を伴って襲いかかる。
間違いなく命中したはずだ。それでもハービンジャーは、あの弾頭を前にして「何か」した。
であれば、見過ごすわけにはいかない。
ほむらは吹き荒れる爆煙目掛けて、シグ・ザウエルを3連射する。
「――でぇぇぇやっ!」
驚くべきことに、全くの無傷だ。
生身でロケット弾と大剣を向けられ、更に追撃の弾丸さえ浴びながら、男は無傷でこれを切り抜けた。
銃弾を明後日の方向に弾き飛ばしながら、黒煙と炎熱を切り裂いて、ハービンジャーが真っ直ぐ突進してきた。
(時間停止を――!)
「さァせるかァァァッ!」
今度はほむらの魔法よりも、猛牛の突進の方が速かった。
丸太のような腕が伸び、ほむらの右腕が掴まれる。
空を歩む右足が、地面に着地して踏み込まれる。
「おぉりゃあっ!」
身体にブレーキをかけると同時に、ハービンジャーの剛腕が空を切った。
腕を掴まれたほむらの身体が、遥か斜め上方へ投げ飛ばされたのだ。
見る間にほむらの視界は遠のき、地上から虚空へと離れていく。
(せめて方向転換を……!)
時間停止の能力も、己の身体には作用しない。
投げ飛ばされた状態で時を止めても、時の止まった空間で、結局飛ばされたまま落ちるのが関の山だ。
何とか着地だけでもと、懸命に己が身をよじる。
「合格だ。俺に小宇宙を撃たせるとはな」
彼方から聞こえる声と共に、何とか地面へと降り立った。
ほむらが見上げる先に立つのは、両腕を組んだハービンジャーの姿だ。
不敵に笑うまま、微動だにしない。一瞬で距離を詰められるはずなのに、そこから一歩も歩こうとしない。
「約束通りお前には、俺のこの技を見せてやるぜ……!」
だが、この嫌な予感はなんだ。
背筋をぞわりと舐めるような、この不快な気配は何だ。
何かが来る。
これまでの攻撃とは桁が違う、とてつもない何かが襲いかかってくる。
「グレェェェートォ――」
強大な力が湧き上がるのを感じた。
牡牛座のハービンジャーの五体から、未知の何かが込み上げるのを感じた。
あれはまずい。
このままでは大変なことになる。
これから襲いかかる何かだけは、絶対に食らってはいけない。
反射的にほむらの右手が、左腕の盾に向かった瞬間。
「――ホォォォォォーンッ!!!」
雄叫びと共に、猛烈な光と衝撃が、ハービンジャーの身体から解き放たれた。